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2011.12.31

元気ですか!! 大晦日!! 2011

20120101001 井慧は木村政彦にはなれなかったのか…。
 木村政彦の遺志を継ぐ岩釣兼生から、ホンモノの柔道を託された石井は、ヒョードルの強烈な打撃の前に轟沈しました。
 木村ならヒョードルの打撃を捌いて組み付き、超高速の大外刈りで倒してから、得意のキムラロックで勝利していただろう…こんなふうに妄想するのもまた楽しいものですが、現実には今の柔道にはそういう力がまだないとういことが証明されてしまいましたね。
 これはこれで現実として受けとめるべきでしょう。「当て身」とその防御術を復活させるにはとんでもない時間がかかるのではないでしょうか。
 さて、今回の大晦日興行は、アントニオ猪木率いるプロレス団体IGFの力を借りて、総合格闘技のDREAMの試合を中心に展開されるという、今までにない画期的な内容でした。
 ある意味水と油の関係になってしまっていたプロレスと総合がまぜこぜにされた上に、対抗戦まであるというのは、これは本当に夢のようなことです。
 もともとIGFは現代プロレスへのアンチテーゼとして立ち上げられた部分があるので、本当ならなじむはずなんですよね。猪木さんや、あるいは馬場さんまでもが考えていたであろう「プロレスリングこそが総合的な格闘技である」という基本に立ち返っているわけですから。
 で、実際のところどうであったか。
 私はこの大会は大成功だと思いましたね。
 あの会場のファン、そしてテレビやネットで観戦していたファンたちの多くが総合ファンであり、アンチプロレス派だったと思いますが、彼らの知っている最近のパフォーマンス色の強いプロレスと、IGFが示すプロレスリングとはかなり違っているので、ある意味驚いた部分もあったのではないかと思います。
 私はネット観戦派だったので、会場の雰囲気はよく分からないのですが、IGFルールの試合はそれなりに観客の目を引きつけていたのではないでしょうか。
 まだプロレスは死んではいないということを世間に示すことができただけでも、今年の大晦日興行は大きな意味を持っていたと思います。
20120101157 特に、我が家の知り合いどうしの闘いとも言える、ジョシュ・バーネットと鈴木秀樹の試合は、まさに本来のプロレスリング、すなわち、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを体現した好試合でした。その上で、現代的な見栄えのする(大会場でも説得力のある)大技も繰り出され、身内びいきでなく本当にバランスの取れた好試合だったと思いました。会場も「お〜」という感じでしたよね。
 特に第1試合ての所選手のアクシデントもありましたから、プロレスの受け身のすごさ、フィジカルのタフさには皆驚いたのではないでしょうか。そこも含めてプロレスの技術だと思います。ジョシュと秀樹、本当にGJ!でした。
 そして、唯一のIGFとDREAMとの対抗戦、澤田&鈴川 vs 桜庭&柴田。これは面白かったなあ。ある意味プロレスができない四人(苦笑)。いや、器用だけれども不器用というか、プロレスの奥深さに呑まれてしまっている四人が、まさに上田馬之助さんの言う「筋書きにはないドラマ」を演じてくれました。
 あの不穏な雰囲気というか、プロレスの筋書きをギリギリ超えるか超えないかの緊張感と言いますかね、なんかとっても懐かしい感じがしました。
 これで次につながるという空気が出来上がりましたが、はたして桜庭和志がそれに応ずるのか。ある意味大人になれるのか!?これは大変興味があるところです。
 それにしても、ある意味四人と濃密で微妙な関係のある宮戸優光さんが、すごい存在感を示していましたね。放送でもアップでとらえられていました。
 宮戸さんは、今プロレス界でほとんどただ一人、本物の「プロレスリング」を伝導している人です。武道や禅にも造詣が深く、精神性も含めて本当の格闘技をしっかり理解し教えることができる人です。
 そんな宮戸さんの目と心に、あの試合や興行全体がどう映ったのか、ぜひ近いうちに聞いてみたいと思います。私も一観客、一ファンの立場から感想を述べさせていただきたい。
 その他の試合についてもいろいろ語りたいところですが、あまり時間がないので割愛します。なにしろ長い長い興行でした。
 それにしても、あまりにぴったりにカウントダウンを迎えられましたね。もうそれだけでも奇跡です。そこが猪木さんの不思議な力なのでしょう。まさに昭和の化け物、物の怪が生きているという感じでした。
 今日はニコニコ生放送でプロレス&格闘技を観戦し、テレビでは紅白を観賞していました。まさに昭和のヤクザが残してくれた文化遺産ですね。暴力団排除条例のことなどもあり、ずいぶんと状況は変わってしまった今年ですが、結局日本人はこれがないと年を越せません。
 結論、やはりプロは「強さだけではダメ」ですね。いろいろな意味で、力道山や木村政彦、美空ひばり、そして田岡組長の姿を見た大晦日の夜でした。
 


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2011.12.30

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 増田俊也 (新潮社)

Img_4277 さまじい労作。日本ノンフィクション史に残る傑作。まずは著者の取材力、構成力、筆力、そして「思い入れ」に敬意を表したいと思います。
 ある意味、昨日の「たこ八郎」とも通ずるかもしれませんね。昭和の格闘家の人生です。そして、「異形の時代」としての「昭和」そのものの研究書とも言えましょう。
 実は発売後すぐにさらっと読んでいたのですが、その時はなんとなく「不快」な感じしか残らなかったのです。それは、単純にこの700ページに及ぶ超大作をゆっくり読む余裕がなかったからであり、そのためにこの本の神髄に触れることなく、表面的な「アンチプロレス」的な物言いに浅薄な反応をしただけのことでした。
 年末になり、ようやくゆっくり読む機会を得て、一字一句逃さないように丸三日かけて読み終えた今、感動と言うよりは、なんと言いましょうか…感心というか、得心というか、そういう「腑に落ちた」感覚を覚えています。
 伝説の柔道家にして、悲劇のプロレスラーであった木村政彦。彼自身と本物の柔道の強さに焦点を当てて語られたこの「昭和史」は、まさに歴史書の趣を持っています。ある種歴史小説の迫力と言いますか、南朝秘史、哀史という感じでしょうかね。
 もちろん単純に、柔道史、プロレス史、ブラジリアン柔術史、総合格闘技史の貴重な史料、研究書としての価値もあります。多くの新事実が発掘されています。
 しかし、それ以上に、あの戦争を挟んで、この日本という国の文化がどのように激変したかを考えさせられましたね。
 私は今、戦後教育がアメリカによっていかに骨抜きにされたか総復習しているところですが、たとえば柔道の世界もそういう流れがあって今に至っているわけですね。
 実はそのへんは私にも誤解がありました。オリンピック競技となってJUDOになってしまったことを、このブログでも何回か憂えてきましたが、コトの本質はそんな表層的なことではなかったのですね。JUDO以前に柔道自身が自らの骨を抜いてしまっていたとは…。
 私は少し変わった視点から昭和史を見ています。たとえば「骨抜き」の「骨」の部分に、一般にはオカルトと片づけられてしまうような、「モノ」世界が存在していると考えています。科学という「コト」の名のもとに、心霊世界や宗教世界が代表する「モノ」世界が幽閉されていったと。
 かつての柔道や空手などが西欧で恐れられた理由の一つには、そういう「もののけ」的な恐ろしさがあったものと思われます。もちろん、日本という国自体が「得体のしれない気味悪さ」を持っていた原因もそこにありました。
 それは「精神性」とも言えますが、実は現代の感覚でそう説明してしまうのにも無理があります。もっと奥深い、もっと根源的な何かです。おそらくそれは我々の「存在」自体に関わるモノだと思います。言葉以前の次元なのです。
 そうそう、この本でも慎重に扱われている「合気道」なんか、その最たるものですね。結局植芝盛平が最強ともなりかねません。そして、その植芝が足下にも及ばないと自覚していた出口王仁三郎が人類史上最強であるとも…笑。
 まあ、そこに言及してしまうと筆者の意図とは違うところに行ってしまうので、軌道修正しましょう。
 武道が競技になり、スポーツになっていくということは、まさにその「モノ」を削いでいくことだと思います。その中で、木村政彦という物の怪は苦悩します。
 それでも、昭和はまだ良かったんですよ。昨日のたこ八郎、いや斉藤清作がそうであったように、物の怪の受け皿としてのスポーツ界、芸能界というのが存在したんですよね。もちろん、そこにはヤクザ世界というこれまた大きな受け皿がありました。
 そういう意味では、私は現代のプロレス界というのは最後の砦であるようにも思えるんですね。まあ、それもずいぶんと崩れてしまいましたが。
 筆者は、プロレスを徹頭徹尾「八百長」「フェイク」「ビジネス」であるとして語るに足りないと書きます。それは当然です。この本の説得力は、徹底的にリアルな強さに基づくそのスタンスから発しているからです。
 純粋なプロレスファンである私は、最初そこにカチンと来たわけですよね。私自身の存在に関わることですから(笑)。
 しかし、今しっかり読み終えてみて全く逆の感覚を持ったのは、実に筆者のそういう姿勢のおかげであったと気づいたわけです。
 増田さんが、リアルな強さを語り、本来の柔道の、木村政彦の強さを語れば語るほど(つまりプロレスや力道山を否定するほど)、「強さだけでは勝てない」という現実が起ち上がってきて、私たちの目の前にぬぐいようがなく広がっていくんですね。
 世の中、人生そのものがプロレス的であるわけですね。つまり、物語的であると。それは勝ち負け、強い弱いという二元論ではとても語り尽くせない「モノ」ワールドなわけです。
 実際に木村政彦は幸福な人生を送ったとは言えません。強いがゆえの弱さも露呈した一生だったとも言えましょう。
 この本の、感動的と評されるあのラストも、ある意味では「結局表世界では評価されない」という現実を確認させるとどめの一撃であるとも取れます。残酷ですね。
Img_4275 私はこの本を読み終えて、すぐに1年前に発売されたkamiproを引っ張り出してきました。
 そこには先日亡くなった上田馬之助さんの最後のインタビューが載っています。彼のこの言葉を読みたかったのです。
 「(プロレスは)筋書きにはないドラマ」
 もちろん「筋書きのないドラマ」論に対する上田流の反撃です。深い言葉です。私は、人生も世の中も「筋書きにはないドラマ」にこそ本質があると思います。だからプロレスが好きなんです。
 明日は大晦日。総合格闘技単独の興行ができなくなり、今年はプロレス(IGF)に呑み込まれての開催となりました。何か象徴的ですね。いったいどういう興行になるのか…。
 この本のラスト近く、筆者と、木村政彦の強さを継ぐ柔道家岩釣兼生と、そして石井慧の三人が木村の仏前に参るシーンがあります。
 その石井慧は、明日皇帝ヒョードルと闘います。はたして石井は木村政彦になれるのか、いや、なろうとするのか、あえてならないのか。大きな意味でプロレスに復讐するのか、プロレスに呑まれるのか、返り討ちにされるのか。歴史的な瞬間が近づいています。
 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」…「殺さなかった」ではなく「殺せなかった」が正しいのかもしれない…そんなことを予感しつつ、石井対ヒョードル、そしてIGF対DREAMを観戦したい思います。

Amazon 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
 

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2011.12.29

たこ八郎 『たこでーす。』

 曲・編曲は久石譲。私は久石さんの音楽ダメなんですが、この曲だけはいい曲だと思いました(笑)。なかなかセンスの良いテクノポップ歌謡に仕上がっていますね。久石さんのチープな(失礼)感覚が見事に昇華しています。
 テクノにソウルフルなコーラス、そして実にブルージーなたこ八郎さんのボーカル。この独特のリズム感、音程感、これは意識してできるものではない。間違いなく隠れた名盤。カラオケで歌いたいけど、ないだろうな。
 カミさんが突然はまったんです。あんまりはまって、ほとんど泣きそうなくらいなので、今日の記事にしてあげることにしました。
 なんで突然…?
 実は、年末恒例の「今年亡くなった人」追悼番組を観ていたら、細川俊之さんと一緒にたこさんがちょっと映ったんですね。それを観て、急にカミさんに何かが降りてきたらしい(たぶん、タコ…笑)。
 カミさんはたこさんのこと、あんまり知らなかったらしく、その後ずっとネットで調べていました。そして調べれば調べるほど、彼のすごさ、深さにはまっていったというワケです。
 なんで年末のこの忙しい時(カミさんは大掃除しながらお節料理を作っている)に、たこ八郎なんだ?wwww
 しかし、たしかに久々に彼のことを思うと、なんとも切ない気持ちになりますね。昭和は遠くなりにけり。
 天才ボクサー、フライ級チャンピオン、ピンク映画俳優、普通の映画俳優、コメディアン、そして「現代の妖精」…。本当にいろいろな側面を持っていた人物ですね。 
 師匠の由利徹さんはもちろん、赤塚不二夫さんやタモリ、たけしなど、大物に愛されました。昭和の芸人さん、スポーツ選手、芸術家は、みんなこんな感じに自由で奔放でした。古き良き時代です。
 人気絶頂の中、海で心臓マヒを起こし亡くなりました。タモリは葬式で「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」と言ったそうです。
 そんなたこ八郎さんの才能と魅力の一面を垣間見られる映像があったので紹介します。ビートたけしもお手上げという感じですね。ボクサー斉藤清作(河童の清作)の貴重なフィルムも紹介されています。
 なんか泣けますね。本当の笑いにはこういう哀愁が必要なのではないでしょうか。先ほどやっていた某お笑い番組とはあまりに違いますね…。

