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2011.03.17

大地震と「モノ」と「コト」と「マツリゴト」

今日の富士は穏やか。「マツリ」の効果はあったか。
Gedc0318 日までは科学的な話が多くなりましたね。まあ、疑似科学だと言う方もいらっしゃいましたが。
 そう、このような自然の脅威、猛威に接しますと、全ての科学は疑似科学に過ぎないということを感じます。
 科学そのものが幻想であったということです。象徴的なのは原発です。原発は科学の粋のように思われるかもしれませんが、あれはもう一つの自然を人間が作り出してしまったものです。ちっとも科学ではありません。科学の本質は世界を人間の脳に納めることです。あのようなアンコントローラブルな状態は科学ではなく、単なる自然でしかありません。
 私がこのブログでずっと書いてきた「モノ・コト論」の本質が、皮肉にもこういう形で具現化、顕在化してしまいした。
 私はずっと言ってきたんです。これからは「コトよりモノの時代」であると。世間では逆の言い方がされていましたが。
 確認しておきましょうか。私の言う「モノ」とは「自然・不随意・脳で処理できないもの・外部」を表す日本語です。古くはそのような意味で使われていたのです。物質とか物体とかいう意味ではありません。
 そして、「コト」はその対義語、「人工・随意・脳で処理できること・内部」を表す日本語でした。今のように概念や事件を表すのではありません。
 今回の大震災や大人災は、まさに「モノ」世界の出来事です。人間の、特に「脳」の無力さを再認識させられる事態です。いつの時代も「モノ」は「コト」に勝ってきたのです。
 近現代とは、科学、工業、言語、貨幣という「コト」の権化によって、「モノ」を支配しようとした時代でした。それはある意味では表面的に成功したとも言えましょう。しかし、それには限界があり、そして無理があることは、なんとなく私たちも気づいていたことです。
 あえて誤解と非難を覚悟に書けば、石原都知事の「天罰」の真意はそんなところにあったのだと思うのです。
 そのような「モノ」による「想定外」に対して、私たちは嘆息せずにはいられません。それが「もののあはれ」です。
 そして、それに対抗する究極の存在が「みコト」たる天皇です。そして「みコト」の「コトの葉」である「玉音」。歴史と伝統に則って、天皇の本来の「仕事(しゴト)」が発動したのです。それは実に見事な験を発揮したと思います。
 しかし、実は「みコト」は「まコト」と同様に、フィクションでもあります。「コト」は「脳内で創作されたもの」であるわけで、それに「美」や「真」が接頭することはあり得ません。人間の脳が「完全」であるはずがないからです。
 我々国民凡夫はそのような疑似的な「神」を装置として作りだし、ずっと守ってきたわけです。そして、そのイコンたる天皇自身は、その究極の役割を果たすために「マツリゴト」を行なってきました。つまり、「モノ」と「コト」を「真釣る」、両者のバランスをとるための神事、祭事、すなわち「モノ」への懐柔と献呈と服従の意の表現を行なってきたのです。
 「まつらふ」という言葉は「服従する」という意味です。服従しないモノのことを「まつろはぬモノ」と言いますよね。
 科学の時代、私たちはそういう意味で「まつる」ことを忘れてきたのです。
 その象徴が、大相撲の春場所中止でした。まさに春場所が始まるべきその時にこの大災害が起きてしまいました。相撲は「地鎮」の神事であり、祭事だったはずです。国技として「みコト」の配下において行われるべき「マツリゴト」だったのです。
 鎮められなかった地は動きました。そんなことを書くと笑われてしまいそうですが、日本というのはそういう国なのだと思います。「モノ」主体の国だったのです。
 さらに変だと思われるかもしれませんが、私は今、そういう「マツリゴト」ができるのは、相撲でもなく、もちろん「政治」でもなく、プロレスだと真剣に思っています。
 全日本プロレスの両国国技館大会が開催されることとなりました。大いに結構なことだと思います。不謹慎どころか、本当の意味での「謹慎」だと思います。もちろん、救助や支援や復興が最も大切ですが、一方で「マツリゴト」もしなければならないのです。根っこのところ、あるいは天上のところにも働き掛けないと。
 大震災とプロレスということで思い出すのは、阪神淡路大震災の2日後にあえて行われた、当時の全日本プロレスの大阪大会のことです。
 メインイベントで川田選手と小橋選手の60分フルタイムドローの死闘は、今でも語りぐさ、伝説となっています。あの闘いによって、どれだけの人々が勇気づけられ、元気になったことか。やられてもやられても立ち上がっていく物語に接した人々は、未来に光を見出したのです。これを「マツリゴト」と言わずして何と言う。
 その大会のあと、人知れず被災地を訪れ、黙々とボランティアに励んだジャイアント馬場の姿。馬場さんがそこにいるというだけで、人々は涙して喜んだと言います。まさに「モノノケ」たる「神」が降臨したというところでしょうか。立派な行幸でした。
 我が家でも、プロレス界の知り合いからの依頼を受け、このような支援に協力をしています。カミさんは今日、たくさんの人から毛布を譲り受け、さっそく先方に送っていました。
 各プロスポーツは自らの使命を考えなければなりませんね。ゴタゴタもめている場合ではありません。こういう時こそ、自分の仕事をしっかりやるべきだと思います。募金もいいのですが、それより先にやるべきことがあるような気がします。
 その点、もう一つの神事たる「音楽」において、シンディ・ローパーの見事な「マツリゴト」には脱帽しました。外津神に負けず、国津神たち頑張れ。
 このような意味で、私たちはいろいろな祈りと行動を迫られています。日本人としての本質に気づき、そして人間と自然の本来あるべき関係を思い出さねばならない時が来ているようです。


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コメント

地震、コワいです~><;。

その中、庵主様の落ち着ききった分析に、拜読のたびに呼吸が楽になるのを感じます^^。

私たち各個別に、どんな「マツリ」をしたらよいのか‥‥自室で、オーディオ装置で音楽を鳴らすことも、考えてみれば‘不急の電力’を消費するばかり。むしろ、こうした行為が、原発に支えられてきたわけです。

私は阪神大震災の前年に阪神地方におり、前年中に東京に戻り、被災は免れました。この年の夏、関西は(も)猛暑で、とくに記憶に残っていることは、夕日が頬に当たって、それがもう皮膚を焼く熱線のように熱く感じられたことです。
そして、昨年の夏、東京で、ちょっと似た感じの、頬を焼くような夕日を受けていました。平成6年の関西の夏の記憶を呼びさまされたように感じ、予備校の控室で他の講師に「あの前年も…」と話していました。
あまりに個人的感触なので、宏観異常現象とさえ言えないことですが…。

で、さらに個人的に ― 秋葉原にパーツを買いだしに行こうか行くまいか‥‥「電気」を使いたいほうだい使ってのお遊びこそ、都知事のいう天罰を受けた今、どうなんだろう、とか^^。
楽器を弾いたり、歌を歌ったりすることは、それは「マツリ」になるのでしょうけれど。

「マツリゴト」も、「コト」サイドのことがらであり、人間には「コト」を離れたアプローチはありえませんから、問題は、「コト」がどれだけ「モノ」を畏れ「モノ」の声を聴くことができるか、というようなことなのかな、と。

人間の身体も「コト」と「モノ」が交錯する場であり、野口晴哉などという人は、身体を通じて「モノ」に触れる道を深めた達人のように思います(ときどき、活元運動やります^^。あんまり動きませんが)。

すみません、支離滅裂で。

投稿: へうたむ | 2011.03.20 01:17

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