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2010.11.30

今日の富士山と地震雲(?)

 追記 東北地方太平洋岸大地震関係はこちら(2011年3月3日…富士山と地震雲)です。

 追追記 3月15日の富士山直下地震の地震雲関係はこちら(2011年3月14日…今日の富士と空)

Large 日のお昼、地震がありました。私は全然気づきませんでした。
 なにしろ、震源地の深さが480キロ、規模はM6.9ですから、これは大変なことです。この深さだと、マントルの中ですね。マントルでも高剛性のいわゆるメソスフェエア領域ですね。
 このあたりの地震のメカニズムについてはあまり詳しくありませんが、日本近海ではけっこう珍しいタイプだと思います。とは言っても、同じような場所で、10年に1回くらい起きているようですね。
 今年2月にはウラジオストク付近で深さ590キロを震源とする深層地震がありましたっけ。あの時もそうでしたが、こういう地震の揺れは特別です。今日も、震度の割に気づかなかった人が多かったのでは(私も)。なんというか、めまいのような周期の長い揺れになるんですね。そして、揺れが広範囲に及ぶ。今日も東日本から北日本まで、ほとんど日本の上半身全てが揺れた感じですね。
 さて、地震があってしばらくして思い出したのですが、今日の朝、「あっ、地震雲だ」と言って、教室の窓から写真を撮っていたんですよ。生徒があとで「当たったね」と驚いていました。
 朝の自習時間のことでしたから8時40分頃です。マジックミラー風窓ガラス越しにiPhoneで撮ったので、あまり鮮明ではありません。
 ↓これです。比較的そういう宏観現象に興味がある方ですが、「地震雲」だと自分で認定して、写真に撮るのは年間3回くらいしかありません。ですから、今回は偶然ではなく、やはりなんらかの因果関係があるのではないかと。

Img_1503

 右に富士山の裾野が見えますね。つまり、方角としては南南東。ずばり小笠原方向です。
 これのどこが地震雲なのかって?では、ちょっと拡大してみましょう。

20101130_202639

 本当に直感的に、これは自然ではないなと感じたのです。この筋状の雲。この季節にこの方向にこういうデザインはないよなと(全然科学的ではありません)。
 それから4時間目にALTの外国人の先生と一緒に富士山の写真を撮りました。地震が発生する1時間から30分前です。その写真もご覧いただきましょう。
 今日はこの季節の晴天にしては珍しく、なんとなく霞がかかったような空気でした。こういう日の富士山は、カレンダーや写真集では採用されないんですよね。でも、これはこれでけっこうきれいですよ。地肌がはっきり見えないので、ある意味化粧をした女性みたいな感じなんですよ(笑)。
 何枚か見てください。

 Gedc1589

Gedc1598

Gedc1599

Gedc1602

 2枚目からの3枚は正午くらいに撮影しましたので、地震の25分くらい前ですね。富士山の東側に筋状の雲が出ていますが、これは地震と関係があるか微妙ですね。風が強いと、こういう雲が出ます。
 まあ、いずれにせよ、自然が織りなす人知を超えた芸術作品ですね。昨日の話じゃありませんが、ここに「文字」や「言語」は存在しません。

 2011年3月3日…富士山と地震雲


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2010.11.29

ディスレクシア(失読症)

20101130_81454 カソの未発表作品が271点も見つかったとか。さすがにビックリですね。
 それもピカソ家に出入りしていた電気工が所有していたと。事件性があるにしろないにしろ、それらがこうして世に出たのはめでたいことです。しっかし、すごい数だな。
 ところで、ピカソと言えば、彼がディスレクシアだったということを思い出します。
 ディスレクシア…日本では「失読症」などと訳されていますが、あまり注目もされず、また研究も進んでいません。
 他の能力は普通に(あるいは普通以上に)あるのに、字を読んだり書いたりすることに、非常な困難を伴う人がいますね。
 それを「症」として片付けるのには、ちょっと抵抗がありますねえ。たしかに現代社会においては、「識字」の能力は「文明」「文化」の象徴のように捉えられていますから、まあ一面ではしかたないにしても、ちょっと気をつけてほしい表現ではあります。もちろん、その他の「症」や「症候群」についても。それについてはこちらに少し書きましたっけ。
 ディスレクシア一つとっても、とんでもない才能の源泉である可能性があるんですよね。参考までにディスレクシアの有名人を挙げてみましょう。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ、パブロ・ピカソ、オーギュスト・ロダン、アンディ・ウォーホル、ベートーヴェン、モーツァルト、トーマス・エジソン、マイケル・ファラデー、ジャック・ホーナー、ジョン・レノン、スティーブ・ジョブズ、ジョン・アーヴィング、トム・クルーズ、ウーピー・ゴールドバーグ…。
 すごいですねえ。日本では研究が進んでいないので、日本人についてはまだよくわかっていませんが、きっととんでもない名前が並ぶことでしょう。
 この事実は何を示しているのか。
Detail_image3 ちょっと話がそれますが、数週間前に、南アルプス市のふるさと文化伝承館に行ってきまして、縄文の「芸術品」を観てまいりました。その時の興奮と感動たるや、まさに「筆舌に尽くし難い」ものがありました。
 あそこはおススメですよ。世界に誇る「芸術品以前の芸術品」が、さりげなく、大量に展示してあって、その上観覧者がほとんどいない(苦笑)。本当にゆっくりと、そしてじっくりと、5千年前の人々の「魂」と交流できます。
 御存知のように、彼らは「文字」を持っていませんでした。文字を持っていないということが、「非文明的」「原始的」だと思われていたのは、もうずいぶん前の話ですよね。「縄文」と言えば、世界でほとんど唯一1万年以上にわたって同一の生活様式およびコミュニティーが継続した、神懸かり的な(いや、実際神懸かっていたのでしょう)、そして理想的な「文化」として語られるようになりました。
 私はその奇跡がなぜ可能になったのか、いろいろと考えてみましたが、やはり「文字がない」ということが非常に重要なファクターであると思い至りました。
 あの土器や土偶から感じられる「言葉で表現できない」エネルギーや喜び、そう「喜び」ですよ「喜び」、あの生きている喜びは、文字以上の力を持って、5千年の時をいとも簡単に飛び越えています。
 その言語を超えた生命の喜びこそ、上記の現代の天才たちに通ずるモノなのではないでしょうか。
 たとえばピカソのあの視点や発想の転換は、まさに縄文の自由さと重なるような気がしますね。もちろん単純に言い切れない部分はあるとは思いますけれど、しかし一方で、「言語(ことば)」という文明に洗脳されていない、つまり現象としては「失読症」や「学習障害」を持った彼らが、時代を超える偉業を成し遂げているという事実には注目すべきだと思うのです。
 ワタクシ流に言えば、ここでもまた「コトよりモノ」なんですよ。私たち凡人は、自分自身の脳内で作り出した様々な「コト」の虜囚になってしまっているのです。そこからの自由を得た彼らの作品や事業が、私たちの根源的な部分と共鳴するのは、これは偶然ではないでしょう。すなわちコトに幽閉されたモノの起こり、気づきこそが、私たちの感動の正体なのです。
Image_mini ウチの子どももそうでしたが、まあ、小さいうちはよく「鏡文字」を書きました。ひらがなやカタカナや数字が裏返しになっちゃうんですよね。これは本当によくあることです。実は、この「症状」が大人になっても続くのが、ディスレクシアの特徴の一つなんですね。
 縄文(無文字社会)→子ども→ディスレクシア
 こう考えてみますと、たとえば私のような学校のセンセイの仕事なんてものはですね、まさに「文字」「言語」「ことば」「コト」を教えたたき込み、子どもを「文明化」「社会化」し、ディスレクシアを蔑視するような空気を作る、ずいぶんと罪作りな「シゴト」だということにもなりますね。
 教室という現場には、本当にいろいろな個性があふれています。中には一般的に「学習障害」などと呼ばれてもしかたがないような個性を持った子どももいます。
 しかし、それを単純に差別化して見たり、あるいは矯正したりするのではなく、本来的、本能的、原初的な「人間性」の発現であるととらえ、それをどう活かしていくかを考えていきたいと強く思います。
 なにしろ、教育現場では、たとえば「〜症」などという「言葉」を得て、それで片付けて満足してしまう困った先生が横行しているんで。教育界だけじゃないな、世の中みんなそうかもしれません。
 ピカソの絵が発見されたことから、こんなことをいろいろと考えました。

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2010.11.28

歌って素晴らしい!(老人福祉施設にてボランティア演奏)

Vlcsnap2010112815h00m10s1 日は家族でボランティア。富士吉田市内の老人福祉施設で懐かしい昭和歌謡を中心に演奏してまいりました。
 いやあ、とにかく、演奏している私たちが感動してしまいましたよ。認知症のお年寄りもたくさんいらしたんですけどね、みんな急に若返ったように元気になって、大きな声で一緒に歌ってくれました。そして何人もの方が涙を流されている…。
 う〜ん、本当に歌ってすごい力を持っていますね。今までいろいろやってきた演奏活動の中で、最も充実し感動したかも。本当に。
 そして、家族全員でこういうことができる喜び、幸せ。本当に音楽は(特に歌は)素晴らしい!
 今日の演奏メンバーと演奏曲目は次のとおりです。

 唄・話…カミさん
 提琴・三味線…ワタクシ
 唄&鳴り物…上の娘(小5)
 演技&鳴り物…下の娘(小2)

〈オープニング〉
  青い山脈
〈美空ひばり特集〉
  車屋さん
  リンゴ追分
  東京キッド
  お祭りマンボ
〈ヴァイオリン独奏〉
  花・荒城の月(滝廉太郎)
〈クリスマスソングメドレー〉
  赤鼻のトナカイ〜きよしこの夜〜ジングルベル〜サンタが街にやってくる〜もろびとこぞりて〜クリスマスおめでとう

 この中で、娘が唄った「東京キッド」の動画を公開いたします。もしよろしかったらどうぞお聴きください。

東京キッド(フラッシュムービー)

 ちなみに下の娘は何をやっているかといいますと、靴磨きであります(笑)。そういう姿がまた、お年寄りの心を打ったのかな。カミさんの考える演出もなかなかですな。この曲では皆さん子どもの歌に聴き入って下さいましたが、ほかの曲では皆さん大合唱、大熱唱になりました。特に「荒城の月」はすごかったなあ…。やっぱり名曲の力はすごい!
 しっかし、皆さん、本当によく歌詞を覚えてらっしゃいますね。歌の記憶というのは本当に強く濃いものなんですね。ある程度練習していたのかと思いましたが、今回の演奏のことは入所者の皆さんにはナイショだったそうです。サプライズでいきなりこのノリはすごいですねえ。
 いやあ、正直ですねえ、これが同じ音楽でもモーツァルトやバッハじゃあ、正直ここまで感銘を与えられません。ま、それはしかたないでしょう。今日演奏した曲は、まさに「生きた音楽」ですからね。それぞれの人生の風景と重なって生き続けている歌なのです。
 なんか、今までいろいろやってきたことが、全部自己満足のためだったような気さえしてしまったのですよ。これほど、お客さんと一体化したことは、今までなかったよなあ…。いやあ、本当に感動しました。
 これからどんどんこういう活動をしていきたいと思います。カミさんとも話したんですよ。今までずっと音楽をやってきたのは、こういうことのためだったのではないかと。そして、これからは自分たちができることで、少しでも誰かの役に立ちたいねと。自己満足はそろそろ終わり。
 オファーがあれば、どこへでも飛んでいきます。なにしろメンバーは家族ですから。スケジュール調整も練習も移動もしやすい。
 というわけで、こんな感じでよろしければ、ご遠慮なく。

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2010.11.27

タフマンK(バッテリー回復剤)

Into_toughmank1 養強壮栄養ドリンクではありません。いや、ある意味そうかも。
 昨日に続いて、知られざるカー用品。ウチでは重宝していますよ。
 自動車の心臓と言えばエンジンという感じがしますが、実はいろんな意味で中心にあるのはバッテリーなんですよね。
 その自動車用バッテリー、一般的には鉛蓄電池が使われていますね。これって、本当に昔から変りません。いくら自動車自体がハイテク化しても、その隠れた心臓部はほとんど進化していないと言ってもいいかもしれません。
 自動車の性能をしっかり発揮し、そして毎日安心して運転するには、このバッテリーを2,3年に一度は交換しなければならないと言われています。特に、最近の車は電装品も多くなりましたし、バッテリーを酷使していますからね。
 そして、これがまた案外高い買い物なのです。最安でも1万5千円くらい出さねばなりません。そこで、私は昨日も紹介した韓国製のバッテリーを買っています。日本製の半額以下です。
 しかし、考えてみればですね、新車の時に付いてきたバッテリーを、その車を買い替える時まで使い続けたいじゃないですか。できることなら。それが可能にするのが、このタフマンKなのです。こいつはすごいヤツです。
 お値段から先に言っておきましょうか。100ml、つまり普通車で3回分以上入っていて4725円です。これだけで、おそらく10年は新品同様に使えるでしょう。そういうシロモノなのです。
 こういうのって胡散臭いですよね。私も基本そういうのを信じません。よくカーショップで売っているのもだいたいが誇大広告品です。気持ちの上だけでなんとなくパワーアップしたような気がする、そういうモノたくさん売ってますよね。
 これもそうかもしれないのです。だって、まだこれを使って1年くらいしか経っていないので。10年後のことは分かりません。
 名前とか肩書きとかで物事を判断してはいけないし、そうしたくないタチなんですけど、こればっかりは先のことが分からないので信じるしかありません。次の面々をご覧下さい。タフマンKの開発者の方々です。

ITE国際技術交流協会 ITE電池研究所(米国非営利法人)
■小沢 昭弥
 (ITE理事長 前東北大学教授)
■J.C.Nardi
 (ITE会長 電池研究所理事)
■南 繁行
 (大阪市立大学教授)
■池田 章一郎
 (名古屋工業大学教授)
■山下 正通
 (同志社大学名誉教授)
■鈴木 喜隆
 (前広島大学教授)
■佐藤 厚
 (中部大学教授)
■水本 巌
 (富山高専助教授)
■菅原 陸朗
 (山形大学教授)
■仁科 辰夫
 (山形大学助教授)
■立花 和宏
 (山形大学助教授)
■楊立
 (上海交通大学教授)
■R.J.BRODD
 (IBA会長 アドバイザー)

