« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »

2011.09.30

イグ・ノーベル賞化学賞に日本人7人!しかし…w

20111001_64753 「えて考えさせられる」「マネできないしマネすべきでない」が選考基準であるイグ・ノーベル賞が今年も発表され、なんと日本人7人に化学賞が送られました。
 7人と言っても、七つの研究ということではなく、一つのテーマを共同研究したということですね。そのテーマは火災などの緊急時にわざびの臭いがする気体を噴射して聴覚障害者に知らせる「わさび警報装置」。
 今日の発表に合わせて、先週今週と「爆問学問」はイグノーベル賞特集でしたね。昨日も、今までの日本人受賞者が登場して、世界のトンデモ研究や発明を紹介していました。
 あの兼六園の銅像になぜ鳩のフンがつかないのかの研究は面白かったな。そこで太田が言ってましたっけ。ノーベル賞もイグ・ノーベル賞も実は変わらないのだと。まずは着眼点ですね。誰も気づかないようなことに気づく。そして、それをまじめに研究してしまう。これこそ健全な科学の本質でありましょう。
 今回の「わさび警報装置」はそれほど笑えないような気もしますね。けっこう実用的ですし、聴覚障害者の方のために限らず、「警報」として刺激臭というのはある意味普通の発想です。
 今回は、「カメではあくびはうつらない」とする研究が生理学賞、「ある種の甲虫は、ある種のオーストラリア産ビール瓶と交尾しようとする」が生物学賞、「なぜ円盤投げは目が回り、ハンマー投げは目が回らないか」が物理学賞に選ばれたと言います。それらに比べると化学賞のインパクトはやや低いかと。
 ちなみに日本人イグ・ノーベル賞と言えば、あのドクター中松さんが有名ですね。彼の研究についてはこちらに紹介しました。私の一日一食生活にも関係の深い研究、というかそのまんまの研究ですね。素晴らしい。
 あとウチにもある「ミャウリンガル」開発者である日本音響研究所所長の鈴木松美さんも、ちょっとバカボンしてますよね(笑)。
 で、今回ですね、ワタクシ的に最もインパクトがあったのは…こんな栄誉の受賞でありながら、受賞者の代表、滋賀医科大学講師の今井さんがイグ・ノーベル賞のことを知らなかったということです!それこそが「Ig」ですねえ(笑)。


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.29

告知! 横浜山手聖公会でのコンサートに出演します(&ジャズバンド部 in 横浜)

2011062427

 108日(土)、私と我が校のジャズバンド部が横浜で音楽を奏でます。とは言っても、共演ではありませんよ。たまたま近くで別々にコンサートをするのです。
 まず私の方を宣伝させていただきます。私は山手聖公会にて「バッハ・ヘンデルの宗教曲」を演奏します。歴史的な教会で、プロ中のプロのソリストの皆さまをバロック・ヴァイオリンでサポートさせていただきます。
 バッハとヘンデルという両巨頭の美しいアリアをたっぷり聴けるのはもちろん、パイプオルガンとチェンバロの音を同時に聴く(オルガン協奏曲の通奏低音にチェンバロが入っている)機会というのも、実はめったにないですよね。
 ちなみに前紹介したとおり、サカナクション 『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』に出てくるバッハの旋律も演奏されます。サカナクションファンの方もぜひどうぞ!
 詳細はこちらでご確認ください。またチケット希望の方はメールくださいませ。
Logo そして、全く偶然なのですが、私の演奏会が終了すると同時に(?)我が校のジャズバンド部がみなとみらいで演奏を開始します。横濱ジャズプロムナード街角ライブでの演奏です。
 今や日本一の学生ジャズバンドとして全国的な人気を誇る我が Moon Inlet Sounds Orchestra の素晴らしい演奏をぜひお聴き下さい。私も自分のコンサートが終了次第すっ飛んで行くつもりです。
 いつも顔を合わせている生徒たちと同じ街で同じような時間に音楽を奏でるなんて、なんか不思議ですね。私も中高生の時代に音楽や楽器と出会いました。彼らも私のように一生それらとつき合って楽しんでもらいたいものです。
 さあ、生徒に負けないように、しっかり練習しなくては!頑張ります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.28

『Gスピリッツ Vol.21』 (タツミムック)

20110929_62813 Special thanks にカミさんの名前が…それについては最後に(笑)。
 いやあ、感動しましたねえ。感慨深い。地獄の墓掘人、欧州の帝王、伝説の最強レスラー、スープレックスの神様ローラン・ボックの2万字インタビュー。
 今回の偉業を実現したのは、我ら夫婦の共通の友人であるプロレスライター那嵯涼介さん。よくぞボックを見つけてくれました。そして、ボックもよくぞここまで語ってくれました。
 これは那嵯さんはじめ私たちの永年の想いと、ボックの日本のプロレス界やファンに対する特別な感情の奇跡的な邂逅によって実現したのです。30年の時を経て、こういう再会があるということに、まずは感動しました。
 私にとってボックは不思議と特別な存在です。彼が来日したのは81年82年ですから、当時私は17、8歳。高校生ですね。
 あの頃の私は、新日も全日もテレビでよく観ていましたが、どちらかというと全日寄りだったのでしょうか、アントニオ猪木に対しては複雜な感情を持っていたんですよね。強さを認めるからこそ、誰が彼を倒すかということに非常に強い興味を持っていました。
 私は判官贔屓、すなわち弱者に対する共感が強いのでしょうね。そういう意味では、ホーガン贔屓だったかもしれません(笑…ホーガンは猪木を倒してしまいましたが)。
 そんな中、初めて観たボックは、本当に猪木を倒してしまいそうな風情を持っていたのです。実際、ボックはかの地において、あの「シュトゥットガルトの惨劇」と言われる壮絶な戦いの末、猪木に勝利しています。そんな実績を引っさげての来日でしたから、私の胸が躍らないわけはありません。
 今回はその「シュトゥットガルトの惨劇」の内幕や、その惨劇が引き起こしたとも言える人生の惨劇についても知ることができました。
 いやあ、伝説はこうして自身に語られて、その力を失うどころか、さらに伝説化が進むから面白いですね。おそらくは私たち同様に、彼にとってもその後の歳月と体験とによって、過去が伝説化しているのでしょう。
 彼の生い立ちやアマレスの実績、プロレスラーとしての矜恃など、本当にいろいろなことを知ることになりました。ショーを認めず、あくまで実力勝負を挑んだ彼らしい人生であったとも言えましょうか。いや、皮肉なことと言えば皮肉なことですけれど、結果として充分にドラマチックな人生、いかにもプロレス的な挫折と再起の物語になっていましたね。
 そういう「物語」を引き出した那嵯さんに心から Good job! と申し上げましょう。
 そうそう、ボックと那嵯さんの「シューター」定義の微妙な違いも面白かったし、それにも関係するでしょうか、ボックの「総合格闘技(MMA)」論も我が意を得たりでした。
 実に好々爺然とした最近の写真も、彼の「優しさ」のようなものがにじみ出ていて、あの頃の殺気を感じさせるオーラと好対照でした。厳しい中を通ってきたからこその優しさというのは美しい。
 久々にあの頃のボックを観たくなって、YouTubeを検索しました。ああ、懐かしいなあ。たしかに今観れば、ベストコンディションには程遠い体や動きかもしれませんが、やっぱり「オーラ」は出ていますね。カッコイイ。

↓ボック vs 長州力

↓ボック・ハンセン vs 猪木・藤波

 その他、橋本真也特集も興味深かった。特に馳浩のプロレス観は興味深い。新日と全日の両方をよく知っている、つまり猪木さんと馬場さんの両方からしっかり教えを受けている人らしい。そして文学、教育の人という感じがする。私は彼に共感するところが多いのです。
 まあ、日本のプロレスというのは「語る」ことができるジャンルですよね。J-Rockなんかもそれに近い。欧米ではこんなに語らないでしょう、自ら。日本人は「物語」が好きですね。事実という「コト」だけでは、この世界や我々の人生は味気ない。「モノ」を語ってなんぼです。豊かに生きたいじゃないですか。
 あっそうそう、なんでボックの記事にカミさんの名前が出ているか。それは、彼女、知らず知らずのうちにボックの物語に関わっていたのですよ(笑)。全く不思議なことはあるものです。
 30年前、まさか自分のカミさんがボックの言葉に絡むなんて、まあ夢にも思いませんでした(当たり前か)。
 この前は「ムー」に私の名前が載り、今度は「Gスピリッツ」にカミさんの名前が…人生何が起きるか分かりませんねえ。何ごとも長く続けるといいことあるもんだなあ…ん?…二人ともあの頃から変わってないってこと?ww

Amazon Gスピリッツ Vol.21

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.27

ベビースターラーメンの天ぷら (おやつカンパニー)

12 しいのでまたまた軽い話題。
 軽いけれど質感は高く食べて満足の商品です。今までも何度か紹介してきた「おやつカンパニー」の新商品。気になっていたのですが、今日初めて購入して食べました。
 ふむふむ、これはうまい!もともと駄菓子屋の「イカの姿フライ」とか、「なとり いかフライ」とかが好物だった私ですから、それらとベビースターラーメンが合体したこの「作品」にはまらないワケはない!
 これは「おやつ」というより「つまみ」ですね。酒のつまみに最高です。今日は日本酒と合わせていただきましたが、ビールにも合うでしょうなあ。
 なんでも、本来揚げてあるベビースターラーメンに衣をつけて再び揚げたのだとか。二度揚げというこだわりの?製法というわけですね。
 まずは食感がよろしい。軽くサクサクとしていて、油のこってり感をうまく緩和していますね。こういうジャンクフードは食感も大切な要素ですから。てか、食感がほとんどだったりします。
 だいたいが、あの縮れ麺を天ぷらにしようという発想自体がジャンキーというか、おやつカンパニーらしいというか。そうそうあのKinKi KidsのCMでも「思いつき」とか「まさか」とか言われていますが、その「思いつき」や「まさか」を実現してしまうのが、松田食品の偉大さであります。好きだなあ、こういう大人たち(笑)。
 「おやつ」自体、「子ども」のものですから、こういう子ども文化を保たないと会社が成り立たないとも言えますね。しかし、それが結局大人の「つまみ」になっているところが面白い。
 つまり、普通は社会に葬り去れる「子ども性」や「原始性」というものを、商品という大人世界で現実化しているということで、これは非常に価値のあることだと思います。子どもの逆襲というか、人類最後の砦というか。
20110928_90427 CMも実に面白いじゃないですか。こちらの公式特設サイトから観ることができますので、ぜひまとめてどうぞ。
 温泉&マッサージチェアという、それこそ現代社会の「最後の砦」でゆる〜く空虚になったキンキがいい味出してますね。最後の30秒バージョンなんか結構名作だと思いますよ。
 これからもおやつカンパニーさんには、こういう企業アイデンティティーを維持していただき、日本の大人(特に男)を守ってほしいと思います。
 今日はチキン味を買ってきましたが、さあ次は塩味に挑戦しましょう…なんか私ってけっこうジャンキーですよね(笑)。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.26

『おりがみ仏像をおる−豊彰流おりがみ』 河合敦子 (誠文堂新光社)

41630909 学の総合の時間で今「折り紙」を教えております。
 本校の総合的な学習の時間は、日本文化をたっぷり教えています。茶道、能楽、座禅、礼法などなど。その一つとして2年生の2学期は「折り紙」に挑戦中です。
 昔取った杵柄…まさにそれですね。私が折り紙にはまっていたのは、なんと40年以上前(笑)。つまり、幼稚園に通っていた頃です。
 そうそう、最近実家で当時の私の作品が発見されたのだとか。私はまだ見ていませんが、なんでもクジャクやら飛び立つツルやらサイやら、ずいぶんと高度な折り紙を作っていたようです。そう、前に紹介した笠原邦彦さんのシリーズを端から作っていたらしいんですね。
 ちなみに今、小3と小6の娘がその本にはまっていて、ヒマさえあれば折り紙をしています。小学生にとっても結構難しいようで、「パパは天才だった!」とビックリしてくれています(笑)。ま、はたち過ぎればタダの人ですが…。
 ちなみに今学校で使っている教材も笠原邦彦さんのこちらの本です。
 いやあ、折り紙を折らせるといろいろなことが分かります。生徒の性格や能力というか、適性でしょうかね、いろいろなものが見えてきます。
 実際折り紙というのは非常に高度な抽象的思考と具体的行動が要求されますよね。だから世界でも有名であり、人気があり、代表的な日本文化だと言われるのでしょう。
 まず、ちゃんと折り図が読解できるか。記号や図と文字の情報を、自分の手に持つ実際の上で具現化できるかという部分で、大きな壁がありますね。
 あとは手先の器用さや繊細さ几帳面さも作品にすぐに現れます。もちろん折り紙における「折れない心」も。つまり、途中であきらめずに何度も試行錯誤できるかどうか。そして、集中力。
 本当にいい教材だと思います。もちろん、一つでも折り方を覚えておけば、必ずや将来、育児の場や国際的な場面で役立つことでしょう。そういう意味も含めて勉強中ということです。
 さてさて、今日紹介するのは、最近自分のために買った折り紙の本です。笠原さんとはまた違った個性を持つ、河合豊彰さんの折り紙です。
 河合さんは日本を代表するオリガミストの一人ですね。特に「面」の折りに関しては世界的に有名な方です。ミスター・マスクと呼ばれるほどに、「面」すなわち「顔」の折りを極めた方です。
 残念ながら数年前にお亡くなりになってしまいましたが、彼の業績は今後も「文化」として語り継がれていく、そして折り継がれていくことでしょう。
 私も仏教に関心があり、日々を修行だと思って生活している者ですが、なかなか実際のところ座禅したり読経したり写経したりはできません。理想としては仏像でも彫りたい気分ですが、もちろんそんなこともなかなかできません。でも、折り紙なら紙一枚あれば、筆も彫刻刀もいりませんね。
 そうそう、生徒たちも普通にあるコピー用紙から正方形を作るところからやるんです。実は個の世の中には正方形の紙ってそんなにないんですよね。まずは正確な正方形を作るところからです。
 長方形の紙なら本当に世の中に溢れています。そして毎日とんでもない数の長方形の紙が捨てられていますよね。そのほんの一部でも折り紙にしてあげたらいいと思うんです。特に仏像を折ったりすれば、それこそ捨てる「紙」が拾う「仏」になるわけですから、なんか御利益もありそうじゃないですか。
 実際のところ、けっこう豊彰流の折り紙は面倒な部類に入るのですが、その絶妙ハードルこそが、折り紙という修行の醍醐味だと思います。ぜひ、皆さんも挑戦してみてください。

