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2012.01.31

エマーソン・レイク&パーマー 『 Live in Japan(1972年後楽園球場)』

 日も時間がないのでロックのネタです。てか、なぜ時間がないとロックなのか?w
 たぶんロックは理屈ではないからでしょう。自分にとってはロックは少年時代の記憶、少年の心ですから、大人の理屈なんか寄せ付けません。
 昨日のボヘミアン・ラプソディから、今日はさらに懐かしいところへトリップ。
 クイーンも今考えれば思いっきりプログレですよね。特にボヘミアン・ラプソディはクラシックとロックの融合というよりも、すでにクラシック音楽の領域です。
 そういう意味で最近かなり本格的に「クラシック化」した EL&P を取り上げます。日本初来日時の貴重なライヴ映像です。1972年7月22日後楽園球場。
 私は当時8歳ですから、さすがに EL&P は聴いていませんでした(笑)。彼らに出会うのは中学生になってからです。展覧会の絵はレコードがすり切れるまで聴きましたね。
 その後バロック音楽に興味を持ちヴァイオリンを弾き現在に至るのは、はっきり言ってプログレのおかげです。ロックとバロックの親和性というのはもともと高いのですね。基本、オン・ザ・ビートの譜割りですし、ポリフォニーなところとか、即興性とか。
 で、この映像は本当に最近初めて観たんですよね。これは当時の東京12チャンネルで生中継されたものでしょうか。台風が近づいていたために、おそらくカメラにビニールでも被せてあったのでしょう、期せずしてものすごくシュールでサイケな映像になっています。
 キース・エマーソンの弾くモーグもなんとなく調子悪そうですけど、それがまたある種の緊張感というか、独特のライヴ感を醸し出していますね。正直「かっこいい!」としか言いようがありません。
 ではどうぞ。

 そうそう、こちらで紹介した吉松隆さん編曲によるオーケストラ版「タルカス」が、NHK大河ドラマ「平清盛」で使われていますね。なんとも感慨深いなあ。おっと、動画があった。

 キース・エマーソンと言えば、この曲も忘れられません。音楽にも言葉にも勇気づけられました。

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2012.01.30

あっぱれ! ひとり「ボヘミアン・ラプソディー」

 ょっと忙しいので、軽いネタを一つ。
 いや、全然軽くないかもしれない。これはすごいですよ。私も複数の人間でこの曲を完全コピーしようとたくらんだことがあるので、これがとんでもない偉業であることがよく分かります。
 いくらプロとは言え、このレベルでやられると、さすがに「参った」としか言えませんね。
 一人で楽器からボーカル、そしてあのコーラスまで全て「弾いてみた」「歌ってみた」のは、アメリカのミュージシャン、リッチー・カステラーノさん。
 まあ、とりあえず聴いて観てみてください。映像もよくできている(笑)。

 こうして聴いて観てみると、カステラさん、いやカステラーノさんのすごさもですが、なんと言っても、この曲を作ってしまった、フレディ・マーキュリー、というかクイーンの偉大さを再確認せずにはいられないですね。
 どういう音楽体験があるとこういう曲が作れるのだろうか。ある意味バッハやベートーヴェン、さらにはビートルズをも超える偉業だよなあ。もちろん歌詞も含めて。
 では、改めて原曲を聴いて観てみましょう。ちなみにこのオリジナル映像作品もまた、世界初の本格的ミュージック・ビデオとして歴史に残るものなんですよね。

 むむむ、一度頓挫した古楽版完全コピーに再び挑戦したくなったぞよ。誰かやりませんか?

Richie Castellano 公式

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2012.01.29

ネコと和解せよ

120130_7_08_08 震で切迫している時にこんなネタですみません(笑)。
 いや、私はそんなに切迫していないのですよ。昨日書いたとおりです。
 おとといその地震が起きてから、私たち家族は東京に向かいしました。私は半蔵門にてコンサートの練習、他の女子たちはアキバへ。
 最近娘たちが「東方」にはまっていて、そのグッズを買いに行ったようです。そして、実際にフィギュアやらCDやらを買い込んできました。
 カミさんはカミさんで仕事で使うとか言って、ギコとかモナーとかキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!とかのハンコをたくさん買ってきました(笑)。
 そして、私に「お土産」として買ってきてくれたのがコレ。
 ツボすぎます。さすが我が家族!
 もちろん、これはアレのパロディーであります。そう、いつかもこのブログで書きました、特に東北地方に多く見られる、あの黒地に白&黄色の文字で書かれた「キリスト看板」です。
 その代表的コピーである「神と和解せよ」の「神」をネコに変えたものですね。これは2ちゃんなんかでは有名なネタでしたが、ステッカーまであるとは…。
 このネタのすごいところは、「神」という文字をただ「ネコ」にして、キリスト教を猫教に変えただけではないというところでしょう。もちろん、ネット上の、すなわちオタクたちの多数派宗教は「猫教」ではありますが、そういう意味だけでなく、「神」という字を「ネ」と「申」に分けるという、ネット上の伝統文化さえも取り込みつつ、かつ「申」の一部を黒で塗りつぶすことによって「コ」を現出させるという高等テクニックも使われているのですからね(笑)。
 だからデザイン的にネよりもコの方が小さいわけです。その実際例(?)を紹介しているのが、こちら「本日のネコと和解せよ」です。
 ちなみにオリジナルの「キリスト看板」コレクションはこちらがなかなか充実していますよ。
 この「キリスト看板」ですが、宮城県を本拠地としている「聖書配布協力会」という団体が全国に設置して回っているものです。
Imgp0626 彼らは比較的穏健な布教活動を行なっています。私、一度彼らと宗教問答やったことあるんですよ。この写真を撮った時です。
 ある朝、我が高校の正門近くで彼らが小冊子を配布していたんです。ウチの学校は思いっきり仏教系ですから、生徒たちも半ば驚き半ば面白がり多少気味悪がってそれらをもらっていました。
 宗教研究家の私としてはこのチャンスを逃すわけにはいかない。私も得意のスキンヘッドを活かして、いかにも坊さん然として一人の女性に近づいていきました。
 彼女は外国人でした。白人です。片言の日本語でした。「どこからいらしたんですか?」「ミヤギです」「ウチの学校は仏教系なんですよ」「ソウデスネ、ソウデスネ」「仏教とキリスト教の違いはどう思いますか?」「ソウデスネ、ソウデスネ」「仏教は寛容ですからキリスト教を受け入れますが、キリスト教は一神教なので、そのへんどうなんでしょう」「ソウデスネ、ソウデスネ」…。
 というわけで、まさに禅問答のような感じでして、私エセ坊主の完敗でありました(笑)。
 調べてみると、この団体のスポンサーさんには、ウチの学校もお世話になっているようでして、まあ不思議な仏縁だなあと感心してしまいました。
 さてさて、このステッカー、どこに貼ろうかな。車?iPhone?職員室の机?
 いや私のおでこに貼りましょうか(笑)。なにしろ、ウチの黒猫ミーといまだに和解できていませんから。

あきばお〜こく


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2012.01.28

山梨県東部・富士五湖地方で震度5弱

Large すがにビックリしました。しかし、直下型だな(震源近いな)とは思いつつ、いわゆる富士山直下(すなわち我が家直下)の揺れ方ではなかったので、それほど心配はしませんでした。
 たまたまパソコンの前に座っていたので、揺れている最中からツイッターで分析・解説してしまいました(笑)。気象庁なんか1時間もかかった上に大したこと言わないし。
 以下ワタクシのツイートでこの地震について復習してみましょう。

・おっと直下型だ。
・富士山ではないか。道志かな。
・でかい。
・物が倒れた。
・余震が続くな。@富士山
・道志川より東のような気もするな。
・また揺れた。
・富士山直下ではありません。
・やっぱり道志川断層だな。よくある地震だ。
・忍野村は地盤が弱いのでよく揺れます。昔、湖底だったから。
・正直兆候はなかったなあ。ちなみに富士山は平穏です。今朝のラドン濃度も13ベクレル。
・あと数回有感余震がありますが、これはこれで収束します。
・また揺れてるな。あえて言えば昨夜強烈な頭痛に襲われた。インフルエンザかと思った。今は治ったから体感だったのかもしれない。自分でもよくわからんが。
・富士山とは直接関係のない断層帯であることはたしかです。東部富士五湖って言われると知らない人は心配するよな。
・下の娘は3回目のでようやく起きたww
・まあたしかにこれだけ連発するのは珍しいかな。広い意味での3.11の余震(誘発地震)だろう。この辺もあの大地震で10センチ以上東に動いたわけだから、活断層に影響があるのは当たり前。

 このあと、我が家は富士山から逃げるように東京へ向かいました。私は半蔵門でコンサートの練習。カミさんと娘たちは東方グッズを買うために秋葉原へ(笑)。
 いや、富士山から逃げる気は全然なかったんです。逆にそれだけ緊張感や切迫感がないということです。本当に逃げるなら、猫たちを連れて行きます。
 結局、予想通り小規模の余震を重ねつつ収束に向かっていますね。
 さて、今回の地震の前兆については最後に記載します。まずは解説。
 今回の地震は、このあたりでは最も活発な地震の巣で起きました。10〜20年に1度M5クラスが発生する地域です。いわゆる道志川断層帯。私の記憶に鮮明なのは、あれは1996年の春だと思いますけど、やはり震度5がありました。あの頃はまだ独身でボロアパートでとんでもなく荒んだ生活をしていました。もともと被災したような部屋だったので被害の詳細は不明でしたが(笑)、いろいろ物が飛び散った記憶があります。
 それから都留の大学に入学した1988年の夏休み。M6が起きています。帰省後下宿に帰ったら、やはり物が散乱していましたっけ。
 その後も震度4以下の地震は多発していましたので、その揺れ方の特徴なども体に染みついています。だから、すぐに「道志かな」と判断できたのでしょう。我ながらすごいな(笑)。
 いつも書いているとおり、このあたりは、北米プレート、ユーラシアプレート、フィリピン海プレートの交合点です。力学的に言えば、太平洋プレートの影響も大きいので、4枚の板が押し合いへし合いしている世界的にも特殊な地域と言えます。だから富士山という素晴らしい山が出来ちゃったんですよね。
 特に道志から丹沢にかけてはフィリピン海プレートの北端ということで、当然地震活動が盛んになります。
 ちなみに伊豆半島はですね、フィリピン海プレートに乗っかってどんぶらこドンブラコと南から流れてきた島でして、ただ火山活動が盛んだったからでしょうか、ちょっと比重が軽くてですね、北米プレートの下に潜り込めなかった。それでドカンとぶつかって半島になったのです。ぶつかった時のしわ寄せが箱根です。
 ですから、道志あたりは、伊豆半島の下の方の重い岩盤が表面から分離して潜り込んでいると言えるわけです。すごいスケールの話ですね。
 そういうスケールで言うと富士山と全く関係がないとは言えないわけですが、現実的には直接富士山の噴火に結びつく地震ではありません。ツイートしたように「東部・富士五湖地方」と言うと地元の人でも「えっ?富士山大丈夫?」と思ってしまいますよね。
 今回の地震で少し意外だったのは、大きな前震があったということです。最初のM5.0が本震だと思いました。ですからその後のM5.4は想定外でした。
 これはちょうど昨年の3.9と3.11の関係に近いのではないでしょうか。本震の震源に隣接する地域で比較的大きな前震が起きうるということを再確認。逆に言えば、どんな地震でも、続いてそれ以上大きな地震か起きることを想定して行動しなければならないということです。
 さてさて、ツイートの中では「前兆がなかった」と書いてしまいましたが、それは得意の地震雲や体感についてことであって、実はある意味科学的なデータを私自身が持っていました。それは大気中のラドン濃度です。
 昨年11月に測定機器を購入し計測を始めたラドン濃度。実は今月15日をピークに異常値が現れていたんです。その後急速に数値が低下、そして発震。典型的な前兆パターンです。それを栃木の研究者様が解析しまとめてくださったので、ぜひこちらでご覧ください。1月28日夜の臨時日報です。
 ボランティア観測網に参加しはじめて1ヶ月ほどで、このような成果をあげることができて良かったと思います。今後もラドン濃度の動向に注目していきたいと思います。
 体感と言えば、昨夜すごい頭痛に襲われたんですよね。インフルエンザかと思ったんです。朝には治っていましたから、もしかすると予感していたのかもしれません。このへんも科学とは別の次元で記録と検証が必要ですね。
 というわけで、このたびの地震は順調に収束していくでしょう。ただ、これから数十年にわたって活発な地震・火山活動期は続くと思いますので、富士山の噴火も含めて、もちろんしっかり想定に入れつつ、自然の声に耳を傾けていきたいと思います。
 特にここ富士山は日本の霊的丹田です。4枚のプレートの力を集中しているという意味では、科学的にもヘソに当たるでしょう。ここでしか分からないことがあると思います。私はそれをしっかり感じ取り、皆様に伝えていければと思っています。

 追記 これを機にラドン濃度の測定値を毎日朝晩2回ツイッターで公表します。よろしかったらフォローどうぞ(左上の黒猫の足元に入り口があります)。

 30日追記 すっかり地震活動が収束しました。富士山もいつもどおりです。もし心配があるとすれば、道志川断層群の南側にあたる、神縄・国府津-松田断層帯ですね。あそこはM7以上の地震を起こすパワーを持っています。もちろん、東側の立川断層なども同様に活性化している可能性があります。いずれにせよ、東日本を中心にかなり歪みがたまっている(すなわち今までのストレスを解放するきっかけが増えている)状態ですから、いつでもどこでも注意が必要でしょう。

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2012.01.27

「リリジョンフリー」というアイデンティティ

Store 道家でもある我が校の校長から宮脇磊介氏の講演録のコピーをいただきました。拝読して感銘を受けましたので紹介させていただきます。
 リージョンフリーならぬ「リリジョンフリー」という発想はなかなか面白いし、日本人のアイデンティティの根幹をうまく表した言葉だと思います。
 「宗教」という言葉や概念からの解放ということで言えば、出口王仁三郎の思想もこれに近いかもしれませんね。
 私は「武士道」という言葉にある種の違和感を抱いてきた者なのですが、今回の宮脇さんの解説により自分なりに腑に落ちるところがありました。
 その他、「武道」ではなく「武芸」、「見」でなく「観」、さらに「観」でなく「映」、スポーツとして勝つために何が必要か…などなど、非常に興味深いお話が盛りだくさんです。
 結局植芝盛平が最強ってことでしょうか。ということは、やっぱりその師である王仁三郎はとんでもない大化物だったということですね。そんなことも再確認しました。
 では、縦書きでどうぞ。

 宮脇磊介 「日本のアイデンティティとは何か」を考える 「国際化する武道」と日本文化に連綿と流れる「普遍的価値」  全日本剣道連盟剣道文化講演会 2011.12.10

(はじめに、の部分は省略させていただきます)

 武道の国際化

 みなさまご存じのように、日本の武道が国際化しております。柔道も合気道も国内の参加人口よりもはるかに多い人たちが、海外で稽古に励んでいます。剣道もまた、海外人口が増えてきて、世界選手権大会がもたれるに至っています。そうした状況下で、特に近年、柔道、なかでも男子柔道が国際試合で金メダルを取ることが難しくなってきました。怪力の選手や巨大な選手に、力で振り回されて、技が出せない哀れな姿がテレビで報じられるようになりました。日本のお家芸であった柔道が、世界各国のレベルに追い付かなくなってきますと、国際団体の中での主導権が日本から離れて行く状況が見られるようになりました。本来の日本の柔道が長年受け継いできたルールが変更され、否定されてきました。白ではなくて、青い柔道着も現れました。日本は、当初、こうした日本流のルールを変えられることに反対しました。
 しかしながら、武道をスポーツ化した以上、また、国際的に広まってきた以上、「テレビ向け」と「コマーシャリズム化」は、必然的であり宿命的であります。オリンピックや世界選手権大会で、世界中の視聴者に分かりやすく楽しんでもらうためには、柔道着の色で識別してもらうのが、最も適当です。普段柔道の試合を見たことも無い視聴者、選手の名前も知らない視聴者が、両方とも白い柔道着を着ていては、興趣(きょうしゅ)が湧いてきません。世界の流れに従わざるを得ません。
 でも、100%国際柔道連盟が決めたことに従ってよいのでしょうか。決してそうではありません。また、国際柔連としても、いかにスポーツ化したからといって、世界の人々から支持されている「柔道」が求める精神面での意味が否定されては、柔道ではなくなってしまう。国際化された「JUDO(じゅうどう)」にも限界があることが次第に分かってきました。海外で柔道に魅力を感じて稽古に励む人たちが求めるものは、「礼に始まって礼に終わる」ことを始め、「謙虚な心」で相手に対峙すること、などの「求道」でした。それまで否定するわけにはいかないことに気付いてきました。皆様方ご案内のとおりです。一方、日本の柔道界には、ぎりぎり最後まで守り抜かなければならない価値は何か、譲ってはならないものは何か、が厳しく問われてくることになりました。
 「日本柔道の真髄」とは何か。それは、「日本文化の本質」にかかわるものであります。言葉を換えて言えば、「日本のアイデンティティ」が問われてきたのです。剣道でも、全く同じ傾向が見受けられるようになりました。武道とは異なる日本文化でも、俳句などでは、国際俳句連盟の方が、海外各国に向けて影響力を持つようになってきています。

日本のアイデンティティ

 さて、ちょうどこの頃、日本の社会でも、武道の国際化とは関わりなく、「日本のアイデンティティとは何か」が、日本の文化人や学者などの間で、にわかに論議されるようになりました。
 武道に限りませず、あらゆる分野に亘って日本のアイデンティティが問われるようになってきたのでした。それには、東西冷戦の終結に伴う「グローバリゼーション」が関わっているように思われます。
 それぞれの国は、言葉の相違だけではなく、それぞれ異なる文化を持っています。お互いの国、相手の国の文化を知り、それと自国、日本の文化との違いを知ることが、国際的な交際や折衝に欠くべからざる要素となってきたのです。文化とは、それぞれの国や民族の「アイデンティティ」と表裏をなすものです。その国の文化の本質・文化の精髄が、その国の「アイデンティティ」に他ならないからであります。
 さようなことからでしょう。文化人はじめ多種多様な人たちが「日本のアイデンティティ論」を取り上げるようになりました。そこで等しく「日本のアイデンティティ」として取り上げられたのは、「武士道」でした。新渡戸稲造氏が英文で著した「BUSHIDO」が、なにかと引用されて、「武士道が日本のアイデンティティである」かのように、喧伝されるようになりました。
 みなさま。武士道を日本のアイデンティティと考えてよろしいのでしょうか。とんでもない話です。ちょっと考えればわかることです。「武士道」という言葉が歴史上、現われたのは、いつごろでしょうか。そうです。戦国時代の後期、武道をおやりの皆様ご存じの「甲陽軍鑑」からです。「武士道」が、武士の行動規範として主張され、広まったのは、江戸時代に入ってからのことです。たかだか400年前のことではありませんか。
 日本の歴史は、神話の時代に始まります。日本の神話を初めて綴ったのは、皆様ご存じの「古事記」です。そこに、「武の文化」ともいうべき「日本文化の源流」が明瞭に示されています。日本人としての価値観も示されている。現在においても、それが連綿と受け継がれている。しかも、途切れることなく、です。「日本のアイデンティティ」が、そこに見出されるのです。にもかかわらず、たかだか400年前からの「武士道」を、1300年ほど前から示された、「武の文化」の長い歴史があるにもかかわらず、「日本のアイデンティティ」とすることは、いかにおかしいことか。子供にでも分かることです。そんなことが、堂々と横行する日本の現状は、嘆かわしい。賢明なる皆様方には、そう御感じであろうかと存じます。
 このようにして、日本は、そして日本人は、日本のアイデンティティを見詰め、日本のアイデンティティを心の中に据えておくことが求められるようになった。そう考えてよろしいのではないでしょうか。  
 「アイデンティティ」と言う言葉は、日本人には分かり難い言葉です。「アイデンティティ」を平たく申しますと、「自分で見つけた自分」「自分自身の個体(個人・民族・国家など)の価値」と考えてよいでしょう。したがって本論では、「日本人自身で見つけた日本ないし日本人」「日本本来の日本の価値」「日本人であることの価値」などと、大まかに理解しておけばよいと考えています。定義にこだわると、「神学論争」に嵌まってしまいがちです。
 日本は、島国です。たしかに、「黒船ショック」がありました。「明治維新」という無血革命も、成し遂げました。しかしながら、これまで、日本ないしは日本人は、「世界の中の日本」「世界の中の自分自身の価値」をあまり考えないでも、なんとかやってこられました。「自分が何であるか」とか「アイデンティティは何か」を問いかけなくても、今まではそれで済んできた。そう思ってきたのでした。それが、日本が国際化から後れをとる大きな原因のひとつにもなっていたのです。
 さて、きょうのお話のタイトルは、「日本のアイデンティティとは何かを考える」とさせていただきました。「考える」としましたのは、「日本のアイデンティティ」について、わたくし自身の考えを申し上げようとしているのではなく、みなさまと一緒に「日本のアイデンティティとは何か」を考えて参りたい、それについて、わたくしとして出来ることは、みなさまと考えるに当たって「ヒント」になるであろうことを提供させていただきたい。さような考えからにほかなりません。この点、あらかじめご理解賜りたい。心からお願い申し上げたい、さように存じております。

