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2010.11.29

ディスレクシア(失読症)

20101130_81454 カソの未発表作品が271点も見つかったとか。さすがにビックリですね。
 それもピカソ家に出入りしていた電気工が所有していたと。事件性があるにしろないにしろ、それらがこうして世に出たのはめでたいことです。しっかし、すごい数だな。
 ところで、ピカソと言えば、彼がディスレクシアだったということを思い出します。
 ディスレクシア…日本では「失読症」などと訳されていますが、あまり注目もされず、また研究も進んでいません。
 他の能力は普通に(あるいは普通以上に)あるのに、字を読んだり書いたりすることに、非常な困難を伴う人がいますね。
 それを「症」として片付けるのには、ちょっと抵抗がありますねえ。たしかに現代社会においては、「識字」の能力は「文明」「文化」の象徴のように捉えられていますから、まあ一面ではしかたないにしても、ちょっと気をつけてほしい表現ではあります。もちろん、その他の「症」や「症候群」についても。それについてはこちらに少し書きましたっけ。
 ディスレクシア一つとっても、とんでもない才能の源泉である可能性があるんですよね。参考までにディスレクシアの有名人を挙げてみましょう。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ、パブロ・ピカソ、オーギュスト・ロダン、アンディ・ウォーホル、ベートーヴェン、モーツァルト、トーマス・エジソン、マイケル・ファラデー、ジャック・ホーナー、ジョン・レノン、スティーブ・ジョブズ、ジョン・アーヴィング、トム・クルーズ、ウーピー・ゴールドバーグ…。
 すごいですねえ。日本では研究が進んでいないので、日本人についてはまだよくわかっていませんが、きっととんでもない名前が並ぶことでしょう。
 この事実は何を示しているのか。
Detail_image3 ちょっと話がそれますが、数週間前に、南アルプス市のふるさと文化伝承館に行ってきまして、縄文の「芸術品」を観てまいりました。その時の興奮と感動たるや、まさに「筆舌に尽くし難い」ものがありました。
 あそこはおススメですよ。世界に誇る「芸術品以前の芸術品」が、さりげなく、大量に展示してあって、その上観覧者がほとんどいない(苦笑)。本当にゆっくりと、そしてじっくりと、5千年前の人々の「魂」と交流できます。
 御存知のように、彼らは「文字」を持っていませんでした。文字を持っていないということが、「非文明的」「原始的」だと思われていたのは、もうずいぶん前の話ですよね。「縄文」と言えば、世界でほとんど唯一1万年以上にわたって同一の生活様式およびコミュニティーが継続した、神懸かり的な(いや、実際神懸かっていたのでしょう)、そして理想的な「文化」として語られるようになりました。
 私はその奇跡がなぜ可能になったのか、いろいろと考えてみましたが、やはり「文字がない」ということが非常に重要なファクターであると思い至りました。
 あの土器や土偶から感じられる「言葉で表現できない」エネルギーや喜び、そう「喜び」ですよ「喜び」、あの生きている喜びは、文字以上の力を持って、5千年の時をいとも簡単に飛び越えています。
 その言語を超えた生命の喜びこそ、上記の現代の天才たちに通ずるモノなのではないでしょうか。
 たとえばピカソのあの視点や発想の転換は、まさに縄文の自由さと重なるような気がしますね。もちろん単純に言い切れない部分はあるとは思いますけれど、しかし一方で、「言語(ことば)」という文明に洗脳されていない、つまり現象としては「失読症」や「学習障害」を持った彼らが、時代を超える偉業を成し遂げているという事実には注目すべきだと思うのです。
 ワタクシ流に言えば、ここでもまた「コトよりモノ」なんですよ。私たち凡人は、自分自身の脳内で作り出した様々な「コト」の虜囚になってしまっているのです。そこからの自由を得た彼らの作品や事業が、私たちの根源的な部分と共鳴するのは、これは偶然ではないでしょう。すなわちコトに幽閉されたモノの起こり、気づきこそが、私たちの感動の正体なのです。
Image_mini ウチの子どももそうでしたが、まあ、小さいうちはよく「鏡文字」を書きました。ひらがなやカタカナや数字が裏返しになっちゃうんですよね。これは本当によくあることです。実は、この「症状」が大人になっても続くのが、ディスレクシアの特徴の一つなんですね。
 縄文(無文字社会)→子ども→ディスレクシア
 こう考えてみますと、たとえば私のような学校のセンセイの仕事なんてものはですね、まさに「文字」「言語」「ことば」「コト」を教えたたき込み、子どもを「文明化」「社会化」し、ディスレクシアを蔑視するような空気を作る、ずいぶんと罪作りな「シゴト」だということにもなりますね。
 教室という現場には、本当にいろいろな個性があふれています。中には一般的に「学習障害」などと呼ばれてもしかたがないような個性を持った子どももいます。
 しかし、それを単純に差別化して見たり、あるいは矯正したりするのではなく、本来的、本能的、原初的な「人間性」の発現であるととらえ、それをどう活かしていくかを考えていきたいと強く思います。
 なにしろ、教育現場では、たとえば「〜症」などという「言葉」を得て、それで片付けて満足してしまう困った先生が横行しているんで。教育界だけじゃないな、世の中みんなそうかもしれません。
 ピカソの絵が発見されたことから、こんなことをいろいろと考えました。