 充電池問題についていろいろ関心があり、このブログでもいろいろ苦言を呈しているワタクシはですね、前々からこの小沢さんらの研究には注目しておりました。
 自動車用の鉛蓄電池だけでも、いったい世界中で毎年いったいどれくらいの数が廃棄されているのか。ちょっと考えるだけでも恐ろしくなります。それを画期的、劇的に減らそうというのが、彼らの研究の端緒となっています。
 鉛蓄電池の性能低下の主原因は「サルフェーション」です。化学反応の最中発生してしまう結晶性硫酸塩が電極に付着し、反応を妨げてしまうわけですね。
 このサルフェーションを防ぐだけでなく、すでに付着した結晶性硫酸塩を再び分解してしまうというタフマンK。つまり、新品のバッテリーの劣化を防ぐだけでなく、使用中のバッテリーを新品同様の性能にまで復活させてしまうという、画期的な製品なのです。
 ですから、「バッテリー添加剤」ではなく「バッテリー回復剤」だということです。
 ちなみにこの回復剤(添加剤)に関する研究論文で、小沢さんは最優秀電気自動車論文賞を受賞しています。
 このような製品が一般化することは、消費者や地球環境にとっては、非常に喜ばしいことですが、バッテリーメーカーからするととんでもない敵ということにもなりそうですよね。
 しかし、もうこういう時代ですから、できることなら、メーカー自身が積極的にこういう技術を導入してもらいたいものです。なかなかそうは行かないと思いますが。どの業界にもあるんですよねえ、こういう面倒なことがねえ。
 というわけで、とりあえず今、私の車の韓国製バッテリーに注入済みです。それから、もうすぐ新しい自動車が来ますので、その新品バッテリーにも注入して、それぞれ交換ゼロを目指してみたいと思います。業務用もあります。運送会社さんなど、たくさん車を抱えている会社にとっては、これは大変な節約になりますね。
 詳しくはこちらのページをご覧ください。小沢さんのインタビューなどもなかなか興味深い。
 私は完全なるシロウトですから(国語のセンセイですし)、まあ専門家からすると噴飯ものかもしれませんが、いちおうこんなアイデアを持っています。電池とキャパシタのハイブリッドですね。ぜひ小沢さんらによって、夢を実現してもらいたいなあ。
 それにしても、このネーミング(ほかの製品も)、なんともいい味出してますね。よくヤクルトからクレームが来なかったなあ。いや、知らないのかな、先方も(笑)。
 

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2010.11.26

格安スタッドレスタイヤ(韓国NEXEN)

0400020000362 年はやや早めにスタッドレスタイヤに履き替えました。3年前にオークションで落としたブリヂストンのスタッドレスがかなり硬化、摩耗し、雪が多いと予想するこの冬は越せないと判断。新しいタイヤを購入しました。
 購入しましたのは、またまた韓国製。だって安いんだもん(笑)。これで我がエブリイランディくんには、バッテリーナビに続き三つ目の韓国製品が装着されました(ちなみにバッテリーとナビは全く問題なく稼働しております)。
 いやあ、ちょっと前だったら、絶対韓国製品なんか買わなかったんですよ。正直バカにしていました。
 しかし!時代は大きく変わっていますよ。世界レベルで見たら、今や日本製より韓国製の工業製品の方が売れています。ソニーとサムスンを見れば分かりますよね。
 ホント最近の韓国製品はよくなりましたよ。で、安いもんだから、もう無理して高い日本製を買う理由もなくなってしまった。もちろん、日本の会社を応援したのもやまやまなんですが、こちらにも財布の事情というものがあります。
 たとえばこのネクセンのタイヤ、1本3270円なわけですよ。ブリヂストンの最新タイプの3分の1以下です。
 もともと、スタッドレスタイヤは3シーズンも使うと買い替えなければならない超消耗品です。お金のことだけを考えれば、韓国製の新品を毎年買う方が安いくらいです。その方が総合的に考えて安全だとも言えますよね。ま、私はこれを3年履くつもりですけどね。
 冬になりますと、ここ富士山の北麓地方では、ある意味北海道よりも厳しい路面状況となります。雪はそこそこ降りますが、除雪はちゃんとしてくれません。そういう意味では、氷上性能よりも雪上性能の方が問われると言ってもいい。だいいち、どんな高価なスタッドレスでも、ツルツルのアイスバーンでは、どうにもならないんですよ。滑る時はみんな一緒に滑ります。止まりません。これはもう経験的に絶対なんです。
 はっきり言って、そういうところは、とにかく慎重にゆっくり走るしかないんです。実際、今より寒くて凍結しまくりだった20年くらい前、私はジムニーに乗っていたんですが、1年中ノーマルタイヤでした。で、滑る時は滑っていました。回っていました。その後、スタッドレスを履いた乗用車に乗りましたが、滑り方は全く同じ、逆に雪道でスタックすることが多くなりうんざりした覚えがあります。
 そんなもんなんです。いくら技術が向上しても氷の上でキュッと停止するタイヤなんて作れるわけがありません。水を除去したところで、ゴムと氷の間の摩擦係数を変えられるわけないのです。
 それから、実は韓国(特にソウル付近)の冬の路面状況は、このあたりに近いのです。以前、韓国の方が真冬にウチに泊まり来ましたが、そんなことを言っていました。ですから、韓国製のスタッドレスの設計は、案外このあたりの環境に合っているのです。
 NEXEN社は韓国では3番手くらいのメーカーのようですね。北欧はじめ世界でけっこう使われているようです。そう、ここ富士山は北欧にも近いと、フィンランド生まれの友人が言ってましたってけ。
 今回のこのWINGUARDで気に入ったのが、珍しく回転方向の指定があることです。ローテーションの矢印が書かれています。これはおそらく雪上での発進性を高めるための設計でしょう。ここではそれこそが重要です。素晴らしい。
 てなわけで、頑張れ韓国。北朝鮮に負けるな…じゃなくて、氷雪に負けるな!というわけで、実際どんな感じか、逐次報告しようと思います。いろいろテストしてみます。

追記1 まずはドライ性能を確認。もともとゴムが硬いからでしょうか、非常に安定性が高い。今まで使っていたブリヂストン製よりもかなり安心です。高速でも、あるいはタイトなコーナリングも、夏タイヤと遜色ありません。ややロードノイズは大きめですが。

追記2 続いてウェット。雨からみぞれの中、ちょっと無理してみました。特に問題はありません。

追記3 初雪。7センチくらい積もりました。路面はシャーベット状のところとやや凍結気味のところがありました。このくらいだとまだよく分かりませんが、急な下りで急ブレーキをかけてみました。やや横方向に流れる傾向がありますが、実用上全く問題ないグリップ力を発揮しました。

追記4 ようやく大雪になりました。新雪でのグリップは国産のものよりかなり良いと思います。安全な場所でいろいろ試してみましたが、凍結路での制動距離も全く問題なし。ABS作動の頻度も国産と変りませんね。急な下り坂の凍結路でスピードを出すと滑りまくりますが、それはまあどんなタイヤでも同じですからね。そういう所ではとにかくスピードを出さないことです。

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2010.11.25

トイレの神様=金勝要神

 年も紅白の出場メンバー発表の季節になりましたね。全体としてはどうでしょうか。今一つ話題性に欠けるような…ところで、BUMP OF CHICKENが出るっていう話は?ww
 毎年いろんなところで話題にはなりますが(たとえばここ)、裏紅白っていうのをやってほしいですね。実力派、怪奇派、マニアック派いろいろ集めて、日本の歌謡史を裏側をおさらいしたいものです。
 あっそうそう、マニアック派と言えば、今日、日本のロック・フォーク・ブルース史にその名を轟かせた某バンドのリーダー(作詞・作曲・ヴォーカル・ギター)の方から、突然大量の曲が入ったCDと楽譜が送られてきました。未発表の最新曲も含めて数十曲!
 で、お礼のお電話をしたら、春にライヴをやるからヴァイオリンをやってくれとのこと!わ〜ぉ!なんということでしょう。ありえない展開。アレンジも全部任されてしまった…すごいプレッシャー…でもないか。とにかく楽しみです!
 さてさて、裏の話は置いといて、表の話を一つ。あれです。「トイレの神様」。
 あの長い曲、フルコーラスでやるんですって?たしかにカットできないストーリー性がありますからね。しかし、一人で10分というのはさすがに前代未聞でしょう。まあ、いい曲だとは思いますが。
 で、あの曲を聴いた時、私はハッと思いました。トイレの神様…それも女神…ってことは…。
 そうです!便所の神で女神と言えば「金勝要神(きんかつかねのかみ)」でしょう。と言ってもほとんどの方は知らないと思いますが。
 一般に厠神と言えば、サスガミ、センツー、カイナデ、あるいはここでも紹介した水の神様であるミヅハノメ(罔象女命)などが有名でしょうか。このミヅハノメは女神ですね。イザナギの小便から生まれた女神です。
 それらは半分妖怪のような扱いをされ、ケツや頭をなめられるとか、なでられるとか、便器から手が出るとか言いまして、子どもがトイレをこわがる要因の一つになっていたりします。
 あるいは便所掃除をしっかりする女性は美しい子どもを授かると言ったような、いわば道徳的なアイテムの一つとして扱われたりしていますね。今回の「トイレの神様」はその亜流と言えそうです。
 つまり、非常に民間信仰的、民間伝承的なものでして、正統の神話などにはそういう「厠の神」としての記述はありません。
 しかし、もう一つの壮大な神話、出口王仁三郎の霊界物語には、まんま「トイレの女神様」が現れるんですよね。だから、今回ちょっとびっくりしたと。植村花菜さんのおばあさん、大本の信者だったのかも…。
 霊界物語の該当箇所の一部を見てみましょう。

   女神の出現
 不思議に堪へずして、自分は金色燦爛たる珍玉の明光を拝して、何となく力強く感じられ、眺めてゐた。次第々々に玉は大きくなるとともに、水晶のごとくに澄みきり、たちまち美はしき女神の御姿と変化した。全身金色にして仏祖のいはゆる、紫摩黄金の肌で、その上に玲瓏透明にましまし、白の衣裳と、下は緋の袴を穿ちたまふ、愛情あふるるばかりの女神であつた。女神は、自分の手をとり笑を含んで、
『われは大便所の神なり。汝に之を捧げむ』
と言下に御懐中より、八寸ばかりの比礼を自分の左手に握らせたまひ、再会を約して、また元のごとく金色の玉となりて中空に舞ひ上り、電光石火のごとく、九重の雲深く天上に帰らせたまうた。
 その当時は、いかなる神様なるや、また自分にたいして何ゆゑに、かくのごとき珍宝を、かかる寂寥の境域に降りて、授けたまひしやが疑問であつた。しかし参綾後はじめて氷解ができた。
教祖の御話に、
『金勝要神は、全身黄金色であつて、大便所に永年のあひだ落され、苦労艱難の修行を積んだ大地の金神様である。その修行が積んで、今度は世に出て、結構な御用を遊ばすやうになりたのであるから、人間は大便所の掃除から、歓んで致すやうな精神にならぬと、誠の神の御用はできぬ。それに今の人民さんは、高い処へ上つて、高い役をしたがるが、神の御用をいたすものは、汚穢所を、美しくするのを楽んで致すものでないと、三千世界の大洗濯、大掃除の御用は、到底勤め上りませぬ』
との御言葉を承はり、かつ神諭の何処にも記されたるを拝して、奇異の感に打たれ、神界の深遠微妙なる御経綸に驚いた。

 金勝要神は、国祖国常立命(クニトコタチノミコト)を支えるスサノヲの分霊なのですが、敵神の謀略によってトイレに幽閉されているという設定です。
 昨日の話で言えば、拝金主義の悪神によって放逐された、正しい魂を持った善神ということになります。
 ですから、こういうタイミングで、この曲がこうして日本の国家的神事とも言える紅白歌合戦に登場するというのには、なにか深い意味があるのかもしれません(考えすぎですかね…笑)。
 霊界物語の別の場所には、次のような記述もあります。この曲の歌詞(すなわち植村花菜さんのおばあさんの言)と合わせて読みますと、より深いメッセージが読み取れるような気もしてきます。

   金勝要大神  天は男系、地は女系と云ふは、霊界のこの消息を洩らせしものなり。神諭に、 『大地の金神、金勝要神』 とあるは、これの表示なり。また、 『この大神は、雪隠の中に落された神』 とあるは、総ての地上の罪悪を持ち佐須良比失ふ所の鳴戸の意味なり。  天教山は口に当り、鳴戸は地球の肛門に当るが故なり。神の出口、入口といふは、この富士と鳴戸の御経綸の意なり。大地の金神を金勝要神と称するは、大地の金気の大徳によりて固成され、この神の身魂に依りて凝縮保維されてゐるが故なり。

 とにかく、植村花菜さんの歌う「トイレの神様」は、実はとんでもない立派な神様なのです。そして、その女神がトイレを出て再びこの世に現れる時、世の中は大きく変わるのです。
 だから、この曲が広まって、みんながトイレを磨くようになるのは、とてもいいことなのです。さてと、私も今日からしっかりトイレを磨くぞ(笑)。

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2010.11.24

『生き方の原理を変えよう』 船井勝仁 (徳間書店)