 武芸を体験しない文化人

文化人が語る新渡戸稲造氏の「BUSHIDO」を引用する「日本のアイデンティティ論」で痛切に感じられますことは、日本の文化人たちが日本の「武芸」に馴染んでいないことであります。剣道・柔道など「武道」の稽古をした経験が無い人が殆どです。武道への「関心」といっても、せいぜいオリンピックや世界選手権大会でのテレビを見るくらいの程度です。そんな人たちが、「武士道」や「日本のアイデンティティ」を論じて本や随筆を書いたりしているのです。
 さきに申し上げたように、日本の文化の底流をなすものに、「武の文化」があります。日本文化を論じる時、欠かすことの出来ない重要な要素です。
 日本の歴史は、豊葦原瑞穂国(とゆあしはらみずほのくに)の生成に始まります。古事記などが記す神話の時代から、日本人の祖先は、タケミカズチノ神を「武の神」としたように、武を尊び、刀剣に格別の権威を抱いていました。神代(かみよ・神話の時代)にあって、刀剣の持つ力への崇敬の念は、日本人の精神性の柱をなしていました。また、「心身の在り方」として、「明らけく清らけくあること」が尊ばれ、「禊ぎ(みそぎ)」「祓い(はらい)」が、穢れのない清澄な精神に導く手段でした。
 その後の日本の歴史は、武芸におきまして、世界の他の国々や地域で発達した武術と異なって、「相手を殺傷しないあり方」を求めるところに特徴を示すようになりました。「平安な心のありよう」を追及する茶道・華道・能楽など、日本の伝統文化には、日本古来の「武」が尊んできた、「高い精神性」から生まれる「平和な心・清冽(せいれつ)な心」のありようが、底流をなしてきたのであります。
 このように、古事記の時代からの日本にあった「武の文化」が、日本文化の底流をなし、あるいは、直接間接に影響を及ぼしてきたのでした。したがいまして、「日本の文化」を論じる時、この「武の文化」を抜きにして語ることは出来ないのであります。
 また、最近の傾向として、茶道、華道、俳句、柔道、合気道などの伝統文化の中には、日本国内よりも、海外の愛好者人口の多い所も出てきました。また、昨今は、アニメやマンガなどのサブカルチャーと言われるものが、日本の人びとの理解を越えて、世界の人びとの心をとらえるようになっているのです。日本の人びとが、自らの文化の本質への理解を欠いているために、その本質を海外の人たちに解説も出来ない。そんな状態が、許されなくなってきているのです。ここに、きょうのテーマである「日本のアイデンティティ」ですとか「武の文化」への国民挙げての理解が求められるゆえんであります。
 なお、すでにお気づきの方もおられるでしょうが、きょうのお話では、日本古来の武に関する体技を、「武芸」と呼称させていただいております。「武道」「武術」「武芸」と三つの言葉を、使い分けいたしております。「武道」という言葉は、皆様ご存じのように、明治時代に入ってから一般化しました。「武術」という言葉には、技術・技(わざ)に重きが置かれている印象がございます。そこで、日本古来からの「精神性」と併せて「心のありよう」を含めた「武芸」を適当と考えました。

 国際試合で金メダルを取るためには、どうしたらよいか

 さて、それでは、まず第一に、日本の武道が当面抱えている国際化に伴う問題点とそれをいかに克服するか、について検討を致したい。第二に、その背景にある日本古来の武芸への関心を喚起する必要性。第三に、日本の武芸を担ってきた先人達が求めた究極のものは何だったか、について、検討を進めて参りたい。
 その上で、連綿として流れてきた「武の文化」を底流とする「日本の文化」に眼を転じて、三つのことを申し上げたい。一つは、その特徴、「日本文化の特質」を、皆様と共に確認し合いたい。二つには、その「日本文化の精髄」が、こんにち、および、これからの「世界に普遍的な価値観」として全世界に向けて提供することが、日本の役割であることを申し述べたい。そして三つめ、最後に、その中で「日本の武道家の役割」、武道家が考え、かつ、なすべきことは何か、を見詰めて参りたい。換言すれば、「日本武道の目的」とするものは何か、ということです。
 まず、当面の問題として、本来日本が元祖であり、日本のお家芸とされてきた日本武道が、各種目の国際試合で、圧倒的に金メダルを獲得するためにどうしたらよいか、について見て参りたいと思います。
 柔道に例をとってみますと、特に、男子の不振には、目を覆うものがあります。負け方の多くは、外国選手の怪力に屈して技を出せないうちに負けてしまうパターンです。「力負け」しないことは、今や、世界を目指すものにとっては、絶対的な必要条件なのです。日本選手は、いくら技が切れて、「美しく勝つこと」や「一本勝ち」を勇ましく宣言しても、外国選手の怪力に歯が立たず、惨めな結果となるパターンの連続です。世界を目指すからには、優れた技を持ち、かつ、長身や目方のある怪力外国選手を相手にして力負けしないだけの怪力と持続力とを持つことが先決です。いくら技が切れても、体力が伴わない選手は、もはや、始めから「国際試合不適格者」として国際試合へのエントリーから外してしまうことです。「国内試合優勝用選手」に甘んじさせる以外に道はありません。
 剣道でも、同様なことが言えるのでしょう。体力とその持続力、集中力とその持続力に加えて、柔道とは異質の様ざまな資質が求められることでしょう。
 怪力に加えて、技(わざ)の習得について格別の工夫があってしかるべきであります。これには二つの道があります。一つは、世界中、古今東西の格闘技の技を取り入れて、必要なものを身につけることです。もう一つは、日本古来の武道家が心血を注いで開発し、磨き上げた格闘技の技を吸収することであります。ここでは、後者について考えてみます。
 世界一を目指すからには、「世界最高の技」を習得しなければなりません。
日本古来の日本の武芸各派が、長年月をかけて、生死を賭けた勝負での「必勝」を期するために開発し、磨き上げてきた独特な技や手法がございます。近代科学では、説明のつかない、無数のノウハウが、そこにあります。
 16世紀後半に、上泉伊勢守信綱が、当時主流をなしていた、力とスピードで相手を圧倒したうえで自分の得意とする技に引き込んで勝つ、という戦い方に囚われないで、相手の動きに対応して、いかなる形の攻撃に対しても無理なく勝つ方法を体系化し、全く新しい流派を創設しました。それが、新陰流でした。また、合気道は、相手の力や心身反応を利用して、相手の態勢を崩すのが基本原理です。
 スポーツ武道の国際試合で勝利を得ようとするのであれば、日本選手は、手近なところに、海外の選手たちが直ぐには真似の出来ない、日本独特の幻妙にして多彩な技と理法が山ほどあることに着目し、その精髄を窮める修練を尽くさなければならないのであります。
 武田惣角の「壁抜けの術」ですとか、三船久蔵の「空気投げ(隅落し)」などもクリアしたいものです。前者は、目にもとまらぬ速い所作(しょさ)と催眠誘導が基礎になっているように思われます。また、相手に触れないで投げ飛ばす「隅落し」は、相手が自分自身でも感じていない心身反応のツボへの刺激と反応の活用と考えられます。夥しい魚の群れが一斉に同一方向に流れるように移動するのは、何百万年という長い年月のなかで、身の危険をかわす必要から、一般の人間からすれば、一瞬としか感じられない時間が、魚群にとっては、身をかわすのに十分な時間となっているからだと思うのです。「凝縮された集中力による時空のスパンの変化」といってよいものでしょう。植芝盛平が屡しば口にしたと言われる、戦地で鉄砲玉が見えるから当たらない、と言ったことは、ある程度合点がいくところです。なお、植芝盛平の十人掛け・十人飛ばしのフイルムを見ると、座位のまま、目にもとまらぬ早業で、前後左右に移動して、体さばきをしていることが分かります。人並み外れた修行の賜物が、そこに明瞭に映し出されているのです。
 勝負での必勝法を見出そうとする時、欠かせないのは、宮本武蔵の「平常心」です。皆様ご存じのように、武蔵は、「平常心」と言う言葉は使いませんでした。「兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に変わることなかれ」と説くのを、一般に「平常心」と呼んでいるわけですね。俗な解釈では、「緊張せずに、平素と同じようなリラックスした気持ちで試合に臨め」と理解されています。そんな気持ちで真剣勝負に臨んでは、たちどころにバッサリやられてしまいます。武蔵が言わんとするものは、「必勝は、真剣勝負で相手に負ける事のない最高の精神状態を、日常平素から持ち続けていることによって得られる」と言うことにあるのでしょう。皆様に申し上げるまでもないことです。
 宮本武蔵は、「見(けん)」でなく「観(かん)」と説きました。これについて、植芝盛平が、「観(み)る」でなく「映(うつ)る」じゃ、武蔵はまだ完成していなかった、と評しました。「映る」という捉え方は、柳生家の一大事(秘伝)である「西江水(せいごうすい)」の中にも出てきます。「心が何物にも煩わされることが無くなり、心が明らかとなってすべての道理が分かるような状態である。この状態になると、自ずと敵の心が自分の心に映ってくる」と解説されています。

 武芸を担ってきた先人たちが求めた究極のものは何だったのか

 このように、日本には、他の諸国、特に西欧諸国の近代科学では、到底及びもつかない幻妙な技(わざ)が山ほど開発されてきました。「小宇宙」とされる、人間の経穴や無意識の反射反応を自在に操ることにより、手を触れなくても相手のバランスを崩し、相手の力で相手を無力化する技までも、伝習されているのであります。人体構造における心身の玄妙な働きのメカニズムに、厳しい修行を通じて迫った結果、習得された貴重な文化遺産であります。
 日本の武芸諸流派が共通して鍛錬するものに、「呼吸法」があります。意義の説明の仕方や鍛錬の手法は、まちまちですが、言わんとするところは皆同じです。「心身の働きを自在にする」「集中力を高める」「丹田に気を集める/気を練る/気を蓄える」と、心身の全ての感覚が総動員され、かつ、状況に応じて最も有効に機能する状態を作り上げる効果を期待します。
 森羅万象ことごとく「宇宙のリズム」に随って生成し、消滅します。呼吸の加減は「宇宙のリズム」に則したものであることでなければなりません。結局、諸流派が「極意」「奥儀(おうぎ)」として求めるものは、「無形の位(くらい)」「轉(まろばし)」「無構え(構えあって構え無し)」その他様ざまな表現がありますが、いずれも、「いかなる状況にも対応できる心身の状態」に尽きます。それが「自然のありのままの心身の姿」であり、「宇宙のリズムに適ったあり方」などと表現されるのであります。
 武技が高度なものに磨かれてきますと、重点は「力」よりも「技」へと移ります。次いで「心のありよう」が、修練の目標として見えてきます。さらに進むと「相手を殺傷しないで制圧する」「相手と力によるバトルをしないで勝つ」「気位(きぐらい)/高度な精神力を相手に感応させて戦意を喪失させる」といったことを尊し、とするようになります。
 日本の武の文化は、西欧での武のありようと異質であります。刀剣については、日本では古来から権威あるものとして受け止められ、精神性が尊重されます。天皇の天皇としての証しである三種の神器には「草薙の剣(天叢雲剣・あめのむらくものつるぎ)」があります。海外では、どうでしょうか。ダガーナイフや青龍刀など、精神性の無い「殺傷の用具」でしかありません。また、戦国時代から江戸時代にかけて「武士道」「士道」など武士の行動規範が武家社会の中に広まりました。日本の「武士道」と西欧の「騎士道」もまた、質を異にします。日本では「死生観」を見詰める精神性が強い。これに反して、西欧の「騎士道(chivalry)」では、「勇気」「婦人尊重」などを看板にしていますが、本質は「カッコよさ」の顕示というスノビズム(俗物主義)に過ぎないのです。

 武芸に求めていた究極の目標

 ところで、では、先人が武芸に求めていた究極の目標・究極の理念は、何だったのでしょうか。植芝盛平は、「武技は、天の理法を体に移し、霊肉一体の至上境に至る業(わざ)であり、道程である」(「合気道の精神」)と説いています。「宇宙との一体感/一体化」「宇宙の理法に適った心身の働き」「宇宙のリズムとの調和」などとも説かれています。この場合の「宇宙」という言葉は、「自然」「山川草木・森羅万象」「天」などと置き換えることが出来るでしょう。
 「身心一如(しんしんいちにょ)」と説かれるように、日本では心身は、キリスト教文明で考える二つの別々のものではなく、一つであります。五感や経穴、あるいは、それら以外に未だに発見されていない心と身体の反応・感応のメカニズムは、心身一体のものとして捉えられなければなりません。そうでないと、日本の諸武芸の理法や、それらの奥にある究極の目標である「宇宙の理法」は、理解できません。

「世界に平和をもたらす理念」への集約

 武芸の先人達が、後世に残そうとしたものは、何であったのでしょうか。
日本の武芸は、殺傷の技術から出発しながら、その中に「神武不殺(しんぶふさつ)」すなわち「殺すなかれ、破るなかれ」を理想としてきました。そして、「相討ち」から「相抜け」へと脱皮するなど、相手を殺(あや)めたり、傷つけたりする世界から、相手を生かし合う世界へと転化を進めて参りました。
 日本の武芸の中で、代表的なものは、剣術と柔術でした。剣術は、本来、刀剣という「武器」によって相手を殺傷する技術であります。しかしながら、日本では、やがて、相手を活かして勝つことを求めるようになりました。柔術は、もともとから、武器を持たないで、「無手」「空手・空拳」で、場合によっては武器を持つ相手にも勝つ、という技術を目指してきました。 
 柳生新陰流の流祖、上泉伊勢守信綱は、真剣勝負での必勝法を極めようとして、その極意に達しました。しかしながら、上泉伊勢守は、自分が極めきれなかった「無刀の位」を工夫することを、兵法者として名をなしていた大和の国の柳生宗厳(やぎゅう・むねとし)に託したのでした。宗厳は、「無刀の位」を極めることに成功しました。武器を持たないで、武器を持っている相手を制圧する手法を編み出したのでした。これは、塚原卜傳(つかはら・ぼくでん)が、「一の太刀(ひとつのたち)」を考案して、その開発した木刀使いの威力を発揮して、すべての相手を、パワーとスピードで捩じ伏せたのと対照的であります。上泉伊勢守が目的とした哲学は、この卜傳流のやり方を乗り越えることにあったのでした。
 合気道になりますと、これまた、殺傷の技術から出発しながら、次第に、「神武不殺」へと、相手を生かし合う世界へと転化しました。技法、技の出し方も、決して自分自身から先制攻撃をしないことを練磨の基本とし、これを「武の究極の理法」としました。そして、「人と争わず、自然を損なわず、力でのぞまず、対すれば相和す。宇宙との和合を目指す愛の武道(、それ)が、合気道である」(植芝盛平)としたのでした。
 講道館の創設者、嘉納治五郎師範は、「柔道とは、心身の力を最も有効に使用する道」であって、かつ、「相助相譲自他共栄の道」であるとしました。「精力善用」「自他共栄」の理念であります。これは、今日これまで述べてきました日本武芸が長い年月の中で求めてきたものの集大成であると言えるのでしょう。また、日本から世界に向けて、「発信」を意識した一つの体系化された理念でもありました。事実、国際的な武道界で、こんにち膾炙されているところであります。なお、嘉納師範は、「無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を極む」と説きました。上泉伊勢守・柳生宗厳の「無構え」から進めて、「無心」に到達したのでした。宮本武蔵の五輪書「空の巻」の最後の締めくくりの言葉は「心(しん)は空(くう)なり」とあります。相通じるものがみえてきます。

 「武の文化」を始めとする日本文化を生み出すことができた「環境」

 これまで皆様に申し上げてきた事柄は、異論はありましても、日本人にとりましては、格別の違和感なく理解でき、受け入れられることだと思います。ところが、海外、なかでも白人支配のキリスト教文明諸国の人びとにとっては、なかなか理解されないのです。どうしてでしょうか。理由は、はっきりしているのです。そして、この点は、日本文化の特質、および、その発生の源を考える上でとても大事なことであります。
 日本人は、長い歴史上、ほとんど「宗教」と「イデオロギー」の呪縛を受けてきませんでした。それは、日本にとりまして、とても恵まれた環境だったと言えます。そうした拘束の無い中で、日本人は、自由闊達に精神活動を展開することが出来、様ざまな文化を育てることが出来たのでした。
 海外では、そうはいきません。17世紀以来、世界は、白人によるキリスト教文明支配に覆われました。キリスト教は、一神教の宗教です。人間が創ったフィクションに基づく一神教や一神教文明は、人間が生まれ持った自由で無垢な心と行動を、宗教上の戒律によって、ときには強制的に、一つの方向に、人間を加工してしまいます。
 こうした、ヤーヴェ信仰に基づく、唯一絶対の神への服従を説き、天国と地獄、それに悪魔の存在を心底信じさせられてきた「一神教のユダヤ教(旧約聖書)やキリスト教の世界」は、日本に存在しないと言えるくらい、影響力を持っていません。そのために、日本では、古事記の昔から今日まで、「明らけく清らけく」ある心を、切れ目なく保持しつつ、日本独特の自由な環境の中で、絢爛たる文化が育ってきました。自由で平等な人間性を謳歌し、闊達な神話や芸術作品を産んだギリシャの環境は、キリスト教によって断絶しました。
 この「一神教の拘束から自由な環境」を「リリジョンフリー(religion free)」と呼ばせて頂きたいと思います。英語として、必ずしも正確な表現とはいえないかもしれません。また、もう一つ、一神教の宗教だけからの自由ではなく、他の諸々のイデオロギー上の精神的制約を受けない自由までを含めている。ほぼ完全な「自由環境」を意味しております。その「リリジョンフリーの環境」によって、「日本文化」があるのです。
 「日本人の信仰心」は、学問的には、「アニミズム」として捉えられてきました。西欧キリスト教文明からは、やや軽侮の意味が籠められていました。「日本人は、無宗教だ。野蛮人だ」とする見方です。しかしながら、むしろ、日本が「リリジョンフリー」であることを、誇ってよいことだ。そう強調したいのです。欧米の人から「神(GOD)の存在を信じるか」と、問われることがあります。 日本人の宗教観を確かめたいのでしょう。その時は「一神教の神(GOD)は信じません。宇宙に存在する万物を支配している“宇宙の理法”の存在を信じます。そして、“宇宙の理法/宇宙のリズム“に適った、心身の在り方、呼吸の仕方、物の捉え方、考え方をすることが、”人間本来の姿“と考えています。それが、人に”幸せ”をもたらせもします」と答えればよいのです。
 また、キリスト教文明諸国からは、日本は「神道の国」とか「儒教の国」とか言われてきました。しかしながら、神道には教義も無ければ経典も無い。また、布教行為もありません。宗教の定義は無数にあります。けれども、こうした神道までキリスト教と肩を並べて宗教とはとても言えるものではありません。また、儒教についても、本来、生活上・処世上の指針のようなものでしたし、日本では、中国や韓国よりも遥かに宗教的色彩が薄まっているばかりか、江戸時代に儒学者の手によって加工されて、「武士の行動規範」として、変形・変質されたものになっていました。仏教は、キリスト教・イスラム教と並んで、世界の三大宗教の一つとされてきました。しかしながら、仏教は、もとより一神教ではありません。さまざまな宗派がありますが、教義も、一言でいえば、困った人に投げられる「筏(いかだ)」と説明されています。このようなことから、日本を「リリジョンフリーの国」と表現することが適当でしょう。