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2011.12.28

『ビートたけしのガチバトル2011』に思う…

20111229_130356 年に続き年末のガチバトルを観ました。
 ま、本物の格闘技界では、とうとう年末恒例だった「総合格闘技」というガチ(?)での単独興行は不可能になり、プロレスという「物語世界」に力を借りることになりましたが、こちらはどうでしょうか。
 「ガチバトル」に私たちは納得、満足するのでしょうか。
 特に今年は重いテーマに関する激しいバトルが予想されました。もちろん震災、原発事故という未曾有の悲劇が日本を襲ったからです。そういう状況において真っ向から論をぶつけ合うことが、どれほど意味を持つのか、ある意味興味深く観始めました。
 番組ホームページから引用すると、今回のバトルのテーマと概要はこんな感じ。

 <1:放射能汚染はどこまで深刻か?深刻でないか?>
政府が決めた被ばく限度量「年間20ミリシーベルト」は本当に安全なのかを巡り、「1ミリシーベルト以上の場所に住んではいけない」とテレビでもお馴染みの専門家・武田邦彦(中部大教授)が主張すれば、「そんな話は現実的に不可能!」と、澤田哲生(東工大助教)がすかさず反論。そこに大槻義彦(早大名誉教授)が「武田先生の過激な危険論のせいで家庭崩壊したお母さんもいるんです…」と加わり、冒頭からスタジオは大荒れに…。

<2:原発は日本に必要か?不要か?>
続いては、『地震列島ニッポン』に存在する54基の原発を今後どうするべきかを巡る議論に。「常に隠蔽体質の現在の『原子力村』の人間を追い出すべき」と河野太郎(衆議院議員)が声をあげると、脱原発を明確に主張している山本太郎(俳優)も、チェルノブイリの事故を引き合いに出し「日本政府がやっていることがどれだけ非人道的か!」と原発継続派に食って掛かる。山本が福島第一原発の30キロ圏内に暮らす人々へ取材したVTRも見所のひとつ。テレビではこれまで、この問題について十分語る機会が無かった山本太郎が今、その想いを熱く語る。

<3:日本は財政破綻するのか?安泰なのか?>
1000兆円もの借金を抱えた日本経済。それでも国際的に見て日本の財政は安全水準と主張する高橋洋一(嘉悦大学教授)や舛添要一(参議院議員)ら「安泰派」に対し、早ければ3年後には経済破綻すると予想する経営コンサルタントのジェームス・スキナーや元財務省主計局長の片山さつき(参議院議員)ら「破綻派」が牙を向く。

 最初は私もそのガチバトルフィールドに自らの言葉をも投げ入れながら観ていましたけれども、なんか後半はどんどん空しくなってきてしまいました。
 論戦が白熱すればするほど、つまり「専門家」の「言葉」が乱舞すればするほど、たとえばスタジオに招かれていた福島の漁師や農家の方々は置いていかれる。つまり現実からどんどん乖離していってしまうのです。
 これはおそらく皆さんも感じたことでしょうし。番組の最後の最後に福島の方が「一言言わせて下さい」と手を挙げて、そうして発せられた「言葉」。両「言葉」の違いは、なんとも絶望的に大きなものでした。
 そう、「言葉」って本当に「自我」への「執着」の道具なんですよね。もちろん、「言葉」は人と人をつなぐメディアでもあるのですが、それはある意味では、それぞれが「個」として孤独であることの裏返しでもあるわけです。バラバラだから「絆」という意識が必要だと。
 番組を見終った時、私はやはりお釈迦様の教えは正しいなと思いました。言葉にこだわるな。自我にこだわるな。
 そして、もう一つ、今回の議論の基礎にあるのが、全て「カネ」だということ。自分も結局そうなので、本当にこれにはうんざりしてしまいました。
 「貨幣」と「言葉」は似た存在です。どちらも対象に(ある限られた時空で通用する)社会的な価値を与えます。そしてそれは、社会に対する自己の価値を担保するための道具でもあるのです。私のモノ・コト論からすると「コト」世界ですね。
 それらにこだわるというのは、まさに自我に執着することです。ブッダはそれをいさめました。言葉やカネにこだわってもしかたないのです。
 ここから少し(だいぶ?)飛躍した考えを述べさせていただきます。つまりわがままな「言葉」を弄させていただきます。
 たとえばこういう災害が起き、これだけ多くの情報が流れ、我々は同朋が苦しんでいることを知っていますよね。想像力を働かせれば、いつでも被災者の苦労を忖度することができます。その想像力こそが人間の人間たる所以ですから。
 そうしてまずは、政府がお金をどう分配するとか、そういうことでなく、単純に自分たちにとって余っているものを分け与えればいいと考えるべきなのです。仏教で言う「布施」という行為です。「利他」の心です。「慈悲」の心です。
 この期に及んでも、自らの貨幣的な富を追いかけるのではなく、また他人事のように政府に全てを任せたり、ある特定の会社の責任にしたりせず、「無財の七施」や「有財でも七施」を心掛けるべきなのです。
 と言いつつ、私もそれができないで苦しんでいるのです(つまり修行中なのです)。
 仏教経済学というのがあるのをご存知ですか。まさに「布施」「利他」「慈悲」によって成り立つ経済です。これは私の解釈では、成熟した心を持ったものが為す社会主義経済です。
 心の成熟がないのに、富の平等、分配を語ったから、近現代の社会主義や共産主義は負けました。かと言って資本主義が正しいかというと、全くそんなことはありません。それはただ成熟していない人間の心にマッチしていたから勝ったというだけです。
 だから、本当に理想論で申し訳ないのですが、こういう時こそ、そういう「心の成熟」を促す政治家や教育者や、専門家が出てきて論議してもらいたいのです。
 仏教経済学だけでなく仏教政治学というのも、もっと研究されていいのではないでしょうか。
 もう成長はけっこうです。成熟したいものです。まずは自己に執着しないこと。そのための第一歩として言葉や貨幣の価値を疑うことです。
 こういう話は、それこそ現代においては「物語」として一笑に付されるのでしょうかね。私はいよいよ「物語」が復権すると感じているのですが。2012年、コトよりモノの時代は到来するのか。

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2011.12.27

サンドラ・ブロック主演作品 『しあわせの隠れ場所』

20111228_71432 2年生の担任の先生が生徒に見せていたのを少し盗み見しまして、なかなかいい話だったので改めてお借りして観賞いたしました。
 うむ、教育者としていろいろ考えるところがありましたね。感動もありましたが、憂いや迷いも生まれました。
 この映画の内容は実話です。あの天才アメフト界のスーパースター、マイケル・オアーの成功譚、いわばアメリカンドリームのお話、シンデレラストーリーとも言えます。
 しかし、サンドラ・ブロックが主演女優賞を獲ったところからも分かるとおり、この映画の主役はオアー自身ではなく、そのオアーをサポートした女性リー・アン・デューイということになります。
 黒人差別の激しい、そして貧富の差の激しいメンフィスが舞台。白人の富豪と黒人のホームレスというある種アメリカンリアルを象徴するような両極どうしが出会い、そして夢を紡いでいく。
 これはたしかに美しい愛と絆の物語です。しかし、その裏に現実を感じなければ、この映画を観た価値がないでしょう。
 デューイ自身も悩んでいるように、こうした献身的なサポートは、金持ちの「自己満足」なのかもしれません。実際金持ちでなければ、あのようなサポートはできないのですから。
 そして、たまたまオアーは救われ、そして成功したけれども、それは本当に特殊なケースであって、この話に感動して涙して終わってしまってはいけないのです。
 原作名「THE BLIND SIDE」にはいろいろな意味が含まれていると思います。
 なんともセンスのない(笑)邦題のような意味もたしかにあるでしょうが、それ以上に、いろいろな意味での「死角」が表現されていますよね。
 もちろんアメリカンフットボールのポジション的な意味。そして、白人と黒人、富裕層と貧困層、それぞれに見えないそれぞれの生活や人間性。ある種の障害が実は大きくプラスに働く可能性があること。
 そして、なんて言いますかねえ、私も含めて日本人にとっては、こういう「ノーブレス・オブリージュ(豊かなる者の義務)」の発想と言うか行動と言うか、そういうものさえもある意味「盲点」ですよね。
 それこそ、「ノーブレス・オブリージュ」自体が「自己満足」の表現、手段、産物であると言えますが、やはり何もしないよりも、絶対に何かした方がいいに決まっているじゃないですか。たまたま出会った人しかサポート出来ませんが、その一つ一つの善行を集めるしかないんですよね、本当に幸せな世の中を創るためには。
 結局、お釈迦様の説く、「布施」「利他」の心なのかなあと思いました。単純に経済的物質的な満足を得るためでなく、「布施」「利他」のために裕福になるということもありなのかな、そんなことを思いました。
 アメリカは経済的物質的な満足を目指して突っ走って来ました。しかし、その裏では、(もちろんキリスト教的な発想のもと)人間としての心のバランスを取るために、こういう「善意」も発達させてきたと思います。
 日本は、アメリカの表面的な豊かさだけを輸入し、そうした裏側の、まさにブラインド・サイドを真似ようとは思いもしませんでした。もちろん、そこには日本における宗教の形骸化、無力化という背景があります。
 そんな我々日常の「死角」「盲点」も考えさせられました。
 そういう意味で、何度観てもいろいろ感じるところがある作品ではないでしょうか。サンドラ・ブロックの演技のすごいところは、そういういろいろなメッセージを感じさせるところですね。単なるいい人、強い女の表現ではありません。
 皆さんもぜひご覧下さい。

Amazon しあわせの隠れ場所


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2011.12.26

DIABLO ビジネス&カジュアルバッグ KA-2152B

41dmvfbiafl っと使っていたなんとも色気のないパソコンバッグがいよいよダメになったので、先月これを買いました。なかなか結構な使い心地ですのでおススメします。
 前のバッグはもう10年くらい使っていましたが、家に置いておくと猫の爪研ぎとなったり、また、ちょっと前には、中でコーヒーをぶちまけたりして、さすがにみっともない外見と臭い(笑)になってしまいました。
 今まではあんまりバッグなどにお金をかけない方だったんですけど、今回はちょっと奮発してみました。とは言っても6000円弱ですからね。
 ここのところ人に頼まれてcoachだのdunhillだののビジネスバッグを注文しまして、へえ〜、バッグってこんなに高いのか…などといい歳して感心したりしてました。
 さすがに私はそこまでのモノ
をとは思いませんでしたけれども、まあ多少は見映えのする国産品を探していましたところ、これを見つけてポチっとしてみたわけです。
51sulckpstl まあ単純にデザインが気に入ったのですね。最近、私は「赤」に惹かれるんです。闘魂ですね。で、このバッグ、内側は派手に赤ですし、縫製の糸も地味に赤だったりするものですから、これは微妙に闘魂を主張できるかなあと思ったんです。
 実際手にしてみますと、大きさも手ごろですし、チラッと見える「赤」がステキですし、たしかにビジネスにもカジュアルにも使える、なかなかのものだと思います。
 今までバッグと言うと、ファスナーで口が閉じるものしか使ったことがなかったんですが、こういう開口型もいいものですね。出し入れが楽なのはもちろん、中身が見えるので、今までよりちゃんと整理するようになります。前のバッグなんか、10年前のゴミがそのまま入ってたりしましたからね(笑)。
 最近は、この前買ったなんちゃってネオ一眼(あれも赤)を放り込んだりしてますので、この大きさはちょうどいい感じです。面白いところにポケットが付いていたりして、収納もなんとなく楽しくなります。
 ただ、あの内側の微妙なファスナー(いや、チャックと言うにふさわしい感じ)は、イマイチ意味が分かりません。単に私が使い方を知らないだけかな?
 もちろん合皮ですけど、そこそこの質感もありますし、いい感じですよ。
 ちなみに青やグレーもあります。

Amazon DIABLO ビジネス&カジュアルバッグ KA-2152B


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2011.12.25

ロカテッリ クリスマス協奏曲

 日はクリスマスです。たぶん(?)仏教徒である私にとっては、仏教の伝道師としてのイエスのお誕生日をお祝いしましょう。
 ずいぶん前にも書いたとおり、イエスが当時「東方」からやってきた新思想に触れていた可能性は大です。そして、触れたからには影響も受けていることでしょう。
 ま、それはいいとして、今日はクリスマスにちなんで1曲紹介しましょう。
 クリスマス協奏曲としてはコレッリのものが最も有名ですね。しかし、今日はコレッリの音楽的後輩である(ま、ほとんどのバロックの作曲家は彼の後輩ですが)ロカテッリの作品です。合奏協奏曲集作品1の第8番ヘ短調。
 まずは聴いてみてください。いい曲です。

