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2011.09.08

『革命か戦争か オウムはグローバル資本主義への警鐘だった』 野田成人 (サイゾー)

90420905 つの意味で興味深い本でした。一つは、過去の自分の清算という意味で、もう一つは現在興味があることに関連して。
 著者はオウム真理教時代は正悟師で、アーレフでは代表だった人物。そして今は(たぶん)洗脳が解けて、一般社会の中で反省と贖罪の日々を送っています。
 彼もそうですが、オウムの中心人物は私と同世代が多い。実際私も、健全だった頃の、すなわち純粋な出家集団だった頃のオウムには興味を持っていました(そのおかげでウチには当時のオウムグッズがいくつかあります)。
 多少怪しくなってきた頃にも、なにしろ地元で起きていたことですからね、違った意味でよくサティアンや本部の方に行っていました。そして事件後は、私自身、いろいろなところでオウムの信者と間違われて苦労しましたっけ(笑)。
 当時はそのように不思議なシンパシーと違和感の両方を持っていたのです。今思えば、それは当時の、いや今もかなあ、自分の中の二面性というか、現代社会に対するシンパシーと違和感を象徴していたとも言えるような気がするんですね。
 それを自分としても清算しなくてはならないと、特に最近強く感じているんです。もちろん、野田さんとは全く違うレベルでの話ですけれども、しかしその根底はやはり一緒なんだなと、この本を読み終えて強く感じました。
 もしかすると、これは野田さんと私の問題ではなく、全ての現代人と現代社会の問題かもしれない。いや、そうに違いありません。
 彼らはある意味頭が良すぎた。だから、あの当時、つまりバブルの最中から崩壊後にかけて、「グローバル資本主義」の弊害に気づいていたんでしょうね。私はそれははっきりとは分からなかった。今になって、ようやくそういう言葉を使って自分の違和感を解釈できるようになってきた。
 「グローバル資本主義」とは、「我良し」「強い者勝ち」そのものです。そういう点で言えば、一世紀前に出口王仁三郎がすでに気づき主張していたことなんですよね。実際、麻原は王仁三郎をよく研究しており、ある意味自分をそこに投影していた部分もありました。国家を敵に回し、弾圧を受けたという部分では、たしかに共通しているとも言えますし。
 もちろん、彼らが暴走して引き起こしてしまったあらゆる事件の全ては、絶対に許すべからざるものであります。一厘も共感すべき性質のものではありません。しかし、その根底にある現代社会の病理については、私たちは目をつぶることはできないでしょう。オウムを責めるだけではだめなのです。
 大震災があったこともあって、最近の私は、子どもたちにどういう社会を創ってほしいかということをよく考えます。その時、やはり目の前にあるのは「グローバル資本主義」です。カネという悪神が支配するこの世の中が、どうしても正しいと思えないのです。
 では、どういう世の中にすべきなのか、それは非常に難しい。毎日悩んでいます。それはもしかすると、野田さんがずっと悩み続けてきたこと、そして今も悩んでいることと同じなのかもしれません。
 それから、最近非常に興味を持っている「山教組」というシステムのことを考えるのに、このオウムやアーレフという集団の歴史は参考になりました。本来の崇高な目的がどんどん忘れられてゆき、無言のプレッシャーが支配する硬直した集団が出来上がっていく過程は、ある意味とても興味深い。
 これは宗教集団や教職員組合に限らず、日本の多くのコミュニティーで見られる現象です。今、それに興味があるんです。ある意味「グローバル資本主義」もそうやって確立され固定化され暴走してきたのだと思いますし。
 私ももうすぐ生まれて半世紀になります。遅ればせながら、ようやく自分の育ってきた環境としての現代社会を、客観的に見ることができるようになってきました。それはすなわち、自分自身を客観視でもありますね。本当に時間がかかりました。後半生は闘いだと思っています。
 野田さんの語る、グルイズムとグローバル資本主義の共通点や、「空」に関する考察は非常に興味深かった。また、巻末にある野田さんと苫米地英人さんとの対談も面白かった。しかし、悩みの種はどんどん増えていきます。
 この世は複雑なようで、実はとても単純なのかもしれません。人間の営みはある種の法則性をもっている、もしかするとそれは自然界のそれの写しなのかもしれないとも思いました。お釈迦様はそこに気づいていたのだなと。しかし、彼の語ったことはあまりに理想主義的であり、現実的な人間にはとてもついていけない内容だったのかもしれません。
 悩みは続きそうです。

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コメント

>彼らはある意味頭が良すぎた。

彼らは自分たちが利口だと勘違いしていただけです。彼らの強烈な選民意識は、実は社会的疎外感の裏返しです。彼らは単に、オウムに自分の居場所(逃げ場所)を見いだしただけです。選民意識に見せかけた劣等感を更に「崇高な理念」というもので隠蔽し、麻原を頂点とした、「我良し」「強い者勝ち」の構造を自ら具現化していったのです。彼らの多くはオウムから脱退しても、心情的には抜け出せません。自分の青春を捧げてしまったからです。それを否定することは、選民意識によってかろうじて保たれている「ひ弱な自身」には到底耐えられません。

最初から「崇高な理念」など無かった。と、いうのが私の見解です。

投稿: LUKE | 2011.09.09 09:26

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