 リリジョンフリーの国であることの恩恵

 日本が「リリジョンフリーの国」であることが、どれだけ日本人自身に幸せをもたらせているか、計り知れないものがあります。皆さんにも、お考えいただきたいと存じます。
 リリジョンフリーの日本の環境のもとで、絢爛多彩な文化の花が、長い歴史の中で、いつの時代にも、咲き匂い、咲き誇ってきました。海外からも「日本文化の特徴」と指摘されてきたのは、「わび」「さび」「もののあはれ」「いつくしみ」など、「繊細で洗練された美意識と感性」であります。和歌や俳句には、「人間以外のものの心」を詠(よ)むものが多く見られます。日本人は、人間以外の生命体、動物・植物、ですとか、石や岩のような無機質の物体、ロボット、人工衛星はやぶさなどですね、そういうものを含めて森羅万象すべてに「心(こころ)が存在している」と感じているところから生まれる発想です。何とでも心が通じるのです。ですから、和歌・俳句にあらゆるものの心が詠みこまれるのです。
 日本の文化には、「より高い精神性を求める」という特質があります。その「精神性の希求(追い求める)」は、日本文化の全ての領域に亘って浸透しています。茶道、華道を始め、野球道からマンガ道など、何でもかんでも「道(どう」」をつけてしまいます。また、何でもかんでも「神様」にしてしまいます。千葉幕張には、ロッテを優勝に導いたバレンタイン監督を祀った「バレンタイン神社」があります。東電本社の屋上には、エジソンを電気の神様にした「エジソン神社」があるそうです。地方では、あちこちに〆縄を巻いた大きな岩が、神様として祀られています。
 また、「感謝」の気持ち。なかでもはっきりしているのは、「自然に対する感謝の気持ち」です。キリスト教文明諸国では、「人間は万物の霊長」であり、「人類が自然を征服」する、とされているのとは、正反対です。キリスト教文明諸国での「感謝」は、神が人間に求めるものです。日本人が持つ「感謝」は、本来自然に生まれてくる感情です。では、どういうところから自然に感謝の気持ちが生まれるのでしょうか。それは、「畏敬の念」のあるところに生まれてくるのです。自然に対する畏敬の念が、日本人の「感謝の気持ち」の根源なのです。
 「自由」「人権」などの価値観・概念も、キリスト教文明諸国と日本とでは、異質です。欧米では、「束縛から解放された自由の状態」です。日本の場合は、「人間としてありのままの心の状態」が「自由」な状態です。また、「人権」も、神が人間に付託されたものとされるのに対して、日本ではもともとそれと比較される概念がみあたりません。人も動植物も森羅万象ことごとく平等だからなのです。多くの日本人に気付いてもらいたいことです。「日本は、欧米先進諸国と価値観を共有する」と言われます。なにも相違を積極的に強調する必要はありません。しかしながら、日本人/日本国民としては、心の中では、きちんと整理して、そのアイデンティティを堅持していて頂きたい。そうお願いしたいのです。
 ただいま、「自由」について申し上げました。日本では「とらわれない心」「無心」という言葉でも置き換えられます。そして、これらは、「武の文化」が求めてきたもの、そのものであります。これが、「リリジョンフリーの環境」の下で、初めて存在できる、そして、自分自身で認識できる「人間の本来の姿」なのです。そうした「リリジョンフリーの環境」の中で、日本人の「洞察力」「直観力」が研ぎ澄まされます。また、「想像性(イマジネーション)」「創造性(クリエイテイヴィテイ)」が伸び伸びと発揚されます。世界トップを行くファッションデザイナ―や建築家が日本から生まれるわけです。国家の支援ではなく、文化のお蔭なのです。
 日本の時代劇と米国の西部劇との間に決定的な違いが見られます。日本の時代劇では、武芸の達人が、道角(みちかど)の向こうに潜む敵、あるいは、背面から足音を忍ばせて近付いてくる敵を、「気配(けはい)」で察知します。これに対して、西部劇では、拳銃王といえども分かりません。危険地帯に入って、きょろきょろしたり、石を投げて反応を引き出したりするにとどまります。
 「道徳」にしても、キリスト教文明諸国では、宗教上、神が示すもので、道徳教育は宗教教育の一環です。日本では、躾(しつけ)のように様ざまな価値観などを混然と取り入れた社会行動規範と併せて、個々人の価値観にゆだねられています。日本の武道の目的が、「人格形成」という、日本人の感覚からすれば宗教色の無い道徳的なものとされていることも、「リリジョンフリーの環境」のしからしむところでありましょう。
 近年、日本武道の国際化によって来日して修行する海外選手とは別に、欧米はじめ、海外諸国から日本古来の武芸や文化に強い関心を寄せて遥々来日する人が増えてきました。強くなるための修行だけでなく、日本の武芸や文化の本質は何かを、宗教とは離れて、自ら哲理的(「理」に照らして)かつ体系的に求めます。また一方、アニメやマンガなど日本のサブカルチャーに熱狂する世界の若者が増えています。なぜでしょうか。キリスト教文明の傲岸さやイスラム教諸国との宗教を異にする対決構造。同じ宗教内での宗派の対立など、血を血で争う戦争や紛争に倦(あぐ)んだ人たち、そしてまた、キリスト教の「人間が自然を支配する」とする考えが、自然破壊をもたらし、人類の生存に危機感を抱き始めてきた人たちが、自由な「リリジョンフリーの国・日本の文化」に魅力を感じるようになってきた。そう考えて当たらずといえども遠からず、でしょう。

 まとめ

 さて、きょうの皆様へのご報告も、終わりに近づいてきました。ここで、これまで申し上げてきたことを、かいつまんで、整理させていただきたいと思います。
まず、日本の武道が国際化してきて、国際試合で、海外の選手の方が、日本のお家芸である剣道や柔道を脅かす存在になってきた。その結果、日本の武道が守り抜かなければならない価値は何か、すなわち、「日本武道のアイデンティティ」が問われることになってきた。ということでした。
 次に、それでは、「日本の武道の本質」をなすものは何か。それを、武芸の達人といわれた人びとを始め、先人達が武芸の求めてきた究極のものは何だったのか、に目を向けることを通じて、探り当てようと試みました。そして、極意とか奥儀と言われているもの、および、その周辺にある考え方、すなわち、心の在り方、ものの捉え方が、「古来の日本文化の本質」と重なり合う、あるいは、「日本文化の本質」そのものであることが、理解されてきました。
 その「日本文化の特質」とされる多彩な美点は、ことごとく、「リリジョンフリー」ともいうべき、日本独特の自由で自然な精神環境の中で生まれ、そして、育ってきたものである、という姿が浮かび上がってきました。
 そして今、海外の人たちが、日本古来の武芸や、日本に新しく生まれてくるサブカルチャーまでの、幅広い分野に亘って、日本の魅力を感じ、心を寄せるようになってきた。それは、すなわち、日本文化の本質の中に、「世界に共通する新しい価値」、それを背景にした「世界全体に広まるであろう普遍性のある理念」。普遍的理念であります。海外からの関心の高まりは、それが世界に平和をもたらせる理念であることを予感させる現象、と考えてよいものであることが言えるようになってきた。
 つまり、「リリジョンフリーの環境」への憧憬(しょうけい)か芽生えつつある中、海外から日本の武道や文化、サブカルチャーまで、それらの本質を追究しようと人たちは、日本の文化、なかでも「武の文化」が究極的に見出した、「世界に平和をもたらすであろう理念」が、「リリジョンフリーの環境」の中からでこそ、生まれるものであることに、気付いてくることになるのでしょう。そして、そのことが、日本で生まれ育った理念を世界に広める素地になって行くことでありましょう。

 武道家の役割

 そこで、次に考えなければならないことは、「武道家の役割」です。「世界の中の日本」を視野に入れた、日本の武道家の役割です。日本の武道家がこんにち目指すべき目標は、なになのでしょうか。
 日本の武道界では、日本の伝統文化である「武道の目的」を、心技体の一体的な修練を通して「人格形成/人間形成」を図ること、としています。1987年(昭和62年)4月23日に日本武道協議会が制定した「武道憲章」には、その第1条に、「目的」として「武道は、武技による心身の鍛練を通じて人格を磨き、識見を高め、有為(ゆうい)の人物を育成することを目的とする」とあります。
ですが、人格形成/人間形成を図る程度のレベルを目指すことが、いまや、「世界の中の日本武道の目的」として留まったままでいてよいのでしょうか。
 また、新しい技法や心の在り方を開発する動きが見られないことも、大変気になるところです。私は、柳生新陰流について、昭和38年、内務省の柏村信雄先輩に連れられて、参宮橋の道場に行って二十世柳生厳長先生の講道を受けました。落合の養神館道場に変わって柳生延春先生に、そして現在は、二十二世の耕一厳信先生について学んでいます。古武道一般に言えることですが、もっぱら、奥儀を開発した先人の教えを学び、継承するばかりで、更に新たな奥儀・極意を開発しようとする気配が見られないことに物足りなさを感じざるを得ないのです。つい明治・大正そして昭和の初期までは、種目にもよりますが、開発努力の厳しい修行がありました。いまでは、そこそこの心技の継承にとどまっているのです。それはそれで貴重なことです。けれども、それでよいのでしょうか。教えていただきたいのです。
 一方、スポーツ化した武道種目では、試合に勝つことに集中する。これはやむを得ないことですが、経営の厳しい道場はともかく、大学などでは何とかならないものでしょうか。「武道の目標」について、小学生以下には「躾(しつけ」「礼」を、中学生には「人格形成」を、高校生には「武の文化」を、大学生には「リリジョンフリーの国・日本の文化」を、そして、大学研究室、学校・職場・道場指導者などの武道専門家には「日本ないし日本武道のアイデンティティ」「世界を平和に導くに普遍的な理念」を、といった形で整えるなどの工夫があってよいのではないでしょうか。
 「武道と日本文化とのかかわり」については、本日論考をしたところです。この点について、気になることは、海外から武道や文化に強い関心を持って日本に来て修行をし、文化を学ぶ人たちの貪欲な努力です。彼等/彼女らの方が、本家本元の日本の武道家に先んじて「日本武道のアイデンティティ」に到達しかねない懸念です。
 先人たちの厳しい修行の積み重ねの上に築かれた「世界平和実現に向けた普遍性のある理念」、その背景をなす「リリジョンフリーの精神環境」、そこから次々に生まれてくる「繊細にして洗練された日本文化」と「自由闊達な発想力と創造力に富んだ日本文化」を、海外の人たちと十分議論し合えるだけの説得力と、いつでも海外に発信できる力とを涵養することとあわせて、自らが、先人達が見出した極意・奥儀を超える心技の開発を目指すことが、いま、日本の武道家に求められているのではないしょうか。
 時間が参りました。以上を持ちましてご報告に代えさせて頂きます。ご清聴有難うございました。以上


 


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2012.01.26

秋入学?

201201192216066fb 大がいきなりぶち上げた「秋入学」構想。野田首相も賛意を表したとの報道がありました。早慶も基本的に同調する姿勢を見せました。
 正直全く理解できません。あえて「全く」と言いましょう。あえて売国行為だ!と言いましょう。あえて極論を述べさせていただきましょう。
 国の最高学府の頂点に立つべき東京大学がこういうことを言い始めたら、もうおしまいですよ。本当に頭がいい人たちというのは困ります。
 そこまでして優秀な留学生がほしいのでしょうか。外国人に頼らなければ東大の復権はありえないのでしょうか。誰のための国立大学なのでしょうか。
 外に頼る前に中身をなんとかしようと考えないのでしょうか。いや、もちろん考えているとは思いますが、それをなんで先にアピールしないのでしょうか。がっかりです。
 たしかに日本の受験文化は特殊であり、国際化とは正反対の価値観にあるとも言えます。
 前も書きましたとおり、この極寒の季節に人生を決する入試を行うのは、たしかに変なことです。どう考えてもおかしい。
 センター試験に雪の影響があること一つとっても、絶対に地域による不平等が生じていますよね。インフルエンザが猛威をふるう最盛期でもあります。もっといい季節に最高の条件で受験させるべきです。
 しかし、しかし、それが崩れなかった理由には、とっても根深い文化的な側面があります。
 厳しい冬を乗り越えて、そして春の萌す頃に合格が決まり、桜咲く頃に入学する。まさに人生の縮図のような体験をするのが、日本文化としての受験です。
 それがたしかに国際的な価値観からするとナンセンスだというのも十分理解できますけれども、やはり日本人が、理論や理屈や科学的見地や経済性をも無視してきた「文化」には、それなりの意味、言葉にはできないかもしれないけれども、もっと深いところでの意義があったのだと信じます。それをいとも簡単に崩すのはどうかと。
 いや、それ以前に、このたびは入試の季節は変えずに入学だけ秋にするところから始めようとしていますよね。それ自体とっても不自然なことです。人生の重要な半年間をどうするんですか。今挙げれられているようなアイデアのためだったら、とんでもないムダな中途半端な期間となってしまいます。最近増えている推薦入試やAO入試で合格してしまうと約1年無駄になりますよ。
 最終的には全てが欧米流になって、秋入学、秋入試、秋卒業、秋入社のようになれば良いと考えているのかもしれませんが、たとえそうだとしても、あまりに自己中心的というか、独善的というか、唐突というか…。
 そうして論議を巻き起こそうとしているというのも分かりますがね。しかし、もう少し「頭の良い」アピールの仕方というのがあるでしょう。がっかりしました。そこに私学の雄や首相までも迎合するこの国の情けなさたるや。
 秋入学文化への社会全体への移行ということになれば、これは国家の大計とすべき重要問題です。一大学の思いつきのような発言に惑わされることなく、国民全体で本質的な論議をしなければなりません。
 個人的に私は「国際化」のブームは去ったと思っています。グローバリゼーションという名の「顔の見えない」専制、中央集権化が進めば進むほど、再び「顔の見える」ローカルの時代が来ると予感しています。
 そういう時代を迎えるからこそ、今は私たちは自国のアイデンティティを守るべきだと考えています。
 時代遅れ、頭の硬い保守と言われようとかまいません。実際には時代の先の先を読み、柔軟に発想していると自負しているからです。


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2012.01.25

三路スイッチ・四路スイッチ…そして脱電力のお話

 日の技術の時間は「3路スイッチ(三路回路)」についてのお勉強。
 皆さんのお宅にもあるのではないでしょうか。階段の上と下で電気をつけたり消したりできるスイッチ。
 ウチの階段にもありますね。ウチのは四路です。つまり、三カ所でつけ消しができるタイプ。
 これっていったいどういう回路になってるんでしょうか。今日は技術の先生がそれを生徒に考えさせました。皆さんも考えてみてください。答えは下にあります。
 四路になるとちょっと難しいですよね。というか、四路スイッチを発明した人は偉い!誰なんだろうか。私は四路は考えてもわからず、答えを見てしまいました。
 技術の先生とも話したんですが、今どきの子どもたちは、たとえばこのようなスイッチがどういう仕組みになっているかなんて、ほとんど考えませんね。
 世の中の機械のほとんどがブラックボックス化していまして、そういう仕組みというものを考えなくても生活することができるようになりましたし、たとえ興味を持ったとしてもそれを確かめる術がないというのも事実です。
 私の子ども時代なんか、まあなんでもかんでも分解してましたからね。それって、つまり「中身はどうなってるんだろう?」とか「どういう仕組みでこうなるんだろう?」とか、そういう興味にかられて、居ても立ってもいられなくなっていたということですよね。
 そして、当時の機械はそれを許す作りでしたね。分解可能でした。今の機械は分解できないようにできていますね。つまり、作った側も修理するつもりがないということでしょう。壊れたら捨てて買い換えると。
 大人がそういう世の中を作ってしまったおかげで、今の子どもたちは「想像力」を失ってしまいました。ウチの学校では、いろいろな意味で「想像力」を育てたいと考えていますので、その一環としてのこの技術の授業です。というか、大人である(すなわち昔の子どもだった)私たち教師の「遊び」という意味合いも多分にありますが(笑)。
 「遊び」には危険も伴います。リスクがなければ「遊び」は成立しません。「遊び」の本質の一つは「危険への挑戦」「未知への挑戦」「想定外への対処」です。そのための最大の武器が「想像力」なのだと思います。
 そうそう、その技術の時間では、「短絡」や「感電」も経験させていましたよ。
 まあそういう「危険」に伴う責任が製造者側に課せられるようになっていますしね、どうしても作る側もそういうリスクを避ける方向に行っちゃいますよね。
 今、いろいろな意味で、「電気」が注目されていますが、考えてみると「電気」自体が得体の知れないものになってしまっています。いや、本来得たいの知れない「モノ」であるはずなのに、ブラックボックスの中でしっかりコントロールできている「コト」であると、我々は勘違いしているのです。
 原発事故なんか、まさにその結末であり、ある意味「もののけ」たる電気、あるいは原子力(核力)、つまり自然の反乱、反撃とも言えなくもありません。
 だいたいですね、この電力社会というのが幻想の産物なんですよ。私も含めて、そこのところに想像力が及ばず、こういう社会に依存して安住してしまった。
 この期に及んで、電気自動車やオール電化とか言っている私たちって…。世の中の自動車が全部電気自動車になったら、いったいどれだけ電力使用量が増えるか。そんなことすら想像できない私たちって(ちなみに原発を新設せずに電気自動車に要する電力を全て火力発電所で補うとすると、肝心の温暖化の問題、化石燃料枯渇の問題も単純には解決しなくなる)。
 今の私たちの使用電力量を半分にするとなると、なにか大変な、ある種原始的な生活に戻るような気がしてしまいますが、実際には1970年代に戻るだけです。あの高度経済成長期の「電力生活」に戻るだけです。
 いや、今では省電力化の技術が進んでいますから、あの頃よりもずっとぜいたくな「電力生活」ができるでしょう。
 そういう意味では、今必要なのは「脱原発」ではなくて、もっと根本的な「脱電力」なんですよね。いや、「脱電力」というよりも「脱過剰電力使用社会」と言った方が正確かな。
 もちろん、一つには私たちの省電力生活化も大事ですけれども、今の電気の垂れ流し状態からの転換を図るために、私のいつも言っている「蓄電」技術の進歩も大切です。大型キャパシタの研究開発に期待します。日本の工業界、逆転の最後の切り札は「蓄電」にあります!
 さて、話がだいぶ逸れたので、最初の問いに戻りましょう。三路スイッチの回路図できましたか?四路をゼロから考えられたとしたら、あなたは天才です!
 では、答えです。