天律の時代が来た!
Img04 の本の発売日、著者の船井さんに初めてお会いしていました。この本の内容をお話しいただき、これはすぐに買わねばということで、さっそく買って読んだにも関わらず、紹介がかなり遅れてしまいました。
 世界がおかしな方向に行っている…最近強く感じることです。未来のため、子どもたちのために、私ができることはなんなのか、それを考えることも多くなりました。たぶん、自分の人生が後半に入ったからでしょう。
 勝仁さんも私と同世代です。彼は船井幸雄という偉大な父を持ったがために、ある意味二代目のご多分にもれない人生(?)を歩んでこられたようですが、ここへ来てお父様の志を継ぐ確かな決断をされたように感じました。
 私もそうですが、やはり人間が自らの天命に気づくのには、それなりの時間が必要なのですね。まさに「知命」の歳へ向けてようやく気づき始めたということでしょうか。
 勝仁さん初めての御著書、非常にわかりやすいいい本です。私が漠然と感じていたこと、ここが心配だということ、こうあってほしいということなどが、実に「親切に」書かれていると感じました。
 文は人なり。あの穏やかで温かなお人柄そのままの御本です。文が優しいんですよね。しゃべり方、たたずまいと同様にソフトなのです。
 しかし、その奥には、実に堅固な意志が感じられます。私もそれに刺激され、ますます自分の役目をしっかり果たさねばという気持ちになりました。
 日本人は「自律」の時代が苦手であること、逆に「他律」の時代には繁栄すること、今は「自律」の時代であるということ、そして、いよいよ「天律」の時代が来るということ。「うず」に象徴される、今までなかった動きを、我々の世代が作らねばならないこと。拝金主義の時代を終わらせ、大和、みろくの世を作ること。これらはまさに、私が感じている「世界の仕組み」、そしてひそかに目論んでいる「世界改造」の形そのものです。
 私独自の「モノ・コト論」で言うなら、「自律」は「コト」の時代、「他律」は「モノ」の時代です。前から私は「これからはコトよりモノの時代」と言って来ましたよね。もちろん、この「モノ」は物質、商品という意味ではありませんよ。自己の外部であり、不随意であり、他律であって、自己の脳内イメージとしての「コト」ではありません。
 ということは、私は再び「他律」の時代が来るということを言っていたわけで、その先の「天律」にまでは発想が至りませんでした。そのあたりが、やはり船井さん(&出口光さん)と私との大きな器の差なのでしょう(本書の中で、この発想は出口光さんから授かったと書かれています)。自分でも、たしかに「モノ」の再来、再訪を招来、期待するだけでは何か足りないなあとは思っていたのですが。
 そういう意味で、この本は非常に大きな示唆を与えてくれました。また、ここ数年の一連の「奇跡的なご縁」が私に与えられたその意味を知る上でも、非常に価値のある本でした。
 たしかに私たちは「生き方の原理を変え」なければならないでしょうね。この本で紹介された、現代日本での天命の実践者たち、本当に魅力的でした。こうした志ある人たちが、ちゃんとこの世の中にいて、ちゃんと仕事や生活を成り立たせているという事実には、本当に励まされる気がします。
 正しいことや正しいものや正しい人はちゃんと天に守られているんですね。正直彼らは「変わり者」に見えるでしょう。しかし、この前書いたように、「志」を持つと「変」になるんです。
 私ももっとまとも「変人」になろうと思いました。なんか中途半端ですからね。どこか自信がなく、だからこそ時代や世の中に迎合してしまうところがあるんでしょうね。
 気づいているのに実行しないのは、一番タチが悪い。これだけいろいろな方々から教えられて気づかせていただいているのに、ここで頑張らないのは卑怯ですよね。
 真剣に、仕事や趣味を通じて、世の中を変えていきたい。残された人生を実りあるものにするためにも、「天律」の「うず」をしっかり巻き起こしていこうと思います。もちろん、このブログを通じても。

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2010.11.23

6声のリチェルカーレ by 初音ミク

 た初音ミクに泣かされた。
 今ウチでは(でも)初音ミクブームです。私はもっぱらバッハを鑑賞。カミさんは演歌や歌謡曲など、娘たちはアニメソングなど。
 歌に関してはかなりうるさいウチのカミさん、本気で「初音ミクは偉い!尊敬する!」と言っています。なんだか分かるなあ、その気持ち。
 だって、どんなジャンルの音楽であれ、それがたとえば器楽曲であっても、とにかく一生懸命息もつかず(息継ぎしてませんよね)歌うんですから。あの純粋な(当たり前か)魂には本気で感動させられます。
 特にバッハのような「無機質」な音楽にはうってつけです。以前、マタイ受難曲 by 初音ミクを紹介しましたね。あのプロジェクトは着々と終曲へ向かって進行中です。
 ほかのクラシック系の曲だと、やっぱり今一つなんですよねえ。バッハは人間界を超えた音楽を作りましたから、ヴォーカロイドにぴったりなんですよ。
 そして、これ!音楽の捧げ物という、これまた究極の抽象音楽を、見事に歌い尽くした名演です。
 いやあ、なんと言ってもですねえ、冒頭のあの、「C-Es-G-As-H」のテーマに「初音ミク」という言葉を与えたことに感動です。
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 なるほど!これはもう偶然とは言えない。
 ご存知のとおり、日本語は「高低(ピッチ)アクセント」です。つまり、言葉に固有のメロディーがあります。「はつねみく」は「低高高高低」というアクセント(メロディー)です。
 何度か書いているように、私はこれを大学時代に研究しました。日本の歌謡のメロディーとアクセントの関係についてです。金田一春彦先生が開拓した分野ですね。私は大学時代は山田流の箏曲をやっていましたので、山田流の秘譜(本来楽譜はない世界ですので)から、江戸語のアクセントを多数復元しました。ま、どうでもいい研究ですけど(オタクっぽいですね…苦笑)。
 そういう観点からしますと、この冒頭のメロディーは完全に「初音ミク」なのです。音の数ももちろんあっています。5個。そして、メロディーも彼女の名前のアクセントを自然に聞かせる法則に合っています。
 もうこれはですねえ、300年前にバッハがですねえ、現代日本の初音ミクの到来を予知して作ったとしか思えないですよ(笑)。いや、(笑)ではないかもしれない!
 初音ミクが鏡音リンやレンだったら、音数からしてもうダメですし、同じ5音でもたとえば西野カナじゃダメです(平井堅ならいいけど…笑)。おそるべしバッハ…いや、初音ミク…いや、この主題を与えたフリードリヒ大王がすごいのか!?
 ま、それはさておき、やっぱりこの6声というとんでもなく巨大かつ複雑なポリフォニーの構築物は、人間の作ったものではないですね。美しさを超えて恐ろしささえ感じられます。そんな神の世界を初音ミクという現代の女神がこうして我々に歌って聞かせてくれるなんて。きっとバッハも満足していることでしょう。たぶん。
 この作品に限らず、バッハの自筆譜は、もうそれだけでとんでもなく美しい作品になっています。せっかくですから、自筆譜を見ながら初音ミクで聴くというのもヲツではないでしょうか。

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 しっかし、日本のオタクたちはすごいわ。YouTubeやニコ動の初音ミク作品は異常な数に上ります。これは音楽史においてとんでもなく画期的なことだと思いますよ。まじで。
 楽器も歌もできなくても、こうして古今の名曲を演奏することができるようになり、あるいはオリジナルソングを公表できるようになり、そして聴く側も様々な再発見を体験できる。すごいことです。
 そして、バッハも究極のオタクですよね。彼が現代日本に生まれていたら、ぜったいに初音ミクのためにとんでもない名曲を作っていることでしょう。あの時代においても、彼の頭の中にはリアル楽器を超えた究極の電子楽器が存在していたでしょうから。リチェルカーレはもちろんその脳内楽器のための音楽でした。
 ついでに3声の方も聴いて下さい。これもいいですねえ。涙、涙。

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2010.11.22

『ACACIA』 辻仁成監督・アントニオ猪木主演作品

315x210 ず一言。映画として期待して観るとがっかりするかもしれません。
 ただ、やっぱり猪木さんの存在感といいますか、演技を超えた演技といいますか、いや、演技になっていない演技は素晴らしい。生身の人間を見せる、ある種ドキュメンタリーだと思えば、なかなか興味深い作品です。
 つまり、アントニオ猪木は、たとえ初めて映画に主演したとしても、やっぱりいつもどおりなのです。猪木は猪木でしかない。プロレスラーはプロレスラーでしかない。
 もちろん、この作品では、何度も登場する裁縫シーンに象徴されるように、闘う男とは対極にある姿が描写されていますけれども、それもおそらくは私たちの知らない猪木さんの真の姿の一つなのでしょう。全く違和感がないどころか、辻さんが意図したであろう「効果」すらも感じられませんでした。おそるべし。
 もう一度映画としてのこの作品に苦言を呈するなら、こんなことが言えるかもしれません。小説を書いた作家本人がその作品を映画化するのは危険だ。
 たぶん、この作品の原作である小説は面白いんでしょうね。感動するでしょうし、考えさせられる内容だと思います。設定やストーリー、また、心の壁を象徴する「腹話術」や「覆面」の効果も高いと思います。
 しかし、それを作家自身が映像化してしまうと、なんでこういうふうになってしまうのでしょうか。これは実に難しい問題です。
 脚本ならいいのです。小説だとダメなのです。イメージがあまりに固定的になるからでしょうか。あるいは逆で、作家の、実は茫洋とした脳内イメージが、リアルに表現しようと思えば思うほど、ニセモノの光を帯びてしまうのでしょうか。
 いずれにせよ、どこか白々しく、わざとらしく、不自然なほどに予定調和的な感じがしました。ある種、聖書のようなウソ臭さを感じる作品でした。そう、猪木のいう受難の神の物語としては秀逸だったのかもしれませんね。聖書は小説でも映画でもありません。
 普通、映画の脚本は、もともとはプロットしかなく、たとえばロケハンしながら、他者と交流しながら「言葉」や「ストーリー」が紡ぎあげられていきます。小説は、作家個人の中でもうすでにそれが一度完結しているわけで、それを他者が監督して映画化するのならまだしも、作家本人が監督すると、そういった映画本来の他者性がマイナス方向に働いてしまうのではないでしょうか。難しいですね。
Intro_ph01 あとは、やはり猪木さんが「強すぎた」のでしょう。昔プロレスラーで今はただの老人という設定としては、リアルな猪木さんはあまりに強すぎた。デビュー50周年を迎え、ますます元気で、プロレス界に影響を与え続け、いや、政治の世界でもいまだに影響力ありますね、そんな人が、公団住宅で孤独に年金生活する老人を演ずるのは、ちょっと無理があったのかも。
 プロレスラーの哀しみ、すなわち男たちの孤独で不器用な戦いを表現した映画としては、レスラーの日本版だと言えなくもないかもしれません。家族、子どもと関係がテーマですしね。しかし、映画としてのレベルはかなり差があると言わざるを得ません。
 もう一度両者を比較鑑賞してみたいと思います。何が違うのか。
 それにしても函館の風景はいいですねえ。味がありますねえ。風景は猪木さんと伍していました。
 それから辻監督おすすめの猪木さんの男泣きシーン、たしかに良かった。声にならない慟哭。あれも演技じゃないんだろうなあ…。あと、やっぱりプロレスの動きを見せるシーン。ホンモノの凄み、往年を彷彿とさせる「型」にしびれました。
 猪木さんのデビュー50周年興行、12月3日のIGF両国国技館大会、宮戸GMからもお誘いをいただきましたが、残念ながら中学の説明会の日でして行くことができません。自分の教員デビュー25周年(くらい?)イベントです(笑)。こっちはこっちで「闘魂」を見せようと思っていますよ。闘魂タオル持参で頑張ります!
 それから、この映画を観て痛感したこと。やっぱり今の子どもたちにはプロレスが足りない!親子の心と体の交流が足りない!「プロレス教育サミット」計画を本気で推進したいと思いました。来年は動きます!

ACACIA公式

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2010.11.21

『BSベストスポーツ増刊号 イチロー2244安打 全部見せます』 (NHK BS1)

10200 こ数日の疲れがどっと出ました。いろいろやることがありましたが、基本家でぐうたらしていました。そのぐうたらのBGMならぬBGVがこれ。
 まあ、NHKらしいというかなんというか、とんでもない番組ですね。そしてこれが番組になってしまうからイチローというコンテンツはすごい。いや、イチロー自身と言うよりも、今回はイチローのバッティング(ヒット)という作品ですかね。まさに職人芸を見せつけられました。
 延々と7時間にわたる放送。いったいいつ終わるのか。とにかく淡々とヒットのシーンが積み重ねられていきます。これだけ観ていれば、2244打数2244安打打率10割ですよ。
 思わず「うまい!」と何度も叫んでしまいました。まあイチローにしてみれば、シロウトに「うまい」とか言われたくなんでしょうが。次元が違いますね。昨日もプロのプレー(やや手抜きでしたが)を観ましたけれど、やっぱりプロの中でもイチローは特別です。
 音楽で言えば「ヴィルトゥオーソ」ですよ。超絶技巧の上にある「徳」。つまり、超絶技巧ではなくて、技巧を超絶した何かを備えているんですよね、彼は。
 この前、ちょうど一流の思考法を読んだじゃないですか。あの内容とも関連させながら、彼の所作というか、「型」というか、たたずまいというかを、ぼんやり鑑賞させてもらいました。
 うむ、やっぱり、これは「禅」ですね。
 スポーツは全て「他者性」との闘いです。中でも野球は、より流動的かつ制御しにくい他者との闘いが多くなります。自分は狭い枠の中に閉じこめられ、ある種不自由の身の中から、ああした自由を勝ち得なければなりません。
 野球は偶然性のスポーツとも言われます。ですから実力どおりの結果が出ない面白さがあります。奇跡が起きやすいのですね。しかし、その中で、イチローのように3割以上の確率で自らの思い通りの結果を出すためには、これはもう、禅的な発想や所作を武器にしなければどうしようもありません。
 つまり、他者に合わせていくのです。相手と一体化するために、自己を捨てるのです。彼の「型」はそのための技術であるように見えました。
 禅においても、あらゆる動作に「型」があり、また究極のテクニックであるべき「座禅」は、様々な動きや思いさえも排除されたものです。
 ワタクシ流に言うと、「コトを窮めてモノに至る」というやつです。
 自らの「カタ=コト」を発見し、そこに自分を沈め込んでいくと、そこには広大な「自己の補集合」たる他者が広がっている。そういう境地です。「モノにする」、「モノになる」はこれです。
 素直なバッティングとか、球に逆らわないとか、まあ言うのは簡単ですよ。しかし、それを実際に現実化するのは、とんでもない修練、それも肉体と精神の両方の修練が必要です。それが出来る稀有な人間がイチローなのです。
 いつかも書きましたが、たとえば音楽においても、いろいろなジャンルでヴィルトゥオーソと言われる人、天才と言われる人、神と称される人の弾き方は、正直「変」です。ジャズ界でちょっと思い出すだけでも、ジャンゴ・ラインハルト、ステファン・グラッペリ、キース・ジャレット、パット・メセニー…、みんなどうやって弾いているのか分からないし、実際見た目が「変」ですね。
 イチローだってそうです。あのバッティング・フォームはおかしいですよ。もちろん、王さんや長嶋さんだってそう。誰もマネできません。
 現代はそういう「変」がなかなか許されない時代です。おそらく教育が悪いのでしょう。なんでも、画一化、平均化、マニュアル化してます、いやさせてますからね。そういう中で、イチローがああいう自分の「型」を自ら作り出し、そして日々進化させていることはおそるべきことです。
 最近、中学の職員室では、「最近の子どもは指示待ち、答待ちで、自分で考えることをしない」と、よく嘆き合っています。どうすればいいのか。本当に悩ましいところです。
 自分もかなり変な人間だとは思いますが、所詮三流なので、単なる「変わり者」「お変人」で終わってしまっています。天才になるには、才能も努力も全く足りないのが、本当に悔しいですし、残念です。
 まあ、でも、こうやって「天才」たちに日々触れることができるのは、この現代の日本に生まれたからですよね。それは本当にありがたいことであり、感謝すべきことであると思います。
 それにしても、とんでもない7時間でありました。イチロー自身はこれを観るのだろうか。彼自身の感想を聴きたいですね。きっと、また禅の高僧みたいな「変な言葉」を発するのでしょう(笑)。

