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2011.03.31

昨日から今日にかけての大気の変化

 日から新年度ということでいろいろ忙しくしております。世の中がガタガタワサワサしておりますが、未来を担う子どもたちのためには、安心安全な日常を用意してあげることが先決です。 
 当地富士五湖地区は観光用の宿泊施設がたくさんありますので、多くの被災者の方々がいらっしゃることが想定されます。その子どもたちの受け入れの準備もしなくてはなりません。
 以前紹介した「無財の七施」のうちの「房舎施」が全国に広がっているのを見るにつけ、大変皮肉なことではありますが、こういうことのおかげで、私たちは本来全ての人に存するという「仏心」を思い出すことができるのだなと感じています。
 さて、昨日の不思議な色の朝日のこともありましたので、この二日間はいつにもまして注意深く空を見ていました。一部写真も撮りましたので、美しい富士山とともに大気の変化の妙をご覧下さい。
 昨日の夕方から始めましょう。

↓仕事の帰りに富士吉田市の北麓運動公園付近で撮影した富士山です。夕日が当たって美しい色に染まっていますね。

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↓朝のあの色に比べるとやや彩度は落ちています。西日本の大気には東日本ほどのエアロゾルは存在しないのか、あるいは時間の経過ととにも日本を包む全体量が減ったのか。夕焼けとしてはまあ日常的な色彩と言えるでしょう。

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↓少し西に移動してみました。富士山の形も微妙に変っていますね。雪崩のあともはっきり見えますね。

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↓東京から来たと思われる青年たちがこの富士を見て感動しまくってました。

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↓西に目を移して夕焼けを撮影。カラマツ林です。

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↓ウチに帰ってきて庭から日没後の夕焼けを撮影。きれいですね。しかし、朝焼けのような異様さはありません。

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↓少し歩いて近所の別荘のすき間から山頂部を撮影。素晴らしいアセロラ色ですね。さすがに感動です。

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↓一夜明けまして、昨日と同時刻にほぼ同じアングルで撮ってみました。昨日の写真と比べてみてください。今日は正常な色です。東日本の大気は通常の状態に戻ったようですね。少し安心。

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↓太陽の色も正常です。昨日はいったいどうしたんでしょうか。自然の不思議を実感します。

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↓富士吉田の職場に出勤していつもの窓からパチリ。かなりクリアーですね。昨日は一日ぼんやりした富士山でした。

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↓アップ。これから本格的な春を迎えて、この雪はどんどん溶けていきます。

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 地震のおかげというのもなんですが、いつもは見ることさえ忘れていた富士山や空を注視して、そうして自然と対話しているような気もしますね。自然とつながる…これもまた本来私たちが持っていた能力であったはずです。

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2011.03.30

(いちおう)注意喚起

 やたらに不安を煽るような記述は避けてきましたが、さすがにちょっと気になるので書いておきます。
 昨日から富士山直下(我が家直下も含む)で地震が起きていますが、これは東北地方太平洋沖地震に伴う地殻変動によるもので、直接噴火とは関係ないと思われます。
 あの大地震によって北米プレート自体が大きく東に動きました。富士山周辺はいわばその突端に当たりますので、西のユーラシアプレート(アムールプレート)、南のフィリピン海プレートとの固着域のおかげで、3方向から引っぱられているような状態です。
 実際GPSのデータを見ますと、富士山南麓ではほとんど地殻の移動は見られませんが、北麓では数センチ単位で東に動いています。
 つまり、今富士山はぐいっとひねられているような状態です。そのためマグマ溜まり周辺の地殻(断層)が少しずつ壊れている状態だと思われます。これは基本的にはストレスを解放する自然な動きだと思いますので、その直上に住んでいる私もそれほど心配していません。
 もちろん大きな視点で見れば、富士山の根本に当たる駿河トラフへの影響も考えれらますけれど、それも喫緊の状況ではないと思います(あくまで勘ですが)。
 今朝も5時27分に直下型の地震を感じましたが、今気になっているのはそれではなく、その後昇ってきた太陽の見え方についてです。
 私も長く天文現象や気象の観察をしてきましたが、このような色の朝日は正直初めて見ました。このような色(紅色)になるのは、当然大気になんらかの粒子、それも通常の、たとえば今の季節によくある「春霞」を発生させる水蒸気のようなものとは違う粒子が漂っているからだと考えられます。
 それが地震の前兆に観察されるエアロゾルである可能性は捨て切れないと思います。大地震のあと、東日本全体にそういう傾向が強かったのもたしかです。それはもちろんこれだけ大きな地殻変動があったわけですから当然です。しかし、今朝の朝日のような色になるのは初めてです。私は毎朝日の出の30分前に起きるのでたしかです。
 前の記事にもたしか書いたと思いますが、今回の大地震の震源域の南、つまり房総沖にはいまだ破壊されていないアスペリティが残っています。2004年のスマトラ地震のように数ヶ月の間にそれが連動する形で破壊されて再び大地震が起きることが比較的よくあります。
 今日昇ってきた太陽の方向はちょうど房総沖の方向です(まあ偶然と言えば偶然ですが)。いちおう注意した方がいいかもしれません。
 もちろん、東京湾、相模湾、小田原方面なども注意するに越したことはありません。不安になるのではなく物心双方での準備をしておきましょうということです。
 ただし、これは自然界でのことですから、今日起きるとか明日起きるとかそういうふうには考えないでもらいたいと思います。まさに「いつかは必ず起きる」です。それが今かもしれないし数十年後かもしれない。
 だから予知ではなくて、「忘れない」ための注意喚起ととらえてください。
 最後に今朝の朝日の写真を載せておきます。写真ではうまく表現されていませんが参考までに。

↓壁に映った朝日の光。
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↓太陽を直接撮影。実際には紅色でした。
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 富士山では微動が続いているようです。これが群発地震になって鳴動があると噴火の兆候ですが、今のところマグマの動きは観測されていないので大丈夫だと思います。

追伸 東京や関西でも同様な朝焼けや朝日が観察されたようです。注意する範囲を少し広げた方がいいかもしれませんね。何もないことを祈ります。

追追伸 今日は房総沖で激しい雷雨があり、千葉県内では雹も降ったようですね。そうした気象現象の兆候だったかもしれません。もちろん、雷と地震の因果関係も否定できませんが。久々に千葉県東方沖を震源とする地震もありましたし。今後も注意深く見守りたいと思います。

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2011.03.29

究極の非常用電源!?…HYミニウインド風力発電+ソーラーパワーバッテリーチャージャー

41vsimcjjbl_sl500_aa300_ だまだ地震は続きます。計画停電も続きます。こういうことがあって改めて日頃の準備が大切だと分かりますね。
 つまり、今いろいろなモノを買い集めたりしている人は遅かったのです。そういう人はまたそのうち危機感が薄れることでしょう…なんて、かなり厳しい言い方ですけれど、まあ「忘れた頃にやってくる」というのはそういうことなんですね。
 「忘れる」ということは「一度は意識していた」ということです。それを我々は忘れてしまう。時の流れとともに意識の形がはっきりしなくなってくる。そして、いつのまにかその残像すらなくなってしまう。
 最近のワタクシ的流れで言えば、「コト」は時の流れとともに「モノ」に帰してしまうということです。そういう本質を知ってそれに対処しようというのがお釈迦様の教えでありました。
 と言いつつ、私もここへ来て購入したものがあります。これは実用上も非常に有用でありますが、教育にも使える物だと思って手に入れました。たしかにこれは面白い。
 この前、手回し式のLED懐中電灯おススメしましたよね。そのさらに強力なヴァージョンとも言えます。
 まずこのアイテムの中にはリチウムイオンポリマー充電池が入っています。1200mAh。なかなか強力な電池ですね。それを充電する術が、なんと4種類もあるんです。
Hymwpb01dxg まず普通にACアダプターから。そして見てお分かりのとおり、風力発電。そして太陽光発電、そして人力手回し発電(ダイナモ)です。
 面白いでしょう。そして充電された電池からiPhoneはじめ様々な機器に給電できます。私はこちらのUSB10LEDライトを接続して停電時の照明としても使っています。これが明るく長持ちでいいんですよ。完璧。ちなみに本体にも白色LEDが2個ついていますので、普通に懐中電灯としても使えます。
 たぶんiPhoneもフル充電できるんじゃないでしょうかね。やったことないので分かりませんが、容量からして可能だと思います。
 ちなみに付属のミニ太陽光発電パネルだとフル充電に11時間かかるとのこと。ちょっと大変ですね。もっと大変なのは手回しで、なんと8時間(笑)。さすがにこちら人間側が電池切れになるでしょう。
 風力に至ってはフル充電は現実的に不可能だということです。でも息を強く吹きかけると発電していることを示すインジケーターが点灯するので面白い。子どもたちと顔を真っ赤にして発電ごっこをしています。
 しかし、まあそれでいいんです。こうしていろいろな可能性を持った機器というのは、もうそれだけである種の安心を与えてくれますし、子どもたちに対する教育にも有用です。こうして電気を作ることができるというのを実感として知るのは、たとえば将来の代替エネルギーを考えるヒントにもなります。とりあえず原子力発電所はいらないんじゃないかという発想の基礎になりえますね。
 けっこういいお値段ですが、そのコンセプトや製品の設計思想(たとえば太陽光発電パネルの外枠は紙製)、パッケージや説明書の質感など、なかなか「萌え」なセンスでして、私はこういうのにはお金を払ってもいいと思いますね。
 ま、実用的にも1台あるとホント便利だと思いますからぜひ。

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2011.03.28

花粉と放射性物質はなぜ舞っているのか

↓杉花粉飛散マップ
Mw201103281002 日の話の続きとしましょうか。
 この世界は「コト」と「モノ」でできています。それで全てです。ものすごく簡単に言えば、この世界は「自分」と「他者」、あるいは「知っているコト」と「知らないモノ」でできているということです。「既知」と「未知」。昨日の話で言えば「想定内」と「想定外」。
 私たちの人生は、外部たる「モノ」を内部たる「コト」に取り込むことを主目的としているとも言えます。他の命を食したり、風景を見たり、音楽を聴いたり、学校で勉強したり、テレビを見たりするのは、基本そういう行為です。それを「コトを為す」という意味で「シゴト」と言います。
 そして「コト」のメディア(媒体・手段)の代表が「コトの葉」です。人類の人類たる所以が「言語」にあるというのはそういうことです。
 そして、相手にとっての「未知」たる「モノ」を伝えようとするのが「モノガタリ」ということになります。「カタル」という動詞は「コト」と同源です。
 実際のところ、言語というメディアにも、そのメリットとデメリット、功罪という両面があります。たとえば「言語(記号)」によって普遍性を極めようとしたものに「科学」があります。科学はこの多様で雑多な「自然」という「モノ」を、どんどん人間の脳ミソで切り刻んで整理していきました。その功罪については、今回の地震や原発事故を見れば誰にでもわかると思います。
 さらに近代になって「カネ(貨幣)」というメディアの勢力も非常に強くなりました。貨幣という「数値」によって、私たちは、多様で雑多で本来不可定なはずの「個人的な価値観」をどんどん切り刻み整理していったのです。その功罪も私たちは日々実感していますよね。
 今はやりの花粉症なんかいい例でしょう。多様な日本の森をですね、国をあげてものすごい勢いで伐採して、そしてキレイに整然と杉の苗木を植えていった。杉がカネになると考えたからです。伐採や植林は科学や工業の領域ですね。経済と工業の見事なコラボレーションの結果、数十年後「想定外」の量の花粉が舞うことになった。のちに杉がカネにならなくなって森が手入れされず放置されたからです。
 そう、「コト」の特徴は、「その時」性、「今」性が高いということなんです。我々の仕事は、実は今の欲求に忠実なのです。
 「コト化」すなわち「シゴト」は、おそらく我々人類にアプリオリにインプットされたもの、まあ本能の一部でしょうから、そこにはモティベーションとしての「欲望」および、それが達成された時の「快感」が付随しています。
 だから、その行きすぎを誰も止められないわけです。一種の麻薬性があると言えるかもしれません。それこそが様々な「人災」を起こしてしまう原因です。
20110329_94556 自然を思い通りに制御したい、他者を思うように動かしたいという欲求は、結果として「科学」に基づく「工業技術」を発展させました。そして、私たちはその究極の形である「原子力工学」と「遺伝子工学」に手をつけてしまいました。この二つはもちろん、人工的に「自然」を作り出す行為です。つまり「神」の領域にまで足を踏み入れてしまった。
 その最たる「作品」が、自然界にはほとんど存在しない「プルトニウム」でしょう。おそらく神様が生物(人間)にとって有害すぎるし有益でないのでほとんどお創りならなかった「プルトニウム」を、バカな人間(実際にはある科学者個人)が「その時」の欲求にまかせて作ってしまった。
 そして、それが原子爆弾を生んで日本に投下されました。日本は神の怒りの直撃を受けたとも言えるでしょう。しかし、戦後、これまたバカな一部の人間の欲求のために、いや日本国民全体の「右肩上がりの継続」という欲求のためにでしょうか、こうして原子力発電を日常の中に作り、そしてほとんど意識的に意図的に、我々の日常の中に隠蔽してきました。おかげでこうして我々は自らの今の欲求を満たす「電力社会」を謳歌してきたわけですね。
 そして、この現実です。我々は再びプルトニウムの洗礼を受けるのでしょうか。「モノ」たる自然の「コト」への逆襲。残念ながらそういうことになってしまいましたね。
 以前私は「コト」の本質として「時間を微分して疑似的な永遠性を得る」ということを挙げました。その反対に「モノ」には必ず「時間の経過」という性質が伴います。私たちの脳ミソで処理される「情報」自体は不変で永遠なのですが、それを具現化すると「モノ」になってしまいますから、必ず経年変化、劣化していきます。そして、私たちの「シゴト」は虚しく「モノ」に帰すのです。それが歴史なのです。
 スギ花粉と放射性物質、実は同じ仕組みで舞っているのです。最後は「モノ」まかせ、つまり風まかせであり、私たちはただ「祈る」ことしかできなくなってしまうのです。
 ただ違うのは、前者が神が創った自然の「モノ」であるのに対し、後者は人間が作った「コト」であるということですね。
 ちなみに私は重度の花粉症だったのですが、一日一食にして半年でほぼそれを完治させてしまいました。ある意味自分が「コト」を捨てて「モノ」に帰ったからこそできたことだと思います。では、「コト」たる放射性物質、たとえばプルトニウムについてはどう対処すればいいのか。それは今から考えます。楽天的な私にはその方法があるような予感がしているのです。

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2011.03.27

「想定外」という言葉から…

↓ユーラシアプレートは盤石です。フィリピン海プレート踏ん張れ!

