「志」を持つと「変」になる…その2
なぜ、自分で考え、自分で学び、伸びていける子が育たないのか?前回第1ラウンドに続き、第2ラウンド。
今日は東京と山梨の代表の方がわざわざ来校され、またまた3時間にわたる大バトル…いや、教育討議が行なわれました。実に楽しかった。
おみやげにこの本をいただきましたので、お客様がお帰りになったあとさっと読んでみました。なるほどなかなか面白い。
基本前回と同じお話をさせていただきましたが、一つあらたに気づいたこと。それはやっぱり「志」がちゃんと伝わっていないということです。私もたくさん誤解していましたし、世間ではほとんどが誤解だと思います。
私たちの学校も全く同じことが言えます。なかなか伝わらない。実践には絶対の自信を持っているつもりですが、うまく発信されていないのか、あるいは別の何か力が働いているのか、とにかく世間に届かないのですね。
いや、今日のく○んさんもそうですけれど、まず身内の中でもちゃんと相互理解、意思の統一がなされていないのかもしれません。その結果、お客様…と言っていいのか微妙ですが、子どもたちや保護者や世間一般に伝わっていないのではないかと感じました。
人のフリ見て我がフリ直せ。そういう意味でも大変勉強になりましたね。
「志」を持つと「変」になる…の第一義的な内容については第1ラウンドに書いたとおりです。ブラスの意味での「変」ですね。世間に、流行に迎合しない姿。
しかし、もう一つ、マイナスの意味での「変」もあるかもと思いました。
つまり、「志」が崇高であり、不動のものであって、その結果プラスの意味で「変」になってきますと、だんだん「志」が「願い」や「信じる」ことに逃げてしまう可能性があるんですよね。それがいわゆる第二の「変」を生み出してしまうと。
「願い」や「信じること」に逃げてしまうというのは、ある種の宗教的状態です。つまり、「今は理解されなくても、必ず最後には分かってもらえる」とか「これを続けていれば必ずいいことがある」とか「私は崇高なことをやっているのだ」とか、そういう、ある意味現実的、現在的な感覚や行動を飛び越えて、実際には見えていない光を見つめているような気になってしまうということです。
もちろん、「志」とは「心の指す方向」のことですから、このような「夢」や「目標」は必要不可欠のものです。しかし、それだけを見ることによって、結局、自己肯定、あるいは自己満足に陥ってしまう危険性もあるなと思ったのです。
他者にとって、その「願い」や「信じること」や「夢」や「目標」は、あくまで不可視のものであり、フィクションの「言葉」でしかありません。それを信じろというのはなかなか難しい。だから誤解や中傷もどんどん増していく。
つまり、本当の「志」とは、その理想を掲げるだけでなく、それへ向けての現実的、現在的な具体的行動が伴うべきものなのです。ま、簡単に言えば、お題目だけになってしまってはいかんと。
特に教育というのは、常に崇高な理想を掲げつつ、目の前の子どもたちにどう接するかということが要求されます。そのバランスこそが教師に求められるものだとも言えます。生徒は敏感ですから、この先生が最終的に自分たちをどこへ連れて行こうとしているのかということを、本能的に感じ取るものです。
とりあえず、この問題だけ解けることを目標としているのか、その積み重ねでこなしたプリントの枚数が増えることを目指しているのか、あるいはもっとその先の何かを見据えているのか。場合によっては、単にお金のことだけを考えているとか、その場しのぎをしているだけだとか…。
そういう意味で、私たち学校という現場でも、あるいはく○んの現場(各教室)でも、なかなか一定の「志(理念と行動)」のレベルを保つのは難しい。いや、そういう次元での努力を怠りがちだとも言えますでしょうか。私自身も、今こういう立場ですので、大いに反省いたしました。
く○んさんで言えば、たしかにあの教材を最後までやり通せば、創業者の「志」は実現される可能性が高いでしょう。しかし、実際のところ、小学校の中学年でそこをやめて進学塾へ移ってしまう例が非常に多いわけです。これでは、学校現場から言わせてもらうと「百害あって一利なし」です(ちょっと言いすぎかな)。
最後までやれば「気づく」「腑に落ちる」「分かる」はずなのに、中途半端で終わってしまうのは、座禅していればいつか分かるのに、途中でやめてしまった生坊主で終わるようなものです(笑)。いや、座禅しているだけじゃだめなんですよね。そこに優れた「導師」がいないと。それが先生だと思うんですが。なかなか難しいですね。
く○んの先生方は皆さん、全部やり終えて悟りを開いているんでしょうか。
いやいや、人のことより、まずは私自身から変革せねば…。
Amazon 公文式がわかる―なぜ、自分で考え、自分で学び、伸びていける子が育つのか?