Amazon おりがみ仏像をおる―豊彰流おりがみ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.25

ガチ相撲トーナメント (TBS)

110918_taleme 「本の格闘技はもう終わってしまったのか?」で始まったガチ相撲。
 我らがスネークピット(IGF)の鈴川真一選手やIGFとの関係もウワサされるヴァンダレイ・シウバ、そしてUFCでレスナーと対戦が発表されたアリスター・オーフレイム、そしてそしてなぜか(?)田村潔司 選手まで出場するということで、これはもう盛り上がらないわけはない。しかし…。
 結果としてアリスターが優勝ということで終わりましたが、どうも私は途中から煮え切らないというか、腹立たしいというか、微妙な気持ちになってしまいました。
 いったいどこが「ガチ」なんだと。
 分かってはいてもやっぱり格闘技ファンとして許せないのは、これが「バラエティー」だということです。実際番組の中で「これはバラエティーです」的なテロップが入りましたよね。
 正直、「日本の格闘技を終わらせた」張本人はTBSなのではないでしょうか。今回の企画もそうですが、格闘技に対しての、あるいは格闘家に対してのリスペクトの念が全く感じられません。それどころかバカにしているとさえ感じる。
 もちろん、格闘界自体の腐敗もありますよ。それこそ総合格闘技系ではギャラも払われないし、若手や業界自体を育てようという気持ちが全く感じられない。それで現在のこのザマです。
 そして、こんな安っぽい企画に自らに安売りしてしまう彼ら。これは非常に残念な事態です。
 昨日のDREAMにカミさんが行きました。さいたまスーパーアリーナはガラガラ、スポンサーもほとんど付かない状態。選手は命懸けで試合をしているのに…。サクも惨敗だし。もう終わりですね、正直。
 赤いパンツの頑固者だったはずの田村も何を考えているんでしょうか。彼のコンディションは良いように見受けられましたが、それはそうでしょう、試合せずに養生しているわけですからね。そして、なぜにこのガチ相撲には出る?
 もちろん、私たちとしては楽しみですよ。相撲とはいえ夢の対戦を見られるわけですから。しかし、なんだろう、結果としてのこの虚しさは。
 PRIDEの映像や音楽、DREAMの演出などがそのまま使われることに、一種の感動というかノスタルジーを感じるファンも多かったと思いますが、それもまた単なる「ネタ」にされているというか、少しでも使用権料を取ろうという部分で全くプライドが感じられません。
 わかります。いろいろな事情も。そして、自分も「オーッ」と言ってしまいましたよ。PRIDEやUWFやリングスの映像が地上波に乗るだけでも、それはある種の感動がありますよ。でもなあ…。
 今日この時間には、「K-1 WORLD MAX」や「UFC」の放送もありましたし、なにしろ今日は大相撲秋場所千秋楽でしたよね。ここにぶつけてくるあたり、たしかにうまいと思いましたが、ならばもっと「ガチ」で仕事してほしかったような気がします。
 そうそう、日本相撲協会との関係はどんななんでしょうか。花田さんとか、曙とか、どんな立ち位置なんでしょうか。そして、鈴川選手に対するものとか…。相撲側も安売りしているんでしょうか。
 だいたいが、「ガチ相撲」と称していながら、全然「相撲」じゃないじゃないですか。予選はそれなりに相撲が見られましたが、本選は、あれでは「相撲ごっこ」ですよ。
 立ち合いができないのはしかたなわけですから、がっぷり四つからやらせるとか、そういうふうにしないと全然「ガチ」にならない。総合やレスリング、そして最近の柔道のように、どうしても組み手の部分での勝負になってしまう。それは「相撲」ではありません!
Images あとですね、これは絶対勘違いしてほしくないのですが、あのじいさん柳龍拳の技は本物の「合気道」ではありません。彼自身、武道をバカにしています。非常に腹立たしい。
 ま、ある意味戦わずしてシウバを破ったあのじいさんが最強とも言えますがね(笑)。
 いろいろ話が飛んで申し訳ありませんが、あまりにいろいろなことを考えたものでして。この流れをTBSは大晦日まで引っぱるつもりでしょうか。だとしたら、本当に「日本の格闘技は終わる」と思います。
 「日本の格闘技」は神事であり、そのための人間修養の道です。ネオリベラリズム及びマネタリズムとは全く相容れません!

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.24

『ノックフリーシャープ』 (サンスター文具)

4446925 日は軽めな記事。
 ホント軽いんですよ。実際の木製鉛筆と比べるとほとんど同じ軽さです。
 ノック不要のシャーペンと言えば、以前オートのAUTO SHARPを紹介しました。あれを受験生にプレゼントしました。けっこうみんな使ってましたね。試験中にカチカチやらなくていいというのは、実はとても重要です。
 しかし、今やあのオートもなかなか手に入らない状況です。最近ではZEBRAのフリシャ オートマチックをよく見かけますが、あれはオートに徹していないところが、ワタクシ的には気に入りません(笑)。振りたくないからオートなのに、なんで振る機能がついているのか。
 オート製にもあったノック機能はいいんですよ。あれは出すぎた芯を引っ込めるために必要だからです。
 で、今日紹介するのは、最近では最も手に入りやすくなったノック不要のシャープペンシルです。皆さんも見たこと、使ったことあるんではないでしょうか。100円ショップでも名前を微妙に変えて販売しているものです。
 これは究極のシンプル。見てのとおり完全に鉛筆のデザインです。鉛筆のふりをしていますね。おしりにはちゃんと消しゴムがついています。しかし、それをノックすることはできません。完全なオートマチック仕様なんです。
 ですから、何かの拍子で出すぎてしまった芯を引っ込めることはできません。どうやっても無理です。折るか全部出し切るしかありません。
 そういう意味では、これは削らなくていい鉛筆と言ってもいいくらいの割り切り製品ですね。
 実際のところ、この手の商品、小学生にとっては「鉛筆のふり」として利用されているらしい。そういう意味では「フリーシャ」とも言えますな(笑)。
 つまり、シャーペンが禁止されている小学校という現場に、先生の目を盗んでいかにシャーペンを持っていくか、という「悪事」に利用されているのです。このいかにも鉛筆然としたシャーペンはその「悪事」にはうってつけであります。よし!ウチでもさっそく娘に持たせてみよう(ってどんなセンセーなんだ)。
 おそらくはバレないでしょうね。けっこう見事な擬態です。もちろん、こだわって木製にするとか、そういうやり方もあるかもしれませんね。分解して作ってみようかな。
 実はこういうタイプはだいぶ前、20年くらい前でしょうかね、PILOTからオートマチックえんぴつとして発売されていたんです。この自動芯送り機構はたぶんPILOTさんの開発です。しかし、あんまり売れなかったからか、特許を取ったりせず放置したんですね。それで、他の会社も同じシステムの製品を何度か出せたという事情があるようです。
 私はこの機構、けっこう好きなんですよね。書き味もそんなに悪くないし、壊れることもないし、もっともっと世界中で普及してもいいと思うんです。ノックしなくていい、常に同じ量の芯が出ているというのは、実に快適だと思うんですが。墨をつけなくていい筆ペンがこれだけ一般化してるのになあ。
 ちなみにこのサンスター製のものは、芯の太さが0.7mmです。これがいいですね。0.5だとちょっと鉛筆としては細すぎる。筆跡で先生にバレてしまう可能性があります(笑)。
 子どもには2Bくらいの芯がいいでしょうかね。かなりリアルに小学生らしい書き味、筆跡になるでしょう。
 演奏家としては4Bもいいかもしれませんね。楽譜に書き込む際に便利です。その場合は全長をもっと短くして、フックも付けるといいでしょう。大人が使うには別に擬態はいりませんし。
 ということは、やっぱりオート製のあの名作の0.7ミリヴァージョンがあれば一番いいかなあ。先生として赤鉛筆の代わりとしても有用ですよ、きっと。どこか作ってくれないかな。

サンスター ノックFシャープ公式

【メール便対応】ノックしなくても書き続けるだけで芯が出てくる鉛筆風シャープペン0.7mm芯な...

【メール便配送可能】新・自動シャープオート シャープペンシル 【AP-105】 AUTO SHARP/OHTO

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011.09.23

富士学苑中学・高校 ジャズバンド部 第9回リサイタル

Eternal Music 〜久遠の音楽〜
110923_19_30_17 が校のジャズバンド部「Moon Inlet Sounds Orchestra」のリサイタルに行ってきました。
 会場は今春リニューアルなった富士五湖文化センターふじさんホールです。富士五湖文化センターと言えば伝説のフジファブリック凱旋ライヴが行われた聖地ですね(一部の方々にとってですが)。ホールはリニューアルと言っても、基本昔のままで、表面だけきれいにした感じです。ある意味「聖地」が保存されたということでめでたしめでたし。こけら落としはフジファブリックで、という話もあったそうですが、ちょうどあの震災があり、実際にはこけら落としイベントは中止となってしまいました。
 そんな自粛ムードが続く中、いち早く同ホールでチャリティーコンサートを開いたのがこのジャズバンドでした。そう、今年は彼らは特別な感情と意義を抱えながら様々なステージをこなしたと思います。先日は仙台の21st 定禅寺ストリートジャズフェスティバルでひときわ大きな喝采を浴びてきました。
 本校は仙台に姉妹校があることもあり、かなり早い段階からいろいろな形で被災地に支援をしてきました。その一つがこのジャズバンド部の音楽による癒しと応援だったのではないでしょうか。
 そう、以前、音楽は「瞑想と陶酔」のためにあるとどこかに書きましたが、それがつまり「癒しと応援」、「祈りと鼓舞」なのです。そういう意味で、今年の生徒たちは格別な「音楽体験」をしてきたと思います。
 また、夏にはエリック・ミヤシロさんや東京スカパラダイスオーケストラとの共演なども果たしましたし、今や名実ともに日本一の学生バンドになったと思います。
 そんな今年のバンド、当たり前ですがいかにも今年のバンドという響きがしていて楽しかった。決してエッジが効いているわけではないのですが、どこか丸い温かい輪郭を持った音楽が届いてきました。テクニックどうこうということではなく、やはり彼らの一つ一つの経験、人々との触れ合いがこういう音楽を創ったのではないでしょうか。
 そういう意味では、本当に生きた音楽であったと思います。ただ巧いというのとは違う、もっと魂の部分で響き合うアンサンブルでした。
 これぞ教育だなあとも思いましたね。昨日の日教組の記事なんてどうでもよくなりました(笑)。やっぱり学校の主役は生徒です。先生は良きプロデューサーであればよい。そういう意味で顧問の大森先生は日本一のプロデューサーでしょう。
 そして会場にたくさん駆けつけてくれたOB・OGたち。彼らがMISOの歴史を支え、創ってきたことを思うと、ますます音楽とは「縁」そのものだなと感じましたね。卒業後、プロを目指す者もいれば、アマチュアとして楽しんでいる者もいる。そして、音楽以上に楽しいことを見つけた者もいる。素晴らしいじゃないですか。そういう姿に接する時もまた、教師冥利につきる瞬間です(自分も負けていられない!進化しなきゃ!)。
 中学生も実に堂々と頑張っていましたね。日本一の環境、日本一の先輩たちに囲まれて、私たち教師から学ぶこと以上にたくさんのモノを毎日吸収しています。恐ろしい成長率です。
 3年生はいちおう(中心的存在としては)最後のステージということになります。これからはそれぞれの進路へ向けてラストスパートをかけなければなりませんね。偉大なる先輩方がそうだったように、ジャズから学んだこと、人との縁から学んだことは、進路決定にも、そして人生全てに役立ちます。自信ををもって突っ走ってもらいたいと思います。
 私も癒され、そして鼓舞されました。まさに音楽は「久遠」です。時空を超えるエネルギーです。ありがとう!