 地震から2週間と少し経ちました。被災者の皆さんはまだまだ辛い日々を送っておられると思います。あるいは悲しみや痛みはずっと消えないかもしれません。しかし、自衛隊や消防、警察、自治体の方々をはじめ多くの方々の命がけの作業やお仕事のおかげで、もうすでに新たな歴史が始まろうとしています。
 こういう時にはなかなかいい言葉が浮かばないものです。「頑張れ」も「大変ですね」も「よろしくお願いします」も「ありがとう」も、どこか自分自身の中で白々しく感じられてしまいます。ですから、私はそうした言葉を発するだけでなく、自分でしか表現できないことを公開していこうと思います。
 もちろん、いろいろな立場の方々がお読みになりますので、反論も誤解もいろいろと生じるでしょう。しかし、マスコミやネット上の言葉がどんどんある方向に収斂しつつ、その結果が拡散していくという状況を見るにあたり、私は私なりの経験と感性をもとに「言葉」を発していかねばと強く思います。
 さて、そうしたマスコミやネットの言葉たちは、今や地震よりも「原発」に集中しているようです。もちろんそれは分かります。しかし、地震もまだ続いています。それを忘れてしまうのはいけません。
 今回の地震は非常に大きなスケールでの地殻変動を伴っています。いずれ詳しく書きますが、現在も太平洋プレート、特に脆弱で活発かつ不安定な「フォッサマグナ」に大きな影響を与え続けています。
 長野北部や中越の地震、富士山直下の地震も、そのフォッサマグナの上で起きました。東京湾や伊豆半島北部、そしてここ数日頻発している長野県南部や岐阜の東部の地震も直接、間接的に関係していると思われます。
 もちろん、駿河トラフもフォッサマグナの一部とも言えますから、東海地震が誘発される可能性もあると思われます。しかし、私の感覚では、この数年と言うよりは、数十年単位で考えるべきだと思います。人間の感覚を自然にあてはめてはいけません。「天災は忘れた頃にやってくる」と言いますが、自然はもちろん自らの動きを忘れてはいません。
 私は、できるだけ、自然に近い感覚を持つように心がけています。つまり、歴史や宗教や神話や地学や天文学に学びつつ、「想像力」をたくましくして、なるべく大きなスケールで自然と対話しようと考えています。
 そういう意味で、東北地方太平洋沖地震は、私にとっては「想定内」ではありました。この時期に来るとは正直思わなかったけれども、起きる可能性はあると思っていました。
 東海地震ももちろん想定内です。そして「超東海地震」も想定内です。次の東海地震はこの「超」になる可能性が高いとずっと思ってきました。それと同様に三陸沖地震についても「超三陸沖地震」が起きるかもしれないとは思っていたわけです。
 そういう意味では今回の大津波も想定内でした。それなのに専門家は「想定外」と言います。人文的な記録だけでなく、科学的な痕跡も残っているのに、想定しなかったというのは、単なる怠慢か欺瞞に過ぎません。「私たちはバカでした」と言っているのと同じとも言えます。
 科学や工業の世界での「想定」は、基本、既存の測定値を基準にしています。科学や工業の歴史なんかたかだか200年くらい。日本ではもっと短くて150年もありません。そういうスケールで「想定」するから、「想定外」が生まれるのは当たり前です。
 浜岡原発の耐震強度は450ガルです。たしかに近代以降の地震の加速度はその程度だったかもしれませんが、今回の東北の地震で検知された最大加速度は2300ガル以上です。つまり、次の東海地震が「超」になった場合、全く太刀打ちできません。
 それ以前に、浜岡原発を東海地震の「想定」震源域のど真ん中、震央の直上に作るとか、柏崎刈羽原発をフォッサマグナの東縁の千葉−柏崎構造線上に作るとか、まあ「想像力」以前に「常識」がありませんね。全く理解できません。
 福島原発にしても、女川にしても、東海村にしても、それから敦賀のもんじゅにしても、なんで過去に地震&津波の被害を受けた場所に作るかなあ…。まあそれだけ危険なので人が少ないから、と説明した知り合い(電力事業者)がいましたが、なんだかシャレにならない話ですよね。
 私の「モノ・コト論」で言えば、科学や工業技術は「コト」です。その補集合が「モノ」ですから、まさに彼らにとっての「想定外」は「モノ」であり、それに伴う嘆きは「もののあはれ」なのでしょう。
 私は「霊界」という言葉を「モノ」=「コトの補集合」という意味で使っています。一見アヤシイ世界観ですが、よく考えてみれば、ごくごく自然な発想だとお分かりになるでしょう。
 多くの科学者たちは、現在理解されている「コト」以外を認めない立場をとります。未来の「コト」も、彼らにとっては、今はまだ「モノ」にすぎません。「霊」の世界なんか、彼らが最も忌み嫌う世界ですからね。これじゃあ、ほとんど無限の「想定外」が生まれてしまいます。
 私はそういう意味で、「モノ」と「コト」の両世界をまたぎ、バランスよく全体像を俯瞰していきたいと思っています。だから、このブログは人とは違う内容、論調になるのでしょう。
 最後にものすごく大きなスケールでの「物語」を記しておきましょう。
 今回の東北の地震は「艮の金神」の御発動でした。次は「坤の金神」の番。つまり、東海・東南海・南海方面です。そして経(タテ)と緯(ヨコ)の仕組みが完成に近づきます。最後はその結び目「富士山」でしょう。そこでようやく私たち人間は本来あるべき姿に落ち着きます。「みろくの世」の実現です。
 これはたぶん確かです。しかし、それがどういう時間的なスケールで起きるのか、まあ、科学の世界の専門家やマスコミやエセ宗教なんかの「コト」的視点では、それは全く分からないでしょう。ですから、逆に彼らが騒いでいるうちは大丈夫ですよ。彼らにとっての「想定外」の時こそ、私たちのピンチとチャンスは訪れるのです。
 最後に一つ注意を喚起しておきます。タテの地震はまだまだ終息していません。M7レベル、震度6強レベルの地震が発生する可能性があります。もちろん、それに伴う津波も数メートルレベルでありうるでしょう。それによって福島原発に大量の海水が注入されるなんていう皮肉なことも起き得ます。被災地にいらっしゃる方々注意してください。

追伸 2004年12月のスマトラ島沖地震はM9.3。余震も収まりつつあった3ヶ月後、震源を隣接する南に移してM8.6の地震が発生しています。今回の大地震の震源域の南部にはアスペリティが残っているので要注意。

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2011.03.26

今日の富士は穏やかでした(2011.3.26)

 ちらの傾斜計のデータ、特に我が鳴沢村に設置されている計器のデータに、地震後、顕著な変化が見られたので、ちょっと気になって現地調査してきました。
 鳴沢の傾斜計は東方向への傾きを検知しています。北西斜面が東に傾くというのはなんとも微妙な状況です。
 単純に考えると、膨張していた山体が収縮した、つまり内部からのストレスが減っているとも言えるかもしれません。しかし、南西麓の斜面がどちらかというと西への傾斜が増しているので、北西軸上の寄生火山列付近が膨張しているともとれます。GPSのデータと組み合わせて考えると余計に混乱します。はっきり言って素人にはこれ以上わかりません。
 収縮と膨張じゃあ、正反対ですよね。だからもう実地に見て感じるしかないわけです。それで出かけてきたというわけです。
 どことどこに行って何を見てきたかかは企業秘密ということで明らかにはしません。北西麓をぐるっと回って「いつもの場所」に立ってきました。寄生火山列から青木ケ原樹海周辺ですね。
 結論を言いましょう。富士山は非常に穏やかでした。私自身は安心しました。ある意味科学的な根拠は何もないわけですが、地元に長く住んで富士山と毎日対峙してきた「勘」を、私自身は信じるしかありません。私のそれを信じるかどうかは、皆さんの自由です。
 もしかすると、地震の影響で計器にトラブルが発生しているのかもしれません。11日の地震、15日の地震でサーバーも飛んでいたくらいですから、「想定外」のダメージがあったかもしれません。まあ、それじゃあ肝心な時に使えませんけどね。
 そんなエセ調査の途中きれいな風景を写真に収めてきましたのでご覧ください。いつも載せている富士吉田からの富士山は北東方向から見たものです。今日は私の住む鳴沢村(真北)から、旧上九一色村(オウムのサティアンがあった村ですね…北西から西)にかけての富士山ですから、だいぶ風情が違います。
 西斜面は強風を常に受けるため、雪が吹き飛ばされているところがあります。また、春先ですので雪崩が起きたと思われる箇所も見られますね。地震で雪崩が起きた可能性もあります。
 では、どうぞ。まず大室山西側、開拓道路の展望台から、青木ケ原樹海と本栖湖、最奥に南アルプスです。

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 上九一色富士ヶ嶺朝霧高原付近からの富士山。

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 ↓右端の大きな割れ目というか谷間は「大沢崩れ」です。

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 鳴沢村に帰ってきました。「道の駅なるさわ」からの富士です。水を汲みに来ている人たちがいましたが、それほど混雑はしていませんでした。ちなみにバナジウムも放射性物質ですよ。これは健康にいいというわけですから、なんだかよく分かりませんね。

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 ↓雪崩の跡らしきものも見えますね。

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 ↓富士山の右側(西側)にたくさんコブが見えますよね。これが北西軸の寄生火山列です。スキー場の天神山も見事な噴火口を持っています。長尾山、大室山も見えます。こちらの記事で紹介した、1000年ちょっと前の貞観の噴火では、これらの寄生火山から大量の溶岩が噴出しました。そして、青木ケ原樹海の基礎となる溶岩台地が出来ました。すごいスケールですよね。

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 しばらくは大丈夫そうですが、いつかはこの風景も一変してしまうのでしょう。その日は必ず来ます。前回は南東斜面の宝永山でしたから、次はこちら側かもしれません。
 頂上からの噴火の可能性は低いでしょう。15日以来地震が続いている南西斜面かもしれませんし、いやもうだいぶ溜まっていますから、5合目より上が吹っ飛んで、八ヶ岳や愛鷹山のようになってしまう山体噴火かもしれません。
 つまり、確かなのは、いつかなんらかの形で噴火するということだけです。大事なこと、そして私たちにできることは、その兆候をしっかりつかむことなのです。
 富士山は若くてピチピチの火山なのです。だからこんなにキレイな形なんですよね。

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2011.03.25

フジファブリック 『ペダル』

 日は久し振りに志村正彦くんのお墓参りに行ってきました。新設中学校の初年度が無事終わったことを報告してきました。彼にはいろいろな面で背中を押してもらいました。そんな感謝の気持ちをこめて祈りを捧げてきました。
 ちょっと臆病で神経質な彼、最近の地震にはびびったんじゃないかなあ。そして、彼自身も何度も訪れたであろう東北の地がああいうことになったことに、きっと心を痛めているに違いありません。
 そんな物騒がしげな日々の中で、私たちは「日常」のありがたさや愛おしさに気づかされています。この曲、この詩には、まさにそういうことが表現されています。
 こんな残酷なきっかけがないと気づかない「モノ」を、彼は常に感じながら、それを私たちに発信してくれていたのだと、あらためて感じますね。それこそが詩人であり、ミュージシャンであり、芸術家であるのだと、今さらながら気づかされます。
 上の動画は、あの「市民会館ライヴ」のオープニングです。地元の人間は「富士五湖文化センター」のことを「市民会館」と呼ぶのです。
 あの日は私にとっても、人生の大きな転換点となりました。志村くんとの縁が生まれたのもあの日でしたし、それをきっかけとしていろいろな不思議な出会いがあって、今の仕事、今の生き方に大きな影響を与えたのも事実です。本当に感謝しています。
Photo_3_26_8_13_22 その「市民会館」は今改装工事中です。まもなく新装オープンです。本来ならフジファブリックがオープニング記念ライヴを行なうはずだったと聞いています。残念ですが、それは実現しませんでした。
 しかし、考えようによっては、志村くんが、いつもの丘から眺めていた「あの」市民会館で凱旋ライヴができたのは幸運だったと言えるかもしれません。いいタイミングだったのかもしれません。
 この「ペダル」は私の最も好きな曲の一つです。音楽としても「うわっ」という感じ、シンプルだけれども真似のできない名作ですし、この歌詞(詩)の世界は言葉では表せない素晴らしさを持っています。
 つまり、言語以前、記号以前のもっと根源的なところに訴えかけてくるんですよね。それは私が富士吉田の風景を知っているからかもしれません。いや、もっと奥の普遍的な風景のような気もします。私は少年時代を東京で過ごしましたが、そんな風景をもふと思い出したりします。
 そうそう、ここ富士山麓は飛行機雲の名産地(?)なんですよねえ。最近の地震のおかげで、この前飛行機雲の記事を書きましたよね。そこに書いたとおりです。
 志村くんも、きっとあの飛行機雲を見て育ったんでしょう。その飛行機雲と自分の関係を「垂直」ととらえるところが面白い。直角じゃなくて「垂直」です。直角だったら、彼は南北に向かうことになります。しかし、「垂直」だとすると、彼は天地に向かうことになります。やはり、彼はそこに目指していたんでしょうか…。

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2011.03.24

アナログ&アナクロは強い

 震や停電、水や物資の不足によって、まあ皮肉なことではありますが、私たち現代の生活というものを見直す機会を得ています。
 我が家では私に対する評価も高まっています(笑)。今までは「何やってるの」「なんでこんなの買うの」「なんでこんなの捨てないで持ってるの」と言われることが多かったのですが、その評価が180度変りました。
 そのいくつかを紹介しましょう。裏技やコツもちょっと。
Photo_3_25_15_47_17 まず停電で良かったのはウチの電話。ウチの電話はアナログのダイヤル回線です。プッシュからあえてダイヤルにしました。プッシュ回線にしている意味は全くありません。意味がないのに月300円(?)払うのは馬鹿らしい。そして、電話機は比較的新しいタイプのデジタル電話ですが、ちゃんとあのクルクルのコードで受話器が本体につながっています。
 おかげで停電になってもウチの電話は普通に使えていました。今どきのフルコードレスでは電源がなくなると使いものになりませんし、それ以前に光回線(デジタル回線)は停電時には不通になります。実は4月に光に変える予定だったのですが、これを機会にキャンセルいたしました。危ない危ない。
Gedc0293 続きましては暖房器具です。ずいぶん昔、独身の頃にこの石油コンロ(火鉢型ストーヴ)を先輩の先生からもらい受けました。それがとうとう役に立った。めちゃくちゃ役に立った。もうあの頃から、停電したらファンヒーターは使えない、災害時のために電気を使わない暖房器具を一つは持っていたいと思っていたのです。何度もカミさんに捨てられそうになったこのストーヴ、とっておいて良かった。
 暖房性能はそんなに高くありませんけど、ヤカンを乗せて湯を沸かしたり、鍋料理をしたり、餅を焼いたり、なんでもできます。これは便利ですねえ。
 それに比べて最新のオール電化なんかどうしようもないですね。実はご近所のお宅がちょうどあの地震の日に、長く使った薪ストーヴ(暖炉)を撤去してオール電化にしちゃったんですよね。それでいきなり不便なことになってしまった。
 東京電力が中心になって推進してしまったオール電化住宅。結局電気使用量を増やすことになり、今となっては自分の首を締める結果になってしまいましたね。こうなることは最初から分かっていました。
 さて、次は照明関係です。ウチには手回し充電式のLED懐中電灯が二つありました。私の趣味で数年前に買っておいたものです。
Photo_3_25_16_15_11 一つはこの黄色いヤツ。ニッケル水素充電池が内蔵されています。手回しも非常に軽いので、子どもたちも面白がってグルグル回してくれます。だからいつも明るく点灯してくれます。100回くらい回すと15分くらい持つ感じかなあ。
 これは基本的に持ち歩き用です。トイレに行くとか、料理をするとか、いろいろな場所に持っていって使います。普段は車の中に置いてあったんですが、最近はずっと家の中で活躍しています。
 もう一つは白いもの。黄色いのと似たデザインですが、こちらは明るさも倍くらい。しかし、手回しはかなり重い感じです。おそらく発電電力が大きいタイプなのでしょう。それなりの負荷があって子どもだとすぐに息切れします。
 しかし、そのおかげで非常に強力な武器ともなります。まず、照明ですが、そうそう皆さん停電時にどうやって部屋を照らしていますか?たとえば天井からつってテーブルを照らすとか?
 実はですね、懐中電灯を使って間接照明にするといいのです。つまり、どこか目に入らないところに立てて、天井を照らすんです。そうすると部屋全体がぼんやり明るくなります。光源が目に入らないので、我々の瞳孔は広がり、結果として部屋全体がしっかり見通せるようになります。直接テーブルなどを照らしたり、目の前に置いたりすると、瞳孔が狭くなって周囲が見えなくなります。ぜひ間接照明をお試しあれ。
Gedc0291 さてさて、このダイナモ式懐中電灯ですが、なんとUSBの充電端子が付いています。それで買ったんですよ。つまりUSBから機器を充電できるんです。具体的には私はiPhoneを充電したかったんです。
 非常時にケータイの電池がなくなることほど不安なことはありません。それが手回しでできれば最高じゃないですか。
 しかし、残念ながら、この発電機では大容量のiPhoneのポリマー電池は充電できませんでした。iPodはちゃんと充電できるんですが。
 でも、こんなことでめげる私ではありません。ここからが頭の使いどころです。そして、結果として私は手回しでiPhoneを充電することに成功しています。
 方法は簡単。写真にあるように、安物のiPhone用の補助バッテリーを介して充電するのです。つまり、手回しで充電池を充電し(可能です)、それをiPhoneに装着して間接的に充電しているというわけです。ちょっと面倒な感じもしますが、実際数パーセントでもバッテリーが回復するだけでことが足りるものです。
 ちなみに、この白い懐中電灯は取り換え可能な単4充電池3本が内蔵されていました。そこで、私はさっそくその充電池をエネループに変えておきました。だから、電池の持ちもいいし、使わなくても自然放電がほとんどないので、非常時に安心して使えます。
 そして、手回しでエネループを充電できるのも大きい。そういう機器ってないですからね。
 このように、私がなんだか趣味で購入しておいた物どもが、今回非常に役立っています。判断は間違っていなかった。
 あと、アナログのブラウン管テレビですね。アナログ放送はいいですよ。緊急地震速報にしても、地図データはデジタルだと2秒遅れます。ワンセグでは4秒。これは死活問題ですよ。私は何度も地デジ化反対を叫んできましたが、あらためてアナログ放送の無期限延長(NHKだけでも)を要求します。
 あっテレビと言えば、こちらのナビ搭載のワンセグテレビが大活躍しています。バッテリーも3時間持つし。また、USB端子からはiPhoneも充電できるし、予備バッテリーとしても使えます。
 そのほかにもいろいろアナログ&アナクロ機器について書きたいことがありますが、今日はこの辺で。
 
