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2011.12.30

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 増田俊也 (新潮社)

Img_4277 さまじい労作。日本ノンフィクション史に残る傑作。まずは著者の取材力、構成力、筆力、そして「思い入れ」に敬意を表したいと思います。
 ある意味、昨日の「たこ八郎」とも通ずるかもしれませんね。昭和の格闘家の人生です。そして、「異形の時代」としての「昭和」そのものの研究書とも言えましょう。
 実は発売後すぐにさらっと読んでいたのですが、その時はなんとなく「不快」な感じしか残らなかったのです。それは、単純にこの700ページに及ぶ超大作をゆっくり読む余裕がなかったからであり、そのためにこの本の神髄に触れることなく、表面的な「アンチプロレス」的な物言いに浅薄な反応をしただけのことでした。
 年末になり、ようやくゆっくり読む機会を得て、一字一句逃さないように丸三日かけて読み終えた今、感動と言うよりは、なんと言いましょうか…感心というか、得心というか、そういう「腑に落ちた」感覚を覚えています。
 伝説の柔道家にして、悲劇のプロレスラーであった木村政彦。彼自身と本物の柔道の強さに焦点を当てて語られたこの「昭和史」は、まさに歴史書の趣を持っています。ある種歴史小説の迫力と言いますか、南朝秘史、哀史という感じでしょうかね。
 もちろん単純に、柔道史、プロレス史、ブラジリアン柔術史、総合格闘技史の貴重な史料、研究書としての価値もあります。多くの新事実が発掘されています。
 しかし、それ以上に、あの戦争を挟んで、この日本という国の文化がどのように激変したかを考えさせられましたね。
 私は今、戦後教育がアメリカによっていかに骨抜きにされたか総復習しているところですが、たとえば柔道の世界もそういう流れがあって今に至っているわけですね。
 実はそのへんは私にも誤解がありました。オリンピック競技となってJUDOになってしまったことを、このブログでも何回か憂えてきましたが、コトの本質はそんな表層的なことではなかったのですね。JUDO以前に柔道自身が自らの骨を抜いてしまっていたとは…。
 私は少し変わった視点から昭和史を見ています。たとえば「骨抜き」の「骨」の部分に、一般にはオカルトと片づけられてしまうような、「モノ」世界が存在していると考えています。科学という「コト」の名のもとに、心霊世界や宗教世界が代表する「モノ」世界が幽閉されていったと。
 かつての柔道や空手などが西欧で恐れられた理由の一つには、そういう「もののけ」的な恐ろしさがあったものと思われます。もちろん、日本という国自体が「得体のしれない気味悪さ」を持っていた原因もそこにありました。
 それは「精神性」とも言えますが、実は現代の感覚でそう説明してしまうのにも無理があります。もっと奥深い、もっと根源的な何かです。おそらくそれは我々の「存在」自体に関わるモノだと思います。言葉以前の次元なのです。
 そうそう、この本でも慎重に扱われている「合気道」なんか、その最たるものですね。結局植芝盛平が最強ともなりかねません。そして、その植芝が足下にも及ばないと自覚していた出口王仁三郎が人類史上最強であるとも…笑。
 まあ、そこに言及してしまうと筆者の意図とは違うところに行ってしまうので、軌道修正しましょう。
 武道が競技になり、スポーツになっていくということは、まさにその「モノ」を削いでいくことだと思います。その中で、木村政彦という物の怪は苦悩します。
 それでも、昭和はまだ良かったんですよ。昨日のたこ八郎、いや斉藤清作がそうであったように、物の怪の受け皿としてのスポーツ界、芸能界というのが存在したんですよね。もちろん、そこにはヤクザ世界というこれまた大きな受け皿がありました。
 そういう意味では、私は現代のプロレス界というのは最後の砦であるようにも思えるんですね。まあ、それもずいぶんと崩れてしまいましたが。
 筆者は、プロレスを徹頭徹尾「八百長」「フェイク」「ビジネス」であるとして語るに足りないと書きます。それは当然です。この本の説得力は、徹底的にリアルな強さに基づくそのスタンスから発しているからです。
 純粋なプロレスファンである私は、最初そこにカチンと来たわけですよね。私自身の存在に関わることですから(笑)。
 しかし、今しっかり読み終えてみて全く逆の感覚を持ったのは、実に筆者のそういう姿勢のおかげであったと気づいたわけです。
 増田さんが、リアルな強さを語り、本来の柔道の、木村政彦の強さを語れば語るほど(つまりプロレスや力道山を否定するほど)、「強さだけでは勝てない」という現実が起ち上がってきて、私たちの目の前にぬぐいようがなく広がっていくんですね。
 世の中、人生そのものがプロレス的であるわけですね。つまり、物語的であると。それは勝ち負け、強い弱いという二元論ではとても語り尽くせない「モノ」ワールドなわけです。
 実際に木村政彦は幸福な人生を送ったとは言えません。強いがゆえの弱さも露呈した一生だったとも言えましょう。
 この本の、感動的と評されるあのラストも、ある意味では「結局表世界では評価されない」という現実を確認させるとどめの一撃であるとも取れます。残酷ですね。
Img_4275 私はこの本を読み終えて、すぐに1年前に発売されたkamiproを引っ張り出してきました。
 そこには先日亡くなった上田馬之助さんの最後のインタビューが載っています。彼のこの言葉を読みたかったのです。
 「(プロレスは)筋書きにはないドラマ」
 もちろん「筋書きのないドラマ」論に対する上田流の反撃です。深い言葉です。私は、人生も世の中も「筋書きにはないドラマ」にこそ本質があると思います。だからプロレスが好きなんです。
 明日は大晦日。総合格闘技単独の興行ができなくなり、今年はプロレス(IGF)に呑み込まれての開催となりました。何か象徴的ですね。いったいどういう興行になるのか…。
 この本のラスト近く、筆者と、木村政彦の強さを継ぐ柔道家岩釣兼生と、そして石井慧の三人が木村の仏前に参るシーンがあります。
 その石井慧は、明日皇帝ヒョードルと闘います。はたして石井は木村政彦になれるのか、いや、なろうとするのか、あえてならないのか。大きな意味でプロレスに復讐するのか、プロレスに呑まれるのか、返り討ちにされるのか。歴史的な瞬間が近づいています。
 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」…「殺さなかった」ではなく「殺せなかった」が正しいのかもしれない…そんなことを予感しつつ、石井対ヒョードル、そしてIGF対DREAMを観戦したい思います。

Amazon 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
 

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