 MISOの今後のスケジュールはこちら


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.22

『日教組』 森口朗 (新潮新書)

10610397 によくできた本です。「よくできた」とは褒め言葉なのか、それとも…。
 たぶん、両面あるでしょうね。というのは、この「日教組」問題というのは、戦後イデオロギー闘争(論争という方が正しいか)の中核をなしてきたとともに、平成の世におけるその残滓という風情があるからです。
 なにごともそうですが、時間の経過という、イデオロギーを超えた「モノ」を重ねると、イデオロギーなんていう「コト」世界は単なる形式になってしまい、その本質はモノたる歴史的文化になってしまいます。
 ですから、現在の日教組は、森口さんの言うように、昔の元気だった頃の面影は全くありません。一つの伝統文化、伝統芸能のように成り下がって(成り上がって)います。
 特に我が山梨県は、この本にも書かれていますとおり、加入率は100%に近くとも、いわゆる「ひのきみ(国旗・国歌)」問題なんか昭和の昔からずっとほぼ100%ありませんし、いわゆる伝統的な(?)左翼思想を持っている先生なんかには、今までたった二人しか出会っていません。
 もちろん、その伝統文化化してしまった「組合」には、それこそ江戸的な利権構造ができあがっており、特に輿石東を担ぐための集票&集金装置としては、現在では見事なまでの「組織力」を誇っています。
 しかし、それはあくまで文化であって、決してイデオロギーに基づくものではありません。山梨の公教育の現場に「最も近い外部」にいる私はよく分かっています。
 それを、たとえば、この前紹介した「決定版 民主党と日教組」などのように、保守側から一面的にとらえて批判することも可能ですし、実際、今までのイデオロギー闘争は、互いをそうして批判、罵倒して行われてきました。
 そうした闘争者、あるいはこの本に出てくるような「飲み屋論壇」には、森口さんの日教組論はなんとも骨のない、つまり魅力のないものかもしれません。
 しかし、今の私は、とりあえずは山梨県の文化としての山教組の歴史と伝統、そしてシステムに大変に興味があります。もちろん、それを良しとしているのではなく、子どもたちのためには基本的にいつか解体しなければならないと思っているのですが、それにしても、どうしてこんなに「完璧な」システムが出来上がったのか、非常に興味があるのです。まるで一つの非近代的国家のようですから。
 そういう視点からしますと、この本は画期的だと思います。よくぞここまで「どちらにもつかず離れず」批判と分析を行なったなと。今の私はなるべくそういうスタンスを取りたい、たとえば、ここまで日教組を愛のムチで「育てた」自民党の責任も問いたいですし、その反対勢力としての共産党や社会党、そして現在その「伝統文化」を政治に独占利用できる立場になっていい気になっている民主党をも批判的に見ていきたいのです。
 ある意味そうした玉虫色、あるいは日和見主義、いや風見鶏にならなければ、根本的な改革も不可能だと感じるくらいに、その伝統文化は強固なものなのです。相手も懐柔策を取ってきますから、こっちもそれにしっかり応じていかないと。つまり、ある程度ヤクザ的な手法も必要なのです(苦笑)。
 そうそう、ヤクザ的と言えば、そういう昭和の自民党のような芝居風な政治手法を、森口さんは「プロレス」と称して揶揄していますね。なんとなくその意図するところが分かる反面、熱烈なプロレスファンとしてはちょっと悔しいというか、「プロレス」にも本物と偽物がある、「プロレスごっこ」にも上等なものとそうでないものがある、と言いたくなりますが、そんなことを言い出すのは野暮ですよね(笑)。レトリックですからね。レトリックに食い付くと原理主義になっちゃいます。
 まあ、いずれにせよ、この本は勉強になりました。昭和39年生まれの私は、いわゆるノンポリ世代であって、イデオロギーとは無縁に生きてきましたので、戦後、こういう生々しい闘争(論争)があったということを知るだけでも、とても勉強になりました。
 そんな歴史がいまでに息づくこの教育という世界は、ある意味どれだけ保守的なんだ!?ということでしょうね。そして、自民党的であり、共産党的であり、社会党的であり、平和主義を訴えながら軍国主義の名残だらけだし、人権尊重とか言いながら、本当の人権なんて学校にはなかったわけだし、まあ、なんともこの日本の教育というのは、教育ではなくて、まさに日本的な文化そのものという感じすらしますね。これもまた「和の精神」であるとも言えるでしょう。
 私もその一翼を担う私立学校の教員ですから、こうした歴史・文化を鳥瞰することも必要です。というか、公私関わらず全ての教員が読んで、自分たちがどんな「文化」の中に生きているのかを知るべきかもしれませんね。そして漠然とでもいいから、その中における自分の立ち位置を確認することも大切でしょう。自分の立ち位置がなければ、教育なんてできません。多様な座標に立った多様な教員がいることこそ、健全な学校と教育の条件であると信じます。
 比較的公平な歴史の読本として、そしてみんなが中性になりつつある時代のリトマス試験紙として推薦書です。

Amazon 日教組


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.21

パンチング・メタル風 iPhone4 ケース 『elago BREATHE』

Breathe 5月に製作したこちらのストラップ付きiPhone4ケース(ジャケット)、やっぱり安物はダメでしたねえ(笑)。クリアだったはずのTPUがイエローになってしまった。ホントなんか懐かしい昭和風経年変化的色彩です(笑)。経年どころか半年も経ってないのに。
 機能的には非常に良かったので、今度はもう少しちゃんとしたケースを購入して同様にストラップを付けようと考えまして、今回はこの「ブリーズ」を購入いたしました。
 このケース、パンチング・メタル風というだけあって小さな穴がたくさん空いています。つまり、無数のストラップ穴が付いているようなものです。適所にある二つの穴をカッターを使ってつないで完成。しかし、けっこうこの樹脂、固くてですね、カッターで切れ目を入れるのもちょっと苦労しました。まあ、ストラップを付けても安心な強度を持っていると実感できましたが。
Gedc1111 このケース、なかなかいいですよ。デザイン的にもシンプルながら個性的ですし、カッターで確認したとおり(?)強度もありますし、装着感もいい。そして、見た目と違って手触りはソフト。適度な抵抗感と穴たちのおかげで滑りそうにありません。
 私のiPhone4はホワイトなので、ジャケットも白にしてみましたが、地味にオシャレな感じになり気に入っています。ストラップを付けた部分は上の写真のような感じです。自然でしょ。
Img_3461 ちなみに経年変化してしまったケースにはこちらで紹介した放射線ステッカーが貼ってありました。その記事ではどうせ色が変わらないだろうと豪語(空元気?)していましたが、実際にはこんな感じにグレーに変化しています。けっこうな量の被曝量ということですね。
 もろちん、ウチは標高も高いし、森林も多いので、一般的な土地よりも放射線量はかなり多いわけですが、ここまで色が変化するとは想定外でした。同類のカード型のものから推測するに累積20〜50ミリシーベルトくらいになっているようです。まだ計測し始めて3ヶ月半ですからねえ…。ここ山梨でこんな具合ですから福島はどうなってしまうのでしょうか。今度の新しいケースにも続けてこのステッカーを貼って様子を見ますね。

elago BREATHE スペシャルサイト

elago デザインが進化する。elago が考えた、もう一つの iPhone 4。【a_2sp0601】elago ブリーズ

Amazon 放射線測定ステッカー :RADSTICKER

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.20

フジファブリック 『STAR』 (アルバム)

4547403010930 生フジファブリックのニューアルバム。
 まっさらな気持ちで聴こうと思ったけれど、やはりそれは無理でした。それはたぶんメンバーにとっても同じことでしょう。
 最初に聴き終え思わずつぶやいてしまった言葉。

 「たしかに志村正彦がフジファブリックの全てではなかったが、志村正彦は志村正彦以外の誰でもなかったということか。当たり前のことだが妙に胸にしみた」

 その後何度か、いろいろな姿勢で聴いてみました。しかし、結局結論は変わりません。無理に別の感情を装っても意味がないのです。もうどうしようもない欠落感。
 もちろん、その欠落感も含めて、私たちはこのアルバムを高く評価すべきです。意地悪なほどに客観的に音楽的に聴けば聴くほど、このアルバムのクオリティーの高さを感じないわけにいきません。純粋に今、日本のアーティストでこれだけの個性的かつ普遍性を持ったサウンドを作れるバンドはないでしょう。それは曲にも詞にもアレンジにも演奏にも言えることです。
 ものすごくフジファブリックらしいアルバムであり、そういう意味では、前々作「CHRONICLE」よりもずっとフジファブリックらしい。
 しかし、もちろん何かが足りない。それはフジフジ富士Qで感じたモノと同じでした。
 「いない」という意識する時点で、彼はちゃんと「いる」のです。絶対にまっさらな気持ちで聴けないから、永遠に「いる」のです。当たり前のことですね。私たちの頭の中から、もちろんメンバーの中からも、彼は消えない、消えるわけがない。
 私もいろいろな形でいろいろなバンドの欠落感を味わってきましたが、これほど「リアル」に開いた穴を感じたことはありませんでした。
 つまり、「いる」と思うから、今度はリアルに「いない」のです。
 しかし、繰り返しますが、それも含めてこのアルバムは高く評価されるでしょう。残されたメンバーにとって、その「穴」は埋めようがないことなど、いやと言うほどに分かっていると思います。だから、大変な挑戦であったと思います。それは自分たちに対して、そして志村正彦という天才に対する戦いであったはずです。
 私たちファンもそれぞれ葛藤があるでしょう。私ももちろんそうです。楽曲「STAR」についてこちらで書いた時は、それこそ意地悪な形で自分自身や他のファンの人たち、あるいはメンバー、そして志村くんと戦ってしまいましたね(苦笑)。でも、あれもあれで正しい自分なのです。いろいろ試行錯誤して悪戦苦闘して前に進んでいくしかないのですから。
 特に大変な戦いを強いられたのは、山内総一郎くんでしょうね。彼の努力のあとは充分に感じることができました。ある意味けなげなほどの純粋な「歌魂」ですね。もちろん他のメンバーも今まで以上に成長した姿を見せてくれています。作曲や作詞の技法に格段の進歩があったと思います。
 楽曲「STAR」の記事にも書いたとおり、志村くんは「ジョン&ポール」に匹敵する才能があったと確信しています。特に彼の持つジョン・レノン的な「言霊」世界には独特なモノがありました。常人を超えた、しかし常人が共振する「魂の叫び」を持っていました。
 あえて言うなら、やはりそうした部分がこのアルバムには欠けているかもしれません。構築された「コト」はあるけれども、湧き上がる「モノ(ノケ)」はないのかもしれません。それは、やはり、ビートルズとソロになったポール・マッカートニーの作品との違い、あるいはロイ・ウッドのいた頃のムーヴやELOと、ジェフ・リンだけになったELOの作品の違いのようなものかもしれません。
 でも、私はポールもジェフも大好きですし尊敬しています。逆にジョンやロイに違和感を抱くこともあります。私自身がそうであるように、世界もまた多様な感性の集合体であり、どれが正しいということはありません。
 だから、私はこの作品を好きになるでしょう。いや、もう今好きなのです。充足感を抱く自分と、欠落感を抱く自分の両方を認めたい。いや、先ほど書いたとおり、「満たされている」ことと「欠けている」こと、「いる」ことと「いない」こととは表裏一体であり、不二一如なのです。
 私は、今までのフジファブリックのアルバムと同様、この「STAR」をくり返し聴いていきたいと思います。志村くんと一緒に…。

Amazon STAR(初回生産限定盤)(DVD付)


| | コメント (10) | トラックバック (0)

2011.09.19

瀬戸龍介・花世・360°ライヴ in 河口湖円形ホール

終演後お庭で乾杯!
110919_17_08_33_hdr
 日予定されていた高校野球秋季大会が今日に順延になったため、本来東京へ行く予定を急遽変更して一日山梨にいることになりました。
 そのおかげと言ってはなんですが、河口湖で行われた瀬戸龍介さんらのライヴに駆けつけることができました。これもまたご縁でしょう。
 本当に素晴らしいライヴでした。一緒に行ったカミさんもずっと涙、涙。心にしみる歌、言葉というのは、こういうものなのですね。私も本当にいろいろな音楽に触れてきましたが、今日は格別に「言霊」「歌霊」を感じることができました。
 不思議な不思議なご縁によって2ヶ月ほど前に突然結ばれた瀬戸さんとのご縁。その後もいろいろと共鳴するところがありまして、お互いに驚くほどワクワクドキドキなことが起きています。
 音楽に限って言えば、世界的な音楽家である瀬戸さんをさしおいて、こちらのイベントで、先に私の楽器演奏をお聞かせしてしまうという、なんともずうずうしく恥知らずなことをしてしまっていました。
 ですから、いち早く瀬戸さんの生の音楽を体験したいと思っておりましたし、瀬戸さんからも強くお誘いを受けていたところ、このような意図せぬチャンスに恵まれまして、見事実現できました。神縁に感謝です。
 いやあ、とにかくホンモノの音楽のすごさに驚きました。先ほども書いたように、私自身かなり多くの音楽的感動をさせていただいてきた人生だと思っていましたが、今日は本当に格別な体験でした。
 なかなか言葉に表せないのが、なんとも歯がゆく、しかしまた快感でもあるわけですが、あえて言うなら、ちょうど昨日書いたことでしょうかね。宇宙の根源の美とつながる、と言いましょうか。
 変な話ですけれど、昨日自分が書いた文章に妙に納得してしまいました。反芻します。

 『そう、これこそが「美」の原点なのかなとも思いましたね。あの生中継を見た全ての人が「美しい」と思ったことでしょう。醜いとか汚いなんて思った地球人はいないでしょう。
 私たちが地上で求める「美」、つまり芸術の類は、やはり宇宙の雛型の表現なのだということが分かりますね。究極の美、芸術は宇宙にあり。地球もまたそれなり。
 私たち人間も、宇宙の一部として、地球の一部として美しく生きなければなりませんね』

 まるで今日の体験を予感したかのような文章ですね。自分でも不思議です。
110919_17_13_53 宇宙的不思議と言えば、今日はまた運命的な出会いがありましたね。ご紹介いただき一緒に写真を撮らせていただいたのは、宇宙飛行士山崎直子さんのミッションと人生を公私ともども支えておられる、直子さんのご主人様山崎大地さんです。
 昨日ああいう番組を観て、そして今日こういう体験をしたあとですから、自然話もはずみました。この出会いも全くの想定外でしたが、あまりのタイミングの良さに、それこそ想定外の幸せを感じました。ありがとうございます。
 瀬戸さんの音楽、そして山崎さんのお話にもあったように、今、私たちは地球人として、あるいは宇宙人としての意識に目覚め、生き方を変える、いや本来に戻さねばなりませんね。
110919_17_31_01 いわゆる学問や科学や宗教などという次元、そういう「言葉(コト)」の世界を超えて、「美」を感得することこそ、その第一歩ではないか。それは一昨日、その前日の老師との対話でも強く感じたことです。「論より証拠」「不二一如」。私たちが自ら幽閉してしまっているそういう境地こそを、今思い出さねばならないでしょう。
 そのための一つの方法が「歌」であると感じました。言葉という「コト」の権化には、功罪の両面があります。正しい使い方をすれば、それは見事な「事霊」となりしょうが、場合によっては、というか現代のほとんどの場合は、私たち自身を自己中心的、人間中心的、脳中心的にしてしまう存在です。
 そんな「言葉」を浄化するのが「モノの音(ね)」としての音楽であり、その結果として「歌」が生まれるのですね。おそらく太古の「コトタマ」とは、ほとんどが歌の形をとっていたと思われます。祝詞やお経は言うまでもありません。瀬戸さんや花世さん、そして若い360°の二人には、そういう根源的な力がありました。
 私も家内も、なんとなく自分のため、自己満足のために歌を歌ったり、楽器を奏でたりしてきましたが、今日のライヴで大切なことを学んだ気がします。ありがとうございました。

ps 全ての曲が素晴らしかったのですが、やはりオープニングの「Beautiful Morning」がすごかった。こうして生で聴けるとは。

Amazon 宇宙家族ヤマザキ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.18

『世界初中継 宇宙の渚』 (NHKスペシャル)