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2011.03.23

月鏡より 『神と倶にある人』 (出口王仁三郎)

Images ういう事態になり、私は、被災地の苦悩と日常の業務と自らの人生と世界の未来と、そういう様々なステージにおける「思い」と「行動」に迫られて、ひたすらジタバタしております。
 しかし、私の脳ミソは実はいろいろな機能を隠し持っていて、ぎこちなくではありますが、徐々にそれに対応しつつあるとも感じます。
 それはこの国自体にも言えると思います。つまり、今まで幽閉されていたそれぞれの「想像力」が発動して、本来の日本が立ち上がりつつある、そう感じるのです。
 これが一過性のものではないことを祈ります。そういう意味では、私たちは一つのチャンスを与えられたとも言えます。逆にピンチだとも言えるかもしれません。
 再発動した「想像力」を再び忘れることなく地球規模に敷延できるか、私たちは試されることになるでしょう
 毎日、テレビやパソコンとにらめっこしています。ニュース、ブログ、ツイッター、その他もろもろ。本当に無数の情報が発せられ、そしてコピーされ拡散されていきます。そこには希望もたくさん見えます。
 しかし、どうしてもその情報は「今」に偏りがちです。「今」の持つ価値はやはり「点」でしかありません。その「点」をいかに「線」にし、あるいは「面」にし、いや「空間」としていくか、それこそが我々人間に与えられた仕事だと強く感じています。
 そういう意味では、多くのディスプレイは「想像力」を幽閉する箱だとも言えます。「今」を土台にした「想像力」は、空間を容易に越えるものですが、しかし案外時間を越えることができない。逆にそれを阻害しているとも言えます。
 そんな時、私はディスプレイのなかった時代に生きた先人の、時空を超えた「想像力」の産物に学ぶことにしています。昨日紹介した王仁三郎の言葉もまさにそれです。
 今日も彼の残した深い言葉をここに紹介したいと思います。「神」を「自然」と読み替えれば、現代人の私たちにも理解しやすいでしょう。これは私たちが想像するレベルでの宗教の話ではないと思います。読みやすいように、私の方で段落を増やしました。

  神と倶にある人

 人間は神を信じ、神と倶にありさへすれば、池辺の杜若や、山林の青葉が、自然に包まれて居る如く、長閑にして安全なものである。
 然し世の中は、変化があるので、人生は面白い。彼の美しい海棠の花だけを避けて、吹き捲る暴風雨はない。如何なる苦痛の深淵に沈むとも、心に正しき信仰さへあれば、即ち根本に信を置いて、惟神の定めに任せてさへ行けば、そこに変りの無い彩色があり音響がある。
 人生は如何なる難事に逢ふも恨まず、嘆かず、哀別も離苦も総てが花を撲つ風雨と思へば良い。富貴も、栄達も、貧窮も、総てがゆつたりとした春の気分で世に処するのが惟神の大道である。
 何程焦慮つても、一日に人間の足では、百里は歩るけぬものだ。学問や黄金の力でも、如何に偉大な政治家や大軍人の力でも、昨日を今日にする事は出来ぬ。又今日を明日にする事も出来ぬ。唯一秒の時間でも、自由に動かす事は出来ぬ。一滴の露、眼に見えぬ程の小さい生物でも、それを黄金の力では造れない、学問の力でも駄目である。
 斯う考へて見ると、人間程小さい力の貧弱なものは無い。然し人間は一滴の露さへ自力で作る事は能きぬが、神を忘れ神に反いた時には、憂愁と苦悩とを以て、広い天地を覆ひ盡す様になる、その胸が幾個あつても、そのもの思ひを容れる事が出来ないやうになつて来る。
 吁、人間は一滴の露、一塊の土さへ作る能力もなき癖に、天地に充満して、身の置き処の無いほど、大きい苦労を作る事が出来る。人間は苦労を作るために、決して生れたのではない。人間は神の生宮神の御子、天地経綸の使用者として、神の御用の為に世に生れて来たものである。惟神の心になつて何も彼も悉く、天地の神に打ち任せさへすれば、自然天地の恵みが惟神的にして、自然の儘に行き渡るものである。
 然るに神に在らざる人間の根蔕は、兎もすれば揺らつき、動き出し自然の規定を、我から破つて、神を背にした道を踏むために、遂に神の恵みに離るるに至るのである。若し人間に、樹草の如く確固たる根があつて、総てを天地に委して優和しい大自然の懐に抱かれる余裕さへあれば、何時の世も、至幸至福で長閑で、悠々たる光陰を楽しく送る事が出来る様になつて居る世界である。
 牡丹も、杜若も、又は清い翠を見せる樹々も、大風に揉まれ、大雨に撲たれて、手足を挫かれる程の憂目は見る事はあつても、其根蔕に、些の揺ぎも見せぬ。此所は苦しいから、他の土地へ移らうとは考へない。大風は何処へいつても吹き、大雨は何処へ行つても降る。美しい太陽は、何国の涯にも輝く。
 今日の暴風雨を、凌ぐだけの勇気さへ持てば、明日の、長閑かな歓楽に会ふ事が出来ると覚悟して、天地に絶大の信を置く、その為に些しも動揺が無い。土地を替へても、処を変へても、会ふだけの苦難には会ひ、享けるだけの歓楽は享ける。麻縄で縛られて、身の自由を得ようと煩悶へるのは、応て自ら苦痛の淵に沈むものである。人間は一切を惟神に任せて居れば、実に世界は安養浄土であり天国である。
 爛漫たる花の香に酔ふ春の光も、次第に薄らぎ、青葉の茂る夏となり、木葉の散り敷く秋の淋しさを迎へ、雪の降る冬となつて、万木万草枯死の状態になるは、天地惟神の大道である。香りの好い釵の花を嬉しう翳した天窓の上に、時雨が降り、愛の記念の指環を穿した白魚の手に落葉がする世の中だ。花の山が青葉の峰と忽ち代り、青葉の峰は木枯の谷となる。辛い経験は、人生にとつて免れ難き所である。
 然し乍ら、人間は決して斯んな悲惨なものではなく、永遠の生命と永遠の安楽とを与へられて世に生れ、大なる神業を以て、神の御用の為に出て来たものである事を覚らねばならぬ。それは只神を知る事に依つてのみ得らるる人生の特権である。

Amazon 三鏡―出口王仁三郎聖言集

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2011.03.22

霊界物語より 『地震の神』 (出口王仁三郎)

Onis にあやしい話ではありません。ことの本質に迫る内容です。
 自然災害は仕方ないと考えるとか、大阪の誰かのように他人事として語るとか、科学的な態度を軽視するとか、もちろんそういうことではありません。
 逆に起きてしまったこと、今起きていること、これから起きるであろうことを我が事としてとらえ、自他不二の境地になって、苦しみも悲しみも共有できるだけ共有した上で、あえてこの文章を掲載させていただきます。
 ここ数日書いてきた、日本の宗教観、いや宗教ではない、神観、自然観を端的に表す文であると信じます。私たち日本人がどうやってこうした苦難を乗り越えてきたか、自然災害をどのようにとらえてきたか、一つのヒントとなるに違いないと思います。
 この文章を書いた出口王仁三郎は、日本の歴史、文化、哲学、宗教、芸術、言語全てを呑み込んだ、近代日本の巨人でした。単なる宗教家というにはあまりにスケールの大きな活動をした人物でした。
 出口王仁三郎は、その代表的な著書「霊界物語」の中で、様々な予言を書き残しています。最近で言えば阪神淡路大震災やオウム事件も予言していたと言われています(こちら参照)。
 あらかじめそれが人に知られなければ予言の意味はないと言われそうですが、実は自然そのものがそういうモノであり、その解読方法として、たとえば科学があったりするわけで、しかしその最先端の科学の粋をもってしても「想定外」だったと。それと同じように、近現代的な価値観だけでアプローチすると、この「モノガタリ」の中に潜む情報は読み取れないということなのでしょう。
 信じる信じないという次元の物語ではありません。ずっとずっと日本人が持ってきた、そして継承してきたモノについてのカタリです。こういう感覚を私たちはいつの間に忘れてしまったのでしょうか。
 私たち現代の日本人には耳の痛い言葉も出てきます。ある意味この予言は的中してしまったとも言えますね。
 これを読んで、「何言ってんだ?」と思うも結構。「なるほど…」と思うも結構。こういう世界には近づきたくないと思うのも自由ですし、こんなことを知っても何も解決しないと思うのも自由です。とにかく一度皆さんの心の中にこの物語を通過させてみてください。お願いします。

 霊界物語 第一巻 霊主体従 子の巻    第三篇 天地の剖判 第二一章 大地の修理固成より

 …人智は乱れ、情は拗け、意は曲りて、人間は次第に私欲を擅にするやうになり、ここに弱肉強食、生存競争の端はひらかれ、せつかく神が御苦心の結果、創造遊ばされた善美のこの地上もまた、もとの泥海に復さねばならぬやうな傾向ができた。
 しかるに地の一方では、天地間に残滓のやうに残つてゐた邪気は、凝つて悪竜、悪蛇、悪狐を発生し、あるひは邪鬼となり、妖魅となつて、我侭放肆な人間の身魂に憑依し、世の中を悪化して、邪霊の世界とせむことを企てた。そこで大国常立大神は非常に憤りたまうて、深い吐息をおはきになつた。その太息から八種の雷神や、荒の神がお生れ遊ばしたのである。
 それで荒の神の御発動があるのは、大神が地上の人類に警戒を与へたまふ時である。かうしてしばしば大神は荒の神の御発動によつて、地上の人類を警戒せられたが、人類の大多数は依然として覚醒しない。そこで大神は大いにもどかしがりたまひ伊都の雄猛びをせられて、大地に四股を踏んで憤り給うた。そのとき大神の口、鼻、また眼より数多の竜神がお現はれになつた。この竜神を地震の神と申し上げる。国祖の大神の極端に憤りたまうた時に地震の神の御発動があるのである。大神の怒りは私の怒りではなくして、世の中を善美に立替へ立直したいための、大慈悲心の御発現に外ならぬのである。
 大国常立尊が天地を修理固成したまうてより、ほとんど十万年の期間は、別に今日のやうに区劃された国家はなかつた。ただ地方地方を限つて、八王といふ国魂の神が配置され、八頭といふ宰相の神が八王神の下にそれぞれ配置されてゐた。
 しかるに世の中はだんだん悪化して、大神の御神慮に叶はぬことばかりが始まり、怨恨、嫉妬、悲哀、呪咀の声は、天地に一杯に充ちわたることになつた。そこで大国常立大神は再び地上の修理固成を企劃なしたまうて、ある高い山の頂上にお立ちになつて大声を発したまうた。その声は万雷の一時に轟くごとくであつた。大神はなほも足を踏みとどろかして地蹈鞴をお踏みになつた。そのため大地は揺れゆれて、地震の神、荒の神が挙つて御発動になり、地球は一大変態を来して、山河はくづれ埋まり、草木は倒れ伏し、地上の蒼生はほとんど全く淪亡るまでに立ちいたつた…
  (大正一〇・一〇・二〇 旧九・二〇 谷口正治録)

 苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助け合う…まず被災された方々自身が力強く復興してゆかれることを心からお祈り申し上げます。

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2011.03.21

本日のつぶやきより(2011.3.21)

↓富士山付近最近1週間の震源。火山性微動の赤丸が一つもない。
20110322_62356 日はTwitterの誕生日。初めてツイートされた日だとか。Twitter上の情報の受け売りですけど。
 Twitterを本格的に始めてみていろいろ思うことがあります。私はこちらに書いたように「まとめあがっていない思考の断片を披瀝する価値がいまいち分からない」人間ですので、ある程度以前昔から考えていたことを復習するためのメディアとして使っています。
 あとは即時性を要求されることですね。ブログだと、結局新聞と同じように前日のことを明朝に届けるという感じになっていますから。あとは仲間内のメールがわり。
 もちろん今回の大震災にあたり、Twitterが果たしている役割は非常に大きいと思います。一方でいわゆる風評の拡散にも大きく関与していると思います。
 たとえばリツイートという機構、これはツイッターの特徴の一つだと思いますけれど、これなど、まさに「そうそう!」という瞬間の気分によって実行されるものです。刹那の共感は、ある意味「鵜呑み」であり、「洗脳」の結果とも言えないこともありません。
 まあ人間にはいろいろな言語活動(すなわち思考)がありますから、私はメディアごとにそれをうまく使い分けていきたいと思っています。どのメディアでも私は私、かなり個性的な存在になるのではないでしょうか。
 さて、Twitterの特徴として、「流れていく」という仕組みがありますね。だから、どうでもいい気分も、案外重要な思考も、一緒にジャーと流れていってしまって、自分にとって残ってほしいテキストがいつのまにか彼方に見えなくなってしまうということがよくあります。
 今日は試しに「残しておきたい」テキストをここに保存しておこうと思います。ちょっと解説もつけて。ではまず最初。これは即時性が必要だと思ったのでつぶやきました。

 『富士山直下で地震があってから火山性微動は皆無になっている。マグマ溜まりの部屋が広がって地震前よりも安定した可能性すらある。噴火の危険性は地震前よりさらに低くなったと考えられる』

 昨日の記事の最後にも書きましたとおり、困った何人かの困ったヤカラが「明日中に東海地震が起きる」とか「富士山が噴火する」とか言って不安を煽っているので、書かせていただきました。ちなみに私はここその他のデータを日常的に読んでおります。
 関連して。

 『天災→不安を煽る→何も起きない→私が鎮めた→教組の誕生→新宗教の成立(現実逃避)…こういう時こそそういう誤りは避けなければならない』

 これはそのえせスピリチュアル&にせ宗教家たちの行動を憂えてのつぶやきです。オウムのことも念頭に入れつつ。本当に虫酸が走ります。私はそういう奴ら大嫌いです。自分はどうなんだよ!?というツッコミが入りそうですが(笑)。私の理想はこの世から宗教がなくなることです。
 昨日の神社の話も、「自分は死にませんように」というような現世利益や利己的な意味ではなくて、自然(神)の恩寵や脅威に日常的に思いを寄せましょうという意味です。それが日本の神道の基本です。自然に生かされていること、あるいは場合によっては殺されることもあることを直視して、自然と対話し、共に生きていこうということです。それはいわゆる「宗教」とは違います。
 続きまして、これも関連しているかなあ。

 『我が家では「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」以前に「…我慢が足らぬ」である。私たちの我慢が被災地の「充足」「満足」につながると信じる(直接的でなくとも)』