 ロカテッリはイタリア人ですが、後半生はアムステルダムで過ごしました。ヴァイオリンの演奏技巧を発達させた功績は大です。
 それにしても、なんで当時のクリスマス関係の曲は「暗い」んでしょうね。コレッリもそうですし、トレッリもそうですし、ビーバーやブクステフーデやバッハもそうです。
 特に不協和音を強調するところが特徴ですね。つまり、イエスが誕生するまでの世界観が暗くて不協和なのでしょう。
 そういうところに明るいスターが誕生するから価値があるのです。全て救世主というのはそういう存在ですよね。もともとの世が明るくて協和しているなら、メシアの出番はありません。
 このロカテッリの曲でも、前半は上方飛躍の音型と半音進行を伴ったモチーフが繰り返され、不協和音を織りなしていきます。どんより重い空気が漂いますね。
 そんな中、3楽章の5声のフーガは短いながらカッコイイですね。地味に派手な(?)転調してたりして、なんとなく不穏な感じが表現されています。
 そして、最後はお決まりのパストラーレ。一気に明るく快活になって大団円。
 そのあたりのコントラストこそバロックの神髄ですね。
 今日はTBSの「報道の日」を観ていて、それこそどんよりな気持ちになってしまいました。こういう空気の中では、やはり我々は救世主を待望してしまうものです。
 しかし、本当の救世主は自分の中にあるのだと思います。ただ待っているだけではいけない。変わるのは自分自身。その集合体こそがメシアの本体であって、たとえばキリストの物語というのは、バロック的な演出に過ぎないとも言えるのです。もちろんイエス自身もそう言っています。あくまで主体は自分自身であると。
 今年の日本のクリスマスはいつもと違うはずです。実際のところどうだったんでしょう。いつものようにただ消費されただけだったら残念ですね。配慮とか自粛とか謹慎とか、そういう次元でなく違いがあって当然だと思うのですが。
 そういう意味において、今日の「報道の日」は価値があったなと思った次第です。
 

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2011.12.24

志村正彦展〜路地裏の僕たち

K_img_render 晴らしい催しでした。そして感動よりも、やはり「切なさ」が残りました。
 お世辞抜きに世界に誇る音楽家であり詩人であった志村正彦。彼が亡くなって今日でちょうど2年。今日は三回忌の日です。
 この日にこうして、彼の友人たちが世界中のファンのために、また、彼のことを(悔しいほどに)知らない地元の人たちのために、そして、もちろん彼自身と彼のご家族のために開催されたということは、本当に素晴らしいことです。
 実際各地からたくさんのファンの方がいらっしゃり(地元の方もたくさんいらっしゃいました)、会場に入るのに数時間を要するほどの盛況ぶりでした。
 私も2時間近く並びましたが、その価値が充分にある展示内容であったと思います。友人たちの手によるということで、公的な、世界に開かれたアーティストの一面というよりも、本当に地元富士吉田に根ざした、私的な、人間志村正彦を感じることができるものでした。
 そこに実に大きな価値があると思います。よそゆきの彼のクロニクルに終始してしまえば、そこには彼自身を歴史にしてしまう残酷さが生まれてしまうと思うのです。
 しかし、こうして、ある意味普通の少年、つまり、お調子者でちょっと情けない、でも一方ではわがままで、夢見がちな少年像をリアルに紹介してくれることで、来場された方々にとっては、彼自身と彼の作品の新しい魅力を発見する機会となったのではないでしょうか。
 また、家族を愛し、友人を愛し、学校を愛し、富士吉田を愛し、ファンを愛した志村くんへ、それぞれが愛をお返しする場にもなったと感じました。彼は愛の総量がものすごく豊富だったんです。そして、それは彼が愛に飢えていたことの裏返しでもあります。
 彼の尊敬していたジョン・レノンの言うとおりです。志村くん自身も歌っているじゃないですか。Love is wanting to bo loved.


 
 この2年、ものすごく早く、そして密度の濃い時間の蓄積でした。
 この時間を過ごす間、彼の存在が薄まることはなく、逆にどんどん確かなものになっていくような気がしました。
 それこそが私にとっては「切なさ」なのです。
 私のモノ・コト論で言うならば、生きたモノであった彼と彼の言葉、音楽が、彼の死によってコトになっていってしまう、つまり、私たちの脳内の記憶や、残された情報としての「確か」なものになっていってしまうということなのです。
 それは実は志村くん自身が最も敏感に捉え、そして恐れていたことなのでした。「もののあはれ」ですね。
 それが、ここ「市民会館」で行われている…その事実に気づいた時、私は涙をこらえることができなくなってしまいました。彼がここにこういう形で帰ってきたんだなと。
 あの日、この市民会館が、私にとってのリアルな志村正彦くんとの出会いの場でした。そして別れの場ともなってしまいました。
 市民会館もリニューアルされました。あの楽屋はもうありません。そして三回忌にこうして帰ってきてくれたけれども、もう彼の時は止まってしまっているのでした。

 そう、今日は月江寺駅にあの日と同じ横断幕がかかっていましたね。あれって、あの当時私のクラスにいた女の子のお父さんが考えて作ったものなんですよ。当時の富士吉田駅の駅長さんです(うどんマイスターでもあります)。
 志村くん自身の時は止まってしまっても、彼の遺した作品たちは生き続けます。そして、私たちはそれを活かし続けなければなりません。
 私自身も彼から学んだこと、彼に勇気づけられたこと、本当にたくさんの恩があります。少しでも彼のことをたくさんの人に知ってもらえるよう、こうして私が生きていることを許されている限りは努めていきたいと思っています。
 ちょうど今日も、行列に並んでいる時、偶然ある方々にお会いし、この前突然降って湧いた「フジファブリック学」講座の件が一歩前進しました。また確実になったら告知します。これは私のお役目なのでしょう。頑張らせていただきます。
 志村くんのご家族、友人の皆さま、本当に素晴らしい会をありがとうございました。お疲れさまでした。


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2011.12.23

『地球の雛型「日本」は世界一切を救う』 伊達宗哲 (ヒカルランド)

20111225_74413 日、o'clockの話から、時に縛られない生活をしたいというようなことを書きましたが、今日はある意味時空を超えた一日を過ごさせていただきました。
 今日は天皇誕生日。私、初めて皇居の一般参賀に行きました(かなり遠巻きでしたが)。別に私は右でも左でもないし、なんの宗教にも属さない(あらゆる宗教に関係していますが…笑)人間ですけども、今年は妙に今上天皇陛下のお誕生日をお祝いしたくなったのです。
 というのも、今日は午後から四谷で「王仁魂復活祭」というものに参加することになっていて、その案内に「東京がスになる」ということで、このようなシンボルが描かれていたのです。これを見て、ここのところ東京の霊脈に興味があった私は、理屈抜きになるほど!と思いました。これはまず午前中は陽たる皇居に行かねばということを思ったわけです。
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 なんだか怪しい感じですよね(笑)。そう怪しいんです。東京、いや日本、そして世界は理屈だけで説明できないこと満載なんですよ。今日くらいそういう世界にどっぷり浸かるのもいいかなと。
 天皇制については私もかなりはっきり思うところがありますけれども、今日は細かいことは書きません。ただ、この陰陽図にあるように、天皇だけを見ていても、あるいは信奉していてもダメなんですよね。
 今の日本の「象徴」が天皇だとすれば、その対極にある、あるいはそれを補完する関係にある、その象徴が出口王仁三郎です。
 この陽たる天皇の誕生日に、陰たる王仁三郎の魂を復活させて、陰陽相和し、真に大和な日本、そして世界を作り出す、そのスタートの日にしようというのが、私なりに解釈したこの復活祭でした。
 上の案内にありますように、今回は船井幸雄さんの作られた「にんげんクラブ」と、憲法1条と9条の和合を解く「いっきゅう会」の協力を得ての開催。150名を超える方々が集まり、世の中をよくしようという基本的な志のもとに大きな上昇機運を作り上げました。
 祭の中心になった二つの講演は、それぞれなかなか興味深いものでした。伊達宗哲さんの世界観については、以前お会いしたこともありますし、また前著『王仁三郎と日月神示のひな型神劇』や、今日紹介する新著でよく理解しているつもりでしたので、お言葉一つ一つに納得。一方の「天皇の真実」…特に「憲法9条のご発案者は昭和天皇である」ということを熱弁された河内正臣さんの方は、まあパワフルで面白いこと。スケールが大きいですねえ。ある意味バカボンワールド(もちろん最大の賛辞です)。
 王仁三郎について静かに淡々と語る伊達さんと、天皇についてマイクを持っていながら使うのを忘れるほどの熱弁を繰り広げる河内さん。まさに陰陽でしたね。とってもめでたい感じがしました。
 陰陽と言えば…一次会終了後、会場におられた安倍元首相の奥様昭恵さんにご挨拶させていただきました。ある意味ご近所なので「不二の仕組み会」にお誘いしておきました。これから大きな動きが生まれるでしょう。楽しみです。
 昭恵さんは、まさに「陽」ですね。太陽のような方でした。そんな彼女は今「陰」の世界に触れつつあります。そのバランス感覚が見事だと感じました。さすがファーストレディーになられる方です。ご主人もきっといい影響を受けられることでしょう。こちらも楽しみですね。
 その後、二次会と三次会はずっと伊達さんとお話しさせていただきました。前も書いたように、伊達さんと私は王仁三郎だけでなく「禅(臨済宗妙心寺派)」という共通点があるので、ついつい話が盛り上がってしまいます。たぶん、他の方には全然分からないトークが展開されていたのではないでしょうか(笑)。
 というわけで、今日は伊達さんの最新刊を紹介します。震災を受けて書かれたこの本、前著との文体の違いを感じていた私の疑問も氷解しました。やはり震災がこの本を書かせたのですね。お役目のある方には、やはりそういう力が働くのでしょう。
 王仁三郎のこと、あるいは霊的な世界について、あまりご存知でない方でも、充分理解できる内容です。ぜひお読み下さい。2012年を迎えるにあたって、私たちが考えておかねばならないことがたくさん書かれていると思います。
 お話をしていて、伊達さんと私、共通の「夢」があることが分かりました。きっとそれは実現することでしょう。いや実現させねばなりません。そしてその時節は到来していると思います。

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2011.12.22

「o'clock」の「o'」って?

Imgres 日は豆知識を。
 と言いますか、私、今日まで知りませんでした(笑)。教わった記憶ないよなあ。
 「o'clock」の「o'」って「of the」なんですね!
 由緒ある辞書たちによりますと、「of the clock」は「時計では」「時計によると」というニュアンスだそうです。
 しかし、ご存知のとおり、「時計によると6時15分です」というのを「It's 6:15 o'clock」とは言いません。「o'clock」は〜時ぴったり、すなわち正時にしか使いません。
 これはどうしてなのか、ちょっと考えてみました。
 今私たちが想像するクロックとは、あの長針と短針のある置き時計とか柱時計とかですよね。
 しかし、歴史的に見ると、ああいう時計というのは案外新しいものなんですよね。近代の産物です。
 英語のclockは、ラテン語で鐘を意味するcloccaを語源としています。つまり、クロックというのはもともと「鐘の音」を表す擬音なんですよね。言われてみるとそんな気がしてきます。
 昔は、たとえば教会の鐘なんか毎正時に鳴らしていたじゃないですか。それでみんな「あっ今〜時か」と思った。鐘が5回鳴ったから紅茶を飲もうとかね(five o'clock tea = 午後の紅茶)。
 昔の人たちは、今の私たちのようにセコセコそわそわしていなかったのでしょう。何時何分(何秒)なんていうことは気にせず、ある意味のんびり生きていたわけです。
 ですから、「今何時?」というのは、まさに「何時」だけを聞いていたわけでして、つまりは「さっき鐘が何回鳴った?」とか「次の鐘は何回鳴るかね?」というニュアンスだったのだと思います。
 その証拠に、古い英語では「What time is it now?」とは言わず、「What o'clock is it now?」と表現していたそうです。
 最近はデジタル時計や、ケータイの時計表示を見ることが多い我々。どんどん本来の「o'clock」的感覚を失っていると思います。
 あの、鐘を指折り数えるような体験はもうないのでしょうか。家の中で壁掛け時計が正時を打つこともないですよね。ほら、夜中目が覚めたら時計が時を打って、それを心の中で数えて、「あっ、まだ3時か…」とか、そういう感覚です。
 「o'clock」はノスタルジーの世界に追いやられていくのでしょうか。なんとなく寂しいような気もします。時に追われて生きるのではなく、時を忘れて、そして時々鐘の音で思い出すような、そんな一日を送ってみたいような気もします。

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2011.12.21

追悼! 森田芳光&上田馬之助

 た哀しいお知らせが届きました。昨夜の「望年会」 でたまたま話に出たお二人が、まさか亡くなるとは…。
 映画監督の森田芳光さんには、私は多大な影響を受けました。私が作る映像作品には森田さん風の、たとえば長回しが多用されていたりするんです。
 本当に残念です。ここのところ、森田さんらしい作品に出会えずにいたので、ますます寂しいところです。いつか、またあの「間」を感じたかったなあ。
 今日は追悼の意を表して、私の大好きな「それから」をどうぞ。これは静止画によるオマージュ作品ですが、雰囲気はそのままという感じです。

 続きまして、こちらも大ショック…。尊敬するレスラーの一人であった上田馬之助さんが亡くなりました。事故で体が不自由になって苦労されながらも、プロレス界のために、あるいは地域のために尽力されている姿、あるいは明るくたくましく前向きに生きておられる姿に心打たれておりました。
 上田さんと言うと、タイガージェットシンさんと肩を組んで入場するシーンに象徴されるように、悪役レスラーの代表のようなイメージですが、彼が日本プロレスの道場である意味最強だったことは有名な話です。
 そんな彼の実力が垣間見れるこの試合、私もドキドキしながら観た記憶があります。UWFとの交わりだからこそ現れた上田馬之助の本当の怖さ。猪木さんが彼を抜擢した理由がよく分かります。
 特に前田との絡みは見ものですね。今見ても興奮します。
 ご冥福をお祈りします。


