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2010.09.30

追憶のシャコンヌ

Partita2ciaccona01thumb こ数日の太宰治の映像化にも関わるお話。
 まずは、「不自由の自由」の話から。ヴァイオリン一本で4声のフーガを弾かせたり、まあ普通の人なら最初から考えもしないようなことをしでかして、さらにその内容が宇宙スケールで深いという、そういう奇跡をやってしまうのが天才バッハ。
 弦が4本しかない上に、それを押さえる人間の指の工学上の問題、さらに弓で擦るというシステム上の問題もあって、とにかくポリフォニックな音楽を奏でるのには、とんでもなく不自由な楽器であるヴァイオリン。鍵盤楽器やギターなどと比べて、あまりに不利な土俵ということになります。
 そこに果敢に挑戦して、いや、挑戦というよりも、逆にその「不自由さ」の中に可能性と、行くべき道筋を見出して、結果として他律的な「自由」を得たバッハ。なんでもできて行き詰まるCGとは逆の世界ですね。
 そして、当然「不可能」「不自由」から生じる「空白」というものがあるわけですね。それがいわば言語の「行間」になったり、あるいは切り絵の「空間」になったりするわけです。そこに無限の可能性が秘められることになります。
 たとえば、有名なパルティータ2番のシャコンヌ。これぞ宇宙規模でのとんでもない構築物です。これをいろいろな人が鍵盤楽器に編曲したりしますよね。ブゾーニのピアノ版から始まり、最近のチェンバリストもたくさん自作自演しています。そう言えば昔、アスペレンのを紹介しました。あれは良かったなあ。
 私もなんとなくですが、自分でキコキコ弾きながら、書かれていない音を想像したりします。つまり、自然とそれが喚起されるように作られていて、それをも含めて「構築物」、「作品」となっているのだと感じます。
 で、これは後付けではなくて、本当に思っていたことなんですけど、この曲って、ぜったいどこかにコラール的な(コラールだとは思いませんでした)長い音符の上声が流れているなと感じていたんですよ。
 そうしたら、いつからか、「このシャコンヌは旅行中に亡くなった最初の妻マリアへの哀悼の意をこめて作られたものであり、そこにはあるコラールの旋律が暗号のように埋め込まれている」という説が唱えられるようになりました。
 そして、その異説に基づいていくつかのレコーディングがなされました。今日はそのうちの一つをお聴きいただきましょう。
 ホセ・ミゲル・モレーノのリュート編曲の上に、この夏とってもお世話になり、また私の心を魅了した世界的なソプラノ歌手エマ・カークビーが、カウンターテナーのカルロス・メーナとともにコラールを歌います。

 美しいですね。私は感動しました。
 こうしてある種の翻案をするということに抵抗のある方もいらっしゃるでしょう。もちろん、それも認めますが、しかし、太宰の小説もそうであるように、本当に力のある普遍的な作品は、多少のことでは動じないものです。いや、動じないどころか、あるレベル以上の魂のこもった仕事なら、どんどん受けつけて、そして進化するものだと思います。
 そこにはもう、解釈の正誤だとか、歴史的な事実であるとかないとか、そういうことは関係ないと思うんですよね。実際、こういうものができました、それが「理性」以前に感動を呼び起こした、ということであれば、それが「真実」だと思うんです。
 私も一時期、あらゆる分野において「オリジナル主義」なるものに傾倒しました。その価値自体はもちろんあったにしても、そこを終着点と考えていたのは間違いであったと、ようやく最近になって言えるようになったのであります。

NML 「追憶のシャコンヌ」

Amazon ヒリヤード・アンサンブル他による「シャコンヌ異説」

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2010.09.29

太宰治短編小説集「グッド・バイ」 (NHK BS2)

20100911_goodbye ずは、いやずっと福井利佐さんの切り絵に驚嘆。いやあ、すごいと思ってましたけど、ホントすごいですね(笑)。
 特に今回は「動画」としての「切り絵」でしたから。デジタルなCGとアナログな切り絵の見事な融合。ついつい今回は太宰の言葉よりも映像に気を取られてしまった。ざまあみろ、イケメン(笑)。
 切り絵ってもともとグラフィカルというか、いやそれは当たり前か、つまり、いろんな意味で抽象的にならざるをえないじゃないですか。ある種のルールや縛りが多い分だけ、自由がなくて、だけれども逆に「自由」になったりする。それを、なんでもできる(つまり実は不自由な)CGで活かすわけですから、とっても面白い結果が出ていたと思います。
 切り絵と言葉って似てるな、言葉って切り絵に近いなって思ったんです。結局言葉で表現されている部分というのは、切り絵で言えば紙の残った黒い部分であって、実はそれが存在しない空間、すなわち言葉で言えば(抽象的な意味での)「行間」みたいな部分との共同作業で初めて全体に意味ができるわけですよね。それに、言葉どうしは常につながっていなければならない。そういう縛りも切り絵に近いと思ったのです。
 そんな言語チックな切り絵が、ああやってCGで浮かび上がらされるというのは、実はCG側にとってとても面白い事実だと思うのです。
 私はCGには言語がないと思っています。なんでもできるというのは、ルールや縛りがなくて、さっき書いたようにとっても不自由な状態だと思うんです。ですから、最近のCGは結局のところ、そういう伝統的なメディアを模すような形をとることが多い。あるいは、こうしてコラボするか。
 それは、CGにはというか、デジタルな世界には言語がないからです。言語的な閉鎖性がないからです。デジタルな世界、デジタルな技術の向かう方向性は常に外向き、開放なのです。それを「自由」と勘違いしたところが出発点となっているんですよね。
 だから、結局CGだけでは何もできないことになってしまう。私はそう思っています。今回のように、太宰の言葉や、切り絵という言葉の協力を得なければ作品たりえないんですよ。CGはそういう意味で、一つの技法ではあるが、それ自体で芸術にはなれない。勝手にそう思っています。
 どの言語でも、単語の数ってある程度のリミットがあります。なんでも、どんな光景でも感情でも表現しようと思えば、もっと単語の数は増えてもおかしくないし、文章ももっともっと緻密に長くなってもおかしくない。しかし、そうはならないのです。無限に可能性が広がっていたら、たぶん天才作家太宰治は生まれなかったでしょうね。
 というわけで、このシリーズの最終回(ですよね?)、やはり「グッド・バイ」でした。
 この「グッド・バイ」という未完作品、なんとも微妙な作品ではあります。もちろん、太宰一流の演出によって、実際に別離の作品となってしまったわけですよね。かっこいいのだか、悪いのだか。
 で、今回すっかり視覚に気圧されていた私の聴覚、あるいは切り絵に押されていた言葉の中で、唯一「チーン」と頭に響いたのは、キヌ子の「おしっこ出たい」というセリフ(by UA)です。
 これは実に名セリフですね。ある意味太宰の最終兵器だったのかもと思わせるほど、私にはインパクトがありました。今までは字面の中での「おしっこ出たい」だったのですが、実際にああして女性の音声として(それもUAか…笑)表現されると、ものすごい破壊力がありますね。
 いつかも書いたような記憶がありますけど、この日本語の文法というか正しい話法を無視した標準的表現「おしっこが出たい」は、返す返すもいろんな意味で最強だと思います。
 「私はおしっこが(を)したい」ではなく、「おしっこが出たい」なんですよ。「おしっこを出たい」とは言えませんから、「が」は主格を表すのかと思うと、「おしっこ出たい」とも言えるので、ということは「本読みたい」などと一緒で目的格を表しているとも読めてしまう。なんとも不思議な日本語です。
 もちろん、そういった言語学的な見地を抜きにしても、やはりここで美女が「ちょっとおトイレに」とか「お手洗いに」とか、その他もろもろ考えられる婉曲表現を使わないで、「おしっこが出たい」と言ったところ(美女に言わせたところ)がすごい。
 これっておそらく太宰の実体験に基づいていますよ。絶対に太宰は、女性からこの言葉を生で聞いてドキッとしたことがあるはずです。娘とかではなくて、もちろん石原美知子さんはそんなこと言わないでしょうから彼女でもなくて、他人の誰かの発言をです。
 おそらくそれが女性の最終兵器の一つだということを知っていて、この遺作で使ったのでしょう。そして、私は確信します。あの二回の「おしっこが出たい」によって、田島はキヌ子にシンから惚れましたね。
 「グッド・バイ」、あの先を読みたかった。
 

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2010.09.28

太宰治短編小説集「カチカチ山」 (NHK BS2)

(↓たぬき)
Int_a_03_i02 役はグループ魂の港カヲル、すなわち大人計画の皆川猿時さんでした。もちろんこんな格好では出てきません(笑)。しかし、かなりのはまり役でしたね。今なかなかいませんから、ああいう肉食系(笑)。
 やっぱりキャストが気になっていたわけですよ。以前こちらで書いたように、私はこの作品には特別の思い入れがありますからね。最も好きな太宰作品と言ってもいい。それをどう映像化するか。自分が映像化するとしたら誰を使うか。
 ううむ、港カヲルは永遠の46歳という設定ですが、なんというか、異常に生命力がありそうで、ガハガハしてて、暑苦しくて、しかし傍観者からするとなんとなく憎めない、たしかに狸にピッタリですね。まずここが成功でした。
 そして、ウサギは満島ひかりさん。ふむふむ、たしかにカワイイけれど、ちょっと残酷な冷たさ、あるいは狂気をも表現できる女優さんですよね。これもなかなかマッチしていました。結果としてキャスティングは成功と言っていいでしょう。芝居はキャスティングが全てだなあ。
 演出的には、この小説を舞台化するという設定でした。これもなかなか面白かった。もちろん、そういった「劇中劇」的な演出というのは過去にもいくらでもありましたけれど、このように、初顔合わせから稽古、そして本番を一列に並べてしまって全体として一編としてしまうという手法は、なかなか斬新に思えました。
 当然、その超時的な流れの中から、役者が役になりきっていく過程が表現されていました。そこが狙いでしょう。すなわち、物語が進捗していくのと同時に、港カヲルは狸と同一化していくし、エリーは(分かるかな?w)兎と同一化していく、そして観客たる私たちも「本番」へ向けて彼らとの距離を縮めていくわけです。
Img_298439_60285140_0 (←ウサギ) さらにウサギの殺意もどんどんリアルなものになっていきます。うん、そう、満島さん演じる満島さんの、皆川さん演じる皆川さんへの殺意も実際に感じられるまでになっていくんです。ここは実にうまい演出だなあと思いました。
 私たち観る者は、そのどちらかに感情移入していくわけですよ。ちなみにウチでは、男女雄雌逆転していまして、カミさんはタヌキになりきっていました(笑)。まるで自分を見ているようだとも言いました。タヌキがですよ(笑)。ふむ、そうか。結構残酷なウサギ的な人生を歩んできたとばかり思っていましたが、案外そうでもなく、愚鈍で野暮で本能的でKYなタヌキ的な女でもあったのだなと、今さらながら再確認。
 で、私はどうかというと、カミさんにも指摘されましたが、タヌキでもウサギでもないんですよね。けっこうずるいんです、私。純粋でもなく、また残酷でもないんですよ、たしかに。
 じゃあなんなのかって言ったら、つまり、私は太宰的ポジションなんですよね。だからずるいんです。
 だって、あのタヌキ、たしかに37歳という設定で、そこだけ見れば当時の太宰本人のような気がしますけれど、実際には太宰はあんなに魯鈍ではありません。太宰はモテるし、粋だし、もっと狡猾です。案外人と適度な距離を保つテクニックを持っています。ま、私もそんな感じなんですね。あっ、「モテる」だけは違うか(笑)。
 あのタヌキって弟子の田中英光がモデルとも言われていますよね。もしそうだとしたら、結果としては太宰はウサギだったとも言えますかね。田中は太宰のことをけっこうストーカー的に敬愛していましたし、最後は自分以外の人間と心中されるという最悪な去られ方をして、禅林寺で後追い自殺しちゃったわけですから。
 いずれにせよ、昨日の「駆込み訴え」同様に、太宰のパロディー力、翻案力のすさまじさ(&ずるさ)、人間観察の鋭さ(&気味悪さ!)を感じさせるに充分な作品であることを再確認いたしました。そして、太宰の「女性」性も強く感じましたね。女性的な感性、女性的な視点から世界の本質を見抜くのが得意な男だったようです。
 本当に悔しいけれど、太宰は天才です。私、普段はほとんど嫉妬心というのを抱かない人間なのですが、太宰治にだけは異常にジェラシーを感じます。何度も書いているとおり、「文章がイケメンすぎる!」からです。う〜ん、ちくしょう!