 「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」は太平洋戦争中の標語の一つですね。これももちろん今でも通用しますが、それ以前に現代の私たちは「知足」を忘れているので、ちょっと付け加えてみました。仏教、いや、これも宗教ではないから、釈迦の科学&哲学から言うとですね、「知足」「利他」「布施」こそ我々現代人に必要なものでしょう。皮肉なことですが、今回の震災を通じてそれを再認識させられている私たちです。
 続いて、これもある意味神道かな。

Photo 『全日本両国大会。大日本の二人、素晴らしい!号泣! 見事な神事』

 これはすごかった。本来大相撲春場所が行われているべき時期に、殿堂たる両国国技館で、真の「もののけ」「もののふ」どもがしっかり地鎮の神事を執り行ってくれました。特にこの大日本プロレスの二人、関本大介と岡林裕二!素晴らしすぎました。もともと大日本は好きですし、この二人は今どき珍しい問答無用の「モノ」どもでしたから期待はしていたんですけどね、ここまでやってくれるとは。感謝です。東北にもきっと「立ち上がる勇気」が伝わったことでしょう。
 最後に、夜放映されていた「スタジオジブリ物語」見ながらのつぶやき。

 『ジブリすなわち少女と老婆、すなわち「女」が巧妙に消されているのである』

 これは説明しません。ここにある種ネガティヴな宗教性を感じるのは私だけでしょうか。私だけか。


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2011.03.20

河口浅間神社

 日Twitterでつぶやかせていただきました。

 「一つ言っておかなければならないことがある。あらゆる危険性はあの日に突然生じたのではない。以前からずっと私たちのすぐ隣にあったのだ。そのことを忘れて今騒ぐのはどうだろう。それだとまた時が経てば忘れてしまう」

 私たちは歴史を現代に生かさねばなりません。過去と現在と未来をしっかりつながなくてはいけないのに、どうして皆「今」ばかりに執着して生きてしまうのでしょうか。まさに「天災は忘れた頃にやってくる」。
 あえて厳しい言い方をすれば、今回の大震災にも過去の体験が生かされていなかったとも言えます。
 明治29年の明治三陸地震の津波は最大38.2m、地震及び津波による死者は2万人を超えました。昭和8年の昭和三陸地震は震度5だったのに津波は最大28.7mに及んだと言います。このような事実が120年くらいの間に二度あったにも関わらず、その後町が無反省に再建され、ある場所には原子力発電所まで建設されてしまいました。これはある意味人災でしょう。
Gedc0393 今日はもっと古い事実を復習してみましょうか。
 こちらの記事に書いたように、今から1140年ほど前、今回の東北地方太平洋沖大地震と非常によく似た地震が起こっています。
 貞観11年(869年)発生の貞観地震(貞観三陸地震)。震源域は今回とほぼ同じ岩手沖から茨城沖にかけて。推定マグニチュードは最大8.6。今回の大地震発生以前は、日本史上最大の地震であったとも言われています。
 津波(貞観津波)も発生、数千人が死亡したものと思われます。公式記録では津波による溺死者は約1000人となっています。実際にはその数倍でしょう。
Gedc0396 その公式記録の名は「日本三代実録」。その三代実録には、貞観地震の数年前(貞観6年から約2年間)に富士山が噴火したとの記録があります。富士北西麓、長尾山などの側火山が噴火し、大量の溶岩を吐き出しました。一部は現在の本栖湖を埋め、のちに石花海(剗の海)を二湖に分断し(現在の精進湖と西湖)、また河口湖にも迫ったと記録があります。
 その時形成された溶岩台地は現在青木ケ原樹海と言われる原生林を生み出しました。つまり青木ケ原の原生林は約1000歳の比較的若い原生林ということになります(ちなみに私が調査した新発見の溶岩洞穴「平次原風穴」は貞観の溶岩以前の古い溶岩流の内部にあり、約5000年前のものです。北麓では最も古い洞穴ではないでしょうか)。
Photo 貞観の噴火に際して、甲斐の国に浅間神社を創建せよとの勅命が発せられます。なんでも駿河の国の浅間神社の怠慢で富士山が噴火したので、甲斐の国でも浅間神の祀れということだったようです。
 その神社こそ現在の富士河口湖町河口にある「河口浅間神社」です。実際は三代実録の浅間神社は現山梨県内のいくつかの神社に比定されており、私も実のところ異説を支持したい立場なのですが、まあ今日のところは一般の説に従っておきましょうか。
 というわけで、今日は家族で河口浅間神社に参拝してきました。11日の東北地方太平洋沖地震、その後の茨城沖の地震、そして15日の富士山直下の地震を受けて、鎮火・地鎮を祈りに参ったわけです。
 平安時代には、864年富士山噴火→869年三陸沖地震→887年仁和南海地震(実際には東海・東南海・南海地震連動型)というとんでもない連続災害が発生しました。今回はそういうことにもならないように祈ってきました。
Gedc0400 今ではこの神社もパワースポットとして有名になっていますね。たしかに樹齢1200年という七本杉をはじめとんでもない「気」を発していましたね。カミさんや子どもたちも「あったか〜い」と言いながら杉の木(気)に触れていました。
 私は「気」ではなくて、1200年を生きのびてきた、そのパワーの源泉となった「花粉」を思いっきり吸い込んでしまいまして、久々に鼻水が流動性の高い溶岩のように流れ出てしまいました(苦笑)。
23 ご覧のように、「鎮国」だけでなく「鎮爆」の文字まで掲げてあります。「鎮爆」はすごいな。そして、「天柱地鎮」の扁額も。まさに今必要な「祈り」、そして「言霊(事霊)」ですね。人間の気合いを感じました。
 こちらに書いたように「マツリゴト」は「モノ」への懐柔と献呈と服従の意の表現ですが、それは単にゴマをするのではなく、まさに気合いを入れて、魂を込めて真剣に命懸けでやらねばならなかったのです。
Gedc0401 それが感じられる神社ってそうそうありません。私の体験から言うと、ここ河口浅間神社と伍するのは鳥海山の大物忌神社かなあ…。
 静岡側の大宮口や吉田口の冨士浅間神社もいいんですけどね、ここももっと深い意味でいいですよ。富士山の噴火が怖いという方、家でビクビクしているヒマがあったら、ぜひ河口浅間神社はじめ富士山を取り囲むたくさんの浅間神社を訪れて、そして祈って下さい!
 そうそう、浅間神社と言えば祭神は木花咲耶姫命。そのコノハナサクヤヒメの夫神の名を名乗り、とんでもない流言飛語を垂れ流しているバチ当たりがいます。非常に残念なことです。なぜそれにだまされる人がいるのか、非常に不思議であり、残念であります。
 きっとその方からすれば、私こそとんでもないウソつきということになるのでしょうね。まあ、それはそれで結構ですし、あんまり私もムキになると先方と同レベルになってしまうので、この辺でやめときます。
 しっかし、こちらでも紹介した、富士山頂から東麓に現れる「山旗雲」を「噴煙」と言い切ってしまうのですから、こりゃあホントに困ったものです。それを信用する大人がたくさんいることにもガッカリしてしてまいますね。

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2011.03.19

自分で調べ考えたい

 い合わせが多いので、これも先に書いておきます。今朝の富士山の笠雲と吊るし雲(翼型)です。地震雲ではありませんよ。天気が崩れます。昨日の飛行機雲から自然な流れです。

Gedc0357

 私たち地元民でさえ、普段見ているはずの風景に「異常」を感じ、「恐怖」を感じるのですから、見慣れない方々がこうした画像をただ見せられると、相当動揺することと思われます。
 そうした「不安」は「負の想像力」を鍛え上げます。それは言語化され誰かと共有されます。不安は共有されたがる性質を持っています。しかし、その結果はたいがい更なる不安の助長につながります。
 そうして、風評、ガセネタ、噂話、果ては陰謀論までが生み出されていきます。
 それをある種の「言霊」だと言うこともできるでしょう。ちょっと話が逸れますが、この「言霊」についてもあえて書いておきましょうか。
 私の解釈では(つまり江戸の国学者の言ったことを鵜呑みにしなければ)「コト」の「タマ」とは、「脳内概念の現実化(簡単に言えば夢の実現)」の「エネルギー」のことです。そこに「コト」の下位装置たる「言語(コトの端)」が関与しているだけの話で、「言葉が持っている不思議な力」というような辞書的な意味付けは、私に言わせれば間違いです。
 それは「ことたま」が「事霊」と書かれることの方が多い「原典テキスト」に当たれば誰でも分かることです。
 つまりそういうことなんですよね。
 富士山が数日以内に噴火するとか、自分で調べないでそういうことは言い合わない方がいい。
 たとえば次のデータを見てください。防災科学研究所火山情報WEBの富士山の地震震源時系列グラフです。16日から18日までの震源の深さと規模が分かります。

20110320_74730

 ご覧になって分かるとおり、数も減っていますし、規模も小さくなっています。そして浅くなってもいませんから、喫緊の噴火の可能性はもちろん、地震のさらなる活発化の可能性も低いことが分かります。
 こういう事実を知っていれば、負の言霊に惑わされることもありません。無駄な不安や恐怖にさいなまれることはないというわけです。
 そう言えば、今日、枝野さんが会見で、福島の牛乳や茨城のホウレンソウから基準値以上の放射線量が検出されたという報告をしましたね。
 そこで枝野さんは「今回検出された放射性物質濃度の牛乳を、仮に日本人の平均摂取量で1年間摂取し続けた場合の被曝線量は、CTスキャン1回程度のものである。ホウレンソウについても、やはり日本人の年平均摂取量で1年間接種したとして、CTスキャンと1回分の、さらに5分の1程度である」と説明しました。
 ここでの放射性物質は、今までの流れからしてヨウ素のことだと思われます。だとすると、ヨウ素の半減期は約8日。つまり、発生してから10日もすればほとんど無毒になります。それを「新鮮なうちに」1年間摂取し続けるというのにはかなり大変なことですね。そういう現実的でない説明で安心させようとするのではなく、それこそ半減期について言及する方がずっと良心的だと思います。
 ずいぶん前から指摘されているように、この高度情報化社会において、私たちはついつい「受け身」になりがちです。情報リテラシーについての実戦的な技術を教えず、ただテキストの鵜呑み、丸暗記さをさせてきた、私たち教育界の責任も重大だと思います。
 しかし、こういう時だからこそ、私たちは「自分で調べ考える」べきなのですね。「自分で調べ考える」と、他者の調べ考えた別の意見を客観的に見ることができるようになります。「自分」の意見の不確実性を身をもって体験できるからです。
 そしてその結果、実は全てのテキストは完全解答ではないことに気づきます。そうすると、各種の意見を総合するしかない。そして、最終的に自分の直観で最善の選択肢を選ぶしかないことに気づきます。そこまで行けば、結果がどうであれ、私たちは自らの人生に納得することができるようになるでしょう。
 そういう意味でも、私たちは今までの生活や思考の見直しを迫られているとも言えます。ピンチをチャンスに。私たちはこれを機に成長、進化しなければなりませんね。

 PS 地震に関してはまず自分の住んでいる地域の地質的特性を知るべきです。地震ハザードステーション

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2011.03.18

2011.3.18 富士山と飛行機雲

 いぶんと騒ぎになっているようなので、先に写真と結論をアップしておきます。何人かの方から問い合わせがありました。いつのまに私は地震雲の専門家になったのでしょう(苦笑)。
 今日、富士山周辺に発生していた「すじ雲」は飛行機雲です。地震雲ではありません。
 富士山上空は5分に1機くらいの割合で飛行機が飛ぶ、航空路のメインストリートです。そのためもあって、このあたりは最も美しい飛行機雲を見ることができる場所です。もちろん、富士山という前景もありますし。たしかにきれいですよね。
 飛行機雲はジェットエンジンから出る煙だと思っている方が多いようですね。実際は違います。飛行機が飛ぶ揚力を生む原理に関連して出来るものです。翼の上面に接する空気の気圧が低下して断熱膨張を起こして、それで気温が下がって水蒸気が凝結して雲になるんですよね。

Gedc0326

 飛行機雲である証拠に、すじ雲の中を今まさに飛行機が飛んでいる様子を撮ってみました。珍しいでしょう。富士山もきれいです。午前中です。

Gedc0328

 午後も相変わらず飛行機雲がたくさん出ていました。西から偏西風に乗ってどんどん流れてきます。もちろん、今日はそういう気象状況だったのです。空気中の水蒸気量が多かったのです。飛行機雲ができる条件というのがあります。

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 ただしこの雲は違いますね。ちょっと怪しい感じです。よく調べてみます。

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ちなみにこれも飛行機雲です。風に流されてこのように形が崩れることもあります。

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 今日は6時過ぎから停電ということで、早めに帰宅しました。途中富士山1合目付近に寄ってきました。そこで撮った雲の芸術写真を何枚かご覧ください(飛行機雲ではありませんが)。自然の芸術ですね。これを地震雲だと思うのも、まあ自然かもしれません。あまりに美しいので。

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 昨日の夜、地震があったのち一旦改善したワンセグの受信状況が、今朝にはまた最悪に近くなっていました。午後の段階でも改善していません。もしかすると、連日の地震によって送信所のアンテナの向きがおかしくなっているのかもしれませんね。
 また報告します。いろいろ情報も入ってきているので。

PS このように飛行機雲がたくさん残るということは、上空の水蒸気量が多いとも言えますが、地震の前兆であるエアロゾルの濃度が高いとも言えるかもしれません。もしそうだとすると、これは富士山というよりも、駿河湾以西の上空全体に言えることになりますので、東海・東南海・南海地震との関係がないとは言えないかもしれません。
 私はそれもあるとは思いますが、それ以上にやはり東北地方太平洋沖地震の間接的な影響だと思います。まさか原発じゃないですよね。原発事故でもエアロゾルは発生します。チェルノブイリではそれが放射能を運んでしまいました。でも、これはそれではありません。
 夜にはスーパームーンを明後日に控えた月の回りに光輪が出来ていました(写真では見えませんかね)。夜になってもまだ上空にはなんらかの粒子が多く浮遊しているようです。

Gedc0356

追伸 友人から珍しい飛行機雲の写真を提供していただきました。こういうふうに変形することもあるんですよね。不思議な造型です。龍の骨?

