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2011.01.31

ブクステフーデのトランス(?)

↓ある意味トランス状態?
Buxtehude_2 日の続きです。ただし、現代日本から17世紀ドイツにタイムワープします。
 トランスもバロックも、いわゆるクラシックと言われる近代西洋芸術音楽とはまた違う系譜です。簡単に言ってしまえば、近代西洋音楽以前の「民族(民俗)音楽」の系譜ですね。
 バロック音楽のとらえ方や定義はいろいろありますが、現代の視点からしますと、この時代の音楽の魅力は、まさに「前近代」と「近代」のバランスの面白さにあります。それが、たとえばジャズやロックや今回のトランス(ユーロビート)などと重なる部分があるわけですね。
 もちろん、私の大好きな日本の歌謡曲や、フジファブリックの楽曲の魅力もそういうところにあります。西と東の相克、コトとモノの融合ですね。
 そのへんに関しましては去年の今頃紹介した「西洋音楽史」という名著をぜひお読みください。
 さあ、それで、ヲタトランスとバロックの共通点を感じてもらうために、今日はドイツ・バロックの巨匠(バッハがいなかったら間違いなくドイツの大作曲家3Bに数えられていたであろう)ブクステフーデの曲を紹介します。
 理屈よりも実際に聴いてもらうことにしましょうか。ただ、クラシック音楽では意図的に避けられた循環バス(短いバスのテーマが何度も繰り替えられる…結果コード進行も循環する)、ポリフォニー(これも結果的に短い旋律が繰り返されることになる)に注目してください。
 民族音楽ではありえなかった「ドレミファソラシド」という音階に、大作曲家さえもなじんでいなかった、つまり、ドレミによる美しいメロディーの発明に至っていなかったことを体感してください。ブクステフーデの作る音列は、まだメロディーではなくパッセージです。しかし、そのパッセージが絶妙に魅力的なんですよねえ。歌ではなくて会話。
 昨日のトランスなんかも、メロディーはペンタトニック(5音階)でほとんど民族音楽のまんま。和声は初歩的な西洋音楽です。そして、トランスに特徴的な「リフ(リフレイン)」は、やはりメロディーではなくパッセージです。
 というわけで、ブクステフーデの循環バス系の楽曲を聴いていると、まさに「トランス」状態になるんですよね。ある意味人間の感情を超えたところにある「美しさ」のような「モノ」が感じられます。
 では、まずこちらでも紹介した(演奏した)変ロ長調のトリオ(BuxWV273)の1曲目をお聴きください。おっとこの記事ではプログレだって言ってますね(笑)。
 これ、ホント大好きです。作品1として出版されたBuxWV255ヴァージョンよりも、こちらの初期稿の方がいいなあ。この演奏もいいですね。美しい。バスのテーマが3小節半という中途半端なところが「前近代的」で「現代的」ですなあ。

 続きまして、短調のトランスを(笑)。以前こちらでカッコイイ演奏を紹介しました、オルガンのためのパッサカリアを室内楽に編曲したもの、他の団体のライヴ映像がありましたので、どうぞ。これもなかなかいい演奏ですね。単調なパッセージの連続が「前近代的」かつ「現代的」であります。

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2011.01.30

ウマウマできるトランスを作ってみた COMPLETE BEST

 日に続きまして、萌え(オタク)ネタです。
 先月、カミさんの車を買い替えました(近くおススメします)。それに乗って八王子に行ったのですが、エンジンをかけていきなり始まったのが、この曲たち。私の知らないところで、カミさんと娘たちはこちらの世界に萌えている、いや燃えていたのでした。
 いや、実際のところ、娘たちはYouTubeでいろいろなアニソンを聴いて覚えて歌っていましたし、カミさんにいたっては、最近「最も尊敬する歌手」として「初音ミク」を挙げ、そしてそのモノマネの練習に余念がなかったのも事実でしたから、ま、分かっていたには分かっていました(笑)。
 で、このCDはですね、なんか上の娘の誕生日のプレゼントとして買ったのだそうで、なぜに今頃これなのかという疑問もありますけど、とにかく本屋さんのCDコーナーに売れ残っていたのを見つけて、母娘で興奮して買ったのだとか(店員さんに苦笑されたとのこと)。
 ウチの家族はたしかにオタク気質ですけど、基本ゲームやアニメ、マンガにはあまり触れない生活をしています。禁止というわけではないのですが、なんというか、あえて我慢することによって、その愛情を高めるという、ちょっと屈折した嗜好があるんですよね。
 そのため、ちょっと(かなり)情報が遅れて入ってくる。ゲームなんか、ファミコン(ファミエイト)とゲームボーイ・アドバンスしかありませんから(笑)。
 アニソンについても、どちらかというと、数年前のものが流行っています。ネットでさんざん語られたもの、熟成したものを楽しむといいますかね。変ですよね。
 そんなわけで、このCDの中身というのは、彼女たちにとってはまさに「旬」のものばかりだったようです。
 私はこういう世界、そんなに嫌いではありませんが、あまり積極的に聴こうとは思わずに生きてきました。しかし、今回、ほとんど強制的に聴くはめになってみて、案外その世界の豊かさに感動…とまではいきませんが、納得したりしたのです。いやあ、運転中に聴くといいですねえ。悪くない。テンション上がって眠くならない。車特有の騒音の中で聴くからか、いつもはうるさいと思うビートも案外しっくり受け入れられます。
 ということで、今日はこれら「オタクトランス」を聴いた感想やら、思いついたことを書きます。
 私、この曲たちを聴いてすぐに、バッハやらなんやらのバロック音楽の練習をしましたよね。そして、練習後にも再びこれを聴きながら帰ってきました。それで、まず思ったこと。
 これってバロックじゃん!
 単純なリズム、オン・ザ・ビート(たてノリ)な旋律、循環するバス、コード、単純でキャッチーなメロディー、そして個人性の低い歌詞、ちょっと気恥ずかしいほどの大げさな表現、コントラスト。まんまバロックですよ。
 そしてさらに言うなら、歌謡曲でもある。西洋音楽のコードの上に、ヨナ抜きの音階が展開されることが多いですからね。そして、ある種のアイドル性。
 どっちも私の好みにピッタリじゃないですか(笑)。というか、やっぱり日本人って、四つウチのたてノリじゃないとダメなんですよ、ホントに。かっこつけて、R&Bとか流行っちゃった時代がありましたけど、やっぱりそれって無理があった。今、J–POPも、結局はロックかユーロビート、すなわち白人系のリズムに収束しつつあります。スウィングできないんだよなあ、日本人は。
 しかしちょっと待てよ。国風文化のオタクと、アメリカのハウスから派生したトランスの関係って、ものすごくアンバランスじゃありませんか?だって、クラブとオタクですよ(笑)。
 まあ、アメリカのハウス・ミュージックは、ある意味ではブラックに対するアンチテーゼという側面もありますからね。ヨーロッパの反逆。そこにあのバブル期にはやった「ジャパニーズ・ユーロビート(?)」が融合し、さらにそこに潜在する「打ち込み系」というオタク性が絡んで、つまり「テクノ」などに象徴される電子音楽が合流して、今の「ジャパニーズ・トランス」が生まれたのではないかと。
 そしてもちろん、バブル期に消えてしまった「昭和歌謡」「アイドル歌謡」の流れもまたそこに合流したと。
 ふむふむ、なかなか面白い。実際「いい曲」に溢れていますし。その象徴が、このアルバムの掉尾を飾る同人系名曲「エアーマンが倒せない」でしょうかね。ここでは、Ryu☆が収録されています。これです。いい曲ですよね(1箇所だけ直したいところがありますけど)。

 この、ある意味シロウトならではの、そして打ち込みならではの、異様に音域の広い歌は、のちにヴォーカロイドの登場によって、ようやくその魅力を最大限に聴かせられることになります。ウチの娘たちはポケヲタなので、「ミルタンク」のヴァージョンを先に知ったようです。
 そして、カミさんはこれのモノマネに必死に取り組んでおります。まったくジャンルを問わず歌ならなんでもいい人なんだから(笑)。しっかし、人間を真似た機械音をさらに人間が真似るという、う〜ん、なんだかよく分からん事態になっておりますなあ。いやいや、この前のアンドロイドの真似をした私と一緒か(笑)。

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2011.01.29

萌え寺(松栄山了法寺)

Gedc0503 ンサートの練習のあと、帰り道に寄ってみました。いちおう、弁財天さんは音楽や芸能の神様ですからね。成功祈願。
 今やあまりにも有名になってしまった八王子の了法寺。国道20号線沿いに位置することもあって、迷うことなく到着。入り口の有名な「萌え看板」は、想像していたよりも小ぶりで、不思議と寺の風景になじんでいました。
 時間が遅かったにもかかわらず、何人かの参拝客(いかにもな若者たち)が数名いました。しかし、境内は落ち着いた雰囲気で、なんとなく安心したというか…。
 なにしろ、今朝このお寺さんのホームページを見て、聞いて、さすがにちょっと引き気味だったので…笑。
 いえいえ、私、こういうの完全擁護派なんですよ。なにしろ、世間では「萌え研究家」と言われてますから(実生活ではそういう趣味皆無なので不本意なのですが…)。
 Wikipediaの「萌え」項に引用されている、ワタクシの「萌え=をかし論」。つまり、これって、「萌え」が現代に新しく生まれた価値観・感覚ではなくて、平安時代、いやそれ以前からある日本人に根源的なものであるという説です。
 そして、「萌え=をかし」の対照概念として「もののあはれ」を持ち出しているところからも分かるとおり、この説の背景に「仏教」を意識しているのも確かです。
 ものすごく簡単に言いますと、お釈迦様が悟った「苦諦=もののあはれ(不如意・無常という真理の発見)」に対する、現実的な対抗策として、インドから遠く離れた日本では様々な具体的方法が考案されたということです。その具体策のある一面が、「萌え=をかし」の根底にある「時間を微分して疑似的な永遠性を得る」という方法でした。すなわちワタクシの言う「モノのコト化」です。御利益信仰。
 念仏唱えたり、躍ったり、仏像作ったり、禅で形式にこだわったり、いろいろやってみたわけですね。まあ、我々凡夫は結局ブッダにはなれませんから。いろんなごまかしをやってきたとも言えますな。
Gedc0505 了法寺さんは日蓮宗です。日蓮なんか、私に言わせると最も過激な「コト化」を行なった人物ですね。いわゆる「原理主義」「絶対主義」。これは実はお釈迦様の教えの対極にあるものです。それを「言葉」という「コト化」の道具を使って徹底した。それはそれで、日本の宗教史や思想史において、たしかにすごいことでした。
 日蓮、ある意味、ホンモノ中のホンモノのオタクだったとも言えますね。そう考えると、了法寺の萌え路線は、実は大商人様…ではなくて(笑)大聖人様のお考えに適っているのですよ。
 それから、日蓮宗の了法寺さんに弁財天やお稲荷さんがあるのは、ちょっと変な気がしませんか。日蓮と言えば他宗を厳しく攻撃したことで有名ですよね。「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」とか言って。
 いや、実は日蓮は神道に関しては寛容だった、いやいや、寛容どころか伊勢参りもちゃんとしてるし、第一、富士山に対する信仰もあったんですよ。案外みんな忘れているところなんですが、実はそういう「日本」に対する愛情がとても深い方だったんです。だから、了法寺の神仏習合も「国風文化」たる「萌え」もOK(笑)。
 また、了法寺さんが、ある種「煩悩」の象徴のような女性に対する「萌え」を布教活動に使っていること、これもまた一部の人には非難の対象になりかねません。しかし、日蓮は女性に対して特別な愛情…それは「萌え」だったのかも!?…を抱いていた方でした。法華経の中にある「女人成仏」の発想は、日蓮の女性観に大きな影響を与えています。日蓮は男女平等を説いたと言われますが、実際には日本最初のフェミニストだったかもしれないのです。女性にたくさん手紙書いてますしね。だから、了法寺の萌えはOK。
31230_2 それにしても、昨年奉納されたという「とろ弁天像」、これはまさに仏像の本来の姿ですね。「仏像萌え」っていう言葉がありますけど、考えてみるとそれは反対でして、「萌え=をかし…現世的御利益信仰」の対象としてのフィギュア、イコン、アイドルが仏像なわけですよ。そこんとこ、勘違いしている日本人が多いと思います。仏像に限らず神社仏閣全体に、本来異様にきらびやかな原色的世界でしたから。わびさびじゃないんですよ、もともと。
 昨年発表されたテーマソング「寺ズッキュン!愛の了法寺!」も、まあ踊り念仏の進化形だと思えば、全く自然であると言えましょう(笑)。「テラ」ズッキュン!

 と、とにかく、私はこの「萌え寺」さんの活動を応援したいと思うのですよ。なぜなら、「萌え=をかし」を追求する現代の貴族、国風文化の継承者たる「オタク」の皆さんこそ、実は仏法に目覚める可能性があるからです。「コトを極めてモノに至る」…これが私の研究の一つの答えなのですから。
 そしてそして、こういう、「宗教」を超えた「文化的」な信仰の形と言えば、出口王仁三郎ですよねえ。私はこういう「こだわった結果こだわりがなくなる」世界、大好きです!
 今度はなにかイベントがある時に、ゆっくり訪ねてみようと思います。できれば、ご住職様とまじめなお話をしたいですね。

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2011.01.28

『公民教育が抱える大問題〜家族と国家が消えていく!』 小山常実 (自由社)

91523758 日、「戦後最大の偽書」との称号を戴く東日流外三郡誌を紹介しましたが、はっきり言って、こちらの方こそ「戦後最大の偽書(偽史)」でしょう(笑…えねえ)。
 いやあ、私もすっかりだまされてましたよ。というか、いったいどれだけの日本国民がだまされ続けているんでしょうね。
 大人をだます「東日流」ならまだしも、純真無垢な子どもを長年にわたってだまし続けているわけですから、とんでもないことです。
 今まで、いわゆるトンデモ偽書の「作者」に対して、ある種の「愛情」を感じざるを得ないと書いてきましたけれど、この「誰か」に対しては…。
 「偽書」や「偽史」の定義にはいろいろありますが、ワタクシとしては、やはりある種の「悪意(我田引水)」の存在を一つの要素として挙げたいですね。
 その点、現在現場で使われている「教科書」というのは、様々な「悪意」に基づいて執筆、編集、検閲、採択、活用されています。
 この本にも書かれていますとおり、以前は「共産党が教科書を作り、社会党・日教組が採択し、自民党が金を出す」状況だったわけですが、現在の民主党政権下では、いったいどういうパワー・バランスになってるんでしょうね。なんだか恐ろしくもなります。
 一般に、「教科書問題」と言いますと、どうしても「歴史教科書」が頭に浮かびますよね。私もこの本を読むまでそうでした。まさに捏造された「偽史」という視点での問題です。実際、皆さんご存知のとおり、国内外を問わず、いろいろな立場からの我田引水的喧々囂々が繰り返されてきました。
 しかし!実際には「公民教科書」の方がずっと「悪意」に満ちた「偽書」であった!というのが、この本の基本的スタンスです。そして、それを証明するために、戦後の全ての公民教科書の記述をていねいに読み込み、そこに見え隠れする「悪意」の数々と、その「悪意」の主を論難しております。
 私もそうした「公民教育」を完璧に受けてきた人間ですから、正直この内容にはショックを受けました。ショックを受けると同時に、目からウロコが落ち、実際今、教育現場、特に中学校に身を置く者として、こうした視点で教科書を見直すことの重要性を再確認させていただきました。実際採択の責任者でもありますし。
 ちなみに、私は、いわゆる保守論客でもありませんし、極度な右派でもありません。しかし、山梨県という、全国でも非常に特殊な(異常な)学校教育環境の中では、どうしても教育的良心、いや人間としての良心から、反組合的な立場にならざるをえません。
 そうした立場からいろいろ言いたいこともあります。しかし、なかなか「書く」となると難しい部分があります。残念ながら、小山さんの分析や意見について、一つ一つ感想や意見などを述べることは差し控えさせていただきます。
 しかし、声を大にして申し上げたいのは、ぜひとも多くの「大人」の方々に読んでいただきたい、ということです。そして、自分たちがどういう「公民教育」を受けてきたのか、そして、今自分たちの子どもにどういう「公民教育」が施されているか、ぜひ知って、そして考えていただきたいと思います。
 この本の内容に関して、小山さん自身が語った番組の動画がありますので、とりあえずこれを観ていただきたいと思います。「日本国憲法の三原則」という、私たち「純真な日本国民」の共通の常識が、実はでっちあげられたものであるという「検証」一つ取っても、これはもう驚きです。
 ふむ、それにしても、こんなに近所の、たくさん教え子がお世話になっている短大に、こんな論客がいらっしゃったとは。いつか、お話をうかがいに行きたいものです。

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2011.01.27

突然の嵐…夢叶う!?