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2010.09.27

太宰治短編小説集「駆込み訴え」 (NHK BS2)

(↓イエス)
T10050319514170 〜ん、やられた…。久々の「やられた」感。
 おそるべし西川美和。おそるべし太宰治。おそるべし聖書。
 あまりにグッド・タイミングだったということもあります。ちょうどキリスト教のことについていろいろ考えていたところでしたし、テレマンの受難曲を1曲聴いたあとでしたし、カミさんが「女性の嫉妬心」をあおるようなミスをおかしたところでしたし(笑)。
 そう、この「駆込み訴え」は女子高生のドラマになっていたのでした。まずこの設定に目からウロコ。西川監督のアイデアでしょうね。ううむ、やられた。
 そうかあ、ユダの言動に対する私の妙なシンパシーと違和感は、そこに由来していたのか。あれは「女性の嫉妬心」とするとたしかに理解できる。
 聖書の世界を人間の世界に一般化した太宰もすごければ、それを見事な逆説的手法によって現代の風景に具現化した西川さんもすごい。そして、そうした普遍性を持っていた聖書はもっとすごい。
 もちろんそれを書かせたイエスもなかなかやり手であり、また、その物語の中で一人奮闘して玉砕した人間ユダは、実に不器用で純粋な神々しい存在であったわけです。
 私はもともとイスカリオテのユダこそが本当の意味で十字架を背負った「人間」であると思っていました。現代の資本主義(カネ)のもとで苦しみ続ける我々の象徴として、彼は「裏切り者」の名をほしいままにしていると思うからです。
 だから、彼が最終的に砂漠の片隅で一人自殺したという事実の方が、華々しい復活を用意されたイエスの死よりも、より根源的に私たちの魂にずっとリアルに、そして優しく寄り添うものだと感じます。
 そう言えば、一時注目された「ユダの福音書」はどうなったんでしょうね。今思うとあれはあれで「外伝」による「現実逃避」なのかもしれませんね。
 やっぱり私たち人間は本当のユダの姿から目を逸らしたいのでしょうか。そして反省に基づかない表面的な御利益信仰を求めてしまうのでしょうか。契約すれば救済というサービスが得られるという、まさに現代の悪徳商法のようなまやかしに乗ってしまうのでしょうか。
 まあ、そんな小難しいことは抜きにして、この西川流駆込み訴えをぜひご覧あれ。再放送は要チェックです。あまりに分かりやすくなっていて辛いくらいでした。そこにいるのはまさに私たちだからです。
(↓ユダ)
Images もちろん太宰が行なった「小説化」という聖書の「世俗化」に非難があるのも事実でしょうし、それをさらに女子高生的世界に引き下げた(引き上げた?)西川さんにも批判があってもおかしくありません。しかし、もうそこからは「原典」を離れた個人の世界観にまかせればいいと思うんですよね。
 そう、ちょうど昨日ある方からのコメントに対するお答えとしても書いたのですが、もともと、たとえばキリスト教の「聖書」の言葉も、ごく個人的(個別的)な言語によって翻訳されたものなんですよね。
 つまり、この世ではない、人間界ではない、すなわち天界や霊界や幽界などと称される「モノ(外部)」を、それぞれの自然環境や文化環境の中で、あたかもそれぞれの方言やしきたりのごとく「コト(内部)」化したものが「宗教」なのでしょう。
 だからたとえば出口王仁三郎が言うとおりに、「万教」は「同根」であり、本来私たちが「言語」を超えて外部に出ていけるなら、そこには「宗教」なんていう個別の方言は存在せず、ただ「真理(…と言うべきかもわかりませんが)」がそこにあるのみのはずです。
 だから、貝殻のようなものが付いたナメクジのような動物を、カタツムリと呼ぼうがデンデンムシと呼ぼうがマイマイと呼ぼうが、どれも実は正しいわけであって、そこを互いが「こっちの方が正しい」とか「そっちは間違っている」とか言う必要はないわけですね。
 しかし、世界中の宗教事情は見ての通り、その些末な「コト」にこだわってばかりいて、ひどい場合には戦争まで引き起こしている。非常にアホらしいことだと思います。
 また妙にスケールが大きい話になってしまいましたけれど、私は、今回この作品を観て、とにかく、聖書や太宰や西川さんのように、まず自分の言語で翻訳し合うことこそ大切だなと思ったのですよ。
 いえ、私の言っていることは矛盾はしていませんよ。個別の「コト」を無限に集合させると、総体的な「モノ」になるに違いないからです。お互い全部正しいとして出し合えば、必ずホンモノに至ると。逆にいつまでも個人的な言語にこだわってばかりいると、人間はどんどん視野狭窄を起こしていって不幸になっていくと。
 ううむ、それにしても見事だったなあ。やられた。こういう見せ方があったか。こういう解釈があったか。
 うん、やっぱり「他人の個人言語」にはどんどん耳を傾けた方がいい。いろいろな方言を聞いた方がいい。「本物」はそういう「コト」に耐えられる、いや、それどころかそれによってさらに豊かになる「モノ」なのでした。感服。
 明日は「カチカチ山」。私の最も好きな太宰作品の一つ。どういう個人言語で表現されるか、非常に楽しみ。

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2010.09.26

格闘探偵団バトラーツ 北千住大会 vol.23

Vlcsnap2010092703h58m05s33_3 よ!この美しいダブルアーム・スープレックスを!
 昨日IGFで勝利した鈴木秀樹選手が、今日はバトラーツの興行に参戦。ある意味他団体参戦はこれが初めてということになります。IGFはある意味身内の興行ですから、こちらをもっていよいよプロレスラーとして業界デビューとも言えますね。そんな記念すべき大会に応援に行ってきました。
 しっかし、今月の我が家は格闘技三昧ですなあ。
 私はキャンプ場プロレスに参戦、カミさんは修斗を初観戦、そして昨日のDREAMとIGF、そして今日はバトラーツ初観戦。
 実は今日はですね、私にとっての格闘技、プロレスでもある、「音楽」の練習が東京は北区で行われたのです。10月10日の大会…いやいやコンサートの練習です。考えてみれば、その世界では私もすっかり中堅レスラーとして定着していますな。ヴィオラという渋い役割がまたいいじゃないですか(笑)。いぶし銀の味を出せれば本望です。
 で、今日はそちらが終わってから、比較的近い北千住に車を移動させてのプロレス観戦というあんばいだったわけです。
 今回私はバトラーツ初観戦です。バトラーツについては、プロレス・チャンネルのニュース・コーナーで観る程度の知識しかありませんでした。バチバチスタイル、スリーカウントなしというくらいかな。
 ちょっと早めに会場に着き、当日券を求めに行くと、石川雄規社長自らチケット売り場の準備をしておりました。結局石川さんに席を決めてもらいチケットを購入。会場をのぞくと、そこはほとんどリングで占められているほどの狭い空間。そう、ここは劇場の稽古場なのです。なるほど最後列でも3列目か。ちなみに私は2列目。
 時間まで本屋などで時間をつぶし、いざ入場。おお、なんともアングラな感じがいいぞ。いや、アングラと言っても、ここは駅ビルの10階なのでした(笑)。でも、芝居小屋の雰囲気が実によろしい。プロレスは大会場よりもこういうスペースの方がいい!
 石川さんが選んでくれた席の近くに、スネークピットでお世話になっている格闘技史研究家の那嵯涼介さんと、お姐さまのお二人がいらっしゃいまして、ご挨拶を。そして、昨日のIGFで活躍した定アキラ選手とタカ・クノウ選手もすぐ近くに。石川社長ナイスなチョイス!。
 全部で200人くらいでしょう、お客さんは。ある意味超満員です。対戦カードは次の通り。

■第一試合[シングルマッチ~Bルール]
 竹嶋健史vs成田吉駿
■第二試合[シングルマッチ]
 山本裕次郎vs左藤智也(ドリーマーズ)
■第三試合[タッグマッチ]
 タイガーシャーク&三州ツバ吉
  vs
 臼田勝美&焙煎TAGAI
■セミファイナル
 澤 宗紀vs佐々木恭介
■メインイベント
 石川雄規&スーパータイガー
  vs
 鈴木秀樹&矢野啓太

 第一試合。まずBルールの説明がありました。打撃なしのグラップリング・マッチですね。投げはありです。両者合わせて5回までロープ・エスケープあり、というのが面白い。いいルールですね。
 静かながら緊張感のある試合。地味ですが、選手の息遣いが聞こえてきて引き込まれます。寝技15分はきついだろうなあ。アマレス観戦に似た印象も持ちました。若手のためのハード・マッチ。前座にふさわしい試合とも言えそうです。
 第二試合、スリーカウントなしのプロレス。これがなかなかハードで良かった。UWFっていう感じですね。藤原喜明さんの遺伝子でしょうか。あるいはカール・ゴッチの。リングが近いということもあって、大迫力。痛みが伝わってきます。
 第三試合はバトラーツ・ルールのタッグ。それぞれが持ち味を出しきる好試合。会場が小さいからこそのお客さんとのコミュニケーションも良好。
 セミファイナルは、昨日IGFでいい試合をした澤選手と、総合もこなす佐々木選手のバチバチな試合。互いに気持ちを前面に押し出し、強烈なインパクトを残しました。
 澤選手、昨日のIGFの試合後のコメントでも言ってましたね。プロレスをなめてる人を驚かす試合をするって。たしかにこれを見れば馬鹿にできなくなるでしょう。熱いいい試合でした。
 そしてメイン。我らが鈴木秀樹選手の登場です。やはりいい体している。そしてマスクもいい。テクニックは当然ある。気持ちも前向き。絶対に大物になりますよ。
 いちおう石川選手との絡みは「ゴッチ対ロビンソン代理戦争」みたいな感じでとらえられるのかもしれませんが、やはりもうお互いに自分の個性になっていましたね。もちろん矢野選手やスーパータイガー選手もそう。プロレスには個性がとっても重要です。4選手ともそういう意味でも良かったと思います。その様々な組み合わせがタッグの楽しみですし。
 冒頭に挙げたダブルアーム・スープレックスは、高さといい、形といい、正直ロビンソンや、そしてジャンボ鶴田をも上回る破壊力を持っていたと思います。あらためてこれは必殺技になり得るなと思いました。投げてからの動きも含めて、もうかなり完成形に近いのでは。鈴木選手には、こんなふうに古典的な技の復権を託したいですね。プロレス界にあふれる雑技団的なものはもう結構ですので。
 結果は石川選手の腕ひしぎに鈴木選手が無念のギブアップでしたが、今後につながるいい試合内容だったと思います。ぜひ、これからもバトラーツに継続参戦してもらいたいですね。那嵯さんとも話したのですが、今日観に来ていた二人を含むスネークピット勢とバトラーツ勢の対抗戦というのも観てみたい気がしますね。
 というわけで、なかなか充実した大会でした。うん、バトラーツ面白い。満足感高いですね。
 で、実は私にとってはサプライズだったのですが、なんとウチの家族が試合後に会場にやってきました。あれ?今日は家にいる日じゃなかったの?
 なんでも、急にポケモンセンターに行くことになったのだとか。そして大江戸線の旅で、アメ横、両国、江戸東京博物館を回って、ここ北千住まで流れ着いたのだとか。渋い。さすが我が家の娘たち。
 それで、一緒に写真まで撮ってもらって。昨日テレビで観てた人3人(+新ポケモン)に囲まれてるんだぞ!娘たち、このすごさ分かってるのかな?なんか、ウチってこういうのが日常なので、なんとなくマヒしてるような気が…笑。そして、いつもなぜか私は写っていない…。
 カミさんは、今マイブームである、鈴木秀樹選手とタカ・クノウ選手に会えて、もうルンルン!昨日のサク敗戦のショックもすっかり癒えてしまったようです(笑)。
 おっと大事なこと書くの忘れてた。今日一番大変だったのは松井レフェリーじゃないですか?キャンプ場でも疲れ切っていましたけど、今日もまたお疲れさまでした。
 ps タカ・クノウ選手に「Jのテーマ」のこと聞くの忘れた!