20110919_93916 ろいろと考えさせられる番組でした。
 少し前なら、実際に宇宙に行った宇宙飛行士しか味わうことのできなかったこの感動を、こうして世界中の人々とほぼリアルタイムに共有できる。
 こういう時だからこそ、私たちの地球を外側から客観的に見ることは大切です。それがこうして可能になったのは、科学技術のおかげです。やはり科学にも功罪があるのだなあと感じました。
 たとえばインターネットもそうですが、人々の心をつなぐための科学は大いにけっこうだと思います。
 オーロラや流星、スプライトも素晴らしかった。でも、やっぱり一番心に迫ったのは、私たちの日本列島の姿でした。
 甲府盆地の灯が見えていますね。あの南側に私の住む富士山があるのだなあ。月並みな言い方ですが、自分なんて本当にちっぽけな存在なんだなあと思いました。
 「渚」という言葉、よく考えましたね。地球と宇宙は緩やかにつながり、互いに干渉し合っているということをうまく表現していると思います。
 厳密に言えば、「渚」は陸と海の交わるゾーンを表す言葉ですので、「地球と宇宙の渚」というのが正しいのかもしれませんが。
 石巻付近の漁火が鮮明に映し出されていましたね。まさに渚で起きた自然災害を思い出さずにはいられませんでした。
 同様に、今は静かにせめぎ合っている宇宙の渚も、今後どのような想定外に襲われるかわかりません。やはり私たち人間のスケールの小さいこと、特に脳内で考え得るコトの微小さを常に意識しなければなりませんね。微笑なコトを何十億集めたところでたかが知れています。そして、その補集合全てが「モノ」です。
 それこそがお釈迦様のおっしゃった「空」であると思います。そうしますと、「空(クウ)」が「空(ソラ)」に通じ、「空(ウツ=宇宙)」につながるのは、偶然かもしれませんが面白いことです。
 ちなみに「宇宙」は古訓では「あめのした」と読み、今言う宇宙ではなく、地上世界すなわち地球のことを表しました。それは矛盾ということではなく、おそらく神世においては、今私たちが科学技術をもってして外から地球を見ているように、意識の中で自由に宇宙と行き来していたのではないかと思います。だから、地球は宇宙の一部であり、あるいは地球は宇宙の雛型であるということを知っていたのではないでしょうか。
 番組の美しい映像を見ながら、時空を超えてそんなことを考えました。
 そう、これこそが「美」の原点なのかなとも思いましたね。あの生中継を見た全ての人が「美しい」と思ったことでしょう。醜いとか汚いなんて思った地球人はいないでしょう。
 そうすると、私たちが地上で求める「美」、つまり芸術の類は、やはり宇宙の雛型の表現なのだということが分かりますね。究極の美、芸術は宇宙にあり。地球もまたそれなり。
 私たち人間も、宇宙の一部として、地球の一部として美しく生きなければなりませんね。

宇宙の渚 特典映像

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.17

心の三本柱

110917_9_16_53_hdr 日は臨済宗向嶽寺派管長猊下のお話。そして、今日は妙心寺派管長猊下のお話。考えてみると、いや考えるまでもなく、とんでもない僥倖であります。
 臨済宗妙心寺派河野太通管長猊下もまた、私にとっては大変な憧れの方です。6年ほど前に猊下の「不二の妙道を行く」を拝読いたしまして、本当に私の人生は大きく変わりましたから。
 それほど、猊下のお言葉は美しく私の心に響いていたのです。そんな猊下のお言葉を直接聴く機会が訪れようとは。
 実は今年5月に初めてお会いして、「猊下の御本を読んで人生が変わりました」ということだけはお伝えしていたのですが、その時は本当に緊張してしまって、それ以上のお話はできませんでした。
 今日は1時間目の礼拝の時間に、生徒たち対象に「まことの私」という題で講話をしてくださったのです。それが実に素晴らしい内容でした。
 ちょうど今日は、中学校の方では、オープンスクールがあって、在校生とその親御さんを中心として討論会を行なうことになっていました。つまり、反抗期という難しい時期に、あえて親子の関係を見直すという企画をしていたわけです。
 それに先立って、この僥倖に恵まれた生徒たちは、今はよく分からないかもしれませんが、素晴らしい体験をしたと思います。猊下のお話はまさに「母と子」の関係をベースにしたことだったからです。
 まず、猊下はチャップリンの言葉を引用され、人生に必要なものとは何かを語られました。
 「勇気と希望と、わずかばかりのたくわえ」…チャップリンのこの言葉に加えて、猊下は四つ目として「友達」を挙げられました。なるほどその通りですね。心を通わせる友人がいれば、勇気も希望も生まれるでしょうし、もしかすると、お金に困った時も助けてもらえるかもしれませんね。
 そして「まことの私」と出会うために何か必要かというお話の導入として、まず「自分自身の最も古い記憶は何か思い出してみよう」とおっしゃりました。
 そうすると、私たちはあることに気づきます。つまり、最も母親に世話になっていた赤ん坊の時の記憶がないということです。毎日おしめを替えてもらい、おっぱいをもらい、泣けばあやしてもらっていたそんな大切な恩さえも忘れてしまうのですね。逆にお母さんはその時の記憶を鮮明に持ち続けるでしょう。そこにすでに親子のすれ違いが起きていますね。
 しかし、そのことに気づくと、まずは親に対して「ありがとう」という感謝の気持ちがわくはずです。そして、それを覚えていないこと、そして忘れてしまっていること、意識していなかったことに「すみません」という懺悔の気持ちがわきます。
 ただ、私たち人間は愚かなもので、なかなか親にそういう気持ちを伝えることができません。そうしているうちにもうそこに親はいなかったりするものです。
 ですから、そうした「恩」を、たとえば母親自身に返すのではなく、世の中全体に返していくのだと。それが「皆さんお元気で、おすこやかで」という報恩につながっていく。
 この「感謝・懺悔・報恩」こそが、まことの私に出会うために必要な「心の三本柱」だとおしっしゃいました。なるほど、これは大変に深い言葉だと思いました。
 私は猊下の御本を読んでから、恩というものは、その人に返さなくてもいい、実はそれは天下の回りものであるということを知り、大変に気持ちが楽になったことを思い出しました。
 私はそれまで、たくさんの方にたいへんにお世話になっていながら、結局その恩返しができないままその機会を逸してしまったことが多くあり、自分のいい加減さ、不甲斐なさに苦しんでいました。
 しかし、考えてみると、もちろんその方に直接言葉を送ったり、物品を送ったりして報恩をすませてしまうよりも、実はその方の「魂」「生き様」を受け継ぎ、その方にしてもらって嬉しかったことを、他の人にたくさんたくさんしてあげる方がずっと本当の報恩になるのではないか。
 親子の関係という人間関係の基本でさえもそうじゃないですか。自分の親にしてもらったことを、自分の子どもにするしかないのです。そして、そうやってずっと私たちは報恩をつないで来ているわけです。
 ある意味では、現代は、その報恩の紐帯を断ってしまう時代のような気もします。しかし、それが断たれた時、おそらく人類は滅亡するでしょうね。
 そんな時代において、やはりお釈迦様の教え(気づき)というのは、本当に重要になってくると感じます。
 この有難い講話(法話)のあとで行われた、親子の討論会は、それはそれは見事に充実した内容となりました。涙あり笑いありの、それぞれの魂や生き様が輝く会になりました。これもまた本当にご縁の生む奇跡だったと感じました。
 河野太通管長猊下、本当にありがとうございました。そして皆さまの真剣で純粋な「命」に感謝です。私も、こうした皆さまからのご恩を、世の中に返していけるよう精進いたします。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.16

論より証拠

↓6月の宿泊座禅会にて猊下と
Gedc0901 日は我が学園の理事長先生の旭日小綬章受章祝賀会がありました。今まで学園がお世話になった多くの方々においでいただき、素晴らしい内容の会になったと思います。
 私もいろいろな方とお話させていただきましたが、特に心に残りましたのは、今年6月に宿泊座禅会でも大変にお世話になった臨済宗向嶽寺派宮本大峰管長猊下のお話でしょうか。
 猊下のご祝辞の中で、我が校の中学生をお褒めいただき、大変うれしく、また恐縮いたしまして、ご挨拶にうかがいましたところ、30分以上私の話にお付き合いくださいました。まことに有難いことであります。
 私は教え子たちに教えられた様々な禅の教えにつながることをお話し申し上げましたが、猊下からはご祝辞の中でも話されました「論より証拠」について、いろいろな例を含めて分かりやすくお話いただきました。
 「論より証拠」、これは猊下が駆け出しの雲水であった頃、かつて本校の名誉校長でもあられ、妙心寺派の管長でもあられた名僧梶浦逸外老師によく言われた言葉だとのことです。
 逸外老師と言えば、昭和を代表する名僧中の名僧ですね。あの笹川良一氏が友として、いや親として慕っていたという方です。そういう面では、昭和の日本を精神的な面で支えた方とも言えるでしょう。まさに「清濁(聖俗)併せ呑む」、いや「清濁(聖俗)不二」の境地に至った方だったのではないでしょうか。
 これはなかなか貴重な映像ですね。そうそうたる面々が揃っておりますな。

 論より証拠…つまり、理屈をこねるのではなく、体現して見せよということでしょうね。これはまさに禅の魂を言い当てた言葉であると思います。
 私のような野狐禅以前の野ダヌキ禅は、それこそ「論」にばかり興じていて(笑)、全く体現していないし、体感すらしていないわけでして、今にも逸外老師の喝が飛んできそうにさえ思われます。
 しかし、生活の全て、あるいは人生自体が禅の修行だと考えれば、ワタクシたち俗な人間もまた日々刻々「証拠」を体現しているとも言えるわけで(と無理矢理な我田引水でありますが)、実際猊下とのお話の中でもそのようなことが出てまいりました。
 いずれにせよ、論より証拠の裏側には、証拠を生むための辛苦が必要であって、それはまさにブッダの言う「生まれたことの苦しみ」にほかならないでしょう。
 猊下もお若い頃、大変に苦しみ、そしてあることをきっかけに発心され、仏道に励まれることになったとのこと。そのきっかけとは?とおうかがいしましたが、それは話すと長いからとお笑いになられました。
 話すと長いというよりも、話せることではないのでしょうね。論ではないわけです。今のお姿こそが証拠であって、それに至る道筋は問題ではないのかもしれません。それを、まさに俗っぽい興味から、ワイドショーのレポーターのような質問をしてしまいましたワタクシの野ダヌキぶりには、今、酔いが醒めてみて、とても恥ずかしい気持ちがいたします。
 私も「論より証拠」を示せるように日々刻々精進したいと思います。ただ、お話の中でも申し上げたのですが、この世の中は、そうした悟りの種たる辛苦を、とにかくインスタントに取り除く方向にばかり進んでいます。特に子どもたちを取り囲む環境はそうなっていますね。
 6月の座禅会でもそうだったのですが、実は子どもたちは、辛苦や不自由を普通に受け入れる能力を持っています。大人になるとなかなか素直に受け入れられないような体験こそ、若い頃にある意味「強制」しておく必要があると思います。それが現代的な価値観において、たとえ不条理、理不尽であっても。その究極の形が「食う寝る坐る」にも描かれていた「修行」というシステムなのでしょうね。
 猊下、本当にありがとうございました。そして、理事長先生、おめでとうございました。このようなあり得ないような機会を与えていただけたのは、全て理事長先生のおかげさまです。ありがとうございました。


 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.15

『教育と魂の開発-東洋学的考察』 桑原昭吉 (文芸社)

83554066_2 日はある講演会で桑原昭吉先生の貴重なお話を聴く機会を得ました。そして懇親会ではお隣に座らせていただき、そこでもまた素晴らしいお話をうかがうことができました。
 昭和15年生まれの桑原先生、なにしろお元気でいらして驚きました。持っていらっしゃる魂魄のエネルギー量が違う。さすが毎朝2時間の禊を何十年も続けていらっしゃるだけのことはあります。「器」が違うので、当然中身が違う。
 そう、先生も講演の中でおっしゃっていました。いいお猪口で飲む酒がうまくて量が増えてしまうと(笑)。結局それですね。人間も立派な器になれば、自然と中身の魂魄も上級なものになる。禊や潔斎、座禅というものは、そういうためにするものなのでしょう。
 桑原先生は、ロサンゼルスオリンピックで体操個人金メダルを獲った具志堅幸司さんの恩師であり、その偉業を裏で支えたことで有名な方です。
 先生は現在でも清風高校その他で教員として教壇に立たれているとのこと。教師生活50年ですか!本当に私にとっては大先輩です。
 清風高校は真言宗系の学校ですが、校内に神社があったりして、まさに日本的な宗教心を大切にした教育を実践しているようですね。
 先生は信仰の人としての一面でも尊敬すべき方です。人生、特に教育には「愛と希望と信仰」が必要だという信念には、私も同意します。
 もちろん、「信仰」というのは何か特定の宗教や神を信じろという意味ではありません。先生の言う「信仰」の基底には、「サムシンググレートへの畏敬の念」「人間としての謙虚さ」「生かされていることの認識」というものが太く流れています。
 桑原先生の「信仰」の中心にある出口王仁三郎はもちろん、「生かされている自分」という認識は、もちろん禅的な考えにも通底しますから、そういう意味でも私は先生のおっしゃる一言一言にうなずかざるを得ませんでした。
 特に先生独自の研究による、心(魂)と体の経絡の関係については、非常に面白く感じました。今、私たちは精神的な領域と肉体的な領域を分けることばかり考えています。近代、現代とはまさにそういう時代だったのでしょう。
 どちらかに偏ると、カウンターの力が働いて他方にまた偏る、といったような時代が続いていましたよね。そういう中で、先生のように、その両面が実は全くいっしょであって、あるいはそれを超えた自然界の営み、たとえば朝昼夕夜や四季の循環、天体の運行なども同じであるという考え方は、古くて新しいものだと感じました。
 本来なら教育はそういうスケールに根ざすべきだと思います。様々なモノのコト化、つまり「細分化」や「専門化」は大人になればいやというほど体験しなければならないわけですから。
 私も、私立の、それも仏教に根ざした学校の教員として、桑原先生を見習って行きたいと心から思いました。
 それにしても、あの世代の方々の元気さ、ある意味での破天荒さ(私たち夫婦はそれをバカボンと呼ぶ…笑)はすごいですね。すさまじい密度の「時代」を生きていらしたからでしょう。私のような高度経済成長後の日本に育ってしまった人間にとっては、本当に憧れです。信仰心すら湧いてきますね。
 しかし、今、世の中は再び密度の高い変転の時代を迎えようとしています。今日の別の方との話の中にもありましたが、来年はいろいろな意味で大変な年になりそうです。
 こういう時こそ、激動の時代を生きてこられた諸先輩方の体験から来る重い言葉に耳を傾けたいと思います。