三路スイッチ回路図。

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四路スイッチ回路図。

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2012.01.24

カタカナ社名の語源を楽しむ。

Epsn0013 、国語の授業で「仮名」についてやっております。古文の導入として、まずは日本の文字文化の歴史を学んでいるとでも言いましょうか。私は語学畑の人間なので、どうしてもこういうアプローチになりますね。
 その中で、カタカナの歴史とイメージの変遷の話をしました。その教材(?)の一つが、みんながよく知っているカタカナ表記の会社名の語源です。
 カタカナ社名と言うと、たとえば「パナソニック」なんかも入ってきてしまいますが、今回は「本来漢字標記だったのものをあえてカタカナにした」例を挙げてみました。
 ブリジストンが「石橋」だなんていうのも、今回はオマケで話すだけにしました。地元サンリオの「山梨王」も俗説として教えました。
 けっこう生徒も楽しんでいましたが、おそらくは皆さんにとってもちょっとした「雑学」「トリビア」「話のネタ」になるのではないでしょうか。
 戦前、戦中、戦後とカタカナの地位は大きく変化しました。そのあたりの事情については、授業では話しましたけれども、ここでは割愛させていただきます。
 では、一覧にして御覧いただきましょう。ちなみに山梨限定の会社名もあるので、そのあたりはご容赦ください(笑)。また、一部には「準俗説」や「未確認情報」も含まれていますので、あしからず。順不同。思いつくままに。やっぱり創業者の苗字が多いですね。

ダイエー 大栄
イトーヨーカドー 伊藤羊華堂
グンゼ 郡是
コクヨ 国誉
フコク 富国
ヤマハ 山葉
ホンダ 本田
スズキ 鈴木
ニトリ 似鳥
ツルハ 鶴羽
コメリ 米利
マトモトキヨシ 松本清
ダイドー 大同
セイコー 精工(舎)
クレハ 呉羽
キャノン 観音
サントリー サン(三)鳥居
キムコ 絹子
トクホン 徳本
リンナイ 林&内藤
チノン 茅野
オムロン 御室
カネボウ 鐘紡(鐘ヶ淵紡績)
フジテレビ 富士テレビ
キッコーマン 亀甲萬
イタヤマメディコ 板山
オギノ 荻野
セイフー 青楓
カシオ 樫尾
カンコー 菅公
サンガリア 山河有り
スガキヤ 菅木屋
ゼンリン 善隣
タイトー 太東
テイジン 帝人
ナムコ 中村雅哉(Na M Company)
ミツカン 三勘
ヤオハン 八百半
リコー 理光(理研光学)
ワコール 和江
ヤマト 大和
ベイシア べ(bene)伊勢屋
シダックス 志太
ミノルタ 稔る田(の意味もかけている)

 どうですか。楽しいですね。ところで、調べている中で意外だったのは「富士通」ですね。これはある意味逆のプロセスを踏んでいる。
 「富士」の漢字は後付けなんですね。もとは「フジ」。古河の「フ」とジーメンスの「ジ」だそうです。へ〜ぇ。
 ちなみに少数派である「ひらがな」では「しまむら」は「島村」さんですね。


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2012.01.23

神酒 『靖国』

Img_4381 して私は単純な「右」ではありませんので、そこんとこ世露死苦…とめちゃくちゃな始まり方ですが、気にしないでください(笑)。いろいろ事情があるのです。
 まずは世露死苦などという不謹慎な文字を書いたのは、今日授業で「万葉仮名」の勉強をした時にネタで使ったのと、昨日靖国でそういう人たちを見かけたからです。
 街宣車も数台いましたが、それより昨日はいわゆる暴走族の方々が大挙参拝されていて驚きました。皆さん、菊の御紋やら世露死苦などを背負っておりました。東京には今どきでもこういう人たちがいるんだ。
 で、数台いた街宣車もそうですが、彼ら靖国神社ではとっても静かなんですよね。バイクもエンジンかけてましたが、一生懸命アイドリング状態でソロソロと移動しておりました。
 そして、参拝を終えて神田方面に走っていきましたが、信号二つほど進行したところで、本来の豪快かつけたたましいエンジン音を響かせておりました。なるほど空気読んでるな(笑)。
 というわけで、日本の文化というのは面白いなと思いながら、そうした光景を見ておりました。それで、冒頭のような表現になったわけです。
 さてさて、ワタクシはどうして靖国に行ったのか。そう、ここのところ2週続けて靖国神社に参拝する機会がありましたよね。もしかしてこの人(ワタクシ)そういう人なのか?
 いえいえ、たまたま近くを通ったからです。日本人として、というよりも人間として、近くを通りながら参拝しないというわけにはいきません。
 政治的なことや信条的なことはどうでもいいのです。ある意味歴史もどうでもいい。その歴史とはまさに政治と信条と多分に個人的な心情によって捏造されたものだからです。
 ただ、戦争で亡くなった方がたくさんいるということは誰もが認めざるを得ない事実です。そういう意味では戦犯と言われる人たちも同じです。戦争がなければ戦犯も存在しません。罪を憎んで人を憎まず。
 さて、それはそれとしまして、今日の私の参拝目的の一つは、前から気になっていた「神酒」を購入することでした。ご存知ですか、境内で販売されているお神酒。
 桜の形と色を模した素敵な瓶に入った純米酒です。これがほしかったんですよ。
 まあ、日本酒好きとしてどんな味か味わってみたいというのもありましたけれども、それよりもやはり、この瓶がほしかった。
 300mlで御納めする浄財は1000円ですから、お酒としてはちょっと高めですけども、この瓶が手に入るとなればお安いものです。
 そう、私はですね、いつも買っている紙パックの純米酒をこの瓶に移し替えて呑みたかったのです。まあ、実はただそれだけ(笑)。
 ちなみにこのお神酒ですが、飲んでみると非常にあっさりした味であることが分かります。ちょっと驚くほどに淡麗というか、ある意味澄んだ水のようなお酒です。
 調べてみると、この中身は、あの「澤乃井」の小澤酒造さんの「純米本地酒」のようですね。「澤乃井」と言えば東京を代表する地酒の銘柄です。東京西部に行くと看板をよく見かけますね。会社は青梅にあります。
 さて、このお酒を入手した私は、靖国神社と書かれたカワイイ(娘もほしがっていた)袋を提げて、神保町の、ある意味思想的には正反対の団体のビルの前をうろちょろ(笑)。
Img_4379 その後、昨年3.11で悲しい事故があり、その結果皮肉なことにその長い役目を終えようとしている九段会館(軍人会館)に呼ばれるがままに向かいました。
 そして、写真を撮っていたところ、急に左胸の痛みを感じ苦しくなってしまったので、急いで帰宅の途につきました。
 あまりに多くの歴史を抱えた会館です。様々な人々の人生を翻弄したとも言えます。思えば出口王仁三郎の昭和神聖会の発足もここ九段会館(軍人会館)からでしたね。
 いろいろな「モノ」と感応したのでしょうか。富士山に帰り着き神酒をいただいて、ようやくホッとしました。

靖国神社公式

澤乃井 Web
 

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2012.01.22

崎川晶子 『アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳』

Refdp_image_0 昨日、クリスティーネ・ショルンスハイムを紹介しましたが、彼女と同様に、チェンバロとフォルテピアノ、さらにはクラヴィコードなどを弾きこなす日本人女性演奏家と言えば、この崎川晶子さんを第一に挙げなければなりません。
 今日はそんな尊敬すべき崎川さんのお宅におじゃまして、2月12日に行われるコンサートの練習をしてまいりました。
 まったく、私のような者が崎川さんのフォルテピアノ(こちらで紹介されている楽器です)の伴奏をさせていただくなんて、まあ信じられないというか、幸せというか、申し訳ないというか…。つくづく音楽を、楽器を続けてきて良かったと思います。
 ふだんあまり古典派を演奏しない私にとってはある種の挑戦でもあり、また勉強や成長の機会だと思っています。
 バロックに関しては、私なりにその「言葉」が体にしみついていると自負しておりますが、こうして時代が変わると、突然知らない言語で話をしなくてはならないような感じになります。それも、ここのところヴィオラばかり弾いていたのに、今回は全部ヴァイオリンですからなおさらです。
 そんなわけで、珍しく毎日練習をしているのを見て、家族は驚いております(苦笑)。
 その点、崎川さんはショルンスハイムと同様に、古典派以降の言葉も学びつつ、それをバロックに還元しているわけですね。やはり連続する他の世界を学ぶことは、その本体にとってもとても重要なことです。実はそこにこそ、私たち現代人がいわゆる古典芸術を再生(再創造)する意義と価値があるのだと、最近理解しました。
 この最新録音、「アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳」は、まさにそうした成果の粋であると感じました。レコード芸術2011年9月号において特選盤に選ばれたのも納得です(こちらのレビュー参照)。
 先日亡くなったグスタフ・レオンハルトらによる古典的な名盤以降、なかなかこれだという録音がなかったというのは事実ですね。あまりに有名な作品を含み、またある意味子どもでも弾きこなせる曲が多いということが、その主要な原因だったと思います。これを乗り越えるのは実はプロには難しいことだったりするのです。
 そういう意味では、崎川さんのこの新盤はまさに決定盤的であると言っていいでしょう。今日も見事なモーツァルトのコンチェルトのソロを生で聴きながら伴奏させていただきましたが、やはり、そうした時代的な、また楽器的な幅広さと、そしてなんと言っても真摯でありながら柔軟なお人柄による偉業なのでしょうね。見事な「バロック」の表現になっていると感じます。
 そう、もう一つ、崎川さんがフランスで学んだということも大切なポイントかもしれません。バッハ自身はもちろん、当時のドイツではフランス志向が強くありましたからね。フランスの音楽や言語を知ることは、ドイツバロック音楽を演奏するにあたって、実はとても重要な要素だと思います。
 そうしたフランス的な優雅さやエスプリのようなものが、この音楽帳の内容と見事に調和しているのです。特に音符の数の少ない曲(子どもでも弾ける曲)において、その「間」を埋めるのは、そうしたある種の「豊かさ」であるべきで、それはたぶん、バッハ自身が憧れた部分であっと想像されます。バッハはそれが苦手で、やたら音符を詰め込んじゃいましたからね(笑)。
 私も、今回のチャンス(ある意味ピンチ?)を活かして、大いに勉強させていただきます。そして、できるかぎり生命力に満ちた音楽を創造できるよう頑張ります。
 このたびの共演も不思議な縁のなせるわざですけれども、実は崎川さんからさらにもう一つ広がりそうなのです。本当に音楽というのは面白い。やめられませんね。

Amazon アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳

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2012.01.21

『舟を編む』 三浦しをん (光文社)

20120122_75726 週、ふらっと神保町に行った時に買った本。買った後、これまたふらっと後楽園まで歩いていったんですよね。
 そこでこの本を読み出したら、まんま神保町やら水道橋やらが舞台になっているのでビックリ。まあ、考えてみれば出版社の話ですからね。
 さあ、ほとんど現代小説というのを読まない私が、この作品についてどういう感想を持ったか。小説という特殊なジャンルの時代はとっくに終わっていると豪語している(?)私に、そのアナクロな世界はどう響いたのか。
 結論から言いますと、やっぱりこれが「小説」というメディアで発せられるべき情報ではないなと思いました。もちろん、面白かったし、なんとなく懐かしい感じもしましたから、別に不快というわけではなかったのですが、しかし、この内容ならば、やはり現代ならマンガやドラマ、そして映画というジャンルで発せられた方がより効果的ですし、多くの人に受け入れられたかもしれませんね。
 別に小説世界や、いわゆる文学をバカにしているではありません。いちおう日本語の世界を教えることを生業にしていますから、ある意味では人一倍そういう世界を大切にしてきたとも言えます。しかし、逆にその世界だけ特別視する気持ちはさらさらありません。文学を神聖化したくないんですね。その弱点もしっかり把握していたいわけです。
 そういう意味では、作者のそれなりの筆力をもってしても、やはり現代のメディアたち、特に視角を伴った言語世界にはかなわないなと思いました。
 正直、なんとか読了できたのは、この「辞書編纂」の世界が私の興味対象分野の一つであったおかげです。これが別の仕事の話だったら、今まで同様途中で投げ出していたことでしょう。
 ちょっと話が逸れますが、小説に限らず、マンガもドラマも映画もですねえ、「どの仕事を描くか」が勝負になってしまいましたね。
 適度に身近で適度にマニアックという、いわば「盲点」探しの時点で勝負が決するということです。
 実は「小説」が幸福だった時代というのは、「仕事」を通じて「人間」を描くということはあんまりなかったと思うんです。もっと誰しもが実感的に共有できる「実生活」の中に表現があった。
 それができなくなってしまった時点で小説(私小説?)の時代は終わったと感じているのです。
 ですから、この作品で言えば、辞書編纂という仕事を知るという意味では成功しているけれども、そこから「人間」を描くということでは、結局「よくあるレベル」…たとえばマンガやドラマのレベル…で終わってしまっているわけです。
 私は文学(小説)の力はそんなものではないと信じたいのです。
 いや、割り切ってしまって、マンガやドラマと同じようなエンターテインメント、あるいはトリビア的な、または「あるある」的なものだと思えば、この作品はお金を払っただけの価値はあったとも言えます。それなりの時間を過ごさせてもらいましたからね。
 今はそれでいいんでしょうか。あるいは三浦しをんだからでしょうか。もっと深くて、しかし大衆性を失わない「現代文学」「現代小説」というものがあるのでしょうか。
 では、最近発表された芥川賞作品でも読んでみましょうかね。
 それとも、自分で小説書いてみましょうかね(笑)。
 私はどちらかというと、小説を書くより、辞書を編纂する方が楽しそうだなあ。
 その辞書編纂の話もいろいろ書きたいのですが、それは後日別のネタで。

Amazon 舟を編む


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2012.01.20

クリスティーネ・ショルンスハイム 『J.S. バッハ:平均律クラヴィーア曲集』

20120120_224542 日追悼記事を書いたグスタフ・レオンハルトの薫陶を受けた鍵盤奏者の一人、ドイツのクリスティーネ・ショルンスハイムの平均率全曲集が発売になります。
 発売を前にナクソス・ミュージック・ライブラリーで聴きました。ここのところ、あまり心に残る平均率の演奏がなかったのですが、久しぶりに静かな興奮を覚える録音に出会うことができました。
 ショルンスハイムの演奏は、私はかなり昔から聴いてきました。昔CDマニアだった頃、ドイツのマイナー・レーベル「Capriccio」をけっこう集めていまして、若かりし頃の彼女のチェンバロ演奏やオルガン演奏に触れていたんです。
 通奏低音も含めて、非常に正統的な演奏をするなと思っていましたから、もしかすると、この平均率もある意味ドイツらしい堅苦しい演奏になるかなと思っていたんですよね。
 そうしたら、まあたしかに正統的ではありますが、しかし一方で大胆なアプローチもあり、非常にバランスの良い生き生きとした演奏になっていたので、ちょっと意外な感じさえしました。
 これは私の勝手な想像ですが、彼女の演奏の基本的なところにはレオンハルトの影響があり、表面的な部分というかある種現代的な部分には、コープマンやシュタイアーの影響があるように思います。
 また、最近盛んに演奏しているフォルテピアノによる古典派からのフィードバックもあるのかなあ。
 新鮮に聞こえる要因の一つに楽譜の解釈という学問的な部分もあるように感じます。冒頭の有名なハ長調プレリュードやフーガを最後まで聴くと、もう私の言うところが分かると思います。
 そして、一番驚いたのは、これです。これまた有名な第一巻掉尾のロ短調プレリュード。ある意味伝説となっている(?)私のマトリョミン(テルミン)などによる演奏よりも過激かもしれない。この名曲にこれほどまでに装飾、変形、誇張を加えた演奏は初めて聴きました。「女の覚悟と勇気」に拍手。
 せっかくですから、特別に(ナイショで)お聞かせします。こちらをクリックしてください。かっこいいですよ。
 ところで、この録音に使われている楽器は、コルマールにあるウンターリンデン美術館所蔵のリュッカース・チェンバロです。1624年に製作されたオリジナル。彼女はこの楽器に関してこう語っています。
 「私が知っている最も美しい楽器であり、魅惑的な音色を持っています。そして控え目な外見で現実的。暖かくよく歌う楽器です。バッハの対位法音楽にとって不可欠な全ての要素を持ち合わせています」
 録音で聴いてもこの楽器の素晴らしさは充分分かります。レコーディング技術も高いのでしょうね。
 そうそう、YouTubeにこの楽器と平均率に関する彼女のインタビューがありましたのでどうぞ。演奏も少し聴けますし観られます。この演奏がいかに楽器からインスパイアされて成立したか想像できますよ。

 ショルンスハイムさん、最近東京藝術大学の特任教授か何かになったと聞きました。一昨年、昨年には日本でも平均率全曲演奏会を催していましたね。今後日本でも彼女のファンは増えていきそうです。

Amazon BACH, J.S.: Well-Tempered Clavier , Books 1 and 2 (Schornsheim)

NMLで聴く


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2012.01.19

追悼 グスタフ・レオンハルト…映画『Chronik der Anna Magdalena Bach』

 の音楽人生に多大な影響を与えた「神」、グスタフ・レオンハルトさんがお亡くなりになりました。本当に残念です。
 彼の多くのレコードによって古楽に目覚めた私が、衝撃を受け大興奮をした映画を、久し振りに観賞して、冥福を祈りたいと思います。
 この映画「アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記 (公開時「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」)」を観たのは、たぶん1984年くらいだったと思います。どこでどういうメディアで観たのか記憶はないのですが、その感動は今でも忘れません。誰かにビデオを見せてもらったのかなあ。それとも劇場で観たのかなあ。
 いずれにせよ、あまり古楽器演奏の映像に触れる機会のなかった当時としては、非常に刺激的で貴重な体験であったと思います。
 ただの古楽演奏記録映画ではないですからね。バッハのクロニクルであり、現代の名演奏家たちがバロック時代の楽器、舞台、そして扮装で、往時を忠実に再現しているのです。もちろん主人公バッハは油の乗り切ったレオンハルトが演じています。
 もちろん、現代の古楽演奏に比べれば、この映画が製作された1967年当時の演奏は、ある意味精度が低かったり、ある種の間違いもあったりするわけですが、なぜか今どきの演奏よりも感動を催すんですよね。なんなんでしょうか。
 きっと、そこに「発見」の喜びや興奮があったからでしょう。先駆者たちのエネルギーに満ちていると思います。
 マニアックな映画ファンには、ストローブ&ユイレの監督作品としてもたまらない魅力がありますね。ある意味斬新というか、久々に観ると、このスタイルでこの感動的な作品を作ってしまうのだから、おそるべしです。結局はバッハの音楽を「映画」が邪魔していないということでしょうかね。これって大変なことです。
 この映画に刺激され、この頃から私はグレゴリオ音楽院でアンサンブルを習い、都留音楽祭でスタッフを務めるようになり、どんどん人脈が広がり、そして今に至っています。
 この映画で演奏されている曲もずいぶんと自ら演奏する機会を得ました。そして、3月にはとうとうマタイ受難曲をオリジナル楽器で演奏します。こんな日が来ようとは…夢のようですね。
 これも本当にグスタフ・レオンハルトさんのおかげです。ありがとう心の師匠。安らかにお眠り下さい。そして、天国でもバッハを演奏し続けて下さい。

Amazon アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記 (公開題「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」

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2012.01.18

フユユスリカ(的人生?)