20110128_124407
 さん、今日は平穏な一日でしたか?
 私も外見上、というか、私自身はおかげさまでいつものように楽しい一日を送らせていただきました…が、しかし!
 私の分身とも言える(?)このブログには大変なことが起きてしまいました。一日のアクセス数がなんと18300!いつもなら2000前後で推移しているはずが、なんでまた、今日に限ってなんでまたこんなに…??今まで7年弱、シコシコ毎日更新してきましたが、さすがにこんなにアクセスが集中したのは初めてです。
 そう、今日はですねえ、ある意味、私の夢が叶った日でもあったのです。全く自分の意志や努力とは関係のないところで、人様のおかげをもちまして、このような奇跡的なことが起きました。
20110127_95150 「Yahoo!ニュースのトップに不二草紙が登場!」
 と、まあ、一言で言えばそういうことです。いやあ、ビックリした。
 いやいや、登場と言っても、私やこのブログ自身がトピックになったわけではありませんよ。3年半前に何気なく書いた記事がリンクされていたのです。
 「破産三セクの酒 格安で販売」。その元記事はこちら、「白井梨ブランデー 破産処理、5分の1の価格で販売 千葉」です。そしてリンクされた私の記事はこちら
 このトピック、今日の朝7時頃に配信され、9時7分にY!トップに昇格。上から三番目に掲載されました。それから11時7分までトップ画面に出ていました。たった2時間程度ですが、その間のアクセス数は1万1千を超えました。
 いやはや、すごいわ。こちらの記事にも書いていましたね、「硬軟聖俗」がブレンドされた、ある意味日本古来の神道的な魅力のあるヤフトピの影響力のすごさ。そこに、まさか自分の記事がリンクされるとはねえ…まったく人生とは何が起きるかわかりません。
 それもちゃんと「不二草紙 本日のおススメ」の文字が…涙。もう二度とないかもしれませんね。
 まさに嵐のごとく全国からアクセスが集中し(120分で1万以上ですから、1秒に二人くらいのペースでクリックしたということですよね。さすがにもうないな。
 それにしても、まさかこの記事がそういうことになろうとは、この記事本人も想像だにしなかったことでしょう。私だってもちろん。
 いや、正直言うと、こういう飲み物、食べ物系のおススメを書く時って、いつものようなネタがない時なんですよね。ですから、この記事自体、自分としては、いかにもその場しのぎ的な、あるいは場当たり的なノリで書いたんですね。すなわち、あんまり気合いが入っていない。書いたことすらすっかり忘れてた。
 それがこういうことになるんですから、人生は面白い。いや、たとえば、昨日の記事普通においしいなんかの方がずっと気合い入ってるし、多くの皆さんに読んでもらいたかったわけですよ(苦笑)。しかし、まあ、思い通りにいかないのが人生。まさに「もののあはれ」ですな。不随意だからこそ面白い。
 しかしですねえ、まあ何事も長くやっているとこういう予想外のいいことが起きるわけですねえ。
 このブログを始めた時には、こんな日が来るとは思いもしませんでした。三日坊主道を極めていたワタクシにしては珍しく、こうやってちゃんと2千日以上欠かさず続けるなんてこと自体、まあ奇跡と言えば奇跡ですよねえ。
 そして、まあちょっとある意味では不本意でありますが、Wikipediaの「萌え」のページに参考リンクとして貼っていただき(さっき見たらまだ消されず残っていました…笑)。そして、今回ヤフトピですよ。ま、一介の小市民のブログにしては、上出来すぎるんじゃないでしょうかね。ありがたや、ありがたや。
 何事も継続ですな。これを励みにまたシコシコ頑張ります。頑張ってみます。
 というわけで、皆様、今後ともご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。
 ところで、皆さん、私の記事を読んで、梨ブランデー、注文したんでしょうかね。私も久しぶりにちょっと飲んでみたくなりました。

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2011.01.26

普通においしい

Tumblr_kzw6cn2snl1qa7n5wo1_400 真は昨日の記事で紹介した坂本真綾さんです。「普通に美人」ですよね。
 さあ今日はこの「普通に美人」の「普通に」の意味について考えてみましょう。
 きっかけは毎日新聞のこちらの記事です。
 この記事、簡単に言えば、「普通においしい」はおかしい、若者の言葉は乱れている…ということになります。まあ、よくある「若者言葉バッシング」ですね。
 そうそう、この問題について語る時、必ず紹介するのが、私が書いたこちらの記事。これ、ほんとに誤解されてるので、皆さん、ぜひ本当のことを知ってください。枕草子の筆者清少納言は若者言葉バッシングをしているのではなく、オヤジ言葉バッシングしてるんですよ!世の先生方、ウソ教えちゃいけません!
 今回の「普通に」についても、結局ネット上では(特に2ちゃんでは)、「普通に…は普通に使われている言葉だ。この記者の方こそ敬語も使えず失礼だ」という感じで、オヤジバッシングになってしまっています(笑)。面白いですね。千年前と同じような構図。
 で、この記事では「普通においしい」は「すごくおいしい」という意味だ、現代日本では「普通」は「普通以上」を表すというような論が展開されていますけど、さあ、皆さん、「普通に…」ってどんな意味だと思いますか?
 これが実に難しい複雜なことになっているんです。ネット上でオヤジバッシングしていた若者の中でも意見が分かれている。つまり、若者の間でもこの言葉の意味は揺れているのです。
 私が考察したところによると、大きく分けて四つの意味で使われているようです。

1 毎日の記事のとおり、「すごく」「非常に」「普通以上に」という意味。
2 「すごく」「非常に」と言うほどではなく、「そこそこ」という意味。
3 「広く一般的にも認められるであろうと思うが」という意味。
4 「他意なく」「純粋に」という意味。

 ちなみに、私は4の意味だと思っていました。実際、先月のこの記事に「普通にお見事でした」という文を書いています。これは、ワタクシ的には、「いろいろ考える(心配する、あるいはひいき目に見る)ことなく「純粋に」「ストレートに」「単純に」お見事だったということを表したつもりです。
 しかし、何人かの生徒や比較的若い先生に聞いたところ、けっこう1、2、3の意味で使っている人もいました。4はどちらかというと少数派です。
 まあ、もちろんですね、シチュエーションによって、1〜4、あるいはそれ以外もあるかもしれませんが、いろいろなニュアンスで使われるのでしょうね。では、その本質は何かというのは、なかなか難しい。今考え中であります。
 冒頭の「普通に美人ですよね」というので考えてみましょうか。坂本さんという「声優」(いちおうそう定義させてください)が「美人」であるということの裏には、どういう「予測」や「期待」や「不安」があるのか。
 最近の声優さんはみんな美男、美女ですけど、もともと声優さんは、「声」という聴覚分野勝負のお仕事なわけでじゃないですか。ある意味では、視覚的な部分は期待されていない(失礼)とも言えます。だから、昔は、声優さんは顔出ししないのが一つのルールというか、モラルみたいになってましたよね。夢を壊しちゃいけないとかね。
 で、そういう「声優」の属性から生まれる様々な「憂慮」が、実際は「杞憂」であったことの表現として、ワタクシとしては「普通に美人」という言い方をしたわけです。ですから、「すごく」でもないし、「そこそこ」でもない。つまり、程度を表しているわけではない。
 3のニュアンスは入るかもしれませんね。誰もが「美人じゃん」と言うだろうという。
 そうするとですね、「普通においしい」とか「普通に美人」という場合の「普通に」を、従来使われていた他の言葉に変換するとすれば、そうですねえ、「けっこう」とかどうですかね?「けっこうおいしい」「けっこう美人」。
 私がある女の子を紹介されてですね(妄想です…笑)、「じゃあ写真見せてよ!」と言って、実際ケータイの写メとか見せてもらうとするじゃないですか。「もしかするとブスかも…」とか「もしかすると好みのタイプじゃないかも」とか、そういう心配ってしますよね。それで、実際見せもらったら、「けっこう」かわいくて好みのタイプだった…「(わ〜ぉ!)普通にカワイイじゃん!」とか言いますよね(笑)。
 ははは、この「けっこう(結構)」ってなんだ…ということにまでなりそうですなあ。いや、たぶん,この意味(ニュアンス)での「けっこう」が使われ始めた時も、きっと今回の「普通に」と同じような多義性による混乱や違和感が生じたと思うんですよ。言葉というのは、そうして次第に固定化されたり、あるいは淘汰されたりしていくんです。「モノのコト化」の過程とはそういうものなのです。
 そういう過程で、今回のような「普通」と「おいしい」、「普通」と「美人」が同居するというような論理的矛盾がたくさん生じます。特に、ものごとの性質の善悪にかかわる時にはそういうことが多々あります。
 前にも書いたように、秋田弁(東北弁)では、マイナスイメージの形容詞や形容動詞に、やたらと「ない(ねぁ)」をつけます。標準語でも「切ない」とか「せわしない」なんかの「ない」はそういう「ない」なんですよ。これは「ない」という語自体が持っているマイナスイメージを付加することによって、意味的論理よりも「ニュアンス」を優先した例です。
 あるいはこちらにも書いた「人一倍の負けず嫌い」みたいな論理矛盾ですね。面白いでしょ?
 ちなみに、「普通ではなく…」という意味を表す古語「なのめならず…」は、プラスのイメージで「非常に」として使う時には、「ず」という否定語のマイナスイメージを使いたくないという本能からでしょうか、「なのめに…」となるケースがたくさんあります。これなんか、まさに論理矛盾ですよね。昔からよくあるんです。
 そうそう、もしこの「なのめに=なのめならず」だと同様の現象が起きているとすると、今回の「普通においしい」は「普通でなく(すごく)おいしい」ということになるのかもしれませんね!
 いやあ、日本語というか、言葉というのは面白いですねえ。今回の「普通に」については、まだまだ自分の中でも結論が出ていませんが、ほんの1日でもこれだけいろいろ考えることができました。実に楽しいですねえ。そして、オヤジとしては、常に若者言葉マスターを心がけなければなりませんぞ。いつバッシングの対象になるか分かりませんから(笑)。


 

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2011.01.25

坂本真綾 『うちゅうひこうしのうた』

 日、フジファブリックの「まばたき」を紹介しながら、なぜか思い出されたのがこの曲です。
 以前見せていただいた志村正彦くんのCDコレクションの中には、意外なアーティストの名前が散見されましたが、この坂本真綾さんの名前を見つけた時もまた、ちょっとびっくりというか、いや、なるほどというか、不思議な気持ちになりました。へえ〜、こういうのも聴いてたんだぁ。いや、なんとなく分かるような気もするぞ。
 不思議な縁はあるもので、今月発売された坂本真綾さんのニューアルバム「You can't catch me」収録の「ミライ地図」に、山内総一郎くんがギタリストとして参加しているんですよね。
 聞く話によると、実はマーヤもフジファブリックファンだったとか。つまり、実は両想いだったということでしょうか。志村くんも真綾さんも、学年は違えど同じ1980年生まれ。生まれ育ってきた時代を共有するという意味でも、共感できる世界観があったのかもしれませんね。
 また、「まばたき」と、この「うちゅうひこうしのうた」、ちょっと不思議な音楽ということでは、共通するところがありますかね。そう、菅野よう子さんの楽曲って、ある種「人工的」なんですよね。昨日、山内くんの作曲作法として書いたのと同じ印象を受けます。「うまいな」という感じ。「職人だな」という感じ。志村くんの本能的な楽曲とはある意味で対極的な印象を与えます。
 真綾さんの透明感があり、これもある種人工的な(声優さん的な?)声質、表現も、志村くんのボーカルとは対照的かもしれませんね。お互いに、そんな自分にない部分に惹かれ合っていたのかもしれません。
 さて、この「うちゅうひこうしのうた」ですけれど、本当はこのブログを始めたころ、まだおススメの記事がとっても短かった頃(笑)、一度とりあげようと思いつつ、結局実現しなかったという因縁もあるんです。ごく私的な因縁ですけどね。それがこういうタイミングで思い出されたのは、また不思議な因縁を感じます。これもまたごく私的な因縁ですけれど。
 この曲を初めて聴いたのは、2003年の年末の「みんなのうた」ででした。ああいい曲だな、いい声だなって思ったんです。それで、突然思い出して、私が久々にYouTubeで聴いていたら、カミさんが「あっ、この曲子どもの頃に聴いたことがある!」って言って歌い出しました。えっ?2003年から2004年にかけての曲だよ、と言ったら、「いや、子どもの頃に聴いた記憶がある」と言い張っていました(笑)。つまり、そういう不思議な曲なんでしょうね。子どもの頃の記憶につながるような。
 この前の BUMP OF CHICKEN の「COSMONAUT」も、タイトルがまんま「宇宙飛行士」ですし、実際「宇宙飛行士への手紙」という曲も入っています。あれなんかも、まさに「少年の記憶」がベースとなったアルバムであり楽曲ですよね。
 私もご多分にもれず宇宙飛行士を夢見た世代であります。しかし、この「うちゅうひこうしのうた」で驚いたのは、大人の女性の夢として「宇宙飛行士」が出てきているところですね。そして男は「農夫」。そのコントラストが絶妙。作詞の一倉宏さんもまた「うまい」。時代を読んだ言葉やイメージの選択。
 一倉宏はあまりにも有名なコピーライターさんです。コピーライターの「選ぶ」言葉というのは、ある意味では商業的な感覚に支えられたものではありますが、これはこれでフィクショナルな詩的世界と言えなくもないですね。しかし、そこもまた、志村くんの詩とは対極的なのかもしれません。
 私はこういう職人的な音楽もけっこう好きです。いわゆるクラシック音楽なんて全部そういう職人的、あるいはオタク的な音楽ですからね。「モノのね」ではなく「コトのね」ということですよ。音楽というのは、そういう両面のせめぎ合いがあるから魅力的なのであります。
 昨日も書いたとおり、フジファブリックの楽曲の魅力は、そういう「モノ(もののけ)」的な要素と「コト(職人技術)」的な要素の絶妙なバランスの上に成り立っています。そこがビートルズに似た部分であり、また、ちょっと正直に言うと、奥田民生さんやELOとは違うところなんですよねえ。
 と、この懐かしい曲を聴きながら、そんなことをいろいろと思ったのであります。さあて、坂本真綾さんのニューアルバムも聴いてみようかな。

Amazon You can't catch me

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2011.01.24

フジファブリック 『まばたき』

41msxadsc3l_sl500_aa300_ ジファブリックの曲でランキングを作るのは非常に難しい。全曲1位だという言い方もできますが、それぞれ変幻自在、聴くたびに印象が変わるというのも事実です。
 また、自分なりのいろいろな基準、歌詞であるとか、作曲技法上の面白さであるとか、ギターリフの魅力であるとか、そういうものを設ければ、それはそれは様々なランキングを作ることができます。
 だから結局、総合ランキングのようなものはできないんですよね。こういうバンドは、私にとっては珍しいことです。あのビートルズでさえも、ベスト20くらいは選べますからね。
 そんな中で、無理やりある種の基準(それが何か実は自分でもよくわからないのですが…)を設けると、必ず1位になるのが、この「まばたき」という曲です。
 そう、自分でもなぜこの曲なのかよく分からないんですよ。いつもは理屈っぽく音楽や詩を味わうワタクシですけど、この曲に関しては、初めて聴いた時から妙に心にしっくり来たんです。
 ある高名な評論家は「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」などとカッコつけて言いました。あいつは正直嫌いですけど、その意味は実際には「様々な解釈を受け入れて、さらに成長していくものだけが美しい」ということなんです。逆説的なんですよね、あの言葉って。みんな間違って「解釈」してます(笑)。動じないで全部受け入れているから、一見拒絶しているように見える。
 「愛」と一緒です。全てを受け入れて許すイエスに対して、自分だけを拒絶していると勘違いしたユダを見れば納得でしょう。
 そうそう、この曲の作詞者である志村正彦くんと、何かと縁の深い中原中也も、その純粋さのために、言葉を弄するカッコつけ評論家小林秀雄にさんざん振り回されましたっけ。ホントやなヤツです(笑)。
 さてさて、「まばたき」でした。曲はこちらで聴けます。
 ではまずは詩から見ていきましょうか。私はこれこそ「詩」だと思いますね。もうすぐ志村くんの全詩集が出ますね。まさに彼の織りなした言葉たちは「詩」と呼ぶにふさわしいものです。この「まばたき」の詩、これをもっていかで現代詩と言わざるや。
 この前、詩の対極にあるセンター試験の「言葉」が多義的に読めてしまうことに苦言を呈しましたけれど、たとえば、この素晴らしい「詩」は、まさに「解釈」を受け入れていくらでもその世界が拡張していきます。これぞ、「文学」の醍醐味です。
 あのセンターの選択肢は、日本語の語順の自由性の落とし穴にはまった悪い例でしたが、こちらはそのまさに対極。日本語の語順の緩さから、まさに「物語」が生まれていく。
 たとえばサビの「わがままな僕らは期待を たいしたことも知らずに 手招きをしている未来のせいで 家をまた出る」、このそれぞれの分節がどの分節にかかっているか、完璧に説明できますでしょうか。それこそいろいろな解釈が生まれますね。
 これはですね、センターの作問委員のバカどもが陥った多義性とは全く違うんです。志村くんにとっては、この語順、あるいは文順しかあり得ないのです。彼が伝えたかった、あるいは表現したかったのは「情報」ではなくて、まさに「言葉」そのものなのです。
 私はこの曲でこの「言葉」を聴いた時、うわっ!と思いました。意味が確定しないのに(解釈しようと思えばいくらでも解釈できるのに)、それを抜きにして、直接「言葉」が入ってきてしまった。あえて言えばイメージでしょうかね。風景や匂い、空気感というか質感というか。
 「未来のせいで」なんて言った日本人が今までいたでしょうか。「未来のために」とか「未来のおかげで」だったらいくらでも生産されてい感情やイメージです。「せいで」かぁ…天才としか言いようがありませんね。「未来」って女の名前じゃないかとさえ疑ってしまう(笑)。
 「まばたきを三回してる間に大人になるんですと君が言った」
 これなんか、その意味とか、出典とか、なんとでも想像できますよね。しかし、結局そのものでしかない。これなんか、ちょっと手を加えれば、見事な現代短歌になりえます。歴史に残る美しい日本語ですね。
 「今日も 昼と夜がずっと 晴れたままで 冬が終わる」
 これなんか、文法的にはおかしいかもしれませんが、これ以上の表現はないでしょう。ここ富士吉田はまだまだ寒い。しかし、花粉も飛び始めて、冬が終わることを予感させます。そして、今日も昼と夜がずっと晴れたままです。
 この日常の感覚を、どうしてこんな言葉で完璧に表現できるのか。素晴らしいですね。
 さて、音楽的にはどうでしょうか。この曲の作曲は山内総一郎くんです。このアルバムは志村くん以外のメンバー二人の楽曲も入っているという意味で、今となってはやや特異な存在となってしまいました。
 私の音楽的なルーツはビートルズ、それも「マジカル・ミステリー・ツアー」ですので、このアルバム「TEENAGER」の持つ、ポップさ変態さのバランス、そして楽曲の個性の豊富さが大好きです。
 「まばたき」は、明らかに志村くんとは違う作曲作法で作られています。いかにもギタリストらしい方法とも言えます。志村くんはたぶん、メロディーを中心にコードをまとわせながら作曲するタイプだと思います。歌歌いはたいがいそうです。志村くんがそうした作法をとっていたことは、彼の遺したボイスレコーダーの鼻歌を聴けば明らかでしょう。
 その点、楽器弾きというのは、ついついコードから入ってしまう。あるいはリフを先に作ってからコードをつける、そしてメロディーという順に進むことが多いんですね。この「まばたき」なんか、明らかに初めにコードありきだと思いますよ。
 そういう意味では、ある程度「理屈」っぽく聴こえるのです。もちろんいい意味でですよ。総くんの曲、私は全部大好きですし。ビートルズで言えば、ポール的な作曲法なんですよ。「よく出来た曲」なんです。
 その「よく出来た曲」と、ある意味「よく出来ていない詩」とのバランスが、もう絶妙すぎるんです。だから、この曲にしびれるんですよねえ。
 そして、それぞれの楽器のアレンジの妙。楽器隊のアレンジというのは、それぞれの「作曲能力」そのものですからね。このバンドは非常にその点が優れている。この「まばたき」も全く無駄がない、完璧なアレンジだと思います。よくぞ、これだけ簡素にできるなあ。勇気あるなあ。総くんのリフ、金澤くんのそれこそ「短歌」のようなピアノ。加藤さんの「俳句」のような(!)ベース。
 この前レビューしたBUMP OF CHICKENなんか、どうしても楽曲的には藤原くんのワンマンになってしまうではないですか。だからこそ、いい面もあるし、パターンから抜けられないマイナス面もあります。今やそういうバンドがほとんどですし。
 その点、フジファブリックは非常にバランスの良いバンドだと思いますね。まさにビートルズ的な豊かさを持っていると思います。そうそう、この「まばたき」、それこそビートルズ、マジカル・ミステリー・ツアーの「ストローベリー・フィールズ・フォーエバー」ばりの「メロトロン」風な音が入っていますね。そんなところも私の心の琴線を震わせるんでしょうかね。
 ううむ、あらためて、これは名曲だ…。
 