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2011.12.20

生きる力=死なない力

St02_katada 日は東京で歌会&「望年会」。仕事を終えてすぐに中央道に乗りました。車中、久しぶりにNHKのラジオ第一を(らじる★らじるで)聴いていました。
 その中で防災教育のスペシャリスト、群馬大学の片田敏孝教授の非常に興味深い話を聴くことができました。
 片田先生の指導のおかげで、岩手県釜石市では3000人近くの小中学生の命が救われました。生存率99.8%。救われたというのは正しくないかもしれません。子どもたちが自らの命を守ったということですね。
 とにかく逃げる。一人でも逃げる。まずは自分の命を守る。「想定」を信じない。瞬間の判断で最善のことをする。ここまで登れば安全…ではなく、まだ登れるならまだ登る。家族も逃げていると信じる。一番最初に逃げる人になる。その場に逃げる空気を促す。自然の豊かな恵みを享受するのと同時に、時々起こる災いを上手にやりすごす「作法」を身につける…。
 釜石市を襲った津波はまさに「想定外」でした。ハザードマップは全くあてにならないものでした。しかし、ほとんど全ての児童生徒が助かったのは、片田さんを中心とした日頃の防災教育と訓練が徹底していたからです。
 そうした教育がなされていないと、子どもはまず親に会おうとします。親も子どもに会おうとします。会えずとも連絡を取ろうとします。しかし、それはほとんどの場合、お互いの命を危険にさらす結果を招きます。
 実際、他の地域ではそのような形になってしまったケースが多かったのではないでしょうか。
 皆さんもぜひ、こちら(小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない 「想定外」を生き抜く力)をお読みください。今日の放送の内容とも重なる部分がたくさんあります。
 文科省はここのところ盛んに「生きる力」ということを言います。今日もたまたま文科省の「生きる力」パンフレットが学校に送られてきました。どうぞご覧下さい。先ほどの片田さんの文章と文科省の文章、比べてみてください。どうですか。
 どちらが本当の意味での「生きる力」でしょう。
 語弊があるのを承知であえて言うなら、私の考える「生きる力」は「死なない力」です。
 この世の中は私たちがなるべく「死なない」ように発達してきました。自然科学も社会科学も人文科学も、およそ学問というのものはそのために生まれてきた、そして発展してきたと言ってよいでしょう。
 しかし、今やその学問は形骸化し、断片化し、単なる知識の詰め込みとなり、「死なない力」の育成にはまるでなっていない状況です。そうした学校に向けて「生きる力を!」といくらお題目を唱えても、あるいは単なる流行りにすぎない「PISA型」なる学力観を叫んでも、はっきり言って根本は何も変わらないでしょう。
 我が校でも本当の意味での「生きる力(死なない力)」の育成は大きな課題です。そして、さらにそれを個人のレベルだけでなく、まずはクラス、そして学校、社会、さらに世界に広げるところまで考えています。
 まずは「体験」すること。そして「失敗」しておくこと。「想定内」も「想定外」も「想定」しておくこと。「勘」や「想像力」を養うこと。それらをどう教育の現場で適度に安全に行なうか。そして、もちろん必要な知識も身につけねばなりません。これは大変ですが、やりがいのある仕事です。

 追記 アントニオ猪木さんの説法もぜひお読みください。これもまた「生きる力」です!

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2011.12.19

1942年4月19日(ヒトラー誕生日前日)…フルトヴェングラー指揮『第九』

96958a88889de1e5e6e2e0e4e2e2e3ebe3 日の第九演奏会。ちょっと違った角度からとらえてみましょう。
 今日の重大ニュース「将軍様逝去」とどういう関係があるのか(笑)。あると言えばあるかな。
 昨日の演奏会では、第九の前に地元の子どもたちを中心としたリコーダー・アンサンブルが披露されました。
 「ふむ、日本はいまだに戦前の文化を引きずってるな。ま、いいけど」…リコーダーと第九、この組み合わせでこんなこと思うのは私だけでしょうね。
 つい最近こちらにも書いたとおり、日本のリコーダー教育(それもジャーマン式運指という特殊なもの)は、ナチス文化の模倣が今でも続いているものです。
 そして、ベートーヴェンの第九がヒトラーのお気に入りだったのは有名な話ですよね。フルトヴェングラーのかの有名な「御前演奏」は動画もありますよ。1942年4月19日、ヒトラーの誕生日前日の第九です。すごいな。いい演奏。

 というわけで、1936年のベルリンオリンピック、そして1942年の第九御前演奏が、昨日都留市で再現されたわけです…って、オレってヒトラーか(?)。
 そうそう、今日とうとう偉大なる将軍様がお亡くなりになったという報道がありましたよね。驚きました。
 今年は震災や原発事故はもちろんのこと、世界的に見ると、ビンラディンとカダフィの殺害、そして金正日の急死と、いわゆる反米勢力のドンたちがこの世から消えました。これは歴史的に大きな出来事ですよね。
 中国のネットでは、2006年に処刑されたフセインも加えて、4人でマージャンができるなどという不謹慎な書き込みもあるようですが(笑)、ある意味冗談でなく、さらに世界のアメリカ化が進むとも言えます。
 私はもちろんナチスの信奉者ではありませんよ。しかし、もうすでにあの頃、つまり100年近く前には、アメリカの世界進出は進みつつあり、その対抗勢力としての、ドイツや日本という図式があったことを忘れてはいけないでしょう。
 本国ドイツでは戦前の(ナチスの)空気を消すことに躍起になりましたが、日本には上述のように色濃くそれが残っているというのも、まあ面白いと言えば面白いことです。日本はつくづく不思議な国です。

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2011.12.18

初めての第九に思う

Img041 は第九を生で「聴く」のは初めてでした。もちろん舞台の上で演奏する「喜び」もある曲ですが、こうして客席で聴きますと、まさに瞬間瞬間が発見であり、あっという間に終わってしまったような気がしました。たしかにこれはすごい曲だ。そして素晴らしい演奏でした。
 音楽という「縁」の不思議さ。今日もそれを痛感しました。面白いですね、音楽というのは。自らが人生経験を積み、他者との豊かな縁を実感して初めて気づく「音どうしの縁」というものがあるのです。
 人類がどんどん複雑な音楽を作るようになったわけが、なんとなく分かったような気がしました。歴史は常に堆積し、我々の奏でる和声もどんどんぶ厚くなってきたのでしょう。
 というわけで、いきなり結論的な感想だけを書いてしまいましたね。今日は我がホームグランドとも言える都留市のうぐいすホールで行われた「市民第九演奏会2011~響け!歓喜の歌~」に生徒たちを連れて行ってきたです。
 きっかけは実に不思議なものでした。今、我が中学の弦楽合奏部のコーチとして、神奈川フィルのヴァイオリン奏者の方に来ていただいているのですが、なんとその方がたまたまトラとして今回の舞台に乗るというではありませんか。なんで…よりによって都留へ…。
 もともとその先生とは、私はなんの縁もありませんでした。人づての人づてで紹介していただき、私も初めてお会いしてみてビックリ。ご本人とはそれこそ初対面でなんの接点もなかったのですが、話していくと驚愕の事実が…。彼女のお母様とは、古楽関係であまりにピンポイントな接点がありまして、共通の知り合いがずいぶんいて驚くというか何と言うか。
 で、そっちの話は置いておいてですね、今回の第九の指揮をされる方が、神奈川フィルのヴィオラ奏者の方だったんですよね。そう言えばそうでした。そこに気づいてやっと分かった!そっか!
 私が都留の学生の時分から、その方がオケの指導にいらしていたんです。私は管弦楽団には所属せず、なぜか箏曲愛好会におりました(笑)が、時々エキストラで舞台に上がっていたので、よく存じ上げていました。
 そんな不思議な縁のことを、コーチが指揮者に話してくれたところ、私を含め弦楽合奏部の生徒たちを招待してくれたのです。なんとも不思議すぎるご縁であります。ありがたや、ありがたや。
 タイミングと言えば、こういうこともあります。合唱には都留文科大学の合唱団の一部も参加しています。ここのところ同合唱団の活躍は目を瞠るものがあります。今年も全国大会で金賞ですからね。その合唱団に今年の春我が高校を卒業した生徒も入団しておりまして、今日も舞台で歌っておりました。また、その合唱団の指導をされている先生も古楽祭でお世話になり(宴会芸なども一緒にやり)、よく存じ上げ、かつ尊敬している方です。
 まあ、もっと昔の話をすれば、その合唱団のメサイア公演で古楽器オケを編成しコンサートマスターをやったこともありましたっけ。そうだ、あの時はたまたま帰国中だった赤津さんも飛び入りでヴィオラを弾いて下さったんだっけ。
 さらに合唱団で歌われている方、ホールで運営をしている方、聴衆の方、多数の知り合いがいまして、とにかくたくさん挨拶しましたね。これこそ音楽の結ぶ縁であり、そして音楽の本質であり、音楽が象徴しているモノなのでありましょう。
 いつもは自分の演奏活動が忙しい時期でなかなか聴きに行けなかったのに、今年はどういうわけか、ポッカリこの日は空いていたというのも不思議と言えば不思議でした。たぶん今年というタイミングが最高だったのでしょう。
20111219_08_1 さて、改めてベートーヴェンの音楽をじっくり聴いてみまして、彼が天才である理由というのもよく分かりました。たしかに彼は歴史を踏まえ、そしてそれを破壊し、新たな生命を生みだしていました。バロック音楽の全盛期からたった100年でここまで芸術音楽は変わったのかと思いましたね。
 いつも書いているとおり、天才とは、歴史を全て知り尽くし、自分のモノにしつつ、それを破壊する勇気を持つ者のことを言います。破壊という言葉には一種の過激さや悪意が感じられますから、そうですねえ、別の言葉で言うなら、更新というかヴァージョンアップというか、部分的な進化というか、つまりは、我々生命が「縁」によって遺伝子を継承しつつ更新してきたような、そんなイメージでしょうかね。
 ベートーヴェンの音楽には、当時で言えば最も新しかった古典派はもちろん、その古典派が否定した(破壊した)バロック、そしてそのバロックが更新したルネサンス、さらにはそれらが破壊しきれなかった民族音楽(民俗音楽)の要素もたくさん聴かれました。
 あそこからまたロマン派やら印象派やらジャズやらロックやら、いろいろなモノたちがベートーヴェンを更新していって今があるわけですよね。そんな壮大な歴史という「縁」の流れを感じることができた70分でした。
 昨日のコーラスも、そういう意味では非常に「縁」を感じる素晴らしいものでした。演奏ばかりしていないで、こうして生の音楽に身をまかせることも大切だななんて、そんなことも改めて感じる昨日と今日でした。
 音楽、すなわち「縁」がこの世に存在することこそ「喜び」であります。
 それにしても指揮者の吉田さん、私のことをよくぞ覚えていてくれました。「髪の毛モジャモジャだったのに…」と笑っておられました(笑)。

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2011.12.17

河口湖北岸の夕景

 日連続で富士山の写真です。
 手抜き記事だと思われそうですが、実際は…そうかもしれません(笑)。学期末、そして募集の時期ということで正直落ち着きません。
 写真撮るよりも文章書く方が時間かからないんですよ、本当は。でも、この季節の富士山は本当にきれいなので、ぜひとも世界中の皆さまに見ていただきたいというのもありますね。
 それから、格安なんちゃってネオ一眼GE X500を買ったので、いろいろ撮ってみたいというのもあります。
 今日は夜、河口湖の北岸にある円形ホールで地元のコーラスを聴く機会がありましたので、開演前に湖岸に出て夕景を撮影してみました。
 夕焼け、富士山、ハクチョウ、ガン、カモ、そして金星…なかなか美しい光景でした。三脚を忘れたので手ブレしてるのもありますが、ぜひご覧下さい。

↓日没。昼間は湖面が荒れていましたが、だいぶ落ち着いたようです。
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↓パノラマ撮影。西の空はまだかなり明るいですね。
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↓鳥たちが集まってきました。岸辺で寝るのでしょう。
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↓色がうまく出ないので、夕陽モードにしてみました。
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↓かなりリアルな発色です。悪くないですね。
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↓見事な湖面のテクスチュア。
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↓向こうの山の明かりは天神山のスキー場です。最近行ってないな。
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↓ちょうどガンの群れがねぐらに向かって飛んでいきました。
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↓富士山をアップにしてみました。ぶどう色ですね。
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↓上空はだいぶ暗くなってきました。
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↓河口湖大橋の明かりもきれいですね。
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↓富士山と足和田山の間に金星が見えてきました。一番星です。
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↓毛づくろいをする鳥たち。
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↓近づいても動じませんな。
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↓鳥たちにも金星は見えているでしょうか。
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↓手持ちだとちょっときつくなってきました。
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↓うっとりする景色。しかし寒い…。
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↓ちなみに天神山は寄生火山です。あの貞観の噴火の時形成されました。
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↓金星以外にも星が見え始めました。そろそろ限界が。
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↓足和田山が湖面に映っています。
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↓最後の一枚。逆さ富士。ピントも甘いし手ブレもしています…限界だ。
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2011.12.16

ダイナミックな富士山の雲

 日は夜明けの富士山を紹介しました。とても穏やかな表情でしたよね。
 今日は打って変わって実にダイナミックな雲が発生していました。ものすごい動きで、ずっと見ていても飽きません。まるで生き物のようです。
 今日は西から湿った空気が流れ込んできていました。その気流が富士山を越える際に雲を発生させていたのです。独立峰を越える気流は非常に複雜な動きをします。写真を見ていただけると分かるとおり、吉田大沢の谷から雲が生まれていますね。まるで噴煙のようでしょう。
 山頂付近はいったいどれだけ強い風が吹いているのでしょう。こんな富士山に登る猛者もいるというのですから恐れ入ります。
 動画でお見せすれば、皆さんにもそんなダイナミズムを体験していただけるのですが、今日はあえて静止画で勝負です。はたしてこのエネルギーが伝わるのか。一つの挑戦ですね(成功しているとは言い難い)。
 ではどうぞ。一気に50枚以上行きます!途中1枚だけ「くじら」がいます(笑)。
 あと、ぜひこちらもぜひ合わせてご鑑賞ください。
 