20120119_90509 のクソ寒いのに(朝はマイナス10度)学校の庭に虫が大量発生しているというので見に行ったら、たしかに蚊のような虫が群れをなして飛んでいました。
 夏の河川敷などでは時々見られる、いわゆる「蚊柱」です。
 さすがにこの季節にこれはおかしいだろ、もしかして地震でも起きるのでは…なんて思いまして、さっそく調べてみたら、まあビックリ。別に異常なことではなかった。いや、ある意味これは普通じゃない虫だった…。
 この「蚊」はいわゆる「ユスリカ(揺蚊)」の一種であり、それも冬に発生する「フユユスリカ」だそうです。まあ、なんで好んでこの季節に出てくるかな…。
 まず、今まであまり見たことのない冬の蚊柱という現象が起きたのかですが、これはどうも昨年の3.11の大地震が影響しているようです。
 このユスリカはきれいな水が豊富にあるところに大量発生するんだそうです。そう、水と言えば、本校の母体になっているお寺の山号が「水上山」であることからも分かるとおり、学校のすぐ横に大きな池があるんですね。
 フジファブリックの志村正彦くんがよく遊んだ池、太宰治の作品にも登場するあの池です。
 この池は、いわゆる富士山の湧水です。池の横の坂は、つまり富士山から流れ出た溶岩流の先端部分でして、そこから地下水が湧き出しているというわけです。
 いつごろからでしょうかね、20年くらい前からだと思いますが、どういうわけかその湧水量が減ってしまっていました。富士山地下のことですから、何が起きているのか分かりませんが、私たちの見えない所で動きがあったのです。
 そのため、しばらくは枯れ池になってしまっていたのを、水道から水を流し込んで、なんとか往時の風情をとどめようとしていたわけですが、残念ながらあまり池水はきれいではなくなっていました。
 そこにあの大地震です。生徒曰く、池で津波が起きていたそうです。たしかにありえますね。そう言えば西湖でも津波が起きていましたよね。
 で、その後、富士山での地震などもあって、また目に見えない所で大きな地殻変動が起きたのでしょう、急に湧水量が増えたのです。富士宮など南麓の湧水も、被害が出るほど増えましたよね。実は北麓でもそうだったのです。
 その結果久しぶりに池の水が適度にきれいになりました。そして、ユスリカが帰ってきたということですね。
 このフユユスリカについて調べてみたら、ちょっと感動しちゃいましたよ。
 あの蚊柱ですけど、あの中にはメスは1匹しかいないんだそうです。あとは全部オス。つまり一人の女を巡っての戦いが繰り広げられてるんですね。知らなかった。
 そしてそして、ユスリカたちは成虫になると1日で死んでしまうんだそうです。つまり、ああやって交尾の機会をうかがい、運良く叶えられると、いや叶えられなくても死んでしまう。メスも産卵するとすぐ死んでしまうらしい。
 だから成虫はものを食べる必要がないため、口や消化器官は退化してしまっているそうです。すごい…。
 というわけで、「フユユスリカ(的人生)」というタイトルで書き始めたんですけど、これをどうやって人間の人生にあてはめるか…なんだかちょっと無理があるし、考えたくないような気が…(笑)。
 まあ、なんというか、そうやって種を保存継続してきたわけで、それはそれでおそらくものすごく充実した人生なのではないか…妙にまどろっこしく、またある意味無駄な時間もたくさんあり、何を食べようか迷っているような人間こそ、自然界では変な生き物なのでしょうね。
 それにしても、なんでこの「フユ」を選んだのかなあ。なんでも冬眠ならぬ「夏眠」をするそうです。ううむ、自然界は奥深い。人間の常識でははかれないなあ。


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2012.01.17

南方熊楠 『土宜法竜宛書簡』より〜「モノ・コト論」

20061013235545 ンター試験も終わり、高校生は国立二次対策、そして私大の一般入試の対策に入りました。ここからがある意味私の腕の見せ所…かな。
 あっそうそう、おととい紹介した今年のセンターの小説問題、ウチの中学2年生に解かせてみました。もちろんなんの対策もせずに。あえて言えば、ウチは出口汪先生の論理エンジンをやってるので、かなり論理的読解力はあると思いますが。
 結果は、当然ながらピンからキリ。ちゃんと選択肢を部分部分にわけ、それぞれ○△╳をつけている生徒もいれば、ロト6式に5分で終わっちゃってるのもいました。しかし、結果としてはみんなあんまり大差ない点になってしまいました。現役の高校生(受験生)ともあまり変わらない現実(苦笑)。
 ちなみに最高点は39点二人でした。立派ですね。
 つまりそういう試験なのであります。センターの国語の小説なんて。
 さて、今日はまた違った意味で「難しい」早稲田の国語のお話。というか、別に早稲田大学の問題についてうんぬんするわけではありません。極私的な動機です。
 私の「モノ・コト論」、なかなか賛同者が現れない(すなわちアヤシイ)わけですけど、実は一見似たようなことを言っている過去の偉人がいるんです。
 その文章が2008年の早稲田の文化構想学部の試験に出ていたんです。実はそれについては、当時、こちらの記事で紹介しています。
 今日はその中から、南方熊楠自身の書簡の部分を紹介します。この書簡の前に、この書簡の内容を紹介している中沢新一さんの「森のバロック」の一部が載っているんですが、それは著作権の問題もあるので割愛。熊楠の方だけ紹介します。たぶん本文は歴史的仮名遣いだと思われますが、ここはテストの本文と同様に現代仮名遣いにしておきます。
 


 電気が光を放ち、光が熱を与うるごときは、物ばかりのはたらきなり。今、心がその望欲をもて手をつかい物を動かし、火を焚いて体を暖むるごときより、石を築いて長城となし、木をけずりて大堂を建つるごときは、心界が物界とまじわりて初めて生ずるはたらきなり。電気、光等の心なきものがするはたらきとは異なり、この心界が物界とまじわりて生ずる事ということにはそれそれ因果のあることと知らる。その事の条理を知りたきことなり。今の学者、ただ箇々のこの心この物について論究するばかりなり。小生は何とぞ心と物とがまじわりて生ずる事によりて究め、心界と物界とはいかにして相異に、いかにして相同じきところあるかを知りたきなり。
 科学のみで今日まで知られたところでは、輪廻ということはたしかにあるごときも、科学のさわること能わざる心界に輪廻行わるるや否やという問いには、実に答えに苦しむ。何となれば、小生今日悪念を生じたりとて明日別にこれがために懊悩せず。多くは忘れ終わるものなり。されば物界に生ずる、これこれの水をこれこれの温度にたけば、これこれの蒸気を生じてこれこれの大いさの物を動かすというとは異なり、心界に生ずる現象はあるいはつねに報あらぬものにやとも思わる。これをきわむるには、小生一人の心できわむるよりほか仕方ないが、右に申すごとく、心界中のみには輪廻ということは、たしかに小生には見えぬ。
 すなわち石が墜ちて瓶にあたれば、石が因となりて瓶を破るように、今日小生善を思いたればとて、別に思うただけの報を思うものにあらず。また悪念を起こせりとて、別に後日これがため悪事を念うということもなく、ただ一座なりのようにも思う。ただ心界に感ずる因縁応報というは、心界が物界に接して作用(事)を生ぜし上のことで始めてあらわるるものと思う。すなわち小生が人の物ぬすむは、小生の心が手をつかいて物をぬすむという作用を現出するなり。その返報としては、あるいは小生が人(小生より見れば物)でどやさるること等あるべし。この物心両界が事を結成してのち始めてその果を心に感じ、したがってその感じがまた後々の事の因となりなり。

 熊楠の「事は心と物がまじわるところに生まれる」という基本的な考え方は、私の「モノ・コト論」とは一見似ていますが、実は非なるものです。
 つまり、私は「心」というか、人間の「認知」こそが「事」そのものであるととらえているんです。目に映り、心に感じた時点で「物」は「事」になるということです。
 今年のセンター評論で言えば、「私」が認知している世界も全て「私(コト)」の一部であり、その他補集合は全て「他者(モノ)」であるということになります。
 だからどうなんだと言われると困ってしまうわけですけど、とにかくそれがお釈迦様が悟った、この世の中の唯一真理(マコト)であるということです。
 そして、その「モノ」と「コト」という言葉の意味と、それに基づく世界の構造を語誌的に証明しようとしているのが、私の「モノ・コト論」だということですね。
 熊楠の書簡の後半部分は、ある意味、あの当時のオカルトブームを想起させますね。そして、因縁応報(因果応報)については、ちょっと考えが浅い気がします(笑)。悪念を抱いた報いが、必ずしもすぐに「罰」として現れるはずありません。もっと超時的、超世代的に応報するものです。

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2012.01.16

iPod nano (第6世代)

20120117_162607 日は上の娘の誕生日。もう12歳か。早いものです。
 そして、彼女は今年の春から私の勤める中学・高校に入学します。6年も一緒に登下校するというわけです(笑)。
 そんなに嫌がれていないようなので、ちょっと嬉しかったりしますね。ま、これから父娘の関係がどうなっていくのか分かりませんが。
 と、そんなわけで、祖母から誕生日+合格祝いにこれを買ってもらいました。iPod nanoです。
 届いてすぐにどんどん使いこなしている娘を見ると、まあ今どきの若いもんはすごいなというのと、Appleの製品もまたすごいなということを感じますね。
 もちろん、娘たちは両親のiPhoneをしょっちゅういじっており、そのユーザーインターフェイスには慣れていたわけですが、それにしても子どもが理屈抜きにすぐに使いこなせるというのは、まさにジョブズの考えた「縁」創造空間へのアクセシビリティの高さを表しているでしょう。
 ただ、このiPod nano第6世代に対しては、小さすぎるとの意見もありますよね。たしかに大人、特に大柄で指の太い欧米人男性にはきついかな。さらにディスプレイも小さいわけですから、老眼世代にはつらいかも。
 ちなみにウチでは、iPod nano3台目です。今まで、第2世代と第3世代を使ってきました。これらはMacを買った時についてきたもので、特に買いたくて買ったわけではありませんでした。
 それら及びその後の4、5世代とは大きく変わって、この第6世代はあの独特のクリックホイールを持っていません。あれはあれで便利だったんですけどね。
 まあ子どもにとってはどちらも同じような使い勝手のようですが。私たちアナログ世代からすると、ああいうクリック感というのは忘れがたいんですよね。iPhoneももっとクリック感があるといいな、安心できるなと思ってしまいます。
 そしてこれも勝手な意見ですけど、物としての質感というか、実在感、存在感、そういうことで考えると、やはり小さすぎるような気がします。あの第2世代の感じはとても良かった。昔、こちらにも書いたとおり、おいしそうな質感でした。それに比べるとちょっと味わいに欠けるかもしれません。
 まあそれでも子どものおもちゃとしてはぜいたくすぎるシロモノですね。娘が何を聴いてるかと思えば…全部アニソンでした(笑)。すっかりオタク気質が遺伝してしまったようで、ちょっと困ってます(笑)。

iPod nano 公式

Amazon iPod nano


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2012.01.15

たま虫色? (2012 センター試験 国語…小説)

20120117_111719 て、センターの小説です。
 まず最初に、昨年の記事の復習をしましょう。こちらです。自分で言うのもなんですが、なかなか本質的な問題を突いてますね。もちろん、私の考え方は今年も変わっていません。コメントくださった皆さんの意見も貴重です。
 繰り返しますが、大学入試には「小説」の問題を出すべきではありません。そして、文学鑑賞や創作は「国語」ではなく「芸術科目」として「音楽」や「美術」や「書道」と並べてやるべきです。以上。
 …と、ここで終わるわけにはいかないので、以下今年の問題の感想などを。
 そうそう、去年の私の咆哮にも多少の効果はあったのでしょうかね。「もし小説の問題を出すならば、短編を丸ごと出してほしい」と書いたら、まあ今年は井伏鱒二の短編小説全文が出たじゃないですか!ww
 うん、やっぱり言うべきことはちゃんと言うべきだな(と、自分の手柄にしている…笑)。
 実際これは結構なことでした。昨年書いたように、出題者の脳内と受験者の脳内の情報領域がなるべく一致していた方がいいですからね。
 しかしですね、やっぱり小説の問題は難しい。というか、小説を問題にするのは難しい。出題者の苦労のあとが見て取れます。だから、どうせなら出さない方がいい。百害あって一利なしとは申しませんが、一害って一利なしなことで人生を左右したく(されたく)ありません。
 この「たま虫を見る」、なかなかいい小説だと思いますが、こうしてテストされて情報として読んでしまうと、その魅力が半減してしまいます。井伏さんにも申し訳ないですよ。
 問題としてではなく、ぜひ小説として読んでみてください。問題はこちら
 さて、問で問題視されそうなのは、問3、問4、問5でしょうか。たしかに情報処理としては面倒です。
 しかし、受験テクニック的に言えば(あくまで自己流ですが)、たとえば問3は動詞を中心に注目して、傍線部の「吐息をついたり」「相手をとがめる」に相当する部分を検証すれば、それほど難しくないでしょう。選択肢5の「落胆し」「非難する」が正解です。
 問4も選択肢全体を読むとニセ情報に混乱するので、最後のところだけ読みます。傍線部の「泣き顔」が次のどれなのか。「情けなさ」「悔しさ」「無力さ」「ふがいなさ」「寂しさ」。その判断のためにそれぞれの感情を修飾する部分を下から読んでいきます。日本語の記述方法(語順)と我々の思索(認識)過程は一致しないことが多いのです。
 問5は悪問ですね。答えがありません(笑)。本文のこの部分、素直に読むならば、二ヶ所の「人を押しのけ」は同じ意味と取るべきでしょう。さらに言えば、傍線部前の「(人々は)私を後ろにおしのけ」を受けての比喩的表現でしょうから(「おし」と「押し」の違いは無視…苦笑)、そういう観点で選択肢を見ていきます。で、正解にたどりつければ、これは問題のない問題なのですけど…どうしても絞れません。
 あえて言うなら、最終段落で牧師になる算段をしているので、それが「私」の新たな行動だとするなら、まあ正解3の「自分の立場も守らなければならない」になるのかなあ。その程度の「押しのけ」と「割り込み」だったというのがオチなわけですから(たぶん)。
 まさに「玉虫色」な問題ですな(笑)。
 いずれにせよ、20分程度でここまでいろいろ妄想するのは大変です。
 古文は、これまたおととしの記事が効いたのか、ずいぶんと文章が短くなった上に、勉強したことが活かされる問題になってきました。漢文とのバランスがよくなったと思います。
 全体として、センター試験国語は改善の方向には進んでいます。しかし根本的な問題点は解決されそうにないですね。頑張れ、全国の国語科教師たちよ。

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2012.01.14

相変わらず選択肢の日本語に難あり。(2012 センター試験 国語…評論)

20120117_101845 んだか忙しくて(人と会って話をする機会が多くて)、今年はとっても遅いレビューになってしまいました。
 センター試験と私の距離も、以前に比べると少し遠くなったような気がします。ですから、正直センターを解くことが優先事項とはなりません。まあ、中学の仕事が中心ですから仕方ありませんね。なんとなく寂しいような気もします。
 しかし!昨年もこんなふうにに吠えまくっていますからね、今年も期待されてこちらを訪問してくださった方が多数いらっしゃるようです。何か少しは書かねば。
 そうそう、昨年の記事には実にありがたいコメントがたくさん付いたのですが、あの最後の「某」さん、お元気でしょうか?まあ「二度とここを覗くことはない。読む価値なし!」と断言していますから、ご挨拶しても意味ありませんが(笑)。
 ということで、今日は評論について(問題はこちら)。う〜む、今年はあんまり噛みつき所がないなあ。つまり、まあまあ良問だったということです。丁寧に読み込み、抽象的な言葉を感覚に落とし込んでいけば満点取れるでしょう。
 本文は人間の自己意識、「私」の特異性に関する内容。これは、まんま私の「モノ・コト論」なので理解しやすかった。そう、この「モノ・コト論」を身につけてしまうと、いろいろな文章や世の中の面倒な仕組みなどが理解しやすくなりますよ。
 つまり、自己意識=コトであり、その他全てがモノだという考え方です。前半で言えば、「個体」がコトで「環境」がモノ。
 で、お釈迦様のように真理をつきつめていくと、その「コト」がですね、筆者の木村さんがおっしゃるとおり、内部(領域)を失っていって、しまいには「点」になってしまう。そうすると点自身が境界線になるとも言えるし、境界線がなくなるとも言える。それが自他不二ですね。
 ま、これを読みながらこんなことを考えているのは「モノ・コト教」の教組、私だけでしょうが(笑)。いや、この本文のように小難しい言葉で表現されている「コト」は実はとってもシンプルな「モノ」なんですよね。
 まあ、それはいいとして、一つ苦言を呈するとすれば、昨年と同様に、選択肢の日本語がへんちくりんで混乱するというのがありましたね。
 たとえばこのブログなんか、まあ全く推敲せず(再読すらせず)に書き散らしていますから、それこそ誤字脱字やら論理的なねじれとか当たり前にありますけどね、しかし、こっちは何十万人もの人生がかかっているセンター試験ですからね。
 問2の選択肢全体のことです。五つの選択肢全てが、「ある個体にとって、〜に加え、〜もまた環境の一部となること」という形になってますね。
 この問題は筆者独自の考え「(自然など一般的な環境だけでなく)他の個体も環境の一部」を把握させる意図があるわけですが、選択肢の「〜に加え」が多義的であるために、ちょっと最初勘違いをしてしまいました。
 つまり、私は最初「〜に加え」を単純に「答=○+△」の「+」だと思ってしまったわけです。お分かりになりますか?だから、○の部分に「自然」が出てくる選択肢4と5をはじめ排除してしまったわけです。だって、正答の根本的な条件に反しているから。
 しかし、他の選択肢があまりにも変だったので昨年の記憶が蘇ったのでしょうね。待てよ、この「〜に加え」は「(○だけでなく)」、あるいは「(○なみならず)」という意味であり、傍線部Aの中には直接含まれない成分なのか、傍線部Aの言外、すなわち傍線部以前に述べられていた内容を受けているのか、とやっと気づきました。それまでに数分かかったのでは。
 昨年も結局、あの選択肢の日本語が曖昧であって、いろいろ解釈ができてしまう文だったわけですよね。結果として分かればいいじゃん!とも言えましょうが、やはり大規模な客観テストなんですから、あらゆる読者(受験者)の視点で文を推敲、校正するべきでありましょう。
 相変わらずこんな日本語を読まされる受験生は大変であります。木村さんの文も、もう少し分かりやすく書けるのでは。書き直してみようかな。
 明日は小説などについて。


