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2011.10.04

『稽古』とは

20111005_100230 古するとつながる…今日はそんなことを実感させられる、これまた不思議なご縁に遭遇しました。
 間接的にではありますが、まさか土方巽がフジファブリックを助けているとは…もちろん、本人たちはそんなこと意識していないと思いますけれども。私としては完全につながりました。
 そう、「稽古」の本質は「つながる」ことなのです。
 「稽古」とか「おけいこ」とか、私たちは日常的に使っている言葉ではありますが、その本来の意味はあまり意識されていません。今日はそこを少し書いてみようと思います。
 「稽古」という言葉は大変古い言葉です。日本では9世紀の文献にも登場しています。中国ではもっと古くから使われていました。
 「稽古」の「古」は、言うまでもなく「古い、いにしえ」という意味です。「口」は大切なものを収める箱、「十」は「干」で、その箱を護る「盾(たて)」です。厳重に保管されている「何か」ということですね。
 そして、「稽」は「考える」という意味です。もっと深く説くなら「神を招いて、その意思を感じる」ということです。
 つまり「稽古」とは「いにしえを考える」、もっと言うなら「大切に守られてきた先人の魂と一体化する」ということです。
 ただのプラクティスやレッスンやトレーニングとは違います(もちろん、それらの英語にも深い歴史があるのですが、ここでは一般的な意味で)。
 「稽古」という言葉は日本の芸道に用いられることが多いですね。「おけいこ」となるとピアノなどにも使いますが、それも「洋琴」前の「お琴」のおけいこからの流れです。
 つまり日本での「芸」や「道」においては、自らのスキルアップ、パワーアップとは別次元で、師匠と言われる人たちに綿々と受け継がれてきた「魂」を、その人たちと時空を共有することによって体感し、そしていずれはそれらと一体化することを目指します。
 そこにはいわゆるメソッドやロジックは必要ありません。いや、必要ないわけではない。自然とそれは生まれるものであって、最初に「マニュアル」や「テキスト」があるわけではないということです。
 私たちは、実は「過去」の体験にのみ基づいて生活をしています。未来を予想したり、予測したり、夢想したりすることも、あくまでも過去の経験(素材)をもとにしており、それなくしては絶対に不可能なことです。
 そういう点では、科学も同じなんです。前も書いたように、科学で未来の予知などできません。DNAにも過去の情報しか記録されていませんし。
 ただ、芸事にせよ、生活にせよ、科学にせよ、最も恐ろしいのは、「過去」の一部を知っただけで、全体を知ったように錯覚してしまうことです。日本で「稽古」が重視されてきたのは、まさにそういう危険性を知っていたからでしょう。
 稽古が完成し、完全に過去と一体化できたら、それこそがお釈迦様の至った「悟り」ということになってしまうわけで、それはそれは我々人類にとって非常な、ほとんど不可能なほどの困難です。
 だから、我々凡夫にとっては「稽古」は一生続けなければならないものであり、その過程こそが重要なものになってくるわけです。
 以前、世阿弥(観阿弥)の風姿花伝の「年来稽古条々」の一部を、プロレスに当てはめて現代語訳したことがありました。こちらこちらです。
 能とプロレスを一緒にするなんて…と失笑する方もいらっしゃるかもしれませんが、これは今読んで我ながらなかなか鋭い観点だと思います。三沢さんの死の直後でもありました、私も一瞬でも「稽古」していたのかもしれませんね。
 現代の様々な分野でのプラクティスやレッスンやトレーニングを見ますと、どうもこの「稽古」がなされていないような気がしてなりません。日本の伝統芸能や武道でもそうですし、西洋音楽やスポーツもそうですし、そしてそれ以前に学校という教育現場でも「稽古」の姿勢というか、発想というものさえも失われつつあるように思います。
 「稽古照今」という言葉もあります。故きを温ねて新しきを知るですね。古人の体験や智恵や喜びや哀しみを我がものとして今の自分や世界を見る。そこにしか真実は見えてこない。
 今に限らず未来に思いを馳せるというのも、実は「稽古」なのです。今の現象も未来のヴィジョンも全て「古」という箱を開けた時に溢れ出るモノです。
 過去自体は情報として不変なはずですが、それがその箱に閉じこめられている内に熟成され醸成され、あるいは腐敗してゆき、そして「モノ」となります。実際データとして残されたコト(たとえば文字)はコトのまま残りますが、人の思いや魂といったモノは必ず時間とともに変化します。
 「稽古」とは、そうしたモノと一体化して、その素になった「マコト」にまで時間を遡って近づくことなのです。
 先ほど書いたように、その際重要なのはメソッドでもテキストでもロジックでもなく、一種の「霊感」ということになりましょうか。ワタクシ流に言うと、やはり「コト」より「モノ」を優先すべしということになります。メソッドやテキストやロジックやヒストリーを超えた「想像力」こそが「稽」の本質だと思います。
 冒頭で書いたご縁は、そのご縁を作ってくれた方々が皆真剣に稽古されているからこそ、まさに神が降りてつながってくれたのだと思います。ルーツをたどれば、皆どこかでつながっている。そのルーツを、無意識にであれ真剣に探求している姿は美しく、人々に感動を与えます。つまり、観る人、聴く人ともしっかり「つながる」わけです。
 「稽古は神変す」という言葉もあります。真剣に「稽古」していると、自己の意識レベルを超えた奇跡が起きるのですね。私はそんな奇跡を垣間見させていただいたようです。
 まあ、なんか偉そうに、さも分かったかのように述べてきてしまいましたが、実は私、全然「稽古」できていません(苦笑)。こうやってテキスト(文字)の世界で右往左往しているようではダメですな。ハッタリの稽古ばっかり(笑)。

 

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