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2010.09.25

DREAM16 & IGF13

20100925031 散る!
 カミさんが号泣しています。たしかにあの桜庭和志がタップする姿はショッキングでもありました。
 しかし、私はその相手がメイヘムで良かったと、心から思いました。私はジェイソン“メイヘム”ミラー選手のことが(総合の中ではほとんどただ一人)好きだったからです。
 私の唯一のDREAM観戦についてのこちらの記事に書いてあるとおりです。彼には「プロレスラー」の魂があると感じていたのですね。今回も試合後のインタビューで戦いの場として「駐車場」があがったり、対戦相手として「3歳の娘」が出てきたり、まるでキャンプ場でヨシヒコと闘う飯伏幸太選手のようじゃないですか(笑)。
 実際、今回のDREAM、全試合PPVで観ましたけれど、観客のために、あるいは観客と闘ったのは、正直桜庭選手とメイヘム選手だけだったと思いますよ。あとはみんな自分のため、せいぜい仲間や家族のためでしょう。
 この前の修斗の記事にも書いたように、為手と囃し方の関係がちゃんと出来ていないと「興行」にならないんです。プロはプロとしてちゃんと「為手」にならないと。
 総合格闘技はジャンケンポンの部分もありますから、当然負けることもあります。連敗することもあります。しかしそこで、ちゃんと勝敗以上のモノを見せるのがプロだと思うんですよね。なんというか、生き様というか、魂というか。それが今のDREAMにはないのです。
 その点、敗れはしましたが、やはり桜庭の散り方はある意味人生を感じさせるに充分なモノがありました。積み重ねてきた「伝説」の末のタップは、単なるタップとは違う意味を持ちます。そういう次元で試合ができていたのは当然桜庭選手だけでした。浮き沈みが激しく、また肉体的にも厳しい総合格闘技の世界で、バカボンのパパの歳になるまで第一線でやっている彼ならではの説得力ですね。考えてみれば、イチロー並みの偉業なんですよ。
 ぜひメイヘムには、日本に移住してもらって桜庭さんのジムLaughter7に入ってもらいたいですね!バカボンとして(笑)。
 さてさて、そんなこんなのDREAMとほぼ同時進行で、アントニオ猪木さんの率いるIGFのプロレス興行も行われていました。本当は家族で参戦の予定だったのですが、ちょっと仕事が立て込んでいて断念。テレビでニアライブ観戦となりました。
 こちらは注目カード目白押し。特に私たちも関わらせていただいているスネークピット・ジャパンでトレーニングしている選手たちの試合ですね。
20100926196 第1試合は同門対決。私たちも身近で見ている鈴木秀樹選手と定アキラ選手の試合。仲の良い勝手知ったる者どうしとは言え、リング上では互いにライバル心むき出しで対峙します。決して馴れ合いではない、しかし互いを尊重し合う、真の格闘技魂が炸裂していたと思います。いきなりのスタートダッシュを見せたのは高校生のアキラ選手。臆することなく打撃で押し込みます。しかし、それを慎重にさばいた鈴木選手は、得意のダブルアーム・スープレックスからグランドでアキラ選手を完全にコントロール。最後は厳しいアームロックを極めて勝利しました。
 たった2分半の試合でしたが、中身のあるいい内容だったと思います。総合とも、いまどきのプロレスとも違う、まさにキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの世界観が凝縮されていたのでは。二人とも今後の活躍に期待です。いずれはIGFのみならずいろいろな団体のメインを張れる逸材ですから。
 第3試合の澤宗紀選手とクリス・ダニエル選手の試合も、さすが経験豊富な二人らしい、スイングしたいい試合でしたね。お客さんも満足していたのではないでしょうか。ああいうふうに、いきなりの対戦でもちゃんとリズムが噛み合って、カッコいいセッションに仕上げるのも、これまたプロレスリングの一つの形だと思います。
20100926154 第4試合。これも注目でしたね。IGFのタカ・クノウ選手と、ノアの青木篤志選手の試合。両者とも私にとっては身近な存在です。まさかこういう形で戦うことになるとは。絶対に巡り合わないと思っていたんですが。あとで知ったのですが、青木選手、定アキラ選手にレスリングを教えていたんですね。世間は狭いなあ。ちなみに青木選手は私の教え子のお友達(悪友)です。
 この柔術とプロレスの異次元対決ですが、これまた実にきれいに噛み合っていましたね。というか、タカ選手が「Jのテーマ」で入場したのにはビックリ!ジャンボ鶴田ファンだったのか!?ってことは、お互い馬場全日本の遺伝子を継いでいると。だから噛み合うのか!結果は青木選手の老獪な技に敗れたタカ・クノウでしたが、「らしさ」を存分に発揮したと思います。グラップリング世界一にして、さらに様々なプロレスを研究する貪欲さというか真面目さを感じさせる試合でした。
 で、興行的には後半がおおいに盛り上がるはずだったのですが、どうにも眠い試合が続いて、実は寝てしまいました(失礼)。大物を集めれば試合が面白くなるというものでもありませんね。夢の対決ばかりだったのですが、どうも消化不良。ストーリー性がないなら、リング上の本番だけで魅せなければならないはずなのに、どうも大物の皆さんに「闘魂」が感じられなかった。これはかなり問題ですね。
 その他いろいろ感じたこともありますが、前半戦のいい余韻を残すためにも、余計なことは書かないことにします。また機会を見て、宮戸GMに話をしてみようかと思います。
 あっそうそう、鈴川選手のデビュー戦、なかなか良かったと思います。なんといってもスタミナ。内容は荒削りでしたが、充分にプロレスラーとしての素質を見せてくれたと思います。それにしても、コールマンにはがっかり。

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2010.09.24

鼻から○○

01 前、鼻から牛乳について書きました。あれは、鼻から牛乳が出るという状況についての話でしたね。
 今日はですね、私は「鼻から○○」初体験しました。それも、「鼻から出る」ではなくて、「鼻から入れる」です。
 そう言えば、大昔子どもの頃、鼻にパチンコ玉入れて出てこなくなった経験があります。それ以来でしょうか、こんな大きなもの入れたのは(笑)。
 いや、大きいと言っても、ずいぶんと小さくなったのですよ。富士フィルムさんのおかげです。科学技術、工業技術の進歩でも、こういうものは大いに結構。従来の1センチ近い太さから5ミリ台にまで細くなったのです。
 そうなんですよ、今日は胃カメラを呑む日だったのです。昨年までは、全身麻酔で寝ているウチに内視鏡検査は終了していました。それはそれで気持ちいいほどに熟睡させていただきましたから、けっこう楽しみな行事だったのです。
 しかし今年からは麻酔の危険性を避けるためか、全身麻酔の使用ができなくなりまして、局部麻酔だけで行なうことになりました。つまり、あの咽頭反射という苦痛というか恐怖と戦わねばならなくなったのです。
 実は私はこれは初体験です。今まではとにかく寝ているうちに口から内視鏡を入れられていましたからね。夢の中でたしかに「オエッ」とかなっていたような気はしますが、基本記憶にありませんから。
 で、今回は「口から」と「鼻から」を選択できることになっておりまして、もうとにかくなんだかよく分からないけれども、いわば「新しい」方がきっといいだろうと思って、「鼻」を選んだわけです。
 結論から申しますと、この選択は正しかったと思います。多少の「オエッ」「ゲッ」はありましたが、耐えられないほどのものではありませんでした。
 しかし、なんというか、今までは寝ていましたから知らぬが仏だったわけですけど、今回は意識があって話もできる状態でしたからね、妙に屈辱的な感じがしました。完全にサブミットされているなあと。
 左の鼻の穴からニョロニョロっとあのようなモノを挿入されていく、なんとも言えない屈辱感ですねえ(笑)。もちろん抵抗なんかできない。鼻に何かを入れられるというだけでも充分に屈辱なのに、それをさらに胃の奥、十二指腸のあたりまで挿入されちゃうんですから。
 鼻に異物が入っているというだけでも、反射的に涙が出まくりましたけど、もしかすると、あの涙には反射という無意識以上の何か、哀しさという意識も含まれていたかもしれません。まいった。
 さてさて、検査の結果ですが…そう、検査中も先生が看護師さんとなんかゴニョゴニョ話していて気になりました。「おかしいなあ」とか「ちょっと書類持ってきて」とか。
 えっ、もしかしてガンとか潰瘍とかが発見されたのでは…たしかに最近ストレスフルだし(いや、実際にはそんでもありませんが、いちおう設定上)。
 検査後、隣室に呼ばれまして、いろいろ深刻な表情で質問されました。
 「不思議ですねえ、去年まであったポリープがなくなっちゃてるんですよねえ」
 というわけで、私が質問されたのは、私の「一日一食」生活についてでした。そのお医者さんもとっても興味を持っているんですよ。なにしろ、胃に関して言えば、私は人の3分の1しか負担をかけてないわけじゃないですか。で、6年前に初めて検査した時から、良性のポリープがいくつかあったんですけど、なんだかどんどんその数が減ってきているわけですよ。一日一食を続けているおかげかもしれないと。
 胃壁の状態もとってもきれいでした。おかしいなあ、ストレスがたまっているはずなのに(笑)。
 ま、とりあえず良かった良かったと。「経鼻内視鏡」も予想どおりなかなかの優れものでした。皆さんもぜひ胃カメラは「鼻から」どうぞ。そして、「一日一食」もお試しあれ!

富士フィルム「胃のなかへ」

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2010.09.23

カミさんが修斗に行ってきました〜「囃す」

↓メインでKO勝ちしたダレン・ウエノヤマ選手と
Gedc0095 は忙しすぎの上に片頭痛に襲われ(天候のせいかな)、一日ヒーヒー言いながら過ごしましたが、カミさんは東京でフィーバーしてきたようです。
 格闘技の殿堂後楽園ホールから夜中帰ってきたカミさんはいまだ興奮のご様子。そうとう面白かったらしい。うむ、ちょっとうらやましい。プロフェッショナル修斗公式戦「The Way of SHOOTO 05~Like a Tiger, Like a Dragon~」の観戦です。カミさんは初修斗。
 実は私、3年前に「修斗」という記事を書いているんですよね。やっぱりそんな感じだったようです。私もあれからもサムライTVでは何度か観戦して、やはり面白いなと思っていました。生観戦はカミさんに先を越された形になりました。
 やっぱり後楽園ホールでのお客さんの盛り上がり、会場の一体感は格別だったようです。
 あさってはDREAM16がありますね。ウチの夫婦注目の「桜庭vsメイヘム」は楽しみですが、やはり興行全体としては今一つな感じがします。正直大会場でのバラマキ多数の興行は、客が冷めてるんですよね。あるいは理解していない。共感していない。これはもう格闘技興行としては致命的なことです。誰も感動していないコンサートみたいなものです。
 プロレスの会場も同様です。最近ではDDTやアイスリボンや大日本のような団体の会場は非常にいい雰囲気です。逆にメジャーである新日本、全日本、そしてノアの会場の空気はさみしい。昭和の興奮を知っている私たちからしますと、実に残念な状況です。特にノア。
 やはり興行はあくまで興行ですから、リング上と客席が互いに刺激し合い、いわば祭における舞手とお囃子みたいな関係にならないといかんと思うのですよ。
 いつも書いているように、相撲やプロレスやボクシング、その他の格闘技全ては、現代における「神事」としての機能があると思うんです。球技などのスポーツとは一線を画す部分です。
 その機能を果たすためには、ぜったいに「参加者」の共鳴が必要です。そしてそのためにはフィジカルなゲーム性だけでなく、スピリチュアルな聖性が不可欠なんですよね。
 それこそが、たとえば修斗における「極め」にこだわる姿勢であったり、「流れ」の中でスイングする心であったりするのだと思います。
 単純に勝ち負けにこだわり(すなわち勝つことより負けないことに専念する)ところからは、そういう「魂」の部分は出てきませんし、実際伝わってきません。
 今回カミさんは「魂」を体感してきたようです。目の肥えたお客さんの想像力を超える技術と精神力の攻防の前では、我々凡人はただ自然に「囃す」ことしかできないものです。
 「囃す」の語源は「栄やす」「映やす」です。主役を光らせることです。つまり、自然に囃すことしかできない状態というのは、たとえば格闘技で言えば、リング上の神の威光を受けて興奮状態になり、たくさんの観客がその光を反射して神に返し、集光してさらに神を輝かせるという、実に高度なコミュニケーションの状態なのです。
 というわけで、まあ理屈はいいとして、そういう凡人としては最も高度な幸福を味わってきたカミさんがとってもうらやましいのであります(笑)。
 私はあさってIGFの興行GENOME13に行こうかと思っていたのですが、どうも仕事の進捗状況からしてかなり難しい状況なのです。ううむ、いいなあ専業主婦は(笑)。
 たまにはそういう非日常を味わいたいですねえ。なんて、考えてみれば、キャンプ場プロレスに参加したり、この前の御更衣祭みたいに、本当の神事のお囃子をやってるか。
 それに仕事自体、子どもたちとそういうコミュニケーションしてるわけですし。もっと子どもたちを囃して輝かせてやらなきゃ、ですね。