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2012.01.13

想像力と倫理

20120114_75327 日のBSフジプライムニュースに、哲学者、環境倫理学者の加藤尚武さんが出演されていました。
 氏の環境倫理学の本は何冊か読んだことがあります。何が書いてあったか全く覚えていないので(笑)、このブログに書いたであろう記事で思い出そうと思ったのですが、検索してみたらありませんでした。
 あっそうか、たしか高校入試の問題で使ったので、それで記事にしなかったんだ。記事見ると何が出るか分かっちゃいますからね。たしかにこれは倫理的に許されませんな。
 その代わりに「子育ての倫理学 少年犯罪の深層から考える」という本の記事が出てきました。これもまた読んだことすら覚えておらず、またこんな記事を書いたことも全く覚えていないという、非常に情けない事実(苦笑)。やはりこのブログは個人的な備忘録としても機能しておりますな。
 さてさて、今日の加藤さんのお話、原発問題を哲学で斬る!ということで、なかなか興味深い内容でした(哲学というより倫理学でしたけど)。しばらくはこちらで見られますのでぜひどうぞ。13日分の後半の方です。
 このムービーに採用されなかった「確率」と「期待値」の話も面白かったですよ。科学の限界の一端を示す話だと思いました。
 すなわち…「1/1万×1/1万=1/1億」という確率計算から原発は安全だと言われてきた。しかし、それぞれの1/1万は独立事象に関することである。しかし独立事象というのは理論上のことであり、現実にはありえない。特に地震や津波による原発事故の場合、それぞれのシステムが「独立」であることはありえない…と。
 また…「10年に1回、10億円の損害」と「100年に1回、100億円の損害」というのは、期待値的には同じだが、我々の生活感、倫理観からすると全く違う…と。
 この話を聴きながら再確認しましたね。数学が象徴するように、科学は人間の想像力(感情)を排除するところから始まるんだなと。
 つまり、基本的に顔が見えないんですよ、人間の。ここのところ何回か書いてきたと思いますが、私たちは相手の顔が見えないと倫理を失います。
 たとえば、今回ですね、こういう事故が起きて、自分や自分の子どもが被曝すると、これだけ大きな騒ぎになる。これは当然です。
 しかし、加藤さんも言うとおり、核廃棄物が自然状態に還るには10万年かかるわけで、じゃあ、それに対しては我々は「感情的」「倫理的」になるかというと、まったくならないわけですね。
 ずばり言ってしまうと、私なんかも、自分の娘たちの将来、娘たちが住む世界の状態を心配できますが、その娘たちの子ども、すなわち孫のこととなると、途端に無関心になり、あるいは悪人にすらなってしまいます。とても10万年後のことなんか想像できませんよね。
 これは大きな人間の欠陥です。加藤さんの言う「世代間責任」「世代間倫理」が欠落しているんですね。特に、カネ、経済性が優先されると、その傾向は強まります。
 では、どうすればその「想像力」を持つことができるのか、あるいは鍛えることができるのか。
 私はそこに必要なのは、感情や想像力、個人の顔を排除する「科学」ではなく、それらを統合する「宗教」だと思っています。「宗教」という名で呼ぶと、我々は経験科学的に(笑)具体的な宗教を思い浮かべてしまうので、本当はその言葉は使いたくないんですけどね。
 ホントしつこくて申し訳ありませんが、私の「モノ・コト論」的に言いますと、科学は「コト」の権化ですから、そっちではなくて「モノ」的世界に生きよということです。「物語」世界とも言っていいでしょう。
 実は人間の脳ミソはそちらの世界に対応するようにできているんですが、今、我々はそちら側をほとんど使っていないようです。コト的な世界、言語によって分析、分節する機能ばかり使っている。数字や言葉やカネはそちら側に麻薬的に働きます。
 もちろん、そちらも必要なのですが、バランスが悪いんですよ、他の動物と比べても。
 実は「倫理」「道徳」「モラル」「良心」というのは、言語の領域、科学の領域で生まれ育つものではありません。教育界ではその逆のことをずっと教えてきちゃいましたね。人間は言語や数字で考えられるから動物より優れていると。間違ってましたね。
 まずは、顔が見える者どうしの「思いやり」、そして、次に今ここにいない顔見知りへの「思いやり」、さらに顔を知らないけれども、確実に存在している無数の他者に対する「思いやり」…こうして我々は「想像力」を鍛えていかなければならないのです。
 難しいですね。我々教師の責任も重大です。教科書を教えながら、科学や論理や言語を教えながら、その補集合(モノ世界)の存在に気づかせなければならないわけですから。
 厳しい道のりが想像されますが、一歩一歩進むしかありません。

Amazon 環境倫理学のすすめ 新・環境倫理学のすすめ

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2012.01.12

藤巻亮太 『光をあつめて』

 日は宮中で歌会始の儀が行なわれました。それにちなんで、本校でも冬休みの宿題で作った短歌でプチ歌会を開きました。
 中学生は初めて短歌を作るので、お題はなしですが、「比喩表現を使う」ということだけは条件としました。
 結果としてなかなか立派な秀歌がそろい、先生たちもビックリ。私自身も、芸術にとっての比喩の重要さを再認識しました。
 あと、面白かったのは、やはり歌の内容が「もののあはれ」になるということですね。つまり、「時間」にまつわるものが多いということです。
 特にそういう指導や鑑賞をしたわけではなかったので、彼らは日本人としての自然の感性で、そのような歌を作ったのでしょう。あるいは「比喩」と「時間」の関係というのもあるかもしれません。
 いずれにせよ、「もののあはれ」=「(時の流れに代表される)不随意に対する嘆息」こそが、日本人にとっての最重要テーマだと痛感しましたね。教え、教わらなくとも、これは我々の遺伝子に受け継がれているものなのですね。
 さて、今日はレミオロメンの藤巻亮太くんの誕生日であり、また、彼の初ソロシングル「光をあつめて」の先行配信の日でありました。
 彼がバンドを離れてソロ活動を開始するということに対しては、私もまあいろいろな思いがあります。それこそ「もののあはれ」ですね。時の流れと、全てのモノの変化の一部と考えれば、別に残念に思う必要はありません。
 「もののあはれ」とはここに明記したように、決して本居宣長の言うようなボンヤリしたものでもジメジメしたものでもありません。ただ「想定外」「不随意」なだけであって、プラスの変化という側面もあるのです。
 そう、この曲の歌詞にもあるとおり、「時の無常の中に花が咲く」こともあるのです。
 生徒たちの「歌」の中には、そういうプラスの「もののあはれ」が満ちあふれていました。つまり、無常、変化というのは、破壊であると同時に再生、成長の物語の源泉でもあるわけです。
 藤巻くんの変化については、私は、まあなんとなくではありますが理解できるところもあるんですよね。あの3人の中では、唯一彼だけが持っているメンタリティーというか、スピリットがあるなと思っていたんです。
 これはある種の宗教性とも言えます。彼の遺伝子にはそういうモノが実際ありますし。私も半分そういう世界で生きていますから、彼の詩やメロディーや声や行動から、そういうモノを感じ取ってきたわけです。
 これは誤解されたくはないのですが、そのどちらが上とか下とかではなくて、とにかく違う次元で生活している人とは、なかなか「仕事」ができないのも事実です。
 誤解しないでくださいよ。ものすごく分かりやすく言ってしまえば、これは「趣味」の問題です。魂の趣味の問題なんです。それを偽って仕事をすることに疲れてしまうことは、実は誰にでもあることではないでしょうか。
 彼がここに至るまでには、いくつかのきっかけがあったと思います。バンドが10年続いてきたというのももちろん最大の理由でしょう。どんな仕事でも10年目はマンネリや商業化の完成期ですから。
 それから、こちらで紹介した「Your Song」にまつわる体験、すなわち志村正彦くんの存在と不在というのも絶対に影響していると思います。
 志村くんは、ある意味アルバム「CHRONICLE」において、バンド内ソロ活動をしてしまったのだと思います。彼が命を賭してそれをやった。藤巻くんはそれを聞き込んだんです。
 そして、その後、あの震災や原発事故がありました。これらの外的な体験、すなわち想定していなかった外からの力こそが、藤巻くんにとっての「もののあはれ」そのものであったのでしょう。
 レミオロメンはフジファブリックと違って、メンバー間の距離が非常に近い。それはそうです。幼なじみバンドなのですから。その良さと弊害という両面は当然ありますよね。藤巻くんは、バンド内ソロ活動はとてもできなかったのでしょう。
 それにしても、フジファブリックはそのフロントマンを突然失ってもバンドは活動を続け、新しい世界を切り拓きつつあり、レミオロメンはそのフロントマンがソロとしてデビューする形でバンド活動は一旦休止…とは、まさに「もののあはれ」ですね。
 そう考えると、世界の長老バンドやBUMP OF CHICKENはすごいな。逆に心配なほどです。誰かがとんでもない我慢をしてるんじゃないかと(笑)。
 さて、楽曲「光をあつめて」ですが、たしかに見事な、躊躇のない藤巻節が展開していますね。素直にいい曲だと思います。単なる幸せの共有という次元を超えたメッセージがこめられていますね。
 ピアノが小林武史さん。結局藤巻くんのスピリッチュアルな部分を理解し支えられるのは、コバタケだったということでしょうか。きれいなピアノを聴かせてくれています。ドラムがあらきゆうこさんというのはやや意外でした。オサのドラムよりも男らしい(決然としている)気が(笑)。ベースは元Syrup16gのキタダマキさん。前田くんとはずいぶんと違ういい味を出していますよ。
 たしかにこうして違うメンバーの音の上に乗る藤巻くんの声というのは、新鮮というか、こちらにも想定外の発見があるというか、とにかくこのソロプロジェクトの始動を純粋に喜びたいと思いました。
 これに伴って、治くんと前田くんもどんな活動をしていくのか、それも楽しみですね。そして、進化した3人が再び音楽を奏でる日に期待したいと思います。

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2012.01.11

究極の不安克服法…?

20120111_main01 日はめずらしく「ためしてガッテン」を観ました。テーマは「不眠ストレス緊張撃退 1日15分!脳の簡単トレ」。
 内容の詳細はこちらでご確認ください。
 番組放送中、不安症の上の娘はずっと耳をふさいでいました(笑)。「不安」という言葉、そしてそれを「克服」しなければならないということに「ストレス」を感じるのでしょう(苦笑)。
 これってよくわかりますね。上の娘は顔も性格も私に似ているところがありまして、だからか、なんとなく毎日自分の子ども時代を思い出すんですよ。
 自分も子どもの頃には「漠然とした不安」及び「截然とした不安」を抱えていましたっけ。まあ、みんなそうなんでしょう。
 我々は大人になるにつれて、それをなんとかする技を身につけ、そして最終的には子どもに「大丈夫、大丈夫」と言えるようになるわけです。
 ただ、番組でも解説されていたとおり、その技をなかなか身につけられない大人も増えていまして、それがウツやパニック障害や適応障害、そして最近では大人の発達障害なんていうような、まあずいぶんと乱暴な「名づけ」がされて、そしてそれに対して医学的な処方がなされるというような、あまり自然ではない状況になっています。
 ちなみに今の私は、これはもう自他ともに認める「不安のない人」です。たしかにないんです。それこそ障害なのではないかというくらい、不安も恐怖もない。
 ストレスはありますよ。いやなことをしなければならないとか、そういうレベルでのストレスは人並みにあります。しかし、それが不安や恐怖につながっているかというと、全然そんなことはありません。
 で、なんで不安症だった自分がこんなふうに安心症になってしまったかというと、これはやはり「禅」のおかげであると思います。あるいは自らの「モノ・コト教」のおかげ。
 そう、番組でも小野アナが坊主ヅラかぶって説明してましたね(笑)。「座禅」がいいと。全てを受け入れて受け流すのがいいと。過去や未来に執着して苦労するより、現在を受け入れろと。
 これってまんま「禅」です。モノ・コト教的に言えば、「コト」にこだわるなということです。昨日の話にもつながりますよね。
 「コト」というのは、自分の脳内の情報のことです。「モノ」というのはその補集合、つまり他人はもちろん、動植物や物(無機物)も含めての他者全てです(自分の身体もです)。
 今の私は「コト」に対する執着というのが全然ないのです。たとえばこうして自分の「コト」を「コトのは葉」に乗せて吐き出していますが、これはまさに吐き出す行為でありまして、ある意味非常に無責任な排出作業です。すんません、汚染が拡がってますね(笑)。
 外からは、これだけ文章を書いていて、どんだけ自分の頭の中にこだわってるんだと思われそうですが、実は全く反対でして、私は自分に対するこだわり、自分の考えに対するこだわりは全くないのです。
 お釈迦様のおっしゃるとおり、我々が「自己(コト)」だと思っているものは、実は「他者(モノ)」によって縁起したものです。それを悟れば、なんの執着もなくなりますし、不安も恐怖もありません。
 もっと平たく言うと、「なんとかなるさ」「困ったら人に頼もう」「不安に思ってもいいことは何もない」という気持ちですね。あとは、「困難や想定外(ストレス)だけが自分を成長させる」「困難や想定外はあればあるほど得」というのもあるな。
 こういう境地になったのは、はやり仕事で「禅」に触れ続けてきたからでしょう。この前「雲堂」のところで書いたとおり、私は別に毎日座禅したり読経したりしてるわけじゃありませんよ。普通の生活してるだけです。しかし、折に触れて座る(座らざるを得ない)仕事をしているので、そのおかげですね。
 ジョブズもそうであったように、たまに現実から逃避することも大切なのです。そこで「客観視くん」が活発化して、新しいアイデアも浮かぶし、ある種の悟りも得られる。
 そういう意味で、ためしてガッテンの言うように、一日15分でいいので、いやいや、私のように1年に数回でもいいので、じっくり座ってみることには大きな価値があることでしょう。とりあえず、今、自分(特にダメな自分)だと思っているヤツが、全然自分ではない、つまり他者によって形成されているちっぽけな存在であることを知るだけでも、ずいぶんと楽になります。
 自分がダメだろうと立派だろうと、あんまり宇宙には影響ありませんしね(笑)。
 あと、体の健康も大切ですね。体が調子悪いと「不安」です。一番の不安の原因はそこにあったりしますよね。
 その点、私はかなり安心です。自信があります。いや、それこそ体を鍛えてるとか、検診やドックで太鼓判押されてるとか、そんなことは全くありません。
 ただ続けているのは(もう7年半になりますか)、「一日一食(夕飯のみ)」だけです。
 そうそう、今気づいたんですが、今のような境地になったのは「一日一食」始めてからかもしれません。どういう因果関係があるのか、科学的なことは全く分かりませんけれども、事実としてそうなのです。
 そうか、「不安(ストレス)」を克服する最高の方法は「一日一食」か!…なんて、全く説得力ありませんね(笑)。ためしてもガッテンできないかもしれませんな。


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2012.01.10

「コピー教」に思う…

Copy and Seed.
Kopimi_nietzche_zarathustra_2 日、こんなニュース(ネタ)を見つけて、しばし考え込んでしまいました。

 「ファイルコピーを神聖な行為だとする「コピー教」がスウェーデン公認宗教に

 これは笑い話のようですが、案外鋭いことを指摘しているのではないかと感じます。
 もちろん、「過剰な著作権保護は文化を衰退させる」というまっとうな意味でも鋭いと思いますよ。
 たとえば最近こんなことがありました。
 年末年始に静岡の実家に帰っておりました時、どうしても録画したい番組を見つけたんですね。で、父親に頼んでハードディスクレコーダーで録画してもらい、DVDに焼いてもらいました。
 父所有のレコーダーは、いわゆるコピーワンス時代のものでして、DVDにムーブすると本体からはデータが消えてしまうわ、当然VRモードなのでMacでは認識すらされないわ、バックアップを取ろうとしても一筋縄では行かないわ、学校で見せようとしたらプレーヤーが対応していないわ、まあいいことなんて一つもありませんでした(その辺の事情については、こちらの記事に詳しい)。
 実際のところ、こうした著作権保護のテクノロジーによって、従来認められていた教育の機会が奪われつつあります。このように、文化の創造と伝承の基礎機関である学校が大きなダメージを受けているのを見ても、「コピー教」の主張することは間違いではないとも言えましょう。
 まあ、それを「宗教」にするというのもどうかと思いますけど…しかし、考えてみると、「宗教」や「教育」という、いわゆる「啓蒙」という行為が正当化されている世界は、ある意味「コピー」の大量生産だとも言えますよね。つまり、私のやっている仕事も「コピー」であるとも言えるわけです。
M だいたいが、我々生物の根源的な仕事は、遺伝子をコピーし続けることであり、そういう意味でも、もしかすると、これは宗教としてふさわしいのかもしれない、なんて思われてくるわけです。
 ちなみに、私の「モノ・コト教」(笑)によりますと、コピーは「コト」の権化です。転変し無常である「モノ」世界に対抗する、生命の「意志」です。自然の法則(エントロピー増大則)に対するはかない抵抗です。
 で、私は「コトよりモノの時代」ということをさかんに言っておりますから、ある意味アンチコピー教ということにもなりますよね。「モノのあはれ」です。ま、それはお釈迦様の教え、仏教に近くなるわけですけれども。
 本来ですね、私たちが「神」だとか「仏」だと認識する実在というのは、そうした人知の及ばないモノであったわけで、その、私たちの「コト」の達し得ない「モノ」を一段高いステージに置いて、それでもって、ある種の「絶対性(コト性)」を持たせたものなんですね(だから日本では「ミコト」と言う)。
 ちょっと複雜になりますが、そんなわけで、私の教義(?)は「コトを窮めてモノに至る」なのであります(誰も理解してくださりませんが…苦笑)。
 おっと、自分の話はいいとして、ええと、あと「コピー」で気になるのはですね、前もどこかで書きましたでしょうか、「情報」がどんどんコピーされてですね、世の中に充満してくるとどうなるのかということです。
 つまり、いわゆる物(物質)はどんどん増えるということはないわけじゃないですか。人間が作り出した物(製品)はどんどん地球を埋め尽くしていきますが、その代わりにたとえば石油は枯渇していく。
 基本、モノ世界はエネルギー保存の法則とエントロピー増大の法則で出来ているわけです。
 しかし、コト世界はどうなんでしょう。情報はエネルギーを持っていないのでしょうか。あるいはエネルギーを生み出したりしないのでしょうか。
 もし、エネルギーを持つとしたら、それが大量に生産され、あるいはコピーされていったら、どうなるのでしょうか。その辺について、実は誰も言及していないような気がするのです。
 先ほど書いたように、モノ世界の法則に対抗するのがコト(情報・データ・思念)世界だとしたら、今後起こることは、私たちが「科学」では知り得ないものになりますよね。なぜなら、科学では、情報もデータも思念も最終的には物理的な現象としてしかとらえられないからです。
 DVDをコピーすれば、メディアとしての円盤はどんどん増えていきます。これは物理的な世界での話です。では、そこに記録されている情報自体は無限に増やすことができるのか、あるいは先ほどの製品と原料の話のように、どこかで消えていく情報というのがあるのでしょうか。
 これだけ人間が増えているわけですから、何億年前よりも人間が認知する情報はどんどん増えています。一方で何かが減っているということを予感することもできるのですが、ではそれは具体的になんなのかというと、よく分かりません。
 このように、コト世界は結局のところモノ世界に、意識は無意識に、想定は想定外に、知は不可知に収斂していくので、この私の問い(悩み)は永遠に解決されないのかもしれませんね。
 それをこうして文字(言語)としてコト化している私自身、いったい何モノなのか…これは「宗教」の世界、霊的な世界、補集合の世界になっていきますね。
 う〜ん、気になる。だから私は出口王仁三郎や仏教の遺した情報に興味があるんだろうなあ。彼とお釈迦様は知っていたような気がするんですよね。彼らこそコトを窮めてモノに至ったと。
 いっそのこと、生きている限り、仕事でもプライベートでもコピーし続けて、その結果を確かめるしかないのか。あるいは「死」によって全てが「無」、いや「空」に還るのか。
 そうか、スティーブ・ジョブズも分かっていたのかもしれないな。

コピー教公式
 


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2012.01.09

想像力

31wjvhsm0kl 日、本校の推薦入試が行われました。いつも書いているように、私は国語の問題の本文を自分で書きます。試験本番というのは受験してくれた皆さんとのまさに「一期一会」ですから、それなりのメッセージを伝えたいと考えています。
 子どもたちもある意味人生をかけてテストを受けるわけですからね、私も真剣勝負したいのです。
 ちなみに昨年は将来の夢という文章を書きました。
 今年は震災などのこともふまえて、次のような文を書いてみました。
 いろいろな思いを詰め込みたいところですが、相手は小学生ですからね、なかなかそういうわけにはいきません。
 では、空欄や漢字の問題などを取り払った原文をどうぞ。