Amazon 教育と魂の開発-東洋学的考察


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.14

追悼 リチャード・ハミルトン

↓「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか」
Hamilton ップ・アートの父と呼ばれたリチャード・ハミルトンが亡くなりました。少し前に高松宮殿下記念世界文化賞をもらった時、ああまだまだ元気だなと思ったのですが。
 こうして「モダン」がどんどん亡くなっていくと、次には何が来るのでしょうか。ポスト・モダンが幻想だったわけですから不安になりますね。
 そう、いつも歴史について語りながら不安になっていたんです。だって、「近代」とか「現代」とか簡単に言っていますが、100年後、1000年後はどうするんだろうって思いませんか?いつが「現代」なんでしょう。
 ということは、もしかすると、歴史を歴史として体系化した「近現代」で歴史は終わってしまうのではないかと。我々の歴史は「今」を体系の一部に位置づけた時点で終わってしまうのではないかと。
 そんな恐怖と闘ったのがポスト・モダンだったのかもしれません。しかし、彼らもやはり「今」のあとに「今」を構築できなかった。実は「今」はそんな空虚な時代なのかもしれませんね。
 「通俗的、一過性、消耗品、安価、大量、若々しい、しゃれた、セクシー、見掛け倒し、魅力的、大企業」…ハミルトンがポップ・アートを語った言葉です。彼はそんな空虚なポスト・モダンを予見していたかのようです。
 昨日の田中正造の言葉とはずいぶんと対極的ですよね。結局モダンな科学とやらは、こんなふうに「今日の家庭をこれほどにを変え、魅力あるものにし」たのです。
220pxbeatles_white_albumsvg そうしますと、ハミルトンがデザインしたあのビートルズの「ザ・ビートルズ」もまた非常に象徴的な気がしてきますね。科学技術に支えられたモダンでポップで豊かな世界の裏側にある極まった「空虚さ」に、彼は気づいていたのでしょうし、ビートルズのメンバーも気づいていたのでしょう。
 サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドやマジカル・ミステリー・ツアー、そしてイエロー・サブマリンにはさまれて、あの「ホワイト・アルバム」が屹立している意味は、「今」になってさらに深く大きくなっていると思います。
 そんな「今」という未来を予見していたハミルトンは、モダン以降の「今」をどんなふうに眺めながら生きてきたのでしょうか。いや、彼のことだから、さらなる未来を見ていたのかもしれませんね。それがどんな世界だったのか。最近の作品を私は知りません。探してみたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.13

科学の倫理

A0046462_658366 「の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
 田中正造の言葉です。私はこの言葉の「文明」を「科学」と読み替えてみたいと思います。
 「真の科学は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
 言うまでもなく現代文明は「科学」を基礎に成り立っています。もちろんここで言う「科学」とは、自然科学のみならず、社会科学、人文科学をも含みますが、やはりその中心になっているのは自然科学でしょう。
 文明という言葉自体、civilizationの訳語として明治以降日本に定着したものであり、明らかに西洋近代都市文明のイメージを持っていますね。
 私たちが生きる現代文明は、その延長線上にあるのは間違いなく、今でももちろん科学の重要性は下るはずもありません。
 私たちはその恩恵に浴し、豊かで便利で平和な世の中を生きることができています。しかし、その反面、科学が我々に様々な不幸を及ぼしていることもたしかです。
 原発問題などは言うまでもありませんが、私たちが気付かぬところでも、今まさに「科学の暴走」が起きているという事実をしっかり認識する必要があるでしょう。
 そう、科学とはそもそも「暴走性」を秘めたものなのです。
 科学の定義や特徴は多岐に亘ります。ただその中心にあるのが「真理の探求」であることは、誰も異論のないところでしょう。つまり、科学の原点には「人間の欲求」があるのです。
 欲求は煩悩とも言えます。そしてそれは人間の生の根源的なエネルギーになるからこそ大切である反面、それが暴走の燃料になる可能性もあるのです。
 つまり、科学者は基本自己の欲求を満足させるために研究を行なっているのです。それは誰も否定できません。たとえ、世のため人のためと思っていたとしても、その思いもまた、自己の欲求であることに変わりありません。
 いや、世のため、人のためとしてやったことが、実際に世や人に認められて、ほめられたり、あるいはお金をもらえたりすると、世のため人のためという欲求自体が大義名分となって、さらに自己の欲求の暴走に拍車をかけてしまうことすらあるわけです。
 現代を象徴する原子力工学や遺伝子工学などは、もしかすると、そういう暴走の産物なのかもしれません。それらが、人類の歴史にとって本当に必要なのかどうか、実は誰も立証していないわけですから。
 身近な例で言うと、リニアモーターカーなんかもその類でしょうか。
 そう、科学のまた違う一面として「スポーツ性」があります。これはあまり指摘されていないかもしれませんね。つまり、科学には「記録」「順位」主義が存在するのです。
 「2位じゃダメなんですか?」と言ったオバサンがいましたが、そうですダメなんです、科学では。この前の川口淳一郎さんの講演でもけっこうそういう話がありました。それこそが科学の「創造性」なのですから。誰もやっていないことをやる、ということ自体に価値があり、目標があると。つまり世界一になり、世界新記録を作る、すわなち誰かに勝つというスポーツマンシップが要求される世界なのです。
 そのため、ドーピングのような不正も横行します。データの改竄や捏造、剽窃などですね。
 そうした危険性や科学の倫理について、理系の大学ではいったいどれほど教えられているのでしょうか。今日、九州大学の理学部で地球惑星科学を勉強している教え子が遊びに来ました。彼女に聞いたところでは、九大の先生方は比較的そういう意識が高く、つまり人間的にも尊敬できる先生が多いとのこと。安心しました。
 それに比べ、原発ムラに取り込まれてしまい御用学者を多数輩出(排出)している某大学なんかはどうなんでしょうか。非常に不安です。
 平成18年に日本学術会議が出した声明「科学者の行動規範について」には、「倫理」というよりも、人間としての当たり前の道徳がつらつらと書かれています。
 ある意味、こんなことを言わなければならないということ自体が、超エリートの集まる象牙の塔の実態を表しているのかもしれません。見事なお題目ですね。
 私たちの学校では、仏教の教えに基づき、理系を目指す子どもたちにも、人間としての基本的な「正しい生き方」を教えているつもりです。もちろんきれいごとばかりでは喰っていけない悲しい世の中であることは分かっていますが、しかし、少なくともそういう間違った社会に迎合せず、すなわち悪魔に魂を売ったりせずに、自己の目標が理想の世の中の実現となるように生きてもらいたいものです。

 「真の科学は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」

 自己実現が他者実現とイコールになる、まさに「不二」なる科学であってもらいたいものです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.12

魂柱立て

110903_10_30_58_hdr 然ですが、皆さんには「魂柱」がありますか?
 今日は「魂柱」を立てました。何度も何度も失敗を重ねた末、立てるコツが分かりました。立てる位置にも無限の可能性があることが分かりました。本当に魂の柱から、いろいろなことを学びました。
 と言っても、私の左胸にある魂ではなくて、ヴィオラの左胸にある魂のことです。
 ほとんどの方はご存知ないと思いますが、ヴァイオリンやヴィオラ、チェロには「魂柱(こんちゅう)」という非常に重要な部品があります。英語では sound post という味気ない機能的な呼ばれ方をしていますが、ヴァイオリンの本場イタリアでは Anima (魂・霊)と呼ばれています。
 ヴァイオリンなどの、あの豊かな独特の音は、いろいろな構造物の奇跡的な共同作業によって生まれます。弓によって弦が振動し、それが駒を介して表板に伝わります。それを裏板に伝える、すなわち楽器全体を響かせるのが「魂柱」の役割です。
 今、ヴィオラにニスを塗っているのですが、いろいろ作業をしているうちに、その魂柱が倒れてしまいました。弦で押さえつけられていた表板がほんの少し浮いて、裏板との間隔が開いてしまったからです。
 そう、この魂柱は、接着されていたりするのではなく、ただ表板と裏板との間に挟まっているだけなのです。そういう微妙なものが「魂」であり、楽器全体の音色や性質を決めるものなのです。
 実際、その柱がない状態で弾いてみると、まさに腑抜けな音しかしません。面白いほどに鳴りません。不思議ですね。たとえばギターなんかにはそういう構造物はないじゃないですか。箱を鳴らす弦楽器としてはヴァイオリンだけでしょうか、魂柱を立てるのは。
 そして、その立てる位置というのが実に面白い。普通の発想なら楽器の中心に堂々と立てそうですよね。しかし、実際には「左胸」、まさに心臓の位置に立てるのです。
 ヴァイオリンという楽器がどういう過程を経て、こういう形や構造になったかは、実はよく分かっていません。極端な言い方をすれば、いきなり歴史に登場して、その時にはすでにあの形であったと。だから悪魔が人類に与えた楽器だとも言われます。そのへんのことはこちらこちらに書きましたでしょうか。
110911_14_34_08 で、おととい、その魂柱が倒れてしまったので、昨日今日と頑張って立てたのであります。それが実に大変だった。まず魂柱立てという道具を注文しました。今までチェロの魂柱は2回倒して、2回とも割り箸と糸で立てるという奇跡の荒技で乗り切りましたが、ヴィオラは小さすぎてそんなことできません。で、しかたなく(?)専門の道具を買いました。
 昔は1万円くらいしてたんですがね、ネットで探したら1500円というのがありましたので、すぐに注文。翌日には届いてくれました。まあ便利でお得な世の中になりましたこと。
 しかし、それからが大変でした。その魂柱には1本の切れ目が入っています。そこにその魂柱立てのとがった刃物のような部分を刺して、それをそっとf字孔から入れて勘に任せて立てるのですが、これがうまく行かない。いったい何十回失敗したことでしょう。失敗すると楽器の中で柱がカラコロ転がっているわけですから、それを取り出すだけでも大変なのです。
 そして、失敗に失敗を重ね、もうすっかり闘魂が萎えてしまった時に、あることに気づきました。そう、楽器の構造と自分の体が一体化したんですね。で、自分の左胸に柱を立てるとしたらどうやって立てるだろうかと考えたら、あるアイデアが浮かびました。
 右胸から入れて立てよう!そうなんです。楽器や人間の体って外側へ向かって薄くなってるじゃないですか。だから、反対側から、つまり厚い広い方から入れて薄い狭い方に押し込んだ方が絶対立てやすいのです。
 魂柱にもともとついている切れ目に魂柱立てを刺すと、自然と左胸から入れる形になるんですが、それにとらわれていて逆の発想ができなかったのです。
 そして、実際魂柱の反対側に刺して右胸から入れてみたら、なんと1回で成功!見事魂柱が立ちました。
 ふむふむ、失敗は成功の母ですな。そして、硬直化した発想を転換する柔軟性も大切ですね。魂柱からそんなことを学びました。
 さらに面白かったのはそこからです。魂柱の位置というのは、現代のヴァイオリンでは駒の足から右に何ミリ、下に何ミリと、それこそ規格化されているわけですが、実際には無限の可能性があります。そして、その位置によって音が全く変わっていくのです。実際1ミリレベルで動かすだけでも、はっきり分かるくらい音色が変わります。
 ある製作家の方に聞いたのですが、バロック時代は駒の足の真下に立てていた形跡があるそうです。現代では規格化されてしまっていますが、昔はもっと自由だったのではないか。そんな気がして本当にいろいろな位置に動かして試してみました。そして、結果としては現代の常識とはずいぶんと違う位置に落ち着きました。
 なんかこれって人間にも当てはまるような気がしましたね。特に教育。人間はこうあるべきだ、勉強はこうするべきだというような「規格化」が現代社会や現代教育の弊害なのかもしれないなあ。自分もそういう生き方や仕事をしてきてしまったような気がします。
 私たちの「魂の柱」の位置も、実はもっともっと自由であっていいのかもしれませんね。そして、実際に魂とはフレキシブルなものなのかもしれません。もちろんだからこそ倒れやすいという部分もあるのかもしれませんが。
 というわけで、あの1本の小さな柱から、本当にいろいろなことを学びました。ぜひヴァイオリンなどを弾いていらっしゃる方は、ご自分の楽器の魂に働きかけてみて下さい。きっと何かが変わりますし、分かりますよ。
 なんて、普通はなかなか勇気がなくてできませんよね(笑)。もちろん、自分の魂や他人の魂に触れるのも、現代においては怖いことなのかもしれません。
 いや、「魂の柱」自体なかったりして…苦笑。

バイオリン用 魂柱立て Sound Post Setter f孔を傷つけない保護ゴム付


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.11

『お釈迦さまの脳科学』 苫米地英人 (小学館101新書)