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2010.11.20

Jリーグ観戦

Gedc1564 校行事でJリーグ観戦っていうのもいいでしょ?
 今日は中学生を連れて小瀬陸上競技場へ。J2の公式戦、ヴァンフォーレ甲府 対 ザスパ草津の試合を観に行きました。
 今月は遠足(登山)に芸術鑑賞を2回、そしてスポーツ観戦と、いかにも「秋」というような行事がめじろ押しです。ハーヴェスト・タームですな。
 とにかく「一流」の「生」の「体験」をしてもらうのがウチの方針です。ですから、地元のプロ・サッカー・チームの試合を観戦するというのは、ある意味自然な発想です。
 今回はヴァンフォーレのサポーターでもある1年の担任の先生がいろいろ尽力してくれまして、生徒たちにとっても、そして私にとっても、非常に貴重な体験をさせていただきました。
 ふむ、勉強なりましたなあ。プロレス復興とプロレスの教育への参加を目論んでいる私にとって、本当にたくさんのヒントがありました。
 試合自体はですね、前節J1昇格(復帰)を決めたヴァンフォーレが、正直怠慢プレーとも取れるような緊張感と闘争心の欠けた内容でちょっとがっかり。2-4で敗れてしまいました。ま、ある意味ホームではなかなか観られない変な試合だったとも言えますが。
 それでも、生徒たちは大いに盛り上がり、大いに楽しみ、大いに学んだのではないでしょうか。
 写真でその様子を紹介しましょう。

↓試合前、屋台でご当地グルメなどを食べるのも楽しみの一つ。
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↓キャラクターと記念撮影。
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↓お楽しみのサッカーゲームも豊富。
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↓「祝昇格!」のもちつき。
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↓サイン&握手会。
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↓施設見学でピッチに!
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↓ベンチに座らせてもらいました。
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↓ゴールで記念撮影!
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↓選手のロッカールーム潜入。
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↓先ほど自分たちが立っていたピッチで試合が始まりました。
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 地元に根ざしたチーム運営とサポーター組織、そして未来のJリーガーやサポーターを育てるための、子どもたちに対するサービス、環境や福祉への配慮…なるほどJリーグが安定した人気を持続し、そしてその結果としてサッカー界の実力が向上した、その巧みな仕組みがよくわかりました。
 教育現場も、そしてプロレス界、あるいは音楽界も、Jリーグに見習う点が多々あると感じましたね。本当に勉強になりました。

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2010.11.19

格安ヴァイオリン(ステンター)その2

Img55304620_2 ァイオリンを買いました。メインで使っていた総額2万円のモダン・ヴァイオリンがどんどん鳴らなくなっていく上に、指板が取れそうな感じなので買い替えることにしました。
 ふだん演歌の演奏以外には使うことのなかったモダン楽器ですが、弦楽合奏部を作ってしまった関係で、ほぼ毎日弾かねばならなくなりました。こんなに楽器に触るのは高校時代以来?
 まあさすがに2万円の通販ヴァイオリンじゃあどうしようもない、というわけで反省、学習しまして、今回は通販で1万8千円のヴァイオリンを買いました(笑)。おいおい!
 いや、本当であります。お金ないし、モダンはバロックの片手間で弾くものだし、私はこれでいいんです。笑われようが、怒られようが、呆れられようが、ある種のポリシーなんでよ、これがまた。
 生徒たちには、とりあえず1万2千円の楽器を買い与えています。これですね。春にこいつを5台ほど買いましたが、どれもなかなかよく鳴るいい楽器でした。弓はダメダメですけど。
Gedc1549 で、私は、いちおう先生なので、生徒と同じではちょっと権威が感じられないのではと思い(セコい)、少し上のグレードのやつを買ったのです。定価30,000円が特価17,900円とのこと。ははは。
 これがちょうどこの前の芸術鑑賞の日に学校に届きました。恥ずかしくてプロの皆さんにはお見せしませんでしたが。
 ま、考えてみると、あの時そうそうたるプロの皆さんと一緒に演奏させていただいたヴィオラは、高校の同級生から2万円で譲ってもらった、鈴木バイオリンの一番安い楽器です(ナイショですが…笑)。
 このような安い楽器をあえて買う理由は、こちらこちらに書いたとおりです。
 今回もさっそく改造開始!駒を削ったりするのは当たり前。魂柱の調整もしちゃいます。そして、旧モダン・ヴァイオリンからちょっとカッコいいテールピースなどを移植しまして、見た目も180万円風にグレードアップしてみました(笑)。いかがでしょう。
 いや、まじでいい音しますよ。弘法筆を選ばず…ではなく、悪筆悪人を選ぶんです。調整の成果もあってか、倍音もよく出ていますし、モダン・ヴァイオリンについてはほとんど何も分からない私からしますと、改造されたストラディヴァリウスよりいい音がしているように思えます。少なくとも、生徒たちの楽器とはかなり違う。5000円以上の差を感じます。
Gedc1548 そして、ケースがいいですねえ。軽くてしっかりしている。これはバロック・ヴァイオリン用に使おうっと。弓はやっぱりダメダメでしたが、昔買った杉藤の一番安いのがあるからいいや。
 と、こんな感じでいいんでしょうかね。いや、いいんです。これでいいのだ!死ぬまでこれ使おうっと。

【yahi1810】【初級・中級者向けステンター・バイオリン4/4】STENTOR SV-300/湿度計付セミハードケース

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2010.11.18

富士変幻

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 った時の富士頼み。
 行事がめじろ押しで、なかなか時間がとれません。こういう時は、富士山の幻想的な美しさにおまかせしましょう。
 今日の富士吉田は寒かった。今にも雪が降りそうな感じ。いよいよ長い冬が来るなあという実感。
 昼間はどんより曇っていて、ほとんど富士山は見えませんでした。しかし、夕刻になり、突如として現れたのが、この富士山。
 すっかり雪をかぶっています。さすがの地元民たちも、皆一様に驚いていました。
 雪衣と雲綿を纏い、夕日に照らされる富士山。こういう、ある瞬間的、奇跡的なお姿を拝めるのは、ここに住んでいるおかげですね。
 世に通っている富士山の写真は、あまりに出来過ぎている感があります。太宰も言っていたように、あまりにおあつらえ向きなんです。モデルとしての富士山。
 でも、これが、ある意味普段着の、日常の、ある種庶民的でありながら、しかし実に高貴な富士山の本当の姿(の一部)なのです。ぜひ皆さんにもご覧いただきたい。
 ほんの数分の時の流れの中で、微妙にその表情を変えていく様子をご覧下さい。

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 最後に「月夜富士」をご覧下さい。太宰も化かされた妖艶なる姿です。冬の月夜、富士山の雪の部分が月光に照らされて闇夜にあやしく浮かぶのです。地元でないとなかなか知らない秘密の富士山です。
 ちなみにこの写真は富士吉田から撮影したものではありません。帰宅途中富士河口湖町にさしかかったあたりで撮ったものです。昨年、志村正彦くんと最後のお別れをした場所です。

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 月夜富士、私もこちらに住むようになって初めて知りました。最初気づいた時の驚きと感動と言ったら…。
 私はその時の感動を言葉にできません。しかし、さすがは太宰治、「富嶽百景」で、その月夜富士をとんでもない名文で表現しています。太宰の数多い名文の中でも、私は格別にこれが好きです。そして、その名文を生んだ現場が、まさにここ、私の学校のある場所なのでした。

 路を歩きながら、ばかな話をして、まちはづれの田辺の知合ひらしい、ひつそり古い宿屋に着いた。  そこで飲んで、その夜の富士がよかつた。夜の十時ごろ、青年たちは、私ひとりを宿に残して、おのおの家へ帰つていつた。私は、眠れず、どてら姿で、外へ出てみた。おそろしく、明るい月夜だつた。富士が、よかつた。月光を受けて、青く透きとほるやうで、私は、狐に化かされてゐるやうな気がした。富士が、したたるやうに青いのだ。燐が燃えてゐるやうな感じだつた。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛の葉。私は、足のないやうな気持で、夜道を、まつすぐに歩いた。下駄の音だけが、自分のものでないやうに、他の生きもののやうに、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そつと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮んでゐる。私は溜息をつく。維新の志士。鞍馬天狗。私は、自分を、それだと思つた。ちよつと気取つて、ふところ手して歩いた。ずゐぶん自分が、いい男のやうに思はれた。ずゐぶん歩いた。財布を落した。五十銭銀貨が二十枚くらゐはひつてゐたので、重すぎて、それで懐からするつと脱け落ちたのだらう。私は、不思議に平気だつた。金がなかつたら、御坂まで歩いてかへればいい。そのまま歩いた。ふと、いま来た路を、そのとほりに、もういちど歩けば、財布は在る、といふことに気がついた。懐手のまま、ぶらぶら引きかへした。富士。月夜。維新の志士。財布を落した。興あるロマンスだと思つた。財布は路のまんなかに光つてゐた。在るにきまつてゐる。私は、それを拾つて、宿へ帰つて、寝た。  富士に、化かされたのである。私は、あの夜、阿呆であつた。完全に、無意志であつた。あの夜のことを、いま思ひ出しても、へんに、だるい。

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2010.11.17

『なぜ、脳は神を創ったのか?』 苫米地英人 (フォレスト2545新書)

Pagemain_img_015 いぶん前に買って、ずっと読まなきゃ、読みたいと思っていたこの本。ようやく今日即読しました。熟読ではありません。
 即読できるということは、たいていの場合、知っていること、想定内のこと、期待通りのことが書いてあったということです。よって、あまり感動もしませんでした。だから、感想めいたことは書けません。
 私はどんな本であっても、いや本だけではなく全ての世の事象を、自身の「モノ・コト論」で理解していきます。そういう意味では、ずいぶんとバイアスのかかったものの見方をしている人間だと思います。まあ、人は皆そうなんでしょうが。
 ただ、ちょっと自信があるのが、その認知バイアスの原因が、自己のオリジナルな概念(コト)によるというところでしょうかね。私の「モノ・コト論」は非常に特殊というか、特別なものなので。
 この本は、実はそういう話なのですよ。宗教も神も全て人間の脳内フィクションであると。ただ、その幻想(コト)が、自分のオリジナルなものなのか、それとも人から与えられたものなのか。後者を「洗脳」と呼ぶと苫米地さんは言っています。
 そういう次元での「宗教」「神」、すなわちワタクシ流に言う「コト」次元のそれら(たとえば、「みこと」)は、たしかに「言語(ことのは)」を代表とする脳内メディアによる産物として片付けてしまうことが可能です。
 そして、また、そういう次元で語る(カタる=コト化)のであれば、認知科学や量子論や不確定性原理や証明不能命題などという「騙り」で、その存在を否定することは簡単です。
 だから、そのコト世界(脳内世界=自己の内部)での話であれば、苫米地さんの論理は全く正しいということになります。
 しかし、私たち、少なくとも私には、そういう「正解」や「納得」とは違う次元の「実感」があるのも事実なのです。
 もちろん、それもまた、脳の生み出した幻想にほかならないとしてしまってもいいのですが、そうすると何かまた、それはそれで苫米地さんの言うところの「宗教」や「神」と似た構造に陥ってしまうような気もするんですね。
 つまり、私の「宗教」観や「神仏」観というのは、実は「観」ではなくて、非常に「感」なわけです。こうして言語で表される、たとえば「宗教」とか「神」とか「仏」とか、あるいは「○○教」とか「教典」とか、そういう「言語」や「体系」で表される「コト」の外側に、「何か」を感じるわけです。
 それがすなわち、「モノ」領域なんですね。私の論では、「もの」という言葉は「自己の外部」全てを表すとされています。それが「物体」を表す場合もあるし、「人間」を表す場合もあるし、「不随意」を表すこともあるし、「無意識」を表すこともあるのです。そして、私は「宗教的なモノ」、「神的なモノ」を、そちらに「感じて」いるわけです。
 「神はいない」とか「神は死んだ」とか「全ては幻想だ」とか「洗脳されてる」とか言われても、この実感だけは拭い難い。言葉で表せないのは実に「ものぐるほし」なのですが、だからこその「実在」なのです。自分(コト)が消滅しても、世界(モノ)は残るに違いないという実感。
 うう、なんとも表現し難いなあ。しかし、こうして脳内で産出された「コト」というフィクションでは表現できないリアリズム、つまり、人間というちっぽけな宇宙(コスモス)の補集合として、とんでもない空(カオス)があるという実感自体が、「宗教」や「神」と直結しているような気がするんです。
 苫米地さんは、天台宗の僧籍まで持っている方でして、実際にこの本でも最後は仏教に味方して終わっています。その心境もよく分かりますね。なにしろ、お釈迦様は、私たちのように「コト」でその実感や実在を表現することは、はなっから諦め、また禁じているんですから。だから最強に決まっています。
 「コト」に対する執着を捨てることこそ「悟り」なのです(だから「モノのあはれ」は仏教的な無常観と結びつく)。そういう意味では、お釈迦様は実にカッコイイし、ちょっとずるい。私はそこまでは開き直れないなあ。もっと人間臭くあがいて生きたい気もします。
 そうすると、「コト」をもって「モノ」を表現しつくした、つまり「言霊」でもって「物語」を紡ぎ続けた出口王仁三郎こそが、人間界最強の「人間」ということになるのでしょうか、やっぱり。

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2010.11.16

平野レミ in 「きょうの料理」

 士山の写真が好評なので、今朝の一枚。五合目付近まで薄衣をまとった富士山です。これは珍しい姿ですね。

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 こんな素晴らしい富士山から始まった一日もあっという間に過ぎ、夕方、中学生の総会、高校生の小論文指導なども終わってあたりはすっかり暗くなりました。
 ふぅと一息ついて、たまった本の一部を読み始めたところで思い出しました!やばい!今月の歌会のしめきり、今日だった!
 この春から始めた歌会。ここ2ヶ月はどういうわけか一番点を入れていただいていまして、まあいわばディフェンディング・チャンピオン(?)。ちょっとしたプレッシャーも感じております。
 一気に二首作ってしまえ、と意気込んで集中していると、数人のヒマな生徒がまた職員室に遊びに来て妨害してくれます。
 「おい、今、短歌作ってるから静かにしてくれ」「えっ?短歌?ええと、はげあたま ぴかぴか光る つるつるだ…」「うるさいっ!」
 こんな環境の中、無理矢理作った二首をメールで投稿して、本当の意味で一息つくために、ようやく帰宅の途へ。今日もおいしい酒が呑めるぞ。
 で、ウチに着いてなにげなくテレビをつけたんですよ。だいたい夜の8時台というと、ウチではサムライかチャンネル桜か(笑)、プライムニュースか、まあNHKですね。うるさい民放は嫌いです(って、サムライのプロレスも桜のアジテーションも充分うるさいですけど…笑)。
 今日もまずはNHKから…と、教育テレビにチャンネルを回したはずが…。
 なんじゃ、こりゃ、このテンションの高さは!?どこの民放のバラエティーだ?誰だこの芸人(オバサン)。
 …むむむ、ええぇぇぇぇぇ!平野レミさんじゃないか!えっ?これってNHKの「きょうの料理」じゃん!!
 実況!20分で晩ごはん「れんこんマグロッケ」…さあ、もうそこからは、言葉では表現できない超異次元ワールド。こ、これは…。
 ホント、筆舌に尽くし難いとはこのことでしょう。この世界を短歌で表現するのはゼッタイ無理。てか、ダメ、ゼッタイ!
 動画がないので、こちらの2ちゃんまとめをご覧下さい。何が起きたのかの片鱗は感じられるのではないかと…。
 