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コメント

先生こんにちは!
大変興味深く読ませていただきました。
…というのも 長男の事で非常になやんでいて、いつか先生に相談できたらなぁと思っていたんです。何と言うか 興味あることとないことの差が激し過ぎるんです。
たまたまかかった内科で小学校入学前に この子は多動じゃないの?
と 言われたことも。(担任の先生は違うと)
文中にもあるように この子をどう伸ばすかが大きな課題です。
今の子は普通にやるべきことはこなせるので、非常に浮いています。
いつか大化けすると励ましてくれた先生もいましたが、そのスイッチがどこにあるのか…。
よみきかせも第一子なのでよーくやったのに、一番不得手は国語です。

すみません自分の事ばかり。

投稿: さお | 2010.11.30 13:57

 前略    薀恥庵御亭主 様

御亭主様の御意見に賛同です。

愚僧など「鏡文字」どころか
メモ帳をひもときますれば・・・
変態文字× 判別不明変体文字
ばかりです。笑

「みんな違って みんないい」

そう想う今日この頃であります。

合症おじさん        拝


投稿: 合唱おじさん | 2010.11.30 18:40

こんばんは。
BUMP OF CHICKENの記事でこちらのブログに出会って、以来楽しみに読ませて頂いてます。
「生きている喜び」。
数年前初めてピカソの絵を見た時に感じたエネルギーを思い出して、そう、そう!と思わず書き込んでしまいました。
エネルギーというものを初めて「見た」気がしました。
生きていることの全肯定というか、人間全肯定というか、所詮うまく言葉には出来ませんが(苦笑)、あのとにかく力強くて肯定的な感じ。本当に天才だったんだなと実感しました。
人間って、生きるってすごいなと感じさせられました。
訳の分からないコメントをすみません。これからも楽しみにしています☆

投稿: トンコ | 2010.11.30 23:19

さおさん、こんばんは。
そうですか。
こういう社会では大変な面もあると思いますが、
その大変な分だけ、きっといいことがありますよ。
近いうちに紹介する予定の本をぜひ読んでみてください。
しばらくお待ちください。


合唱おじさんさま、いつもありがとうございます。
私もご住職のように自由に「変体」でありたいですね!笑
世の中には「変体仮名」のように、幽閉されてしまったモノがたくさんありますね。
そろそろモノノケの反乱を見てみたくもなります。


トンコさん、コメントありがとうございます!
共鳴していただきうれしいです。
私たちも天才たちのように、自分のスタイルで生を全肯定したいですね!
藤原くんの詩にも実はそういうところあると思います。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.12.01 19:35

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