Amazon TEENAGER

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2011.01.23

『NJPW PRESENTS CMLL FANTASTICA MANIA 2011』 (新日本プロレス主催)

Show_news_iconphp 〜ん、後楽園ホールに行きたかったなあ。夜の興行なら行けたのですが、昼はちょうどその時間、2月のコンサートの練習がありまして…残念。
 昨日の大会の様子もサムライのニアライブで観ました。その前に本場アレナ・メヒコでの試合もたっぷり観ていたので、もう我が家の気分はすっかりルチャ・リブレ!
 「神の子」ミスティコ選手とアベルノ選手のシングルが日本で観られるなんて!そして、そこに大好きなDDTの男色ディーノ選手、飯伏幸太選手、ケニー・オメガ選手が加わるとなれば、これはぜひとも生観戦したいところ。子どもたちにとっては、この3選手はキャンプ場で一緒に遊んだ(?)仲ですからね。
 しかし、さすがに自分の試合のための貴重な練習はさぼることができず…結局ニアライブでテレビ観戦となりました。
 いやあ、素晴らしい大会でしたね。ルチャすごいわ。本場のルチャは違うわ。そして、それをも凌駕してしまった日本人たちの熱き闘い。
 やっぱりスタイルの違いなんて大したことではありませんね。それぞれの道で技と魂を極めたプロ同士ならではの攻防、そして高め合い。いいですねえ。
20110124_113612 まず第1試合からして大盛り上がりでした。日本とメキシコを代表するオカマレスラー対邪道・外道!
 もう邪道・外道両選手が、完全に正道・王道に見えてしまいましたからね(笑)。もちろん、男色ディーノ選手もマキシモ選手も、レスリングの基礎がちゃんとしているんですよ。また、プロレスラーとしての「気持ち」がしっかりしている。プロに徹している。だからこそ、面白い試合になるんですね。
 いやいや、それ以上に、本当に百戦錬磨、あらゆるスタイルに適応してきた名人、邪道・外道両選手のクオリティーの高さのおかげもありますね。お客さんが何を要求しているか、本当によく分かっている二人です。あらためて彼らの偉大さを感じました。入場から試合後のインタビューまで、本当に完璧でした。
 いやはや、プロレスというのは幅広く、奥深いですなあ…。もっともっと世間の人たちに観てもらいたい。こういうのをぜひとも地上波で流してもらいたいですねえ。BSデジタルでもいいや。そうそう、最近あるテレビ局の方やある新聞社の方と話したんですけど、絶対今、プロレスはいいコンテンツですよ。いろいろな意味で。ですから、今年は私も積極的に動きます。いろんな人を巻き込んでプロレス復興を実現したいと思っています!
 さあ、ついつい興奮気味になってしまいましたね。ええと、試合ですが、第2、第3、第4試合は、それこそルチャと新日本の(新)ストロングスタイルが微妙に化学反応を起こし、なかなか刺激的な試合内容となっていました。いや、タイガーマスクと石井選手の試合なんか、別に普通に日本人同士の戦いのはずなんですけど、ああやって、ルチャの空気の中に入って、マスカラ・コントラ・カベジェラという形をとるだけで、どうしてこんなに面白くなるのかと思いましたよ。やはり、演出というか、会場の空気とそれを読む選手という関係が、プロレスには重要なんだなあと痛感しました。やっぱりお客さんと一緒に創り上げていく総合芸術なんだなあと。
20110123109_2 さて、セミファイナル(ダブルメインの一つ)の「ミスティコ対アベルノ」。なんかすごく新鮮だったなあ。3本勝負というのも久しぶりでしたし、独特の「間」というか、リズムというか、「無駄のない無駄な動き」という不思議な世界ですねえ。
 本場ですと、その「間」の中にこそ、観客の声援などが入り込んで、また独特の高揚感を演出していくんですけど、さすがに日本のお客さんはそこまでは乗り切れていませんでしたね。まあ、しかたないでしょう。
 それでも、私は両選手のおそるべき高度な技の応酬にすっかり呑まれてしまいました。特にミスティコ選手はすごすぎるでしょう。なんで、あんな大技の後で、普通に着地して立っていられるんでしょう。本当に「神の子」ですね。それこそ初代タイガー以来の衝撃でした。
 プロレスには「強さ」が必須です。しかし、何度も言うように、「強さ」の表現はいくらでもあると思います。その多様性こそがプロレスの醍醐味でしょう。ミスティコ、アベルノ両選手の闘いには、「華麗さ」「美しさ」という「強さ」の表現があったと思います。つまり、私の言う「強さ」とは、その究極の表現に至るまでの、精神と肉体両面での「才能」と「努力」が感じられるということなのです。
201101230861 そういう意味でメインのIWFPジュニアタッグ選手権は、これまたとんでもない高度な攻防になりました。飯伏幸太、ケニー・オメガ、田口隆祐、プリンス・デヴィット…昨年のベスト・バウト(年間最高試合)を獲ったこの4人の闘い、はっきり言ってどこまで進化するのかという驚きの内容になっていました。もう言葉では表現できませんね。これは完全にスポーツを超えています。
 そういうものを、「いや、これは本当のプロレスではない!」とおっしゃる方もいると思いますが、私は素直に感動しました。やはり、先ほど述べた「強さ」の裏のとんでもない才能と努力を感じるんですよね。そして「アイデア」。常に新しいものに挑戦していくのは、本当に大変なことだと思います。あの4人にはそれが全てありました。
 この世界を、世の中の人が知らないというのは、実にもったいないことです。プロレスに興味がない人、プロレスを全く知らない人、あるいは昔のプロレスに興奮していたけれど、今のプロレスは全く知らないという人にも、とにかく観ていただきたい。私の言葉ではとても表現し尽くせませんから。
 それまで展開されていたルチャの世界を、あっという間に塗り替えてしまった「日本の最先端のプロレス」。ある面では間違いなく世界一ですね。
 ベスト・バウトを獲った昨年のこの4人の闘いがYouTubeにありました。ぜひご覧下さい。今回はこれをさらに上回っていたと思いますよ。
 とりあえず盛り上がった後半だけでもどうぞ。いやあ、特に飯伏はすごすぎます。プロレス界の宝です。

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2011.01.22

『偽書「東日流外三郡誌」事件』 斉藤光政 (新人物文庫)

Imgphp 群に面白い!
 全450ページにわたる長編ドキュメンタリー、ルポルタージュですが、あっという間に読みきってしまいました。
 私の人生は「偽書」と深く関わっています。偽書抜きでは語れません。私自体が「偽書」みたいなもんですから(笑)。ハッタリ人生。
 この前も「偽書の精神史」を紹介しました。そして、近いうちに「教科書」という「偽書(偽史)」についても書こうと思っています(!)。
 もちろん私は単純に偽書(偽史)を信じているわけではありません。そしてそれと同様に、「正史」と言われるものにも常に疑問を持って接しています。いや、世の中には「正史」なんてものはないと思っています。全ての歴史書は「偽書(偽史)」であると考えているのです。
 そして、その「モノガタリ」が存在したという事実と、それを「カタル(語る・騙る)」人の心の中に「真実」があると考えています。
 どうしてその「モノガタリ」は存在しているのか。どうしてその人は「モノガタリ」しなければならなかったのか。
 この本で扱われているのは、「戦後最大の偽書」とも言われる「東日流外三郡誌」です。その「モノガタリ」を「騙った」のは、和田喜八郎です。今となっては、彼はほとんど詐欺師の扱いを受けていますが、なぜここまで壮大な「ウソ」をつかねばならなかったのか。
 これは他の「古史古伝」にも共通していますし、いわゆる教科書に載っているような、古事記にも、日本書紀にも、神皇正統記にも、大日本史にも言えることです。
 私はもう四半世紀以上にわたって「宮下文書(富士古文献)」を研究しています。これなんかも、時代は違えど内容や成立状況は「東日流外三郡誌」とほとんど同じと言えます。
 では、私は、この本における「古田武彦」なのかというと、これまた全く違うんですね。私の専門分野である日本語学の立場からすると、それはもう完全に近世以降の書であるわけですが、だからと言って内容が全て妄想だとはなかなか言えないわけです。たとえ妄想にしても、やはりその妄想にはなんらかのルーツとなる情報があるはずです。そこに興味がある。
 それは和田さんにしても同じですね。そう、このルポでは、そのあたりもたくさん出てきます。つまり、「東日流」に関しては、「妄想家」の「妄想」のルーツが暴れることによって、それ自体が「偽書」であることが証明されていくんですね。
 ではでは、私もまた、その情報ルーツを知ることで、「宮下」が偽書であることを証明しようとしているのかというと、やはり違うわけです。もっと奥底にある「モノガタリ」の古層としての「モノ」自体に興味があるといいますかね。
 すなわち、私は「宮下文書」に関しては、擁護派でも偽書派でもないのです。それは、ここ以外の土地からここに住み着き、客観的にも主観的にもここに流れる「空気」を毎日感じている者として、ある意味では当然の姿勢であると思います。近づけば近づくほどに、富士山がいろいろな表情を見せてくれるのと一緒です。単なる火山と思える時もあれば、神の山だと思わざるを得ない時もあるのです。自分にとっては、その両方ともが「真」ですから。
 そういう意味では、私、「東日流」に対しても、あるいは和田に対しても、その両方向からのアプローチをしてきました。ブームになった頃には、わざわざ青森にでかけて「聖地巡り」をしました。一方で、学問的、客観的な自分は、もうすでに和田による創作であろうという予感を持っていました。
 ほとんど「偽書説」で決着がついた今でも、「偽書」だから、「詐欺師」だからもう相手にしない、とはなかなか言えません。
 10数年前に、まったく偶然ではありますが、私は東北の女性と結婚することになりました。それも「安倍氏」の末裔(苗字は「安倍」ですが「あべ」とは読みません)。そして、彼女の故郷秋田に通うたびに、私の知らない「日本」がいまだに残っていることに、本当に驚き興奮してきました。いや、私の知っている「日本」とは違う「国」がそこにあったのです。
 表面上は現代日本によるコーティングがなされていますが、その薄皮(そう、薄いのです)をはがすと、すぐに現れてくる「モノ」。これは間違いのない私の実感でした。
 そうした新たな経験や、富士山麓での生活を積み重ねるうちに、また新しい視点というか、感性というものが生まれ育ってきたような気がするんですよね。「東日流」に関しても、またちょっと今までと違ったとらえ方ができるようになってきた。
 この本でも語られている、まつろわぬ者の、敗者の、弱者の「コンプレックス」「ルサンチマン」…これらは実に根深い。ここ富士北麓でもそうなんです。しかしまた、そういう片づけ方だけでは浮かび上がってこない根本的な「何か」がある予感もしています。そこがこれからの課題です。
 その一つのアプローチの方法が、もうすぐ書こうと思っている「教科書という偽書」問題に象徴される戦後教育、そしてそれを生んだ戦争思想、もちろんその原因となった戦争自身との関係を探るというものです。
 そしてもう一つが「霊的」なアプローチ。こちらのインタビューにも述べた、歴史やその記録を超えた、あるいは言語や科学を超えたところでの意味の探求です。これは一歩間違えば危険な「オカルト」になりかねませんが、そのへんは私は大丈夫ですからご安心ください(笑)。
 それにしても、この「戦後最大の偽書」を産み続けた和田喜八郎という「詐欺師」、いや「妄想家」のそのエネルギーの源泉はなんだったのでしょうか。一種の虚言癖、病気であると言って片づけることもできるでしょう。でもなあ、なんか妙なシンパシーも覚えるんだよなあ…。
 いずれにせよ、「日本の偽書」「トンデモ日本史の真相」の記事にも書いたように、「偽書派」が感じていない、あるいは避けている「モノ」を、私なりに追求していきたいと思っています。
 今までこういう世界に興味を持っていなかった方も、ぜひこの本をお読み下さい。そのへんの二流小説よりずっと面白いし、ジャーナリスト(新聞記者)ならではの、無駄のない、しかし必要十分にして正確な文章表現が素晴らしい。そして絶妙な立ち位置から見えてくる、人間の、世の中の実像がなんとも魅力的ですよ。
 
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2011.01.21

BUMP OF CHICKEN 『COSMONAUT』

51bjai2s5il_sl500_aa300_ くなりました。ようやく書きます。
 なんで今日かと言いますと、「BUMPがドラえもん主題歌…ボーカル藤原が大ファン」というニュースがあったからです(友達の唄…いい曲ですね)。あっ、やべ、レビューしてない!と思い出した、いや思い直したのです。
 そう、忘れていたのではなく、なんだろうなあ、ちょっと「感想」が出てこなかったのです、この1ヶ月。
 バンプの場合、リリース間隔があきますし、音源以外の話題もあまりないので、一つ一つの記事がついつい重いものになりがちでした。ある意味それだけ期待度も高いということですね。
 で、今回のニューアルバムが、その期待どおりだったかというと、これがなかなか微妙なのです。いや、いいとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういうレベルではなくて。
 今までもそうだったわけですが、アルバム発売前に、何年かにわたって優れたシングルが発売され、そのたびに感心し、聞き込み、感情移入してくるじゃないですか。そして、そういうシングル(カップリングも含めて)がアルバムの半数近くを占める「ニューアルバム」が発売される。
 これは、他のバンドでもそうなんですけどね。最近の日本の音楽界の傾向です。いや、最近ではないな。昔からの、ですね。アルバムからのシングルカットではなく、アルバムが半ベストになる。
 だから、今回のアルバムも、アルバム先行型だったら、もう「これはすごい!」と純粋に思えたと思うんですね。せいぜい、1曲の先行シングルカットくらいの感じだったらなあ…。
 もったいないような気もするんです。他のバンドでもそうなんですけれど、さっき言ったようにシングルをある種の「思い入れ」や他の事象との「共時的体験」として受容しているとですね、どうしてもアルバムで初めて聴く曲とのバランスが悪くなってしまうんですね。まさに「思い入れ」と「共時的体験」としてのバランス。
 それで1ヶ月温めてみたわけです。何回もアルバムを聴くことによって、「差」を縮めて、そのバランスを取ろうとした。しかし、なかなかそれがうまく行かなかったんですよね。「差」は縮まるけれど、ゼロにはなりませんからね。
 今までもいろいろな機会にそういう違和感を抱いてきたわけですが、どうして今回は特にそれを感じるのかなあ…と思ったら、やっぱり今回の藤原くんの歌が、今までとは変わってきていることがその原因のようです。
 彼も30歳の壁を越えて、いわゆる「大人」になってきたということでしょう。音楽的にはより一層洗練されてきたと思います。実際、今回のアルバムで新しく採り入れられた「音楽的テクニック」をいくつか指摘することもできます。また、歌詞(詩)の世界観、スケールもより大きくなったように感じますね。
 今まで彼の世界観を愛情をこめて「永遠の中二病」みたいに言ったこともありましたが(笑)、今回はちょっと違うイメージを抱きました。いや、もちろん、全ての芸術は「永遠の中二病」からしか生まれないものだと信じていますけれど、なんというか、ほら、中二病にもいろいろあるじゃないですか。ここにも書いたように(笑)。
 私も今年47歳になりますが、いまだに「中二病」的なモノを持ち続けていますし、持ち続けようと思っています。しかし、たしかにそれはあの頃やあの頃とは「質」が大きく違ってきています。まあ当たり前ですね。そして、それとともに、同志や友人も変わってきました。
 たとえばこのブログなんかも、私にとっては私のそうした壮大な妄想の現場(実験場)になっているわけですが、7年前とはその質も内容も変化していますし、読者も変ってきていますよね。
 私のような凡人と天才藤原基央くんとを並べて語るのは申し訳ありませんけれど、私もまた30代にはそれまでとは明らかに違う世界観、自分観を持つようになりましたし、40代にはもっとドラスティックでドラマティックな変化がありました。
 その傾向を一言で言うなら、やはり「他者意識」「世界意識」「宇宙意識」の拡張でしょう。ホンモノの「中二」が、他者に対して反抗することによって、相対的に「自己」と戦い、「自我」の変革を画策したのに対し、今度は「他者」自体の変革を願うようになるというか。
 以前のバンプの歌には、「自己の共有による普遍性」という力がありました。藤原くん自身の「自己」との格闘が抽象的な言葉によって一般性を帯び、同世代の心に響いてきたと思います。私は全く同世代ではありませんから、どちらかというと「ノスタルジー」として共感していましたし、若者への(中二病への)応援という気持ちで聴いていましたが。
 それが、今回のアルバムでは、より雄大なスケールになっているような気がします。「天体観測」と同様、宇宙へのまなざしがあるとしても、その実視界は大きく広がっていると感じます。すなわち、彼の持つ望遠鏡の接眼レンズの、見掛け視界や焦点距離が変化したのでしょう。
 昔ながらのファンは、そこに何か物足りなさを感じるかもしれません。それは「もっと高倍率で木星の表面を観てみたい!」という思いかれしれませんし、「もっと叫びを聴きたい」という思いかもしれません。
 そういう意味では、私と彼らの音楽や詩の世界とは常に距離があるわけで、いや、それは全てのファンにとって同じでしょうが、その変化のタイミングのズレによって、ある種の「違和感」が生じるのはしかたのないことです。
 いつも書いているように、変化(気づき)のタイミングの早さ、すなわち私たちの一歩先を行くのが「天才」の証であり、宿命なのですから。
 だから、このアルバムは、多くのファンにとって、真の理解、共感までに時間がかかる作品かもしれません。より年輩の私でさえそう予感するのですから、若い人たち、彼らと同世代の人たちには、ある意味厳しいけれども、しかし価値ある内容なのかもしれません。
 そうして長い時間、いや時を超えて人に気づきを与え、人を導くものこそ、私は真の名盤であると思います。やはり、彼らはホンモノのアーティストですね。
 ちなみに、私、今回のシークレット・トラック、けっこう好きです(笑)。