釈迦の教えを先端脳科学者はどう解くか?
09825096 9.11から10年、3.11から半年。いろいろ考えさせられる一日でありました。
 我々は常に平和や安全や豊かさを望んでいますが、しかし、実際にそれが続くとストコーマ(盲点…見えているはずなのに脳が認識しないこと)がどんどん増えてゆき、本来の人間的な心まで失ってしまいます。
 逆に戦争やテロや自然災害があると、それが直接的な体験であれ間接的な体験であれ、私たちは何か大切なものを思い出します。あるいは今まで見えなかったものが見えてきます。
 こういう人間の性質について、もっと私たちはよく考えなければなりません。
 お釈迦様の時代は今ほど平和でなく、安全でもなく、豊かでもなかったはずなのに、やはり同様の悩み(煩悩)があったのでしょう。あるいは単に相対的なレベルの問題ではなく、その状態が「常態」になってしまうことこそがその原因かもしれません。
 いずれにせよ、古今東西老若男女に共通する人間の「初期不良」をなんとか修復する(ある意味ごまかす?)唯一の方法が、お釈迦様の悟りなのでしょう。
 私もエセ坊主として、お釈迦様の語った、あるいはその後の賢人たちが語った「悟り」や「空」や「縁起」などについて、それなりに考えたり、体感したりしてきました。
 それこそなんとなく、つまり言葉では表せないのですが、「これだ!」という感覚はようやくつかみかけております。しかし、それが正しいかどうかは、なかなか証明できません。それが不安でもあり、ある意味では安心でもありますが。
 さあ、それを現代の賢人、苫米地英人さんはどう説明するか。非常に興味がありました。彼はたしかに非常に頭がいい。そして天台宗の僧籍も持っていらっしゃる。さらに「科学」と「オカルト」という両極端な言語世界(ワタクシ流に言うと「コト」)を奔放に行き来している。
 そういう意味では、彼は私にとっては憧れであり、しかしなんとも胡散臭くもあり(笑)、実に不思議な生物です(人間かどうか不明)。
 で、結論から申しますと、なるほどこの本では語られているコトはだいたい理解できましたし、ある程度知っているコトでもありました。
 新書だからということもありましょうし、それこそ読み手を選ぶ「待機説法」なのでしょうね、全てが断定的であるために逆にウソ臭く感じられました。そういう意味では、共感している自分に自信がなくなってしまった(苦笑)。
 つまり「方便」なのです。本書のタイトルからして「方便」ですよね。結果として全然「お釈迦様の脳科学」ではないので。しかし、損をした感じはしませんから、まあとっても苫米地さんはお釈迦様的だとも言えますね。
 それにしても、こうして頭が良くて、しっかり思考して言語化、文章化していくと、そこにどんどん「ストコーマ」が生まれていきますよね。言語の性質とはそういうものなのでしょう。意味付けし、分節し、グループ化していくと、逆に無限の「補集合」が生じてくる。
 それが私の言う「モノ」なのです。ですから、「コトを窮めてモノに至る」なんですよ。おそらくお釈迦様もそうして、コト世界を入り口にして、モノに至り嘆息した。すなわち「もののあはれ」を実感したのだと思います。
 この世が全て脳内で生成された「幻(コト)」だと知ることによって、最終的には普段ストコーマとなっている「モノ」を実感できるのです。私はそれが「悟り」だと思っています。
 「無」の対義語は「有」です。「空」はそれよりも上位の抽象概念であり、「無」も「有」もないというのが「空」でありましょう。つまり、人間の概念(その一番基礎的なものが二項対立的命名)の向こう側にあるのが「空」であり、それこそが私の言う「モノ」世界なのです。
 苫米地さんと言えば、以前『なぜ、脳は神を創ったのか?』を紹介しました。そこにも同じようなことを書いた記憶があります。こうして語る人の言葉を受けて語ると、実はどんどん「空観」に近づいていくわけです。
 まあ、それが臨済禅なら「公案」というシステムなのでしょうね。そして、私にとってはこのブログがそのシステムです。だからこれは修行です。そろそろやめろとの声がいろいろな所から聞こえてきますが、やめたら私の生きている価値がなくなってしまうのでやめられません。それほど私は「生」に執着がある凡人だということでもありますがね(苦笑)。
 いずれにせよ、お釈迦様の悟り、すなわち「コトを窮めてモノに至る=自他不二」の境地こそ、平和や安全や豊かさと同時に得なければならないものなのではないでしょうか。コト(自己)への執着は争いを生みます。それが戦争であったり、テロであったり、豊かさの裏側の貧困であったりするわけですから。
 
Amazon お釈迦さまの脳科学

楽天ブックス 【送料無料】お釈迦さまの脳科学


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.10

『決定版 民主党と日教組』  阿比留瑠比 (産経新聞社)

81911103 呂吉雄経済産業相辞任…予想どおりの展開です。その程度の男だと思っていましたから。
 ウチの小学生の娘も「お子ちゃま以下!」と評しております。全くその通り。国際的にも恥ずかしすぎます。情けない…。
 鉢呂が大臣になった時、ちょうどこの本を読んでいました。この本の後半にしっかり名前が出てくる彼が経産相になったと聞いて、本当に気持ち悪くなりました。
 なぜなら、この本の前半の、いや全体の主役である輿石東がすでに幹事長になっていたからです。
 野田さん自身にはどちらかというと期待さえしていたわけですが、その後の人事には本当にガッカリして、語る気さえなくなっていました。
 そう、そのお二人ともに、日教組という教員組織を票基盤にして国会議員になった人間です。そんな二人が発言一つとっても「お子ちゃま以下」なわけですから、実に悲しむべき事態です。
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、日教組の中でも輿石の山梨、鉢呂の北海道は、先生方が本来の教育の業務をそっちのけで票集めに奔走している県として有名です。
 ワタクシの地元山梨は特にひどい状況で、その悲惨さについては、こちらに少し書きました。
 その内容をさらにリアルに暴露してくれているのがこの本。そう、この本の半分以上は「日教組」ではなく「山教組」の、そして「民主党」ではなくて「輿石東」の話なんですね。つまり、本来ならタイトルは「決定版 輿石東と山教組」とすべきなのです。しかし、それだと山梨では売れるでしょうけれど、全国的にはさすがに不利ですよね。
 ここで確認しておきたいことがあります。先の記事にも書きましたとおり、「山教組」の「悲惨さ」は決して公立の先生方個人のことではないのです。いわゆるいかにも「日教組」的な左翼思想を持つ先生など皆無に等しいですし、組合を通じて教育技術の向上を目指して真剣に研鑽している先生もたくさん知っています。
 また、管理職になるには、すなわち出世するには組合活動でご奉公しなくてはならないと言われていますが、だからと言ってそういう方々がみんな輿石東に魂を売っているわけではありません。まじめで能力のある先生が、実際子どものために、そして山梨県のために教育活動をし、その意味で影響力を持つためには、基本的にそういうルートしかないのですから、しかたなく、不本意にそういう活動をせざるを得ないというのが実情だからです。
 だからその「悲惨さ」というのは、私のようなカヤの外の人間からすると、「可哀想」という意味なのです。本来の崇高な志を貫くためには、不正義を働かなければならないなんて、どう考えても悲惨な可哀想な状況じゃないですか。
 私が異常なほどに反感を抱くのは、そういうシステムを利用して、すなわち極言してしまえば、そういう純粋な魂を持った先生と、そんな大人の事情を全く知らない無垢な子どもたち(とその親)を食い物にして、自らの地位と名誉とカネを得ている一部の人間に対してなのです。
 実際のところ、山梨県の公教育の現場には大変お世話になっています。自分の娘たちも大変充実した教育を受けていますし、カミさんは某公立中学校で英語を教えています。私自身も生徒募集にあたって多大な理解と協力をいただいていて、本当に足を向けて寝られないとはこのことだというくらい感謝しています。
 だからこそ、私はこの「システム」に興味を持ち、疑問を抱き、そして先生方のために、子どもたちのために、その見えない巨大な何かに立ち向かおうとしているわけです。
 内部から変えることは絶対に無理なのです。知り合いの先生方はみんなそう言います。もうそういうものだから仕方なく従っている、いや、もう異常すら感じないほどに伝統化、日常化してしまっていると。これはすごいことです。
 そのシステムに逆らうことは、すなわち「死」を意味します。この本でも、そのシステムの内容を、産経新聞の記者である著者に内部告発しているある先生が「殺されるかもしれない」と言っていますが、本当にそうなのです。もちろん「死」は「教師として、職業人としての死」だとは思いますが…。
 そうですね、つまり、この無言のプレッシャーと無反省化ということで言えば、この「山教組」の実態は北朝鮮やオウムのシステムに似ていますね。
 日教組という全国組織の性質や、それができた際のいろいろな事情についてはまたいつか書きます。しかし、その本体の問題以上に、ここ山梨という特殊な地域、「保守王国」という言葉では全く説明がつかない不思議な伝統や文化、県民性について、なかなかここでは語り尽くせません。
 公立の先生方は、そのほとんど全てが純粋な山梨人です。だから分からない、変われないという事情もあります。その点、私は外から来た人間ですし、私学の人間ですから、客観的にその状況を観察できますし、動きやすいということもあります。実際山梨には親戚も一人もいませんから、誰にも迷惑かかりませんしね。もし住めなくなったら引っ越せばいいだけの話ですから(苦笑)。
 一部の公立の先生方からも、ひそかに応援をしてもらっています。つまり、彼らも「面倒くさいなあ」と思っているのです。そういう無言のしがらみが。しかし、自分のこと、親のこと、家族のことなどを思うと、結局何も言えないわけです。間違っていると分かっていても従うしかない。そして、間違っているとまじめに思うと、その世界で生きていけませんから、結局「鈍感」「無感」になるしかない。
 というわけで、そういう恐ろしいシステムを利用して国家を動かす立場に成り上がり、そこでさっそく馬脚を現した鉢呂という人間、まあバチが当たったとも言えますが、その過程でどれだけ人を傷つけてきたか、存分に反省をしてもらいたいと思います。
 この際、輿石東も失言か何かで失脚してもらいたい。そうしないと、山教組の活動がまた活発化してしまうし、輿石を国政に送り出した山教組OBの皆さんがお祭り的に発言権を強めかねません。
 輿石さんにもいいところはあったんです。教員として彼、また組合での調整役としての彼、また民主党のおじいちゃんとしての彼(?)には、それなりの価値があったと思っています。ある意味人望がなければここまでは成り上がれなかったでしょう。
 しかし、自分の後輩たちに違法行為をさせているという事実を、教育者としてしっかり認めてほしいですし、教育者以前に人間としての良心を思い出して、身を処してもらいたいと思います。
 う〜ん、それにしても興味深い。なんでこんな見事な組織ができたんだろう。しっかり勉強してみようと思います。私も本が書けそうだな(笑)。

阿比留瑠比さんのブログ

Amazon 決定版 民主党と日教組

楽天ブックス 【送料無料】民主党と日教組


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.09

『ムー 2011年 10月号(「宮下文書」の謎)』 (学研)

4910085111019 わ〜懐かしい!ものすごく久し振りに「ムー」を読んでいます。
 いきなりUFOだUMAだポルターガイストだエイリアンだ霊だ吸血鬼だ大地震だ…昔と全然変わらないじゃん!素晴らしい(笑)。
 そして!ついに憧れの(?)ムーに名前が載った〜!そんな関係もあって、今回は購入したのではなく、学研から送られてきました。
 というのはですね、今号は富士吉田に残る怪しい古文書(古史古伝)「宮下文書(富士古文献)」の特集でして、その関係で私が撮影したある写真が使われているんです(79ページ)。
 先日の「出口王仁三郎の遺言」に続き、一般的な書物に自分の名前が載るというのは、なんとも不思議な感じがしますし、正直ちょっと嬉しいですね。何事も30年以上も続けていれば社会的な価値になってくるということでしょうか。
 本当のことを言いますと、私は同古文書については、おそらくその深奥部(つまり夢のない現実的な価値)まで含めると日本で一番よく知っている男だと思います。
 しかしムー的に言いますと、私のような人間が客観的にこういうトンデモ系文書を評価してしまうと、いわゆる「商品」になりえなくなってしまいます。だから内容には関わることができません。写真提供だけです。
 ある部分では、私はこのようなムー的な世界からいちおう卒業したわけです(たぶん)。少年の頃(中二病の頃)は、真剣に読んでいましたがね。今でもたとえば出口王仁三郎の研究なんかをしていますから、人から見れば充分オカルトしているように見えるでしょうけれども、そのスタンスは昔とはずいぶんと違います。
 そうそう、昨日のオウムにも関係しますよね、思いっきり。たとえば上祐なんかもかなり熱心にムーを読んでいたそうです。それも大学時代に。彼らなんか、いわゆる社会的学歴的偏差値が高くとも、結果として精神年齢は中二のままだった集団だったのかもしれませんね。
 いずれにしても、私もこうしてですね、音楽なども含めて少年時代に出会ったモノに今でも深く関わっているわけですから、今の中学生たち、特に我が中学校の生徒たちには、本当にいろいろなモノに出会ってもらいたいと思って日々仕事をしています。当然責任も重大ですよね。
 ところで、今回の「宮下文書の謎」ですが、それなりによく取材していますし、今までの言説をよくまとめてあると感じました。もちろん私のような客観的地元民からすると「そりゃないな」ということも多々あるわけですが、長年にわたって醸成されていきた「物語」としては、やはり魅力的ですよね。富士王朝伝説…たしかに人の心を引きつける何かがあります。それはすなわち富士山のパワーそのものと言っていいでしょう。富士山に何も感じない人は誰もいないでしょうからね。
 ムーという雑誌が果たしてきた社会的な役割は決して小さくはありません。功罪ということで言えば「罪」の方が大きかったでしょう。オウムに限らず、現代の新宗教ブームや占いブームやスピリチュアルブームなどの根底には、中二病を助長したムーという雑誌の存在がありました。
 しかし、これもまた客観的に見れば、明治や大正の心霊ブームにつながっています。そしてその心霊ブームや、宮下文書や王仁三郎に象徴される異端の神統の表出、そしてそれと表裏一体であった国家神道という存在もまた、西洋化(グローバル資本主義化)へのカウンターエネルギーにほかなりません。
 それはさらに江戸やそれ以前の日本の歴史や文化につながってゆき、最終的には縄文にまで遡っていく大きな流れになってゆくわけです。それこそが日本人の、そして私たちのアイデンティティーであり、今もう一度振り返ってみるべき自分たちの姿なのでした。
 そういう意味では、大人になった私は、少なくとも「オカルト」という物語のフィルターははずして、鏡に映った自分を観察したいと思っています。
 「オカルト」は言語化された「コト」です。「コト」は私たちにインスタントな「理解」「納得」を促すものです。もちろん「オカルト」の対極にある「科学」も代表的な「コト」ですね。当然そこで思考停止したくはありません。「コト」は入り口なのです。「コト」を窮めて「モノ」に至る。
 そういう意味では、このブログに書いていることは、私にとっては「コト」です。それをもって皆さんと「入り口」を共有しようとしているわけで、そこに賛否両論現れて当然ですし、それを目的に言語化しているとも言えます。皆さんの脳内に様々な窓が開けばいいなと思っています。