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2011.03.17

大地震と「モノ」と「コト」と「マツリゴト」

今日の富士は穏やか。「マツリ」の効果はあったか。
Gedc0318 日までは科学的な話が多くなりましたね。まあ、疑似科学だと言う方もいらっしゃいましたが。
 そう、このような自然の脅威、猛威に接しますと、全ての科学は疑似科学に過ぎないということを感じます。
 科学そのものが幻想であったということです。象徴的なのは原発です。原発は科学の粋のように思われるかもしれませんが、あれはもう一つの自然を人間が作り出してしまったものです。ちっとも科学ではありません。科学の本質は世界を人間の脳に納めることです。あのようなアンコントローラブルな状態は科学ではなく、単なる自然でしかありません。
 私がこのブログでずっと書いてきた「モノ・コト論」の本質が、皮肉にもこういう形で具現化、顕在化してしまいした。
 私はずっと言ってきたんです。これからは「コトよりモノの時代」であると。世間では逆の言い方がされていましたが。
 確認しておきましょうか。私の言う「モノ」とは「自然・不随意・脳で処理できないもの・外部」を表す日本語です。古くはそのような意味で使われていたのです。物質とか物体とかいう意味ではありません。
 そして、「コト」はその対義語、「人工・随意・脳で処理できること・内部」を表す日本語でした。今のように概念や事件を表すのではありません。
 今回の大震災や大人災は、まさに「モノ」世界の出来事です。人間の、特に「脳」の無力さを再認識させられる事態です。いつの時代も「モノ」は「コト」に勝ってきたのです。
 近現代とは、科学、工業、言語、貨幣という「コト」の権化によって、「モノ」を支配しようとした時代でした。それはある意味では表面的に成功したとも言えましょう。しかし、それには限界があり、そして無理があることは、なんとなく私たちも気づいていたことです。
 あえて誤解と非難を覚悟に書けば、石原都知事の「天罰」の真意はそんなところにあったのだと思うのです。
 そのような「モノ」による「想定外」に対して、私たちは嘆息せずにはいられません。それが「もののあはれ」です。
 そして、それに対抗する究極の存在が「みコト」たる天皇です。そして「みコト」の「コトの葉」である「玉音」。歴史と伝統に則って、天皇の本来の「仕事(しゴト)」が発動したのです。それは実に見事な験を発揮したと思います。
 しかし、実は「みコト」は「まコト」と同様に、フィクションでもあります。「コト」は「脳内で創作されたもの」であるわけで、それに「美」や「真」が接頭することはあり得ません。人間の脳が「完全」であるはずがないからです。
 我々国民凡夫はそのような疑似的な「神」を装置として作りだし、ずっと守ってきたわけです。そして、そのイコンたる天皇自身は、その究極の役割を果たすために「マツリゴト」を行なってきました。つまり、「モノ」と「コト」を「真釣る」、両者のバランスをとるための神事、祭事、すなわち「モノ」への懐柔と献呈と服従の意の表現を行なってきたのです。
 「まつらふ」という言葉は「服従する」という意味です。服従しないモノのことを「まつろはぬモノ」と言いますよね。
 科学の時代、私たちはそういう意味で「まつる」ことを忘れてきたのです。
 その象徴が、大相撲の春場所中止でした。まさに春場所が始まるべきその時にこの大災害が起きてしまいました。相撲は「地鎮」の神事であり、祭事だったはずです。国技として「みコト」の配下において行われるべき「マツリゴト」だったのです。
 鎮められなかった地は動きました。そんなことを書くと笑われてしまいそうですが、日本というのはそういう国なのだと思います。「モノ」主体の国だったのです。
 さらに変だと思われるかもしれませんが、私は今、そういう「マツリゴト」ができるのは、相撲でもなく、もちろん「政治」でもなく、プロレスだと真剣に思っています。
 全日本プロレスの両国国技館大会が開催されることとなりました。大いに結構なことだと思います。不謹慎どころか、本当の意味での「謹慎」だと思います。もちろん、救助や支援や復興が最も大切ですが、一方で「マツリゴト」もしなければならないのです。根っこのところ、あるいは天上のところにも働き掛けないと。
 大震災とプロレスということで思い出すのは、阪神淡路大震災の2日後にあえて行われた、当時の全日本プロレスの大阪大会のことです。
 メインイベントで川田選手と小橋選手の60分フルタイムドローの死闘は、今でも語りぐさ、伝説となっています。あの闘いによって、どれだけの人々が勇気づけられ、元気になったことか。やられてもやられても立ち上がっていく物語に接した人々は、未来に光を見出したのです。これを「マツリゴト」と言わずして何と言う。
 その大会のあと、人知れず被災地を訪れ、黙々とボランティアに励んだジャイアント馬場の姿。馬場さんがそこにいるというだけで、人々は涙して喜んだと言います。まさに「モノノケ」たる「神」が降臨したというところでしょうか。立派な行幸でした。
 我が家でも、プロレス界の知り合いからの依頼を受け、このような支援に協力をしています。カミさんは今日、たくさんの人から毛布を譲り受け、さっそく先方に送っていました。
 各プロスポーツは自らの使命を考えなければなりませんね。ゴタゴタもめている場合ではありません。こういう時こそ、自分の仕事をしっかりやるべきだと思います。募金もいいのですが、それより先にやるべきことがあるような気がします。
 その点、もう一つの神事たる「音楽」において、シンディ・ローパーの見事な「マツリゴト」には脱帽しました。外津神に負けず、国津神たち頑張れ。
 このような意味で、私たちはいろいろな祈りと行動を迫られています。日本人としての本質に気づき、そして人間と自然の本来あるべき関係を思い出さねばならない時が来ているようです。


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2011.03.16

2011.3.15 富士山直下地震についてまとめ(メカニズム・今後・宏観異常現象)

※ 記事最下部に専門家の分析資料があります。内容に関してはそちらを重視してください。

Gedc0312 夜の富士山直下マグマ溜まり付近を震源とするM6.4の地震、とりあえず収束に向かっています。
 発生後6時間ほどは盛んな余震活動が見られましたが、今日の午後にはほとんどそれもなくなりました。
 今日の富士山の写真をご覧下さい。雲は出ていますが、これは通常の雲であって、いわゆる「異様な感じ」はしません(全く科学的ではありませんが)。
 さて、今回の地震のメカニズムを私なりに結論づけてみましたので、よろしかったらお読み下さい。ただし、これは全くの素人(国語の教員ですから)によるものですので、正誤真偽の判断は皆さまにおまかせします。ただし気象庁の発表よりは信憑性があるでしょう(笑)。
Zeijaku1 今回の地震は、前提として11日に発生した東北地方太平洋沖大地震の影響があると考えなければなりません。
 昨日の記事にも書いたように、富士山は東西南北4枚のプレートのおしくらまんじゅうによって生じた力と熱で出来た火山です。そのプレートのうち、北と東、すなわち北米プレートと太平洋プレートが大きく動いたのが11日の大地震ですから、当然富士山にもその影響は大きくあったと考えられます(太平洋プレートは直接関係ないのではとの指摘をいただきましたが、図を見てわかるとおり、関係がないという方が無理があると思います)。
 分かりやすくするために話を単純化します。富士山では東からの力と西からの力が押しっこしていたとしましょう。
 東北や関東地方の地震によって、北米プレートは東に数メートル動いたと言われています。その端にあたる富士山付近でも基本東側に向けて動いた、つまり東から西へ押す力が弱まったと考えられます。
 今までは西からの東に押す力と、東から西に押す力が均衡していたのですが、東からの力が弱くなったので、当然西からの力が優勢になります。
 さて、富士山の地下にはドロドロに溶けたマグマが大量に存在します。それがマグマ溜まりです。大きな溶鉱炉があると思って下さい。マグマもどんどん供給されていますから、四方八方に向けて押す力を持っています。それを両サイドから抑えていたのが、プレート上の地殻という固いシールドです。
 その炉の東側から押す力が減ったわけですから、当然マグマは東に広がろうとします。炉の西側の壁は今まで通りマグマを抑えようとして東に向けて押していたところ、いきなり東の壁が力を抜いたわけですから、相撲で言えば肩透かしをくらったような、あるいは引き落としをくらったような状態になったわけですね。それでつまずいたのが今回の地震であると考えられます。
 つまり、マグマ溜まり西辺の壁が破壊されたということです。しかし、東方向に向かって多少つまずいたところで、また体勢を整えなおしたので、再びがっぷり四つになった、つまり安定したようです。安定へ向けての微調整が余震であったということですね。
 なお、富士宮付近で揺れが大きく、被害が大きかったのは、隣接する富士川河口断層帯の一部にも動きがあったからではないでしょうか。
 そうしますと、富士山の噴火の可能性はとりあえずないのですが、富士川河口断層帯の活動やそれか連続する駿河トラフへの影響、すなわち東海地震に全く影響がないかというと、そうとは言いきれないと思います。
 生徒たちを含め地元の人たちは富士山の噴火のことを気にしていましたが、考えてみると、マグマ溜まりという溶鉱炉のフタは、10キロくらいに及ぶぶ厚く固いものなので、それを突き破って噴火するというは、ものすごく大変なことだという事実を知ると、今日明日、突然富士山が噴火するなどということはありえないと分かるでしょう。必ず数ヶ月に及ぶ前兆現象(群発地震や山体の膨張、噴気など)があります。火山の噴火は地震よりもずっとずっと予知しやすいのです。
Gedc0313 さてさて、今回の地震での宏観異常現象について、まとめておこうと思います。これこそ今後の地震予知に役立つものです。別に東大地震研でなくとも、地震予知連絡会でなくとも、一般人にできる観察方法ですので。
 いわゆる地震雲については、ここ数日の記事をご覧ください。明らかに通常ではありえない量のなんらかのイオンが発生していたのは事実のようです。
 それに関連して電波障害についても書いておきましょう。前の記事にも少し書きましたけれど、ここ数日のワンセグ放送の受信状況の悪さは本当に異常でした。今日の午後になって、すなわち余震がなくなってようやく3日前くらいの状況に戻りました。ほとんど正常に戻ったと言っていいでしょう。
 地震発生の寸前、具体的には4時間前ですかね、この時は本当に異常でした。ウチは富士吉田送信所から1キロくらいしか離れていないのに、なんと全く受信できなくなっていたのです。それも外部アンテナを接続してですよ。正直テレビ(ナビ)の故障だと思いました。全く受信しないのですから(ちなみに12セグは正常だったと思います)。
 ご存知のようにワンセグはUHF波のローバンドを利用しています。極超短波は直進性が高く、自然の電離層などには反射せず突き抜けてしまいます。私の家と送信所の間には森はありますが、その他の遮蔽物はありません。ですから、普通に考えるとバリバリに受信できる場所なんですね。ちなみにウチは標高が高いので、直線で東京タワー波を受信できるほどです。それが、1キロ先の電波を受信出来なくなった。
 これは、私と送信所の間に目に見えない壁があったとしか考えようがありません。それは何かと言いますと「プラズマ」です。エアロゾルを発生させたイオンが発生したように、電離したなんらかの物質が富士山麓に充満していたと。プラズマは「電磁シールド」として働きます。極超短波さえも通過させない見えない壁を作ることは理論上可能なのです。
 今日の午後にはワンセグ受信状況はほとんど通常状態に戻りました。つまり、富士山を取り巻くプラズマはなくなったということです。見た目的にも空気はクリアーになりましたので、なんらかの物質の噴出はなくなったものと思われます。
 そういう状況を踏まえて、このたびの富士山直下の地震は収束に向かっていると判断します。
 もちろん、これは私のシロウト考えですし、自然は分からないことばかりですから、信用していただかなくとも結構です。ただ、地元、それもその場所に住んでいる者の実感というか霊感(笑)を伝えておく意味が全くないとは思わないので、記事とさせていただきました。
 私のようなシロウトが「直感」や「霊感(?)」で観察、考察するのではなく、ちゃんとした機関がちゃんとした計器を設置して、ちゃんと観測、研究すれば、富士山付近の地震や富士山の噴火をかなりの確率で予測できるのではないでしょうか。期待します。
 

プロの解析結果が出ました。シロウトの直感とはずいぶん違う内容ですね(苦笑)。
ぜひ参考にしてみてください。第119回資料(第119回火山噴火予知連絡会_富士山.pdf)

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2011.03.15

富士山直下でM6.4

 はり昨日のエアロゾルはこの地震の兆候だったのでしょうか。
 先ほど22時31分頃、我が家から南に10キロの地点、すなわち富士山頂から4キロほど南西に行ったところの直下を震源とするM6.4の地震が発生しました。山梨県鳴沢村字富士山にある我が家では体感震度5強〜6弱といったところでした。おひな様の菱餅が倒れるくらいで、特に被害等はありませんでした。
 皆さんには「当たったね!」と言われましたが、「今日明日、あるいは今年来年に中部や西日本で何かが起きるということではない」と書いてますから、思いっきりはずれてるとも言えますな(苦笑)。いや、なかなかハッキリ書けないんですよ。官房長官の発表と一緒です。
 さて、この地震、非常に珍しいタイプです。私も今まで本当にたくさんの地震を観察してきましたが、このタイプは初めてです。
 震源が富士山の直下深さ14キロだそうです。正確に言うと、山頂から南西に数キロの位置です。富士宮市北部直下。
 このあたりの大きな断層と言えば、そろそろ大地震を起こすだろうと言われている富士川河口断層帯(日本最大の活断層)があります。最初、揺れを感じた時、富士川かな!?と思ったのですが、どうも違うようです。
 富士山直下だからと言って、火山性かというと、これまた違うような気がします。揺れのタイプとしては断層タイプの揺れに近かったのではないでしょうか。
 富士山直下を震源とする地震は日常的に結構発生しています。ただし、ほとんど気づかない程度の小さな揺れです。火山性微動というやつです。富士山は若くて元気な活火山ですから、マグマの活動も案外活発なんですよね。こんな大きな火山なんですから当然です。
 少し大げさに言うと、富士山は4枚のプレートが東西南北から押し合いへし合いして出来た山です。そのくらいの力が働かなければ、こんなに立派な山はできません。常にストレスがかかっているとも言えます。
 11日の東北地方太平洋沖地震は、太平洋プレートと北米プレートのぶつかっている部分で発生しましたから、富士山にかかる東西南北の力のうち、東と北からの力の関係が変化したと言えます。
 ですから、昨日書いたように、東北関東の地震と東海地震、そして富士山の噴火の関係がないというのは、実にナンセンスな話なのです。地球上の地震や噴火は全て関係しているとも言えますから。
 今日の地震の震源の深さは14キロ。これは最近確認されたマグマ溜まりの深さと一致しています。先日の大地震が富士山のマグマになんらかの影響を与えたのかもしれません。あるいはそれを取り巻く地殻の方に今までと違う力がかかって破壊されたか。いずれにせよ、マグマの圧力というのも無関係ではないでしょう。
 かと言って、すぐに富士山が噴火するかというと、それはありません。100%とは言えませんが、とりあえず明日はありません。噴火にはもっといろいろな兆候が現れます。地震よりも予知がしやすい自然現象です。
 まだ詳しいデータが入手できてないので、現段階ではこのくらいしか書けません。ただ、気象庁が言うように、東北の地震や東海地震との関連性は薄いというのは納得できません。11日の大地震は日本列島全体に大きな影響を与えています。今まで均衡を保ってきた力関係が各所で崩れており、それが安定に向かって動くのは自然の理なのです。
 さて、実を言うと、今日の夕方、また変な雲を発見して写真を撮っていました。これは正直ビックリしました。富士吉田市の北麓運動公園のあたりを富士山に向かって移動中、目の前に突然「龍体」が立ち上がったのです。地元の方なら分かると思いますが、煙が立つような所ではありません。車を停めて写真を撮った時には少し形が崩れてしまったのですが、そのある種異様な感じはお分かりになると思います。
 これももしかすると今回の地震の兆候だったのかもしれませんね。富士山自体にも歪みが起きていて、さまざまな物質がしみ出てきているのかもしれません。

Gedc0304

Gedc0305

 昨日書いたように、これからも「自然との対話」をしっかりしながら、科学とは違う、本来全ての生命が持っていたであろう「何か(霊感とか言うとオカルトになってしまいますが)」によって、自然との協調を和合を図っていこうと思っています。また何か見つけた際にはここで紹介します。
 まだ余震の危険はあります。あるいは連動して近辺の断層が動くかもしれません。そしてもちろん富士山の動向にも注意です。
 参考までに史実を記しておきましょう。
 864年、富士山は青木ケ原樹海を形成する西麓からの大噴火を起こします。貞観の噴火です。そして5年後、869年貞観の三陸沖地震が起きます。この地震は今回の大地震と非常に似た地震でした。岩手県沖から茨城県沖にかけての連動地震で、津波による被害も甚大だったと言います。さらにその8年後、887年には仁和の南海地震が起きました。最近の研究では、この地震は東南海・東海地震と連動していたことが分かりました。こちらも西日本を中心に大変な被害を出したという記録が残っています。
 
PS 今回の地震、私の住む鳴沢村はなぜか震度2と発表されました。ぜったい地震計壊れてます。間違いなく5強でした。あるいは6としてもいいかも。ちゃんと直しておいて下さい!
 では、とりあえずおやすみなさい。