Amazon COSMONAUT 友達の唄

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2011.01.20

『世代をつなぐ鉄道ブーム』 (NHK クローズアップ現代)

Photo29891 つのまにか、てっちゃん、鉄ヲタの時代は終わり、みっちゃんから鉄子、鉄女、そしてそれらも細分化され、子鉄、ママ鉄などなど…なんとも感慨深いですなあ。
 昨日は自転車の話を書きましたが、今日は電車の話。ともに私の少年時代の趣味であります。昨今の自転車ブームも、また鉄道ブームも、その牽引力は「昔の少年」、すなわち我々のような世代にあるのではないでしょうか。
 まあ、あの時代の男子にとって両者は定番ですからね。小学校時代の私もご多分にもれず、鉄道ファンでしたよ。東京に住んでましたし。いっちょまえに一眼レフを振り回して写真を撮るわ、HOゲージを集めるわ、時刻表を眺めるわ、それこそ「鉄道ファン」を購読するわ…。立派な鉄ちゃんでしたね。
 あの頃、一緒に活動していた友人は、その趣味が高じて、今では改札システムのプログラミングなんかやってるようですよ。
 あの頃の男子にとっては、まず「メカ」としての魅力があったのだと思います。巨大メカですね。これはもう男子の本能ですから。それが見えない何かに制御されている。つまり「ダイヤ」によって整然と稼働しているという魅力ですね。
 あとは単純に、距離的な移動の快感でしょうかね。知らない街につながる不思議。
 いろいろな魅力があるのが鉄道の世界ですね。
 それが、今、ブームであると。それも女性が鉄道に萌えている。ふむふむ。
 今日の紹介のされ方とはちょっと違いますが、たとえば以前紹介した「青春鉄道」なんか、いかにも女性らしい鉄道の楽しみ方ではないでしょうか。
 まあ、それとは別に、社会学的にこのブームを分析してみましょうか。ワタクシの「モノ・コト論」もまじえて。
 今日の番組の解説にもありましたとおり、現代日本では、たとえば家族や宗教といった社会の紐帯がどんどん失われていますよね。私たちは徹底的に「個人」に分解されてきました。
 たとえば、自家用車をもって、自分の「個室」の中で、好きな音楽をかけて、行きたい所を目指して、自分の都合の良い時間に出発し、休みたい所で休み、通りたい道を通って行くわけです。これは、ある意味では理想的な生活スタイルですよね。
 電車においても、たとえば通勤電車という単なる移動手段の中では、皆それぞれがイヤホンをしていたり、ケータイの画面を注視していたり、結局「個」としてただそこにあるだけじゃないですか。
 かつては愛社精神に支えられて一つの家族的(人間的)集団だった会社も、今やほとんど人間の機械化が進み、結局それぞれの「部品」の集合体になってしまっています。
 学校もまた、「事なかれ主義」の横行などにより、「第二の家庭」という雰囲気はなくなってしまいしまた(ウチの学校はそういう意味ではずいぶんと保守的ですけど)。
 メールやケータイ、ネットの発達による逆説的な孤立についても言うまでもありません。
 そんな実に利己的で無味乾燥な世の中において、私たちは、どこか寂しさや哀しさを感じているんですよね。あたたかい何かが欠如している。
 すなわち、私たちは「自分の思い通りになる」という「コト」を極めようと、近現代を疾走してきたわけですよね。それが極まりつつある今、逆に自己の埒外の「モノ」を求めるようになったのではないでしょうか。
Photo29892 その一つの在り処が、「鉄道」であったと。
 鉄道はたしかに、非常に保守的なメディア(媒体)です。
 基本、その実質は明治時代から何ら変わっていないとも言えます。昭和時代に、少年が感じた魅力がほとんどそのまま生きていますよね。
 すなわち、他者の意思(コト)に制御されたシステムは、実は自己にとっては「モノ」だということです。路線や駅やダイヤの設定にせよ、あるいは車体のデザインなども、他者によって決められたコトであって、それはすなわち私たち利用者にとっては不随意なモノとなるわけです。ある意味選択肢が限られている。
 しかし、それを、たとえば時刻表や路線図を解読して、ある程度自分の意志のもと選択し組み合わせていくというような、自己の「コト」性も絶妙に介在するじゃないですか。それがまたいいんですよね。そのバランスが、アナログっぽいし、今となってはアナクロっぽい。
 もちろん、本質的に付随する空間移動的な「旅」や、人生の象徴としての時間移動的な「旅」も大きな魅力です。
 また、あの閉じた空間の中で、たまたま乗り合わせた他者(偶然性といい、他者性といい、まさに「モノ」ですな)と、ほとんどある種強制的に時間を共有するわけじゃないですか。そこには、現代の我々(特に女性?)が渇望する「出会い」があるわけですよね。それがまたいい。
 今まで面倒だとして放逐してきた「もののあはれ」が鉄道にはあるのです。
 というわけで、ここ数年の鉄道ブームや自転車ブームの意味もよく分かりますよね。
 私も最近は車でばかり移動していて、電車や自転車に乗ることが極度に減りました。私もブームにあやかりつつ、忘れてきた何かを取り戻す「旅」に出てみようかしら(笑)。

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2011.01.19

YS-11 (超軽量自転車)

070603ys1100 だ買ってないけれど、今ほしいものの一つ。
 YS-11と言えば、私たちの世代には懐かしい国産旅客機ですよね。本家YS-11は、間もなくそのフライトを終えます。15日には海上保安庁保有の「ブルーイレブン」がその役目を終えました。あとは、自衛隊に残る数機でしょうかね。
 YS-11は昭和39年に初就航しましたから、私と同い年ということになります。これだけ息長く製造され利用されたというのはすごいことですね。新幹線でさえ、0系は2年ほど前に引退しました。
 いかにその技術力が高かったか、そして設計、製造に対する職人、技術者たちの「魂」「志」が高かったかということでしょうね。今の日本に必要な何かがそこにあるような気がします。
 さて、そんな名機の製造に実際に関わり、のちにトヨタで自動車や自転車を開発していた方が設立した「バイク技術研究所」が、これからの時代を見据えて開発、製造、販売しているのが、こちら自転車版の「YS-11」であります。
 この正月に、義理の兄が折畳み自転車を持参して静岡に来まして、実際サイクリングを楽しんでいたんです。その様子を見まして、私も昔のように自転車ライフをもう一度楽しもうかなと思い始めたというわけです。
 今住んでいる富士山は、なにしろ富士山ですから、全ての道が坂道、あるいは山道という状況ですので、年をとってからはなかなか自転車に乗る機会がなくなってしまいました。
 独身時代、今となっては伝説の名車となってしまった(?)、ブリヂストンの初代マウンテンバイク「MB–1」に乗って道なき道を走っておりました。当時は自動車もジムニー。今では想像できないかもしれませんが、私はオフローダーだったのです。富士山一周とか普通にしてましたからね。
 ちなみにMB−1、今でも地下に眠っています。修理すればまだまだ乗れますね。しかし、さすがにあのkクロムモリブデンフレームは重い。たとえばあれを車に載せて運ぶとなると、ちょっと今の状況では無理ですし、かと言って家からどこかに行くとしても、なにしろ富士山ですので、そこまでの根性は出ないというのが本当のところです。
 そこで、私も義兄にならって、軽量コンパクトな折畳み自転車がほしいなあと思っていたのです。たとえば、私はしょっちゅう車で東京に行きますけど、車を駐車場に置いてからの足に自転車も面白いかなと。最近は東京散歩の楽しみも覚えてしまったし、ま、いちおう「エコ(エコロジー&エコノミー)」の観点からしても、また世の趨勢(ブーム)からしても自転車は大いにありかなと。
 そこでいろいろ調べていて目に付いたのがこの「YS-11」だったのです。もちろん職人技術の塊という意味でも魅力的でしたし、やはりその軽さ(7.3kg!)、手軽さ、そして価格の安さという面でも、非常に魅力的だと感じるのです。
 まあ、実際のところ、小径折りたたみ自転車ですから、その剛性や乗り心地に期待することはできないと分かっていますよ。それより何より、軽くて運搬が楽だというのが最大の魅力なわけでして。街中を歩いたり走ったりする代わりに使おうというのですから。
 海外製も含めて同種のものはいくらでもありますけれど、やはりある種の変わり者であるワタクシといたしましては、このようなちょっとマイナーな製品に憧れてしまう習性はいかんともしがたいのですね。
 というわけで、春になったら購入するかもしれません。それまで、ライバル車種も含めていろいろ研究をしたいと思います。YS-11自体、いろいろなグレードがありますからね。どこまで軽さを求めるか。価格との相談もありますし、変速機を付けるかどうか、あるいはハイブリッド(電動アシスト!)という選択肢もあるわけだし。まずはどこかで試乗したいですね。

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2011.01.18

ありがとう…

Gedc0122 得いかない(笑)センター試験の日、我が中学校では一般入試が行なわれました。
 この富士山は、その帰り、ウチの近くで撮影したものです。なんとも美しかったのですが、写真ではなかなかうまく再現できませんね。
 さて、いつものとおり、国語の試験の本文を公開いたします。先週の「将来の夢」に続きまして、今回は「ありがとう」という文章を書いてみました。
 なんとなく仏教くさいのは、単にウチが仏教系の学校だからです。最初は「おかげさま」という題で書き始めたのですが、いつのまにか違う方向に行ってしまったので、タイトルを変更したという次第です。
 難しい漢字が出てきますが、もちろん試験ではルビが振られていますよ。


   ありがとう

 みなさんは、生まれてから何回「ありがとう」と言いましたか?
 数え切れないほど言ってきましたか?
 それとも案外少ないでしょうか。
 「ありがとう」という言葉、漢字で書くと「有難う」となります。「有難い」とは字のとおり、「有ることが難しい」という意味ですから、言いかえると「めったにない」ということになります。
 「めったにない」…えっ、そうだとしたら、「ありがとう」という言葉、頻繁に使ってはいけないのか…いえいえ、そうではありません。私たちはいつでも「ありがとう」と言っていいのです。
 日々当たり前のように、朝起きて、学校へ行き、友だちと笑い合ったり、場合によってはケンカをしたり、そして家に帰ってきて、ご飯を食べたり、テレビを見たり、ゲームをしたりして、眠くなったらふとんにもぐる…そんなことが、実は奇跡的なことだと考えたことがありますか。
 いや、それ以前に、自分がこの世にいること自体が、実は「めったにない」「ありがたい」ことだと意識したことがありますか。
 ではここで、今の自分が生まれてきたことの「ありがたさ」について、一つのヒントを与えましょう。
 あなたのお父さん、お母さんには、それぞれお父さんとお母さんがいるでしょう。つまり、おじいちゃんとおばあちゃんはそれぞれ二人ずつ計四人いることになります。その四人にまたそれぞれ二人ずつの両親が必ずいますから、あなたのひいおじいちゃんとひいおばあちゃんは全員で八人いることになります。
 今、あなたから三代さかのぼっただけで、もう八人のご先祖様がいることになります。ためしに十代さかのぼってみましょうか。その数は千を超えます。三十代さかのぼると、さあ何人のご先祖様が現れるでしょうか。その数なんと十億を超えるのです。驚きですね。
 三十代前というと、だいたい平安時代の終わりくらいではないでしょうか。そのころの、あなたのご先祖様の一人に「太郎」という男の人がいたとしましょう。
 太郎は幼い時に熱病にかかり、一度は死にそうな思いをしました。また、青年になったころには、地方の戦乱に巻き込まれて、家が焼かれ田畑も奪い取られてしまいました。結婚して子どもができたころには、大変な飢饉があって、毎日食べるものにも事欠きましたが、自分の食べるものは最低限にして、なるべく子どもに分け与えました。
 たとえば「太郎」一人とっても、こうして、それこそ命がけで命をつないできたのです。そういう人が十億人いて、今のあなたの命があるのですね。十億人ですよ。もし、そのうちの一人でも、その命を奪われていたら、あるいは自分や子どもの命を粗末にしていたら、もうあなたはこの世にいないことになります。
 どうでしょう。ほら、今あなたがここにいることは、実に「ありがたい」「めったにない」ことですよね。もちろん、人間の歴史はもっともっとさかのぼれますし、それぞれの人のそれぞれの運命も無限に可能性があります。たとえば、太郎が誰か違う人と結婚していたら、今の「あなた」はいないことになります。
 もうこう考えると、今ここにいること自体に「ありがとう」と言わねばならなくなります。もちろん、元気に平和に暮らしていることにも。
 しかし、人間はなかなかそういう意味で「ありがとう」と言えませんし、思えません。逆に「なんで自分ばっかり」とか、「あれがいやだ、これがいやだ」とか、不満ばかり言っています。そして、場合によっては、自分や他人の命を粗末に扱ったりもします。困ったものですね。
 自分や世界の未来に思いをはせるのもいいものですが、こうして、自分や世界の過去を想像してみるのもまた大切なことではないでしょうか。未来より過去が、あなたの価値を高めてくれることもあるのです。
 「ありがたい」「めったにない」存在である「私」。たくさんの人たちの命がけの命でできている、かけがえのない「私」。
 そういうことを意識すると、今度は自分の命だけでなく、ほかの人の命も大切にするようになります。
 たとえば、あなたの嫌いな人、苦手な人にも両親がいて、祖父母がいて、曽祖父母がいて、三十代前には十億人以上のご先祖様がいてと考えると、やっぱりその人の存在自体が「ありがたい」ものだと感じるようになります。
 たとえ気の合わない者どうしでも、奇跡の存在と奇跡の存在が出会ったのですから、それなりの意味があるはずですね。そう考えると、急に今までの感情がつまらないものに思えてきたりします。
 また、ご先祖様の大変なご苦労を思えば、今の私たちの悩みや苦しみも大したことないと気づくかもしれません。こんな平和な時代に、こんな平和な国に生まれただけでも、実に「ありがたい」ことですから。
 さあ、こんな自分やご先祖様や家族や友だちに、思いっきり「ありがとう」と言ってみましょう。言うのがはずかしければ、ただ強く思うだけでもいいのです。仏壇に手を合わせなくとも、寝る前にふとんの中で、ふと「過去」に思いをはせてみるだけでいいのです。 