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2011.12.15

富士吉田の夜景&夜明けの富士山(「いつもの丘」から)

 ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月
 僕は浮雲の様 揺れる草の香り (志村正彦「浮雲」)

 昨夜から今朝にかけて、ふたご座流星群が極大を迎えました。今年は比較的大きな月が出ており、あまり観測条件はよくなかったのですが、そこを逆手に取りまして、月夜富士の撮影をかねて観測してきました。
 場所は富士吉田の新倉浅間公園、すなわち地元の人の言う忠霊塔、フジファブリックファンなら志村くんお気に入りの「いつもの丘」ということですね。
 朝3時半に起きまして、4時ごろからパシャパシャ写真を撮って参りました。残念ながら流星をとらえることはできませんでしたが、美しい富士山と富士吉田の街の灯を記録することができましたので、一部紹介いたします。
 撮影時刻や撮影データも載せるべきかもしれませんが、面倒なので(笑)割愛します。撮影に使ったカメラは月食の時と同様に格安なんちゃってネオ一眼GEのX500です。けっこう使えますよ、これ。
 では、解説もなしでただ並べます。いや、言葉はいらないでしょう。皆さんの感性でご鑑賞くださいませ。

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2011.12.14

2012年はスーパー天文イヤー

079_m は日本中が皆既月食に湧きましたね。そして今日はふたご座流星群の極大日。ここ富士北麓はやや曇っているので、明朝早起きして観測する予定です。
 さてさて、来年は今年以上に…と言うよりも、100年単位で稀に見る素晴らしき天文イヤーとなります。
 2012年という年について、いろいろなところでいろいろなことがウワサされていますけれども、たしかに昔から天文現象は凶兆(たまに吉兆)と考えられていましたからね、なんとなく偶然ではないような気もしてきます。
 特に来年は「金」にまつわる現象が注目です。これもまた言霊的に言えば「艮の金神」の出来を象徴するのかもしれません。ま、単なるこじつけですけど…。
 なんと言っても「金環食」。東京をはじめ、我が山梨県、静岡、名古屋、大阪など、関東から西の太平洋側で観測されます。これは本当に楽しみですね。
 ツイッターでもつぶやきましたが、私、天文少年だった小学生時代にですね、当時の小学館の事典「天文と気象」でよく見ていたんですよ。「2012年、東京で金環食が見られる」というのを。それで、2012年かあ…自分は48歳になる年だな、いったいどこでどういう生活をしているのだろう…と想像してワクワクしていたのです。それをよ〜く覚えています。
 その時は、そんな2012年がものすごく遠く感じていたのに、とうとうその年が来ちゃうんですね。なんとも不思議な感じがします。あの頃は、自分は天文学者になると信じていましたから、まさか山梨県で国語の先生になるなんて、まあ夢にも思いませんでしたよ(笑)。
 さて、その金環食ですが、ご存知のとおり、原理的には皆既日食と同じです。しかし、たまたま、その食の前日が、月が2012年で最も遠くなる日なんですよね。月ってけっこう近くなったり遠くなったりしてるんですよ。距離でいうと35万キロから40万キロまで変動する。5万キロですからね。そういう楕円軌道で地球の周りを回っているということです。
 その結果、月の見かけの大きさが微妙に太陽の見かけの大きさより小さくなって、上の写真のようなことになるわけです(それ以前に、月と太陽の見かけの大きさがほぼ同じということが奇跡ですよね。神のイタズラとしか思えません)。
 金環食でも空は暗くなるでしょうから、明るい金星は肉眼でも確認できるはずです。楽しみです。とにかく晴れてほしいなあ。東京で見られるのは数百年に1度ですからね。
 月曜日かあ。生徒を早く集めてみんなで観ようかな。金環食は朝の7時半くらいの約4分間です。
 さて、先ほども金環食中の金星の話が出てきましたが、この金星、来年はこの日のみならず注目です。それもやはり太陽と月との関係においてです。
 6月6日の「金星の太陽面通過」はマニア的には大注目ですね。つまり日食において太陽の前を月が通過するのと同じように、今度は金星が通過するわけです。金星の見かけの大きさはとても小さいので、もちろん「日食」とは言いませんが、望遠鏡で観察すれば、黒い丸が太陽の前をかわいらしく動いていくのが分かります(6時間もかかりますが)。水曜日の朝から昼にかけてですから、これも学校で観測だな。
 さらに、8月14日には「金星食」があります。今度は金星が太陽役ということです。つまり、金星の前を月が通過して、金星を隠してしまうのです。明け方3時から4時くらいの現象ですが、夏休み中(お盆休み中)ですからラッキーです。
 その他、金星(ヴィーナス)ちゃんは、3月14日に木星と、11月27日には土星と接近します。これも非常に見ごたえのあるランデブーとなるでしょう。
 その他、6月4日には部分月食、7月15日には木星食と、まあ来年はいろいろな天体が近づいたり、重なったりします。たしかにこれは異常事態ですね。互いの引力の関係からしても、普段と違う状況になるわけですし、まあ昔の人たちからすれば、これはある意味恐ろしい光景の連続なのかもしれません(いや、現代人である私もすでにゾッとしています)。
 それから、来年は夏のペルセウス座、冬のふたご座の二大流星群がともに好条件で観測できそうです。
 まあとにかく、こうした天文現象(昔で言えば天変)が「吉兆」となることを祈ります。吉と出るか凶と出るかは、実は私たちの心次第なのかもしれませんね。アセンションというのはそういうことなのかもしれません。

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2012年の金環食と言えばドリカムの「時間旅行」…だそうです。
ちなみに金環食では「ダイヤモンドリング」は観られません(笑)。

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2011.12.13

未来へのキオク

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 Yahoo!ニュースなどでも紹介されていましたとおり、Googleのストリートビューで被災地の様子が公開されました。
 ストリートビューについては、いろいろな問題も取り沙汰されていましたが、こういう形で被災地の「今」と「昔」を記憶として残すという意味においては、たしかに画期的なことであり、また高く評価されるべきものであると感じました。
 ぜひ皆さんも海岸線を中心に「歩いて」みてください。私も今日、小一時間辺りを見回しながら歩いてみました。
 7月の風景がほとんどでした。いまだ津波の爪痕が克明に残っている中、多くのトラックやパワーショベル、そしてたくさんの作業員の方、住民の方が復興へ向けて必死に働いている様子がうかがえます。
 新聞やテレビで取りあげられる、あるいはネットの動画や写真などで見る光景とはまた違った「リアル」な現地の姿が(ほんの少しではありますが)分かったような気がしました。
 このストリートビューのみならず、Googleらしい情報収集力で被災地の様子を記録し、後世に伝えようとするのが、サイト「未来へのキオク」です。
 こうして、時間だけでなく空間をも超越して、このたびの大震災の記憶が世界中に刻印されていくのは、実に意味のあることだと思います。
 もちろん、視覚だけでは伝わらないモノもたくさんあるでしょう。あるいは興味本位で見られることに抵抗のある被災者の方もいらっしゃるでしょう。
 しかし、私たちの歴史が証明してしまっている、「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉に象徴されるような人類のある意味での愚かさを克服していくために、このGoogleのテクノロジーと思想は決して無意味ではないでしょう。
 今日はこのくらいにして、今からまた東北を旅してみたいと思います。

未来へのキオク ストリートビュー


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2011.12.12

絆とは…

Display 日は小津安二郎監督の誕生日にして命日でした。昨日追悼した市川森一さんと同様、小津さんも人と人の「絆」を表現し続けてた人でしたね。親と子の絆、社会の絆…それらの美しさだけでなく、それらが断絶していく様子を淡々と描写して、私たちの胸に迫る作品を多数残しました。
 今年の漢字は「絆」だとのこと。2位以下の「災」や「震」を大きく引き離しての第1位。たしかに今年ほど「絆」の大切さを痛感した年はありませんでした。
 では、「絆」とは何かというと、これは実は簡単ではありません。人と人の結びつき、縁、思いやりというような、なんとなくイメージ的に近い言葉で説明するのが精一杯ではないでしょうか。
 実は、古くはこの「きづな」という言葉に当てられていた漢字は「紲(絏・緤)」でした。「絆」は「ほだし」と読まれることの方が多かったようです。
 「ほだし」は「ほだす」の連用形から生まれた名詞ですね。今でも「情にほだされる」などと使われます。「ほだされる」と受身(迷惑)の形で使われることからも分かるとおり、古い日本語ではどちらかというと悪いイメージでの「結びつき」という意味でした。何かに縛られて自由がきかない状態ですね。
 もともと「きづな」も「ほだし」も、動物が逃げないように綱などで結びつけておくことを指す言葉です。
 そうしますと、「きづな」の「つな」は「綱」や「つなぐ」と同源であることは想像できますが、「き」が何かというと、これはよく分かりません。
 和名抄(10世紀)には「き」の部分には「止」偏に「支」という漢字が当てられています。「伎」「岐」「妓」が上代特殊仮名遣いにおいて甲類に分類されていることから、おそらくこの漢字も甲類の「き」であると想像されます(とは言っても、私は上代特殊仮名遣いの存在自体に懐疑的ですし、たとえそれがあったとしても和名抄に正確に反映しているかは疑問であります)。
 いちおう甲類の「き」だとすると、「木」ではありませんね。綱で木につないでおく…なんていう単純な発想はやはり却下されるようです。
 とすると考えられるのは、「生き」や「息」の「き」でしょうか。語頭の母音が脱落することはよくあります。そう、「生一本」とか「生娘」という時の「き」もその例ですね。
 つまり、もともとは「いきつな」だったと。そして、昔の「いき」には「命」という意味もありましたから、つまり、「きづな」とは「命綱」の意味だということです。
 そうすると、つながれた綱は私たちを束縛するものではなく、本来は守ってくれる存在だったのかとも思います。まさに紐帯。あるいはへその緒です。
 最近ある別の中学の話を聞くことが多いのですが、そこでは本来教育の根幹たるべきその「絆」が失われているように感じます。怒ってほしいのに怒ってくれない先生、ほめてほしいのにほめてくれない先生…。
 私たちはある意味何かに縛られて守られて初めて思いっきり成長できるのです。本当の自由とは全てから解放された「フリー」な状態ではありません。何かに守られている、誰かが手綱をしっかり握ってくれている状態こそが、真の自由なのです。
 ウチの学校では、そんな当たり前な「絆」を大切にしていきたいと考えています。震災があったから思い出す…では実は哀しいことですね。本当は「絆」が今年の漢字に選ばれているようではいけないのかもしれません。

 


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2011.12.11

追悼!市川森一さん…『私が愛したウルトラセブン』 (NHK)

20111212_91224_2 の人生に多大な影響を与えた(であろう)脚本家の市川森一さんが昨日お亡くなりになりました。
 訃報を聞く前に、本当に偶然市川さんのことを思い出していたのです。不思議なタイミングでした。
 というのは、昨日、来春の受難節に演奏するバッハのマタイ受難曲(初期稿全曲)の練習に初めて参加しまして、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんけれど、あの曲に「バラバ!」と合唱が叫ぶシーンがあるじゃないですか。そう、イエスと極悪人バラバとどちらを釈放すべきかというシーンです。その「バラバ!」という民衆の不協和音を聴いた瞬間、あの「殺し屋超獣バラバ」を思い出したのです。
 そのウルトラマンAの第13話「死刑!ウルトラ5兄弟」&第14話「銀河に散った5つの星」については、5年前のイースターの日に詳しく書いていますね。私はそこでも市川さんがクリスチャンであることに言及しました。
 たとえばこんなところにも、私の奥深い所にある市川さんの影響が感じられますね。ウルトラマンシリーズ、特にウルトラセブンに育てられた私たち世代にとって、市川さんの残したメッセージは、心や体の無意識の領域にまでしっかり染みついています。
 さあ、そんな市川さんに感謝と追悼の気持ちをこめて、今日は「私が愛したウルトラセブン」を紹介しましょう。
 多くの市川作品の中で、私はこれが一番好きです。名作です。放送当時も感動した覚えがあります。
 市川さん、上原正三さん、金城哲夫さんら脚本家を含め制作スタッフとキャストの皆さんの作品にかける情熱、葛藤、愛憎…歴史的作品が生まれる瞬間の人間模様が見事に表現された脚本です。
 ほとんど全てが実名ですが、ストーリーはフィクション。しかし、フィクションが真実をリアルに語るという「作品」というものの本質を、最も素晴らしい形で実現した「作品」であると思います(内容や注目点はAmazonのレビューなどをご覧下さい)。
 私もそうだったんですけれども、往年の熱いウルトラセブンファン、特に「アンヌ」ファンにとっては、「痛い」作品になる可能性大であり、正直期待していなかったというか、観るのも怖いというほどの作品だったんですね。しかし、大方の予想を裏切って非常に感動的な作品になっていたわけです。
 そうしたファンの「思い入れ」から来る危険というのは、なかなか乗り越えられないのが現実です。それで失敗した作品は枚挙に暇がありませんよね。いわゆる実写版なんかほとんどそうしたリスクに負けて沈没しています。
 そんなジンクスを越えてこの作品が名作たりえたのは、やはり脚本によるところが大きい。もちろん、役者さんたちの努力や演出(マニア的なこだわりが各所に見られました)も高く評価できます。しかし、なんと言っても市川さんの「思い入れ」がファンの「思い入れ」を凌駕したことが、この奇跡を生みだした大きな要因だと思います。
 そういう方だったんですよね、市川さん。ワイドショーのコメンテーターとしての姿からはなかなか想像できなかったかも…。
 今の私の大切な部分を占めている思想というのがあります。このブログにも比較的はっきり現れているのではないでしょうか。異端や異教徒や異境人、国つ神に対する天つ神、被征服者、歴史的敗者へのシンパシーや愛情…これらの源泉は、実は市川さんの「言葉」にあったのでは、と思うこの頃であります。
 この作品にも、そうした視点が多分に含まれています。私も久しぶりにビデオをお蔵から引っ張り出してこようかと思います。そして、また遠くなってしまった昭和を懐かしみつつ、市川さんのご冥福をお祈りしたいと思います。