Amazon ムー 2011年 10月号

楽天ブックス 【送料無料】ムー 2011年 10月号 [雑誌]


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.08

『革命か戦争か オウムはグローバル資本主義への警鐘だった』 野田成人 (サイゾー)

90420905 つの意味で興味深い本でした。一つは、過去の自分の清算という意味で、もう一つは現在興味があることに関連して。
 著者はオウム真理教時代は正悟師で、アーレフでは代表だった人物。そして今は(たぶん)洗脳が解けて、一般社会の中で反省と贖罪の日々を送っています。
 彼もそうですが、オウムの中心人物は私と同世代が多い。実際私も、健全だった頃の、すなわち純粋な出家集団だった頃のオウムには興味を持っていました(そのおかげでウチには当時のオウムグッズがいくつかあります)。
 多少怪しくなってきた頃にも、なにしろ地元で起きていたことですからね、違った意味でよくサティアンや本部の方に行っていました。そして事件後は、私自身、いろいろなところでオウムの信者と間違われて苦労しましたっけ(笑)。
 当時はそのように不思議なシンパシーと違和感の両方を持っていたのです。今思えば、それは当時の、いや今もかなあ、自分の中の二面性というか、現代社会に対するシンパシーと違和感を象徴していたとも言えるような気がするんですね。
 それを自分としても清算しなくてはならないと、特に最近強く感じているんです。もちろん、野田さんとは全く違うレベルでの話ですけれども、しかしその根底はやはり一緒なんだなと、この本を読み終えて強く感じました。
 もしかすると、これは野田さんと私の問題ではなく、全ての現代人と現代社会の問題かもしれない。いや、そうに違いありません。
 彼らはある意味頭が良すぎた。だから、あの当時、つまりバブルの最中から崩壊後にかけて、「グローバル資本主義」の弊害に気づいていたんでしょうね。私はそれははっきりとは分からなかった。今になって、ようやくそういう言葉を使って自分の違和感を解釈できるようになってきた。
 「グローバル資本主義」とは、「我良し」「強い者勝ち」そのものです。そういう点で言えば、一世紀前に出口王仁三郎がすでに気づき主張していたことなんですよね。実際、麻原は王仁三郎をよく研究しており、ある意味自分をそこに投影していた部分もありました。国家を敵に回し、弾圧を受けたという部分では、たしかに共通しているとも言えますし。
 もちろん、彼らが暴走して引き起こしてしまったあらゆる事件の全ては、絶対に許すべからざるものであります。一厘も共感すべき性質のものではありません。しかし、その根底にある現代社会の病理については、私たちは目をつぶることはできないでしょう。オウムを責めるだけではだめなのです。
 大震災があったこともあって、最近の私は、子どもたちにどういう社会を創ってほしいかということをよく考えます。その時、やはり目の前にあるのは「グローバル資本主義」です。カネという悪神が支配するこの世の中が、どうしても正しいと思えないのです。
 では、どういう世の中にすべきなのか、それは非常に難しい。毎日悩んでいます。それはもしかすると、野田さんがずっと悩み続けてきたこと、そして今も悩んでいることと同じなのかもしれません。
 それから、最近非常に興味を持っている「山教組」というシステムのことを考えるのに、このオウムやアーレフという集団の歴史は参考になりました。本来の崇高な目的がどんどん忘れられてゆき、無言のプレッシャーが支配する硬直した集団が出来上がっていく過程は、ある意味とても興味深い。
 これは宗教集団や教職員組合に限らず、日本の多くのコミュニティーで見られる現象です。今、それに興味があるんです。ある意味「グローバル資本主義」もそうやって確立され固定化され暴走してきたのだと思いますし。
 私ももうすぐ生まれて半世紀になります。遅ればせながら、ようやく自分の育ってきた環境としての現代社会を、客観的に見ることができるようになってきました。それはすなわち、自分自身を客観視でもありますね。本当に時間がかかりました。後半生は闘いだと思っています。
 野田さんの語る、グルイズムとグローバル資本主義の共通点や、「空」に関する考察は非常に興味深かった。また、巻末にある野田さんと苫米地英人さんとの対談も面白かった。しかし、悩みの種はどんどん増えていきます。
 この世は複雑なようで、実はとても単純なのかもしれません。人間の営みはある種の法則性をもっている、もしかするとそれは自然界のそれの写しなのかもしれないとも思いました。お釈迦様はそこに気づいていたのだなと。しかし、彼の語ったことはあまりに理想主義的であり、現実的な人間にはとてもついていけない内容だったのかもしれません。
 悩みは続きそうです。

Amazon 革命か戦争か

楽天ブックス 【送料無料】革命か戦争か

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.07

道南で震度5強…最近の地震に思う

Large の10時半頃、浦河沖を震源にM5.1の地震が発生し、新ひだか町(っていう町があるんですね)で震度5強を記録しました。震度5強は何ヶ月ぶりでしょうか。大きな被害がなくてよかった。
 M5.1で震度5強ということは、震源が非常に浅かったということでしょうね。地震自体としては中規模ですが、ほとんど直下型と同じような感じですので、局地的に大きな揺れになったものと思われます。
 浦河沖は地震の巣です。大震災後は比較的静かにしていましたが、そろそろまた活動期に入ったのかもしれません。
 1982年の浦河沖地震はM7.1、浦河町で震度6を記録し、80センチの津波も観測されました。あの時も本震の前にM5クラスの前震があったようですから、今回もまだ警戒しなくてはなりませんね。
 6月に今後の地震活動についてという記事を書きました。そこにも書いたように、三陸沖から北側のアスペリティ、たとえば釧路沖も大きく動く可能性があります。
 長期的な視点で観察してみますと、3.11の大地震のあと、それまで活動が活発だった地域の地震がある期間沈静化していました。しかし、それがここへ来て再び動き始めているという感じですね。
 どういうメカニズムかよく分かりませんが、とんでもなく大きなことが起きると、それまでの小さな問題や軋轢が鳴りを潜めるものです。人間界もそうじゃないですか。
 しかし、それも時が経ち記憶が薄れるごとに、ある意味では日常が戻ってくる。自然現象も人間も同じです。
 地震について言うなら、海底ではなく内陸の地震が増えてきます。従来壊れやすかったところとともに、大地震に伴って新たに壊れやすくなった部分が動き出すということですね。
 人間界でも、ついつい忘れてしまっていた日常的な些細な問題を思い出したり、震災によって生じた新たな問題が意識され始めたりしていますよね。まあ、人間の思考や感情も自然現象ということでしょうか。
 いずれにせよ、全ての地震は溜まったストレスを解消するために働くものであって、それ自体は悪いものではありませんし、そこに人間の都合でどうこう言うべきものではありません。しかし私たち人間としては、そうした「自然」どうしうまく共存していけるような智恵を働かせる必要はあるでしょう。
 いつかも書きましたが、たとえば天気予報とそれに対する私たちの心構えと実際の行動のような感じで、そのスケールをより大きくするというような姿勢が必要でしょう。ただ恐怖したりするのではなく、あらゆる可能性を認めた上で、私たち「自然」ができる範囲で、より大きな「自然」と対峙していくべきだと思います。
 私としては、その一つが地震雲の観察であり、体感の分析だということです。大自然、大宇宙としての空や雲や富士山、そして、小自然、小宇宙としての自分。両者から素直な気持ちで学んでいきたいと思っています。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.06

『出口王仁三郎の遺言 あなたが開く「みろくの世」』 櫻井喜美夫 (太陽出版)

9784884697129 日、著作権について昔書いた文章を載せたのは、実はこの本を読んで驚いたからです。驚いたというか嬉しいというか。
 皆さん、自分が何気なく買ってきた本を読んでいて、突然自分の名前と自分が書いた文章が出てきたら、ビックリしますよね?
 そう、昨日そういうことがあったのです。Amazonからこの本が届いて、冒頭から非常に興味深く読んでいたら、いきなり目に飛び込んできたのは自分の名前(笑)。
 なんと、このブログの梅棹忠夫先生と王仁三郎という記事の後半がそのまま引用されていました。
 昨日書いたように、私のこのブログには著作権なるものは存在しませんし、その改作、引用も自由ですから、正直とても嬉しく思いました。櫻井さん、ありがとうございます。
 櫻井さんの下のお名前「喜美夫」は、王仁三郎に命名してもらったとのこと。王仁三郎の本名「喜三郎」を「きみお」と読み替えて漢字を当てたのだそうです。それも、櫻井さんのお名前こそが、王仁三郎最後の「命名」となったのだそうで、そういう意味で、たしかに「遺言」とも言うべきメッセージがそこにこもっているのだと感じます。
 そのような大切なお役目を担った方に、ワタクシのような者の拙文を引用していただき感激いたしました。これもまた運命でありましょう。
 さらに読み進めますと、7月に、それこそ不思議なご縁で初めてお会いした瀬戸龍介さんのお名前も登場していまして、またビックリ。この本が執筆されたのは7月以前のことですから、これはまさに運命的であります。私たち二人は、実は櫻井さんの意識の中ではすでにお会いしていたということですね。
 そんなありがたくも不思議なこの本ですが、その内容は非常に充実したものでした。本当に大切なことが満載。宗教とか予言とかオカルトとかスピリッチュアルとか、そういう次元を超えて、今まさに必要な私たちの身魂磨きの話です。
 もちろん、私自身あまり明るくない分野の話題に関しては、正直よく分からない部分もありますけれど、全体として本当に共感できる内容でした。
 王仁三郎が目指した、宗教のない「みろくの世」の実現のために、今私たちは何に気づき、何をすべきなのか。東日本大震災という大峠を、私たちは本当の意味で越えることができるのか。
 最近のこの私を動かす急流には、何か大きな意思を感じざるを得ません。そして、そうしたご縁の中に自分の天命や生き甲斐や責任や義務を見出しています。
 特にこの本を読んで、私にはある壮大な思いが生まれました。たとえ妄想と思われてもかまいません。私のこれまでの半世紀に近い人生の、様々な時点での体験や思いや感覚や知識が、ずいぶんと鮮明に線としてつながり始めているのは事実です。これはおそらく私自身にしか分からないモノでしょう。ですから、ある意味理解されなくてもしかたないと思っています。
 そんな、私にとっては非常に重要なことを気づかせてくださった櫻井さんに心から感謝します。
 この本には「愛」が満ちていると感じました。文は人なりと申しますが、櫻井さんの日本語はとても美しく、そして柔らかい。それだけでもこの本には大きな価値があります。こういう日本語(言霊)を操れる人は、そうそういません。これはお世辞ではありません。文章術の巧拙という次元ではありませんね。
 もうこうなりますと、櫻井さんとお会いする日もそう遠くないと予感します。たぶんそういう運命なのでしょう。楽しみにしています。ありがとうございました。

 追伸…「文は人なり」「ブログの引用」ということで思い出すのは、こちらの本ですね。これはある意味楽しかった(笑)。

Amazon 出口王仁三郎の遺言

楽天ブックス 【送料無料】出口王仁三郎の遺言


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.05

このブログの著作権について

(最後までお読みください。たぶん面白いので…笑)


 このテキストの電子コピーは、あなたが欲しいだけ作ってかまいません。それらのコピーにどんな名前をつけて、他人に配布してもかまいません。そのディスクをあげてしまっても、売ってもかまいません。このテキストの電子コピーに対して、代金を払おうという人がいれば、お金を受け取ってください。
 しかし、あなたは、このテキストのいかなるハードコピーも取ってはいけません。つまり、手で持つことができ、ろうそくの光や懐中電灯や卓上ランプなどで読める紙やその種類の物質にコピーしてはいけません。コンピュータで発表したり読んだりするのに必要ではないようなコピーは作ってはいけません。
 このテキストを、電子的メディアのうちに保存しておく限りにおいては、あなたは気に入るようにテキストを書き換えたり、その書き換えを他人に手渡してもかまいません。あなたは、自分がテキストを書き換えたということを示したいかもしれないし、そのことを隠しておきたいかもしれません。後者の場合には、読者たちは、あなたが書き換えたテキストの責任は原著者にあると、誤って想定してしまうことでしょう。
 ですから、ここで注意しておきたいことは、このテキストのいかなる箇所も、原著者以外の誰かによって書き加えられているかもしれない、ということを心に留めておいてほしい、ということです。
 このことは当然、この警告自体にも当てはまることです。もしかしたら、このクレージーな著作権表示自体、いたずら好きな読者によって書き換えられたものかもしれません。もしかしたら、原著者は、次のような伝統的な著作権表示をしていたかもしれませんね。

 不二草紙 © 2004 山口隆之
 本書は著作権上の保護を受けています。このテキストのいかなる部分も、著者の許諾を得ずに、電子的機械的に複写複製することは禁じられています。


 どうも長々とすみません。
 実は、以上の文章は、電子テキスト問題の古典、ボルダーの「ライティング スペース」からのパクリです(笑)。
 実際のところ、このサイトのいかなるコンテンツにも著作権は存在しません。インターネットの性格上、そこに著作権を求めるのはナンセンスだと考えるからです。
 ですから、いかなるコンテンツをどう利用しようと、どう手直ししようと、全く自由です。
 ただし、改悪したり、悪用したりする場合には、必ず筆者までご連絡ください。
 もちろん、いかなるコンテンツへのリンクも自由ですし、その報告の義務も全くありません。報告の権利はありますが。   
           不二草紙筆者 蘊恥庵庵主