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2010.09.22

お月様のっぺらぼう〜「オレ」

 秋の名月。昔は7月、8月、9月が秋でしたから、8月が中秋ということです。今日は旧暦の8月15日で満月。
 寝る前に寝室の月見窓から眺めると、およそ半世紀ぶりに最接近する木星とともに、のっぺらぼうのお月様がぽっかり浮いていました。
 まさにのっぺらぼう。もともと満月は正面から太陽の光を受けますので、クレーターの影が出来にくく、望遠鏡で見たりしても、全く面白くないんですよね。まさにのっぺらぼう。
 明日は一日大雨だと言います。窓を開けると、志村くんの歌うように、たしかに「雨の匂い」が流れ込みました。
Gedc0050 そうそう、今日不思議なことがありました。家でカミさんと娘たちが月見だんごを作ったんですね。それをウチの神棚である艮の床の間に奉納したところ、なんといつのまにか、ピラミッド状に積んであった一番上のだんごがなくなっていたというのです。
 おいおい、いったい誰が食べたんだ?人形か?コノハナサクヤヒメか?…この床の間にはいくつかの神仏が祀ってありますが、だんごをつまみそうなのは…やっぱり志村くんかな(笑)。
 昨日、たまたま宮澤賢治と岩手の方言について書きましたね。今日は志村正彦くんと山梨の方言について、ちょっとしたネタを書こうと思います。
 フジファブリックの名曲の一つ「お月様のっぺらぼう」。その中でも、印象的なであるフレーズ「俺」。全体で6回でてきますよね。これって、メロディー的に言いますと、「ラソ」という音が当てられています。高低アクセントとしては「高低」ということになりますね。
 ご存知のとおり、標準アクセント(つまりNHKのアナウンサーが話す人工アクセント)では、「おれ」は「低高」というアクセントになります。
 ただ、「おれ」から派生した「おら」についても、「高低」「低高」両方のアクセントが認められるように(ちなみに秋田県民は「低高」だそうです)、「おれ」も地方によっては「高低」と発音されることもあります。
 実を言うと、ここ富士北麓地域でも古くは「高低」というアクセントで発音されていました。「ラソ」ですね。若者の中でも父親等の影響がテレビなどの影響よりも強いと、「高低」と発音する人がいます。
 10年くらい前までは、生徒の半数は「高低」と発音していたのではないでしょうか。私は外から来た人間であり、標準アクセント完璧な人工人間(?)なので、当初非常に興味深く思いました。
 山梨は基本的に東京式アクセントなので、逆に微妙な違いが気になるんですよね。関西弁や東北弁のようにあまりに違うと気にならないんですけどね。
 そういう山梨の方言アクセントの例はいくらでも挙げられますが、今日はやめておきます。ま、そのうちの一つがこの「俺」だということです。「俺」が「Ole!」や「café au lait」の「オレ」の部分のようなアクセントになるのです。
 この曲を聴いた時、「ああ、志村くんもオレ(高低)と発音していたんだな」と思いました。だから、こういうメロディーを作ったのではないかと。
 実は私は大学でアクセント史を研究しまして、卒論も「江戸の箏曲の旋律から当時のアクセントを復元する」という、まあどうでもいいオタクっぽいことをテーマとしました。そんなこともあって、日本の歌を聴く時には、どうしてもそういう観点(聴点)で聴いてしまうんですよねえ。
 ある意味、日本の音楽は日本語の高低アクセントと開音節構造に縛られてきました。メロディーとリズム(符割り)の可能性が限定されてきたのです。基本志村くんの作曲もその伝統に縛られているように感じます。
 ちなみにそれを崩したのは、松任谷由実と桑田佳祐です。ユーミンは高低アクセントを無視したメロディーを作ることによって、日本の歌の可能性をほぼ無限大に増やしました。そして、桑田さんは一つの音符の上にいくつかの音節を乗せてしまうという荒技で、日本のポップスを洋楽、すなわち英語圏のポップスと同等に扱ってしまったのです。その両者の新しい伝統は、ミスチルなどによってより洗練、一般化されました。
 もちろん、前世代の人々にとっては、「言葉が聞き取りにくい」、「最近の曲は歌いにくい」とか、そういう評価になるわけでして、そういう意味では、彼らが日本の歌を破壊したとも言えなくもありません。
 ちゃんと分析したわけではありませんが、志村くんの作る歌は、比較的伝統的な「日本の歌」の作曲法になっていると感じます。それが、彼の曲に我々がノスタルジーを感じる理由の一つかもしれません。

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2010.09.21

宮澤賢治の命日にちなんで…「は」について

Miyazawa_kenji 日は宮澤賢治の命日。彼は昭和8年に37歳で亡くなりました。
 先日、研修の中で、ある大学の教授と宮澤賢治について公開の対談をしました。
 その冒頭で私は導入として、「文化」と「文明」の違いをこう説明しました。よく高校生にしていた話です。全くの我流ですから、引用などしないように(笑)。

 文化=culture(cultivate「耕す」を語源としており、大地・自然を中心とした概念)。地域の自然・風土のアイデンティティーが人間の生活や活動を通じて現れたもの。
 文明=civilization(civil「市民」を語源としており、人間を中心とした概念)。人間が自然を支配・コントロールすること。

 自然中心の縄文文化は1万年続き、現在でも息づいてるが、人間中心の、たとえば世界の四大文明は滅亡し、砂漠化を引き起こした…こんなふうに分かりやすく単純化して説明しました。あくまで高校生向けの単純化モデルですからね。
 まあ、それでも、文化の定義にはちょっと自信があります。衣食住や言語や芸術を考えてみれば、主体の住む、あるいは育った地域の自然・風土の影響がないことは考えられませんからね。
 そんなわけで、やっぱり宮澤賢治は東北の、岩手の、花巻の自然・風土抜きには理解、解釈できないはずです。
 私も大学の先生も東京育ちですので、どうしても賢治のテキストの方言部分は、外国語的な感覚でとらえなければなりません。
 いや、ちょっと話がそれますが、実は賢治のテキストのほとんどを占める「標準語」の部分の解釈にも、対外国語的な視点が必要だと思いますよ。なぜなら、彼らにとって「標準語」とはまさに人工国際語のエスペラントにも似た純粋な「外国語」だからです。
 太宰治のテキストもそうですよね。彼の文体の独特のリズムは、私のような「標準語話者」では実現し難い、「訛り」によってできているのです。つまり、「標準語」への「方言(母語)」の干渉ですね。助詞の省略などにそれは顕著に表れています。
 私は賢治には詳しくないのですが、それでも、彼の「作る」標準語の、あの独特の幻想的な雰囲気は、やはりある意味でこなれていないフィクション性から生まれるものだと思います。
 で、今回はですね、東北弁のエキスパート、3世代前までの秋田弁を完璧に操ると豪語するウチのカミさんに、賢治のある有名作品を読み直してもらったんですよ。そうしたら、実に面白いことを言い出したので、研修の対談でも披露させていただきました。今日はその一部をここに記しておきます。
 あまりにも有名な作品であり、教材である「永訣の朝」。皆さん御存知ですよね。愛する妹の、生と死の狭間の哀感と虚無感と叫びとある種の聖性を描いたあの詩です。本文はこちら
 ここに、これもまたある意味最も全国区で知られることになった岩手の言葉、花巻弁が出てきますね。
「あめゆじゆとてちてけんじや」「Ora Orade Shitori egumo」「うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる」です。
 これらによって、この詩の評価は高まったとも言えますよね。たしかに非常に効果的です。しかし、実はこの「方言」自体が、「人工方言」ではないかという説もあったりするのです。現在の花巻の老人に聞いても、「こうは言わないなあ」と言う方が多いのだとか。
 もちろん、大正時代のことですし、病床にあって弱っていたこともありますから、現代の花巻の大人の言葉とは違って当然とも言えます。
 しかし、我々はこれを作品のテキストとして「朗読」し、「解釈」せねばならない、特に国語の授業においてはそうですね。その時これをどう発音するかというのは、実は非常に重要なポイントだと思うのです。おそらく今の時代、全国どこでも「標準語」(あえてこう言います)の部分は均一に正しく発音されるでしょう。
 では、方言部分は…。これは実に難しい。現代の花巻の人にとっても不自然なのですから。 
 ですが、今日は一つだけ、私がとっても驚いたことを一つ書いておきます。これなど、まさにその方言音読問題の本質をついていると思うからです。
 先ほど挙げた「永訣の朝」の方言部分の三つ目。「うまれてくるたて こんどは…」の「こんどは」のところです。これはたとえば私のような非東北弁話者ですと、間違いなく「コンドワ」と発音するじゃないですか。絶対に。
 しかし、カミさんに言わせると、そんなことは絶対ないと。えっ?どういうこと?
 そうなんです、なんと、これは「コンドハ」と発音すべきだと言うのです。東北弁、少なくとも秋田県南部の方言では、いわゆる係助詞の「は」を「ワ」と発音することはないというのです。いや、もちろん「標準語」を読む時は「ワ」と発音しますよ。しかし、純粋な方言で、「言外の何かと対比する」ことを表す「は」はそのまま「ハ」と発音すると。だから、賢治の妹のとし子も絶対「ワ」ではなく「ハ」と発音したはずだと。「コンドワ」というのはなんともヨソユキ風な標準語的な発音だと。いまわの際の彼女が慣れ親しんだ兄にそんな発音するはずないと。なるほど…。
 もちろん、秋田と岩手では方言の細部は違いますが、東北地方全体の傾向として、たしかに上のようなことは言えるようです。
 「コンドワ」と「コンドハ」では、ずいぶんと言葉の響きが違ってきますね。私にとってはこれは大きな発見でした。研修でもこの話をさせていただきましたが、賢治研究の大家である先生も、あるいは聴衆の先生方にも、この説は初耳だったようです。
 やはり、その土地の文化にはその土地の人にしか分からない領域があるのだなと感じましたね。もちろん、そういうことを超えた普遍性があるところこそが、芸術の素晴らしさではあるのですが。
 実はこれ以外にもいくつか新説を披露したのですが、今日は「は」だけ紹介させていただきます。
 あの世で賢治はこの説をどんなふうに聞いていたのでしょうか。とりあえず「ふっ」と笑っていたことだけはたしかです。
 というか、「は」を「ハ」と発音するのが、どう花巻の自然・風土と結びついているのか、全然説明になってませんね。ごめんなさい。うまくまとまりませんでした(苦笑)。

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2010.09.20

『富士山の祭神論』 竹谷靭負 (岩田書店)

