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2011.06.17

『遊星ハグルマ装置』 朱川湊人・笹公人 (日本経済新聞出版社)

Photo 物語というのは日本の伝統的文学形式です。散文に韻文がちりばめられることによって生まれる立体感というのは、なんとも格別な味わいのあるものですね。
 これは新しい形の「歌物語」でしょう。物語と歌を別々の方が担当するわけですから。
 その歌担当が笹公人さん。我が短歌の師匠ですね。昨日の上杉祥三さんに続いて、東京でお会いした方シリーズ第2弾です。
 師匠にとっては、御大和田誠さんとの共作『連句遊戯』に続く、他者性の強い作品ですね。この本では、またまた師匠の新しいチャレンジを楽しませていただきましたよ。
 この表現する側の複数性というのが、もうそれ自体大いなるチャレンジです。文学において表現する者どうしが「セッション」「アンサンブル」するというのは、実は稀有なことなのです。
 いわゆる文学っていうジャンルは、どうしても独言が多くなるじゃないですか。一方的な自己顕示によって成り立つ分野だと言ってしまってもいい。特に近代日本の自我の目覚めとともに発達した「純文学」は、個人の独言を商業ラインに乗せたところに成立していたわけです。近代短歌、現代短歌もそういった流れの上に花開いたジャンルでした。
 それまでの「歌」は、ある個人との連絡や意思疎通の手段であったり、ある限られたコミュニティーでのスラングにすぎなかった。個人から不特定多数への発信というのは、せいぜい江戸の大衆文化における一過性のエンターテインメントとしてあったくらいです。
 ですから、純文学たる(すなわち個人の独言たる)現代短歌の中で、笹さんのように、積極的に他者性を導入するというのは、非常に珍しいことであると思います。
 考えてみると、作家個人の独言を、「読む」という非常に面倒で能動的な行為をも要求しつつ押しつける(?)純文学というのは、とてつもなく暴力的なジャンルです。音楽やスポーツを鑑賞、観戦するのとは全く違った要素がありますね。
 私は実のところ、そうした一方的な押しつけが大の苦手な体質でして、だからこそ小説を読むヒマがあったら、音楽鑑賞やプロレス観戦の方に向かってしまっていたわけですね。
 しかし、笹さんの、和田さんや朱川さんとのセッションは、もうすでに発信された言葉の中に「他者性」があって、すなわち「共鳴」や「興奮」や「気づき」や「驚き」や「歓び」があるわけですから、どちらかというと、音楽やプロレスのように私も楽しむことができるわけです。
 「純文学」にとっては非常に辛い時代が続いていますが、ある意味においては、それは当然のことであるのかもしれません。特に日本人にとって「自我」や「個人」は輸入されたものでしたから、最初のうちは魅力的に見えても、いずれ飽きが来たり、違和感が出てきたりするのは当たり前ですよね。
 ですから、こうして「純文学」に「他者性」を導入することによって、個人色をなるべく消し去る方向に舵をとるのは大いに結構なことだと思います。いわば「不純文学」(笑)。
 しかし面白いですね。和田さんとの「連句遊戯」の記事にも書いた「昭和臭」、この「遊星ハグルマ装置」ではさらにパワーアップしてますよね。
 だいたいが、諸星大二郎大先生によるこの表紙絵、そして鈴木成一デザイン室による装丁はなんですか。ちょっとコテコテすぎるくらい昭和してますよね。
 そしてその包みの中にはまた、とんでもない昭和が封印されています。笹さんの「妄想短歌」にせよ、朱川さんによる「妄想短編小説」にせよ、そう、その「妄想」こそがメチャクチャ昭和しているわけです。
 「妄想力」というのは、きれいに言えば「想像力」、「物思い力」です。実は日本人が最も得意としていた分野ですね。
 私の「モノ・コト論」では「モノ」はまさに「他者」を表します。ですから、「モノ思い」とは、自らの概念や思想といった閉じた「コト」世界から解き放たれるために、あえてそこに「他者」性を上書きすることなのです。
 昭和にはそうした「モノ思い」の技が生きていました。昨日の上杉さんとの対話の中で出てきた「モノまね」もそうですね。上杉さんがおっしゃるには、「自分を捨てて器になる」とのこと。そこにこそ「モノ」という外部が盛られるわけです。今の私たちには、そうした「器」としての自分が極端に欠落しています。
 その点、笹さんや朱川さんはさすが、見事に互いに器となりあって、そして互いの「妄想」を盛りつけあって、こんなステキなお料理を私たちに提供してくださりました。これがおいしくないはずはありません。
 ところで、短歌と小説をこうして一つの歌物語としていただく機会ってそうないじゃないですか。おかげで双方の違いがよく分かりましたよ。ちょっと意外な発見もありました。
 まずは、日本的なリアリズムの観点からすると、実は短歌の方がリアルなんだなと。短歌はデフォルメが大きいけれど、その分だけ実はリアルなのです。もちろんそれは、たとえば浮世絵のリアリズムや能のリアリズムと同じ次元でのリアリズムです。
 そして、短歌って引き算の文学かと思っていましたが、実は違ったと。イメージの飛躍の自由度は間違いなく小説より短歌の方が大きい。それって自由な足し算ができるっていうことですよね。
 こうした発見を、これからの自分の歌作に活かして行けたらいいなと思います。師匠、これからもよろしくお願いします!

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投稿: 藍色 | 2013.03.29 14:44

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直木賞作家で“泣ける”短篇の名手と“念力”短歌の若き鬼才がコラボ、それぞれの作品から触発された小説と短歌を連詩形式で紡ぐ交感作品集。昭和の少年少女が学校や街で体験する懐かしく不思議な世界へようこそ!...... [続きを読む]

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