PS その後の余震の震源は我が家の直下となっています(笑…えない)。つまり断層というよりも、富士山のマグマ溜まり西辺での地震だと考えて良いと思います。

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2011.03.14

2011年3月14日 今日の富士と空

 日や今日は、当地方でもいやに暖かく、そしてぼんやりした一日でありました。もちろん、それこそが「春」らしさであり、別に不思議なことではないかもしれません。
 しかし、なんとなくいつもと違うような気がする。もちろん、これは私の気分によるものかもしれません。いや、世の中の雰囲気が影響しているのかもしれない。
 それでもやはり記録しておこうと思います。昨日の記事のように記録しなかったことを後悔したくないからです。
 地震が起きると、あるいは起きる兆候があると、地殻に今までになかった空間が出来、そこからある種の帯電イオンが大気中に放出されると言います。それにホコリやチリが付着して、大気エアロゾル粒子となります。そうした粒子が増えると、広範囲のエアロゾルとなり、霞や霧として私たちの目に見えるようになると言われています。
 地震雲にもエアロゾル起因のものがあると言われています。あくまで一つの説ですが。
 さて、今日はまさにそうしたエアロゾルの多い状態だったようです。何枚か写真を紹介します。今日はどうもカメラの調子が悪く(福島原発と同じGE製だからか?)、全体にピントが甘くてすみません。

 山梨県富士吉田市下吉田より3月14日09時59分(±3分)
 飛行機雲もたくさん出ていましたが、これはそれとは違います。朝のうちはまだ「青空」でした。

Gedc0294

 3月14日10時00分(±3分)
 パノラマで撮ってみました。ちょっとつなぎ目が変ですね。富士山の形が歪んでいます。撮影の失敗ですね。しかし、全体像はわかるのではないでしょうか。東の方から霞(うす雲)が張り出しています。 

Gedc0295

 3月14日10時07分(±3分)
 すじ雲が南西から伸びてきましたね。きれいです。

Gedc0297

 3月14日14時34分(±3分)
 午後になると、ずいぶんと霞んできました。明日天気が崩れるでその兆候かもしれません。

Gedc0298

 3月14日14時35分(±3分)
 太陽の周辺には彩雲も現れています。空気中になんらかの粒子(水蒸気も含む)が多い状態ですね。

Gedc0301

 3月14日14時35分(±3分)
 なんとなく気味の悪い空です。

Gedc0302

 ちなみに原発事故でもエアロゾルは発生します。チェルノブイリの放射能を遠くまで運んでしまったのはエアロゾルです。もちろん今日のエアロゾルは福島原発事故起因のものではないと思いますが、いずれそういうことが起きないとは言いきれない状態です。そうなってほしくありませんが。
 また、富士山付近でこのようなエアロゾルが観察されたことによって、ただちに東海地震が起きるとか、富士山が噴火するとか、そういうことは言えませんので必要以上に心配なさらないでください。
 あれだけの地殻変動が起きたのですから、まずはその関係であると考えるのが妥当でしょう。
 今までの地震の歴史を調べてみますと、三陸沖の大地震と、東海・東南海・南海地震との相関関係が多少見られます。後者と富士山の噴火とは密接に関係していますから、非常に大きな目で見れば(地球の歴史を俯瞰的に見れば)三者は兄弟のようなものだとも言えます。
 しかし、あくまでそれは神のような広大な視点で見た場合であり、時間的なスパンは数十年単位になりますから、今日明日、あるいは今年来年に中部や西日本で何かが起きるということではないのでご注意を。
 それよりも、今回大きく動いた太平洋プレートや北米プレート上の断層地震に注意すべきでしょう。東京ももちろんそこに含まれます。12日の中越・長野北部の地震も基本的にその類だと思っていいでしょう。
 いずれにせよ、こうして自然からのメッセージを受けとることはとても大切だと思います。科学的な分析や観測ももちろん大切ですが、古来私たち人間が行なってきたであろう、自然との交流、神との交流を忘れてはなりません。こういう時だからこそ。

 追伸 そう言えば今日はワンセグの電波状況が通常とはずいぶんと違いました。大気の状態と関係あるかもしれません。

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2011.03.13

2011年3月3日…富士山と地震雲

 のたびの東日本大震災、本当に言葉にならない衝撃を受けています。被災された皆さまに心からの愛隣と激励の気持ちを送らせていただきたいと思います。
 このタイミングでこの写真を掲載することには多少のためらいがありますが、今後の地震予知に少しでも役立てばと思い公開に踏み切ることといたしました。
 私は小学生時代から地震予知を一つのライフワーク(趣味?)にしています。いろいろなアプローチがある中の一つが「地震雲」の発見と観察です。
 最近ではこちらに地味ながら紹介しています。11月30日、東日本全体が揺れた深層地震の日の朝です。
 気になって写真に撮るのは年間数回しかないのです私が、今月3月3日にどうしても気になって撮ったのが、今日紹介する写真です。
 しかし、その後、年度末の忙しさからか、この写真を撮ったことを忘れていました。今日、写真の整理をしていて見つけ、そして思い出したという次第です。
 今思えば、その日のうちにでも記事にしておけば…いや、何の力にもならなかったかもしれませんね。いずれにせよ無念です。
 富士山は、その独特の形から不思議な雲をたくさん産み出します。見慣れていない方にとっては、日常的に現れる様々な造型にさえも驚きやある種の異様さを感じることでしょう。しかし、もう30年近くにわたってこの地に住み、毎日のように富士山やそれを取り囲む雲たちもを見ている私にとっては、それらはまさに日常です。しかしその一方で、このようにあえて撮影する雲というのがたまにあるわけです。それらには、やはりそれなりの特殊さがあるのですね。
 それを理屈で説明するのは難しいのですが、ある種の直感といいますか、私なりに感じる「異様さ」があるわけです。非日常的な、大きな力が空間に満ちているというか…。
 これをただちに「地震雲」であるとは言いたくありません。特に今回のような大地震、大惨事が起きてから、いわば後だしジャンケンのように、実は…と語り出すのは気が引けます。
 もちろん、これによって私が地震予知を成功したわけではありません。実際忘れていたわけですから。しかし、事実として発生8日前に、年に何度かしかない「異様さ」を感じたのですから、これからのためにこうして皆さんに見ていただくことに意味がないとは言えないでしょう。

 山梨県富士吉田市下吉田より3月3日12時05分(±3分)
 富士山上空にあまり見かけないタイプのすじ雲というか、帯状の龍体が現れています。北東から南西を結ぶ方向に伸びています。山頂から東に伸びる雲は、上空の偏西風によってできるよくある雲(山旗雲)です。

Gedc0266

 3月3日12時05分(±3分)
 そのすじ雲の影でしょうか、富士山の北東面の5合目から6合目付近に珍しく横線が走っているように見えます。

Gedc0267

 3月3日12時29分(±3分)
 しばらくたっての様子です。龍体は消えているように見えます。しかし上層の雲にも北東から南西への流れが見て取れます。

Gedc0268

 3月3日12時29分(±3分)
 太陽を含む上空の全体像をご覧下さい。ちょっとピンボケです。北東から南西の流れのほかに、それと垂直に交わる流れもなんとなく感じます。

Gedc0269

 3月3日12時30分(±3分)
 相変わらず北東面の光と影のラインが見えます。これがどういう仕組みで現れているのか、正直よく分かりません。とにかく見かけない光景です。

Gedc0270

 3月3日12時30分(±3分)
 あまりに不思議なので、ズームアップしてみました。どういう現象なのでしょう。

Gedc0271

 3月3日12時38分(±3分)
 8分ほど経っての画像。富士山の背後(南西方向上空)に、いわゆる洗濯板状の雲が現れました。やはり、北東南西方向に伸びています。

Gedc0272

 いかがでしょうか。この不思議な雲や光と影が、はたして今回の東北地方太平洋沖大地震と関係しているものか、それは全く分かりませんが、ただこういう事実があったということを知っていただきたく記事とさせていただきました。
 ちなみに全く関係ありませんが、この写真はこちらGE社製のデジカメで撮影しました。そして、福島第一原発の原子炉1号機と2号機は米国GE社製です。

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2011.03.12

惟神霊幸倍坐世…言霊とは

 神(自然)の猛威と加護の前では、人間の言葉、特にこうして無制限に拡散していく言葉があまりに無意味で無力であることに茫然としています。
 いや、言葉の力で救われる方もたくさんいらっしゃるでしょう。もちろん、それはよく分かります。
 ただ、自分の言葉に関しては、何を言っても何を書いても、なにか空しいばかりなのです。
 悪態をついても、美しい言葉をはいても、それらは所詮「偽悪」だったり「偽善」だったりする気がするんです。それはどちらも「自己満足」でしかない。もしかすると「嘘」を言っているのかもしれない。
 今、Twitterにもmixiにもブログにも掲示板にもテレビにも、そういう、社会言語に見せかけた個人言語が跋扈しているような気がします。自分の発言、表現も含めて、それらに対しふと気持ち悪さに襲われる瞬間があるのです。
 ごめんなさい。まさに「不謹慎」な言葉だったかもしれませんね。でも、一瞬でもこうして正直な自分になりたいような気もするのです。
 なんて、これもまた「自己満足」に過ぎないのでしょうか。ただ、「言葉」を超えた、「言葉」に依存しない、「祈り」や「願い」や「物忌み」もあると思うんです。おそらく、古来日本ではそうやって神の怒りのおさまるのを待ったのでしょうし、神の慈悲を待ったのでしょう。
 惟神霊幸倍坐世…こういった祝詞や呪文やお題目というのは、もしかすると「毒をもって毒を制す」、つまり私たちの語りすぎ、話しすぎ、しゃべりすぎ、つぶやきすぎ、書きすぎを、「言葉」によっておさえこむ智恵だったのかもしれません。
 「言霊」とは、偽の言葉すなわち自己満足の言葉を封じ込める、真の言葉の力のことなのではないでしょうか。そんな気がしました

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2011.03.11

惟神霊幸倍坐世

 富士山より艮の金神様のお怒りが収まることをお祈り申し上げます。
 多くの命に神仏の加護あらんことを。
 私の不謹慎な予言が図らずも的中してしまった形になってしまいました。
 涙が止まりません。

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2011.03.10

無線LAN内蔵SDカード『Eye-Fi』

Px2_angle_connectrgb れは便利!すごい。
 夢に描いていたものが、実はもうこの現実世界に存在していたという感じです。
 いや、私はちょっと違う発想をしていたんですよね。どこかにも書いたような記憶がありますけれど、私はBluetooth内蔵のデジカメというのを想像していたんです。
 それがねえ、まさかカードにWi-Fi機能が搭載できるとは…。
 デジカメって非常に便利で優秀で、ケータイやスマートフォンやゲーム機に搭載のカメラまで含めますと、もうほとんど全ての国民が所有し活用しているものだと思います。
 しかし、その撮りためた画像は、そのままカメラに収納しておくわけにはいきません。ちゃんと見るため、あるいは加工するため、また永久的に保存するためには、どうしてもパソコンへの転送を余儀なくされます。
 その転送方法というのは、カメラ本体をUSBケーブルでパソコンにつなぐか、あるいはカメラ本体からメモリーカードを抜いてそれをカードリーダーに挿入してパソコンと接続するかしか、基本ないわけですね。
 で、その両方のやり方というのが非常に面倒くさい。コードがどっか行ってしまったり、リーダーが見つからなかったりするともう最悪です。そういうことって結構ないですか?
 だから、常々、無線でアップロードできたらいいのになと思っていたのです。そして、その機能をカメラ本体に持たせれば、絶対便利だし売れるのになあって勝手に思っていたのです。
 う〜む、そうかぁ。カメラじゃなくてカードに無線機能を搭載するのかぁ。その発想はなかったなあ。というか、もしかすると一瞬思ったかもしれないけれど、なんとなく技術的、物理的に不可能だと思って却下していたのかもしれませんね。
 そんな夢のようなSDカードが、実はもうすでに存在していたと、そういうわけです。
 私、早速手に入れました。ちょうどアマゾンのポイントがたまっていたので、それで購入させていただきました。4Gで5000円くらいというのは、単なるメモリーカードとして考えると、今のご時世かなり高く感じられるかもしれませんが、この便利さからしますと、もしかすると実はとってもお買い得なのではないかと思われます。
Sdhc_lan_eyefi 最初に10分くらいかけて設定してしまえば、もうあとは全自動。電源の入ったデジカメが指定したWi-Fiの圏内に入れば、指定のパソコンの指定のフォルダ(私の場合はMacのiPhotoフォルダ)に勝手に転送されます。
 設定も詳細にわたってできますのでいろいろな使い方ができますね。転送速度もまあまあです。ほら、私、ここにも書いたようにGEの格安デジカメを300万画素にまでスペックダウンさせて使っているじゃないですか。ファイルサイズ小さいので、転送速度もストレスになりませんし、4Gでも充分なんですよ。
 あっ、ちなみにウチのGEのデジカメ2機種両方ともで問題なく使えました。GE、公式サイトには対応デジカメとして掲載されていませんが、大丈夫です。というか、基本どんなデジカメでも大丈夫でしょうね。
 それから詳しくは公式ホームページをご覧いただきたいのですが、オンライン・ストレージやその他のサービスもなかなか充実しています。これは普及するんじゃないでしょうかね。これからどんどんクラウド化が進めば、デジカメのファイル管理も基本こういう形になるでしょう。
 そうそう、エンドレス・モードっていうのがあって、使い勝手としては容量無限のメモリーカードとして使うことも可能なんですよね。つまり、ある一定量のファイルが(デジカメにとっての)クラウドに保存されると、カード上の古いファイルから順に削除されていくのです。これまた便利ですね。カードの残量を気にしなくていいというのは、精神衛生上非常にいいことです。
 あと、このカードを買って登録すると、iPhoneのアプリも使えるようになります。すなわち、iPhone自体がこのEye-Fiを搭載したデジカメのようになるということです。iPhoneのカメラで撮影した画像をパソコンに転送するのが非常に楽になります。今まではdropboxなどを介して行なっていたのですが、これにらって本当にワンタッチでiPhotoへ転送できるようになりました。
 アドホックモードや位置情報に対応した上位機種もありますけれど、ほとんど人にはこの機種で充分だと思いますよ。皆さんもぜひこの便利なアイテムをゲットして、快適なデジカメライフをお送り下さい。おススメです。

Amazon Eye-Fi Connect X2 4GB EFJ-CN-4G

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2011.03.09

初音ミク他 『3月9日』

 日は3月9日。毎年書いているように、レミオロメンの「3月9日」の日でもありますし、舞踏家土方巽の誕生日でもあります。土方の本名は「米山九日生(くにお)」。かっこいいネーミングですよね。そして、私の音楽仲間の誕生日でもあります。カミさんにとっては、39、つまりサク、桜庭和志にちなんだ日でもあるのだとか。
 そんなことをTwitterでつぶやいたら、教え子から「みく」の日だという返信が来ました。彼女の名前は「未来」です。そっか、なるほど39で、「みく」か。じゃあ、初音ミクの日でもあるのかなと思って調べてみたら、去年「ミクの日感謝祭 39's Giving Day」というのが行われていて、その流れで今年も「ミクパ」というライブ・イベントが行われてるんですね。
 もう、すっかり世界的メジャーになってしまったボーカロイド「初音ミク」。私も今まで、彼女たちの歌う(?)バッハの「マタイ受難曲」や「6声のリチェルカーレ」なんかを紹介してきました。もうこれは日本初の新しい音楽文化であります。
 で、どうせなら、初音ミクに「3月9日」を歌ってほしいなあと思いまして、検索したら、ホントにありましたよ!ww
 もうジャンルを問わず、ほとんど全ての「歌」という「歌」は、ミクのレパートリーになっていますね。おそるべし、初音ミク。古楽からクラシック、ジャズから演歌まで、選り好みせず歌う彼女はホントに偉い!と、カミさんは常々申しておりまして、最近ではミクのものまねに余念がありません。生身の人間が機械の真似をするという、実に不思議な、しかし何か象徴的な現象が我が家では起きております。たしかに真似もうまい。ただ、ミクは息継ぎしませんからね、そこだけは再現不可能ですな。
 この「3月9日」は合唱版ということで、初音ミクのほか、鏡音リンとレンがそれぞれ複数名(笑)参加しているようです。
 どうですか、まさに今日にふさわしい演奏ですよね(笑)。まったくもって日本人というのは面白いものを発明するし、それでよく遊んじゃいますね。すごい国です。
 今日、レミオロメンは「“Your Songs” with strings」というスペシャル・コンサートを行なっております。先のツアーで、私がこのように苦言を呈したのが伝わったのか(?)、今回はホンモノの生演奏で勝負するそうです。いいことですね。
 Your Songsという曲には、こちらに書いたように、フジファブリックの志村正彦くんの魂が受け継がれています。山梨を代表する二つのバンドが、この日にこうしてコラボすることに、私は感動を抑えきれません。ぜひ私ももう一度この曲を生で聴いてみたいと思っています。
 そうそう、レミオロメンと言えば、藤巻亮太くんが作詞作曲した、笛吹高校の校歌がこちらで紹介されていましたね。
 この曲、いわゆる校歌の王道に則りながら、微妙に藤巻節が聴かれて、なかなか面白いですね。Twitterでもつぶやきましたが、最後の音が3度(ドが主音だとするとミ)で終わっている不完全終始の体裁をとっています。これは非常に珍しいでしょうね。5度(ソ)は聴いたことありますが…。
 校歌と言えば、ウチの中学も志村くんに校歌を作ってもらうつもりだったんですがね…何度も書いているとおり、その話をしにいくつもりだった日の前日に、彼の訃報に接することになりました。もし、私の夢が実現していたら、いったいどんな歌になっていたのでしょう。いろいろ想像するにつけ、実に残念な気持ちにならざるをえません。