20100921_61632 月の上浅間の『火祭り』や、昨日の下浅間の『御更衣祭』などの主役は、言うまでもなくコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)ですね。
 富士山と言えば浅間神社、浅間神社と言えばコノハナサクヤヒメ、というふうにこんなことは常識になっています。
 しかし、この常識が生まれたのは実は今から300年ほど前のことでした。それまでは「浅間大神」であったり「浅間大菩薩」であったり、はたまた「赫夜姫(かぐやひめ)」であったり、そしてそれらにメジャー神である不動明王や大日如来、天照大神などが複雑にからみ合い、非常に複雑な状況になっていました。
 そのあたりの系譜と経過を、実にていねいに論考しているのが、この「富士山の祭神論」です。
 著者の竹谷靭負(たけやゆきえ)さんは、富士吉田は上吉田の富士山御師(おし)の正当な後継者です。「靭負」という名は御師の世襲名だと言います。
 しかし、そんな竹谷さんのご職業は大学教授でした。それも理学博士。拓殖大学の工学部情報工学科にお勤めでした。昨年の春に定年退職されたとのこと。大学では、御師の世界とはある意味かけ離れた「教育工学」を中心に研究指導されていたようです。
 たしかにこの綿密で客観的な「祭神論」も、充分に「情報工学的」であるとも言えるかもしれません。推論は明確に推論とわかる形で提示されていますし、文系にありがちな「幻想文学(?)」になっていないところに、私は好感を持ちましたね。「富士山の祭神論」としては、まさに決定版と言っていいでしょう。
 詳細な内容は読んでいただくとしましょう。なぜ、これほどに複雑な状況になっているのか、いや、なっていたのか、非常に興味があるところですよね。それが、江戸時代富士講の隆盛とともに一本化されていく。それは宗教的理由と言うよりも、商業的な理由による現象であるような気がします。
 今や、私も含めてほとんどの人々が「コノハナサクヤヒメ」を疑いなく拝んでいるわけですが、このような歴史的な事実を見ますと、あるいは「コノハナサクヤヒメ」というのは、多様な神仏の総合体であるようにも感じてきます。そして、それはそれで実に日本的な「融合」や「ムスビ」の精神の象徴のようでもあり、間違ったことではないような気もしてきますね。
Megamichirashi 今日、久しぶりに富士吉田の歴史民俗博物館に行ってきました。まあ、いつ行っても私しかお客さんがいず(笑)、静かなものです。この連休中にもいったい何人の方が来館したのでしょうか。心配になってしまいます。最近、国道沿いに目立つ看板ができましたが、その効果はいかに…。
 今ちょうど「富士の女神のヒミツ」という企画展をやってるんですよ。タイトルからして分かる通り、小中学生向けの展示ですので、竹谷さんのような深さは微塵もありませんが(失礼)、まあ多少は珍しいものもあって、それなりには楽しめました…かな?
 いや、この博物館、案外常設展がいいんですよ。私のようなマニアにはけっこう勉強になる。ま、興味ない人にとっては「?」という感じでしょうけど。地域の博物館ってどうしてもそういう所に落ち着いちゃうんですよねえ。私の好きな山梨県立の博物館も、なんか県の事業仕分けの対象になってましたよ。けっこう頑張ってると思うんですが、あそこは。
 それにしてもですね、どうして地元ではあの「宮下文書(富士古文献)」を無視するんでしょうね。たしかにアカデミックから見ると「トンデモ」なシロモノですけれど、まさに「歴史民俗」の結果生まれた「物語」じゃないですか。
 たとえば富士山の祭神論を語るにも、あの文献の内容を加味すれば、その世界は数倍も豊かになります。ある意味、近代日本において(あるいは現代日本でも)富士講以上に全国区で庶民の潜在意識に働きかけていますからね。もちろん、出口王仁三郎の大本を通じても。
 繰り返しますが、富士吉田の誇るモノは、実はこの「宮下文書」と、プロレスラー「武藤敬司」と、フジファブリック「志村正彦」なのでした。織物やうどんや富士講は、残念ながらそれらほどの影響力を持っていません…なんて言ったらアカデミックな人たちに怒られちゃいますかね(笑)。

富士吉田市歴史民俗博物館

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2010.09.19

『スエヒロガリ∞』 富士学苑中学高等学校ジャズバンド部 第8回リサイタル

8th や我が校の看板クラブとなったジャズバンド部「Moon Inlet Sounds Orchestra(MISO)」の定期演奏会に行って参りました。
 昨年末には、最も権威あるジャズコンテストの一つである「浅草ジャズ・コンテスト」で、プロを含む並みいる強豪をおさえて見事グランプリを獲った脅威の高校生バンドです。いやいや、今年からは私の勤務する新設中学校の生徒二人も入りましたから、中学・高校生バンドとなりましたね。そういう意味でも今回のリサイタルは歴史的な演奏会だったと言えるでしょう。
 まず、このリサイタルで引退となる3年生7人、お疲れさまでした。たくさんの感動と興奮をありがとう!今日も君たちらしくさわやかな演奏を聴かせてくれました。
 昨年の浅草グランプリによって、さらに全国に名を轟かせることになり、毎週末演奏のために遠征するというような、実にタイトなスケジュールをこなしてきた彼ら。しかし、その経験の全てが勉強、鍛練の場となったのでしょう、今日のこの集大成のステージは、今まででも最高の出来になっていたと思います。お客様もさぞ満足だったことでしょう。
Gedc1211 もうアンサンブルはプロ顔負けのレベルです。特に今回はサックス・セクションの一体感と柔らかい音色にしびれました。素晴らしい。
 ほかのセクションも安定した演奏でしたね。今年は決して華やかではないのですが、とてもしっとりとした織物のようなアンサンブルだったと思います。
 相変わらずリズム・セクションも高校生としては充分にうまいと思います。ただ、私のような通奏低音生活(?)をしている者からすると、やはりリズムがもっとどんどん音楽を作っていってほしいとも思いましたね。これは毎年思うことですし、大学生バンドなんか聴いていてもちょっと物足りなく思うところです。
 ま、それができたらプロ中のプロですからね。これからいろいろと勉強してもらいましょう。
Gedc1216 そんな中でリサイタル・デビューした中学生二人、なかなか堂々とした演奏でしたよ。トランペットの彼女は緊張している様子も含めて、中学生らしい可愛らしさがありました。それでも4月から比べると音色が格段に良くなっているのがわかりました。これから5年、いったいどこまで成長するのでしょうか。
 ピアノの彼女は、ちょっと落ち着きすぎ(笑)。終演後にもそんな話をしました。本番ならではの緊張感が良い方向に働くのが理想ですからね。緊張と興奮は紙一重であり、表裏一体なんです。技術はもうすでに結構ありますから、あとは音楽の中身の問題ですね。期待しています。
 今日は我が弦楽合奏部の部長と一緒に鑑賞していたんです。で、冗談で来年はこのステージに上がるぞ!なんて言って笑ってたら、最後校長先生がまじでステージからそんなこと言い出してしまって、超ビックリ。さすがにそれは無理ですし、せっかくの素晴らしい演奏を汚すことになるのでやめときます(苦笑)。
 もちろん、それは夢でもあります。ビッグバンドにストリングスが入ることもありますからね。古き良き時代の理想的でゴージャスなサウンドになりますよね。歌の伴奏なんか、みんなそういう感じでしたから。なんとか3年後くらいには1曲くらい絡めるようになりたいなあ…。
Gedc1219 終演後、OBやOGと話をしました。音楽の道でプロを目指す者、教員を目指す者、音楽を通じた別の夢を実現しようとしてい者…それらもまた楽しみですね。学校、バンド、一つの音楽を卒業していって、そして新たなる世界を切り開いていく。その成果を私たちも楽しむことができそうです。今のうちサインでももらっておこうかな(笑)。
 私も中学、高校で始めた楽器と音楽のおかげで、今の自分ができています。今の仕事も音楽が導く縁によるものでした。私の人生のほとんど90%くらいは音楽が種になってできています。そういう体験をしている私からのメッセージはいつも同じです。
「ぜったいに一生音楽を、楽器を続けてくれ!」
 最後に顧問の大森先生の言葉を引用させてください。これが事実であることは確かですが、なかなかこういう言葉では表現できないものです。やっぱり指導者がすごい…これがまず最初にありきだと思います。

 『毎年違うメンバーで一定レベルの演奏を…あちらこちらで多くの人からよく聞かれます。「毎年、メンバーに恵まれているだけです!」とハッキリ言います。良い指導者で、良い環境で。当たり前のことですが、それだけでは思うような活動、結果は出せません。やはり生徒、メンバーの質です。MISOのメンバーは楽器の練習はもちろん、勉強や生活、いろいろな努力をどこの学校の生徒よりもしています…』

MISO公式

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2010.09.18

冨士山下宮 小室浅間神社 『御更衣祭』

Vlcsnap2010091913h17m30s234 ちら『冨士山下宮小室浅間神社(下浅間)』という記事でも紹介いたしました、60年に1回という神秘の稀祭、神様の御召し替え神事である「御更衣大祭」に行って参りました。
 実際には19日未明の祭事でありましたが、18日から寝ずに迎えましたので、18日づけの記事として紹介いたします。
 東京で11月のコンサートの練習を終えまして、たまたま連絡のあったマニアックな教え子を連れて富士吉田に帰ってきたのが夜の10時頃。そこから深夜の2時までブラブラと夜の下吉田、西裏界隈で時間をつぶしました。
 まさに丑三つ時にクライマックスを迎える神事、この時間帯によってなんともその神秘さがいや増しますね。神事が始まる頃には100人以上の人たちが集まっていたのではないでしょうか。外国人の姿もチラホラ見られます。
 本来「劣化・老化」のキャラクターとも言えるコノハナサクヤヒメは、このお召し替えによって若返るとのこと。その時間軸をも自由に行き来する神威の恩恵を、私たちもいただこうというわけですね。
 それこそ私なんか60年後は絶対にこの世にいませんから(最近はやりのミイラになっているかも)、とりあえず人間界でこの神秘の祭に参加できるのは、今回が最初で最後ということになるでしょう。おそらく今日この祭に立ち合った人々皆そうだと思います。いや、子どもさんも何人かいましたね。彼ら彼女らは一生で2回体験できるかもしれません。
 冒頭に示した記事やこちらの私のインタビューからも分かる通り、私とコノハナサクヤヒメの因縁(?)は浅からぬものがあります。本当に不思議なご縁を頂戴しておりますから、こうした珍しい神事に立ち会えることにも、実にありがたい何かを感じずにはいられません。
 さあ、深夜2時、神事は太鼓を合図に始まりました。修祓、大祓詞奏上、その他の祝詞奏上、献饌などは一般的な祭祀と同じでしょうか。三管(笙・龍笛・篳篥)も生で演奏されていました。
 一つ興味深かったのは、神殿の開扉と閉扉の際の「オー」という声ですね。「オの言霊」は大地や万物の根源を表すと記憶しております。やはり、コノハナサクヤヒメは、山の神、国つ神であるオオヤマツミの娘
ですからね、下に向かう言霊でお迎えするのでしょう(たぶん)。
 さて、このお祭りのクライマックスである「お召し替え」ですが、結論から申しますと、この目では全く拝見することができませんでした。
 まあ、それはそうでしょうね。うら若き女性のお着替えなわけですから、そんな人前で堂々と裸にしてしまうわけにはいきません。この時間帯というのも、やはり「闇」を意識してのものでしょう。実際、神事は基本的に闇の中で行われました。
 そんな闇の中で、いよいよお召し替えという時、神職の方々が専用の「目隠し」を用意した時には、なんとも不思議な心地となりました。
 その時の様子を動画で撮影してまいりましたので、フラッシュムービーにて特別公開いたします。

