追憶のシャコンヌ
ここ数日の太宰治の映像化にも関わるお話。
まずは、「不自由の自由」の話から。ヴァイオリン一本で4声のフーガを弾かせたり、まあ普通の人なら最初から考えもしないようなことをしでかして、さらにその内容が宇宙スケールで深いという、そういう奇跡をやってしまうのが天才バッハ。
弦が4本しかない上に、それを押さえる人間の指の工学上の問題、さらに弓で擦るというシステム上の問題もあって、とにかくポリフォニックな音楽を奏でるのには、とんでもなく不自由な楽器であるヴァイオリン。鍵盤楽器やギターなどと比べて、あまりに不利な土俵ということになります。
そこに果敢に挑戦して、いや、挑戦というよりも、逆にその「不自由さ」の中に可能性と、行くべき道筋を見出して、結果として他律的な「自由」を得たバッハ。なんでもできて行き詰まるCGとは逆の世界ですね。
そして、当然「不可能」「不自由」から生じる「空白」というものがあるわけですね。それがいわば言語の「行間」になったり、あるいは切り絵の「空間」になったりするわけです。そこに無限の可能性が秘められることになります。
たとえば、有名なパルティータ2番のシャコンヌ。これぞ宇宙規模でのとんでもない構築物です。これをいろいろな人が鍵盤楽器に編曲したりしますよね。ブゾーニのピアノ版から始まり、最近のチェンバリストもたくさん自作自演しています。そう言えば昔、アスペレンのを紹介しました。あれは良かったなあ。
私もなんとなくですが、自分でキコキコ弾きながら、書かれていない音を想像したりします。つまり、自然とそれが喚起されるように作られていて、それをも含めて「構築物」、「作品」となっているのだと感じます。
で、これは後付けではなくて、本当に思っていたことなんですけど、この曲って、ぜったいどこかにコラール的な(コラールだとは思いませんでした)長い音符の上声が流れているなと感じていたんですよ。
そうしたら、いつからか、「このシャコンヌは旅行中に亡くなった最初の妻マリアへの哀悼の意をこめて作られたものであり、そこにはあるコラールの旋律が暗号のように埋め込まれている」という説が唱えられるようになりました。
そして、その異説に基づいていくつかのレコーディングがなされました。今日はそのうちの一つをお聴きいただきましょう。
ホセ・ミゲル・モレーノのリュート編曲の上に、この夏とってもお世話になり、また私の心を魅了した世界的なソプラノ歌手エマ・カークビーが、カウンターテナーのカルロス・メーナとともにコラールを歌います。
美しいですね。私は感動しました。
こうしてある種の翻案をするということに抵抗のある方もいらっしゃるでしょう。もちろん、それも認めますが、しかし、太宰の小説もそうであるように、本当に力のある普遍的な作品は、多少のことでは動じないものです。いや、動じないどころか、あるレベル以上の魂のこもった仕事なら、どんどん受けつけて、そして進化するものだと思います。
そこにはもう、解釈の正誤だとか、歴史的な事実であるとかないとか、そういうことは関係ないと思うんですよね。実際、こういうものができました、それが「理性」以前に感動を呼び起こした、ということであれば、それが「真実」だと思うんです。
私も一時期、あらゆる分野において「オリジナル主義」なるものに傾倒しました。その価値自体はもちろんあったにしても、そこを終着点と考えていたのは間違いであったと、ようやく最近になって言えるようになったのであります。
NML 「追憶のシャコンヌ」
Amazon ヒリヤード・アンサンブル他による「シャコンヌ異説」
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