平野レミさん出演のNHKきょうの料理が神回で大反響

89af52e4s す、すごすぎ。さすがです、レミ様。
 外出していたカミさんが帰ってきたので、さっそく話したら、なんと彼女も昼間をしっかり見てしまったとのこと。やっぱり面白すぎて死にそうだったとのこと。カミさんは面白いことがあると、全部即興でモノマネする性格というか特技の持ち主でして、さっそく家事の全てを平野レミきょうの料理ヴァージョンでこなしていました(笑)。
 いやあ、すごいですね和田家。
 そうです、平野レミさんは言うまでもなく和田誠さんの奥様です。私の短歌の師匠であり、私を歌会に誘ってくれた笹公人さんは、和田家と仲良しですから、きっとレミ夫人の手料理とか食べてるのかな…。うらやましい。
 そうそう、笹さん、先日は細野晴臣さんの前でYMOの曲に歌詞をつけて演奏したり、それから、今発売中のヤングジャンプでAKBに短歌を教える企画が掲載されたり、なんか、私がうらやましがることばっかりなさってます!!ww
 ま、そんな方に短歌を指導していただけるのですから、私もずいぶんと幸せ者ですよね。それも本当にヒョンな「縁」から。
 それから、平野レミさん、和田誠さんと言えば、トライセラトップスの和田唱くんの御両親でもありますね。フジフジ富士Qでは、フジファブリックの「Strawberry Shortcakes」と「陽炎」を心をこめて歌ってくれました。志村正彦くんの良き理解者であり、友人でありました。これもまた不思議な縁と言えば不思議な縁です。
 

 いやあ、それにしても、すごいとしか言いようがありません。NHKもすごい。レミさんのテンションの高さとアナのNHK的冷静さが実にNEOでありました(笑)。
 11月23日の27時(24日未明)にBS2で再放送があります。今度はちゃんと録画しよっと(笑)。


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2010.11.15

赤津眞言さん他による芸術鑑賞

僭越ながら一緒に弾かせていただきました!
20101116_91839 当に縁というのは不思議なものです。25年前、私のバロック・ヴァイオリンによる初めてのコンサート。ガチガチに緊張した私の隣で、上手にリードしてくれた赤津さん。彼とこうして再び共演できる日が来るとは。それも、自分の学校の教室で…。
 四半世紀前、日本には(世界にも)まだ数えるほどしか専門的なバロック・ヴァイオリニストはいませんでした。そんな状況の中、赤津さんは(いちおう私も?)その魅力に取り憑かれ、未来に、古くて新しい音楽の息吹を吹き込もうとする若者でした。
 当時、私は素人ヴァイオリン弾きでしたが、赤津さんは音楽大学を出られた本職でしたし、すでに古楽器を手にされ、それなりの研鑽を積んでいらっしゃいました。ですから、当然私の当面の目標であり、師匠であったのは、まぎれもなく赤津さんでした。
 若気の至りで、勝手にライバル視していたところもあったかもしれません(笑)。今考えればとんでもない勘違い野郎ですが、私。でも、たしかに、これから新しいことをお互いにやっていこうというエネルギーには満ちていたと思います。
 その後、私たちは全く違う道を歩みました。彼はヨーロッパに渡り、本場で勉強し、そして見る見る頭角を現し、結果として、今では日本、いや世界を代表するバロック・ヴァイオリニストとして活躍するようになりました。なにしろ、本場の音楽学校で本場の音楽を本場の人たちに教える立場にあるわけですから。
 私は山梨の私立高校の国語の教員になり、東京を離れて暮らすようになりましたが、楽器と音楽が作ってくれた「縁」に導かれ、背中を押され、ほとんど間断なくこのジャンルの音楽を続けてくることができました。
 そして、途中何度かお会いしたり共演したり機会もあったのにはあったのですが、今回こういう形で、お互いに自分の仕事の上で結びついて御一緒することになろうとは、それこそ25年前、いや1年前にも全く想像すらしていなかった。
 元はといえば、赤津さんから1通のメールが端緒でした。1年ぶりに帰国するので久々に会えるといいねと。それがどういうわけか、ウチの学校で演奏してくれるという話に。
 そして、連れて来てくださった共演者がまたすごい。あらためて演奏してくださったメンバーを紹介します。

 バロック・ヴァイオリン…赤津眞言・迫間野百合
 ヴィオラ・ダ・ガンバ&バロック・チェロ…武澤秀平
 チェンバロ…岡田龍之介

 はっきり言って、こんな超豪華メンバーによる古楽の芸術鑑賞が行われる中学校は、世界にもそうそうないでしょうね。マニアック!
 しかし、こんな夢のようなことが起きてしまうのが、「縁」の不思議さ、面白さ。特に、音楽、楽器を通じての「縁」は素晴らしい。
 実は今回いらしたメンバーの皆さん、それぞれ今まで面白いご縁があったのですよ。
 赤津さんとのことは先ほど書きました。岡田先生とは、都留音楽祭や慶應バロックのOBバンド関係で長いつきあいですね。武澤秀平くんとは宴会芸で共演した仲でした(笑)。あのあと、彼はマトリョミンを買ったとか!?来年は二台(もしくは二人)のマトリョミンによるトリオソナタでもやりましょうと約束しました(笑)。
 そして、私は今回初めてお会いすると思っていた迫間さん、なんと彼女が幼少の頃会っていたみたいなんですね。驚きです。そう、昔彼女のお父様、お母様と一緒に演奏したことがあったようなんです。そして、そこに3歳くらいの彼女がついてきたようなんです。まあ、こんなに大きく立派に、そして美しくなられて(笑)。
 というわけで、今日は「グリーンスリーブスのふるさと〜イギリス・スコットランドの器楽曲を探して〜」というテーマのコンサート。ある意味とんでもなくマニアックでして、私でさえもほとんど知らない曲ばかり。
 しかし、この前も書いた「訳も分からぬ」体験こそが大切だと思うんです。それも最高レベルの「未知の世界」。今日は、保護者にも多数聴いていただきましたが、どうだったでしょうか。非常に貴重な体験だったと思います。
 中学の時にELOを通じてヴァイオリンという楽器と出会い、ついで早朝のFM番組でバロック音楽と出会い、それから30年。本当に音楽を、楽器を続けていて良かったと思います。そんな感動や「縁」の素晴らしさを生徒たちに伝えられたら、今日はそれだけでも価値のある日であったと思います。音楽でもスポーツでもいい、最高のパートナーを見つけて、一生それとつきあっていってほしい…。
 今日、わざわざ遠く富士山の麓までいらしてくださり、演奏してくださった「仲間」の皆さん(あえてそう呼ばせていただきます!)、本当にありがとうございました。そして、音楽よ、ありがとう!

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2010.11.14

モーリス・ラヴェル 『ピアノ協奏曲 ト長調』 (バーンスタイン)

 日は珍しく下の娘と二人でお出かけ。秋まっ盛りの清里方面に行ってきました。
 まずはバスケの応援、そして、やまねミュージアム、清泉寮のソフトクリーム、えほんミュージアムをはしごしまして、なかなか充実の一日を送らせていただきました。
 清里を旅するのも久しぶり。同じ山梨県内の森の中(標高も同じくらい)とは言え、富士山付近とはかなり違った感じで、ちょっとした異国情緒(?)を味わえます。今度は家族全員で美術館巡りなどしてみよう。
 この写真は、清泉寮からの富士山と南アルプスです。
Gedc1490
 帰宅してテレビをつけますと、私の親戚が椅子にふんぞりかえって座っています。筧利夫さんです。あの番組ですね。ご覧になったことがありますか、「クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス」。
 根っからのクラシック・ファンには、ちょっとおふざけが過ぎるかもしれませんが、私くらいの浅く冷めたファンには、なかなか面白い、そして勉強になる番組です。
 で、今日はラヴェルのピアノ協奏曲ト長調を素材に、くだらないミステリーが展開されておりました(笑)。
 それでも、やはり勉強になりましたよ。この曲、昔から嫌いではなかったのですが、それこそそんなに深く聞き込んだことがなかったので。
 数年前にガーシュウィンについて音大のジャズ科を目指す生徒と勉強してから、俄然ラヴェルにも興味が出てきてはいました。
 去年の今ごろには、左手を紹介しましたね。今日は、その「左手」に対する「両手」というわけです。考えてみると「両手」という言い方も妙なものですが(笑)。
 ううむ、結局「クラシック」は「ラヴェル」でようやく「普通の音楽」に追いついたということでしょうかね。こういう言い方すると怒る人も多いと思いますけど。
 私のように、クラシックだけ抜けてて、古楽やジャズや歌謡曲やロックを愛好していると、やっぱりどうしてもクラシックだけ不自然に感じてしまうんですよね。いつも書いているように、あまりに特殊な音楽であって、決して「高級」ではないと。どちらかというと…。
 いつかも思いっきり失礼なこと言いましたよね。モーツァルトを聴かせると騒いでいた子どもが静かになるとか、牛の乳が出るとか、それって子どもや動物でも分かる音楽ってことじゃん!って。お腹の赤ちゃんに聴かせるのがクラシックというのもうなずけますね(笑)。
 それはいかにもワタクシらしい極端なイヤミといたしましても、まあ実際のところ20世紀に入って、ようやくラヴェルらフランスの作曲家たちによって、ある意味正常な状態に戻ったとも言えます。
 美術界の印象派が日本の「低級・下等・未開」な浮世絵などに出会って正常に戻ったのと一緒ですね。
 しかし、彼らの努力が報われない部分もあります。一度かかった病気を完治するのは難しかったのです。
 今日の番組でも紹介されていましたが、ラヴェルは、この原初的な音楽をあくまで「理性」で作曲したのです。それも命懸けで。
 決して自然ではなかったのです。頭で体の音楽を作った。結局「コト」の呪縛から離れられなかったのです。ま、所詮フランス人ですし(失礼)。あの頃フランスってどの分野もねえ、結局頭でっかちなんだよなあ。
 しかし、近代ピアノという、それこそ工業製品のような、あるいは兵器のような、とんでもなく規格化され、制限の多い楽器をもって、よくここまで頑張りましたね。
 左手が長調、右手が短調で分散和音を弾いたり、トリルで音程の縛りから解放させようとしたり、リズムを数学的に分割したり、まあ、たしかに考え得る「変なコト」をし尽くして頑張っている感じですね。
 それでも結果としてなかなか魅力的な作品になったのは、ラヴェルの人柄のなせるわざであると、ワタクシは思うのですが。
 このコンチェルトについて、ガーシュウィンはどのような感想を持ったことでしょう。心から共感したのか。それとも…。
 あるいは古賀政男さんはどう感じたか。私にはやっぱりガーシュウィンや古賀さんの方に余裕があるように思いますが。
 では、バーンスタインによる名演をどうぞ。バーンスタインってすごいわ。

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2010.11.13

富士山と紅葉2010(富士吉田市下吉田より)

 久々の縦書き。  今日は本来の予定(in 東京)を全て中止にしました。ちょっと疲れがたまっていたのと、家のことでいろいろやらねばならないことがたまっていたからです。  午後はカミさんと買い物。鍋の具材や子どもの服から車(!)まで、まあいろいろと。  今日はなんとなく天気が悪かったのですが、ちょっと前までは見事な秋晴れが続きました。朝の冷え込みも順調に進んで、我が家のあたり、富士山の懐ではいよいよ氷点下の気温になりました。  職場のある富士吉田の方でもだいぶ紅葉が進みまして、ちょうど見頃となっています。  今日は先日10日に学校の窓から撮影した富士山と紅葉の写真を紹介しましょう。  今までも同じ窓から撮影した富士山を紹介してきました。

 茜色の富士(二月)
 茜色の富士(六月)
 茜色の富士(六月その二)
 茜色の富士(七月)

 そして、最近の富士山と富士吉田の街の風景はこんな感じです。ご覧下さい

Gedc1471

Gedc1474

 こうして見ていきますと、季節の移り変わり、時の流れを感じますね。  時の流れ…これこそが、私たちがどうしても抗えない「もの」です。そこに嘆息するのが「もののあはれ」ですね。ですから、古来、「歌」には「時」が歌われてきたのです。  歌と言えば彼のこともまた思い出されます。  何度も書いていますけれど、ウチの学校のすぐ裏が、フジファブリックの志村正彦くんが生まれ育った場所です。彼もこうして、いつもこの角度で富士山を眺めていたのです。そして、写真の右に見える紅葉した森、すなわち月江寺の池のあたりでよく遊んでいたのです。  また、ミュージシャンになってからも、帰省するといつもこのあたりを散歩していたようです。自分の故郷をただ歩くの好きだったのです。  私は仕事で高校に行く時に、いつもこの池の横を通って行きます。そのたびに、いろいろな「時」の彼の気配を感じます。  もしかすると、今も、落ち葉で無邪気に遊んだり、あるいはベンチで一服しているのかもしれませんね。
 

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2010.11.12

『怒濤の男』 野村俊夫(作詞)・古賀政男(作曲)・美空ひばり(唄)