御更衣のクライマックス

 コノハナサクヤヒメさんごめんなさい。多少見えやすくするために明度などの調整をいたしました。肉眼でもこんな感じでかすかに見えていました。雰囲気だけでも伝われば。
 白いうすぎぬの幕が掲げられたわけですが、中の灯明に照らされてなんとなくボンヤリと中の様子が見えるような見えないような…。ある意味エロティックな時間と空間ではありました。日本の神事の本質的な部分を垣間見たような気もいたしました。聖なるモノの前にたたずむ俗なる我。このコントラストがぐるっと回って結合するところに、日本の「ムスビ」のパワーがあるとも言えますね。
 途中、神威にあてられたか、クライマックスのあたりで、どなたか参拝者の方がお倒れになって救急車で運ばれたり、その他の方々も何人か転んだり、しゃがみこんだりしてしまったりして、やはり特別な空気に包まれていたような感じでしたね。
 私も正直2時間にわたって直立しているのは非常にきつかった。眠気と疲労と緊張で何度か気を失いかけました。
 終了後、近所の知り合いや別の教え子にも声をかけられました。その教え子もこのためだけに東京からわざわざ来たのだとか。ふむ、私の教え子にはマニアックなヤツが多いな。変な影響与えちゃったかな(苦笑)。でも、こういうことを理解し、体験できるということはいいことだと思いますよ、純粋に。日本人として、人間として。
 フジファブリックのファンとおぼしき方もいらっしゃったような…。志村正彦くんもきっとこの稀祭を見に来ていたことでしょう。なんとなく闇の中で彼の姿を見たような気がしたのですが…。
 終了後教え子と話していたら、なぜか、NHKのテレビの取材も受けてしまいました。あやしい風貌に引きつけられたのでしょうか(笑)。ニュースか何かで放映されるのでしょうかね。頭がボーッとしていて、日本語が変になってしまった…恥ずかしい。
 いずれにせよ、一生で一度の貴重な体験でした。何か不思議な感覚が私の体と心の中にも残っています。私の「天命」にはコノハナサクヤヒメが強く関わっているようです。それが何なのか、この余韻が残っているうちにしっかり考えてみようと思っています。

冨士山下宮 小室浅間神社 公式

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2010.09.17

「富士吉田駅」→「富士山駅」

20100918_03_1 日間にわたる研修は無事終了。県外からいらした方には、ぜひとも山梨の観光をしていただきたいところですが、なかなかそんなヒマはないでしょうね。
 少なくとも遠くからおいでの方には富士山を間近に見ていただきたかった。甲府盆地から見る富士山は、太宰治流に言うと「ほおずき」です。それもまた風情のあるものですが、やはり富士五湖地域にいらしていただいて、このドーンという富士山をご覧いただきたいですね。
 さてさて、本日ある意味富士山観光に革命を与える、また我々富士吉田にゆかりのある者にとってはちょっとショッキングな発表がありました。
 来年7月1日「富士山駅」誕生!
 新駅ができるわけではありません。富士急行線のターミナル駅である「富士吉田駅」が改名されるのです。
 ううむ、これは大変なことだ。
 まあ、富士吉田市民にとってはですね、あの駅は「富士吉田駅」と呼ぶことはないのであんまり問題ないかもしれません。「吉田の駅」あるいは「ヨーカドー」、そう、もうイトーヨーカドーはなくなったのに、いまだに「ヨーカドー」って呼ぶ人もいるんですよね。私もそうですが(笑)。そして、いちおうヨーカドーの後釜となった「Qスタ」という呼び名ですかね。
 だから、「富士山駅」になったとしてもそれほど日常会話にそんなに大きな影響はない…かな?どうだろう。でも、「吉田の駅」って言えなくなるのか。「ふじさんえき」ってなんだか言いにくいよなあ。
 また、「富士吉田」という市の名前の駅が市内になくなるということは、ちょっと寂しい気もしないでもない。「吉田」という本来の地名は、いちおう「下吉田」駅に残るわけですね。でも、富士山の「吉田口」の、そのまた入り口の駅名に「吉田」がなくなるのはどうでしょう。
 「富士山駅」はある意味富士山の周辺どこにでも作れる可能性があるわけですよね。なんとなくあまりに漠然とした一般名という感じがしないでもない。富士山頂までのケーブルカー計画なんてのもありましたけど、それで山頂の駅が「富士山駅」だったら、まあそれはそれで間違ってない気もしますが。
 富士吉田が周辺と合併して「富士山市」にでもなれば、それはそれでいいと思いますし、そうなることを目論んでの改称かもしれません。しかし、現在の富士吉田の絶望的な状況では、それも無理でしょう。正直周辺市町村からそっぽを向かれていますから。
 富士吉田が世界に誇るものといえば、全日本プロレス社長の武藤敬司選手と、フジファブリックの志村正彦くんの偉大なる業績くらいしかありません(さっきまでサムライTVで武藤選手を見ていましたし、そして今はフジファブリックのビデオ・クリップ集を見ています)。とりあえずお二人はこの80年ぶりの改称をどのように思われるのでしょうか。まあ、二人ともどちらかというと下吉田文化圏のご出身ですから、それほどショックでもないかなあ。
 このまま行くと、私の教え子のお父さんが初代富士山駅の駅長さんになるのかな?とにかく、この改称を機会に、さらに富士山や富士吉田市が世界に開かれ、世界にはばたいていってくれればと思います。武藤選手も志村くんも、まちがいなく世界レベルの天才ですしね!私も富士山や富士吉田を愛する者として、少しでも彼らの業績や富士山の自然や文化を世界に伝えていきたいですね。
 皆さん、ぜひ改名前の「富士吉田駅」、そして新しい「富士山駅」を訪れて下さい。案外中途半端なところにある駅なので、周辺を歩いてもなんもありませんが(苦笑)。

PS  実は「富士吉田駅」には私にとって特別な記憶というか記録があります。ここに住んだり勤めたりするなんて思ってもいなかった私が小学生の時の不思議な記録です。近いうちに実家からそれを探し出して、紹介しようと思います。運命はあの頃から決まっていた?!

富士急行線公式

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2010.09.16

『みんな、絵本から』 柳田邦男(文)・石井麻木(写真) (講談社)

06215158 研修会1日目。700人以上が集まっているわけですから、なかなか大規模な研修ですよね。参加するのは5回目。うち3回は発表という、はっきり言って何かの陰謀としか思えない状況です(笑)。一生のうちに1回当たればかなり不運と言われるのに、この研修で10年で3回というのはたぶん世界記録だと思います。
 まずは基調講演を拝聴しました。ノンフィクション作家の柳田邦男さんの講演「ケータイ・ネット社会と子どもの心〜絵本・読書の新しい意味〜」。
 なかなか興味深かった。内容的にはそのタイトルから想像されるとおり、ケータイやゲームやパソコンやiPadなんかより、絵本や読書、特に絵本がいい、子どもにとっても大人にとっても、というお話でした。発想としては特に目新しいものではないと思います。しかし、実際の絵本をスライドで示しながらのご講演でしたので、その作品世界に私も感動してしまいました。
 最近の「大人も絵本」ブームの牽引役でもある柳田さん。特に「読み聞かせ」による親子の対話や触れ合いの重要性を訴えておられました。たしかに、読むだけでなく読み聞かせることによる大人への効用もありますね。私も父親による読み聞かせグループに入っていますが、たしかに子どもにだけでなく、父親側にも発見がたくさんありますよ。
 絵本とは、子どもにとっても大人にとっても「モノガタリ」世界であるわけです。日常の「コト」から一気に「モノ」世界へ飛翔する機会を与えるメディアです。たしかに最もシンプルな媒体であるかもしれまはんね。大人は語り部になることによって、子どもたちと一緒にそうした「モノ」世界に向かうことができるわけです。大人が絵本を読んで涙する時、そこには懐かしい「モノ」世界が広がっているのですね。
 そんな柳田先生の講演を聞いて、以前図書館で読んだ(見た)この本を思い出しましたので紹介させていただきます。今日の講演内容はほとんどこの本とかぶっていると思います。興味を持たれた方はぜひこの本をお読み下さい。
 また、資料として配られた柳田先生おススメの絵本リストを期間限定で置いておきます。ぜひ参考にしてみてください。
リスト(pdf)
 さて、基調講演が終わって、いよいよ自分の発表です。3回目ともなると、もう緊張もしませんし、逆に楽しみなくらいです。ちなみに今日私のあとに発表された先生は、6年前、伊勢で私と一緒に発表された方でして、つまり2回目。二人で「いったいなんなんでしょうね」と慰め合いました(笑)。
 今日は実は自分の発表の前にも一仕事ありました。助言講師の某大学教授との対談。内容は「宮澤賢治」でした。私、いつかも書いたとおり、あまりにも自分と重なることの多い賢治に対して、微妙な距離を保ってきていまして、実はあんまり詳しくありません。
 そこで急場しのぎのためにカミさんに助け舟を頼みました。昨夜、東北弁から見た賢治の有名作品の新解釈を伝授してもらったのです。これは面白かった。いつかここにも書こうと思いますが、けっこう革命的な発見だと思います。とりあえず、教授をはじめ、会場にいた人たちにはかなり新鮮(衝撃的)だったようです。
 今回の我が部会の研究主題は「地域に根ざした国語教育」でした。ちなみにこれは私が決めたものです。いろいろな思いをこめて(自分の趣味で)決めさせていただきました。対談での、賢治と山梨、賢治と岩手、賢治と方言というのも、そこからの発想です。
 私の発表は「方言を活用した古典文法指導」。このブログで書いてきたことのまとめみたいなものですね。それなりに面白かったのでは。ある意味私の発表は奇を衒ったようなもの(ま、今まで誰も気づかなかったこととも言えるかな)が多いので、皆さんドン引きしちゃうのか、だいたい質問や意見が出ないんですよねえ(苦笑)。
 どちらかいうと、本題から少しはずれた「センター古文が異様に難しい件」と「活用表を覚えない古典文法勉強法」の方に興味を持たれた先生方が多かったのでは。それらについては4回目の発表で!ww

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2010.09.15

ストーヴ稼働(いつもワガママで不満ばかりの私たち)

18_7_19_56 れほど暑かったのに、いきなりこの寒さは…。
 冷たい雨の中、家に帰ったら、なんとも懐かしいかをり…いやにほひが。この冬(!)初めてストーヴに火が灯りました。
 ストーヴの前を占拠し、はだしの足を温めているのは上の娘。ストーヴにはだしというところが、いかにも夏から冬への季節の移り変わりという雰囲気を醸していますね(って秋はどこへ行った?w)。
 ま、ここ富士山ではストーヴをつけないのは8月だけというのが普通ですから、そんなに驚くことではありません。
 ちなみに2004年は、8月28日に初点火しております。そういう視点からも今年の異常な暑さが確認できますね。
 ちなみに今日の室温は17度だったようです。この季節、だいたい20度を切ると「寒い」と感じるようですね。これが春先になりますと、室温17度あれば「あったかい」と言うに決まっています。
 人間というのは本当にワガママな生き物ですね。暑いと言ったり寒いと言ったり。
 時々思うんですよ。1年の中で、気温や湿度的に全く不快感を覚えない日って何日あるのかなって。暑くもなく寒くもない。ジメジメしていのでもなく、乾燥しすぎているわけでもない。案外そういう日ってないですよね。
 それから、自分の体調もです。なんとなく頭が重いとか、おなかが痛いとか、肩が凝ってるとか、眠いとか、そういうのがあって、本当に体調万全、どこも何も不快感がないという日はないんじゃないかと。
 もちろん、精神的なストレスもですよね。仕事がたまってるとか、あの人のあの言葉が気になっているとか、将来に対する漠然とした不安とか。
 天候や社会状況のような外的な不満の要因と、体調や精神のような内的な不満の要因、全てが存在せず、結果として完璧に満足な日って、人生の中であるんでしょうかね。
 赤ん坊の頃、母親の胸に抱かれている時とか、どうだったんでしょう。残念ながら覚えてないし。死ぬ時とかどうなんでしょう。死ぬ時そういう瞬間を味わえたら最高でしょうね。
 ウチの猫とか、庭の草木とか、あるいはここにドカンと何万年も座っている富士山とかどうなんでしょう。みんな後悔とかないんでしょうか。なさそうですよね。
 もしかして、人間だけが、こうして恒常的にワガママで、不満を抱えてばかりいるのかもしれません。
 お釈迦様はそういうワガママや不満を克服する術を発見しました。「生老病死」などの「苦」を無視したり抑え込んだりするのではなく、まずはそれから逃げられないことを認めた上で、それを感じる、感じてしまう「自己」への執着を捨てることをすすめたのです。
 もちろん私はそんな境地にはなれません。理屈では「なるほど!」と思うことが多いお釈迦様のお言葉ですけれど、実践するとなると、これはもうほとんど無理。わかっていながらできないという新たなる「不満」さえ生んでしまうから困ったものです(苦笑)。
 いずれにせよ、こうしたワガママな不満を解消する、あるいは低減する方向に、私たちの文明は発達してきました。そうした不満の要因への耐性を強めるのではなく、対症療法的に緩和剤を開発し続けたとも言えるでしょう。その結果、一種のオーバードーズ状態になっているような気がします。薬がないと生きていけない、そしてもっと強い薬を求める…。
 温暖化だどうだこうだと言い、灯油が高いだの、原油があと何年でなくなるとか不満や不安を語りつつ、こうしてすぐにストーヴのスイッチを入れてしまう私たちって。
 おい、ストーヴ最初につけたの誰だ?
 は〜い、私で〜す!
と元気よく答えたのは、やはりカミさんでした。
 ちなみにこの人は毎日、不安と不満のない時間を体験しているとのことです。すなわち「寝ている時」。至福の時だそうな。いいなあ、人生の3分の1が満たされているということですか!?ww
 