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2011.03.08

両国国技館が望むもの

Photo 、サムライTVのSアリーナに、先日両国国技館でデビュー戦を終えた橋本大地選手が出演していました。
 私は試合は観ていませんが、今日紹介された試合前&試合後の映像、そして大地選手、いや橋本選手の言葉を聞いて、その内容が十分に想像されました。対戦相手であった蝶野正洋選手も感無量であったことでしょう。
 2戦目は21日。場所は再び両国国技館。対戦相手はなんと武藤敬司選手。素晴らしい。
 もちろん、故橋本真也さんの息子さん、遺志を継ぐ男としての特別待遇であると思います。体も出来上がっていない高校3年生ですし、技もまだまだです。
 しかし、プロレスにはこういう「物語」が必要ですし、よく似合うんですよ。
 そして、そういう、日本中のプロレスファン、プロレス復興を願う人の期待を受けて、橋本大地選手は本当によく頑張ったと思います。生半可な気持ちではないでしょう。まあ、あの大谷晋二選手が面倒を見ているわけですから、中途半端は許されないでしょうけど。
 プロレスの醍醐味は単なる勝敗にあるのではありません。大きな壁にぶつかっていく姿、倒れても必死に立ち上がる姿、負けても這い上がる姿、そういう「魂」の部分を表現することこそ大切な要素です。
 世の中が実に味気なく、世知辛くなっていく中、こういうドロドロした熱い人間ドラマの世界、リアルとファンタジーの交錯する豊饒なる世界が必要だと思います。だから、今こそプロレス界は本気にならなくてはいけません。
Photo_2 両国国技館と言えば、先ほど、元大相撲力士の舞の海さんが、例の八百長問題に関して貴重な発言をしていましたね。
 「相撲は伝統芸能、神事、格闘技の要素を融合させ、先祖が知恵を絞って引き継いできたもの。単なるスポーツとして(改革を)推し進めれば必ず廃れる」「金銭のやり取りというシステム化は許されないが、人情相撲という言葉があるように、武士の情けが取組に出てしまうことはある」
 非常に良識的な発言だと思います。こんな当たり前なことをなぜ協会も世間も認めないんでしょうね。相撲界というよりも、日本国民全体がどうかしていますよ。
 両国国技館が望むもの、それは、肉体と肉体、魂と魂とのぶつかり合いが生み出す「物語」であるはずです。
 今、協会は興行収入がない状態ですから、こうしてプロレスなどに国技館を貸し出して少しでも稼ごうとしています。私はそれも必然だと思うんですよね。国技館自身がそれを望んでいるからです。
 本当の意味での「国技」は、こうしてプロレスに受け継がれていくのかもしれません。地方巡業も靖国神社への奉納も、そしてショッキリも花相撲、人情相撲も、みんなプロレスに生きているじゃないですか。
 どうせなら、力士の皆さん、みんな力士廃業してプロレス界においでください。
 

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2011.03.07

ミシェル・ペトルチアーニ at Mt.Fuji


 
 ごい演奏ですねえ…Beatiful Love。
 先週の金曜日、知り合いのジャズ・ピアニストの卵くんが遊びに来まして、いろいろ観たり、聴いたり、弾いたりして遊びました。
 まずは、グラッペリのDVDグラッペリとペトルチアーニの共演を観賞。
 そうこうしている内に、ヴォーカリストであるカミさんが帰ってきたので、にわかトリオを結成、私は久しぶりにアコースティック・ベースを出してきて、スタンダードを何曲かアドリブで演奏しました…いや、私、ベースはホント久しぶりだったので、どこが何の音かも忘れてる!おかげでとんでもなくプログレッシヴなジャズとなりました(笑)。ごめんなさい。
 そして、最後はなぜか「ゾーッとする(痛い)音楽の特徴は何か」という話になりましてね、実際何曲か実例を聴きながら、みんなで大笑いしていました。あちゃ〜、やっちゃった…ってやつですね。
 で、結論としては、やっぱり「ドミソ」は「不快和音」だということですね。ペンタトニックの曲、特に和声音楽ではない、たとえば純邦楽なんかでは、基本「痛い」ことにはなりえないんですよね。
 つまり、5音に2音加えてしまって7音にしてしまった上に、本来あり得なかった「長3和音」なんか作っちゃったのが悪いのだと、そういう結論になりました。ま、正解でしょう(笑)。
 で、いつも書いているように、西洋音楽においては、その「恥ずかしい」「痛い」和音である「トニック」やら「ドミナント」やら「サブドミナント」やらを覆い隠すように、様々なテンションコードが発明されていったわけです。
 そこに、さらに世界中の智恵や技を投入して、毒をもって毒を制す、西洋楽器と西洋音楽のスケールを遣いながら、西洋芸術音楽をぶっつぶしたのが「ジャズ」であります。面白いですね。
 で、彼との話の中で、「ペトルチアーニはいい!」ということになりまして、私も久々にいろいろ引っ張り出してきて聴いてみました。うむ、たしかにいいですねえ。独特の世界です。
 そう、これは微妙なことでもあるんですけれど、彼のハンディキャップはクラシックの世界で言えば、残酷とさえ言えるほど絶望的なものです。彼にとってはピアノはあらゆる意味で大きすぎます。しかし、あえて近代西洋芸術音楽を、いや近代そのものを象徴する「ピアノ」という暴力的な工業製品によって、こんな叙情的な世界を作ってしまうなんて、それこそ神業ですよね。
 完全を要求する楽器の敗北宣言でしょうか。人間の目指す「完全」なんてものは、実は「不完全」であって、本当の「完全」とは、私たちにとっては一見「不完全」に見えるものなのかもしれませんね。
 上の動画、私にとっては非常に懐かしいものです。この現場に22歳になったばかりの私もいました。ペトルチアーニも言っているとおり、富士山の力によって、このジャズ・フェスティバルはそれこそ神懸かり的な演奏を多く生み出しました。また、やってくれないかなあ…山中湖村さんお願いしますよ〜。それ以前にスポンサーが付かないのか…。
 しかし、もうこの世ではペトルチアーニの演奏は聴くことができません。グラッペリもいません。いや、きっとあちらの世界でこの二人、毎日セッションしているかもしれませんね、富士山の上空で。ペトルチアーニ、けっこうガンガン来るので、グラッペリも若返っちゃうんですよねえ。楽しいだろうなあ…。

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2011.03.06

ファッション・言葉・デザイン・心

20110307_80343 勤の予定が急遽家で仕事に。なんとなくテレビをつけながらボチボチたまった仕事をしておりました。
 Twitterなるものをやり始めました。というか、実は今までもほぼ毎日つぶやいてはいたのです。しかし、それは学校のアカウントでのことで、つまり保護者に向けて学校生活の様子を毎日つぶやいていたわけで、個人的な言葉ではなかったのです。
 自分のアカウントも昨年のこの時期に取っていたわけですが、私には(いちおう)しっかりと編集された「言葉」、すなわちこうしたブログや、短歌という表現方法があったので、あまり興味がなかったのです。
 しかし、いろいろなところからのリクエストもあり、では、ちょっとやってみようと、今日あたりから少しずつつぶやいてみているわけです。
 FujizoushiBotという名から分かる通り、どうも機械が自動的に発言しているようです(笑)。ですから、仕事時間中のつぶやきは私自身ではありません。学校用のつぶやきに専念しているので。
 さて、今日のつぶやきの中にもありましたとおり、今我が家の周辺は野鳥で溢れております。今日もいろいろな種類の鳥たちが来ていました。
 富士山麓には約150種類の野鳥がいるのだとか。実際、あまりにいろいろな種類の鳥が来るので、どれがどれか全く分かりません。名前が覚えられません。てか、基本あんまり興味がないのかな、日常的すぎて。カミさんの方は図鑑片手に「あれは○○だ!○○が来た!」などと、猫たちと一緒に興奮しております。
Dscn0753t_s 今日はエナガが来ていました。なかなかシックなデザインの鳥ですね。時々赤や青を配したちょい派手な鳥もいますけれど、基本、日本の鳥たちはシックですよね。熱帯の鳥たちとはずいぶん違う。
 もちろん、それは環境たる植物の色彩に影響を受けた結果ですが、またその結果、ある意味性格も地味でおとなしめになるという事実もありますね。オウム類とか、けっこううるさいし獰猛ですよ。
 そんなことを考えていたら、BSで「東京ガールズコレクション」が始まりました。昨日代々木体育館で行われたんですね。今や、世界のファッションショーの最先端を行くようになったTGC。モードからファッションを解放して、民衆のトレンドを文化にまで押し上げたこのイベント。今年でもう12回なんですね。
 そうそう、3年前に私こんなことを書いていますね。リアルクローズと俳句と民芸か。「痛い」間際のギリギリ感が「カワイイ=萌え」か。なるほど面白い考察だ(笑)。
 で、今日も興味深くその現象を観ていたわけです。しっかしすごい盛り上がりだな。一度行ってみたいな。男子禁制とかじゃないですよね?おっ、男もいるいる。
Void0 たしかにモデルさんたちステキですね。これは私からするともう「カッコイイ」であって、「カワイイ」ではないような気がします。モデル体型でモデル顔だったら、全然「痛い」の間際ではない。たとえば、この土屋アンナなんか、これ、一般人にはできませんよね。「痛い」どころか、ギャグにすらならない。逮捕されます(笑)。
 しかし、このある意味過激なクローズさえも、ずいぶんと彩度が低いですよね。今回はもちろん春夏ファッションなんですが、まるで秋冬かと思わせるほどに、全体の彩度が低い。日本的な自然とでも言いましょうか、日本野鳥の会的とでも言いましょうか。
 これって、やっぱり世の中の風潮、空気を受けてのものでしょうかね。まさに「空気を読んだ」ファッション。このご時世、いくらギャルたちと言えども、熱帯雨林のオウムのような格好はできないということでしょうか。面白いですね。
 そして、最終的に思ったのは、これはやっぱり「デザイン」だなということ。「デザイン」については、たとえばこちらに書きましたね。そこにも「ちょっとはずすと野暮になってしまう危険もある微妙なスウィング」という表現があります。なるほど(笑)。
 建築や言葉も一緒なんですよ、実は。ギリギリの中にいる自分の方が問題なのです。そのデザインの中にいる自分の心が問題なのです。
 野鳥も実はそうしてキャラを作っているのかもしれません。ギリギリ自分を保てる、ギリギリ社会との関係を保てる、そういうところに、我々は生命力を感じるんですよね。自分は生き生きとし、他人を見ては「カワイイ!」と思うんです。
 というわけで、私も最近は自分をしっかりデザインしようと考えているんですよ。「痛い」ことにならないようにね。

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2011.03.05

前川清 『花の時・愛の時』

 日の「NHKのど自慢チャンピオン大会」ご覧になりましたか?
 Twitterでも思わずつぶやいてしまいましたが、グランドチャンピオンになられた斉藤光壱さんの歌唱が本当に素晴らしかった。歌にはかなりうるさいカミさんも号泣していました。
 斉藤さんはブラジル移民の3世。来日当初は言葉の問題もあって大変苦労されたようです。つまり、彼は日本語を外国語(第二言語)として習得したことになりますね。もちろん日系ですから家庭の中に日本語があったことでしょう。しかし、基本はネイティヴではないわけです。
 だからこそでしょうかね、非常に日本語を大切に歌われていまして、それが私たちの心に響いたんです。他の純粋な日本人の方々は、もちろん日本語に不自由はないわけですが、なんというか、あまりに当たり前に接しているせいでしょうか、上手だけれど魂がこもっていないというか、不思議と言葉が伝わって来なかったんです。ちょっとびっくりしました。
 ほら、私も外国の音楽をたくさんやるじゃないですか。来月もベートーヴェンをやることになりました。それも声楽曲です。そういう時、いつも大きな疑問を持っていたわけです。現代日本人が、18世紀とか19世紀とかのヨーロッパの曲を演奏するなんて、根本から間違っているんではないかと。言葉や習慣や伝統が違うのに、こんなにずうずうしく楽しくやっていていいのかと。
 まあ、そんな理屈抜きに好きだし感動するわけですから、実際は割り切っていましたけれど、どこか引っかかっていたことは確かなんですよね。
 それが、今日の斉藤さんの歌唱で氷解したような気がしました。大げさでなく、逆にネイティヴじゃないからこそ美しく表現できるのではないかとさえ思ったのです。それほど素晴らしかった。夫婦で、「この人がグランドチャンピオンにならなかったら八百長だな(笑&泣)」なんて言うほどでした。彼15人中6番目に歌ったんですが、その時点でそう思ったのです。
 明日日曜日のお昼にBS2で再放送がありますから、ぜひご覧ください。歌唱のみならず彼を取り巻く様々な日本語が全て美しかった。
 それから、斉藤さん以外ほとんど全ての人に共通していたんですが、歌い出しでほとんど失敗していました。私も楽器の演奏の際、最も難しいのが弾き出しであるということをよく理解しています。それから、音の終わりもそうですね。今日の皆さんも「歌いっぱなし」「出しっぱなし」が多かった。カラオケならそれでいいんですけどね。しっかり最後まで、そして細部にわたるまで魂をこめないと…なんて、私が偉そうに言えることではありませんが。
 そういう意味も含めまして、こういう上手な素人の大会を聴きますと、いかにプロ歌手がすごいかよく分かりますねえ。ゲストのお三人、坂本冬美さん、瀬川瑛子さん、森進一さん、それぞれテクニック以上に個性が光っていましたね。本当の歌手は、なんというか伝道師というかある種の「イタコ」でなければなりませんね。あちらの世界からのメッセージを伝える力が必要なようです。
 そして、カミさんと二人、共通した感想としてやっぱり「美空ひばりはすごい!」と。ある意味この大会とは全然関係ないし、歌も話も実際には出てこなかったのてすが、全ての歌や歌手の後に、完璧なひばりさんの世界があるんですよねえ。もう現れないでしょう、ああいう歌姫は。神の領域ですね。
 さてさて、ようやく今日のテーマ「花の時・愛の時」です。グランドチャンピオンの斉藤さんがお歌いになったのが、この前川清さんの曲でした。
 これがまたいい曲なんですよねえ。この曲は前川さんがクールファイブから独立してソロになった時の、第1弾シングルです。
 作詞はなかにし礼さん、作曲は三木たかしさんです。両巨頭によるこの楽曲、ある意味コテコテの王道を行っていますね。しかし、聴けば聴くほど味わいの出る深い曲です。別に新しいことをやっているわけではないのに、いや、だからこそでしょうか、心にしみる名曲ですね。
 たしかに前川清さんの歌のうまさも光ります。しかし、今日の斉藤さんは本家をもしのぐ歌唱を聴かせてくれましたよ。ものまねではなく、歌や言葉をご自分の世界に引き込んでいましたね。
 とにかく再放送をご覧下さいませ。私も録画したいと思います。
 あっそうそう、斉藤さんがブラジルの95歳のおばあちゃんについて語る時、「〜していただいた」と敬語を使っていましたが、テロップでは「〜してくれた」と直されていました。ブラジルのみならず、日系人の日本語には、古き良き時代が残っています。文法的に、あるいは慣習的にどうだというよりも、彼のおばあちゃんに対する気持ちを優先してほしかったような気がします。

↓アップされてました!