Amazon 私が愛したウルトラセブン(DVD)

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2011.12.10

皆既月食&月夜富士 2011.12.10

 日は久し振りに好条件の皆既月食。写真を何枚か撮りましたのでそれを紹介します。
 撮影に使用したカメラはこちらで紹介したGEのネオ一眼X500です。夜に強い(笑)のがこのデジカメの特長です。
 まずは半影食が始まる前に月夜富士などを撮影しました。

↓月夜富士。肉眼での印象に近いと思います。満月だと夜でもこんなにはっきり富士山は見えるのです。露出10秒。このカメラは最長30秒の長時間露出ができます。
ISO80 4.7mm F3 10s
Gedc2011_2

↓満月に照らされた雲。冬の大三角が昇ってきました。
ISO80 4.7mm F3 15s
Gedc2022

↓21h08m 半影食が始まっています。左下が暗くなり始めました。
ISO80 73.5mm F5.2 1/250s
Gedc2033_2

↓もう一度月夜富士。露出を長めに。雲が流れています。
ISO80 11.2mm F3.6 30s
Gedc2040

↓冬の夜にこういう雲をかぶるのは珍しい。月が地球の影に入るのに合わせて、富士山も雲の傘をさしたのか。
ISO80 4.9mm F3 10s
Gedc2043

↓21h30m 本影が迫ってきています。中空に地球の影を想像すると面白い。
ISO80 62.7mm F5.1 1/250s
Gedc2046

↓21h47m 本影食(部分食)が始まりました。
ISO80 73.5mm F5.2 1/600s
Gedc2071

↓22h04m 地球が丸いということがよく分かります。というかそれを実視できる唯一の機会なのです。
ISO80 73.5mm F5.2 1/160s
Gedc2075

↓22h05m 露出をオーバー気味にすると影の辺縁がくっきりします。
ISO80 73.5mm F5.2 1/50s
Gedc2077

↓月の光度が下がり星がたくさん見え始めました。ふたご座流星群もいくつか飛んでいます。実は年間通じて最も見ごたえのある流星群はふたご座流星群なんですよ。明るくて早い。ただし寒い(笑)。
ISO400 4.9mm F3 30s
Gedc2080

↓22h30m このカメラのAF、無限遠に弱いんですよねえ。MFはいいから、せめて無限遠モードがほしい。しかしピンボケのおかげで色が分かりやすかったりして。てか、手ブレも加わってますね。
ISO800 73.5mm F5.2 1/2s
Gedc2089

↓22h43m 富士山1200メートル地点にある我が家では6等星まで見えます。月が暗くなって5等星くらいまで見えるようになってきました。
ISO3200 4.9mm F6.6 30s
Gedc2096

↓23h12m 皆既に入りました。肉眼では冬の銀河もくっきり。銀河と言えば普通は夏ですよね。空が暗く澄んでいるところでは冬の銀河も美しく見えます。フジファブリックの志村くんが「銀河」を「冬」の曲として作ったのも納得ですね。
ISO3200 4.9mm F6.6 30s
Gedc2098

↓23h17m 皆既中の月。ピンボケと手ブレでこれが限界。天体望遠鏡と銀塩カメラで撮っていた小学生時代の方がずっと上手(苦笑)。今回は赤かったですね。これは大気中に塵など粒子が多い証拠です。地球規模でのことなのでなんとも言えませんが、噴火、地震、津波、原発事故の影響がないとは言えません。
ISO3200 73.5mm F5.2 1/15s
Gedc2102

↓23h28m おおいぬ、オリオン、ぎょしゃ、おうし(すばる含む)…冬ですなあ。そこに赤銅色の月がポッカリ浮かぶ。なんとも幻想的な光景です。
ISO3200 4.9mm F6.6 30s
Gedc2120


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2011.12.09

ツイッターという矛盾

↓鳥のさえずりが大学の「訓告」に
466389094 も尊敬申し上げている早川由紀夫さんのツイートが大きな問題(話題)となっています。
 早川由紀夫さんは火山学者で群馬大学の教育学部教授。早くから、福島第一原発事故に伴う放射線被害の危険性を訴えてきた方です。彼が発表した放射線汚染マップは、私もTwitterでいち早く紹介させていただきました。
 ご存知の方も多いと思いますが、問題となったのは次のツイート。

『福島県の農家は、ことしもコメつくるつもりなんだろか。つくったとして、誰が食べるんだろか。
セシウムまみれの干し草を牛に与えて毒牛をつくる行為も、セシウムまみれの水田で稲を育てて毒米つくる行為も、サリンつくったオウム信者がしたことと同じだ。福島県の農家はいま日本社会に向けて銃弾を打ってる。』

 たしかに過激な比喩ではありますが、実際に起きていることを考えると、これは真実であり、正論であると言えます。
 このツイート(及び以前のいくつかのツイート)に対して、大学当局から訓告が発せられました。そこにはこんなことが書かれています。

『貴殿のインターネット上のツイッターにおける福島県の被災者や農家の人々に対する配慮を著しく欠く発言は、運営に要する経費の大部分を国費によって賄われている国立大学の教員として不適切な発言と言わざるを得ず、「本学の名誉若しくは信用を失墜する行為」を禁止する就業規則の規定に抵触している。よって、今後はインターネット上のツイッターにおける不適切な発言をすることのないようにされたい』

 早川さんのツイートのどこがどう「不適切」なのか。大学の発した訓告を読むと、一連の比喩が福島の方々に対して配慮を欠いており、その行為が群馬大学の名誉や信用を失墜させる可能性があるという点において「不適切」だったということがわかります。
 つまり、ウソをついた結果誰かに害を及ぼしたとか、実際に福島の方を傷つけたとか、そういうことではなく、被害者は群馬大学だということになります。
 これは正直、権力による言論統制、口封じであると感じます。早川さんもそう受けとって「大学の自殺」であるとし、ツイッターやマスコミを介して反撃に出ています。
 そのような一連の流れも興味を引くものでしたが、私としてはその端緒となった「ツイッター」自身の矛盾を改めて考えさせられましたね。
 その矛盾とは…私が2年ほど前に書いたことそのままですね。
 twitter、tweetという「さえずり(つぶやき)」、あるいは「興奮」という、本来全く公共性のない、ほとんど理性を介さないような「独言」が、大衆によって、これまた非常に無責任なワンクリックによって「リツイート」され、それがさらにねずみ算式に無責任度を倍増させていく。そういうシステム自体が非常に問題だと思います。
 私自身、あるツイートが何百何千とリツイートされたことがあり(かの孫正義にまで!)、私の発した実に無責任な言葉が、それこそ私という主体から離れて独り歩きしていくことに、非常なる恐怖と不安を覚えたことがあります。
 そして、今回の早川さんのつぶやきの結末が、上に挙げたような、実に「公共性」を帯びた、個人を感じさせない、形式的で、ある種理性的な「訓告」に至るというところが、まあ面白いと言えば面白いじゃないですか。ついにはニュースで真面目に語られたりして、全くもって滑稽です。
 今回の早川さんのツイートは、政治家や閣僚や官僚の不適切発言や失言とは違います。しかし、システム上、結果としてああいう「公式文書」や「ニュース原稿」になってしまうという結末においては同じとも言えなくもありませんね。
 つまり、私にとっては、もうTwitterの時代は終わるということです。公共性を帯び、公式性を意識して発言しなければならなくなった時点で、Twitterの本来の意義はなくなっているということです。
 そして、それは私が予感したとおり、もともとTwitter自身が持っていた矛盾だということなのです。私もそろそろ潮時かなと思っています。

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2011.12.08

宍道湖=真珠湾??歴史的アナロジーの不思議

Pearlcolor111c5904 日は歴史的特異日。特に真珠湾攻撃から70年ということで、ニュースなどでも当時の映像がたくさん流されていましたね。
 あの戦争の全体像にいてはもちろん、この真珠湾攻撃についてさえ、日本ではしっかり検証されていません。アメリカはアメリカの立場で一つの結論を得ていると思いますし、その他の国では一定の歴史的な意義(文脈)が与えられていると思います。本国は何をやっているんでしょうか。
 私自身、あの戦争を「太平洋戦争」と呼ぶべきか「大東亜戦争」と呼ぶべきか、あるいはそれ以外の呼称が適当なのか、それさえも判断できませんからね。最近そんな自分がとても情けなく思います。
 だから…というわけではありませんけれども(苦笑)、今日はこの真珠湾攻撃に関するある意味「トンデモ」な「事実」を紹介したいと思います。たとえ偶然であろうと、これは「事実」です。面白い符合として読んでください。
 まずは昭和10年の12月8日のことです。この日、ある大きな歴史的な事件が起きています。国家による宗教団体に対する大弾圧です。
 かの出口王仁三郎率いる大本は、大正10年の第一次大本事件にもめげず(懲りず)、さらに勢力を伸ばしていました。
 モンゴルで一芝居演じたり、中国の新興宗教団体と手を組んだり、エスペラントを普及させたり、ある意味非常に国際的な活動を繰り広げる一方で、右翼の巨頭、頭山満や内田良平らと深くかかわったり、あるいは軍部や皇室にもそのシンパを獲得するなどして、どこか不穏な空気の漂う日本に不思議な存在感を示すようになっていました。
 その全てが、正しい神の名のもとに「みろくの世」という平和な世界を創るという最終目的に結びついていたからでしょうか、当時戦争へ突き進もうとしていた国家(軍部)にとって、大本と王仁三郎は実に厄介な存在となっていったのでした。
 特に内田良平と組んでの「昭和神聖会」の設立は、国家当局にとって看過できないできない出来事であったと思われます。なにしろ、当時明らかなだけでも800万(「やおよろず」ですね)の賛同者を得ていたというのですから。
 「大本を地上から抹殺する」…結局、昭和10年12月8日未明から、当局は狂ったような大弾圧を敢行しました。まさに狂気の沙汰です。Wikipediaの記事を引用しましょう。

ほぼすべての幹部・関係者、主だった信徒の逮捕拘束(治安維持法違反と不敬罪)
裁判前の全建物・施設のダイナマイトによる徹底的な破潰
教団所有の土地を旧綾部町・旧亀岡町に強制売却
全ての教団印刷物の発禁
がほぼ同時に行われた。教団の解体を意図したものであり、事実上、消滅した。
一部の信徒は発狂するほどの拷問を受けた。
王仁三郎が1942年(昭和17年)に保釈されるも、全活動を封じられたままで、結局、1945年(昭和20年)に日本が敗戦し、弾圧が解消され、自由が回復するのを待たなければならなかった。日本共産党弾圧と並ぶものである。高橋和巳がフィクション小説の題材として取り上げている(『邪宗門』)。

Img_1510706_63515556_51 共産党弾圧のために作られた治安維持法が、この時初めて一宗教団体に適用されました。王仁三郎という一個人の影響力を国家が躍起になって押しつぶそうとしたと考えると、いかにこの事件が世界史上においても特殊で稀有な事件であったかが分かりますね。まあ、それだけ王仁三郎が大化物だったというとこです。
 ちなみにこの日王仁三郎は教導のため松江の宍道湖にいました。王仁三郎は抵抗することもなく、押し寄せた警官隊によって捕縛されました。
 それからちょうど6年後の同日未明、真珠湾攻撃が始まり日本は泥沼の戦争に突入していくことになります。「しんじこ」と「しんじゅわん」のアナロジーは、まあ偶然の語呂合わせと片付けるとして、お釈迦様のお悟りになった12月8日に、このような智恵を失ったような事態が起きたのは皮肉と言えば皮肉です(もちろん、のちの平和活動家ジョン・レノン暗殺も)。
 ちなみに先述の昭和神聖会は、昭和9年の7月22日に九段の軍人会館で発足しました。そのちょうど6年後、昭和17年の同日、第二次近衛内閣が発足しています。この近衛内閣は同年同じ九段の軍人会館で、かの大政翼賛会を結成しました。
 そうそう、その軍人会館(現九段会館)も、東日本大震災でついにその役目を終えてしまいましたね。いよいよ戦後も終わりなのでしょうか。精算しないまま終了…。
 さてもう少し、「6年後」の符合を見ていきましょう。
 弾圧を受けた大本の綾部と亀岡の聖地は、昭和11年4月18日に国家権力によって接収され、それに続いて全国の大本の施設は次々と破壊されました。そのちょうど6年後の昭和17年4月18日、いわゆるドーリットル空襲を嚆矢に、アメリカによる本土空襲が始まり、日本は焦土と化していきました。
 また、昭和20年9月8日、王仁三郎はが大審院において不敬罪無罪を言い渡され、大本事件はようやく実質的な終結を見ることになりました。そのちょうど6年後昭和26年9月8日、サンフランシスコ平和条約が締結され、第二次世界大戦における連合国諸国と日本との戦争状態はようやく終結しました。
  こうしたある種「トンデモ」とも取れるような不思議な数霊的符合は、たとえばこんな所にも現れています。
 第二次大本事件における王仁三郎の勾留期間は6年8カ月(昭和10年12月〜17年7月)ですが、連合国軍による日本の占領も、昭和20年の9月の正式降伏からサンフランシスコ条約発効までの6年8カ月でした。
 実は大本では、こうした数の符合は本当に枚挙に暇ないほど確認できるのだそうで、これもまた空間的な「雛型」(たとえばこちらの雛型地図参照)に並ぶ時間的な「雛型」だと言えるでしょう。
 こういう世界観についてこれない方もいらっしゃるとは思いますが、別に私はこれらを真剣に信じているわけではありません。こうした符合はいくらでも作ることはできるとも思っています。
 もともと「相似」や「類推」という意味の「アナロジー」は「アン+ロジック」つまり「反ロゴス」「反論理」ということですから。
 しかし、こういう世界を楽しむことによって見えてくる、あるいは初めて見る機会を得ることができる歴史の真相というのもあると考えています。特に歴史はそうです。非常に論理的ではない「人生」の集合体ですからね。皆さんもぜひ真珠湾攻撃70年のこの日に、日本と世界の歴史を振り返ってみてください。