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2010.09.14

『温水洗浄便座 クリーンウォッシュ SCS-T160』 (東芝)

31necp2yyll_sl500_aa300_ 本の誇る「新・伝統文化」ウォシュレット(温水洗浄暖房便座)。清潔を好む感性、繊細な工作技術の賜物。
 家を建てて結婚してもうすぐ13年になります。当時買いそろえた物たちがそろそろ壊れ始める時期。実際、時々修理しながらごまかして使ってきたいろいろな物が、いくつか限界になってきました。
 自分で修理するのが限界であれば、これはもう買い替えるしかありません。メーカーの保証期間は過ぎているし、修理した方がお金がかかったりもします。また、家電製品の省エネ性能は、ここ10年で数段上がりましたから、買い替えた方が自分にとっても地球にとってもいいということもあり得ます。
 今日紹介する温水洗浄暖房便座は、最近買い替えた物の一つです。これから少しずつそうした物たちを紹介していきたいと思います。私、結構買い物上手ですから、皆さんの参考になることもあろうかと思います。
 家を建てた時に設置してもらったTOTOの暖房便座が、ここ数年水漏れを起こすようになっていました。特に外気温がマイナス10度以下になるような厳寒の季節です。おそらく本体内のパッキンゴムが劣化して、気温が下がると収縮するのか、とにかく微細な亀裂が広がるんでしょうね、ポタッポタッと少しずつですが、水滴が床に落ちるようになっていたのです。
 ま、冬場だけだし、その時はバケツでも置いておいて急場をしのげる状態だったのですが、今年はこの酷暑の中でもポタポタ落ちるようになってしまった。おそらくパッキンの劣化が限界に達しているのでしょう。
 もちろん、パッキンなんか一番交換しやすい部品です。しかし、まず、その洗浄タンクを分解するのが大変でした。というか、分解できませんでした。ケース自体が簡単には分解できない構造なのです。で、あきらめて夏もバケツで古典的な雨漏り対策みたいなことをしていたのですよ。
 調べてみると、こうした温水洗浄暖房便座は7,8年使用するといろいろと不具合が出て来るようでして、だいたい10年が耐用年数の目安だとのこと。まあ13年近く使ったので良しとしよう、それに、節電性能もずいぶんとアップしているようだし、安くていいものがあったら買い替えようと、そういうことになったわけです。
 そして、いろいろ調べて購入したのがこちらのTOSHIBAの製品。1万5千円ちょっとで買えました。ちょうどGoogle AdSenseの小切手160$分が送られてきていたので、頑張って記事を書き続けている自分へのご褒美(?)ということで購入しました。
 交換・取付けはまあだいたい30分くらい。モンキーレンチ一つで完了。簡単なもんです。さっそく使用してみましたが、なかなか快適。全く問題ありませんし、機能的には前の物よりずっと優れています。
 デザインもいいですし、なにしろ昔のものよりコンパクトになりましたので、なんとなく狭いトイレが広く感じられるようになりました。ま、デカいバケツも撤去されましたしね(笑)。
 この製品、価格.comでもけっこう評判が良かったんですよ。このお値段で、脱臭、2段ノズル、赤外線センサー、2種類の節電機能がついていますからね。ワンランク上の製品と同等です。
 10年以上前の製品と比べて、まず驚いたのが「軽さ」です。まあ、こういう製品に「軽さ」はそれほど求められないのかもしれないし、ある意味造りが華奢になっているのかもしれません。でも、なんとなく取付け、取り外しが手軽にできるのをいいなと思いました。なにしろ、前の製品、一度も取り外して掃除したことなかったんで(苦笑)。
 取り付け用のボルトもプラスチック製、また配管ホースも全て樹脂製ということで、これで10年持つのかなと不安になるのも事実。まあ、なんとかなるか。それは交換可能なものですしね。
 取り外した古い便座も、ゆっくり時間をかけて分解し、直して2階で使おうかとも思ったのですが、もう耐用年数を超えてるし、漏水事故なんか起こしても面倒なので廃棄することとしました。
 先ほど書きましたように、この廃棄処分となった旧製品、一度も掃除しませんでした(笑)。よって、取り外してみて、ええと、13年に及ぶ様々な(?)汚れが付着しておりました。このまま捨てるのはちょっと恥ずかしいので、いちおうきれいにしてから持っていってもらおうと思います…って、普通に使ってる時に掃除しろよ!って。なんでゴミになる段になってキレイにするんだ!って(笑)。

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2010.09.13

富士山メロディ・ポイント

 光客にとってはいい思い出になるでしょうけど、これを毎日聞かされる私は正直辛い(笑)。
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、富士山のスバルラインの料金所前の区間に、文部省唱歌「ふじの山」のメロディーが流れるところがあります。
 道路に絶妙な溝を施した舗装がしてあり、タイヤに伝わる振動というか共鳴が音楽として車内に響くというしくみです。
 一般の方は当然、まずは富士山への上り車線を行きますよね。そして、帰りに下り車線。ですから、富士山を行って帰って全曲聴くということになります。基本1回だけね。
 しかし!私はですね、富士山に住んでいて麓の街に通勤していますから、まずは下り車線を行くわけですよ。つまり、唱歌の後半「か〜みなりさ〜ま〜を…」から聴くことになる。
 さらに帰りはある交差点の混雑を避けるために、基本的に違う道を走りますので、結局前半は聴かずじまいになるわけです。
 へえ、そうなんだあ…とお思いの方、実はこれが案外辛いんですよ。もともと「ふじの山」なんて毎日朝から聴きたいとはあんまり思わないじゃないですか。それもいきなり後半というのが、どうにもいかんのですね。音楽的にも属和音から始まるというのがどうにも落ち着かない。妙な不完全燃焼感もありますね。
 ですから、ナイショですが、対向車がない時は右側の車線を走って「危険物」を避けます(前半と後半はそれぞれ違うところにあります。同じところにあるとたしかに音が交錯しちゃいますね)。いやあ、まじで精神にあまりよくないですよ。安全のための回避措置ですから、法律上も問題ないでしょう。
 そうそう、「天の歌」が聞こえてきた時にも、書いたじゃないですか。これって私のような人間にしてみると結構暴力的なんですよ。
 対向車がある時はしかたない、車線の左側ギリギリを走って、片輪はその特殊舗装の部分からはずして、音量を小さくします。そう、両輪の時より、たぶん共鳴が減るんでしょう、半分以下の音量になっている感じがします。
 ところで、これって非常にアナログな構造物ですので、まあ考えようによっちゃ実に懐かしい遊びもできるんですよね。基本、溝のデコボコの振動を増幅しているわけですから、アナログ・レコードと同じしくみじゃないですか。
 つまり、走行スピードがレコードの回転スピードにあたるので、それを変化させると発生音のピッチも変わるわけです。早く走れば、レコードやテープの早回しのように、テンポと音程が上がるわけです。
 いちおう、案内標識には「50キロで走行するとメロディーが鳴ります」的なこと書いてあるんですが、それは制限速度を守らせようとする、ある意味ウソでして、基本何キロで走っても鳴ります。正直50キロだと遅すぎる感じですね。
 当然、メロディーの途中でスピードを上げればピッチとテンポも上がり、スピードを下げれば、あの感じ、アナログ・レコード時代にはよく聴いた「脱力感」を味わうことができます。
 逆に言えば、あの上りや下りで一定のスピードを保つのが、案外難しいのですよね。上の動画も多少揺れがありますでしょ。

 私なんか、もうベテラン中のベテランですから、たとえばこの動画の「ふじの山」を聴いて、ああ「○長調」だから「○キロ」出してるなって分かっちゃいます(笑)。制限速度は守りましょう。
 あと、アナログ・レコードと言えば、やっぱり逆回転ってやつをやりたいじゃないですか。もちろん、それもできますよ。というかやりましたよ。バックしてもいいし、右側通行してもいい(ってめっちゃ危険じゃん…笑)。
 それからですね、この特殊舗装の工事、昨年の夏前にやってたんですけど、あれって、ある音から順に施工していくんですよ。たとえば最初は「ソ」の音だけとか。だから、最初はとびとびに「ソ」の音がするところから始まったんです。で、次に「ミ」とかね。
 「音の鳴る道路の工事をしています」と書いてあったから、何かメロディーが完成するのだろうとは思っていましたが、なにしろ最初のうちは何の曲か全然わからない。その頃は毎日通るのが楽しみでしたよ。クイズみたいなもので。後半で言えば、最初の「レ」なんかを早いうちに施工してくれれば、すぐに分かったんですけどね、実際はそういうわけではありませんでした。
 けっこう難しいクイズでしたよ。たぶん、4音くらい完成したところで、わかったんじゃないでしょうか。それを味わえたのは地元ならではでしょう。
 で、私、思うんですよ。まあたしかにたまに通るにはネタとして秀逸だと思いますから、どうせなら、右と左別々の音程で敷設してですね、2声の曲にしたらどうでしょう。ステレオ効果もあるし、なかなか面白いと思うんですが。左右で微妙に摩擦抵抗が違うと危険なのかなあ、そんな微妙なものじゃないよう気もしますが。
 さて最後に、このメロディ・ポイント、実は無音になることがあるんですよ。ある意味助かる時期がある。それは…雪が降った日とそれからしばらくの間です。雪が積もれば溝は埋まる。除雪をしても溝には氷が入り込んでいますからね、レコードをコーティングした状態になるんです。
 今年もそんな時が来るんでしょうか。こんな陽気だと、なんだか想像できませんね。

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2010.09.12

『キャンプ場プロレス2010 ありがとうドラマチック・ドリーム・チームさらばキャンプ場』 (DDTプロレスリング)