    想像力

 みなさんは、私たち人間と他の動物との違いはなんだと思いますか?
 四本足ではなく二本足で立って歩くことでしょうか。言葉を操ることでしょうか。道具を作って使うことでしょうか。
 私はこう思っています。
 「人間には想像力がある」
 私たち人間は、何かを想像することなしには一日たりとも生活することはできません。先ほども、「私たち人間と他の動物との違いはなんだと思いますか?」と聞かれて、頭の中でいろいろなことを想像したのではないでしょうか(ここは試験会場ですから、本もパソコンもありません。頭の中でいろいろ想像するしか方法はありませんね)。
 もちろん犬や猫も頭の中で何かを想像することがあるでしょう。たとえば、「おなかがすいたな」と感じれば、いつもの場所においしいエサが入ったお皿があることを思い出すのではないでしょうか。
 しかし、ここでの「想像」とは、自分の過去の記憶を呼び起こしているにすぎません。犬や猫が、明日何をしようかなとか、今ごろ外国の猫たちは何をしているだろうかとか、そういうことは考えないのです。
 それに対して私たち人間は、経験したことがないことを想像することのできる生き物です。
 猿くらいになると道具を使ってエサを取ったりすることもありますが、想像力のレベルでいうと、とても人間には及びません。人間の想像力は過去や現在だけでなく、未来に向かって大きく広がっているのです。
 そして、この人間の想像力は、より高度な力に発展していきます。
 一つは「思いやり」です。
 「思いやり」とは、まさに「思い」を「やる」ということです。「やる」という言葉に漢字を当てると「遣る」になります。「遣」という字はどういう時に使われているか想像してみてください。
 そう、最近社会科で「遣唐使」というのを習ったでしょう。それから「派遣する」という言葉も見たり聞いたりしたことがありますね。これらから、「遣」という字に、「だれかを遠くへ行かせる」という意味があることが分かるでしょう。
 ですから、「思いやり」という言葉にはもともと、自分の体の代わりに「思い」を「遠くへ行かせる」という意味があるのです。
 昨年の三月の大地震と大津波、そして原発事故はいまだに現地の人々を苦しめています。みなさんの中には、被災地に行ったという人がいるかもしれません。しかし、全ての人が体ごと現地へ行ってお手伝いをしたり、励ましの言葉をかけたりすることはできません。
 そんな時、私たちは「想像力」を働かせて、自分の「思い」を届けようとするわけです。みなさんも、現地に行かなくとも何か具体的な行動をしたのではないでしょうか。それこそが「思いやり」の行動なのです。
 私たち大人は、みなさんに対していつも、「人を思いやりなさい」、あるいは「思いやりの気持ちが大切だ」などと言っています。しかし、具体的に何をすべきかというと、実は言っている本人もよくわかっていないことが多いのではないでしょうか。
 本当の「思いやり」には「行動」が伴います。ただ「大変だろうな」とか「かわいそうだな」とか思うだけでは、「思い」をやったことにはなりません。「遠くへ行かせる」にはそれなりの力(エネルギー)が必要であり、それが実際の体の動き、すなわち行動として現れるのです。
 「想像力」が生み出すもう一つの力は、同じく「ソウゾウリョク」と読む「創造力」です。
 先ほど書いたように、人間以外の動物は、ほとんど過去の経験の繰り返ししかできません。だから、動物は数千年、数万年にわたって基本的にほとんど変わらない生活をしています。過去を思い出すだけでは、新しい何かを生み出すということは不可能なのです。
 一方人間は、過去の記憶から未来を想像することができ、新たな挑戦の意欲をかき立てることができます。きっとみなさんにも、過去の失敗から次はやり方を変えてみたという経験があることでしょう。
 さらにみなさんの中には、こう考える人がいるかもしれません。過去の経験がなくても新たな挑戦意欲はわくのではないか、つまり「これはやったことがないけれども、こうやったらこうなるのではないか」と予想して行動することもあるのではないかと。
 たしかにそのとおりですね。しかし実を言うと、この「未経験」の裏側には、ちゃんと「経験」が存在しているのです。それは「他人の経験」です。分かりますか。
 たとえば、だれかの失敗を見て自分はそうしないようにするとか、本にこう書いてあったから、ここではこういうふうに行動しようとか、そういう時の判断基準は「他人の経験」ですね。私たちは「他人の経験」を「自分の経験」のように想像してみて、そこを出発点として新たな何かを生み出すこともできるのです。
 これは、たぶん人間だけに与えられた能力です(もちろん他の動物にも本能的にそういう行動をする時はありますが、あくまで本能であって考えているわけではないと思います)。そして、「他人の経験」をたくさん知れば知るほど、私たちは自分の体の限界を超えて、つまり時間や空間の限界を超えて考えたり行動したりできるのです。そうなれば、まるでスーパーマンですね。
 さあ、この文章を読んで、「想像力」こそが人間に与えられた宝物であることが分かりましたか。
 その「想像力」の源である「経験」を積むのが学校というところです。学校では、自分の経験を積んでいくのと同時に、勉強を通じて「他人の経験」を知ることもできます。
 みなさんがあまり好きでない教科書たちも、そんな「他人の経験」の宝庫だと思えば、少し違ったものに見えてくるかもしれません。今日家に帰ったら、そういう目で教科書を見直してみましょう。

 昨日のジョブズなんかは非常に「想像力」のたくましい人だったと思います。
 その前の話と結びつけるなら、「利益(りやく)」は「想像力」なくしては実現しませんね。他者の立場、気持ちになることが前提の行為ですから。
 逆に「利益(りえき)」たる「カネ」は人間の想像力を阻害するものです。昨日書いたとおり、「もうける」ということは「誰かに損をさせる」ことであるという資本主義、市場経済の仕組みの上においては、そうした「思いやり」や「忖度」は単なる邪魔者になりかねません。たとえば、顔が見えなければ、客をだましてでも物を売ってしまう…なんてことが起きていますよね。
 自分でもこの文を書きながら、いろいろ考えてしまいました。迷いや悩みもどんどん湧いてきます。しかし、そこに目をつぶらず、何が本質なのか、何が自分の役割なのか、生徒たちと考え続けたいと思いました。
 考え過ぎて行き詰まった時は、他の人の話に耳を傾けるのが一番です。ダライラマの「思いやり」を読んでみようかな…。

Amazon 思いやり(ダライラマ)

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2012.01.08

『スティーブ・ジョブズの子どもたち ~ハングリーであれ 愚かであれ~』 (NHKドキュメンタリーWAVE)

20120109_64939 年の年賀状はiPhone5でした。
 もちろんスティーブ・ジョブズへの哀悼の意も込められていますし、今年の私のテーマが「バージョンアップ」であるという気持ちも込められています。
 そして「Stay hungry. Stay foolish」もまた、これからの私や家族のテーマでもあります。
 その言葉が発せられたのが、あのスタンフォード大学でも講演でした。その講演を現場で聴いていた同大の卒業生たちのその後を追ったドキュメンタリーを観ました。
 スティーブ・ジョブズは「アメリカン・ドリーム」の象徴のように言われますが、実際には、ある意味「アメリカン・ドリーム」を実現した若者たちに、それが単なる「ドリーム」であったことを教え、そして「本当の幸せとは何か」という究極的な問答の世界に引き込んでいた…。
 たしかにジョブズは夢を実現しましたし、それなりの「金持ち」にはなりました。しかし、彼の偉業の本質は「カネ(マネー)」では計れないものでした。
 ちょうど昨日「利益(りやく・りえき)」の話を書きましたよね。彼が「りえき」を上げたのも事実ですけれども、それよりも「りやく」を我々に恵み与えたという点に注目すべきです。
 彼はテクノロジーをもって、世界の「点と点をつなぎ」、真に平和で豊かな世の中を実現すべく行動しました。
 もちろん、それが本当に正しいやり方なのかは、まだ歴史が証明するに至っていません。しかし、そういうレベルでの「夢」を実現するために、創造力を発揮して行動したことはたしかです。
 番組中、何人かの若者が投資銀行を辞めるに至ったいきさつが語られました。「他人の仕事をするな」というジョブズの言葉に刺激を受けたものです。
 誰もが「今の仕事は本当に自分の仕事なのだろうか」と考えますよね。しかし、それは、この仕事は自分に向いているのか、自分の能力が活かされているのか、というようなレベルのことですよね。
 ジョブズはもっと高い次元でこの言葉を使っていると思います。つまり、「理想の世の中を創るために、自分の役割は何なのか」というレベルです。
 おそらくジョブズの言葉を思い出して投資銀行を辞めた若者たちは、それに気づいたのでしょう。ただお金を得るだけであれば(つまり「りえき」を得るだけであれば)、投資銀行で1年目から年収1千万円以上もらえるという事実は、ある種の「アメリカン・ドリーム」の実現です。
 しかし、昨日も書いたとおり、自らが「りえき」を得るということは、他者に「りやく」を施すどころか、誰かに損をさせ、誰かを不幸に陥れることなのです。そこに想像力が及ばない状態こそが、「りやく」とは正反対の、悪魔に魅入られた、洗脳された状態だと言えるでしょう。
 ジョブズは「禅」を学んでいました。彼の生き方、言葉の使い方、製品のデザインやコンセプトには、曹洞禅の影響が色濃く見られます。
 おそらく私が彼や彼の作品に共感するのも、そういう部分があるからだと思います。
 一昨日のあの座禅アプリ「雲堂」を、ジョブズはどのように評価したのでしょうか。おそらく知っていたと思いますよ。
 「点と点をつなぐ」…これは「縁起」を積極的に生み出す行為です。我々の間にあった様々な障壁を、彼はテクノロジーで取っ払おうとしました。それはある程度実現していると感じます。
 ただ、まあ理想論は別としまして、日本よりもアメリカの高学歴就職難はひどいですね。アメリカ自身が、旧来の「アメリカン・ドリーム」がフィクションであったと気づき始めています。
 いよいよ世界のバージョンアップの時が来ているのでしょうか。あるいは、ジョブズのような「宗教者」が亡くなって、ますます世界は弱肉朝食の獣のような世界になっていくのでしょうか。
 ところで、番組を観ながら(英語を聴きながら)hire と fire が反対語だということに気づきました。
 再放送が13日(金)18:00からありますので、ぜひご覧下さい。

NHKドキュメンタリーWAVE公式


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2012.01.07

利益…「りやく」と「りえき」

Er 「NHKのアナ、ご利益をゴリエキと読みやがったww」
 思わずツイッターでつぶやいてしまった(苦笑してしまった)ローカルニュースでの誤読。ついでですから、ちょっと調べてみました。
 そう、「利益」は「りやく」と「りえき」の二つの読みがあるわけですが、この「りやく」と「りえき」って、同じ漢字なのにずいぶんイメージが違いますよね。
 「りやく」はもちろん神仏からの恵みのことであり、「りえき」は多くの場合、経済的な意味で「もうけ」のことです。
 ちなみに「益」の唐音が「やく」、漢音が「えき」ということになります。
 主に鎌倉時代の禅宗によって広まったものが「唐音」でして、漢字テストの難問は「唐音」の方が多いですね。「行脚」とか「杜撰」とか「提灯」とか。つまり、簡単に言ってしまうと、その当時の中国の方言が輸入されたということです。
 では、歴史的にどういうふうに使い分けられてきたかと言いますと、これが案外難しいのです。
 おそらくは仏教伝来と同時に「利益」という言葉は輸入されたと思いますが、その読みがどうであったかは定かではありません。時代的なことを考えると「漢音」の「りえき」だったのでは、と想像されます。
 使われた方としては、今の「御利益」のように名詞ではなく、「利益す」という動詞として使われている例が多く見られます。「(仏が衆生に)恵みを与える」という意味ですね。
 先ほど書いたように、禅宗がさかんになる鎌倉時代以降は、仏教用語としての「利益」は「りやく」と読まれるようになったと考えられます。それと同時に「りえき」の方は少し違った意味合いで使われるようになりました。
 鎌倉期の名語記(みょうごき…唐音ですね)という辞書に「えきは益也。利益、巨益の益也。ますといふよみあり」とありますから、もうこの頃には「りえき」と読むと、仏教を離れて経済的な意味での「もうけ」を表していたともとらえられますね。
 つまり、中世には「利益」は「りやく」と「りえき」の双方の読みが使われ、互いにその意味的守備範囲を手分けするようになっていたということです。
 言葉は世の中を映す鏡です。つまり、この「利益」の変化は、そのまま日本社会の変化を象徴しているとも言えます。
 明日から大河ドラマ「平清盛」が始まりますね。ご存知のように清盛は日宋貿易に積極的でした。実は清盛が日本の貨幣経済の基礎を築いた立役者だったんですよね。大河ドラマではそういう側面も紹介されるでしょうか。
 日本に宋銭が大量に輸入され、鎌倉時代には地方の一般庶民までが「お金」を持つようになりました。ちなみにここ富士北麓地方でも旧街道沿いで宋銭が大量に発掘されます。こんなド田舎(流刑地でしたから…笑)にまで、貨幣経済の波が押し寄せていたんですね。
 こうして日本国民は初めて、貨幣価値としての「富」を意識するようになります。商売をして「もうける」ことに目覚めるわけですね。
 そうなりますと、その「もうけ」を表すが必要になります。そこで使われるようになったのが「利益」でした。古くは「仏からの恵み」を表していたその言葉が、より現世的な「もうけ」の意味になっていったというのは、実に面白いことです。そして皮肉なことでもあります。
 それまでは、たとえば農産物や狩猟採集物や漁撈の収量というのものが、「神仏からの恵み」ととらえられていました。しかし、「商業」「貿易」「貨幣経済」が発達すると、「富」=「恵み」は「人間」から得るものとなっていったわけです。
 ここで、我々の「無意識的収奪」の歴史が始まるわけです。
 神仏の「りやく」の総量は無限です(たぶん)。しかし、人間から得る「りえき」の裏側には必ず「損」が存在しますよね。
 神仏からの「利益」をありがたく頂戴していた私たちは、いつのまにか経済的「利益」をただ獲得感と達成感をもって手に入れるようになり、その裏にある他者の「損」さえも想像できなくなっていったのです。
 いつも書いているとおり、「マネーというモンスター」が旧来の(本当の?)神仏を幽閉してこの世を支配するようになってしまったわけですね。
 この「利益」という言葉の歴史がそれを象徴していると考えると興味深いですよね。そして、NHKのアナウンサーまでが、「御利益」を「ゴリエキ」と読んでしまうまでになってしまった(苦笑)。まったく困ったものです。
 ま、それよりずいぶん前から(江戸時代から)、我々はお賽銭を放り込んで「現世利益」を「購入」していたわけですし、それで神社やお寺は商売していたわけですが。皆さんもお正月には初詣でという「初売り」に群がっていましたよね(笑)。
 こんなふうに、言葉の歴史を探ると、社会や人間の本質的な変化が読み取れて面白いですね。


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2012.01.06

『雲堂』 (iPhone用坐禅アプリ)

Mzlcngilkor んとも仕事がドタバタしているので、ゆったりとしたおススメを。
 iPhone用のアプリです。あの「彼岸寺」さんが作った坐禅アプリ。
 これ、なかなかいいですよ。本格的です。坐禅が身近になりますね、きっと。
 いちおうワタクシ、エセ坊主、野狐禅いや野狸禅の修行者として、一般の方よりは坐禅に親しんでいる方だと思います。とは言っても、たとえば毎日座っているかというと、全然そんなことはありません。
 我々在家者は仕事はもちろん社会的雑務をもしなければならないので、日常生活自体が修行ということになります。そして、実はそれが一番よい修行法であったりします。
 たとえばこうして毎日ブログを書いているのも、公案と格闘しているようなものですしね。つまり、我々はいつでもどこでも仏教の修行はできるわけですし、考えようによっては、全ての生きとし生ける者が修行中であるとも言えます。
Mzlhbqfsdmt しかし、そうした日常的な「意識」から「意識的」に離れるために、「意識」を捨てる「坐禅(座禅)」をすることは面白いものです。
 ある意味最も手軽で最もお金がかからないレジャー、あるいはレクレーション(re-creation)かもしれません。
 実際に出家して雲水となったり、日曜日にお寺に参禅したり、そういう特別なことをすること自体が「意識」であり、「装置」であるわけです。
 ですから実は、坐禅というのは、それと最も遠い世界であると思われがちなインターネットやiPhoneという「装置」と、とっても親和性が高いんですよね。
 だいいち、インターネットやクラウドという「網」や「雲」は、ある意味自然に近い構造をしていますし、ある意味目に見えない「神仏」世界と似ているとも言えます。
 また、ネットによって生まれる無限の「縁」は、まさにブッダが悟り得た宇宙観であるとも言えます。このアプリにある「Around the world」機能は、本来極私的であり、個の行いであるはずの坐禅を、世界中で何人とか何回とか示すことによって、相互に「意識」の上で結びつけてしまうという、ある種禅的なパラドックスですよね。面白い。
Mzlqsfdbtcy そこなんですよ、今までの禅が限界として抱えていた問題は。つまり、禅は「自他不二」や「縁起」を感得するためのものでありながら、個の問題として語られすぎ、またそういうメソッドとして発達しすぎたのです。
 それをまるでマジックのように、現代のテクノロジーが本来の姿に戻してくれる可能性があると感じますね。
 私の禅語に(?)こういうのがあるじゃないですか。「コトを窮めてモノに至る」。コトとは「意識」そのものです。「装置」そのものです。そこを窮めていくと、いつのまにかモノ(無意識や自然)に還っていくんです。
 そういうアイテムとして、あるいはアプリケーションとして、この「雲堂」は新しいけれども古い禅のスタイルを提案してくれかもしれません。
 「application」という言葉は、本来「一点に没頭すること」という意味を持っています。まさに「執着」の装置です。それを窮めていくと、いつのまにか一点は無限に小さくなって「無」に近くなっていき、その補集合は無限に大きくなって、いつのまにか、二つは一つになり、結果「空」が生じる…。
 なんて、いかにも野狸禅らしく言葉を弄しているワタクシでありますが、そんな理屈は抜きに、この「雲堂」は普通に解説もよくできているし、音もリアル(本物をサンプリング)ですし、とっても有用なアプリです。
 さあ、皆さんもこのアプリでどんどん「意識的」に坐禅してみましょう。世界が変わる、すなわち自分が変わる…かも。それにしても「undo」とはうまい名前をつけたものですな。

雲堂

彼岸寺

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2012.01.05

予想される地震について(2012.1.5)

 年11月に、房総沖大地震はいつ起きるか?という記事を書いて以来、地震については触れないで来ました。
 私のような者でも、大地震の可能性について書くと、それなりの圧力を受けるものです(苦笑)。言葉というのは難しいものでして、たとえばあの記事に「房総沖大地震が起きる確率は100%」と書くと、それが今日にでも起きると勘違いされるのか、必要以上に恐怖を感じる方や、あるいはそういう恐怖を抱かせるようなことを書くなんてとんでもないとお怒りになる方が現れたりします。
 しかし、こちら「地震予知はどうあるべきか」も書いたとおり、私は私が知り得た情報はやはり機を逸することなく開示したいと思います。もちろん、他の人に迷惑がかからない程度に。
 さて、最近私が感じている、あるいは手に入れている大地震の兆候ですが、やはり房総沖のそれがその第一に挙げられます。
 まず、こちら「再びM9が!?」で紹介しました北大の森谷先生のVHF帯電磁波散乱体探査法による地震予測。あのあと、それこそどういう圧力が働いたのかしりませんが、森谷さんのサイトが閉鎖されてしまいました。
 しかしここで最近のデータが手に入ったのでご覧いただきます。

