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2011.09.13

科学の倫理

A0046462_658366 「の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
 田中正造の言葉です。私はこの言葉の「文明」を「科学」と読み替えてみたいと思います。
 「真の科学は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
 言うまでもなく現代文明は「科学」を基礎に成り立っています。もちろんここで言う「科学」とは、自然科学のみならず、社会科学、人文科学をも含みますが、やはりその中心になっているのは自然科学でしょう。
 文明という言葉自体、civilizationの訳語として明治以降日本に定着したものであり、明らかに西洋近代都市文明のイメージを持っていますね。
 私たちが生きる現代文明は、その延長線上にあるのは間違いなく、今でももちろん科学の重要性は下るはずもありません。
 私たちはその恩恵に浴し、豊かで便利で平和な世の中を生きることができています。しかし、その反面、科学が我々に様々な不幸を及ぼしていることもたしかです。
 原発問題などは言うまでもありませんが、私たちが気付かぬところでも、今まさに「科学の暴走」が起きているという事実をしっかり認識する必要があるでしょう。
 そう、科学とはそもそも「暴走性」を秘めたものなのです。
 科学の定義や特徴は多岐に亘ります。ただその中心にあるのが「真理の探求」であることは、誰も異論のないところでしょう。つまり、科学の原点には「人間の欲求」があるのです。
 欲求は煩悩とも言えます。そしてそれは人間の生の根源的なエネルギーになるからこそ大切である反面、それが暴走の燃料になる可能性もあるのです。
 つまり、科学者は基本自己の欲求を満足させるために研究を行なっているのです。それは誰も否定できません。たとえ、世のため人のためと思っていたとしても、その思いもまた、自己の欲求であることに変わりありません。
 いや、世のため、人のためとしてやったことが、実際に世や人に認められて、ほめられたり、あるいはお金をもらえたりすると、世のため人のためという欲求自体が大義名分となって、さらに自己の欲求の暴走に拍車をかけてしまうことすらあるわけです。
 現代を象徴する原子力工学や遺伝子工学などは、もしかすると、そういう暴走の産物なのかもしれません。それらが、人類の歴史にとって本当に必要なのかどうか、実は誰も立証していないわけですから。
 身近な例で言うと、リニアモーターカーなんかもその類でしょうか。
 そう、科学のまた違う一面として「スポーツ性」があります。これはあまり指摘されていないかもしれませんね。つまり、科学には「記録」「順位」主義が存在するのです。
 「2位じゃダメなんですか?」と言ったオバサンがいましたが、そうですダメなんです、科学では。この前の川口淳一郎さんの講演でもけっこうそういう話がありました。それこそが科学の「創造性」なのですから。誰もやっていないことをやる、ということ自体に価値があり、目標があると。つまり世界一になり、世界新記録を作る、すわなち誰かに勝つというスポーツマンシップが要求される世界なのです。
 そのため、ドーピングのような不正も横行します。データの改竄や捏造、剽窃などですね。
 そうした危険性や科学の倫理について、理系の大学ではいったいどれほど教えられているのでしょうか。今日、九州大学の理学部で地球惑星科学を勉強している教え子が遊びに来ました。彼女に聞いたところでは、九大の先生方は比較的そういう意識が高く、つまり人間的にも尊敬できる先生が多いとのこと。安心しました。
 それに比べ、原発ムラに取り込まれてしまい御用学者を多数輩出(排出)している某大学なんかはどうなんでしょうか。非常に不安です。
 平成18年に日本学術会議が出した声明「科学者の行動規範について」には、「倫理」というよりも、人間としての当たり前の道徳がつらつらと書かれています。
 ある意味、こんなことを言わなければならないということ自体が、超エリートの集まる象牙の塔の実態を表しているのかもしれません。見事なお題目ですね。
 私たちの学校では、仏教の教えに基づき、理系を目指す子どもたちにも、人間としての基本的な「正しい生き方」を教えているつもりです。もちろんきれいごとばかりでは喰っていけない悲しい世の中であることは分かっていますが、しかし、少なくともそういう間違った社会に迎合せず、すなわち悪魔に魂を売ったりせずに、自己の目標が理想の世の中の実現となるように生きてもらいたいものです。

 「真の科学は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」

 自己実現が他者実現とイコールになる、まさに「不二」なる科学であってもらいたいものです。

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コメント

あなたの言う科学と純粋な学問としての科学とは少し違うように感じます。
純粋な学問は、何かの役に立つものを目指さないのです。

例えば、かの有名なガウス先生は数学のことを「科学の女王」と言いました。
数学は結果的に何かの役に立つことはあっても、何かの役に立てるからするものではありません。

あなたの言う科学とは、科学と言う学問を、道具として使うときの話ではないでしょうか?

それを混ぜて考えるということは危険だと感じます。
そこを分離して、うまく書き直してもらいたいものです。

投稿: 観測者A | 2011.09.17 00:19

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