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2010.12.12

「走れメロス」とキリスト教

Photo_12_13_9_15_08 日は八ケ岳の懐にある教会で奉仕。待降節第3主日の音楽礼拝にて演奏してまいりました。
 演奏したのはバッハのカンタータ62番「来れ、異教徒の救い主よ」全曲ほかです。全体に素晴らしい体験だっと思いますが、特に片野耕喜さんのテノールのアリアの伴奏ができたのは感激。片野さんのドイツ語は実に美しい。
 そうそう、昨年は同名の61番を演奏したんだよなあ…と思って、昨年の記事の記事を見てビックリ!
 あらら、やっぱり太宰じゃないですか。なんなんでしょうね、これって。すっかり忘れてました。いやあ、ブログっていい日記になりますねえ。
 というか、今日感じたことがそのまま書いてある。もう一度同じことを書いちゃうところでした。よかった、ちゃんと見直して(笑)。人間というのは忘れっぽい動物であり、また1年経ってもあんまり成長しない生き物なんですねえ。
 今日もまた、私はスキンヘッドで、まさに「異教徒の救い主」といった風情で堂々と(?)演奏してまいりました。今回は3本点火されたキャンドルのある祭壇の前での演奏ということで、なんとなく身が引き締まる思いがいたしました。
 なぜか私のところには陽の光が差していて、私の頭はいつにましてピカピカと輝き、まさに「異教徒の救い主」という感じだったとか(笑)。失礼いたしました。
 さあ、それで今日は何を書こうかと思ったかと言いますと…お説教を拝聴しながら、またバッハを演奏しながら、昨日の「走れメロス」を思い出していたんですよね。
 メロスってキリストなのかなあ、それともセリヌンティウスの方がキリストかなあ…ふむ、やっぱりセリヌンティウスの方がイエス的だなあ…と。
 太宰とキリスト教の関係については、改めて申し上げるまでもありません。彼はキリスト教信者だったわけではないのですが、たしかに聖書をよく読んでいた形跡があります。作品の中にもた〜くさんでてきますね。
 これってある意味、太宰的なずるさであるとも言えるんでよね。彼の聖書の扱い方には、いかにも彼らしい「なんかネタないかな」と渉猟している姿がうかがえるんですよ。
 聖書というのは、ある意味世界一の「物語」なわけですよ。小説のルーツとも言える。そこに「人間ドラマ」を見て翻案するというのは、まあプロとしてあるまじき、いやいや、あるべき(当然あり得る)行為ですね。
 「走れメロス」については、一般には古伝説、そして、シラー(シルレル)の詩や当時の小学校国語読本のパクり…いやいや、翻案だとされていますけれど、私はそこにプラス聖書の影響も感じてきたんですよね。
 メロスは羊飼いですしね。萎えた心と体に再び精気を与える「清水」の話は、どことなく旧約聖書を思わせます。十字架や緋のマントも象徴的ですよね。
 だいたいが、一般に言われる友情美談的な話だとすれば(私はそう読みませんが)、新約聖書にある「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」そのものだとも言えますよね。
 で、どっちが「友のために命を捨てる」のかというのが問題なのです。つまり、メロスなのかセリヌンティウスなのか。そんなことを考えていたんですよ。皆さん、どう思われますか?
 あの話の中で、十字架で磔刑に処されようとするのは、セリヌンティウスですよね。しかし、言葉としてそれを表明しているのはいちおうメロス。いちおう…というのは、御存知のとおり、あまりに愚か者なメロスの言葉は、常に信用ならないからです。
 その点、セリヌンティウスは多くを語らないからこそ、「マコト」な感じがする。ということは、あえて言うなら、セリヌンティウスがイエスで、メロスはある意味においては、狡猾な言葉を弄して友を売ったユダに匹敵するのかもしれませんね。
 そこまで考えが及んで、さらに面白い!と思ったのは、イエスたるセリヌンティウスが「たった一度だけ、ちらと君を疑った」と告白していることですね。
 これはまた、人間太宰一流のプロテストのようにも感じられます。イエスがたとえ神の子であっても、本当に完璧に「無償の愛」の存在であったのか、「友を一方的に信じ続ける」存在であったのか。それは口だけ言葉だけであって、実は偽善なのではないか。そういう疑問を持つのも、私たち人間からすると当然ですよね。いくら物語でも、それが実生活に影響を及ぼすとなると、こういう現実的な疑問がわいて当然ですし、その疑問の超越なくして信仰があるとするなら、それはそれで恐ろしいことでもあります。
 イエスは神の子ではありますが、神ではないのです。人間から生まれ、実際にこの世に生きたわけですから。そして、だからこそ人間の罪を背負うことができた。罪を背負うということは罪を理解し共感し共有するということにほかなりません。
 そういう意味において、純真無垢で無償の愛と信の真の友情の実践者であるセリヌンティウスが、実は一度だけメロスを(すなわち人間を)疑ったというのは、私たち「悪人」にとっては、非常なる救いとなります。
 あまりに完璧な救い主は救い主になりえないんですよね。仏教的、あるいは神道的な感覚からしますと、そこがキリスト教の難しいところなのです。
 そういうふうに考えてきますと、太宰は聖書を実践していたというよりは、どちらかというとそれに反旗を翻し、人間のドロドロした精神の尊厳、つまりフィクショナルな「偽善」ではなくて、リアルな「真悪」を直視する勇気の方を重視したのではないかとさえ思われるのです。
 私はそういう「弱さを持ち続ける強さ」を持った太宰に共感してきたのでしょうかね。
 作品「走れメロス」自体は、最後とんでもない方向で無理矢理大団円させちゃって、結局「偽善」の勝ちみたいなダメダメなことになってますけど、まあ、それも「最後はグダグダ」の得意だった太宰らしい結末ということで、なんかそれはそれで親しみを感じますね。ま、それを「真の友愛」の話として、道徳やら国語やらの教材にしてしまって満足している人たちには、全く親しみは覚えませんが(笑)。
 …と、この記事は最初から最後までグダグダですみません(苦笑)。

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