『偽書の精神史』 佐藤弘夫 (講談社選書メチエ)
偽書の精神を探るということは、すなわち自分の精神を探ることになります。私の場合は。
このブログをお読みの方は分かると思いますけれど、私という人間はこの現代社会にもけっこううまく適応しつつ、どこか「中世的」な臭いがするところがありますよね(笑)。
科学や論理や経済の世界も好きですが、文学や宗教や芸術の世界も好きです。自分流の言い方ですと、「コト」も「モノ」も好きというわけです。
ですから、「偽書」に対する態度も、私の中では、はっきり二つに分かれている。あくまで学術的な態度を取り続け、対象を客観的にとらえながら、ある種冷めた目で「否定」する自分と、そのアヤシクも魅惑的な内容に思いを馳せ、やっぱりここには人知を超えた真理があるのではないかと「肯定」する自分がいるわけですね。
ま、具体的に言えば、富士北麓地方富士吉田市の明見地区に残る「宮下文書(富士古文献)」が、私にとっては最大規模の「偽書」ですね。あれなんか、たとえば日本語学的に言えば、「偽書」の体裁にすらなっていません。古代や中世の文書がたくさんありますけれど、どれも書かれている日本語は「近代語」(あるいはあまりにヘタな擬古文)です。
しかしそれをもって、「噴飯物」として一笑に付すのには抵抗があるのも事実です。実際に現地に生活していると分かる「何か」がそこにあるからです。また、出口王仁三郎の霊界物語…本書でも中心的に取り上げられている「聖徳太子未来記」を「偽書」とするなら、これなんか世界最大の「偽書」とも言えますね…との関係(こちらのインタビュー参照)なんかを知ると、単純に「誰かが自分の知識でテキトーに書いたもの」とは片づけきれなくなります。
偽書の精神を探ることが自分の精神を探ることだと書きました。すなわち「偽書の精神史」は「私の精神史」とも重なります。
いわゆる「偽書」と、私たちは全く関わらないで生きていくことができますよね。というか、ほとんどの人が関わらずに終わるでしょう。あるいは関わっていないと思って、いや関わっていると思わないで死んでいくでしょう。
なぜなら、「偽書」は教科書には出てきませんし、現代のように宗教心が希薄になっていると教典に触れる機会もほとんどないからです。つまり、教育と宗教という、「精神」を形作る部分で、「偽書」は排除、あるいは無視されているわけです。
では、それらは本当にこの世の中に、また、私たちの人生に必要がないかというと、実はそんなことはありません。
実際、私たちはたくさんの「偽書」に触れて生きていますし、いや、「偽書」を待望して生きています。昨日の話ではありませんが、たとえば「アイドル」という「物語」、あるいは「アニメ」という「物語」、これらは一種の「偽書」だとも言えます。
あまりに広義に偏るのもどうかと思いますが、いつものワタクシ流で思いっきり言ってしまうと、私たちの妄想や夢が作る産物は全て「偽書」なのです。「モノ・コト論」で言うところの「コト」、すなわち、私たちの脳が処理した情報というのは全て「偽書」。
現代のメディアは多様ですから、文字情報に限りませんよ。記録された音楽も、編集された映像も、こうして垂れ流されるインターネット上の情報も全て「偽書」です。この本で言うところの「主観」が入ったものは全て「偽書」とも言えるわけです。
もうお解りになると思いますが、こんなことを言うと、この世の全ての情報は「偽書」ということになります。そして、それは正しい。その通りなんです。
ただ、大切な視点は、この本でも述べられていますが、そこに「悪意」があるかどうか。すなわち、人をだまして自分の利益を得ようとしているのか、あるいは、世を混乱に陥れようとしているか、いやそうではなくて、ほとんど「無意識」に語っているのかという違い。騙りか語りか。
これは難しいところです。先ほど、脳内で処理されたものは全て「コト」であり、「偽書」であると書きましたが、中には「モノ」を語ったいわゆる「モノガタリ」もあるんですよね。
王仁三郎の「霊界物語」や岡本天明の「日月神示」などの、近現代の「神託」はその代表でしょうし、ある種の文学や音楽や絵画などもそれに当てはまるかもしれません。すなわち、「神仏」や「宇宙」、「自然」、場合によっては「天狗」や「モノノケ」と直接交流し、そこから受けた「電波」をいろいろなメディアでそのまま表現すると。つまり自らもメディア(ミーディアム)となって、他者(モノ)の意思を伝えるというわけですね。そこには実は「主観」や「恣意」はなかったりします。
佐藤さんが言うのは、中世にはそうした「神託」を受ける精神的土壌があったということですね。逆に言えば、近世、近代以降、そういう土壌が幽閉され、隠蔽されてきたと。
文明800年周期説というのがあります。それと同様に、人間の精神構造も800年で循環しているとしたら、そろそろ第二の中世がやってくるわけですね。そうだとすると、私が盛んに言ってきた「コトよりモノが優位になる時代が来る」ことと、もしかすると重なるかもしれません。
この本では、そうした中世の精神コスモロジーが、宗教的な側面、たとえば「他界−此土の二重構造」、「本地垂迹」や「本覚思想」「神道説」などのキーワードのもと解明されていきます。お堅い学術書のようであって、どこか「物語」風なところもあって、この本自体、「コト」より「モノ」という感じがしました。すなわち、我々大衆、衆生、凡夫でも読みやすい本でありました。佐藤さんも実はある種の「神託」を受けているのかも(笑)。
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