1231

 ご覧のように、純粋にデータとして読んだ場合、3.11の前と似たような傾向を示しています。本当に単純に考えれば、ちょうど1年前と同じような減少傾向ですから、また3月頃に大きな地震があってもおかしくないということになります。
 このあと、1月に入ってから傾向は分からないので一概には言えませんが、やはり注意するに越したことはない状況でしょう。
 森谷さんもおっしゃっているとおり、今後M9に近い地震が東日本で起きるとすれば、3.11震源域の北隣か南隣でしょう。特に私は南に注目してきたわけです。
 その他、私も参加している全国ラドン濃度測定網においても、千葉を中心とする関東近辺で地震前の傾向が現れています。
 そして、もう一つ、これはあまり言う人がいませんので、あえて私が指摘しておきますね。
Large 皆さん、今年の元旦の昼間に妙な地震があったのを覚えていますか?そう、午後2時半ごろの震度4の地震です。
 私はその時、静岡市の実家に帰省しており、コタツでくつろいでいたのにも関わらず揺れに全く気づきませんでした。
 富士山より東側ではずいぶんと揺れたのに不思議ですよね。これは、いわゆる異常震域というやつで、このような太平洋プレートの深い所(今回は370km)で地震が起きると、関東や東北、つまり太平洋プレートの西縁が揺れるんですね。震源の近さとは関係ありません。西日本へは揺れ、特にS波は伝わりにくい(この動画参照)。
 実はこれと非常によく似た地震が、3.11の3ヶ月半前に起きているのです。皆さん、ぜったい覚えていませんよね。
 私はよく覚えているんです。なぜなら記事に書いたから。こちらです。なぜわざわざ記事にしたかというと、一つには非常に珍しい地震だと思ったからです。そして、もう一つの理由としては、その日の朝に予知していたからです。
Large1 で、その時の震源と震度分布も再掲してみましょう。どうですか?非常に似た震域ですよね。今回の方が多少規模も大きく、また日本列島に近かったので、揺れも全体に大きくなっていますが。
 問題は、こういう地震がそうしょっちゅう起きないということです。前の記事にも書いたとおり、普通に考えて10年に1回くらいという印象を持っていました。ですから、その時もわざわざ記事にしたんですね。
 ところが、今回元旦に起きたとなると、ほとんど丸1年しか経っていないわけで、それがまず非常に気になるところなのです。
 2010.11.30も2011.3.11も、両方とも太平洋プレートに関わる地震であることにはかわりありません。もし、前者が後者を誘発した、あるいは前者は後者の前震であったとするならば、今回も要注意だということになります。
 房総沖大地震はいつ起きるか?では、「早くて年内(2011年内)、遅くとも3年以内に発生」と書きました。今もその考えは変わっていませんし、ある意味では私の予測のとおりにことが進んでいるようにも感じます。
 いずれにせよ、もうそれなりの準備と覚悟をしなければなりません。だからと言って、私は生活の基本的なスタイルを変えるつもりはありませんよ。たとえば、この冬から春にかけては、ほとんど毎週末東京に行かねばなりません。直前前兆がないかぎりは、もう覚悟を決めて普段通りの生活をするしかないのです。
 直前前兆があれば、もちろん予定を変更したり、避難の準備に入ったりしますが。その時は、できるかぎり皆さんにもその旨を伝えようと思います。
 今、私が最も気にしているのは、「ラジオダクト」という現象です。3.11の前約3ヶ月の間、我が家富士山の北面において、東京のワンセグ放送が普通に受信できるという、UHF波の異常伝播が観測されていました。
 当時はそのことの意味を全く理解できず、「東京のテレビが観られる!」と喜んでいたわけでして、今になっては本当に悔やまれることです。まあ、まさかあのような大地震が発生するとは、その頃は夢にも思っていなかったのでしかたありませんが…。
 ちなみにその異常伝播は3.14くらいには正常化しました。つまり全く映らなくなったということです。それを当時の記事では、「大地震の影響で観られなくなった(異常になった)」と解釈していたのですが、最近になって逆だったと気づきました。バカですね。
 で、今どうかというと、まだ「正常」、すなわち映りません。これがまた映るようになったら要注意だと(勝手に)思っています。
 もちろん、その情報を信じるか信じないかは皆さんの自由です。私でさえ、いやいや、最先端の科学でさえ「絶対」とは言えないのですから。
 どうぞご注意くださいませ。

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2012.01.04

『さよなら!僕らのソニー』 立石泰則 (文春新書)

S 日は愛猫とのお別れの話でした。
 今日はソニーというか、古き良き日本の技術者集団とのお別れなのかなあ。「さよなら!」ですからね。
 そして、なんかもう起死回生は難しい、つまり再会は難しいかなと思ってしまいました。
 これはソニーに限ったことではなく、また、ある意味技術者集団に限ったことではなく、大和魂との別れと言いましょうか、日本の伝統的な精神性との別れと言いましょうか、そういうスケールの話のような気もしてきます。
 そうそう、ちょうど今日はプロレスに関する番組を三つほど観ました。まずはサムライTVでの天龍源一郎とスタン・ハンセンとの対談。そして、新日本プロレスの東京ドーム大会レッスルキングダムの一部、さらにはBS11のアントニオ猪木(IGF)特集。
 その三者三様のプロレス模様の中にもまた、古き良き昭和を懐かしむ部分と、それとは全く違う平成のプロレスをそれはそれで楽しむ部分と、頑固なまでに昭和の魂を伝承し復興しようとする部分と、いろいろなものを感じました。
 おそらくいろいろな分野で同じことが起きているんでしょうね。そして、それがそれぞれうまくいくか失敗するか…。
 ソニーは昭和の職人魂、すなわち創業の精神をいつのまにかなおざりしてしまい、一方でグローバル化というある意味フィクションに呑まれてしまい、そのブランド力を完全に失ってしまいました。
 つまり、方向性とともにそのやり方に大きな問題があったのです。それを丁寧に検証したのがこの本です。
 まあ細かい内容のレビューはAmazonでご覧下さい。私はちょっと違った角度から書きます。
 今、私の学校も変革を迫られています。一般企業ほどではないにせよ、私学ですから当然経営戦略という観点も必要になってきます。
 なんとなく私がそのあたりの担当になっているので、この本はまさに他人事ではない内容でありました。
 時代に合わせる必要があるところと、揺らいではいけないところ、その両者のバランスというのは本当に難しい。
 学校にももちろん「建学の精神」というのがありまして、それは絶対に揺らいではいけないものだと、みんなが認識してはいますが、ソニーと同様、そのスタートに居合わせた人々がどんどん減っていく現状の中で(私も第二世代です)、どう温度差をカバーしていくか、これは大変難しいものです。
 本文にもありましたとおり、だいたい昔気質のトップというのはワンマンでカリスマ性があって、めちゃくちゃな要求を押しつけたりして、しかしそのおかげでいろいろと奇跡的な製品ができあがったりするわけですね。
 それを今どきの若者たちに伝えても全然ピンと来ない。そのとおりやったりすると、つぶれちゃうか、あるいは反発してくるか、とっととやめてしまう。昔はなあ、こうだったんだ!と口角泡飛ばせば飛ばすほど、そのギャップは広がっていきます。
 何十年、何百年もずっと続いているモノというのは、実は変わっていないようで、その時代ごとにしなやかに変身していたりするものです。一見変わっていないようで、実は変わっているとか、一見変わっているようで、内実変わっていないとか。
 だめになっていく過程でのソニーにも「技術力」はあったと思います。時代を読む力もあったと思います。ある意味では、技術力がありすぎ、そして時代を先読みしすぎたような感もあります。
 また、ソニーは変わっていないけれども世の中がダメになったとも言えます。職人の作った高価なものよりも、多少性能が低くても、あるいは壊れやすくても安い方がいいという価値観の蔓延ですね。
 そして、いつのまにか、ソニーはそういう大衆の側に自らの基準を合わせてしまった。グローバルマネー世界に魂を売ってしまった。そうとも取れます。
 教育の現場でも同じことが言えますね。ただ生徒が集まればいいというわけではない。しかし、生徒が集まらなければ学校自体がなくなってしまう。そこで、どこに着地点を見定めるか…これには、実はデータよりも経験的な勘が必要だったりします。それこそ職人的な技。
 難しいけれども、だからこそやりがいがあり、面白い仕事であるとも言えます。教育界では比較的ゆっくり変革していけばよい部分もありますし、保守的で許される一面もあります。
 しかし、さすがにこういう世の中になったからこそ、教育から世の中を変えていきたいという大志が湧いてくるのも事実です。機を逸さないように、存分「勘」を働かせてやっていきたいと思います。
 ああ、それにしても私はソニー信者じゃなくて良かったな。これは信者には辛いわ。私はどちらかというとアンチでしたから、この失敗譚をありがたく他山の石といたしましょう。

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2012.01.03

弥右衛門 帰幽のお知らせ

↓昨年の3月の寝姿
Img_1809 日、我が家の黒猫トリオのうち、最も巨大にして偉大であったヤエ(正式名称…山口大和守弥右衛門)が天寿を全うし土に還りました。享年十五。
 この写真のように、いつも死んだように寝ていたヤエが、今日は寝ているように死んでいました(さすがにバラは抱いていませんでしたが)。
 その場所は南側の窓の際でしたから、おそらく午前中いつものように日だまりで豪快ないびきをかいて午睡をむさぼっていたのでしょう。夕方、本当にいつもの寝姿で冷たくなっておりました。
 思えば彼は本当に素晴らしい猫でした。
 黒猫、デブ、鍵しっぽ、金の目玉、月夜に吠える…など、世界中で言われる「猫の王」の条件を全て備えた立派な男でした。
 性格もとにかくファンキーで、いわゆる猫らしくしれっとしたようなところは全くなく、どちらかというと犬のような、いや明るいオヤジのようなヤツでした。
 なんと言っても、人間とお話ができるというところが素晴らしかった。私もどれだけ彼にグチを聞いてもらったことか。こちらがどんなに落ち込んでいても、ヤエはいつもファンキーでマイペース。本当に日々救われてきました。
 ワタクシにとっては本当に心の友でした。もちろん、そんなヤツですから、家族にはもちろん、多くのお客様、猫マニアに圧倒的に可愛がられました。人が好きで(特に若い女性)、そのいかにもオヤジ然とした外見に似合わず甘え上手で、人が話をしていれば、必ず輪の中に入ってきました。電話をしていても受話器をよこせとしつこく絡んできましたっけ。
 それから、彼の特技はマッサージでした。彼の8キロに及ぶかという体重と、前脚による絶妙なモミモミ、そしてあの温熱効果は最高でした。私もよく背中に乗ってもらって凝りをほぐしてもらいました。
Img_0600 この写真は、なぜかトイレの中でくつろぐ弥右衛門です。素でやっているのか、ウケを狙っているのか、よく分かりませんが、とにかくすっ頓狂なことをやって皆を笑わせてくれました。
 本当に直前までいつものように、食べ過ぎるほど食べて(そして吐いて)、寝て、巨大なウンコをして、他の二匹の猫と遊んでいましたから、おそらくは睡眠中に心不全か何かを起こしたのでしょう。
 もう15歳ですし、あれだけ太っていましたから、そういうこともあろうかと思いましたが、それにしても天晴れな弥右衛門らしい最期でありました。漢だ。
 ああそうそう、それから将軍様…いやいや弥右衛門様の偉大なる功績として挙げておかねばならないことがありました。それはミーの世話役としての功績です。
 4年ほど前に拾われてきた下半身不随黒猫ミー。彼女は子猫の時に脊椎を損傷し、下半身が動かず、自力排尿もできないようなハンディーを背負っていました。動物病院のお医者さんも、もう回復の見込みはないし、命もそんなに長くないかもしれないとおっしゃっていました。
 そんなミーは今、まさに奇跡を起こし、後の片足で踏ん張って立てるようになり、また、ここ半年くらいで、ちゃんと自力でおトイレで排泄ができるようになりました。まさにお医者さんもビックリの奇跡です。
 実は彼女がここまで奇跡的な回復を見せたのは、ほかでもない弥右衛門のお陰なのです。
 彼は彼女がウチに来たその日から、ある意味オヤジらしさを発揮し、この若くておてんばな小娘と真剣につき合ってくれました。まさに「レスリング」です。レッスルする中で、彼女は年々運動機能を取り戻し、今私たち人間の手を煩わすことなく自活するようになりました。
 これは本当にすごいことです。愛なくしては為し得ない奇跡だったと思います。
 そんなミーは今、最後にヤエが寝ていたところを何度も行き来し、哀しそうな目をして、大好きだった兄貴、いやオヤジを探しています…。
Slideshow1 まあ、病気らしい病気やケガらしいケガは一度もなく、最後の最後まで明るく元気に生を全うした弥右衛門は、とっても幸せであったと思います。それは間違いないですし、私たちにとっても大きな救いであります。
 ケンカにも負けたことありませんし、ご覧のようにお犬様をも制圧しておりました。
 娘たちもさすがに最初は号泣しておりましたが、そのうちヤエの亡骸をなでながら笑顔で歌を歌うようになりました。これこそヤエの不思議な力です。
 夜、庭のこぶしの木の根元の凍った土を家族で掘り、弥右衛門を葬って円墳を作り、神社と為しました。三が日で何度も初詣での機会があったのに実現せず、結果として家族の今年の初詣でがこの弥右衛門神社となったのは、何かの導きだったかもしれません。
 「自分が幸せになるためには、人を幸せにするしかない」というお釈迦様の教えを、そのまま体現していたような猫でした。
 結婚してすぐに引き取った弥右衛門。思えば娘たちより長いつきあいでした。今までも我が家を明るく照らし、守ってくれた「猫の王」。きっと、これからも私たちに幸せを与え続けてくれることでしょう。私たちもあなたの生き方に学び、人を幸せにできるよう頑張ります…いや、生き物として自然に生きていきたいと思います。
 今まで彼を愛してくれた多くの皆様、本当にありがとうございました。
 最後に一言…この前のタコ八郎の記事に書いたタモリの弔辞をまねれば、こんなふうになるかなあ。

「ヤエが日だまりで死んだ。何も悲しいことはない」…涙
 
 


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2012.01.02

ヒルクライム 『Hilcrhyme Theater vol.1』

20120103_102558 日は正月恒例の親戚の新年会。今年数えで白寿(99歳)を迎える祖母を中心に32名の親戚縁者が集まりました。
 昼前から飲み始めて、夕方からはこれもまた恒例の有志によるカラオケ大会。今年も異様に盛り上がりました。
 私は基本歌は聴く専門なんですが、これは一つの「祭り」でありますから、珍しく熱唱させていただきました。歌ったのはザ・イエロー・モンキーの「JAM」。まあたまにはいいものですね。
 私の実姉はヒルクライムの「パーソナルCOLOR」を歌っていました。今日はそんな姉のおススメである
Hilcrhyme のPV集を紹介します。
 実はですねえ、このPV集にウチの姉、ちゃっかり映っているんですよ(笑)。
 Hilcrhyme は代表曲「春夏秋冬」などで知られるヒップホップユニットですね。2009年にはレコード大賞新人賞を受賞しています。

 
ヒルクライム 「春夏秋冬」 091106

 私はヒップホップはあんまり聴かない(好きではない)のですが、このヒルクライムは、けっこうメロディックであり、アレンジのセンスもなかなかいいし、歌詞もまあよくあるパターンではありますが悪くはないですね。
 こうしたPV集は、つまりシングル(代表曲)集ということですから、初心者の入門用にも価値がありますね(そうそう、昨日元旦、彼らのベストアルバムの発売が発表されました)。
 そして、マニアにとっては、ボーナスクリップが魅力的です。このDVDのボーナスクリップは「No.109」の Show Case Edit 、すなわち、既存の楽曲にライヴ風な映像をつけるというやつですね。
 で、姉はその撮影に応募して当選し、ちゃっかりオーディエンスとして映っているわけです。
 ウチの姉、私より四つ年上ですから、年齢は推して知るべしなんですが(半世紀ほどこの世にいるらしい)、最近ではバンプやこのヒルクライムの追っかけなどをしており、正直かなり若々しい生き方をしております。
 実際ですね、外見的には半分くらいの年齢を騙っても気づかれないくらいでして、ある意味化け物的であります。だから、ライヴ会場にいてもたしかに自然だと思います。
 しかしねえ、だからと言ってこうしてPVにドカンと映るのはどうかと思いますよ(笑)。
120103_10_15_42_hdr ここでは小さい映像しか紹介しませんが、最前列の真ん中付近に姉はおります。途中けっこうアップで映っていますが、とてもウン十歳とは思えないでしょう。
 正月早々家族でコマ送りで観ちゃいましたが、まあこりゃあある意味ホラーですな。若者の中に溶け込んでいると言えば溶け込んでいますが…たぶん、ヒルクライム本人たちもスタッフさんたちもまさかそんなオバさんが踊り狂っているとは思っていないでしょう(笑)。
 ま、こうして老若男女に愛されるアーティストというのは幸せだと思いますよ。これは冗談ではなく、そういう音楽が長い目で見ると後世に残っていくのです。
 姉、9日には「Hilcrhyme RISING TOUR 2012」の横浜BLITZ公演に参戦するそうです。また最前列に行ってやる!と息巻いております(笑)。
 私も姉に負けないように、若く元気に頑張ろうと心に決めた正月二日のカラオケ大会でありました。よっしゃ〜、今年も暴れるぞ〜!ww

Amazon Hilcrhyme Theater vol.1

ヒルクライム公式


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2012.01.01

謹賀新年 2012(年賀状公開)

↓クリック!!
2012 さま、明けましておめでとうございます。
 昨年は本当に大変なことがたくさん起き、私たち日本人は大きな試練に直面しました。そして、大きな転換を迫られた年でしたね。
 今年はいったいどんな年になるのでしょうか。
 私は今年、年男です。だからというわけではありませんが、今年は個人的には人生最大の挑戦の年だと思っています。自分自身も大きくヴァージョンアップ、いやモデルチェンジしなければならない年だと思っています。
 というわけで、今年の年賀状はこれです(笑)。
 勝手にiPhone5を作ってみました。毎年我が家の年賀状はとんでもないものが多く(例えば2011年2010年2009年など…笑)、ある意味皆さまに期待していただいてるんですが、さすがに今年はあんまりおふざけが過ぎるのもなんなので、珍しくクールな感じにしてみました。
 ちなみにこれを作るのにアイデア1時間、作業30分です。今年の年末はいつもよりも忙しかったので、はっきり言って作業的にはかなり手抜きです。すみません。
 その結果、クールであるはずのデザインが、けっこうツッコミどころ満載になっています。よく見ると、いろいろと変なところ(故意にそうした所とミスでそうなった所)があります。
 間違い探しみたいなものでしょうかね。自分としてはツッコミポイントが6ヶ所くらいあります。もしお気づきの点がありましたら、コメント欄にでも書いてやって下さい(笑)。
 ちなみに「A Happy New World」というコピーは、なんとなくAppleがやりそうな雰囲気だなと思ってテキトーに作りました。英語的に正しいかどうかは知りません(笑)。でも、もしかすると2012年を象徴する言葉になるかもしれませんね。流行語大賞狙うかな。
 一方、下にあるスティーブ・ジョブズの名言「Think different. Stay hungry. Stay foolish.」については、ガチで今年の私の目標です。
 というわけで、本年も蘊恥庵庵主と不二草紙をよろしくお願い申し上げます。世界がいい方向にヴァージョンアップ、モデルチェンジしますように。

参考 2012年はスーパー天文イヤー

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