 んとなくいきなりではありますが、今日は古賀政男のちょっと隠れた名曲の一つを紹介いたします。「怒濤の男」とは、ずばり「力道山」のことであります。
 この曲、昭和30年制作の映画「The Rikidozan Story 力道山物語 怒濤の男」の主題歌です。当時絶大な人気を誇り、戦後日本復興の牽引役であり、強い日本の象徴であった力道山自身が主演した映画です。そして美空ひばりについてももう言うまでもありませんね。とにかく、この男女二人は当時の「日本」そのものだったのです。
 この二人を支え、結びつけていたのは、もちろん田岡一雄山口組三代目でした。そのあたりについては、最近ではこちらに書きましたね。
 二人は田岡組長を通じて何度も会っていますが、一緒にした「仕事」はそんなにたくさんないようです。まあ、いろいろ事情もあるのでしょう。実質的に初めてコラボしたのが、この映画とこの歌だったのではないでしょうか。この仕事ののち、二人は「りきさん」「ひばりちゃん」と呼び合う仲になったようです。
 さあ、この曲ですが、聴いていただいければすぐ分かるように、地味にすごいですね。野村俊夫さんの歌詞は、まあ普通と言えば普通ですが、作曲の古賀政男さんとなると、これはもう「うわっ!やるな!」という感じですよね。
 もちろん、驚きの転調、すなわち1番の「おとこの」の所ですね、これは全く意表をつかれた1小節ですよねえ。そこだけ短調になっているわけです。
 西洋音楽でも、こういう転調はないとは言えないわけですが、ちょっと種類が違いますね。目的が違う。純邦楽では案外よくありますよ。歌詞との関係で歌だけ転調することもありますし。だいいち、日本の音楽、というか、ヨーロッパのある時代以降の音楽以外は、「長調」「短調」という厳格な区別はありませんから。いちおう私も昔、邦楽をやっていましたが、当時西洋音楽かぶれだった私は、そういうのにものすごく抵抗を覚えたのを思い出します。馬鹿でしたね(笑)。
 この曲も聴けば聴くほど、その部分が自然で必然に聞こえてきます。そして、それをふまえた、ひばりさんの歌唱もお見事。「男」の強さの陰の部分を見事表現していますね。
 そして、それ以前にサビ付近の高音の連続。これもけっこう珍しいかもしれません。もちろん、ひばりさんだからこそ唄えるパッセージでしょう。普通の人が唄ったら大変でしょう。
 ところで、ウチのすぐ裏は、美空ひばりさんゆかりの場所なんですけど、古賀政男さんもここ富士北麓とは縁の深い方なんですよね。
Pc300076 音楽和也。6年くらい前でしたか、河口湖の北岸に古賀政男の記念碑が建ちました。あの「影を慕いて」の楽譜と歌詞が彫ってあります。その裏側に刻まれた文には驚くべきことが書いてありました。私、全く知らなかったのですが、古賀政男さんは当時の河口村に疎開しており、終戦を当地で迎えたんだそうです。

 昭和の大作曲家として日本歌謡史に燦然と輝く音楽家として、国民栄誉賞を受賞した古賀政男、その生涯で数々の名曲を生み出した古賀が、昭和20年3月から8月まで過ごしたのがここ富士河口湖町、当時の河口村であった。きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった私の故郷河口村に疎開することとなったのである。古賀が滞在した別荘は富士山を真正面に望む素晴らしい自然の中にあり、村の人々との温かい触れ合いのなかで、心休まるときを過ごした。8月15日、古賀の安否を気遣って駆けつけてきた青年達と共に、終戦の日を迎えた。古賀は青年達一人一人に石鹸を手渡し、これからは新しい時代が来る。間違いなく来る。皆で古い時代の垢を洗い流し、新生日本に向って第一歩を踏み出そうと激をとばし、一斉に河口湖に飛び込んで心身共に清め、霊峰富士に向って新たな誓いをたてたのである。今年は古賀政男生誕百年。この記念すべき年に、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようという富士河口湖町の人々の古賀に対する熱い思いが結実し、歌碑を設置していただき、多くの方々に古賀の意思と歌の心に触れていただけることとなり、心より深く感謝申し上げる次第である。

 平成16年11月

  財団法人古賀政男音楽文化振興財団理事長山本丈晴

 えっなんで?と思ってよく調べてみましたら、なんと、古賀政男さんのお弟子さんとして有名な、いや、私としてはあの山本富士子さんの旦那様として知っていた山本丈晴さん、河口のご出身だったんですね!知らなかった!
 昭和20年山本さん(本名古屋武治さん)は古賀先生に弟子入りします。のちに古賀家の養子となり、そして山本家に婿入りして山本丈晴さんとなったのでした。実に意外な事実…。
 今まで、あまり積極的に古賀メロディーを聴いてこなかった私。これからは、河口湖に飛び込んで富士に誓いを立てた古賀先生のお気持ちを思い浮かべながら、古賀メロディーをじっくり味わってみたいと思います。ものすごい数ですからね、生きている間に聴き尽くせるか…。

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2010.11.11

『一流の思考法』 森本貴義 (ソフトバンク新書)

WBCトレーナーが教える「自分力」の磨き方
79735400 ょうどこの本を読んでいたら、イチロー衝撃発言!「もうカレーは食べてない」なんていうニュース(?)が。
 イチローの「型」を象徴するかのように伝説化していた「朝カレー」。やっぱり伝説だったんですね(笑)。
 しかしまあ、こんなことがニュースになるほど、イチローは「一流」なんでしょうか。
 今までも、イチローについてはけっこう書いてきた記憶があります。彼のまるで武士のようなたたずまい、そして禅の高僧のような発言には、私も一目を置いています(…って、どんだけお前は三流なんだよ…笑)。
 この本は、イチローのトレーナーである森本さんが、イチローの近くにいて感じたこと、そしてそれ以上にご自身の経験から得たある種の智恵を披露した本です。
 私は、イチローは「一流を超えた神」だと思っているので、最初「一流の思考法」でなくて、「イチローの思考法」、あるいは「神の思考法」という本にすべきなんじゃないかと思いつつ読み始めたのです。つまり、非常に特殊で我々凡人にはマネできないシロモノになってしまっているのではないかと。しかし、案外そういう内容ではなく、実際のところは「森本の思考法」という感じでした。これはこれで看板どおりだなとなんだか安心しました。
 そう、つまり、誰が「一流」かって、森本さん本人が「イチリュー」なんですよ。すごいですね。
 私は立派な「サンリュー」だと自負していますが、たしかに、レベルは違えどちょっと似た思考をしているなと感じました。私、けっこうポジティヴですし、悩まないし、前向きです。
 よく言われるんですよ。よくぞこうして淡々と毎日ブログをおんなじ調子で書き続けれられるなと。感情に起伏がないのかと。今日は落ち込んでるとか、やる気がないとか、むかついてるとか、そういうのがあんまり文章に現れてこないと。
 生徒もそういう印象があるのではないでしょうか。今日は機嫌が悪いとか、あんまり言われませんね。いつもおんなじC調…いや音楽的に言うともっとちょっとシャープがついたD調って感じかな(笑)。
 たしかに、私の感情はけっこう平坦です。プラスで平坦なんですね。いろいろ気にしない性格なんです。もちろん、いろいろあるんですよ、面倒なこと。毎日失敗の連続ですし。
 でも、なんと言いますかね、イチローや森本さんの足もとにも及びはしませんけど、失敗や試練をブラスに捉えることは得意かもしれません。
 一般にはマイナスと捉えられる「失敗」「問題」「不快」「不随意」を、変化のチャンスとしてしまうんですよ。だから、何か面倒なことが起こると「やった!チャンスだ!」と思ってしまうんです。
 いつかも書いたとおり、そういう「モノ=不随意」というのは、昨日の自分が想定していない状況としてやってくるんです。だから、昨日と違う自分になるためのチャンスなんです。全て思い通りにゆき、快適な一日というのは、実はなんの進歩もない一日なのです。
 昨日の「能」の話にもつながってきますが、そういう「モノ」をつかまえるのに、実は「コト」が大切なんですよね。「コト」の代表格が「カタ」です。この二つの言葉は日本語学的にも同源なんですよ。
 私の「モノ・コト論」では、自己の外側や自己の管理化にないものを「モノ」と呼び、脳内で処理され、分節され、分析され、コントロールされたものを「コト」と解釈しています。その「コト」の代表選手が「言葉」であり「型」であります。
 この本にもイチローが「型」を決め、それを繰り返すことによって、そこから外れる「モノ」を敏感に捉えていく様子が紹介されています。能楽でもそうですよね。全ては「型」にはめてから、次のステップに行きます。「守・破・離」「序・破・急」ですね。
 これってたしかにとても大切なことです。しっかりした「型」を持っていないと、変化に対応できません。「コト=随意」を基礎、基準点として、「モノ=不随意」に対処していくことが必要です。
 そうそう、この本でも強調されている「型=無意識」について少し「モノ・コト論」的に補足説明しておきましょう。私の言う「コト」は「意識」の領域ですから、なんか、「型=無意識」というのは矛盾しているのではないかと思われそうです。そこはちょっと説明が必要ですよね。
 「型」というのは最初はもちろん「意識」で作るものです。それを繰り返すことによって、意識しなくてもできるようになる、つまり「無意識」の領域に押しやることができます。そうすると、「コト」は「モノ」になっていきます。
 その場合の「モノ=不随意」とは、まさに「不随意筋」の「不随意」ということになります。たしかに自分の一部なのだけれども、意識を通過しないという一面では「他者性」も生じる。これぞ「ものにする」という状態なのです。お分かりになりますか?
 さあてと、三流のワタクシには「型」があるかというと…ん?人からは「型破りな教師」と言われることが多いワタクシですけど、「型」がないのに「型破り」とはいかに?
 まあ、せいぜいこのブログを書き続けていることくらいでしょうかね、日々のルーティンは。いや、案外それが今の自分の基準点、原点になっているかもしれないなあ…。

Amazon 一流の思考法

一流の思考法

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2010.11.10

不自由が生む自由(その二)

20101111_90629 が中学校には能楽の授業があります。全員必修です。私の教え子でもあるプロの能楽師が指導にあたっています。
 今日は彼女が能面を持ってきました。そして、生徒の代表に掛けてやりました。彼ら、おそらくその視界の狭さに驚いたことでしょう。
 なんて私も偉そうに書いていますが、実は今日、私も生まれて初めて面(おもて)を掛けたんです。そして、その視界の狭さと息苦しさに驚いたというわけです。
 そこではっと気づかされたのは、以前接心の日にも書いた「不自由が生む自由」です。
 機能的、合理的に考えればもっと視界の広い面を作るべきでしょう。あるいは外見的にも様々な表情に対応するようなデザイン、あるいは機構を施すべきだと言えるかもしれません。
 しかし、能面はこのように発達し、このように完成せられたのです。それはとても面白い事実であり、また、いかにも日本的な、あるいは禅的な産物であるとも言えそうです。
 面を掛けた私がシロウトながらに感じたのは、「あっ、これは視覚依存の日常を捨てなければならないな」ということでした。
 日常最も頼りにしているものを捨てるということは、逆に言えば、別の何かを覚醒させなければならないということです。これは、禅において「言語」を捨てるのに似ています。言語を捨て、また、日常的な「随意」を捨てて覚醒(悟り)に到達するのが禅の基本姿勢です。
 そのように「随意」を捨てることは、たしかに日常の尺度では「不自由」なことです。しかし、もう一つ上の次元では、無限の「自由」を生むのだということを、私たちは知らなければなりません。
 ただ、これだけ「不随意」や「不自由」を駆逐し続けてきた現代社会においては、なかなかそういう気づきの機会が得られません。
 ですから、本校の、この能や、あるいは接心、茶道、武道といったような授業を、中学生が、訳も分からず(これが重要です)体験するというのは、とても大切だと思うのです。
 その時には「面白くない」とか「なんでこんなことやるの」と思っても、必ず、体や心の奥底に大切なものが残ると思っています。それが彼らの未来に絶対にプラスになると信じています。
 自分自身、面を掛けてみまして、こんなことも思いました。今書いたことと基本同じことですが、少し違う表現をしてみます。
 「おもて」を掛け、あの閉塞した暗闇に押し込められ、ほんの一条の光だけで「表」の世界とつながることになった刹那、私は「裏」になりました。なんというか、今までそれこそ現実界という「表舞台」で好き勝手に振る舞っていた自分に、さらなる「おもて」が掛けられることによって、一気に自分が主役でなくなったというような感じ。
 これは、本当の能舞台で言えば、「主役」でなくなることによって「主役」になるというパラドックスとなります。つまり、禅的に言えば、「無我」になって、あるいは「空」になって、自分という枠が取っ払われて、外界全部が自分となって、大きなスケールの「主役」たる自分になるとでも言うのでしょうか。
 表舞台で主役だった小さな自分は、あの「おもて」の裏側に幽閉されて、そしてあの「おもて」が、まさに「interface」となって、メディアとなって、本当の自分が無限に拡張される感覚。
 パラドックスと言えば、能楽師の解説にも面白いものがありました。
 謡曲「弱法師」の「面」は黒目の部分だけでなく、目全体がくりぬかれていて、視界が比較的広いというのです。「弱法師」は盲目の少年。盲目の少年の「面」の「眼」が広く開かれているというのは、実に面白いことですね。
 しかし、彼女が言うには、その面の裏側で舞う演者は、「半眼」でいなければならないということです。開かれている目をあえて塞ぐわけです。なら最初から面の眼を小さくくりぬけばいいものを、あえて広く開けて、その中で人間がその視界を狭くする、その矛盾の積み重ねに、盲目のリアリズムが生じるのでしょう。
 もちろん、外界から見て、「黒目」が存在しないところに「盲目」を読み取らせるという、デザイン的、記号的な意味もあるとは思いますが、それ以上に内なる裏なる人間の心や体の表現性が立ち上がるという仕組みがあるのでしょう。
X2_35716af と、なんとなく理屈っぽいことを書いてしまいましたが、まあ見てくださいよ。このアヤシイ出で立ち(笑)。普通、紐を耳の上から掛けて、つまり耳をも「裏」にしまいこんでしまうのが面掛けの作法なのですが、今回は簡易型ということで、それをしませんでした。
 ただでさえ、私の耳は大きく前に張り出していることで有名な耳です。若女に悪魔の耳がはえたような、とんでもない意匠になってしまいました(笑)。
 こんな人に街で出会ったらどうしましょう。こわっ。
 写真を見て、自分でも鳥肌が立ち、そして思わず爆笑してしまいました。

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2010.11.09

『elago Skin』 (iPhone3G用シール)