Amazon 大本襲撃―出口すみとその時代

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2011.12.07

New ツイングリラー

Hirotanewtwingril2

 日に続き、「いいもの」を再び紹介します。
 7年前に買ったものは本当に毎日のように使いまして、さすがに表面の塗装というかコーティングがはがれはじめたりしたので、つい最近買い替えました。
 ホントこれはウチのカミさんもおススメしています。夕食のおかずはほとんどこれでできます。前の記事にも書いたとおり、「煮る、焼く、蒸す、炊く、揚げる、炒める、茹でる」がこの1セットでできてしまいます。互いが互いのフタになるというアイデア商品でもあり、密閉性や保温性も抜群でして、調理時間の短縮にもつながります。
 ヴァージョンアップしたこの「New」ツイングリラーでは、旧タイプの欠点であった、表面の強度の問題と「重さ」が著しく改善されています。これにはウチのカミさんも大満足。さっそくほとんど毎日これで朝食や夕食の準備をしております。
 お値段も旧タイプから4割ほど安くなりました。これは買いですぞ。
 主婦のみならず一人暮らしにも便利だと思いますね。というか、一人暮らしこそこれが必需品であり、ある意味これだけあれば充分なのではないでしょうか。
 ウチでも実績として7年間酷使しましたし、さらに耐久性が増したことを考えると、10年以上使えそうです。それならこのお値段は実にリーズナブルだと思いますよ。
 テフロン加工となってお手入れがずいぶん楽になったと、無精者のカミさんも申しております。これはもう本当に手放せませんね。
 付録のレシピ集も充実していますが、自分でいろいろ工夫してみるのもまた楽しいのではないでしょうか。ウチでも長年の経験から独自の料理が多数生まれております。
 ちなみにIHでは使えませんけれど。ウチはオール電化反対派なので全然問題ありません(笑)。

1台7役のマルチ調理器♪---ヒロタ Newツイングリラー※IH非対応
 
1台で煮る・炊く・焼く・蒸す・揚げる・炒める・茹でる♪---ニュースリーシスターズ8点セット※...

姉妹品NEWマルチグリルパン

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2011.12.06

ウォッシュレボリューション21(多目的液体洗剤)

0edf72917448162a のブログでは基本的に同じネタを二度使わないようにしていますが、今日は昔紹介した商品を再び取り上げます。
 なぜなら、とっても重宝してきたのに、もうすぐ手に入らなくなりそうだからです。これから年末の大掃除の季節を迎えますから、ぜひこの機会に皆さんも入手してください。5年は持ちますから。安い買い物ですよ。
 というわけで、6年前(!)のこちらの記事で紹介したこの洗剤。実はウチではあの時買ったものが今でも残っています。ウチは猫が3匹いて、いろいろな意味でよく汚れるので、この洗剤を希釈したスプレーが家のそこかしこに置いてあるという、まあある意味ヘビーユーザーなのですが、ほとんど6年もってるわけですからね。いかに経済的か分かります。
 とにかく、床掃除から家電の手入れ、風呂の掃除や洗濯、車の掃除に至るまで、本当にいろいろなところで使えます。そして、よく落ちる。
 基本20〜30倍で希釈しても充分効果的なのでなかなか減りません。途中、いろいろな人に分けたり、学校でも大掃除に使ったりして、それで6年目ですからね。まあ、毎日の掃除に使っているわけではありませんが、必要な時に必要なだけ使ってこれですから、本当に経済的です。
 手にも優しいし、物にも優しいし、地球にも優しいということは、この6年間で証明されています。似たような商品はどんどん開発され販売されていますが、たぶんこれに勝るものはないと思います。
 それでも、さすがに新鮮さがなくなってきたのか、最近はテレビ通販でも見かけないし、Amazonや楽天の多くの店舗でも「売り切れ」になっています。
 これは早めに手に入れておくべきだと思い、楽天で唯一販売を続けているきりやま商店から購入しました。
 ちなみに学校用にも1セット購入。とにかく学校では重宝してますよ。床や窓や机の掃除はもちろん、書道の時間に墨汁で汚してしまった制服とか、鼻血がついてしまったジャージとか、あらゆるシーンで役に立っています。ほとんど私は教頭先生と言うより「染み抜き屋さん」状態です(笑)。
 オマケでついてくるウェットティッシュタイプのものも便利。ちょっとパソコンのキーボードやマウスを拭いたりするのに向いています。
 まあ業務用多目的洗剤ということで言えば、たとえばこちらなんか、かな〜り割安ですし、オレンジ系で言えばこちらなんかが主流なのかもしれません。
 しかし、我が家では実績から言って、やっぱりこのウォッシュレボリューションをおススメいたします。だまされたと思って、いやぜひ信じていただいて使ってみてください。もう残り少ないかもしれませんよ。

【送料無料】今ならウェットパワークリーナーが付いてくる!【正規品】ウォッシュレボリューション21


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2011.12.05

MapFan for iPhone

Main_topimg

 8日まで2300円が特別価格900円です。私も昨日購入したばかりで使いこなしておりませんが、日にちがないので今日おススメしておきます。
 私の周りでもずいぶんとiPhone使いが増えてきました。私自身、もうこれがないと仕事も趣味もできないというくらい、ある意味依存しております。あらためてスティーブ・ジョブズの世界観、実現力、そして影響力を痛感している毎日です。
 さて、このアプリですが、これは基本的に地図です。地図データです。1.9GBもあります。つまりかなり詳細な全国地図だということです。そして、それが全てあの小さなiPhoneの中に収納されるわけですから、もうそれだけでも900円の価値はあると言っていいでしょう。
 もちろん、オフラインで使えます。Googleマップのように外から取得するものではありません。電波がない所でも使えます。たとえばウチの近所の樹海で迷子になったとして、そこがソフトバンク圏外だったとしても(実際そうです)、GPSの電波は受信できますから、しっかり自分の位置が地図上に表示され、さらに動きに合わせて追従してくれます。
 それから、カーナビとしてもかなり使えます。ほとんど普通の、数万円するカーナビ単体と同じくらいの機能と精度を持っています。
 私は今、こちらの韓国製格安カーナビを使っていて、まあまあ満足しているわけですが、それを補うものとしてこのアプリは非常に有用です。
Top_topics_img1 なにしろ地図のデータが新しい。ざっと見たところ近所で言えば今年の春にできた施設などが出てましたから(というか、富士吉田駅が富士山駅になってましたから夏ですね)、まあほとんどこの世界ではリアルタイムと言っていいくらいの新鮮さだと感じました。
 去年の秋に買った、先ほど紹介の格安カーナビは、2年前くらいのデータということで、もうすでに何ヶ所かの新しい道に対応しなくなっていますから、その補助としてこちらのMapFanを表示させておくというのもいいですね。
 新しいということで言えば、「TVスポット」というユニークな機能が面白い!最近テレビで紹介された店や観光スポットを地図上に表示してくれたり、そこまでナビしてくれたりするわけですが、さっき「新着スポット」を見たら、なんと今日放映された番組のデータがありました(笑)。こりゃ新鮮だわ。すごい時代になったもんだ。
 今はそういう意味に加えて、カーナビの2画面機能のように、カーナビは見やすいバードビュー(俯瞰地図)、iPhoneの方は建物の形や番地まで分かる最詳細に設定して、隣に表示しておくというように使っています。それもなかなかよい。
 地図の取得がないとはいえ、バッテリーの減りは早いので、カーナビとして長時間表示しておくには、充電しながらの使用をおすすめします。前出の格安カーナビはUSB端子を装備しており、iPhoneも充電できるのでちょうど良かった。
 それから、ナビや追従をしたままアプリを終了すると、どうもバックグラウンドで動作が続いているようで、どんどんバッテリーを食います。しっかり動作自体を終了してからホームボタンを押しましょう。
 まあいずれにしても、オフラインで地図を眺めているだけでも楽しくなるお買い得アプリですから、皆さん早めに購入しましょう(ちなみに900円で保証される使用期間は1年間です…それでも充分安いと思います)。

MapFan for iPhone 公式

購入はこちらから
 

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2011.12.04

『マルちゃん 日本うまいもん 富士吉田のうどん』 東洋水産

Nl_picture4dabdf14518c4 いぶ遅くなりました。こまごました仕事が立て込んでおります。
 よってある意味手抜きな記事です。ま、読者の皆さんにとっても、たまにはこういう軽いネタがいいのではないでしょうか。
 時間がないので、まず最初に結論。
「おい、これのどこが吉田のうどんなんだよ!?ww」
 まあ、こういうことを眉をつりあげ、口角泡飛ばして言う人のことを「痛い人」というのは分かっています。でも、地元の人間なら誰しもそう思うでしょうね。
 ちなみに私は「吉田のうどん」をあまり食べません。もともとが純粋なネイティヴではないということもありますが、どちらかというとソバ派な私としてはですね、うどんもすっきりした麺が好きなんですよね。
 だから、たとえばカミさんの故郷秋田で義弟が実際に打っている「稲庭うどん」なんか、最高においしく感じます。
 たま〜に食べに行くと、それはそれでおいしく感じますし、なんとなく懐かしさもおぼえます。
 そうそう、吉田のうどん宣伝大使としてフジファブリックの志村正彦くんを忘れちゃいけませんね。彼が地道に宣伝してくれたおかげで、今、吉田のうどん屋さんはずいぶんと助かっていると思います。彼はストックホルムでもこのカップ吉田うどんをもらって喜んでいましたね。内心、「これのどこが吉田のうどんなんだよ〜」と思っていたかもしれませんが。
 で、先ほどの稲庭うどんに話を戻しますと、あれって乾麺なのに、即席カップ麺にはなってないんですよね(たぶん)。まあもともとが宮内庁御用達という感じの高級食品ですから、いかにも庶民的なカップ麺にはそぐわないのかもしれません。
 こちら吉田のうどんは、もう本当にモロ庶民の味ですよね。ネイティヴは毎昼食にうどんを食べ歩くくらいですから。
 富士吉田近辺は昔から、というか昔は特に今はイマイチですけど、織物が盛んだったんですね。で、機織りは女性の仕事ということで、けっこう飯は男が作ったとも言われています。それで、あんなに男性的(稲庭や讃岐は女性的ですよね)なゴツゴツした固いうどんになったのだとか。
 あの固さは実は塩分の多さを示しています。私、吉田のうどんはですね、冷やを頼んで、そして汁は飲まなくても、ガンガン汗をかきます。塩分に敏感な私にとっては、かなりきつい食べ物の一つとも言えます。
 そんな特殊なめんを即席カップ麺で再現できるはずがないわけですよね。あえて再現性にこだわるなら、やや温度の低いお湯を注ぎ、4分待てのところ2分くらいで切り上げて食べ始めなければなりません(笑)。それでも、あのコシというか乱暴なまでのゴロゴロ感は期待できるはずはありませんね。
 汁(スープ)は味噌と醤油のブレンドで、まあそこそこの雰囲気は出せていますが、具材の再現性も正直高くありません。というかやっぱり無理でしょうか。
 まさか、カップ麺に「馬肉」を乾燥させて入れるわけにもいかないでしょう(技術的には可能でしょうが)。また、「冷たい」キャベツをどかんと載せるのもやはり難しい(演出的には可能でしょうが)。
 そうすると、結局のところ、「吉田のうどん」のアイデンティティーはほとんど再現されていないわけでして、正直全く別物にならざるをえないと。
 しかし、そんなことは実は当たり前のことで、百花繚乱のカップラーメン市場においても、様々な名店を名のるものがあるじゃないですか。それがホンモノと全然違う!なんて言うのは、それこそ「痛い」ことですよね。
Img_4152 だから、実を言うと、私にとって重要なのは、この「富士吉田のうどん」が、その名称から離れて充分においしいということです。私は各種カップうどんの中で、特にこの製品を高く評価しています。リアル吉田のうどんよりも頻繁に食べているかもしれない。
 特に、私はこのようなある種悪趣味なトッピングが大好きです。生卵を載せて、その上から熱湯お落とし、さらに納豆を載せて、そこに付属の特製スープをかける(笑)。
 これがとってもおいしいのであります。一人暮らしの頃を思い出すなあ。こういうジャンクな食べ方、あるいは栄養の摂り方って定番でしたからね。なんでも納豆と卵入れちゃうのが私の流儀なのでありました(笑)。