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2011.01.17

阪神淡路大震災から16年

Img_458037_11625207_0 日は中学生に「最後の弾丸」を見せました。「将来の夢」に関わる授業の一環です。
 感想を書いてもらって驚いたのは、「戦争がどういうものか初めて分かった」とか「戦争の映像を見るのは初めてだった」ということです。
 先日作文してもらった「将来の夢」には、さんざん「戦争のない世の中」のようなことを書いていたのに、その「戦争」に関する知識やイメージがほとんど全くないのには驚きました。つまり、彼らにとっての「戦争反対」は、大人に押しつけられたお題目にすぎなかったのです。
 こういう時代ですから、そういうことも想定はしていましたが、その程度のひどいのに正直驚きました。小学校では、あるいは家庭では、そういう勉強をしてこないのでしょうか。
 しかし考えてみると、たとえば彼らは1995年に起きた、この阪神淡路大震災もオウム真理教による地下鉄サリン事件も知らないのですよね。だから、70年前のことをほとんど知らなくてもしかたないのかもしれません。
 これだけ情報が溢れる時代になったのにもかかわらず、こういう大切なことが語り継がれないのはどういうことなのでしょうか。私は学校教育の責任も大きいと思いますよ。教科書という、まさに「お題目」だけしか教えていない学校、そして教師も多いのではないでしょうか。
 平和教育、反戦教育もどこか空々しい偽善や悲話や美談に成り下がっているように感じます。生理的な恐怖、嫌悪感も大事であり、それこそがベースになっていいとは思いますけれど、そこで終わってしまうのではなく、「なぜ」と「自分たちにもそういう可能性がある」ということを認識しなければいけません。
 これは戦争に関することだけでなく、環境問題や道徳(人道)教育にも感じられる傾向ですし、たとえば阪神淡路大震災やオウム事件に関してもそうです。今日のマスコミの報道のあり方にも大いに疑問を感じました。
 …と言いつつ、今日はまたある意味トンデモない視点からのお話になります。まあ、ここは教育現場ではないのでいいでしょう。現場ではこんな話はしませんからね(笑)。
 皆さん、「富士と鳴門の仕組」というのを御存知ですか。知っていたらかなりマニアックですよ。
 出口王仁三郎の霊界物語や岡本天明の日月神示に何度も現れる言葉です。詳しく説明すると大変なことになるので、軽く申しますと、まあ世の中の大転換が起きる時に必要な、「陰陽合一」「エネルギーの出入り」などを象徴する言葉です。
 1995年は、ある意味、その「富士と鳴門」で大きな動きがあったわけですね。鳴門付近で大地震が起き、富士山麓にオウムが鳴いたわけでして。
 この年を境に日本は大きな変化を遂げたと感じます。ある意味正しい経綸のピンチだったわけですから。しかし、それらのピンチをなんとかしのぎ、再び平和と繁栄が当地に戻ったのも事実ですね。それぞれの事実は大変辛く厳しく悲しいことでありましたが、そこで失われた尊い命の数々のためにも、やはりそれらの試練は私たち日本人、いや地球全体にとって必要なことであったと思いたいものです。
 出口王仁三郎の霊界物語には、この両悲劇を予言したような箇所があります。
 オウム真理教については、同物語の中で悪神教団として登場する「バラモン教」がそれそのものという感じがしますね。霊界物語には、バラモン教は「霊主体従の本義を誤解し、肉体を軽視し、霊魂を尊重すること最もはなはだしき教へなり」とあります。具体的には異常なほどの戒律主義、原理主義の傾向を持ち、また、自らの主義のためには暴力も辞さない集団です。そして、聖地たる天教山(富士山)を狙って侵攻したりしますから、まんまオウム真理教のようですね。
 そして、阪神淡路大震災については、霊界物語69巻に次のような部分があります。前後もいろいろあるのですが、ポイントだけ。この歌を読んでみてください。

 東路の地のさはぎを余所にして静かに浮ぶ淡路島山

 この歌は大正12年、王仁三郎が神戸から四国に向かう途中読まれたものです。大正12年と言えば関東大震災ですね。その3ヶ月後くらいです。ですから、「東路の地のさわぎ」とは関東大震災のことです。
 それだけなら、全く予知歌ではないのですが、出口汪さんのお父様出口和明さんらの研究によると、この歌を作った大正12年旧暦12月12日は新暦に直すと1月17日だそうで、その72年後に阪神淡路大震災が起きたということなんです。
 霊界での出来事が我々の現実に移写されるというのが、王仁三郎の、そして大本の基本的な考え方(ひな型理論)です。もしそれが本当だとしたら、霊界物語が的中率100%の予言書であるというのも当然と言えば当然。ま、あくまでファンタジーの世界ですがね。私は趣味として、これからもっとちゃんと読んでいこうと思っています。
 また、いちおう正統の日本の神話の世界でも、淡路島はとても重要な場所ですね。日本列島発祥の地です。そういうところであのような惨事が起きたこと、また、ある意味全く逆の形で神話からオミットされている富士山であのような事件が起きたことの意味を、再びよく考えてみる必要がありそうです。

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2011.01.16

婆さんと猫…(2011 センター試験 国語)

20110117_94938 ンター試験国語、小説は加藤幸子さん「海辺暮らし」からの出題でした。
 昨日、評論の正解に異議を申し立てましたが、こちら小説は問いに苦言を呈したいと思います。
 ただ、前提としてですね、以前も書いたように、センター試験の国語には小説の問題を出すべきではないと思っています。
 小説という「文学」における主観のあり方と、客観テストの性質は、やはり相容れないからです。もちろん、情報としての、テクストとしての小説を客観的に処理するという出題のしかたも可能だと思いますが、それは評論の問題で充分ですから。
 ただ、そうしますとですね、一般的な(私は違いますが)国語の授業のあり方、すなわち「文学鑑賞」と、大学入試の国語とはどんどん乖離していきますね。
 私はいろんな研修会などで言わせていただいているとおり、「文学鑑賞」は「芸術」科目でやるべきだと真剣に考えています。「美術」「音楽」「文学」とね。
 では、「国語」では何をやるか…それはもうお分かりでしょう。ちゃんと言語の勉強をすべきだということです。戦後国語教育の問題を語り出すとキリがないので、またいつか。
 で、今回の「海辺暮らし」です。いやあ、なかなか面白い作品でしたね。それこそ「文学」として自分なりの「鑑賞」をしたかったですねえ。そう、それでですね、結局今回も「解釈」や「鑑賞」に関わる問題があって、それが問題なわけです。
 ずばり、問5と問6。予備校さんなんかも「根拠が薄い」と評している問題です。これら、もちろん受験テクニックとしての消去法で臨めば(すなわち、本質的な「問題」には目をつぶり、自己を滅却して、ただ勝ちに行けば)、正解することは難しくないでしょう。
 しかし、それがはたして「教育」の一環としての「試験」のあり方なのか、非常に疑問であります。
 あの本文の後半部分は、まさに「文学」的で文章であり、いわば散文詩に近い文体と表現をとっています。だからこそ、心にしみる名文だと思いますし、理屈ではなく純粋に味わいたいところなんですよね。
 たとえば私だったら、あの1行あけのあとは、ほとんど幻想に近いととらえたいわけです。夢ですね。特に「おいで」という声の後は、実景の描写じゃないでしょう。
 たしかに「死」の影が感じられる表現が並んでいますから、まあ問5はギリギリ良しとしましょう。私は私の感性に従って正解できました。ただ、それはある意味たまたまのことであって、実際には「解釈」は無限にあると思いますから、客観テストとしてふさわしいかは疑問です。
 問6の一つの解答3は情報処理的にも導けると思いますが、5はどうでしょうねえ。これを積極的に選択するのは無理でしょう。
 私なんか、先ほど書いたように、あの部分自体が幻想(夢)の描写なので、単純に「(ルルではない)猫の鳴き声が聞こえた」→「よく見るとルルだった」→「行ってみたらやっぱりルルではない知らない猫だった」という、いかにも夢にはよくありそうな展開と読んでしまいました(変ですかね?)。
 最初から「お治婆さんとルルとの心理的距離」とは無関係な表現とも取れますし、あるいはそういう幻想の中に両者の心理的距離が象徴されているともとらえられるわけで、もう問題としての「客観性」なんていうのは到底存在できないことになってしまいます。
 だから、そんなモノを問題にするなと言うのです。それで受験生の人生を左右するなと。
 まあそれ以前に、あれだけのテクスト(情報)では、「解釈」や「鑑賞」すら難しいですね。全文何度も読んだ上で作問している作成委員のセンセーと、ほんの一部だけを読まされている受験生との間で、いわゆる「会話」が成り立つはずがありません。あまりに条件が違いすぎます。
 ですから、もし小説の問題を出すならば、短編を丸ごと出してほしいし、それが無理だったら、リード文をもっと詳細で的確なものにしてほしい。そう思います。
 と、まあこんな感じですね。受験生の立場に立てば、こうしてある意味あきれてしまいますし、しかし一方で、作問者の立場になれば、平均点を6割にするためには致し方ない手段なのかなと、少し同情する気持ちもわいてきます。
 非常に難しいところですね。ちなみに私はもうここ何十年も、小説で問題を作っていません。私にはそんな勇気はありません。
 ここまで書いてきたような「国語教育」の問題について、もっと真剣に「国語教師」たちは考えなければならないでしょう。もっと話し合わなければ。
 昨年のK教授と恋路大将にやられた!?の記事では、多少国語教育界に波風を立てることができました。昨日の記事にはいまだなんの反応もなし。今日の記事についてはどうでしょう。
 
「国語」問題・解答

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2011.01.15

評論の「正解」に異議あり! (2011 センター試験 国語)

Kokugo_001 う毎年恒例になりましたね、ワタクシによる、歯に衣着せぬセンター評。今年も書かせていただきます。さあ、今年も大変なことになってますよ!ww
 問題が出たのが夜遅く、早寝の私としてはおネムだった上に、もうすでに酒もかなり回っておりましたから、あんまり論理的ではないかもしれませんが(苦笑)。
 昨年のK教授と恋路大将にやられた!?はなかなか好評でして、いろいろなところからいろいろな反響をいただきました。ありがとうございます。
 あの記事のおかげでしょうかね(笑)、古文も比較的読みやすい有名作品、軍記物の「保元物語」が出ました。大量の注のチェックが面倒と言えば面倒でしたが、和歌もないし(昨年と比べて極端)、軍記物ですから人間関係はつかみやすいし、基本的に悪い問題ではなかったと思います。
 ついでに漢文。こちらも読解に根性が必要なだけで、文法的な学習も生かされる良問であったと思います。特にコメントなし。
 評論は鷲田清一さんの「身ぶりの消失」。鷲田さんですから、非常に読みやすく、内容的にもつかみやすい作品でした。私がここのところ記事として書いてきた、「国境」「言語」「色」「牢獄」などと関連した内容でしたね。私も勉強になりました。問いも比較的簡単…かと思いきや!
 問3の正答、4?えええ、あり得ないでしょう!ちょっと、予備校さん方、まじですか?
「遊園地のように、その場所で行われる行為を想定して設計された空間では、行為相互の偶発的な関係から空間の予想外の使い方が生み出されにくくなるから」
 日本語としてヘタクソ(「から」…「から」とか)な上に、「遊園地」に関して、「空間の予想外の使い方が生み出されにくくなる」理由として「行為相互の偶発的な関係」を挙げるのは、これはダメでしょう。明らかに不正解です。違いますか?
 「行為相互の偶発的な関係」は、これは青木さんの文章の、「原っぱ」についての言及部分「たまたま居合わせた子どもたちの行為の糸がたがに絡まりあい、縒りあわされる」を一般化した表現ですよね。原っぱの特徴を遊園地の特徴の理由とするのはトンチンカンです。つまり、これは間違った選択肢を作るための作為的な(明確な)「キズ」だと判断されます。よって、4は消去…じゃないんですか?
 もし正解にするなら、「遊園地のように、その場所で行われる行為を想定して設計された空間では、行為相互の偶発的な関係による(関係から生ずる)空間の予想外の使い方が生み出されにくくなるから」とすべきです。
 その他の選択肢の文章構造が全て、「Aのように、Bな空間では、Cの理由によりDとなるから」という形なので、4もその通りにしか読むことができませんよね。私間違ってますか?
 ちなみに私は消去法で3を選びました。あれ〜?どうなってるんだ?オレ、酔っぱらってるのか?ww
 まあとにかく、評論の「正解」に対して疑問を呈しておきましょう。とっても大変なことだと思うのですが…。
 さて、さらにひどいのは小説です…小説については明日づけの記事にじっくり書きます!!

「国語」問題・解答

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2011.01.14

500色の色えんぴつ (フェリシモ)

20110114_70435 日前に、朝の1分間スピーチである生徒がこの色鉛筆を紹介しました。
 私、知らなかったものですから、へえ〜と思ってさっそく調べてみました。なるほど、なかなか面白い。
 たしかに小学生の頃、12色の色鉛筆しか持っていなかった私は、友人の24色、36色なんてのが、うらやましくてしかたありませんでしたね。
 その究極の形がこれでしょう。えぇと、しめて36000円かあ。1本72円ですか。決して高くはないですね。三菱のは240色で定価52500円でしたから。
 しかし、実際ほしいかというと、これはまた微妙であります。フェリシモですから、月々1800円で25本ずつ届くというシステムなんですよね。それも同系色のグラデーションで25本届くとのこと。それじゃあ、絵は描けませんなあ。
 基本、並べて楽しむものなのでしょうか。インテリアとして。いや、雑貨として。そうだとしたら、やたら散らかる雑貨ですね(笑)。結局「ラック」が必要になってくる。
 つまり実用品ではないということですね。
 純粋に絵画の道具として考えても、500色というのは行き過ぎであることは、深く考えずとも解ります。いったい有名な画家の誰が500色の絵の具を使って名画を完成させたでしょうか。
 色彩表現というのは、基本、いろいろな色を混ぜる(あるいは並べる)ことによって無限の可能性を拡げてきました(もちろん、コンピュータ・グラフィックスでは、また違った、ある意味でアナログ的な色調変化をさせているわけですが)。
 こうした色の細分化というのは、実はデジタル的な行為であって、それが芸術のためになるとは限らないものなのです。
 つまり、我々は一瞬、こうした膨大な選択肢を見ると、それが創造的な行為につながるような錯覚に陥るのですが、実際にはその逆であって、案外その牢獄の不自由さに創作意欲をそがれるものなのです。昨日の「国境」の話と同様ですね。
 それはちょうど「言語」による世界の分節という、よくある言語学的な物言いと似ていますね。本来、無限の連続性を持っているアナログ的な「色」の世界を、こうしてデジタル的に分節していくわけで、その分節の行為自体は快感ではあっても、そこから新たなる世界を再創造するのは案外困難なものなのです。
 ま、いつものワタクシ流の言い方ですと、モノをコト化する(自然を脳内で分節する)ことの快感と閉鎖性の矛盾ですな。音楽で言えば、西洋音楽のドレミや拍子や調性なんていうのの功罪がそれです。
20110115_65809 で、もう一つ、この500色の色鉛筆の大きな魅力かつ問題点は、まさに「言語」レベルでのこと。
 このシリーズの一つの売りに、「色名」があります。三菱のヤツは伝統的な呼称を使っていました(和名を含む)。しかし、こちらは、たとえば、それぞれの色に「日本海の漁火」とか「白いテラスのレモネード」とか「夕張メロン」とか「額田王の茜」とか、まあ実に面白い「なるほど!」という名前がつけてあるわけです。たしかに面白い試みですね。
 しかし、これまた、こうして特定のイメージを言語化して固定してしまうことによって、もうある種の牢獄に入れられてしまう可能性があるわけです。
 たとえば「5月の富士山」という色があるんですけど、こういうふうに特定されてしまうと、その「青」を「8月の海」に使うことに抵抗が生まれてしまう。そういうことも容易に想像されるでしょう。
 こういうのが500もあるわけです。フェリシモ的には、そこに「物語」があると言うのですが、私に言わせれば全く逆で、こちら側は常に聞き手、読み手になってしまい、創造的、想像的な「語り手」になることを阻害することになってしまうと思うのです。
 ま、だからと言って、全てにあなた自身が名前をつけてあげましょう、というのも大変ですけどね。
 というわけで、なんだか、結局おススメしてるんだか、してないんだか、よくわからん文になってしまいましたね(笑)。
 インテリア、雑貨としては面白いと思いますよ。並べ方は500の階乗あるわけですから、ほとんど無限でしょうし、それをセンスよく並べるとなると、これはもう「いろは歌」の数億倍難しいことになると思いますので、ほとんど無理です(笑)。結局グラデーションにするしかないのかなあ。それを怠ると、インテリアとしては非常に不快なものになる可能性もあるわけですよね。それもまた500という数の危険性であります。
 あらら、また結局批判的な内容になってしまった(笑)。ごめんなさい、フェリシモさん。

500色の色えんぴつ 公式

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2011.01.13

温暖化万歳!

20110114_80114

 しい時の富士頼み。
 ここ数日の富士北麓地方は、「らしい」寒さです。最低気温もマイナス10度に近くなっております。今日は夕方少し雪も舞いました。
 それでもずいぶん暖くなりましたね。ウチのあたり、富士山の標高1200メートル付近でもマイナス13度くらいです。やっぱり10年前に比べると5度くらい高い。温暖化ですかね。おかげでずいぶん暮らしやすくなりました(笑)。
 実際、富士山に住み始めて13年になりますが、今年初めて床暖房を使っておりません。小型のファンヒーター2台で全然しのげています。おかげで1ヶ月1万円くらい暖房費が浮いています。灯油も高いですからねえ。
 たしかに夏は暑くなりましたが、それでもこの辺は30度超えることはありませんから、冷房費はかからないんですよ。ある意味ずいぶんエコな生活ができてますよね。
 実は私たち、勝ち組?
 やっぱり温暖化って素晴らしいですね(笑)。いつかも書きましたとおり、温暖化して困るのは低地に住んでいる「人間」だけです。
 国境という、自らが作った境界線のために、あるいは「マイホーム」という不動産のために、我々は居住地を変えることができません。他の生物にはそんなものはありませんから、快適なところへ少しずつ移動すればいいだけの話です。
 だいいち、気温が上がって二酸化炭素が増えれば光合成が活発になりますから、植物が大喜びです。地球の生産性が向上します。すると、草食動物が繁栄し、それをまた捕食する肉食動物も繁栄。な〜んも悪いことなんてありませんね。
 実際何十億年の地球の歴史の中で、今よりも温暖だった時代はいくらでもあり、そしてその頃の生態系はそれなりに豊かで安定したものでありました。
 今ストップ温暖化を叫んでいるのは、今生産性が高い地域の先進国だけです。たとえばロシアなんか絶対ゴー温暖化ですよ。
 と、こういう視点も持たねばなりません。生徒にはそういう話もよくしますよ。政府やマスコミの論調を鵜呑みにするバカにはなるなと。もちろん、私の意見も鵜呑みにするなといいますがね。
 いずれにせよ、ここのような高地に住んでいる者にとっては、どう考えても寒冷化より温暖化の方がいいに決まっています。極端な話、ツバルが沈もうとそれはしかたないことなのです。もともと無人島であったツバルに好き好んで上陸して移住した人たちなのですから、それなりのリスクを負って当然です。
 私たち高地の人間も同様のリスクを負っているわけじゃないですか。もちろん寒冷化した場合のリスクですよ。温暖化よりも寒冷化の方が急激にやってくる可能性が高いわけですし。そんなこと承知でここに住んでいるわけだし、だいいち富士山の噴火というとんでもない「温暖化」の可能性もあるわけですからね。でも、人は心配してくれません。
 先日、生徒に「将来の世の中」について作文させたら、なんとも「らしい」文がたくさん生産されました。中でも「温暖化を止めたい」みたいな、実に無思索な偽善作文には笑ってしまいました。おいおい、お前ら、毎日寒い寒いって言ってるじゃないか。もっと寒くしたいのか?って。自分の頭で考えなさいよ。いったい小学校でどんな教育を受けているのでしょうか。
 と、今日はなんだかずいぶんヤクザな内容と口調になってしまいましたね(笑)。
 実はそれには事情がありまして…これまた実にアホくさい単純な理由なのですが。
 今日は面白い仕事が入ったんですよねえ。他校(志村くんの母校です)の不良(とまではいきませんが)生徒を四人ほど指導したんです。
 最近、貴族みたいな草食系男子ばかり相手にしているので、なんかこういう「野武士」と関わると、なんか懐かしいような、安心するような…。実はそういう連中と関わるの得意です(笑)。
 特に今、この分野に関してはホンモノのプロフェッショナルである、大ベテランの先生と一緒に仕事をしているので、実に心強い。
 で、私たちは「事なかれ主義」ではなくて、「事あれ主義」なので、全くおせっかいなんですけど、他校の生徒であろうとなんだろうと、地域の子どもを叱る時は叱るし、説教する時はするし、愛情を注ぐ時は注ぎます。
 教育は「事」があってようやく可能になるんです。今の教育界はとにかくその機会をなくすことに奔走している。リスクヘッジばかりして、結局本当の教育の機会を失っているんです。
 何事もない平和な学校では、実は何も教育がなされていないのですよ。悩みや衝突や反抗以外に、私たちが成長、変化できる機会ってありますか?
 実際、今日関わった彼らとは、もうすっかり仲間という感じですよ。心の交流ができたと思います。こういう大人、こういう先生もいるということを知ってほしかった。先方の先生はずいぶんと困惑されていましたが…笑。
 と、こんなことがあったので、気が大きくなって(気持ちが温暖化して?)、ヤクザな気持ちになって、ついつい世間に楯突いてしまいました。単純な私(笑)。ふぅ、楽しかった。

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2011.01.12

『アンドロイド“人間らしさ”の追求』 (NHKクローズアップ現代)

20110113_93215 わっ、「不気味の谷」のズンドコ、いやいやドン底じゃないですかぁ。私のツボにはまりまくりました。負のツボ。
 まず、最初に言ってしまいましょう。これって、石黒浩教授にそっくりだからコワイんですよ!石黒さん自身、どこか「ニセモノ」っぽいんですから(失礼…笑)。
 「世界を変える8人の天才」の一人。「世界の100人の生きている天才」で26位。もうこの時点で、凡人ではないのです。天才の持つ一種の異様さ…「異形」。カリスマの持つ「異常さ」を、さらに忠実にコピーしようというのですから、もうこれは現世の事態ではなくなります。
 いやあ、自分そっくりのアンドロイドを作ろうという時点で、もうおかしいですよ。なんかそういう漫画かアニメがあったような…。
 そして実際それがスタジオで相並んでいる。これを観て、皆さんはどのように感じられたのでしょう。国谷裕子キャスター、正直いつもと違ってましたよ(笑)。
 いかに生身の(ホンモノの)人間に近づけるか…外見も動きも。たしかにですね、この試み自体は面白いと思いますよ。人間の認知科学、認知心理的な視点はごもっともですし、またデザイン文化の面で考えても、大変興味深い挑戦です。
 で、天才の領域は私には分かりませんので、ここからはごく個人的な意見というか、感覚というか、経験のようなものをお話します。
 ホンモノそっくりという時の「そっくり」のレベルと「不気味の谷」の問題ですね。これは科学というよりも文化的なものだと思うのです。
 私、とっても変な感覚を持っていまして、それはですね、「ニセ富士山」に対する生理的な嫌悪感、忌避のことなんです。なんのこっちゃ?という感じですよね。
Mt_ararat たとえば、このアララト山(ノアの箱船がたどりついたというトルコの山)の写真、ものすごく「怖い」んです。だって富士山にすごく似てるじゃないですか。そして、それが二つ並んでいる。もう本気で鳥肌ものです。ものすごく「不気味」に感じます。
 アララト山だけでなく、世界中の「○○富士」と言われるもの、あるいはそう言われていなくとも富士山と似たコニーデ型の火山を見ると、こういう精神的、肉体的な反応が起きるんです。
 国内でいうと、富士山より古く、より侵食の進んだ、愛鷹山とか八ケ岳とか鳥海山なんかも、その足もとを見るだけでもうダメなんです。なんというか、それこそ「物忌み」気分になってしまう。邪悪というか、まさに「もののけ」的な違和感、どうしようもない忌避感に襲われるんですよねえ。
 ちなみにこれに共感してくれる人はあんまりいない。カミさんなんか、全然分からないと言います。
 で、これって、何かとよく考えるんですが、どうも自分の幼少期の経験から来る部分があるらしい。
 それは…なんと「ウルトラセブン」のトラウマなのです。
6b41b1e4dadc1c66 ウルトラセブンってちょっとそういう怖さがあったじゃないですか。たとえば、あの実相寺昭雄監督の名作「第四惑星の悪夢」なんか、人間そっくりの(しかし微妙に違う…ように人間が演技していた)ロボット、すなわちアンドロイドが登場しました。あれって、まさに人間そっくり(演じているのが人間ですから)なので、その怖さが倍増したんですよね。
 また、上原正三脚本の「あなたはだぁれ?」も、夜中に団地がそっくり入れ替わって、住人も本当の人間とそっくりながら、実は侵略者、宇宙人であるという設定でした。家族とそっくりなのだけれども、微妙に表情や言葉が違い、実に「怖い」「不気味」。
 ニセウルトラセブンが出てきた時も、怖かったなあ。微妙にデザインや声が違うんだもん(笑)。
 幼い私は、それらを観てとんでもない恐怖感を味わいました。今ここにいる母親が実はニセモノで宇宙人ではないのか…とかね。団地に住んでましたし。
 よく父親と将棋したんですけど、真剣に将棋をしている時の父親の顔が、それこそいつもと違うアンドロイドのようになったのもよく覚えています。実は怖かった。
 で、これって、なんなのかというと、そういう信頼する、あるいは尊敬する、崇拝するものの「そっくりさん」が実は「邪悪」な心を持った何者かであるということ、その「逆転」に恐ろしい嫌悪を覚えるということだと思うんです。
 この前の「偽書」の話もそうですし、世の中の様々な「フェイク」や「替え玉」には、どこか「悪意」が混在するじゃないですか。人をだまそうという。だますためには、なるべくホンモノに近くする必要があるし、そのマネする対象も、普段特別視している(たとえばヒーローであったり、親族であったり、王であったり)を選ぶ必要がありますよね。
 それで、その「微妙」な差異に気づいた時のショックというか、感覚の反転が、いわゆる「不気味」になるのではないかと思うのです。富士山を愛しているからこそ、ニセ富士山を嫌悪するように。
 それからですね、日本の「リアリズム」の文化というのは、西洋と比べてかなり独特です。このブログでも何度も書いてきたように、たぶん、日本人のネオテニー的な要素から来るのだと思うのですが、たとえばアニメや漫画につながる浮世絵などの日本画の伝統を考えれば分かるとおり、日本では正確なデッサン(すなわちコピー)ではなく、「デフォルメ」に「リアル」を感じてきたわけです。
 そういう意味で、石黒さんが目指す「リアル」は、日本では受け入れられにくいのではないかと思いました。
 繊細な日本人の感性からしますと、よりリアルになる、そっくりになることによって、より一層、細部の「差異」「違い」「違和感」が増幅されてしまい、結果として「不気味の谷」を超えることができないどころか、どんどん谷が深くなっていってしまうのではないかと感じるのです。
 ま、あくまでトラウマを抱えたワタクシ個人の感覚ではありますが…。
 ただ、私の「モノ・コト論」で言いますと、「コト」は「モノ」に到達できないということなんですよね。人工、科学は自然には近づけるけれど、永遠に到達できないと。
 ヴァイオリンの音、演奏をコンピュータでは絶対に再現できないのと同じです。近くなれば近くなるほど「違和感」「不気味感」が増長されてしまう。
 その点、ヴォーカロイド、たとえば初音ミクがこれだけ愛されているのは面白いですね。あの割り切り(四捨五入)と、そしてあの極度に「日本的」な「キャラ」が与えられて、ようやくその「違和感」や「不気味感」を消し去ったのでしょう。うん、面白い。
 まあ、いずれにせよ、今回のクローズアップ現代は、ウルトラセブン以来の怖さでした(笑)。残念ながら番組の動画はありませんので、先月別の放送局で放映された以下の番組をご覧ください。皆さんは、「おっ!すごい!」と感じるか、それとも「こ、怖い…」と感じるか。

ps この動画を観ると、石黒さんが追究するものがまた別の「リアリティー」であることがわかりますね。少し安心しました(笑)。

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2011.01.11

残念!椿屋四重奏解散

 然の解散報告に驚きました。昨年から実質三重奏になっていたので、ちょっと心配ではありましたが…。
 ブログでは一度も取り上げてこなかったこのバンドですけれど、その「艶ロック」と言われる独特の世界観は、私も比較的好きでした。
 まあ、「艶」と言うのもわかります。音楽的に言えば、昭和歌謡(演歌、ムード歌謡含む)ですからね。そうくくってしまうのはやや乱暴かもしれません。しかし、まんまその時代を生きてきて、それを今もなお体験している私としては、やはりそういう部分を感じざるをえません。そして、もう少し正直に言うと、ちょっと気恥ずかしいところもあったのです。
 でも、こういう音楽を今の若い人たちが聴いているというのには、どこか安心感も覚えますね。彼らと仲が良かったフジファブリックもそうですね。決してヒットチャートを賑わしたりはしませんが、しっかり昭和の遺伝子を継いでくれている。そして、新しい挑戦を続けてくれている。おじさんとしてはうれしいことです。
 今日は彼らの曲の中で、ふと思い出したものをランダムに紹介いたします。まず、ムード歌謡ロックの雰囲気を味わえるもの3曲。

 彼らのもう一方の魅力は、作り込まれたバラードですね。私はどちらかというとこちらの方に感心します。詩については特に言うことなし(悪いという意味ではありませんよ)。

 椿屋とフジファブリックと言えば、イエモンを通じてつながっています。昨年紹介した『THIS IS FOR YOU〜THE YELLOW MONKEY TRIBUTE ALBUM』で両バンドが彼らのカバーをしています。
 椿屋はあの名曲「BURN」を。

 ふむ、なかなかいいですね。うん、やっぱり日本語ロックの最高峰はイエモンですなあ。私を日本語ロックに目覚めさせたバンドです。久々に本家のPVを観てみましょう。

 す、すごい。かっこよすぎ!まんま寺山修司の世界ですな。つまり、昭和に噴出した中世的なドロドロ世界なわけです。昨日の話で言えば、見事な「偽書」。その点、たとえば椿屋はスマートすぎたのかもしれませんね。おそるべし、イエモン、おそるべし吉井和哉。

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2011.01.10

『偽書の精神史』 佐藤弘夫 (講談社選書メチエ)

519ekz8dsbl 書の精神を探るということは、すなわち自分の精神を探ることになります。私の場合は。
 このブログをお読みの方は分かると思いますけれど、私という人間はこの現代社会にもけっこううまく適応しつつ、どこか「中世的」な臭いがするところがありますよね(笑)。
 科学や論理や経済の世界も好きですが、文学や宗教や芸術の世界も好きです。自分流の言い方ですと、「コト」も「モノ」も好きというわけです。
 ですから、「偽書」に対する態度も、私の中では、はっきり二つに分かれている。あくまで学術的な態度を取り続け、対象を客観的にとらえながら、ある種冷めた目で「否定」する自分と、そのアヤシクも魅惑的な内容に思いを馳せ、やっぱりここには人知を超えた真理があるのではないかと「肯定」する自分がいるわけですね。
 ま、具体的に言えば、富士北麓地方富士吉田市の明見地区に残る「宮下文書(富士古文献)」が、私にとっては最大規模の「偽書」ですね。あれなんか、たとえば日本語学的に言えば、「偽書」の体裁にすらなっていません。古代や中世の文書がたくさんありますけれど、どれも書かれている日本語は「近代語」(あるいはあまりにヘタな擬古文)です。
 しかしそれをもって、「噴飯物」として一笑に付すのには抵抗があるのも事実です。実際に現地に生活していると分かる「何か」がそこにあるからです。また、出口王仁三郎の霊界物語…本書でも中心的に取り上げられている「聖徳太子未来記」を「偽書」とするなら、これなんか世界最大の「偽書」とも言えますね…との関係(こちらのインタビュー参照)なんかを知ると、単純に「誰かが自分の知識でテキトーに書いたもの」とは片づけきれなくなります。
 偽書の精神を探ることが自分の精神を探ることだと書きました。すなわち「偽書の精神史」は「私の精神史」とも重なります。
 いわゆる「偽書」と、私たちは全く関わらないで生きていくことができますよね。というか、ほとんどの人が関わらずに終わるでしょう。あるいは関わっていないと思って、いや関わっていると思わないで死んでいくでしょう。
 なぜなら、「偽書」は教科書には出てきませんし、現代のように宗教心が希薄になっていると教典に触れる機会もほとんどないからです。つまり、教育と宗教という、「精神」を形作る部分で、「偽書」は排除、あるいは無視されているわけです。
 では、それらは本当にこの世の中に、また、私たちの人生に必要がないかというと、実はそんなことはありません。
 実際、私たちはたくさんの「偽書」に触れて生きていますし、いや、「偽書」を待望して生きています。昨日の話ではありませんが、たとえば「アイドル」という「物語」、あるいは「アニメ」という「物語」、これらは一種の「偽書」だとも言えます。
 あまりに広義に偏るのもどうかと思いますが、いつものワタクシ流で思いっきり言ってしまうと、私たちの妄想や夢が作る産物は全て「偽書」なのです。「モノ・コト論」で言うところの「コト」、すなわち、私たちの脳が処理した情報というのは全て「偽書」。
 現代のメディアは多様ですから、文字情報に限りませんよ。記録された音楽も、編集された映像も、こうして垂れ流されるインターネット上の情報も全て「偽書」です。この本で言うところの「主観」が入ったものは全て「偽書」とも言えるわけです。
 もうお解りになると思いますが、こんなことを言うと、この世の全ての情報は「偽書」ということになります。そして、それは正しい。その通りなんです。
 ただ、大切な視点は、この本でも述べられていますが、そこに「悪意」があるかどうか。すなわち、人をだまして自分の利益を得ようとしているのか、あるいは、世を混乱に陥れようとしているか、いやそうではなくて、ほとんど「無意識」に語っているのかという違い。騙りか語りか。
 これは難しいところです。先ほど、脳内で処理されたものは全て「コト」であり、「偽書」であると書きましたが、中には「モノ」を語ったいわゆる「モノガタリ」もあるんですよね。
 王仁三郎の「霊界物語」や岡本天明の「日月神示」などの、近現代の「神託」はその代表でしょうし、ある種の文学や音楽や絵画などもそれに当てはまるかもしれません。すなわち、「神仏」や「宇宙」、「自然」、場合によっては「天狗」や「モノノケ」と直接交流し、そこから受けた「電波」をいろいろなメディアでそのまま表現すると。つまり自らもメディア(ミーディアム)となって、他者(モノ)の意思を伝えるというわけですね。そこには実は「主観」や「恣意」はなかったりします。
 佐藤さんが言うのは、中世にはそうした「神託」を受ける精神的土壌があったということですね。逆に言えば、近世、近代以降、そういう土壌が幽閉され、隠蔽されてきたと。
 文明800年周期説というのがあります。それと同様に、人間の精神構造も800年で循環しているとしたら、そろそろ第二の中世がやってくるわけですね。そうだとすると、私が盛んに言ってきた「コトよりモノが優位になる時代が来る」ことと、もしかすると重なるかもしれません。
 この本では、そうした中世の精神コスモロジーが、宗教的な側面、たとえば「他界−此土の二重構造」、「本地垂迹」や「本覚思想」「神道説」などのキーワードのもと解明されていきます。お堅い学術書のようであって、どこか「物語」風なところもあって、この本自体、「コト」より「モノ」という感じがしました。すなわち、我々大衆、衆生、凡夫でも読みやすい本でありました。佐藤さんも実はある種の「神託」を受けているのかも(笑)。
 

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2011.01.09

『1ミリ先の未来~ドキュメントAKB48~』 (岩井俊二制作総指揮 NHK)

Gedc0083 百万の神。日本的偶像。神仏習合。和光同塵。
 今日は家族で浅間神社めぐり。まずは年賀状を撮影した北口本宮冨士浅間神社(上浅間)を参拝。参拝客が列をなしていたので、いつも参拝している我らは、順路を逆に回って本殿の周囲の神様に新年のご挨拶。
 国つ神から天つ神、はては人間から動物まで、まあいろいろな神様がいらっしゃいますね。まさに八百万の神です。
 いちおう浅間神社の御祭神の中心におられるのは、いつも書いているように女神であるコノハナサクヤヒメさんですね。
 最近の女性が強くなったのは、女性神の復権の象徴かもしれませんね。我が家でも3:1で女の方が強い(笑)。女性神が強くなる時代は「変革の時代」です。
 富士山の祭神も太古は男性神だった可能性があります。それが、かぐや姫、富士浅間大菩薩、大日如来(天照大神)を経て、木花咲耶姫に変遷してきました。
 そして今、何が起きようとしているのか、研究中であります。分かり次第、報告いたします。
Gedc0077_2 写真は、本殿真裏の恵毘壽社で恵比須顔をするウチの山の神とその娘神たちであります。後に見える神像は、大国主神(だいこくさま)と事代主神(えびすさま)です。「ゑびす」は、実に不思議な神様ですよね。ここでは事代主様になっていますが、ほかにもいろいろ比定される神様がいます。ま、ありがたければなんでも良かったのでしょう(笑)。そういうキャラですし。
 そのあと我々はおみくじを引いたり、甘酒を飲んだりして、ここ北口本宮をあとにしました。さあ、ここからは富士山の真裏の浅間神社に参ります。
Gedc0087 北口本宮の真裏、富士山頂を挟んで反対側は、富士宮の富士山本宮浅間大社(大宮浅間)ではありません。私たちは、実は大宮浅間にはほとんど行かないんですよ。そのかわり、村山浅間神社、すなわち冨士根本宮に参拝するんです。
 ここは最強ですよ。神道、修験道、密教なんでもありなのもすごいのですが、その神気というか、異様なまでの霊力はすさまじいものがあります。一見地味ですが、実は静かに最強の神社なのであります。私は昔から好きで、時々訪れております。
 ここについては3年半くらい前に記事にしていました。こちらをご覧下さい。
 さてさて、神様の気をたくさん浴びて元気になった私たちが帰宅して観たのが、この番組。昨日の深夜というか、今日の0時から放映されたのを録画しておきました。
O0560031410938376378 これぞ、現代の「女神」たちですね。
 宗教的に言えば、まさに八百万の女神。80年代までの、比較的一神教的なカリスマ・アイドルの時代から、おニャン子という身近な神、そしてモーニング娘。などを経て、ついに国風文化のメッカ秋葉原から、こういうある意味庶民的な八百万アイドルが誕生しました。
 面白いですね。私、はっきり言って一人も名前が分かりませんでした。AKBで知っているのは、今やAV女優となってしまった、いや行方不明の(?)中西里菜ちゃんだけです(笑)。いや、それは冗談ではなくて、彼女が出たNHKの「一期一会」、けっこう好きだったんですよ。録画して生徒にもよく見せていました。あんなに頑張って夢を追いかけていたのに、いったい何があったんでしょうね。
 あの頃はまだ48人いなかったんじゃないかな。今や、派生グループの研究生まで含めれば200人を超えているとか。まさに八百万状態です。で、分かる人には、どれが誰か分かる、しかし、我々凡人には、まあどれも同じように見えて、まあなんだか可愛ければそれでいいという状態。まさに、これは私たちが神様に対する意識と同じですよね。かなりのマニアでなければ、神様の見分けなんかできませんよね。
News_large_akb48_chance_art それでいいんです。私はそれでいいと思います。一神教的でない、こういう緩い、しかし一方でマニアックな(オタク的な)、偶像と大衆との関係。平和の鍵だと思います。
 AKBを象徴する漢字が「神」いやいや「ネ申」だというのも面白いですね。ストレートに「神」とすると、ちょっと近寄りがたくなってしまう。それを意図的に解体して記号化してしまうというのは、実は日本人の得意とする技なんです。
 それにしてもですね、一種の大衆化がここまで進むと、逆に心配にもなりますね。だって、このドキュメンタリー、ずっとみんな泣いてるんだもの。なんというか、学芸会というか、女子校の学園祭というか、そういうあまりにベタな世俗性が感じられたんですよね。
 いわば「青春」なんですよ。青春自体が偶像化してしまっている。これは実に憂慮すべきことだと思いました。
 こうした芸能やスポーツの「学芸会化」は、ある面では、大衆の活性化につながりますが、行き過ぎると、「神」の権威逓減を招きます。プロレス界なんかそうでしょう。シロウトばっかりになってしまって、本物の闘いがなくなってしまった。
 そういう意味では、最近のK-POPなんか、大衆化しつつ、個々のプロ意識が高いため、また、国家的な戦略があるために、非常に健全な形で布教できていると思います。このままでは、またまた外来の神に侵略されちゃいますよ。頑張れ、現代の国つ神。
 というわけで、なんか話がでかくなっちゃいましたけど、まあ、変わり者の私にとっては、神社もAKBも全く同じ世界に見えるのです。変ですかね(笑)。武道館で歓声(怒号?)をあげる、普段は静かであろう男たちを見ると、もう全く「宗教」という感じがしますよ。そうでしょう?
 ところで、このドキュメンタリー、岩井俊二さんの制作にしては、あまり個性が感じられませんでしたね。映画の方はそれなりになるんでしょうか。ちょっと興味があります。

Harenoti ps 今晩から、NHKBS2で、あの神アニメ「かみちゅ!」の放映が始まります。あれこそ、今日のテーマそのものですね。先日ちょうど紹介した大林宣彦監督の「さびしんぼう」にもつながる昭和の(?)尾道で、女子中学生が突然「神」になってしまうお話。八百万の神満載の内容。楽しみですね。

NHK「かみちゅ!」公式

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2011.01.08

将来の夢…

Gedc0074

 の写真は昨日の夕方のものです。中学の玄関を出たところで撮影しました。三日月が出ていますね。気温もだいぶ下がって氷点下5度くらいでしょうか。
 月江寺の池のイルミネーションはクリスマス以来まだ続いています。池の森の木々にはヤドリギの影がたくさん見えるでしょう。ヤドリギは水の湧くところに生息するんですよね。不思議な植物です。
 森の影と一体化してしまっていますが、観音様が富士山とお月様を眺めています。
 今日は我が中学の推薦入試でした。昨年も書いたように、私は国語の問題の本文を自分で書きます。そこにはいろいろな理由があるのですが、とりあえずは一期一会であるこの試験の機会に、私なりの(本校なりの)メッセージを受験生に伝えたいというのが最大の理由です。ちなみに昨年はこういう文を書きました。
「自然」推薦入試
「自分」一般入試
 今年の推薦入試ではこんな文を書いてみました。昨年同様、空欄や傍線などを取り去ったオリジナルを掲載させていただきます。本校がどんな教育を目指しているかの、その一端を感じていただければと思います。


   将来の夢

 「あなたの将来の夢は?」
 そう聞かれて、みなさんはなんと答えてきましたか? きっと人それぞれ、十人十色でしょうね。
 小さいころ、「ケーキ屋さん」とか「花屋さん」とか「野球選手」とか「お医者さん」とか、そんなふうに答えた記憶のある人もいることでしょう。
 あるいは、「お嫁さん」、「アバレンジャー」なんて答えていたことを、ちょっとはずかしく思い出す人もいるかもしれません。
 小学校六年生になった今はどうですか?
 「学校の先生」、「銀行員」、「看護師」、「お笑い芸人」などなど、前よりもだいぶ現実的になっているのではないでしょうか。
 全国的な調査によると、ある意味もっと現実的に答える小学生が増えているそうです。
 「結婚して普通の暮らしをする」
 「公務員になって安定した生活を送る」
 「ちゃんとした仕事につければいい」
 このような現実的な夢(?)を語るのは、大人の影響でしょうね。親やテレビのコメンテーターの言葉を聞いて、そんなふうに考えるようになったのだと思います。
 さあ、本題はここからです。
 ここまで私が書いてきた、みなさんの「将来の夢」の例をよく見直してみて下さい。何か気づきませんか? 別に普通じゃないの…と思うのもわかりますが、そこでもう一度がんばって考えてみてください。
 実はここにあげた「将来の夢」は、全て「将来の自分像」なんですね。将来、自分がどうなっているか、どうなっていたいか。つまり、「将来の夢」が、「将来の職業」を中心とした「将来の自分の生活」になってしまっているのです。
 私は、みなさんには、これらとはちょっと違う視点をもって、違う次元で「将来の夢」を語ってもらいたいと思います。つまり、「将来の夢」を外から見た自分像ではなく、自分から見た外の世界、あるいは社会のあり方としてとらえ直してもらいたいのです。
 自分が大人になった時、この社会がどういうふうになっていてほしいか。もちろん、自分の家族も社会の一部ですから、理想の家族像を考えるのもけっこうです。ただ、そこにとどまらないで、もっと視野を広げてもらいたい。自分の住む町、山梨県、日本、アジア、世界へと…。
 私たちは、成長するにしたがって、だんだん「社会的な存在」になっていきます。赤ちゃんの時には、この世には自分とお母さんしかいないかもしれませんが、次第に家族を意識したり、友だちができたり、幼稚園や学校に通い始めて、たくさんの他人と関わりを持つようになったりします。
 そして、自分が日本人であることを意識したり、アメリカの経済が自分の生活に影響を与えていることを理解したりするようになります。
 このように、私たちが大人になっていくということは、「自分」が社会の中で、無数の「他者」のおかげで生きていることを知るということだとも言えます。
 実は、仏教の教えは、そういうことに気づくところから始まっています。
 みなさんは「縁起(えんぎ)」という言葉を知っていますか? そう、茶柱が立つと「縁起がいい」とか、「鼻緒が切れる」と「縁起が悪い」とか言いますよね。
 この「縁起」という言葉は、もともと仏教の言葉なのです。知っていましたか? もともとの意味は、漢字のとおり、「縁」があって「起こる」ということです。つまり、私たちの人生の全てのことは、無数の「他者」との「縁」によって起きているということです。
 それを違う角度から言い直すと、「何一つ自分だけでできることはない」ということになります。わかりますね。
 それを理解した上で、話を「将来の夢」に戻しましょう。
 今書いてきたように、私たちは自分一人では何一つできません。だから、「将来この職業につきたい」と言っているばかりでは、その夢も実現できないわけです。
 たとえば、今から何十年も前、日本が戦争をしている時には、野球選手もみんな兵隊にならなくてはなりませんでした。「結婚して普通の暮らしをする」ことも難しかったでしょう。
 私たちの個人的な夢は、実は、平和で正しい世の中があって初めて成り立つものなのです。
 だからこそ、「将来の夢」を考えるにあたって、まず先に「理想的な世の中」を想像してもらいたいのです。将来こういう世の中になってもらいたい、と。そして次に、そういう世の中を実現するために、自分はどういう仕事で役に立てるのか、自分にはどういう役目があるのか、そのためにどういう力を付けていかなければならないのか、を考えてほしいのです。
 そうすると、「将来の夢」のために自分が達成すべきことは、ただ学校の勉強をして、いい大学に入って、そして大きな会社に入って、いい給料をもらうことではないとわかりますね。
 そういう意味での、みなさんの新しい「将来の夢」、いったいどういうものになるのでしょうか。ぜひ聞いてみたいと思います。

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2011.01.07

『なんだか人が恋しくて』 山田太一脚本作品 (1994年 NHKドラマ)

2011010700000026the_tv0002view めんなさい、時間がないものでして、今日も思い出しネタです。
 写真は、今日のニュースにあった「ミューズ」という熟女アイドルグループ。この中の石野真子さんに関する話題。しっかし、みんなキレイですなあ。まさにリアルタイムで彼女たちを共有した世代としては、こういう熟女の魅力もまた、正直「萌え」ですね(笑)。
 で、石野真子さんを久々に見て思い出したのが、これ。いや、もう15年以上前のドラマですか、ここでも真子さん、人妻役でした。それがねえ、なんとも切ないんですよ〜。
 この山田太一ドラマ、たった一度の放送しかなかった幻の名作です。そして、これもまた私、ビデオをなくしてしまいました。妙にまた観たくなっちゃった。
 1994年の3月、土曜日の夜でしたかね、たまたまテレビをつけたら始まったのです。サブタイトルが「校則に厳格な女子高教師が旅先で…」(笑)。思わず観てしまったのです。
 まあ、自分も高校教師でしたし(校則に厳格ではありませんでしたが)、ま、なんと言いますか、私もいちおう若い男性独身教師でしたから、こちらに赤裸々に書いたように、まあいろいろないことはなかったわけですよ(笑)。
 1994年3月の私は、ええと29歳ですね!おお、ぎりぎり二十代!
 まあ、そんな自分の状況でもありましたら、このドラマはある意味ひとごとではない問題作だったわけです。
 このドラマ、現役の高校生どうしの不器用な恋愛に、その女子高生と敵対する生徒指導の先生の「過去」が見事に絡まっていって、そして最後は、それぞれお互いの立場を超えてヒューマニズムの次元でわかり合うという内容です。
 この先生、平田満さんが演じていたんですが、その平田先生、今は人妻となっている石野真子さん演じる教え子が、まだ高校生として在学中、彼女と禁断の恋に落ちてしまっていたんです。しかし、二人は彼女の卒業とともに別々の道へ…。で、先生も今では普通に結婚して家庭を持っている。
 しかし、ひょんなことから、その教え子か離婚したことを聞きつけて、そして我慢できず、学校をサボって会いに行ってしまうのです。まあ、今で言えばプチ不倫ですし、先生と生徒ということも含めれば、まさに禁断の恋。
 そしてそして、運命のいたずらか、たまたま教え子である女子高生の「恋」、「初体験」に同行することになってしまうのです。すごい内容ですよねえ。
 しかし、そこはさすがNHK、いやさすが山田太一。ある意味異様に純粋な「恋」模様が展開していきます。
 うん、クライマックスでの、石野真子さんの涙はたまりませんねえ。そう、久しぶりに初恋の相手である先生に会った時、流れた涙。そして、こぼれた言葉…。切なすぎます。
 いやあ、さすが山田太一さんですよ。なんで再放送しないのかなあ。たしかに、時代ということで、出だしからして「ポケベル」ですから。今放送したら笑ってしまうのかもしれませんね。
 今考えてみますと、1994年の石野真子さん、再婚していた頃なんですよね。81年に長渕剛さんと電撃結婚、しかし83年離婚。その後90年に再婚。
 このドラマでも、実は実生活と同じような役を演じていたのです。クライマックス、妙に屈強そうな新しい旦那さんが、先生の前に現れ、はかない「夢」を残酷に打ち砕く…いや、「純愛」は「純愛」のままで、「不倫」にならないですんだのです。
 高校生の不器用な恋愛と並行することよって、大人の「純」と「不純」、「夢」と「現実」が浮き彫りにされるという、なかなか秀逸な脚本でありました。
 う〜む、昨日の「この窓は君のもの」に続いて、妙に再見したくなりました。どこ行っちゃったのかなあ、両方とも。地下室探してみようかなあ…。
 両作品ともぜひともDVD化してほしい。お願い!

ドラマデータベース

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2011.01.06

『この窓は君のもの』 古厩智之監督作品

20110107_114352 〜!この作品DVD化されてないんだぁ!?
 突然思い出したんです、この映画。
 昨日のフジファブリックの「Strawberry Shortcakes」の記事を書きながら、なんとなく不器用な「男と女」のイメージがわきましてね、それでこの実に青い「TEENAGER」の映画を思い出したと。
 たぶん、志村くんも好きですよ、こういうの。もしかすると観たことあるかも。昨日の太宰同様、山梨を舞台にした作品ですし。
 切なく甘酸っぱくやるせない、いわゆる「青春映画」としてはですねえ、極私的ではありますが次の三つを挙げたいと思います。
 まずは、ショパンの「別れの曲」がしみる大林宣彦監督・富田靖子主演の「さびしんぼう」。いやあ、私、富田靖子さんの大ファンだったんですよ。たぶん今観たら泣いちゃうだろうな。おっと、予告編があったぞ。

 富田靖子さんの歌が入ったアルバムも買ったっけ。1985年ですから、私21歳だったんですけどね。大学生なのに、まだ高校時代を引きずっていたようです(笑)。
 それから、最近電撃結婚で注目された「あゆ」がまだ歌手でなかったころの主演映画、橋口亮輔監督の「渚のシンドバッド」。これも好きだなあ。ホントこの17歳の浜崎あゆみの魅力はハンパではありません。
20110107_114401 そして、この「この窓は君のもの」です。そっかあ、これ今観れないんだ。私、昔WOWOWでやったのを録画してあったのですが、それもどこかにいってしまいました。だからもう10年以上観ていません。レンタル落ちの中古ビデオ買っといた方がいいのかなあ…。
 山梨は勝沼、高校の夏休み、ぶどう畑の中で繰り広げられる、どうにももどかしい恋愛劇。結局ほとんど何も成就しないまま終わる…それがまた切ないんですよね。
 この作品、古厩監督の長編デビュー作になるんでしょうか。とは言っても、16ミリですし、なんかそれ以上に、いや以下に8ミリ自主制作映画風でして、その技術や演出の初々しさと、役者さんたちの気取らない自然な演技が、この映画を見事に「青春映画」たらしめています。
 90年代に作られたとは思えない、ある意味70年代風の恋愛を味わうことができる不思議な作品ですね。お互い気になっているのに、そしてタイムリミットが迫っているのに、なかなか言い出せない。特に男。女はけっこう無邪気に残酷。
 そう、当時監督さんの恋人であったという主演女優の清水優雅子さん、決して美人ではないのですが、健康的な不思議ちゃんという感じで魅力的。ふむ、たしかに高校生のワタクシなんかも、軽く振り回されそうな気がします。
 で、二人、結局言葉(セリフ)ではなくて、たとえば枕を意味もなく(いや、意味深に)投げ合ったりして、感情の交換をします。でも、やっぱりそれじゃあ「契約」にはならない。
 でも、そういう言葉にならない、あるいは言葉というフィクションでくくる勇気の出ない、そういう恋愛感情こそが、私なんか古い世代からすると「本物」だという気がするんですよね。
 恋愛なんて、もともと「本能」、プリミティブなものじゃないですか。それを言語化するから、すぐにウソ臭くなるんですよ。
20110107_114411 今日も、教え子のある女子大生と恋バナで盛り上がり(いや、盛り下がり)ました。どうも最近の男は簡単に「こくる(告白する)」が、そのあとが全然ダメだと。女々しいと。依存してくると。なるほど、メールやケータイのおかげで、「言葉」としてフィクションの「愛」は語れるようになったかもしれませんね。しかし、実体的な「恋」となると、これはもう全然ダメ。原始的な振る舞いを知らないのです。
 恋って「モノノケ」なんですよ。愛は「コトバ」です。今どきの恋愛はみんな「コトバ」優先なんですよね。「コト」を極めて「モノ」に至るならいいのですけれど、その「コト」さえも極められないし、自分が発した「コトノハ」に責任すら持てない。いかんですよ。今の男どもは(笑)。
 なんて、私なんか若い頃、もっとひどかったからな。プリミティブにもなれないし、カルチュラルにもなれない、情けない男でありました。でもなあ、「コト」化しなかった分だけ、嘘つきにはならなかったし、女性に迷惑はかけなかったと思いますよ。孤独でしたが(笑)。
 …と、自分のことはいいとして、この映画、主人公二人を取り囲む友人たちの恋愛ベクトルも、まあいろんな方向に向かっていて、全然かみ合わず、すれ違ってばかり。ある意味とってもリアルですね。そんな簡単にカップルできるわけないもんな(現代では、あぶくのごとく生まれては消え生まれては消えしてますけどね)。
 まあ、とにかく急にこの映画を観たくなりました。どうしようかなあ。
 ストーリーなど気になる方は、こらちをどうぞ。

この窓は君のもの - goo 映画

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2011.01.05

フジファブリック 『Strawberry Shortcakes』

 日は「イチゴの日」。イチゴにちなみまして、私の大好きな1曲。
 Strawberry Shortcakes…志村正彦くんの異能が満開の名曲ですねえ。こんな曲聴いたことありません。
 昨日の話で言えば、日常の些細な煩悩(我執)から生じる「苦=もの=不随意・不如意」を理解し、リスペクトし、エンジョイしている感じがします。
 世界中探してもなかなかこういう表現ってありませんよ。いちおう、私、文学と音楽を専門にやってるじゃないですか。それなりにいろいろな作品や作者に触れてきたと思います。でもなあ、やっぱりこういう世界観をこういう言葉と音で表現する人って、ほかにいません。
 「左利き?」の違和感から始まる「苦」。自分の残しておいたイチゴを食べられてしまうという見事な「苦」。しかし、「ずるい」はすぐに「さすがだね」に変化します。そして、まつげのカールがキレイなのに気づいて、あとは「もひとつ食べて」とひれ伏す。
 さりげないこの流れの中に、どれだけ「くだらない」真実が隠されていることか。そして、そのある種の「くだらなさ」を、このおちゃらけたメロディーとコード進行と転調とアレンジで見事に聴かせてくれる。ううむ、他のメンバーも含めて、やっぱりこのバンドは「天才」いやいや「変態」ですな(笑)。
 私の感覚だと、志村くんの詩は、ちょっと太宰治風なところがあるような気がするんですよね。いや、私は、世間一般のイメージとはちょっと違う太宰観を持っていますから、うまく伝わるか分かりませんが。
 太宰もけっこう、日常の男のカッコ悪さを正直に、ちょっとしたユーモアとペーソスを交えて表現します。彼の文学は重いイメージを持たれがちですが、実際は基本「軽み」の文学なんですよねえ。
 この曲の歌詞にもそういう「どうでもいい男のカッコ悪さ」みたいなものが、さりげなく表現されていて、実に楽しいですね。もちろんそれに見合った「音楽」も。
 私も幾度こういう「カッコ悪さ」に苦笑してきたことか。ま、私なんかは、酒呑んで苦笑するくらいの表現しかできないわけだし、だいいち「カッコ悪さ」を公にするということって、なかなか凡人にはできないことじゃないですか。それも同情を買うようなやり方ではなく、共感を得るのは難しい。
 こういう意味で、この曲は女性には正しく理解されないと思います!…なんて言っていいのかな?
 ただ、女心、特に母性本能をくすぐるかもしれません。そこもまた、太宰と似ているかも…かも。
 さて、この曲、他の人が歌ってもなかなかさまにならないだろうなと思っていたのですが、さすがぶっ飛び天才和田誠平野レミの息子ですな。和田唱くんが見事に歌いこなしてくれました。この曲と「陽炎」を選ぶあたり、憎い!!というか、おいしいとこ取ったなあ、唱くん。

 さてさて、ついでに…なんていうと怒られちゃいますかね、太宰の「どうでもいい男の煩悩」をカッコよく、いやカッコ悪く表現した短編を一つ。「美少女」です。
 このくだらなさ、私けっこう好きですよ。いちおう文学ぶってますが、この小説にメロディーつけたら、きっと「おちゃらけ節」になりますね(笑)。

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2011.01.04

四苦八苦

煩悩の数、108超えてるんですが…
_worldly_desires_tshirtp23555241166 日の話の続きになりましょうか。
 本日はある方の葬儀に参列いたしました。心痛極まりないことでありました。
 近世の「寺請制度」以来、葬式仏教と揶揄されることもある仏教界でありますが、最も大きな「苦」の種である「死」に対するのに、たしかに釈迦の教えは非常に有効です。究極の智慧です。
 亡くなった方は、「死」をもって全ての執着から放たれて、まさに「成仏」する権利を得るわけですし、周囲の人々は、世が無常であることを悟り、私たちの「生」そのものが夢幻であることを知るきっかけを得るわけですから。
 しかし、それはそれ。哀しいものは哀しい。辛いものは辛い。理屈では分かっていてもなかなかその「苦」を乗り越えることはできません。
 世の中はまさに四苦八苦。それを超える方法は理解できても、なかなか実践できません。そこにあらたなる「苦」が生じます。
 皆さん、御存知と思いますが、今日はその「四苦八苦」について復習してみたいと思います。私なりの解釈ではありますが、そこに見える矛盾についても考えてみましょう。

 四苦=生苦・老苦・病苦・死苦
 八苦=四苦+愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦

 一つ一つの説明に入る前に、「苦」について確認です。私は以前「もののあはれ=苦諦」という記事を書きました。そこにあるように、仏教で言う「苦」とは、単なる「苦しみ」ではありません。それは私の「モノ・コト論」でいうところの「もの」、すなわち「思い通りにならないこと」なわけです。それを知った上で、四苦八苦それぞれについて考えてみることにします。
 
 生苦=生まれる「苦」。「生まれる」という言葉自体が「生む+受身(迷惑)の助動詞」であることから分かるように、私たちは自分の意志で生まれてくるのではありません。ですから、生まれること自体が「もの=苦」なわけです。
 老苦=老いる「苦」。アンチエイジングがはやっていることからも分かるとおり、私たちにとって「老い」は普通望ましくない「もの」です。
 病苦=人は都合のいい(悪い?)時だけは「仮病」なんてものを使ったりして「病」を仲間にしますが、普通は病気になるのはいやですね。病気になるということは「思い通りにならないこと」です。
 死苦=これは究極の「もの」です。これも人間だけが都合のいい(悪い?)時だけ「自殺」なんていう反則技をしたりしますが、基本誰も今死にたいとは思っていません。キリスト教徒の(キリスト教の…ではありません)永遠の命という考え方などは、まさに人間の煩悩を象徴する言葉ですね。
 愛別離苦(あいべつりく)=愛する対象と別れ離れる「苦」。愛するのは人だけとは限りません。仏教では究極的には愛することすらも自我の執着、煩悩だと考えます。
 怨憎会苦(おんぞうえく)=怨み、憎む対象と出会う「苦」。愛の逆もまた自分への執着であり、煩悩です。
 求不得苦(ぐふとくく・ぐふとっく)=求めても得られない「苦」。得られるはずのないものを求める「苦」と言った方が正確かもしれません。これもまた自分の欲望への執着から生まれますね。
 五蘊盛苦(ごうんじょうく)=五陰盛苦(ごおんじょうく)とも。欲望が盛んになる「苦」。人間の心身の活動全てが「苦」を活性化してしまうということです。

 お釈迦様は、このような「苦」に対する対処法を、ある意味科学的に説いたわけです。しかし、それはたしかに正しいけれども、なかなか実践できるものではありません。理屈では分かっていても、実行できないという、まさに「思い通りにならないこと」が新たに生じるわけですね。
 実はそこに仏教の弱みがあると思うのです。お釈迦様の説は全く正しく完璧なのだけれども、その実践のために、ある意味究極の「煩悩」が生まれてしまうのですね。真理への執着です。その真理を理解し、それに憧れるのはあくまで「自分」なわけですから、結局「我執」から逃れられない。
 ブッダたりえる人物は別として、私たち凡人はどうしてもその悪循環、輪廻から抜けられなくなってしまいます。
 実生活の中で、それぞれの「苦」とつきあっていかねばならない私たちは、なかなかお釈迦様の教えの実践ができません。というか、出家してもなかなかできませんよね(「苦」笑)。
 そこで、たとえば凡夫である私はですね、とりあえずの方法をとることにしています。
 四苦については、それぞれ「生老病死」を受け入れるしかない。もう生まれたんだから仕方ない。年をとることを楽しもう。病気とも仲良くしちゃえ。死んだあとは楽しいことが待ってるぞ…と(笑)。
 あとの四つの苦については、その「苦」の原因の撤去を目論むのではなくて、その「苦」自体を受け入れてしまうのです。
 愛する者と別れるのも、嫌なヤツと一緒にいるのも、求めても得られないのも、煩悩のインフレーションも辛いに決まっている。しかし、その「苦」を味わってこそ分かる何かがあるかもしれないし、「抜苦与楽」ではなくて「苦中有楽」、きっと時が経てば「苦」にも新たな意味を見出せるだろうと、そんなふうに考えるのです。
 つまり、「苦」をも友達にしてしまうと。「苦」から解放されるのではなく、「苦」を人間の人間たる根源ととらえ、理解し、崇拝し、楽しんでしまう。これはもうブッダを超えてますかね(笑)。
 いや、本気で凡夫にはそれしかないんですよ。死んで地獄に行こうと、畜生に生まれかわろうと、それ自体もまた貴重な経験であり、意味のある運命なのではないでしょうか。
 ある意味徹底した「無抵抗主義」。実はそれこそが、日本的無常観「もののあはれ」だとも思うのです。智慧を超えた「知恵」。実に人間的であり、プラグマティックであり、しかし芸術的でさえある「知恵」。私はそちらを極めてから、真理を追究したいと思います。「モノ」を窮めて「コト」に至る、と。
 


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2011.01.03

『たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか』 (日本テレビ)

Gedc0381 日はお墓参りと初詣。
 父方の菩提寺は静岡市内にある曹洞宗の某寺。ここの創建には武田信玄が関わっているようで、そんなところにも因縁を感じます。
 父方の家紋は「三階菱」。甲斐源氏小笠原氏の系統ですね。今いろいろ調査中であります。甲斐から信濃、武蔵から相模、そして駿河、再び甲斐へ…こういうループが見えてきました。そこに関わる上田氏や三浦氏の影。私が出口王仁三郎に惹かれるのもどうも意味がありそうです。
 さてさて、そのお寺に車を停めさせてもらって、すぐ近くの駿河国総社静岡浅間神社へ。高校時代はこの神社の近くで過ごしましたので、比較的よく遊びに行った神社です。
 そうそう、こちらの記事に書いた爆笑&爆涙必至の「受験の思い出」の中で「メジャーな神社」と表現されているのが、この神社です。
 今思えば、コノハナサクヤヒメのかなり強烈かつ強制的なご神託のおかげさまで、今こうして本家富士山に住んでいるわけですから、面白い運命と言えば面白い運命ですよね(笑)。
 観阿弥さんが最後に舞ったのもここだと言われています。駿河の浅間神社としか伝わっていないので、史実がどうかよくわかりませんが、いずれにせよ、その時の舞はとんでもなく神がかっていたと世阿弥が書いています。
 今日はなにしろすごい人出だったので、大拝殿まで行かず、巫女の舞う舞殿の手前で参拝。本家から出張してきたんだから神様も許してくれるだろうなどと、ずいぶんとテキトーなことを言いながら屋台で団子など買っていると、隣ではダルマさんを売る呼び声が。
 ふむふむ、見事に神道と仏教と拝金教が習合していますな。いかにも日本らしい光景ではあります。めでたい。
20101209152012843 どっぷりと正月気分に浸ったあと、富士山に帰ってきまして、観たテレビがこれ。
 今年で第3回となるこの正月特番。今までも、神道と仏教の習合に見える日本人の「和」の感性を紹介してきました。今回も「仏教」のメインに据えつつ、結局はそういうお正月らしい、日本らしい部分を強調していたような気がしました。
 まあ、こうしてですね、いかにも民放的に半分おふざけで仏教を紹介することに抵抗のある方もいらっしゃるでしょう。
 しかしですね、私は今回の番組はなかなかいい教材になると思いましたよ。ウチの中学・高校は仏教(禅宗)系じゃないですか。かと言って、表面的にはいわゆる仏教の勉強というのをしないわけですよ。生徒たちにとっても正直興味のない分野でしょうし、あんまり抹香臭いこと言っても嫌われちゃうだけですからね(笑)。
 でも、私も四半世紀くらいこの世界に漬かってきて、かなりその世界のクールさにやられているわけですよ。そして、それをなんとか子どもにも伝えたいと思ってはいるわけです。
 ですから、こういうアプローチで仏教の歴史を概説してくれるのは、なかなかいいと思うのです。実際、かなり分かりやすかったし。
 歴史的に見ても、常にそこが課題だったわけですね。いかに大衆に深遠な釈迦の教えを伝えるか。その工夫の種類の数だけ宗派があるとも言えますよね。
 そういう意味で、なかなか上手に大衆の興味を引いていたと思いますけれど、ただ、身近な言葉に残る仏教語を紹介するコーナーにはちょっと無理がありましたね。俗説を採用しすぎでした。
 つい最近も某民放の某人気番組の担当者から電話があって、番組制作の寸前まで話が進んだんですが、まあとにかく、ネタとして面白くないとどうしようもないみたいですね、こっちとしては結構面白いアイデアを提供したつもりなんですけど、結果視聴率を上げられないということでしょうかね、無期限延期になってしまいました。
 結局、こうして今の日本は、神道や仏教さえもネタにしてしまう「拝金教」が最大勢力になっているわけでしょうかね。ちょっと複雑な気持ちにもなりました。

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2011.01.02

年賀状公開(2011) ver.2

 さま、あらためまして、明けましておめでとうございます。
 3D年賀状いかがでしたか?
 コメントくださった皆さまありがとうございます。コメントの中にもありましたように、「見えない!」という方も多数いらっしゃるようなので、ちょっと工夫してみました。
 まずは、交差法よりも平行法の方が得意だとおっしゃる方のために左右の画像を逆に並べてみました。平行法は、左目で左の画像を、右目で右の画像を見て、脳内で合わせる立体視法です。すなわち、実際に私たちが世界を見て立体感、遠近感を感じるのと同じ原理です。
 左右の画像の間に紙などを置いて、左目は左の、右目は右の画像だけしか見えないようにすると簡単に立体視できることもありますので、試してみて下さい。

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 赤、青メガネで見るいわゆるアナグリフも作ろうと思ったのですが、どうしてもMac用のフリーソフトが見つからず断念。
 そこで、ある意味究極の立体視モドキ、最後の手段パラパラ漫画方式の疑似立体視GIFアニメを作ってみました。これで、なんとなく雰囲気は分かるのでは。これをですね、片目で見るんですよ。つまり、独眼流立体視の作法ですな。

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 すみませんねえ、まったく。お正月早々、面倒な年賀状をご覧にいれることになりまして…。
 ところで、こうして見てみますと、背後のマイメロがけっこうグロいですね(笑)。あの距離感ですと、実際はかなり大きいことになります。身長80センチくらいでしょうか。
 でも、「おねがい」してる様子が、神社にマッチしてたりして。いや、マイメロ自身がコノハナサクヤヒメの化身かもしれませんね。あのキャラ、けっこう神がかってますから。

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2011.01.01

謹賀新年 2011(年賀状公開)

 さま、あけましておめでとうございます!
 本年もよろしくお願い申し上げます。
 さっそくですが、今年もまた年賀状を公開いたします。
 昨年はこんな感じでおふざけが過ぎましたので(笑)、今年は比較的まじめに、そしてあまり手間をかけず作ってみました。↓click!

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 ご覧になってお分かりになると思いますが、いちおう3Dテレビです(笑)。時流に乗って買っちゃいました(?)。60インチです。Fujiyama Electric 製です。日本製です。メガネのいらない究極の立体映像テレビです(笑)。
 というわけで、私としては15年ぶりくらいのステレオ写真年賀状です。独身時代に一度やってます。あの時は「平行法」でしたが、今回は「交差法」です。
 「平行法」は案外難しかったのか、「見えなかった。新年早々、お前の顔を意味もなく見つめ続けてしまい、気分が悪い」などという批判をいただきましたので、今回は「交差法」にしました。
 交差法とは、右目で左の画像を、左目で右の画像を見るという立体視法です。
 ただ、それを字面どおりに実行しようとしても、頭が混乱するだけなので、初めての方でもできる方法を紹介します。
 まず年賀状(あるいは上の画像)を自分の目から50センチくらい前に置きます。普通に見ていてかまいません。
 そして、その中間あたりに人差し指を立てます。今度はその指先を見ます。爪の模様が見えるくらいちゃんと焦点を合わせてみて下さい。賀状を見る時より、ちょっと「寄り目」になっているわけですね。
 その指先を見ながら、背景に「意識だけ」やってみますと、向こう側にピントのぼけた年賀状の画像が見えるはずです。目は手前の指先を見ているので、年賀状は二つに分かれてダブって見えているはずです。
 年賀状には右と左、二つの画像がありますから、都合四つの画像が向こうに見えていることになります。たとえばマイメロが四体(笑)見えるはずです。
 さあ、ここからが勝負です。その四つのマイメロのうち、内側の二つを一つに重ねるのです。指をそのままにしてやってもいいですし、中空を見る状態ができるなら、抜いてしまってもかまいません。
 内側の二つの画像(たとえばマイメロ)が重なれば、もうそこにはめくるめく3Dワールドが!
 ということです。
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 できた方はおわかりと思いますが、一番手前にあるのは、左の「今年もよろしく!」の文字です。次に私たちがいまして、その上空に「平成23年元旦」が浮いています。ちょっと奥になぜかマイメロが(いちおうウサギなので)。そして参道がずっと続いて鳥居が奥にあります。
 あっ、ここは富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社です。私たちが結婚式を挙げた神社です。
 というわけで、この立体映像が見えた方、きっと今年はいい年になりますよ!ぜひぜひ挑戦してみてください。そして、見えた!という方は、コメントをぜひ書き込んで下さい。

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