Sticker_17 〜む、忙しい!世の中の皆さんはもっと忙しいでしょうから、私がこんなこと言うのもおこがましいかもしれませんが。
 なんというか、やっぱり立場が変わって、物理的な時間という意味ではなく、常に何か懸案事項があって、それについて考えていなければならないという感じでしょうか。それはそれで、フル稼働の快感のようなものもありますけど。
 というわけで、読もうと思っていた本がどんどんたまっていきます。私の速読ならぬ即読をもってしても処理し切れないほどツン読状態になっています。これはちょっと辛いですね。このブログでも紹介しなければならない、紹介する約束をした本も何冊かあるんですよ。それもなかなか実現できません。すみません。
 こんな状況ですので、今日も軽く「商品」を紹介して終わりにします。
 最近、カミさんもiPhoneに変えました。そして、毎日あの「驚き」を味わっています。今までのケータイとはなんだったのか…。
 カミさんは最新のiPhone4ですね。ちょっとうらやましかったりして。でも、私、デザイン的(触感も含めて)には3のラウンドフォルムの方が好きですので、うらやましさも「ちょっと」ですんでいます。
 カミさんは、なんだかどピンクのシリコンケースを買ってきまして、iPhoneクンに着せています。妙に派手だし、iPhone4のシャープさがなくなってしまい、なんだかなあと思って見ています(やっぱり嫉妬しているのか…笑)。
 私の方も、ずっと使ってきたこちらのケースが、だんだん割れ始めてカッコ悪いことになってきたので、いやいやそれ以前にストラップの穴がちぎれて落下するという最悪の事態も起きましたので、新しいケースを買って、カミさんにプチ対抗しようかと思いました。
 で、いろいろ考えたのですが、もうこうなったら当たり前のものはつまらん、3GSのフォルムを強調できるものにしようと決心し、思い切ってこいつを買って装着してみました。
Gedc1475 ふむふむ、これは…微妙(笑)。ある意味目立つぞ。
 iPhoneをカメラとして使用する時、まさにカメラ!という感じで面白いかもしれませんね。実際、Twitter用に教室でこれを取り出したら、めざといヤツらが「?」という感じで反応してました。
 てか、普通に電車の中で操作とかしてたら、盗撮してると思われちゃうかな(笑)。
 構造は非常にシンプルです。ただのビニールシールです。貼るのも簡単。はがすのも簡単。何度やり直しても大丈夫という感じです。まあ、これでどの程度のプロテクト性能があるのかわかりませんが、たしかに机に直接置いたりするのに抵抗はなくなります。
 私のiPhoneはホワイトなので、端の方なんかシールの隙間から白い部分が見えてしまいます。ブラックの方が見映えはいいでしょうね。
 なんとなく恥ずかしいので、普段は古いシールドも装着しとこうかな…それじゃあ、買った意味ないじゃん!ww

act2公式

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2010.11.08

追悼 ジョー樋口さん

Uni_1959 日の山本小鉄さんに続き、また昭和のプロレスを支えた方が亡くなられました。
 私が直接お姿を拝見したのは、この写真の日が最後になりました。昨年の2月の健介オフィスの興行です。
 ジョーさんについては、日本プロレスのレスラーとして、そして全日本プロレスの名レフェリーとして、またノアの重鎮として、その功績は語りつくせないものがあります。
 もちろん、堪能な英語を活かしての外国人レスラーの世話役としての顔、それもまた彼の人柄を表していましたね。海外でもたくさんの方がこの悲報に涙していることでしょう。
 それにしても、ここ数年の、プロレス界、歌謡界、映画界における訃報の多さには、正直まいっています。いや、訃報自体は世の常であり、その数も極端に増えているというわけではないのでしょう。ただ、私が憧れ、畏れ、場合によっては嫌悪した、そういう自分の無意識の領域にまで入り込んだ「記憶に残る人」が亡くなる時代になったのでしょう。
 そういう現実に接するにあたり、彼らの残した文化や伝統を、私たちがしっかり継いでいかなければならないと感じますね。おそらく歴史はこうして紡がれてきたのでしょうから。
 ジョー樋口さん、ここ富士北麓にも縁の深い方でした。結局こちらでお会いすることは叶いませんでした。残念です。
 今日は彼を象徴する名勝負、名レフェリング、名コンダクターぶり、そして「男の味」をご覧いただき、ともにご冥福をお祈りしましょう。1983年の雄姿です。ジャンボ鶴田vsブルーザー・ブロディー。失神、そして万雷の樋口コール。ああ、3人とも帰幽されたのですね。今ごろ彼ら再会を果たしていることでしょう。

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2010.11.07

茜色の富士(秋、紅葉編)

 日は一日、甲府盆地を縦に横に移動しておりました。バスケットボール部2試合の応援に挟まれた時間で、自分のルーツを訪ねる旅をしました。
 御坂の山梨県立博物館「甲斐源氏−列島を駆ける武士団−」でインスパイアされた私は、そのまま南アルプス市へ。加賀美氏、小笠原氏のルーツを訪ねるつもりが、一気に5000年タイムスリップして想いは縄文時代へ…。
 個人的にとても楽しい旅でした。ほんの3時間くらいだったのに、5000年の旅をしたわけですからね(笑)。そのあたりについては明日以降に書こうと思います。
 そんなわけで、今日はその旅の帰り、若彦路で御坂山塊を越えて河口湖畔に出てきたところで、それはそれは美しい光景に出くわしたので、そこで撮った写真を紹介します。
 富士山自体は茜色とは言えないかもしれませんが、紅葉した木々の葉や夕焼け雲は、総合してたしかに「茜色」だったと思います。写真ですから、なかなかうまく伝わらないかもしれませんが。自宅に帰ってきてから多少手を加えまして、なるべく心に焼きついた印象に近くしたつもりです。ではどうぞ。

↓もみじのシルエット越しの富士山。
Gedc1458

↓肉眼ではこのくらいもみじの色が見えてるんですが。写真だと富士山が見えなくなってしまう。最近はやりのHDRだとこれらをコンポジットして、人間の眼のラチチュードの広さに近くするんでしょうね。
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↓少し時間が経って富士の色合いも少し変わりました。
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↓お得意のパノラマ撮影。夕日が湖面に反射しています。ちょっと芸術的に修正。
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↓少し明るくしてみましょう。釣り人がいたんだ。つなぎ目で湖面が折れてますね(笑)。
Gedc1462

↓紅葉と富士の両方を見せるのはホント難しい。
Gedc1463

↓茜色のもみじ。
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 ちなみにこの前の富士も今日の富士もこちらの格安デジカメで撮りました。パノラマがお手軽に撮れていいですよ〜。
 

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2010.11.06

『早耳ドライブ』 (iPhoneアプリ)

11_01_s のアプリを入れてたら、あそこで捕まらなかったかも…。
 そう、この前書きましたね、カーナビにだまされて右折禁止違反で白バイに捕まった話(苦笑)。
 このiPhoneアプリには、ちゃんと当該の交差点の情報が入っていました。あ〜あ、もう少し早くこのアプリを知っていれば。そして、皆さんの善意をありがたく頂戴していれば。
 ネットの世界って、基本「善意」「良心」で成り立っています。それは、みんながみんな本来的に「いい人」であるという「性善説」だということではありませんよ。あえて言うなら、みんながみんな「いい人」でいたいんです。だから、そういうある意味の「偽善」を実践しやすい場所として、ネットという世界があるわけです。私もネットでは「いい人」を演じています(?)。
 いつかも書いたとおり、私はそれでいいと思うんですよ。真善は神仏、真悪は悪魔にしか当てはまらないので、人間界では「偽善」が一番偉いからです。
 それに、一部のネット世界のように、みんなが「偽悪」を演じると、ネット自体が社会悪ということになって、この楽しいシステムが禁止、廃止、撤去という事態になってしまう可能性があるからです。だから、みんな悪にはなりきれない。自分のためですね。Googleももちろんそういうことを社訓として掲げています。
 と、また話がそれましたけれど、たとえばこのアプリなんか、お互いに「いい人」になりあって、そして互助的に「偽善」を享受しようというものですね。
11_02_s 「ここでネズミ捕りやってるよ!」とか、「ここ渋滞してるよ!」とか、そういう情報を投稿しあって、助け合うんですよ。いいアプリですよね。無料ですし。
 つまり、アプリの開発元も含めて、基本的にボランティアで成り立っているということです。これこそ実にネット的な人間関係ですよね。互いに名前も素性も知らない他人同士なのに、いや、それだからこそでしょうか、思いっきりいい人になりきりあって助け合う。
 これが、ある意味、今までの売り手と買い手という経済のシステムを根底から覆す、新しくて古い人間関係のあり方だと思うんです。私はそこに期待しています。人間は市場にのみ生くるにあらず。
 実際、山梨県内を走ってみましたが、ずいぶんと役立ちましたよ。特にオービス情報でしょうかね。そこだけゆっくり走るなんて、それこそ「偽善」だ!とおっしゃる方もいるかもしれませんが、結果としてみんなが安全運転をするようになるなら、私はそれでいいと思います。
 そうそう、オービスと言えば、ウチの近くにそれらしいものがあるんですけどね、みんなあんまりスピードを緩めないんですよ。私はいちおうなんだか分からないから制限速度を気にしながら通過していたんですが、あれってNシステムだったんですね。カーナビでもオービスの注意を喚起しないから、まあそうなんだろうとは思っていましたけど、やっぱりそうでした。
 このアプリではNシステムの情報も表示されます。Nシステム、ご存知ですか?そこを通過する全ての車の写真を撮影してるんですよ。なんか国家による「監視カメラ」という感じで、気持ちいいものじゃありませんね。私は別にやましいことはありませんけど、なるべくくぐらないようにしてますよ。
 このアプリ、「早耳リアルタイム地域情報」というサイトと連動しています。こちらはこちらで、交通情報のみならず、様々な緊急事態、要注意状況を伝えてくれるなかなか有用なサイトです。皆さんにもぜひ登録して投稿してみてください。
 もちろん今一つなところもありますよ。レビュワーの皆さんが言っているとおり、常に現在地を表示してしまうのは不便。行き先の情報も見たいですし、投稿も運転中じゃなくて、帰宅後に思い出しながらやったりしたいじゃないですか。ま、そんなに難しい改良ではないので、近いうちに対応してくれるでしょう。
 これから運転中はこのアプリを起動しておこうとおもいます。皆さんが投稿してくれた場所に近づくと、音声や画面上で注意を喚起してくれます。なんとなく街の中ですれ違う車の運転手の皆さんが、仲間に見えてくるから面白いですね。
 こういう「注意」を、いや、それ以前に「善意」と「感謝」を喚起してくれるサイトやアプリ、私はけっこう好きです。

早耳ドライブ(iTunesで開く)

早耳リアルタイム地域情報

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2010.11.05

「志」を持つと「変」になる

20101106_63417_2 課後、はるばる東京から某教育系企業の方が来校されました。さあそこから大教育論議が始まりまして、結局3時間半近く激論を戦わせました。
 いや、ケンカしたわけじゃないんですよ。私は、こと教育や宗教や経済に関することについては、人とケンカする、いやいや、ケンカというわけではないな、折伏する?…ちゃうちゃう、まあやっぱり議論ですな…意見をぶつけ合うことが多い。
 で、日常の会話なんかからして、今回の方とも真っ向から意見がぶつかるのではと、周りの先生方は心配、いやいや楽しみにしていたようです。が、しかし、意外や意外、かなりの部分で意気投合してしまったんですよ。
 現代の教育についてですねえ。受験一辺倒、偏差値一辺倒、経営一辺倒の学校や塾に対する不満。そして日本という国への不安。寺子屋教育の復権。家庭教育や自習について。
 実際、彼らの教室に通っている生徒には、ある種の特性というか、特徴というか、まあもちろんいい部分もたくさんあるわけですが、多少懸念される「症状」のようなものがあることを、私たち学校のセンセイは経験的に知っています。それが、どちらかというと、負のイメージで語られることが多いんですね、学校現場では。「く○ん病」とか言ってね。
 ところが、今日じっくり話してみると、たしかに私の知らないこともたくさんあり(特に国語の教材の良さ)、また根っこの部分、まあ簡単に言うと、いわゆる現代の教育についての憂いなんかは、かなり共通していることがわかりました。やっぱり知ったかぶりで語るのはよくないな。対面して言葉をぶつけ合わないと。
 先方もかなり感じるところがあったのでしょう、最後はタイムリミットでお開きになってしまいましたけど、妙に立ち去りがたい雰囲気を醸しておりました。お互いに。ま、共鳴っていうやつでしょうね。アンサンブル。噛み合うところと、微妙に噛み合わないところのバランスが面白く刺激的でした。プロレスだとしたら、初対決で名勝負みたいな(笑)。
 結局なんていいますかね、「志」だと思うんですよ。市場経済の原理に呑まれない「志」。本気で子どもたちのためを思っているか。方法論はまあいろいろでいいんですよ。ただ、世の中の誤った流れに迎合しないで、創始者の「志」をしっかり継いでいけるか。温故知新の上の不易流行。
 彼らの教材って、とにかく「理解」よりも「体験」、「理屈」よりも「慣れ」です。徹底しています。考えてみると、それって「禅」の思想というかシステムと全く同じなんですよね。
 ただ、禅もそうなんですけれど、体験後の「気づき」があるかどうか、その方は「腑におちる」という表現を使ってらっしゃいましたが、そういう次のステップに行けるかどうか、そこをまたどうアシストしフォローしてあげられるか。そこになると、実は彼らも私たちも多少心細く頼りないところがあるんです。そこは本人任せみたいな。
 難しいところですね。まあ、それこそが教育の難しさの原点でありましょう。私だって半世紀近くかかって「腑におちた」、あるいは「合点がいった」ことがたくさんあるくらいですから。もちろん死ぬまで分からないこともたくさんあるでしょうし。
 結局「先生」の個人力によるのでしょうしね。彼らなんかフランチャイズですから、そのあたりはウチなんかよりずっとずっと難しいでしょう。
 それにしても、今日お話してみましてね、最終的に感じたのは、「志」を持つと「変」になるということです。どういうことかと言いますと、正しいことを信念を持ってやっていると、世間からは浮いてしまうということです。変わり者になっちゃうということです。
 彼らも私たちも、業界では相当の変わり者だと思いますよ。自分たちは「志」を持って理想を追求し、当たり前に正しいことをやっているつもりなんですが、はたから見るとかなり「変」なんです。まあそれでもお互いにちゃんと需要があってつぶれないでいるわけですからね、最後は愛が勝つ…じゃなくて最後は正義が勝つと信じてこれからもお互いやっていきましょうと。
 もちろん、言うべきことはしっかり言ってさしあげました。本校の入試問題を見れば分かるとおり、ウチはく○ん的な能力だけを評価する学校ではありません。あれは様々な「学力」の一部に過ぎないと考えています。ああいう能力はもちろんプラスにはなりこそすれ、マイナスにはなりませんが。
 く○んで訓練された子どもたちが不利にならないようにというお話を頂戴しましたが、私は我が校のポリシーをお伝えし、そして「入試をチャンスととらえてもう一つの能力も身につけて臨ませてやってください」と申し上げました。試合は私の勝ちだったかな(笑)。

