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2011.06.03

一定の…

↓「一定の」友愛?w
20110319101218a13 団四季の素晴らしいモノガタリに感動している間に、すぐ近くのバカ田大学…いやいや国会議事堂の方ではとんでもない「茶番」が行われていました。
 いやいやいやいや、そんなこと言ったら本来の「茶番狂言」に申し訳ない。
 「茶番狂言」とは、本来歌舞伎の楽屋で行われた即興寸劇のことであり、つまりはプロ中のプロのための慰労のモノガタリであったわけで、ある意味非常に高度なものだったのです。
 それに比べてこの民主党の子どもだましは何なんでしょうねえ。呆れてモノも言えません。被災地の皆さんのことを思うと呆れるより暗澹とした気持ちになります。
 ところで、菅首相の言った「わたしがやるべき一定の役割が果たせた段階で、若い世代の皆さんにいろいろな責任を引き継いでいただきたい」にも出てきた「一定の」って、実にいやな日本語になってしまいましたね。
 これについても本来の意味を確認しておきましょう。
 「一定」…もともとは「いちぢょう」と読んでいました。意味は「物事が確かに一つに定まること。確定すること。確実。また、はっきりした事実」。基本的に名詞やそこから派生した形容動詞、サ変動詞、そして「間違いなく」という意味の副詞の用法しかありませんでした。つまり「一定の」という使い方はしていなかったようです。
 「いってい」と読むようになったのは江戸の末期以降だと思われます。明治になると、ほとんどが「いってい」と読むようになっています。
 そして「一定の」という用法も見られるようになります。しかし、その意味は本来の「一つに定まる」の意味を引き継いでいます。たとえば夏目漱石の「道草」には「みんな一定の目的を有ってゐるらしかった」という表現がありますが、これは「みんな確実に定まった目的を持っているようだった」という意味です。
 それから「熱総量一定の法則」とか、「○○一定の法則」というのがありますよね。これももちろん「一つに定まる」という意味です。当然ですね。
 しかし、菅さんの言った「一定の」の意味はどうも違うような気がしませんか。どう考えても「一つに定まった」「確実な」という意味ではありませんよね。逆に不確実性すら感じさせます。
 そう、この「一定の」は最も新しい意味、「十分とは言えないが、ある範囲は満たされていること」なのです。
 この意味の「一定の」がいつから用いられるようになったか、あるいは誰がどういう状況で使い始めたかというのはよく分かりません。研究すればそれなりの論文が書けるでしょうし、辞書に採用されることでしょう。誰か調べてくれませんかね。
 本来の意味とは正反対の意味に使われるようになったのは、これは私の考えですけれど、たぶん「一」に「ある…」という意味があるからではないでしょうか。「ある…」というのは、それこそ英語の「one day」の「one」のような、「或る」という方の「ある」です。
 この用法は漢文の(中国語の)影響を受けています。たとえば古くは「一旦」と言えば「ある朝」という意味でした(「旦」は地平線から日が昇る様子です。「元旦」は最初の日の出ですね)。
 そこから発想して、明治以降、いろいろな名詞に「一」をつけて不特定な何か、不確実な何かを表すことが多くなってきます。たとえば「一家族」とか「一教育者」とか。
 そして、その影響でしょうかね、「一定」までが不確実になってしまったと。
 「十分とは言えないが、ある範囲は満たされている」の意味で使われるであろう「一定の」をニュースの中から探してみました。そしたら、出てくる出てくる。

 「一定のメド」
 「一定の目途(もくと)」
 「一定の結論」
 「一定の役割」
 「一定の前進」
 「一定の評価」
 「一定の支持」
 「一定の成果」
 「一定の税収」
 「一定の理解」
 「一定の効果」

 どうですか。これら全て「ある程度の」という意味で使われていますね。しかし、それぞれ本来は「確実な、一つに定まった」であるべきものばかり。全く、政治家や御用学者の発言はいいかげんです。
 その中で、ちょっとぞっとしたのは、ある学者さんの「一定の被曝をした可能性がある」という発言です。これもどうも「ある程度の」という意味で使っているようです。こんな命に関わることにまで「ごまかし」の言葉が使われていることに、まさに暗澹たる気持ちになってしまいました。
 それぞれ、本来の意味の「一定」に戻る日が来ることを心から祈ります。しかし、言葉の変化には不可逆性があるんですよね。心を入れ替えた人間が、この言葉を使わず他の言葉で表現するしかないのかもしれません。
 今の政治家が使う「一定の」を平安時代の役人が聞いたらどう思うんでしょうか。「一定」さんもいい迷惑ですね。

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コメント

私、何となく曖昧な言葉が好きです。「いい加減」とか「適当」ですとか。今時これらの言葉を肯定的に受け取る人は少ないですが、私はあえて肯定的な意味合いで好んで使うことが多いです。カッチリした言葉より、懐が大きいと言いましょうか、そういうところが好きです。

相手「もう! いい加減なんだから!」
私 「ええ、少なくとも悪い加減ではないです。」

相手「これ、テキトーでいいの?」
私 「構いませんよ、不適当で無ければ。」

まるで揚げ足取りなので嫁は嫌がりますね。でも、コミュニケーションを楽しみつつ、実は至って真面目なのですが。
言葉って使う人間次第ですよね。「一定」という言葉が気持ち悪く感じられたのは、発した本人に対する嫌悪感からではないでしょうか?
菅さんが「これでいいのだ!」とか言ったら、相当印象悪いですよね。想像しただけで殴りたくなります。

投稿: LUKE | 2011.06.06 03:20

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