末の松山波越さじ…
皆さんご存知の百人一首。この歌集の特殊性(決して名作集ではないということも含めて)については、このブログでもぼちぼち言及してきましたし、たしかどこかで全訳(真訳)するなんて豪語した覚えもあるのですが、実際にはここのところ全く興味を持っていませんでした。
しかし、かの大地震と大津波によって、ある一つの歌については、期せずして深い理解をする結果となりました。
それはこの歌です。清原元輔、すなわち清少納言のお父さんの作品です。縦書きでどうぞ。
契りきなかたみに袖をしぼりつつ
末の松山波越さじとは
訳…約束したよな。互いに涙を流しながら。
末の松山を波は越さないだろうとね。
(俺たちの愛は永遠だよな!ってさあ)
「末の松山」は宮城県多賀城市の松の立つ小山に比定されています。その目立たない小山がなぜ歌枕となり、そして現代によみがえったのか。
この歌はもともとは「後拾遺和歌集」に収められていたものです。後拾遺集は1086年に完成した勅撰和歌集ですが、元輔は990年に亡くなっていますから、この歌自体は10世紀に詠まれたことになります。
東大の地震学者ゲラーさんも何かでこの歌を紹介していましたね。そう、地震学者の中ではこの歌はある意味有名なものだったのです。
つまり、この歌の「波」とは津波の波だと考えられるのです。平安時代、東北地方を襲った津波と言えば、869年のあの貞観の大津波です。貞観の大地震と大津波の記憶は、このたびの震災によって再び歴史の彼方から呼び戻されましたね。
おそらくは今回と同程度の規模であっただろう貞観の津波で、現多賀城市近辺は大きな被害を受けたものと思われます。しかし、その中で「末の松山」だけは当時も奇跡的に無傷で残った。その逸話が遠く平安の都まで伝わったものと思われます。平成の陸前高田の奇跡の一本松のように。
そして、様々な苦難や障害があっても未来永劫変わらないものの象徴として「末の松山」は歌枕となっていったと考えられます。特に永遠の愛のイコンとして。
そして、このたびの震災ではどうだったか。
そう、今回もまたほとんど奇跡的に末の松山には津波が押し寄せなかったのです。ほんの数メートル下った市街地はことごとく津波に呑まれてしまいましたが、この高台はたしかに被害を避けられたのです。
この地図の赤いところは津波が押し寄せたところです。見事に末の松山を避けていますよね。
皮肉なことですが、こうして、この歌の「波」がやはり津波の「波」であったことが証明されたわけです。
ちなみにこの歌は本歌取りです。そして、百人一首の撰者である定家はさらに本歌取りをして、この歌枕を歌い継いでいます。
本歌(古今集…読人不知)
君をおきてあだし心を我がもたば
末の松山波も越えなむ
訳…あなたを置いて浮気心を私が持ったとしたら
末の松山を波も越えてしまうだろう
(絶対に越えない。私も絶対に浮気をしない!)
(藤原定家)
思ひ出でよ末の松山すゑまでも
波こさじとは契らざりきや
訳…思い出せよ 末の松山はいつまでも
波は越すまいと約束しなかっただろうか
(いつまでも心変わりはしないって言ったじゃん!)
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