| 固定リンク
「教育」カテゴリの記事
- 【戸塚宏】令和の今、体罰を語る(2024.08.20)
- いかりや長介と立川談志の対話(2024.08.19)
- 柔道混合団体銀メダル(2024.08.03)
- 祝! 舟久保遥香 銅メダル(2024.07.29)
- 仏様の指(2024.07.26)
「歴史・宗教」カテゴリの記事
- 九州人による爆笑九州談義(筑紫哲也、タモリ、武田鉄矢)(2024.08.18)
- 『もしも徳川家康が総理大臣になったら』 武内英樹 監督作品(2024.08.16)
- 【厳秘】大戦終末に関する帝国政府声明の骨子(その3)(2024.08.15)
- 【厳秘】大戦終末に関する帝国政府声明の骨子(その2)(2024.08.14)
- 【厳秘】大戦終末に関する帝国政府声明の骨子(その1)(2024.08.13)
コメント
久しぶりにコメントさせて頂きます。
私は個人的に、く〇ん式にお世話になった人間でして、特に計算力は、めったな事では負けない自信があります。
く〇ん式にはとても感謝している一方で、高校生くらいまでは『計算は出来ても理解していない』『計算さえできれば細かい理屈は不要だ』と考えていました。
テストの点数を取るためには『わかっていること』よりも『計算ができること』の方が大切なのですが、ではテストの点数さえ取れる人間になればよいのかというと、そうではありません。
教育に携わる人間の思いは、自分より若い世代への貢献がしたいという点で似通っています。
しかし、自分自身が良かったと実感した経験に基づいたことしか教えることができないというジレンマがあるのではないでしょうか。
などなど、書き始めれば止まらないと思いますので、また今度富士山までお伺いします
投稿: 平井 | 2010.12.08 16:20
こんばんは。
第2ラウンドがあったのですね。
『そこに優れた「導師」がいないと。それが先生だと思うんですが。なかなか難しいですね』
前回書かせて頂いた様に、私も色々な立場から
お世話になったのですが、私も先生と同じ事を感じた事が多々ありました。
なので、あるお教室の先生に自分で運営してみるのはどうかとお話を頂いた事があるのですが、丁重にお断り致しました。
投稿: さつき | 2010.12.09 03:13
前略 薀恥庵御亭主 様
いつも楽しく拝読させて頂いて
おります。
愚僧も沢山の子供達と接して
まいりました。
偏った結論から申し上げますと
「子供は宝」ということです。
その「宝」を磨き上げる作業が
「学習」だと考えています。
しかしいつのまにか「宝」を
「金」に換える「教育」が
出来てきた。笑
こうすれば「灯台×「東大」へ
合格できるという錬金術。
ひとりひとり「宝」を磨く
方法は違います。
愚僧は「漫画」で・・・
磨かれました。笑
基本・・・
「みんな違って みんないい」
ですね。
寺子屋おじさん 拝
投稿: 合唱おじさん | 2010.12.09 07:00
平井君、ぜひまた語ろう!
そして日本の教育界を変えよう!
さつきさん、そうでしたか…。
コンビニでさえも差が出るのに、
教育のフランチャイズは難しいですよね。。
合唱おじさん様、どうもです。
宝を金に変える…そのとおりですね。
まずは私たち大人が変わらねば。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.12.10 18:16