二人いるから一人になれる
Donald Woods Winnicott
いよいよ中学1年生も本格的な思秋期(岩崎宏美)…ではなくて思春期を迎えはじめまして、まあいろいろな変化が現れてまいりました。
昨年までは高校生とウン十年つきあってきましたからね、いわゆる高二病(?)のような冷めた変化というのは毎年たくさん見てきましたが、こういう熱い(!)変化を目の当たりにするのは初めてです。ウチの子はまだ小学生ですしね。
自我に目覚め、自分を客観視するようになり、親に反抗し、秘密を持ち、性に興味を持ち、なんとなく世の中や他者に対して不満を持ち始め、自分や友人が今までと違う人間のような気がしてくる。ある場合には「小学校時代は良かった」と言う場合もある。嫉妬心による他者批判も顕著になります。
この前書いた「中二病」の始まりです。
自分のそういう時代を思い出して懐かしくも思いますよね。私の人生のピークは中一でしたから(笑)。変革のエネルギーを自ら実感していたんでしょう。不安もあったけれども、大きな期待や夢もありました。自分はなんでもできるという妄想もありましたし。
そういう生徒を見ていて、そして自分を振り返って思い出されるのは、昔ちょっとかじった発達心理学の中に出てきたウィニコットの言葉です。
「二人いるから一人になれる」
「自立とは二人いて一人でいられる能力」
「依存のない自立は孤立にすぎない」
ドナルド・ウィニコットはイギリスの小児科医で精神分析家です。そちらの世界ではいわゆる中間派に属する方でしょうか。
彼のこれらの言葉は、思春期の生徒たちを見る私たち教師に大きな示唆を与えてくれます。
少し前まで、とかく世の中では、「早く自立しろ」とばかり叫ばれがちでした。私たち教師もついそういう発想で突き放してしまい、あるいは極端な場合「早く世話の焼けない生徒にならないかな」と考えがちだったのです。「自己責任」ブームの時代です。
親はどうかというと、自分の子どもはそれまで自分の分身、いや自分の一部だったわけで、なかなか突き放すことができません。子離れできない親というわけですね。
だから、ちょっと前(今20代後半から30代前半くらいの人が高校生くらいだった頃)の親子関係についてはこんなことを感じていました。
当時の子どもは「自立」をむやみに促されるために、その障壁となっていると思われがちな「依存」を意識的にやめるように努めました。誰も頼りにしないで、全部自分でやってやると意気込むわけです。親も社会も学校も、やれ「なんでも自己責任だ」とか、やれ「国際化してるから自分の意見をちゃんと持たなきゃダメだ」とか言ってましたから。
一方、親はいつまでも自分に依存してもらいたいという潜在意識が強く働きますから、それまでどおり過干渉になりがちでした。どの時代も「本能」は変わりません。
そうしますと、当然不自然な親子関係が成立してしまいますね。これは親子関係よりも、恋人関係で考える方が分かりよいくらいに、顕著な不自然さとして現れます。つまり、片思いのストーカーとそれを極度に嫌悪するその相手という関係です。
それが過度にねじれた親子関係につながり、別居願望になったり、あるいは双方の極度な孤独感につながったりしました。ある意味では、この世代の晩婚化や失業・貧困問題はここに端を発しているとも言えるかもしれません。あるいはこの世代のロックや文学における「孤独感」「寂しさ」も。つまり、彼らはまじめに社会のかけ声に答えてしまったと。私はちょっとそんな気もしています。
最近の親子関係はどうかというと、親の側は本能なので以前とそんなに変わりませんが、子どもの方がなかなか「自立」に踏み切れないという部分が見受けられます。世の中が「自立」の推奨を自重するようになったからでしょうか。我々が資本主義市場経済に疲れ、「共同体」を見直しているからでしょうか。
そうしますと、今度は親子の利害がある意味一致してしまいますから、「共依存」の状態が持続してしまいます。ある種「お友だち」のような関係が続く場合もあります。特に母親と娘の関係。
一見平和そうですが、それはそれで、本来家族の中に境界線を引くことによって形成されるべきだった「社会性(他者意識)」が芽生えるのを阻害しますから、いずれ必ず面倒な問題として発露します。
最近の高校生なんか見ていても、私なんか信じられないのですが、卒業しても家にいたいとか、家から通える大学に行きたいとか言うんですよ。ま、いつまでも自立しないで寄生していたいんですね。これはこれで重篤化すれば、不登校やひきこもりやパラサイトシングルになってしまいます。
昔から反抗期、思春期の子どもを持つ親は、多かれ少なかれそういう関係に苦しみ、悩み、ある意味あきらめてきたわけですが、そこに社会の雰囲気や論調が大きく働くようになったのが現代なのだと思います。
昔だったら、世間の理屈よりも、じいさんばあさんの「独自の子育て論」が優先したりしましたからね。というか、それが正常な姿だったのだと思います。社会的に「頑迷な」「理不尽な」ことを言う個人には、当然それなりの体験的確信や、そこから生じる「責任」も存在したからです。
世論というのは、実体のないものです。だからそこに依拠すると、誰にも責任をとってもらえない結末になります。
ウィニコットの言葉や思想を紹介している臨床心理士の氏原寛さんも、そうした間違った世論によって、我々が「かけがえのある自分」になってしまっていると説いていました。自分にとっての「かけがえのない他者」がいないために、結果として自分も他者にとっていくらでも代わりのいる「かけがえのある」存在になってしまっていると。
そうしますと、上記のウィニコットの言葉から分かるのは、自立のためには適度な距離を保った他者、すなわち依存の対象が必要だということです。
幼い子どもは、母親がいれば一人でおとなしく遊ぶことができます。母親がいないと不安で泣き出してしまうでしょう。それと同じようなことが、私たちには、どの年代であっても、誰に対しても常に起きているのです。
「二人いて一人になれる」…非常に深く本質的な言葉だと思います。
私も、親として教師として、子どもたちに対して「あるべきもう一人」になれるよう意識、努力していこうと思っています。
それ以前に、私は本当に「自立」しているのか、「依存」ばかりになっていないか、いや反対に「孤立」していないか、自己検証していかねばなりませんね。
いざという時に「依存」できる他者がどれほどいるのだろう…。
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コメント
母の親友は天涯孤独(親兄弟が他界)ですが、「両親との思い出だけでがんばれる。」といつも言います。児童虐待が増え続ける中、親としても他人としても人に深い愛情をもって接することのできる人間が必要な世の中です。「どんなことがあってもこの人だけは自分の味方」という思いは、何よりも強く心を支えてくれますから。
投稿: バンコクのジャックラッセル | 2010.10.15 10:57
バンコクのジャックラッセルさん、おはようございます。
そうですね、まず親子関係が全ての基礎ですね。
「思い出だけで」もすごい力になるのでしょう。
そういう「かけがえのない人」に自分もなりたいと思います。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.10.16 07:01