「志」を持つと「変」になる…その2

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2010.11.04

山梨県立県民文化ホール〜いろいろと

9136537 楽ネタの連続お許しください。それも自分の仕事と趣味のイベントに関する報告ばかりですね。芸術の秋、スポーツの秋ということで、実際イベントが目白押しでして、読書の秋、食欲の秋などはどこかへ忘れたまんまになっております。ま、リア充ということですかな。
 今日は甲府市にある県民文化ホール大ホールに行ってきました。山梨では今日から高等学校芸術文化祭が行われています。その開会式にですね、本校のジャズバンド部が招待されまして、中学生二人もステージに上がるということなので、応援に駆けつけたということです。
 芸文祭の器楽と言えば、なんといっても「吹奏楽」。ブラスバンドですね。そこにある意味殴り込み…いやいやそれじゃあ物騒ですな、ちょっと毛色の違う管楽器主体のバンドがゲスト出演するというのも、なかなか興味深いことですし、高校生の観客の前で中学生が演奏するというのも珍しい。そしてなにより、満員の県民文化ホールで生徒たちが演奏するのはめったにないことですからね、しっかり見届けておかねば。
 県民文化ホールで満員と言えば、私も5月に参戦いたしましたレミオロメンの『10th Anniversary TOUR 2010 “花鳥風月”』を思い出します。彼らの47都道府県を回る長い長いツアーもそろそろ終盤ですね。12月には再び山梨に帰ってきて、そこで千秋楽、打ち上げとなります。私も再び行く予定です。ツアーを通して彼らがどのように成長したか楽しみですね。あとサポートの河口修二さんとも再会せねば。
 あっそうそう、また思いついたことを書いてしまいますけど、この山梨県立県民文化ホール、レミオロメンの千秋楽の翌日から改装工事に入るようですね。短期の工事のようですが、どこをどのように直すのでしょう。今日行ってみて、たしかにいつのまにか古くなったなあと感じました。
 なんでも、県の財政危機のおかげで、このホールのネーミング・ライツ(命名権って言えばいいじゃんね)が一般に売りに出されているとか。そして、誰も買わないとか。どうせなら「レミオロメン・ホール」とかでいいような気もしますが。1年で1500万、3年以上の契約だとか。
 今、富士吉田の富士五湖文化センターも大改修中です。そっちの命名権はどうなっているのでしょうか。志村正彦記念ホールとかにすれば、全国からたくさん人が集まると思うのですが。いちおう市に記念室くらい作ってくださいとお願いしたんですけれど…どうなることやら。
 で、どんどん話がそれますよ(笑)。命名権が売れたのが「小瀬スポーツ公園陸上競技場」。「山梨中銀スタジアム」とかになるのだとか。どうも来年度はヴァンフォーレがJリーグ1部に昇格しそうな勢いなので、たしかにいい宣伝にはなりますね。
 県民は「チューギン・スタジアム」とか呼ぶんでしょうか。ちなみに銀行の銀行に勤めていたウチの父によると、全国的には「チューギン」と言うとかつては「中部銀行」を指したそうで、山梨中央銀行は「ヤマチュー」と呼ばれていたとのこと。ま、中部銀行は昨年完全に消えました(破綻→譲渡→解散→清算)からね。いや、いつのまにか「静岡中央銀行」もできてましたな。「静岡中央銀行」も地元では「チューギン」なんでしょうかね?
 そうそう、「チュースタ」になる前の「コセ」にですね、近々ヴァンフォーレの応援に行く予定です。中学の行事です。なんでも「生体験」。これがウチのモットーですので、ヴァンフォーレファンである1年生の担任の先生を通じて、思いきって企画してみました。楽しみですね。実はJリーグ観戦、私は初めてなのであります。
Gedc1424 というわけで、話がだいぶそれましたが、今日の県民文化ホールはなかなか良かった。ジャズバンド部は相変わらず見事な演奏で、県内の高校生の皆さん、固唾を呑んで聴いておりました。けっこう衝撃的だったのでは。特に吹奏楽関係者。いや、どっちがいいとか悪いとかではなくて、同じ楽器を使っていても、ずいぶんと違う表現があるものだなと実感したのでは。これもまた「生体験」の良さであります。ウチのジャズバンド部もなかなか同世代に聴いてもらう機会がなかったので、これはこれでいい「生体験」になったのでは。
 ああまた思い出した。県民文化ホールでジャズと言えば、ずいぶんと昔になりますけれど、キース・ジャレットのトリオが来て、ものすごい演奏をしたんですよね。あの時の「生体験」はまさに「衝撃」として記憶に残っています。すごすぎた。あの「波動」はあれ以来体験してないなあ…。なんだったのだろう。ま、いきなり自分でピアノを調律し始めたキースにもビックリしましたが(笑)。てか、楽器の演奏者たる者、自分の演奏する楽器を自分で調律するのは当たり前のような気がしますけどね。
 次にここに来るのは、やっぱり12月のレミオかな。もうあと1ヶ月なんですね。5月の時には、遠い遠い冬として認識していたのに。時が経つのは早いものです。そしてあの日からも、もうすぐ1年になる…。

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2010.11.03

カメラータ・ムジカーレ第50回演奏会『ドイツ・バロックの午後』

聖パウロ女子修道会聖堂
Photo_11_04_9_04_34_2 来場くださった皆様ありがとうございました。
 またまた満員札止め。この団体の集客力はいつもながらすごいですねえ。
 今年はAPECのおかげで横浜公演がなくなり、東京一本になったということもあったのでしょうか。それから、なんと言ってもお天気ですね。晴れの特異日「文化の日」。今日も抜けるような青空。ついついお出かけしたくなる、それもちょっと芸術的なお出かけを…というのもあると思います。コンサートって本当に天候に左右されますよ。まあ、芸術が自然と密接につながっているということを表す一つの事象でしょう。
 今回さりげなく「50回」を「通過」したカメムジですけれど、考えてみるとホントすごい団体ですよね。ちょうど今日までアーノンクール指揮のウィーン・コンツェントゥス・ムジクスが最後の(?)来日公演をしています。まああそこの半世紀近くに及ぶ歴史にはかなわないとしても、こちらも35年くらいですか?本当に日本の古楽の草分け的な存在です。そして、それがアマチュアというのがすごい。
 私はたしか第32回演奏会からカメラータ(仲間)に入れてもらったのだと記憶しております。もともとはひょんなご縁からのサポート参加でした。それがこうして長いおつきあいになり、楽しく修行させてもらってもうすぐ20年。
 今や合計七つくらいの古楽の団体で演奏させていただいていますが、間違いなくその中心にあったのは、このカメラータ・ムジカーレです。
Photo_11_04_9_05_09 長い長い歴史の中で、元メンバーの中からプロとなった方も何人かいらっしゃいます。それもすごいことですけれども、しかし私にとっては、それぞれお仕事があって、それも皆さんとても忙しいポストで働きつつ、こうして絶えることなく音楽を奏で続けていることに、より強い感銘を受けますね。影響を受けたと言ってもいいでしょう。今の私の音楽とのつきあい方を教えてくれたのは、カメムジの諸先輩方です。感謝というより尊敬の念の方が強いかもしれませんね。
 そして、また、あの古楽草創期の息吹が残っているということも魅力の一つです。昨年「アントレ」にも書かせていただきましたとおり、古楽の魅力とは「挑戦」や「探求」にあると思います。楽器も楽譜もレコードも書物もほとんど何もなかった中で、自ら考え、工夫し、試行錯誤し、互いに意見を交換しぶつけ合い作り上げていった「音楽」の、その魂というかエネルギーのようなものが、35年経った今でも、初期メンバーの皆さんにしっかり残っていると思うのです。
 そういう意味で、記念すべき今日の演奏会での、初期メンバーの皆さんによる親密なテレマンは、とても魅力的でしたし、最近の若手奏者による器用な演奏とはまた違う「達者な味わい」が出ていたと感じました。それはやはりテクニックどうこうの問題以前の、様々な「思い入れ」が醸した結果であったのでしょう。うむ、歴史には勝てない。
 そんな中、私は練習不足がたたり(決して昨日の登山の疲れだなどとは言いません…12時間も寝たので…笑)、なんとも情けない間違いを繰り返してしまいました。すみません。ただ、私に「歴史」があるとしたら、20年前と比べると、明らかに緊張の度合いが10分の1くらいになっています。昔の自分に勝てるとしたら、まあそのくらいしかないのかも。
 あとですね、個人的に歴史を感じてしまったのは、後半になって周囲がやや暗くなってきたところで、急に楽譜が見えなくなってしまったことです。「老眼」です(笑)。ああ、ちゃんと拡大コピーしとけば良かった。次回から気をつけます。
 いずれにせよ、自分自身としてもとても充実感のある「文化の日」を過ごすことができました。いろいろな皆さん、本当にありがとうございました。やっぱり「縁」を生む「音楽」は素晴らしい。今日もまた「楽器を続けていて良かった」と思いました。今日も生徒が家族や親戚を連れて演奏を聴きに来てくれました。弦楽合奏部コンサートマスターの彼にも一生楽器を続けてもらいたいものです。

カメラータ・ムジカーレ公式

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2010.11.02

紅葉と富士2010(紅葉狩り遠足にて)

 、つかれた…。まだ7時ですが、もう寝ます(笑)。
 今日は中学校の「紅葉狩り遠足」。そう、先日下見した足和田山登山の本番でした。下見は気軽なハイキングという感じでしたが、さすがに生徒たちを連れての登山となりますと、いろいろ気を遣いますからね、どっと疲れました。足より頭が痛い。肩が凝った。
 ま、熊さんと遭遇を筆頭としたさまざまな心配は全て杞憂に終わり、全員無事に学校に帰ってきました。めでたし、めでたし。
 しっかし、中学生というのは若いな(当たり前ですが)。けっこうヒーヒー言いながら登ってるなと思ったら、登頂とともにいきなりガチに鬼ごっことか缶けりとか始めちゃうんだから(笑)。元気すぎ。そして、帰校後は普通に部活の練習…ありえない。
 いわゆる温暖化の影響か、たしかに紅葉のピークは後にずれていますね。25年前、寒冷化が騒がれていた頃には、文化の日と言えば霜もおりるし、紅葉も真っ赤というのが常識だったんですけどね、最近は遅い上に真っ赤になりません。茶色くなって散ってしまいます。今年も昔ほどの美しさは期待できませんね。
 こちら足和田山や紅葉台も1週間か2週間くらい早い感じでしたね。でも、緑が適度に混ざっている微妙な紅葉というのもなかなかいいものでした。
 今日は道中に撮影したプチ紅葉と、冠雪した富士山の写真を掲載し、皆さんにも雰囲気を味わっていただこうかと思います。

↓スタート地点「富士ビジターセンター」のもみじ。
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↓鳴沢村大田和から。輝く富士。
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↓足和田山登山道途中から。
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↓足和田山山頂(五湖台)から。
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↓三湖台への道。枯れ葉の絨毯。
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↓木洩れ日。
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↓三湖台からの富士と樹海(パノラマ写真)。
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↓紅葉台レストハウスからの富士。
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↓紅葉台から。松と富士。
Gedc1408

↓紅葉台のもみじ。
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↓帰宅の車中から。不思議な雲。
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 さあ、寝ます。明日東京でコンサート。気合いで乗り切ります。

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2010.11.01

外川真里亜&大曲翔リサイタル

Gedc1334 学・高校の芸術鑑賞。地元出身のピアニスト外川真里亜さんと、彼女の友人でもあるニューヨークのヴァイオリニスト大曲翔さんのコンサートが行われました。
 私、オープニングで全校生徒に「クラシックと聞いて、え〜?と思った人、終わった時には絶対に予想以上に感動した、ということになるよ」と言いました。結果としてその通りになったようです。めでたし、めでたし。
 もちろん、若手音楽家二人の演奏というかパフォーマンスが良かったからですね。テクニックはもちろん二人のアンサンブルも素晴らしかった。また、オーディエンス(生徒)とのコミュニケーションもですね。
 ただテクニックだけの音楽家が増殖する中、本来の「音楽」をしっかり表現できる優れた演奏家たちだと思いました。
 プログラムも良かった。やはり生徒たちは若いですから、どうしても「スポーツ」的な音楽を好みますよね。そのあたりをよく理解していて、後半はとにかくヴァイオリンの超絶技巧、早弾きでどんどん引き込んでいましたね。正解だと思います。
 外川さんももちろんソロでどんどん聴かせられる演奏家ですけれども、実に見事に伴奏をこなしていたのでビックリ。私、個人的に伴奏がしっかりできるピアニストが好きですので、非常に満足いたしました。
 それにしても、モダン・ヴァイオリンのテクニックってすごいですねえ。私、モダンは弾けない、弾いたことがないという、ワケわからん人種(たぶん世界でもそんなにいないでしょう…笑)なので、久々にそういう超絶技巧を生で聴いて、本当に驚きました。子どもたちとおんなじレベルでの感動。
 同じヴァイオリンとは思えませんねえ。というか、ほんの百数十年の間に、ヴァイオリンのテクニックというのは、ものすごく発達したわけですね。開発合戦とでも言うべき状況だったのでは。もちろんそれに伴う楽器の変化(進化と言えるかは微妙ですが)もありました。
 悪く言えばスポーツ的、サーカス的、大道芸人的になった。しかしそれも考えようによっては、ヴァイオリンというもともと民俗的な、ある意味では野蛮な楽器の、本質的なところが復活したとも言えましょうか。
 今日のプログラムでも、どんどんハンガリー化、ジプシー化していったのが聴いてとれました。面白いですね。そう考えると、私がやっているバロック・ヴァイオリンこそが、この楽器にとって異常な状況であるのかもしれません。
X2_33cc4f8_2 さて、芸術鑑賞が大盛況に終わりまして、放課後、彼女ら二人が中学の方に遊びに来てくれました。
 そして、我が弦楽合奏部と夢の共演、競演(?)が実現。カノンをみんなで演奏。いつもと全然違う響きに生徒たちもビックリ。いやあ、いい経験になりましたね。
 大曲さん、とってもフランクな方で、子どもたちと積極的に交流しようとしておられました。素晴らしいですね。音楽だけでなく、量子力学や語学にも詳しいという彼の言葉に、生徒たちも良い刺激を受けたのではないでしょうか。
 彼らが今のような謙虚さと勤勉さとチャレンジ精神を持ち続ければ、必ずや世界が認める一流の音楽家になれることでしょう。これをご縁として、私も彼らを応援していこうと思います。
 ちなみに、生徒たちが一番興味を持っていたのは、やっぱりヴァイオリンのお値段のことでした(笑)。彼が師匠から借りているという名器1挺で私たちの駄器が何挺買えるか、という数学の問題の答えは…500でした!全校生徒分買えるじゃん!ww


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