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2011.05.28

活版アートのチカラ展

感じ入ることが多かったので長いですよ〜。
Img_2459 日、ある広告業界の方と話をしました。これからは「マス」対象の一方通行的な「発信」の時代は終わる、本来の双方向的なコミュニケーションが帰ってくる、真の理解者を募るための広告、デザイン、経営方法に力を入れるべきだ、そういう意味ではグローバルよりもローカル、都会よりも田舎の時代が来る…こんなような話を私はしました。
 震災後、東日本の人たちは、たしかに「何か」に気づきつつあります。幽閉された何かを復権させつつあります。
 たとえば「想定外」のモノたる地震への感性。目に見えない放射線への感性。これらは実は今までもずっと私たちと一緒にあったはずのモノです。しかし、それをほとんど忘れていた。それがドラスティックな出来事によって半ば強引に意識されるようになったわけです。
 それらはある意味極端な例であって、「モノ」ゆえの恐怖感を伴うものですが、実のところ私たちの生活の中で、そのように忘れられている感覚というものがたくさんあります。感覚とはセンス。センスとは意味です。私たちはたくさんの意味を見失っているのです。
 デザインや広告とは、そうした「意味」に気づかさせるためのメディアであるべきだと思うんです。ただ、情報を伝えたり、相手を心地よくさせたり、受け手の購買意欲を高めるだけのものではないはずです。
 たとえば、地震や放射線、あるいは人々の「絆」や、それ以前に「命」というモノ、それらの「意味」を突きつけられて、私たちは初めて自分の存在や人生の「意味」を考え直すことになりました。それと同じように、いやそんな大きなスケールでなくとも、何か日常生活にさざ波を起こすような、「これってなんだろう」とか「そう言えば…」とか、そういう感覚を取り戻させるためのモノであるべきなんですね。
 というわけで、また前置きが長くなりましたが、今日は教え子もデザイナーとして参加している「活版アートのチカラ展」に行ってきました。
 デザインの現場で個性的な活動をしている彼とは話が合います。私のワケのわからん「モノ・コト論」の良き理解者でもある彼は、いわゆる「モノ」にこだわる仕事をしています。デザインにおける「想定外」や固定化されていない個々の「質感」にこだわっているわけですね。
 活版印刷…まさに私たちが忘れてしまった「質感」「意味」を残す技術です。いや、活版印刷自体忘れられている「モノ」か。
 オフセット印刷隆盛の現代において、こうしたアナログでアナクロな「モノ」が懐かしさを超えて、何か大切なモノを思い出させてくれるということはよくあることです。
 そう、よく考えるんですよね。たとえば、活版印刷という「現代技術」が発明された時には、それまでのマニュスクリプト的世界からすると、それはとんでもなく工業的であって、それこそ「モノ」を排除する「コト」的なアート(技術)だったわけじゃないですか。それが、この時代になると芸術たるアートになりうるという、そういう時代の不思議ってなんだろう。
 そう、今まさにウチの娘たちが偽ファミコンであるファミエイトで遊んでいます。この8bitのスクエアな世界がなぜか今になるとアーティスティックな産物に見えてくるという面白さ、おかしみですよ(笑)。
 おっと話が逸れそうだから戻します。
 現代の表現は明らかに「視覚」と「聴覚」に片寄りすぎています。ですから、これからのデザインは「触覚」と「嗅覚」、それに加えて「味覚」と「第六感」に訴えるべきだと思いますね。まずは「触覚」でしょうか。
 ご存知のように活版印刷は原始的な版画、ハンコ、スタンプのようなものですから、そこに凹凸という三次元的空間が現出します。それは手にした時の独特の「触感」を生み出します。そこから広がる、視覚や聴覚を超えた「物語」こそが、先ほどから言っている私たちが忘れかけている「モノ」への入り口になりうると思うんですね。
 それって、「子ども」の感覚だとも言えます。子どもはまず触ります。触って対象を感じ、受け入れたり拒否したり、あるいはそれを分解したり組み立てたりして「物語」を紡いでいきますね。
 そういう意味で教え子はとてもいい仕事をしていたと思います。これはひいき目ではなく客観的にそう感じました。
 会場にはたくさんのデザイナーによる活版印刷を使ったポストカードが並んでいましたが、明らかに教え子の作品は他と違っていました。他の作品が、まさに完結した(よくある)グラフィックアートとなっていたの比べ、彼の作品は非常に挑戦的でもあり、しかし一方で実に他力的であり、双方向的なものでした。
Gedc0780 ご覧下さい。この3枚が彼の作品です。一見何もないただの紙のようですね。よく見ると賽の目のような模様が見えます。これは、透明のインクで活版印刷した意匠です。これがたとえばオフセット印刷だったら、何も見えないのでしょうが、活版は先ほど書いたように凹凸を生みます。それが光を受けて影を生じ、無限のパターンを持った意匠に生まれ変わります。
 しかし、その可能性は視覚だけにとどまりません。ご想像のとおり、これを手に持った時の「触感」が素晴らしいのですね。特に裏側に回った指先に伝わってくる感覚。これだけでも、かなり引き込まれます。真っ白な世界から何かが立ち上がってきます。
Gedc0782_2 さらに面白いのは、実はこのデザインの中には文字が仕組まれていることです。左の画像をクリックしてみてください。見えるかな?
 そこに仕組まれたのはコトたる情報です。ある角度から光が当たるとコトたる情報が浮かび上がる仕組みになっています。
 入り口としての「触覚」から、「視覚」の代表格である文字情報への誘導が見事。というか、実に楽しい。あぶり出しのような「秘密感」と、それを解き明かした時の「優越感」。まるで少年の日々を思い出すようなデザインですね。
 私は彼の作品に大きなヒントを得たような気がしました。思い入れとは手間ひまに比例する…。
 広告にしても、期限が過ぎればゴミと化してしまうフライヤーではなく、何か捨て難い、すなわち思い入れを抱かざるを得ないよう表現が必要なのではないでしょうか。それは、広告や印刷物に限らず、全ての「仕事」に言えるのかもしれません。
Img_2457 私も生まれて初めて活版印刷機を操作させてもらいました。うわっ、これってフォルテピアノの感覚に近い!つまり楽器だ。指先や腕や肩に伝わる「質感」。これを巧みに操作できる人は、職人であり演奏家に違いない。
 過度にデジタル化され、オートメーション化された現代において、こうしたアナログでアナクロな「モノ」たちがどう蠢き出すのか。とても興味があります。もちろん私の仕事「教育」はいつの時代にもそういう「モノノケ」相手の仕事ですけどね(笑)。
 活版印刷における「エッジのにじみ」の意味についてもいろいろ考えました。ファジーでマージナルな「ゾーン」が存在することで、私たちはどれだけ安心できるか。人生そのものだよなあ…。パソコンの画面やそこから生まれる印刷物のトゲトゲしさに疲れ気味な私です。
 うん、非常に充実した1時間だったなあ。また、彼とゆっくり話をしたい。
 29日まで開催しているので、興味を持った方はぜひ行ってみてください。

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