Amazon 日本うまいもん 富士吉田のうどん


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2011.12.03

「悩み」は「愛」の権現

↓タカ・クノウの「愛」に完敗の定アキラ、再び立ち上がれ!
20111203084 仕事が一つ終わってホッとしています。しかし、その結果新たな「悩み」が…ま、なんとかなるっしょ(笑)。
 少しのんびりして、夜(夜中)に家族で昨日のIGF両国大会「INOKI BOM-BA-YE 2011」をサムライTVで観賞。いやあプロレスはいいなあ。
 プロレスって単純な勝敗の世界ではありません。ある意味「負け」から物語が始まる世界です。負けたところからどう立ち上がって成長していくか。それこそが「闘魂」であります。
 というわけで、今日は人生の「負け」とも言える「悩み」の有用性について書きましょう。
 「悩み」というと、どうしてもマイナスのイメージがありますよね。しかし、悩んでいるだけでいい方向に行くことなんかありません。
 今日の大仕事の中でも語っちゃいましたが、いつも書いているように、人間は「ストレス」や「想定外」や「悩み」と言われる状況がないと成長しないのです。「快適」や「安逸」というのは、今日の自分が昨日の自分と同じだということのサインです。
 学校現場におりますと、日々そういうことを感じるわけですよ。自分だけでなく、成長期の中高生の様子を目の当たりにしているわけですからね。ウチの学校では、そういう意味でかなり生徒にストレスをかけています。一人一人、あるいはクラスに課題を与えることが多いのです。
 もちろんそれは単なる「宿題」とか「罰則」とか、そんな低次元のアイテムということではありませんよ。生徒も人間ですし、先生も保護者も人間ですから、まあいろいろあるのは当たり前。その当たり前の「ストレス」をどう解決するかという課題こそが、いわば新たな「ストレス」となっているのです。
 そして、そのストレスを乗り越えるために何をどう考えるべきなのか、具体的にどういう行動をとればいいのか、一緒に話し合います。そこには絶対的な「愛情」と「信頼」とがあります。
 世間全体もそうなんですが、いい人間関係、いい世の中というのは、「安心して悩める」環境のことなんですよね。案外私たちはそのことを忘れています。
 ウチの学校ではそれほどありませんが、今の親はとにかく我が子にかかるストレスを解消することばかりを望む。解消以前にストレスが発生しないことを望む。つまり、「快適」や「安逸」こそが子どもたちにとって幸福だと思ってしまうんですよね。そして、当たり前に発生してしまったストレスに対して、「学校が悪い」「友達が悪い」というようなことを言い出す。それこそが「モンスター・ペアレント」ということになります。
 誰も成長痛や筋肉痛は悪いことだと思いませんよね。不快ではあるけれども、それが解決することを知っているし、それが成長や筋力アップにつながることを知っていますからね。
 心にもそういう「痛み」があるのです。それが「悩み」ですね。もちろん体の痛みにケガや病気のように心配すべき種類のものがあるのと同様、心の痛みにもいろいろな種類があります。
 私たちはいちおう学校教育のプロ集団ですから、それぞれのストレスの見極めはかなり得意なんです。そのストレスが本人の成長にとってどういう意味を持つのか、あるいは逆に沈滞を招く可能性があるのか。治癒するのにどれくらいの時間がかかるのか。どういう処方をすべきなのか。とりあえず鎮痛薬を与えるべきなのか。周囲のどういう協力が必要なのか。お医者さんの見立てと同じですよね。
 そして、その裏側には、「勝ち」や「成功」や「克服」が促す「成長」という観点があるのはもちろんです。というか、その両者は不即不離の関係、いや表裏一体ですよね。当たり前です。
 ちょっとここから話のスケールが大きくなりますよ。なんていうかなあ、我々って「重力」の上に生きてるじゃないですか。でも、日々それを意識することはあまりない。
 でも、この前宇宙飛行士の古川聡さんが久し振りに地球に還ってきて、その重力の存在を改めて感じていましたよね。約半年、その重力というストレスから解放されて、ずいぶんと筋力や骨密度が落ちたそうですよね。
 なんていうかなあ、重力というストレスは、これは地球の「愛」だと思うんですよ。その上に私たちは立っている。赤ちゃんは立とうとしている。そのために筋力はつき、骨密度は高まる。木々や草もそう。あるいはビルでさえも。
 絶対的な「愛」から自立しようとしているわけですね。それが「成長」そして「生きる」ということだとも思うのです。
 そう考えると、寝たきりの老人は、ある意味その地球の「愛」に身をまかせることになったとも言えますね。大地の「愛」に還ったのだと。充分に頑張って成長して生きてきたので、やっとその懐に抱かれることを許されたと。
 私たちの心の「悩み」も、実はこうした大きな「愛」なのかもしれないと思うのです。それは実は常に存在しているのだが、それを「やだなあ…」とか「ストレスだ」とか感じるのは、何かそういうきっかけがあるのであって、それは私たちが「重力」を意識する時のように、自分が成長する時、あるいは何かを達成しようとしている時なのかもしれない…。
 今日はなんとなくそんなことを思いました。相変わらず能天気でいいね!と言われそうですけど、実際私は毎日こう感じて生きていて、そしてこんな感じなのですから、まあしかたないですね(笑)。これからも、この世の全ての「愛」に甘えて、そのおかげさまで生きていくことでしょう。「悩み」は「愛」の権現様(仮の姿)なのでした。


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2011.12.02

QuickTime Player でストリーミングを録音・録画

↓録画した動画のスクリーンショットです。
Vlcsnap2011120309h51m26s244_2

 夜は大切な用事が三つ重なってしまいました。そのうちの一つが「プロレス観戦」。IGFの両国大会「INOKI BOM-BA-YE 2011」です。
 そう、ここのところ、IGFのGM宮戸さんやEP蝶野さんに、いろいろと個人的にお世話になっておりましたし、選手の皆さんともなにかと交流がありましたから、本来ならば会場に駆けつけて応援をしなければならない立場です。しかし、今回ばかりはさすがに江戸に上ることができませんでした。
 ところが、まあ現代というのは実にありがたい便利な時代ですね。テレビではなくネットでこの大会の模様が生放送されるのです。
 今やテレビの影響力を脅かす存在になりつつあるドワンゴ社の「ニコニコ生放送」。私もけっこう国会やら東電の記者会見やら見てますよ。もうそういう時代なんですよね。あの一種の身軽さは、異様に巨大化(肥大化)してしまったテレビ業界にとっては大変な脅威でしょう。
 しかし、今日はその生放送もリアルタイムでは観ることができませんでした。その時間に大切な「会合」があったのです。それはこちら(動画あり)でコラボした仲間との再会の場でした。
 というわけで、ニコ生を録画しなければならないことになったのですね。パソコン上のストリーミング動画を録画するのに、皆さんはどうされていますか?
 専用のソフトもありますが、Mac使いにとっては純正のQuickTime Player10を使うのが最も手っ取り早く経済的なんですよね。これって意外に知られていない機能なので、今日はそれを紹介します(肝心のプロレスや会合の内容については、またしっかり復習してから書きます)。
 Mac OSX 10.5 Snow Leopard から標準搭載されたQuickTime Player10は、プレーヤーと名乗りながら、なかなか優秀なレコーダーとしても機能します。
 ファイルメニューにある「新規ムービー収録」「新規オーディオ収録」「新規画面収録」ですね。
 「ムービー収録」は基本的にMac搭載のカメラとマイクで動画を撮影するためのものですから、選択するといきなり自分の顔が画面に出てきてビックリします(自分の顔というのはいつ見てもいやなものです)。
 「オーディオ収録」も内蔵マイクやライン入力音声を記録するものと考えてよいでしょう。
 そして、「画面収録」はMacの画面上の様々な動き(たとえばマウスポインターの動きや文字入力の様子)を動画として記録します。記録する範囲も指定できるので、たとえば今日のニコ生の画面だけを指定することもできます。基本今日の録画はこの方法をとりました。
 ただし、ストリーミングの音楽を録音したり、番組を録画するとなると、重大な問題が発生します。それは、Mac上で鳴っている音を直接録音できないということです。つまりデフォルトではマイク入力とライン入力からしか音声は記録できないということです。
 そこで必要なのは、Soundflowerというフリーソフトです(使い方はこちら参照)。これはMacで鳴っている音を全て仮想オーディオデバイスに出力するためのソフトで、インストールすると、たとえば先ほどの各種「収録」でマイクとして「Soundflower」を選択できるようになり、実際選択するとMacで鳴っている音を直接録音できるようになります。
 結果として、ストリーミングラジオの音声や、ニコ生やYouTubeのようなストリーミング動画を録音、録画できるようになります。
 ちなみに今日のプロレス中継ですが、高画質で番組画面のみ2時間半録画(&録音)した結果、ファイルサイズは1.5GBでした。画質音質は全く問題なし(劣化は感じられません)。
 簡単かつ無料でここまでできるのはとってもありがたいことです。ただし、当然のことながら権利問題がありますので、あくまで自己使用目的、自己責任でご利用くださいませ。
 
 

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2011.12.01

甲斐権守 大江匡衡

↓奥さんの赤染衛門
180pxhyakuninisshu_059 日の話の続きかな。ある意味どうでもいいマニアックな話です。
 「末の松山」を詠んだ清原元輔さんの娘はかの清少納言。彼女の枕草子から、地味〜な一節を紹介します。
 「権の守は」という段です。枕草子によくある、ある意味どうでもいい(と思われがちな)「…は」シリーズの一つ。まずは本文を縦書きでどうぞ。

                                                                                                  権の守は、甲斐、越後、筑後、阿波。


 たったこれだけです。
 私がこの段に注目したのは、まあ単に「甲斐」が出て来るからですね。甲斐はもちろん今の山梨県です。
 ちなみに越後は新潟、筑後は福岡県、阿波は徳島県ですね。
 で、「権の守(ごんのかみ)」というのは何かと言いますと、仮の国守(県知事)ですね。これって実際には赴任しないんですよ。名前だけ。
 「権」とは、たとえば「権現」が「仏の代わりに仮に神の姿で現れる」という意味であることから分かるとおり、「代理」「仮」「暫定」といった意味です。
 ここに並んでいる四国は、それぞれいわゆる上国でして、まあ当時としては重要な国だったんですね。今とはちょっと違う感覚です。経済的な面、文化的な面、そして防衛上の観点などから、当時は国のランク付けがされていました。
 一般的に、この段は、単純に「権守」になるんだったら、雰囲気的にこの四国がカッコイイ…という意味だととらえられています。もちろん、それはそれで当時の女官たちの感覚(ブランド志向)が分かって面白いんですけどね。
 でも、なんとなくワタクシとしてはもう少しうがった見方をしてみたいなと。
 で、ちょこっと調べてみました。清少納言さんがこの段を書いた頃、実際に「甲斐権守」だったのは誰かなと。もしかすると、「県知事だったらさあ、やっぱり前大阪府知事とか、現東京都知事とか、カッコよくない?」みたいな、そういういかにも清少納言的な「をかし=萌え」記事かもしれないじゃないですか(笑)。
 ということで、当時の甲斐権守はですね、なんと!この人でした。ある意味有名人だったので私もビックリ。

 大江匡衡(おおえのまさひら)

 永観2年(984年)に甲斐権守に任じられています。その後いつまでその職にあったかよく分かりませんが、清少納言の中では、あるいは当時の女官たちの中では、甲斐権守と言えば大江匡衡、大江匡衡と言えば甲斐権守というのが、けっこう一般的になっていたんじゃないでしょうか。ブランドとして。
 大江匡衡と言えば、平安時代を代表する文章博士です。彼の日本漢文学史に残した業績は偉大ですよ。「本朝文粋」に最も多く収載されているのは彼の漢詩です。
 ちなみに匡衡の奥さんは、三十六歌仙の一人赤染衛門です。二人は宮中でも有名なおしどり夫婦だったようですね。匡衡が甲斐権守に任じられた時には、すでに二人は結婚していたと思われます。
 清少納言と紫式部のライバル関係…というか仲の悪さは有名ですけれども、清少納言と赤染衛門は仲が良かったのではとも言われています。権勢を誇るに至った中宮彰子とは別の中宮にそれぞれ仕えていたこともあるのでしょうね。女性の、特に才女どうしの関係は今も昔も難しい…。
 で、清少納言としては、友だちのダンナさんを持ち上げる意味もあって、こうした段を書いたのではないかとワタクシは想像したわけですよ。
 たぶん、匡衡はイケメンだったんだと思います(笑)。頭も良くて、性格も良くて、イケメン。それが友だちのダンナさんということで、まあちょっとジェラシーもあるけれども、それでも「あなたのダンナさんってステキね!」っていう感じだったんじゃないでしょうかね。
 匡衡はあんまりいい男だったので、ライバルの男にはずいぶんと嫉妬されたようでして、寛和元年(985年)には、かの悪党藤原保輔に襲われて、左手の指を切り落とされています。
 女に限らず、男どうしも難しいもんですなあ(笑)。

Amazon 大江匡衡 (人物叢書)


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