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2011.03.04

リスが来た! by ミー

 近しと言えども、ここ富士山はまだまだ冬景色。昨日は予想外にたくさんの雪が降りましたし、今朝はマイナス14度。日中の最高気温も1度。
 しかし、こんな寒さの中でも外の動物たちはみんな元気。と言いますか、ここ富士山に来て初めて知ったのですが、冬の動物たちは案外活発だということです。
 冬眠してしまうクマやヤマネなどは別として、 ニホンリスや多くの鳥たちはエサを探すのに一生懸命で、他の季節よりも元気なんですよね。
 今日もとっても元気なリスちゃんが、我が家の裏庭(正確に言うとお隣さんの庭ですが…笑)にやってきたそうで、カミさんがデジカメの動画でそれを撮影しました。カワイイ!
 で、ウチの中には自宅警備をしている黒猫が3匹いまして、そうした動物たち(警備員たちにとっては不審者?)にいろんな反応をするんですよね。
 特に下半身不随猫のミーは大興奮。自分にハンディーがあることなど忘れて部屋中駆けずり回ります。興奮しすぎて失禁してしまうこともしばしば(笑)。
 ま、猫にとっては狩猟本能ですからね、我慢しろというのも無理な話ですね。
 世の中、なんかいろいろ暗いニュースが多いじゃないですか。特に若者が病んでいる、疲れている感じがします。たしかに社会全体が厳しいムードではありますが、ある意味自然界は常にもっともっと厳しいし、今までも当たり前に厳しかったとも言えますよね。
 こうして一生懸命(本人はそう思っていないでしょうが)生きている富士山の動物たちを見ると、人間ももっと「自然に」頑張らなければなと思います。厳しさも「自然に」受け入れて、とにかく「生きる」。こういう時こそ、「自然=世界=他者(私の言う「モノ」ですね)に身をまかせて「自然体」で春が来るのを待つことが大切なのではないでしょうか。
 リスみたいに元気な人はちょこまか何かを探して動き回るのもよし。あるいは、今は「寝て待つ」でもいいじゃないですか。春は必ず来るのですから。

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2011.03.03

バッシングされるべきは誰か

Photo のすごくいやな気分ですね。
 皆さん御存知のとおり、京都大学等の入試で不正をした受験生が逮捕されました。
 この件に関して、私はあえて教育現場の者として言わせていただきますね。
 まず前提として、カンニング、不正はいけないことです。これは教育以前の問題です。ですから、彼がその点で責められる、お咎めを受けるのは当然です。
 しかし、彼だけをバッシング(罰しんぐ)して、それでおしまいというのはどうでしょう。彼に対するのと同様に、あるいはそれ以上に責められるべきところがあるのではないでしょうか。
 今、ウチの生徒たちも大学入試に立ち向かっています。まだ、国立中期や後期が残っています。一生懸命頑張っています。
 そんな受験生の一人がこんな話をしていました。
 彼女がある大学…いや、あえて実名で書きましょう…法政大学を受験した時、監督の先生(と思われる年配の男)が、試験中居眠りを始め、しまいには大いびきをかきはじめたそうです。もう一人の監督官に促され、瞬間起きたそうですが、またすぐにいびきをかきはじめたと。
 ウチの生徒のみならず、受験生みんな集中できず、怪訝な空気が試験会場内にひろがっていたと言います。わざと咳払いをする受験生もいたとか。
 どうですか。これが大学入試の現状です。こういった事例は毎年枚挙に暇がありません。本当によく聞く話なんです。
 京都大学をはじめ、今回山形の彼が受験したそうそうたる大学の監督体制はいったいどうだったのか。私はある程度想像できます。今回のような手口での不正が可能になる程度の監督体制や試験の実施形態にこそ、実は大きな問題があるのではないでしょうか。
 私たちの現場でも、ちょうど明日から学年末試験が行われます。当然、不正に関していろいろな対策をとります。未然に防ぐための抑制策もとりますし、試験中の監督の仕方も練り上げられています。試験後のチェックももちろん怠りません。
 それはある意味当然のことです。なぜなら、「いい点を取りたい」「カンニングができるものならしたい」、彼の場合なら「合格したかった」…こんな感情は人間として当たり前すぎるほど当たり前だからです。
 いや、そんな不正をするくらいなら腹切って死んだ方がましだという立派な大人もいるでしょう。しかし、相手は子どもです。発達の過程にある人間です。そういう「悪心」が全くない方がおかしいとさえ言えます。
 そういうことを前提に、私たち教育者は、そういう「悪心」が行為として発動しないように、教育的配慮を行なうわけです。そこは大人の責任であって、それを怠ることこそ犯罪を誘発する行為として咎められなければなりません。
 それなのに、こうして「偽計業務妨害罪」とかいう、初めて聞くような罪状をもって逮捕するのというのは、これが教育の現場で起きた事件だということを考えると、いや、それをさっ引いても、やはり彼には重すぎる罰であると思います。
 仮にそこの部分は百歩譲って法治国家の必然として許したとしましょう。しかし、マスコミはじめ、多くの国民による過度のバッシングの必要はあるのでしょうか。
 そういう人たちは、例えばですよ、私が「小学校の時、先生が見ていないすきにみんなで答を見せ合った」とか、「実は高校の期末試験で机に公式を書いていた」とか、「大学の時、代返で昼飯代を稼いでいた」とか、「おととい気持ちよく立ち小便した」とか、仮の話ですよ(笑)、そう言ったとしたら、「そんなけしからんヤツが教頭先生とかやっていていいのか!即刻謝罪会見して辞職せよ!」って言うんでしょうね。
 例の海老蔵問題や大相撲の八百長問題の時も書きましたが、そういう社会を作っておいて、そこまで放置しておいて、あるいは自分も似たことをしておいて、何かあるとすぐにバッシング側に回る、そういう「偽善社会」のあり方に非常なる不快感と不信感と危機感を感じます。
 そういう空気がついにここ教育の現場にまで波及してきたのでしょうか。
 ケータイという利器や知恵袋なるお手軽問題解決サイトを作ったのも、全て若者ではなくて大人です。それこそこういうことを言うとバッシングされそうですが、現代のハイテクを使えば、もっと巧妙に不正行為はできます。ある意味彼はその点では無知だったと思います。杜撰であったと思います。
 それは事実であって、そういう利器やシステムを作った我々大人は、その危険性についてもしっかり認知し、その悪用に対する防止策を講じなければならないはずなのです。
 ウチの学校では、そういうことも当然想定して、たとえば間接的にではありますが、このような指導をしています。「100%足がつく」ということを知っていれば、今回のような行為が発動することはなかったでしょう。
 いずれにせよ、大学側の問題こそ、もっとバッシングされるべきです。大学のみならず、大人は我が事として大いに反省しましょう。もちろん、私も反省します。


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2011.03.02

ハンズフリー付き車載パーソナルオーディオ 『TTS-BT1』 (トランストロン)

Ttsbt1_2 た変なもの買ったって言われるかなあ(笑)。
 いや、これは隠れた名品、名機ですぞよ。正直びっくりしました。
 以前書いたように、私の車、エブリイランディのカーステレオが去年壊れまして(漏電等)、それ以来たとえばこちらのスピーカーなどを使ってドライヴ中に音楽を聴いていました。
 でも、あれはあれで便利だけれども、やはり音質もイマイチですし、なんとなく不満もあったんですよね。もっといいものがないかなあ、と日々物色しておりましたら、昨年末これが発売されまして、さっそく飛びついたという次第です。
 しっかし、これいったい誰が買うんでしょうかね。需要があるのでしょうか。どういう人があえてこれを買うのか。私のようにカーオーディオが故障しているとか、あるいは最初から装備されていない車種を買ったとか、非常に非常にニッチな人だと思います。
 バッテリーも搭載していないし、基本家庭用の電源も使えません。また外部入力端子などもなく本当にBluetooth専用です。普通にカーステのある車(ほとんどそうでしょう)の持ち主は買おうと思わないだろうし、車外で使ういわゆるポータブル・スピーカーとしてはもともと選択肢にも入ってきませんよね。
 つまり、これ、私のために開発されたようなものなんですよ(笑)。
 それにしても、このハイスペックぶりには、昔のオーディオ・マニアである私もけっこう萌えちゃいましたよ。もちろん、現代的な意味でのスペックではありますが。
 まず内蔵アンプがCirrus Logic社(製品のホームページではつづりが間違っています!)製の30Wデジタルアンプ。この大きさにしてこの出力。Cirrus Logicと言えばシリコンバレー生まれの最先端技術者集団。プロ仕様デジタル・アンプや各種コンバーター分野では知る人ぞ知る存在です。
 さらにスピーカー・ユニットはAura Sound社製の2インチ15Wフルレンジ。これまた実にマニアック。Aura Sound社は独自のNRT(ネオジウム・ラジアル・テクノロジー)などで有名なメーカーです。同社のサブウーハーは日本でもおなじみでしょう。
 こういうマニアックな製品を作ったのは、日本のトランストロン社。トランストロン社は富士通といすゞの合弁会社です。輸配送業界向けの渋い製品を作っていますね。
 そのトランストロン社によるこの青い筐体がまたなんとも言えませんよね。このデザインはなんか新鮮。なんでこうなっちゃったの。なんでこの色なの。バスレフ構造になっているそうですが、それらしき穴は見当たりません。内部で共鳴させているんでしょうか。
 そうか、この製品、もしかしてトラック用なのかなあ。トラックのオーディオ事情というのもまた特殊ですからね。いやいや、シガーライター12V専用だしなあ…謎。
Photo というわけで、さっそく私、サンバイザーに設置しました。そしてiPhoneとペアリング。
 おお!これはいい音だ!気に入った!
 ほら、カーオーディオって、本当に特殊な世界じゃないですか。車という空間、車自体の雑音環境など、たとえば家庭のオーディオ・ルーム(なんて今ないのか…)とは大違いなわけで、それで独自の発展を遂げたわけですよね。
 しかし、私はそれがあまり好きじゃなかったんですよ。定位ははっきりしないし、ぼこぼこ低音はうるさいし、いわゆる繊細さが全くありません。せっかくのいい音楽も台無しですよね。
 だいいち、音源が正面にないというのは、本当はオーディオとして致命的なんですよね。そこから生じる様々な問題をごまかすために、その独自の発展を遂げたとさえ言えます。
 しかし!こいつは違う!バイザーに設置すれば、完全に正面から音が聴こえます。これはなんか新鮮ですよ。車を運転しながら、正面からの音楽を聴けるなんて!
 音質は本当に言うことありませんね。iPhoneに入れてある圧縮ファイルを再生するには充分すぎます。おそるべし。出力も余裕ありすぎです。最大音量にしたら死にます(笑)。
 iPhoneとペアリングしておけば、iPodのファイルだけでなく、各種インターネット・ラジオも再生できます。これがまたいいですね。3G回線がつながっていれば、ほとんど無数の番組を聴くことができます。最近ではTOKYO FMも聴けるし(ただし富士吉田まで。それ以西はダメ)。
 iPhoneをお使いの方に一つアドバイス。いくらいい音とはいえ、どうしても左右スピーカー間の距離が短いので、中音域のどんづまり感は避けられません。イコライザーで調整したいところです。で、iPhoneではiPodの設定内のイコライザで「Classical」を選ぶと程よい音質になります。ぜひ、お試しあれ。ついでに音量の自動調整もオンにしておくこともおススメします。
 ちなみに、私はこちら家の中でDC電源機器が使える!!【AC-DCコンバータ/ホワイト】を使って、家の中や教室の中でも使えるようにしています。これを車内に置いておくのはもったいない!
 一つだけ注意点を。スピーカー・ユニットが裸でむき出しになっていますから、そこのところだけ気をつけましょう。ついつい触りたくなってしまいます。だって、再生中派手に動くんだもん(笑)。

トランストロンTTS-BT1公式

Amazon ハンズフリー付き車載パーソナルオーディオ 『TTS-BT1』

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2011.03.01

有財でも七施

Photo30101 日のNHKクローズアップ現代のテーマは「岐路に立つお寺~問われる宗教の役割~」でした。
 葬儀業者が経営するハイテク墓地(納骨堂ビルディング)に押され、従来の墓地経営や法事収入が立ち行かなくなる寺が続出していると言います。
 葬儀業者の「○倍の売り上げを目論みます」という言葉になんとも哀しい気持ちになりましたね。ご先祖様はいったいどんな気持ちであのハイテク納骨堂にビルトインされているのだろう。
 もちろん、檀家制度にあぐらをかいた旧来の仏教界にも大問題がありますよ。ちょうど歌舞伎や大相撲や、あるいは政治に対するバッシングの原因と同じです。たしかに腐敗しています。
 すなわち「魂」や「志」が欠如してしまっているのです。坊主丸儲け…つまり坊主自体が市場経済、貨幣経済に魅入られてしまっている状態になると、檀家や信者も単なる消費者となり、市場原理を発動させますよね。あの永代供養料やお布施は「八百長」じゃないか!と。
 これは双方にとって実に哀しいことです。
 昨日、「無財の七施」の話を書きましたね。そのきっかけを作ってくれた校長先生が、今日の放課後、中学生たちにパンを差し入れしてくれました。学年末テストを前にして、夜9時まで学校で勉強しているからです(強制ではありませんよ)。本当にありがたいことです。
 私もそのお布施のおこぼれをいただきながら、こんなことを思いました。

 私たちは「持っているもの」があっても、「七施」をすることができる。

 そう、昨日は『私たちは「持っているもの」がなくとも、自分の存在と行動だけで「布施」をすることができるのです』と書きましたね。それこそが、私たち凡夫のみならず、僧侶にも求められるべき姿であると考えるのももっともです。しかし、どうでしょう。たとえば今、私たち日本人は「無財」と言えるでしょうか。
 実はほとんど「有財」ですよね。お釈迦様のおっしゃった「無財」は私たちの想像するレベルではありません。「無財」とは、布施を受ける立場を言うものなのです。昔のインドで言えば、まさに僧侶がそういう立場でしたね。
 実は、それを現代日本に当てはめることはできないのです。ですから、昨日の「無財の七施」に共感したり感銘を受けたりした方は、ぜひとも次のステップにも登っていただきたい。それが「有財でも七施」なのです。
 今日パンを差し入れて下さった校長先生は、お礼を言いに来た生徒たちに対して、本当に慈愛に満ちた目と顔と言葉と態度と心で接していました。「もの」としてのパンに「心」がこもっていました。
 これこそが、ある意味理想的な形なのかもなと思いました。「もの」だけでもない、「心」だけでもない。そういう「布施」こそ、今の私たちに必要な行動と心構えなのかもしれません。もちろん、仏教界にも。
Photo30102 番組では東工大の上田紀行さんが、仏教への期待を語っていました。寺はコンビニの倍もある。町中にある寺には、人の、世の中の幸せを祈る人(お坊さん)がいる。このストレスフルな現代において、お寺はそういう場であってほしいと。
 やはり、教育と宗教は、市場原理に対する最後の砦でありたいですね。校長先生ともそんな話をしました。ウチは仏教系の学校ですから、ぜったいに人の「心」や「魂」や「志」を守る場所であり続けたいですね。
 実は今日、教育や宗教や、そしてそれに関わっている自分の無力さを感じざるを得ない哀しいこともありました。「命」を守る存在になれなかった自分が情けない。人は財の有無以前に本質的に「無力」なのです。だからこそ、これからもっと純粋に「布施」していかねばならないと感じたのです。「無力」だからこそ、無限に布施し続けることができるのでしょう。
 

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