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.04

ビートルズ 『ヘイ・ジュード』 とヴィヴァルディ・バッハ・志村正彦

 ートルズ人気投票「ヘイ・ジュード」1位というニュースが。なるほど日本人には特に人気のあるビートルズ・ナンバーですね。
 ビートルズのベスト1を選ぶのは非常に難しいわけですが、とりあえずワタクシとしては1位にはしませんね。特別上位に食い込むかというと、それも微妙です。というか、ビートルズのランキングをするのは無理ですし、ベスト20などを選ぶのも非常に困難です。私にとっては全ての音楽の中で別格なのです。
 この曲を初めて意識的に聴いたのは小学校5年生の時でした。その時の違和感は今でも忘れませんし、正直消え去っていません。
 その違和感の原因はいくつかあります。そして、それがそのままこの曲の特徴であり、魅力となっています。
 まず、この曲がクラシック音楽のような和声でできていることです。いちいち細かく示しませんが、いかにもポールらしい「作った」曲という感じがしますね。
 冒頭部分一つとっても、もろにバロック音楽しています。コード進行はヴィヴァルディの有名な四季の中の冬の第2楽章と全く同じです。メロディーの進行はバッハの管弦楽組曲第1番の序曲とかぶっています。ちょっと聴いてみてください。

↓ヴィヴァルディ冬より

↓バッハ管弦楽組曲第1番より

 どうです?面白いでしょう。ポールがどの程度これらの曲を意識していたかは分かりません。しかし、ポールの楽曲全体にヨーロッパ近代音楽の、ある種の「作為性」を感じ取ることができますね。
 ビートルズの魅力の一つは、ポールのようなテクニシャンとしての作曲家と、ジョンのような魂の作曲家が共作、競作してある種の化学変化が生じていることです。そして、そこに絶妙なバランスが生じている。これはもう奇跡としか言いようがありません。
 それから、もう一つの違和感の原因は、サビの転調です。近代西洋音楽的でありながら、ある意味肝心のサビの部分は非常に破格な転調をしています。すなわち、サビが全体の調に対して下属調すなわち5度下(4度上)に転調しているわけです。
 近代西洋音楽から現代のポピュラー音楽に至るまで、特に好まれて使われている音階下降バスという定番を使いながらも、独特な「違和感」を残すのは、この転調のおかげです。ここがポールの天才的なところですね。
 上に載せたヴィヴァルディのラルゴにも下降バスが見られます(下降しきった所での属調への転調も同じ)。そして、後半属調から主調に戻す強引さも、ちょっとヘイ・ジュードに似ている(つまり違和感がある)かもしれません。
 それにしても、ヘイ・ジュードにおけるその強引な転調テクニックはすごいですね(戻しも含めて)。これほど「属七」和音を有効に使ったポピュラー音楽はそんなにありません。考えてみると、属七和音の有効利用もまたバロック期に始まりました。ヘイ・ジュードは(レット・イット・ビーと並んで)バロック音楽なのかもしれませんね。
 そのあたりが当時小学生であって、まだまだバロックやクラシックの「不自然さ」への免疫がなかった私に、違和感を抱かせる原因だったと思われます。なんというか、気恥ずかしいというか、ちょっとした居心地の悪さですね。いい曲なんだけれども、すっと胸に響かなかった。
 それから後半のあの印象的なリフレインですね。あそこもまた属七的、すなわち下属調への強引なエネルギーに満ちたコード進行です。そのしつこさとともに、それこそ破格であり、当時としても今としても画期的な展開であると思います。あれは誰のアイデアでしょうね。ジョージ・マーティンでしょうか。
 まあとにかくポール・マッカートニーという人は、近代西洋音楽の系譜上で「天才」だったということですね。
 さて、最後にもう一つ、日本が世界に誇る天才の作品を一つ。フジファブリックの志村正彦くんは、ポール・マッカートニーとジョン・レノンの両方の才能を持ち合わせていたと感じます。彼の作品(ビートルズとも縁のあるRoger Joseph Manning Jr.との共作ということになっていますが)の中でも、特にビートルズの影響や匂いのする「Chocolate Panic」です。お聴きになって分かるとおり、ヘイ・ジュードの影響も色濃く現れていますね。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.03

舞踏家・書家・料理家と共演(響演・饗宴)

動画アップしました!

↓リハーサル風景
110903_17_14_24_hdr 晴らしい体験をさせていただきました。皆さんありがとうございました。
 山中湖畔にある素敵な宿「ホトリニテ」で、舞踏家の大倉摩矢子さん、書家の渡辺大壑さん、そして料理人の堀内一紀さんによるコ・パフォーマンスがあったのですが、そこに飛び入りでヴィオラの即興演奏をさせていただきました。
 今考えるとずうずうしくお邪魔をさせていただいた感じがします。お三人の共演にキズをつけてしまったのではないかと申し訳ないとさえ思います。
 さらにずうずうしくもそういう反省を抜きにしてしまいますと、私としては本当に感動の時間だっと言えます。
 禅宗のお坊さんにして書家の渡辺大壑さんとは、もう四半世紀のつきあい。昔はよく呑みながら芸術談義や宗教談義をしたものです。その中で、よく書と音楽の共通性や違いについて語り合っていました。それがこういう形でのコラボレーションになろうとは。
 舞踏家の大倉摩矢子さんとは、本番4時間前に初めてお会いしました。しかし、私は、彼女が付箋をいっぱいつけた「病める舞姫」を持っているを発見し、ああこれは行けるぞと思ってしまいました(これまたずうずうしくも)。
 不思議なものですね。数年前に土方巽と唐突に接近した私、そこから舞踏の世界にずんずん引き込まれてしまいました。そして、今日の共演。
 本当に私なりの理解でしかないのですが、たまたま親しんできた「書」と「舞踏」の世界。それはすなわち「縄文」的な世界にほかなりません。そこに自らが音楽で挑戦するということになろうとは夢にも思いませんでした。全くご縁というのは不思議なものです。
 縄文的なモノ、それは「大地」に根ざしたものです。書は紙という大地に筆を打ち込み魂を刻み込む。舞踏は床という大地に身体を打ち込み魂を刻み込む。
 では、音楽は?私にとっては非常に困難な、しかしわくわくする挑戦でした。生まれて初めての経験を、プロの表現者たちの中、お客様の前でするわけですから(お客様の中には世界的なミュージシャンもいる!)。それも即興で。
110903_18_42_13 正直、書と舞踏は本当に素晴らしかった。台風による大雨と大風、徐々に増水してエネルギーを溢れさせようとする山中湖、それを遮断せず自然に受け入れてしまう歴史ある宿。そうしたシチュエーションも含めて、あまりにも「ライヴ」な瞬間の連続であったと感じました。
 そのあまりの素晴らしさに、私もすっかり呑み込まれ、そして呑み込まれたおかげで、不思議と自然に演奏することができたと思います。古楽器を持っていったのも正解でした。湿度や気温に大きく影響を受ける裸のガット弦。より前近代的、古代的な「不自由さ」と「自由さ」に助けられた自分がいたのも事実です。楽器が勝手に叫んだり、沈黙したりしてくれましたから。
 音楽にとっての「大地」とは、やはりドローンバスです。書とのコラボではそこを強調しました。一方、舞踏とのコラボは対照的に大地からの飛翔(の妄想)を表現したつもりです。大倉さんの舞が子どもの夢をイメージさせるものでしたから。
 終演後、いよいよ若手料理人堀内一紀さんによる表現をいただく時間です。お客様といっしょに、まさに「大地」を感じさせるシンプルだけれどもエネルギッシュなお料理をいただきました。
 お客様の中で野菜の味噌煮込みがヴィオラの音のようにザクザクしていておいしいと語った方がいらっしゃいました。この「おいしい」という根源的な快感を与えられる「料理」という芸術に、少し嫉妬してしまいましたね。味覚には理屈や言葉はいりません。
110903_22_47_58 そう、縄文的、古代的、純日本的な表現は、「言葉」以前の感動であるべきですね。渡辺さんの書はほとんどが「甲骨文字」。文字以前、言語以前のイメージ世界です。文字も文字となり言語の記号となった瞬間に想像力を失ってしまいます。意味を得てデジタル的な狭窄世界になってしまうんですよね。
 舞踏もまさにそれです。意味以前の動き。ワケがわからなくて正常、ある意味健康的なわけです。私は土方にそれを学びました。
 大地に根ざすということは「舞ふ=回る」ということですよね。自然、地球、宇宙に身をまかせるということは、「人間」の傲りを捨てるということです。人間の傲りの象徴が「言葉・言語」であることは言うまでもありません。人間は言葉をもって世界を切り分け整理して支配制御しようとしたわけですから。
 というわけで、これ以上「コト」の葉でカタるとせっかくの「モノ」世界が魂を失ってしまうからこのへんでやめておきますね。
 とにかく楽しい素晴らしい体験でした。まさに響き合う「響演」と「饗宴」でありました。もしもう一度チャンスがあれば、またその場、その時の言語以前の表現ができるような予感がします。このような機会を与えていただいた皆さまに心から感謝いたします。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.02

『笑神降臨…鳥居みゆき』 (NHK)

狂宴封鎖的世界「穴」
Photo01 がいい。感性が鋭い。演技がうまい。プロ根性がすごい。そして美しい。
 録画しておいたものを家族で観ました。久々に重く感動する笑いを体験したなあ。最近の単発ネタ系のお笑いにはうんざりしているせいもあって、こうしたしっかり構築されたシナリオ系の笑いには、惹きつけられますね。
 そういう意味では、私は最近NHKの笑いしか観ていないかもしれません。定期的に笑っているのは「サラリーマンNEO」ですね。今週の「クラシック」は抜群に良かった(笑)。
 しっかりした脚本としっかりした演技。そして世相を映すアイロニーとペーソス。お笑いと演劇は本来同一のものであるべきです。
 そうですね、そういう意味では、NEOのほかでは2年前の小林賢太郎テレビもそれなりに面白かったのですが、逆に微妙な面もありました(彼やウッチャンやまっちゃんがNHKと関わって「微妙」になってしまった原因についてはこちらに書いてあります。ぜひお読み下さい)。
 その点、鳥居みゆき、かなりの天才ですね。知性で「知」をコントロールするのではなく、感性で「知」をコントロールしたために見事なバランスになっていました。
 狂宴封鎖的世界「穴」と題された全体像の中に浮かび上がった「現代の閉鎖性」「現代の孤独」。そして四つのエピソードそれぞれの微妙な統一と変化。そして一つ一つの言葉のセンスとナンセンス。
 30分の壮大かつ軽妙な交響楽を聴いたような感覚が残りましたね。素晴らしい。
 同じ秋田県出身ということもあってか、カミさんは今までも彼女に興味を持っていたようです。私は実はあまりよく知りませんでした。しかし、今日のこの番組ですっかりファンになってしまいました。
 こちらの公式ページにあるスタッフのメモを読むと、彼女のプロ根性がよく分かりますね。
 ぜひ単独ライブにも行ってみたいと思いました。カミさんと話しました。こういう授業したいよねって。部分で惹きつけつつ、全体でメッセージを伝えられるようなパフォーマンス。終わったあとに何かが心に残り、もう一度体験したいなと思わせるような内容。う〜ん、難しいなあ。ちゃんと訓練しなきゃいけないだろうなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.01

爆問学問 「君もアンパンマンになれる!」 (NHK)

Vlcsnap2011090209h59m33s183 義の味方なら、まずひもじい人に何か食べさせるべきだ!そう語る元気なじいさん。アンパンマンの原作者やなせたかしさんです。
 いやあ、まあだいたいこういう方だとは想像していましたが、ある意味ここまでだとは。昭和の天才はみんなこうしてぶっ飛んでいる。異様なほどのバイタリティー。
 それはもしかすると、まさに「ひもじさ」を体験しているからかもしれませんね。すなわち戦争体験です。
 戦後育ち、それも高度経済成長からバブルにかけて青少年時代を過ごしたワタクシなんかには、とても真似ができません。だから私は彼らに大いなるジェラシーを感じつつ、一方で憧れと尊敬の念を持ち続けているわけです。
 これは逆説的な現実ですね。人は永遠の平安を祈りつつ、一方で不遇がないと自らの人生を豊かにすることができないわけですから。
 ここをどう乗り越えるかが、あるいは人類永遠のテーマであり、政治や経済や宗教にとっての頭の痛い課題なのかもしれません。
 やなせさんの正義観はやはり戦争という究極の不遇や不条理の中から生まれたものでした。敵や悪者をやっつけるだけではない。敵や悪者と認識する前提は立場によってコロコロ変わり得る。すなわち戦争における正義はフィクションであり、リアルな正義は、いままさに目の前で飢えている人にパンを与えることである…これはよくわかりますね。
 それで自分の顔の一部をちぎって与える。やなせさんの言う自己犠牲ですね。
 「飢えたる者に汝のパンを裂き与えよ」…これは言葉の上ではキリスト教的です。私なんかアンパンマンと言えばバッハのカンタータ第39番を思い出します(笑)。

 しかし、微妙にキリスト教とは異なるとも感じました。イエスの正義とは明らかに違う。
 それは「ばいきんまん」(バイキンマンは誤表記)の存在価値によって判断されます。キリスト教的に言えば、ばいきんまんは敵ということになりますから、イエスからすると「赦す」存在になるはずじゃないですか。
 しかし、アンパンマンは決してばいきんまんを赦さない。常に戦っています。そしてその戦いは懲りずに永遠に続く。
 そこなんですよね。アンパンマンが、というか日本のヒーローものが決して偽善に陥らないのは。
 やなせさん自身が「世界的傑作」と語る「ばいきんまん」。彼の存在こそが「自分の中にある愛すべき悪」の象徴だと思うんですよね。
 自らの罪に目覚めてそれを贖い心身清めるのではなく、自らの悪をも愛することによって、他の悪をも認めることができる。
 これはやはり日本古来の神道的世界観とも言えそうです。あんぱんという基本設定もまた、西洋と東洋の融合、融和を表現している、あるいは和魂洋才を表現しているわけで、非常に日本的です。
 ま、それにしても、ほとんど全ての病気をやったというのに、この元気さには驚きました。つまり、病気と戦いながらもその病気さえも愛するという、それこそアンパンマンとばいきんまん的「愛」の世界に生きているのでしょう。
 実にうらやましく、そして真似をしたいと、心から思いました。

ps 来週は「キリストの墓」登場ですな!w

爆問学問公式

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »