(断捨離)我
↓これはウチではありません(もっとすごい?)
タイトル「(断捨離)我」は数式です。展開すれば、「断我」「捨我」「離我」となります。
今日、昼間はある本を読んでいろいろ学び、そして夜はNHKのクローズアップ現代で「断捨離」を観ていろいろ考え、そしてそのあと放送されたBSベスト・オブ・ベスト ハイビジョン特集『生き抜く 小野田寛郎』で大きな衝撃を受けました。
それらに共通して、私の頭に浮かんだ言葉が「(断捨離)我」だったわけです。
世ではやっている「断捨離」について私は、単なる片付け術の延長、あるいは、片付けへの老獪狡猾な動機付けに過ぎないととらえています。今日のクローズアップ現代を観ながら、またまた人間は上手な「言葉」を発明したなと思いました。
なにしろ、世の「断捨離」のスローガンは「ようこそ断捨離へ モノ・コト・ヒト、そして心の片づけ術」ですからねえ。私のこのブログと真っ向から対立してますでしょ(笑)。
私はどちらかというと五木寛之さんのように、モノ・コト・ヒトのカオスの中にいる方が楽しいですし、現実的に、我が家は全体が「魔界」になっていますので、そういった意味でも、「断捨離」には抵抗があります。というか、1億円いただけるとしても、やりません。
五木さんと同様(?)、片付けちゃったりすると、なんかすぐに事故か何かで死んでしまいそうな気がします。彼も言ってましたが、たとえば冬山で遭難しても、「あっ、やべ!今死ぬとあれもあれも見られちゃう!なんとか生き延びて帰らねば」という感じで、ちゃんと帰還すると思いますよ(笑)。ま、帰還しても片付けたり隠したりしないでしょうけど。
結局ですね、「ああ、片付けたい」というのは、自己のイメージの中に自己の理想像があるということで、そのとおりになったらスッキリしたというのは、非常に自己中心的な行為と感情なのです。だいたい、「不要、不適、不快」なものを「断捨離」すると言うけれど、「不要、不適、不快」と判断するのはもちろん自分であり、そしてその基準も自分の中にあるわけでしょう。
わかりやすく「ヒト」の例で考えてみましょう。あのヒトとは馬が合わないから「断捨離」しようとか、現状私にメリットはないから「断捨離」しようとか、それはあまりにも独善的かつ非倫理的な発想と行為です。
出会ったからには、必ず何かしらの意味があると考えれば、どんなイヤなヤツでも、そう簡単に「断捨離」できないはずです。そのヒトが未来永劫イヤなヤツで、自分に利益を及ぼさないなどと、どうして言えるでしょうか。
世の流れ的には、「断捨離」は究極の片付け術だととらえられていますから、それでもできないとなると、もうその人は人にあらず、他人からも白い目で見られるし、またまた強い自己嫌悪に陥ってしまうと思うのです。
そういう意味で、「断捨離」という一見哲学的、宗教的なお題目は、私からすると、ちょっと危険なドグマ、いやドラッグのようなものにしか思えません。
ただ、今日読んだ本(いつか紹介します)ではスマナサーラ長老が、クローズアップ現代では釈徹宗さんが言っていましたけれど、やっぱり私たちは「理想的な自分」「こうあるべき自分」にとらわれすぎていると。それは確かですよね。だからこそ、「こんなはずじゃなかった」みたいな発想がわくんですよね。そりゃあ生きにくいに決まってる。
私なんか、そんな「理想の自分像」なんていうもの持ってませんから、そりゃあ楽ですよ。今の自分が常に「完璧」です(笑)。片付けられない(今も私の周辺はとんでもないことになってます)自分も、さぼってしまった自分も、ウソついちゃった自分も、人に迷惑かけちゃった自分も、ぜ〜んぶ「完璧」です。
そのかわりですね、「理想の世界像」「理想の社会像」を持っていたい。「理想の自分」とか「未来の自分」ではなくて、「理想の社会」や「未来の世界」です。そっちが先です。そのために自分が何をすべきか、何をができて何で貢献できるかを考えるという順番です。
そうすると、案外楽ですし、自分一人が立派になってもどうしようもないので、逆に人の力を上手に借りられるようになる。
それが、私の言う「(断捨離)我」なのです。自分を断ち、自分を捨て、自分を離れる。ま、結局仏教の教えそのものになってしまうのでありますが。
もちろん、オーソドックスな「断捨離」も、モノやコトやヒトに対する執着を捨てるというのが出発点になっているとは思いますが、「いらないモノ」「無意味なコト」「嫌いなヒト」を「断捨離」するのではなく、ワタクシ的には「いるモノ」「意味のあるコト」「好きなヒト」をも「断捨離」しないと、究極の「心の片付け」はできないのです。
そんなことできたら、それこそ「ブッダ」になってしまいますから、まあ最初からそんなことは「断捨離」して(笑)、そうして、先ほど書いたように、今まで出会ってきた、あるいは出会ってしまったモノやコトやヒトを全部大切にして、そこから一つでも何かを頂戴して生きていきたいと思うのです。
小野田寛郎さんの言葉の全てに重みがあったのは、「今」をとにかく一生懸命、それこそ命懸けで生きていたからです。私たちのような「自己」にとらわれた贅沢な悩みなどひとかけらもなかった。それはあまりにすさまじすぎる「(断捨離)我」の姿でした。
「断行」「捨行」「離行」は、ヨーガの行法です。その本来の意味は決して「不要、不適、不快」を排除するということではないのです。
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コメント
前略 薀恥庵御亭主 様
御意見に賛同致します。
「これ」ばっかですね。笑
大体「モデルルーム」は
大嘘なのです。
あんなに「シンプル」で
綺麗だと人は生きていけま
せん。
部屋も「小汚い」程度が
一番 環境に良いのです。
マネキンの体型も嘘ですし
理想の体重も嘘です。
愚僧は「小太り」が
一番 健康で長生きできる
と感じています。笑
愚僧も沢山の「潔癖症」の
方々と接して参りましたが
どこかに「妥協点」がある
ものです。完璧な潔癖症は
この世に存在しません。笑
逆に部屋が散らかっている
人ほど「頭」がいいです。
これは確実です。
まぁぁぁ・・・
一日経つと部屋は見えない
「埃」で一杯です。
何よりも大切なことは・・・
「もの」を愛し
「ひと」を愛すことですね。
欠璧おじさん 廃
投稿: 合唱おじさん | 2010.12.17 20:02
合唱おじさん様、いつもご賛同ありがとうございます。
とっても勇気づけられました!
世の断捨離はまさに「煩悩」という感じがします。
必要以上の除菌みたいな…。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.12.19 17:16