↓大自然の中での見事なフランケン・シュタイナー!あぶねえ…。
20100913_80910 おっ!バカばっか。素晴らしい!命懸けのバカができる大人になりきれない大人たち。
 やるレスラーもバカなら、わざわざ全国から集まるファンもバカ。そして、それを主催する双子もバカ。そしてそして、その双子を育て、毎年観戦している私が一番バカですね!
 忙しいので、こんなバカなことについて、詳しく書いているヒマがありません(笑)。参考までに一昨年昨年の記事をご覧下さい。
 これだけは繰り返させてください。これは間違いなく神事です。今年は花火に加えて、キャンプファイヤー風の炎もありました。私も今年は思いっきり花火を被弾しました。まさに火の洗礼。
 そして山、森、裸の肉体。こだまする歓声、悲鳴、爆音。
 さらに今年は、妖精さん加えて、一種の宗教的イコンとして「ヨシヒコ」という「人形(ひとかた)」まで登場!
 これを「神事」と呼ばずして何と呼ぶ。
 その証拠に、人形ヨシヒコに人間界の宝飯伏幸太が炎の前で完全スリーカウントを奪われ、試合(神事)が終了した途端、大粒の雨が!!龍神様もさぞお喜びのことでしょう!!
 いやあ、大相撲にも見習ってもらいたいですよ。これぞ、まさに「モノ(もののけ)」世界につながるメディアとしての「スポーツ」です。人間の技術的、競技的な自己満足ではなく、自然への感謝、神への畏敬を表現する肉体芸術です。
 おっと、今日の試合内容を記録しておかねば。
4thスレッドタッグマッチ
飯伏幸太&ディック東郷 vs 石井慧介&ヨシヒコ vs 中澤マイケル&マンモス半田 vs 高木三四郎&マッスル坂井
 結果は先ほど書いたように、ヨシヒコが飯伏をフォール。
Gedc1173 写真や動画もたくさん撮ってきましたが、あらためて観てみて、あまりの素晴らしさ(危険さ&バカバカしさ)に戦慄してしまうと同時に、これは「生」で体験しなければ意味がないとの結論に至りまして、試合中のものはほとんど載せないことにしました。いずれ動画サイトなどにアップされることでしょう。怖いもの見たさでご覧になりたい方はお探しください。あえて、つわものどもの夢のあとの静寂をご覧に入れます。
 今回はいちおう最終回だとのこと。教え子である主催者の双子&その弟くんに聞くと、まあいろいろ難しいことがあると。そのとおりでしょう。こちら楽しむ側と主催する側では全く逆のエネルギーを使うイベントだと思います。なにしろ皆さん命懸けなので。
 最終回ということもあってか、とにかく出場選手がものすごかった。あの新日本でのプリンス・デヴィットとの死闘から欠場していた飯伏選手が、ここキャンプ場で復帰!というだけでもすごいことです。だいたいあのケガからの復帰戦が、この危険な自然との闘いですからねえ、なに考えてるんでしょう(笑)。
 そして、もちろん世界最強の人形、いやレスラー「ヨシヒコ」。今回は橋の上から放り投げられたり、こん棒で頭を殴られたり、顔面を火で焼かれたり、まあ散々でしたが、それでも飯伏選手をフォールしてしまうのですから、さすが神がかっています。ちなみに私は初の生ヨシヒコでした。彼、案外重いんですね。
20100913_80751 さらに今回最も私の心を動かしたのは、ディック東郷選手です。もちろんレスラーとしての実力、たたずまい、技の迫力、どれをとっても超一流、まさに世界レベルの彼が、なんでここ山梨の道志村の森の中で戦っているのか…そう考えるだけでも夢のようですね。
 ちなみに、彼のゲリラ然としたたたずまいが、妙に道志の森になじんでいました。さすが陸軍という感じ(?)。かっこよすぎました。
 高木三四郎大社長はじめ、その他の皆さんもお疲れさまでした。特にマッスル坂井選手は妙にお疲れでしたね。お疲れの中、私の着ていた「スネークピットTシャツ」に反応してくださいまして、ありがとうございました。
 というかですねえ、実はお客様が皆さんお帰りになったあとも戦いは続いていたのですよ(笑)。レスラーの皆さん、近くの温泉施設で一風呂浴びたあと帰ってきまして、残っていた花火で戦争おっぱじめてました。特にあの疲れを知らない子どものような飯伏選手のはしゃぎようは、試合以上のものがありました。
Gedc1172 本当に最後に、Sアリーナなどで毎日大変なご活躍をされている三田佐代子さんとヨシヒコ選手のツーショットを撮らせていただきました。
 PS 三田さんのブログにたくさん写真がありました。ぜひご覧ください(こちら)。
 それにしても、今回最終回かと思いきや、飯伏選手による突然の新団体発足宣言。なに?「キャンプ場プロレスリング・オム」?…まじでしょうか。
 教え子たちも大変だと思いますが、やっぱりこうやってみんなに夢を与え、またこういう世の中だからこそやりにくくなっている「神事」をぜひ続けてもらいたいと思います。天才天然の飯伏選手が社長なら実現できるでしょう。
 やっぱり私にとってはこういうのも大切な「プロレス」だなあ。プロレスは実に幅広く奥深い。


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2010.09.11

陽炎が揺れてる

Gedc1084 日は我が中学校でスポーツ交流会が行われました。今年は開校1年目ということで、大々的な体育祭などはできません。それはちょっと寂しいことではありますが、逆に考えれば1年目にしかできないこと、1クラスでしかできないこともあるはずでは…。ということで、担任の先生らのアイデアで急きょこのような会を開催することとなりました。
 生徒と先生、そして保護者が家族的な雰囲気の中、スポーツに汗を流し、そのあと学校の駐車場でバーベキューをするという内容。少人数であることを逆手にとった家族的なイベントですね。
 結果としてとても楽しく充実した時間を過すことができました。いろいろな面で協力して下さった保護者の皆さんには、特に感謝感謝です。
 それにしても今日は暑かった。ここ富士北麓の9月にしては、たしかに異常ですね。最高気温32度くらいでしょうか。31度の室内に入った時に涼しく感じましたからね。特に陽射しの強さは尋常ではありませんでした。さらにアスファルトの上でのBBQですから、もう体感温度は80度くらい(?)。サウナ状態でした。
 こんな陽射しを受けて、街の道々には季節外れの「陽炎」が無数に揺れていました。
 そう、今日スポーツ交流会が行われたのは、フジファブリックの志村正彦くんが生まれ育った場所の、隣の隣にある公園だったのです。それはまた、ウチの中学の隣でもあります。つまり、我が中学校は、まさに彼のふるさとの隣の隣の隣にあるということですね。
 志村くんの残した数々の名曲の中でも、「陽炎」は私にとって特別な存在です。たまたまここに住み、仕事をしているからこそ共有できる「リアル」と、またそれを超えた普遍性を持った「ファンタジー」のバランスがあまりに素晴らしいからです。ある意味「文学」の理想像ですね。
 タイにお住まいの知り合いが、彼の「文学」と「音楽」を世界に広めようと、素晴らしいサイトを運営しておられます。そちらの「陽炎」のページで歌詞を読んでみて下さい。

 Fujifabric International Fan Site(1st Album)

 日比谷野音のライヴ映像も貼っておきます。

Gedc1080 今日、競技の合間に、志村くんが「肩落として帰った」、そして「慌てて家を飛び出して」揺れてる「陽炎」を見たのであろう路地裏に出てみました。この道の先には、彼が少年野球にいそしんだ小学校があります。
 写真では分からないと思いますが、アスファルトのすぐ上には、まさにユラユラと陽炎が揺れていました。なんか私も、暑い陽射しの下、馬鹿みたいに野球に興じていた少年時代の自分に再会したような気がしました。
 志村くんのご両親も、この曲の光景はまさに「ここ」から見たものそのものだとおっしゃっていました。今では隣のノッポくんもいませんし、駄菓子屋もなくなっています。しかし、たしかにそこには「あの人」は「変わらず過して」いるのでした。「あの人」とは、志村くんであり、自分であり、そしてあなたなのかもしれませんね。
 中学1年生たちにとっても、今日のこの陽射しと暑さと陽炎は、一生の思い出になるのでしょう。そこから、こうした「文学」や「音楽」が生まれるといいですね。そういう感性を持った子どもたちであってほしい。
 一方で、そういう部分に、他者である教師がどこまで関われるのか、多少心細く思ったのも事実でした。そこは教育の踏み込めない領域なのかもしれません。いや、踏み込めないからこそ大切な領域なのかもしれませんね。
 天才を育てる教育なんていうものは、実はないのではないでしょうか。揺れる陽炎を背景に、生徒たちの歓声を聞きながら、そんなことを思いました。

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2010.09.10

まつたけ

Gedc1005 田からはるばる家内のご両親がいらっしゃいました。
 カミさんもいつもと違う気合いの入れ方で、山梨の食をふるまいました。ほうとうに馬刺し、鳴沢のキャベツ。秋田で農業をしているお父さんも、おいしいおいしいと言って満足してくれました。
 そしてそして、今日のメイン・ディッシュは…そう、富士山のまつたけです。
 富士山は有名なまつたけの産地なんですよ。地元の人たちは、それぞれの「畑」を持っています。つまり、秘密の松茸狩りの場所を持っているんです。決して他人には教えない、毎年まつたけが採れる場所。
 私は…そういうスポットを知りません。よそから来た人間です。地元民とは言えません。まだまだ異民族なんですよねえ。
 でも、それはそれでいいと思っています。実際に地元の文化に触れると、そんな新参者が、とてもとても偉そうなことは言えない「空気」があるというのが分かります。ですから、逆にこんな短期間でそういう「畑」を持つようにはなりたくないというのも本心なのです。
 しかし、こうして「地元民」の方から、採りたてのまつたけをいただくというレベルにはなってきました。今日は出入りしている植木屋さんが持ってきてくれました。植木屋さんですから、富士山の森のことは全て知り尽くしていると言います。そんな方が「畑」から採ってきたわけです。おいしいに決まっていますよね。
 富士山の「松茸」が生えるのは、実は厳密には「松林」ではありません。このあたり、標高1000メートル付近には赤松の森が広がっていますので、そこでも「松茸」は採れます。しかし、地元の方々が「本物の松茸」と称するのは、実は2000メートル付近のコメツガの根元に生えるまつたけなのです。
 そのコメツガ林で採れた松茸。いやあ立派なまつたけだ…。これをですね、水洗いしないで食べます。多少土が残っているくらいでいいんです。軽く汚れを拭き取るくらい。本当なら採れたその場で焼いて食べるのが最高のぜいたくだそうです。まあ、それはさすがに叶いませんので、こうしてそれに近い形で食べましょう。
 いくつかに刻んで、網の上で焼きます。もうあの芳香が部屋中に広がって、すぐに別世界に連れていかれます。網の上で軽くまつたけが汗をかくくらいまで焼いて、すだち醤油につけて食べます。
 香り、味はもう言うまでもないわけですが、なんといっても、この食感。コリコリシャキシャキしたこの感覚…というか「音」!他の人の口からもその音が聞こえてくるんですよねえ。これがホンモノのまつたけだあ!
 というわけで、大変にぜいたくをさせていただきました。昼間はまだまだ真夏の暑さですが、夜になるとすっかり寒くなります。まさに寒いという言葉がぴったり。すなわちここ富士山には確実に秋が来ているのです。これから富士山はいろいろなキノコのシーズン。今年も全国からたくさんの方がキノコ狩りに来ることでしょう。
 私もいずれ自分の足で自分の「畑」を見つけてみたいものです。もちろん、やたらめったら歩いてもダメです。地元民として認められて、ある程度のヒントを教えてもらえるようにならなければ。そのためには地道に毎日生活していくしかありませんね。

ps 今日は飲みながら、とってもいいことがありました!
 昔から憧れていた某バンドのボーカル&ギター(&作曲)の方と、ひょんなことから電話でお話しできたんです。そして、そして、ついに共演してもらえるかも!?

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2010.09.09

大きな流れに身をまかせて…

↓この変化は小さな流れですかね?
20100910_143030 日は一日東京にいました。全ては書けずともいろいろ感じることあり。
 しっかし、今日は体中が痛かった。水泳の後遺症です。あんな全身運動ウン十年ぶりっていう感じ。東京って田舎よりも確実に歩くじゃないですか。昇降も多いし。
 夕方、一仕事終え、久しぶりに渋谷の人波に呑まれてみました。大きな流れに身をまかせてフラフラと歩いてみたら、道玄坂を上っていく昔の自分に出会ってしまいました。ああ、そう言えば昔よく行ったところがあったっけ。
 帰り、109の前でカルビーの新ポテトチップスが配られていました。田舎じゃありえない宣伝方法だよなあ。私もなんとなく手提げ袋に入ったポテチをもらってしまったのですが、考えてみれば、これからこれを持って歩いて研修に参加し、そして100キロ以上移動して山梨に帰るのも(かなり)なんですので、向こうから来た人にまるで関係者のごとく「どうぞ〜♡」ってな感じで渡しちゃいました。そのカップルは一瞬ためらったものの、やはりタダで食糧を配給してもらえるならという欲気に負けたのか、「どうも〜♡」と声を揃えてもらってくれました(笑)。仲良く食べるのだぞよ。
 今日はですね、東京に出張だったのですよ。
 まず午前中から夕方までは、某有名私立中学校を訪問。ウチと同様まだまだ若い学校です。まずは、なにしろ規模の大きさ、施設・設備のものすごさにビックリ。
 そうだなあ、たぶん、ウチの学校は日本一小さな学校かもしれないなあ。もともと学年の定員が30名だし。敷地面積や建物の床面積ももしかして日本一?
 こちら都会の有名私立中学は、まあグランドからしてスケールが違う。サッカー場に野球場、テニスコートは何面あるのか、という感じ。校舎の中もものすごく明るいオープンスペースばかり。
 たしかに爽快で明るいけれども、そういうのが苦手な子どもはいったいどこにいればいいのやら…と心配されるほどに広々しておりました。
 いろいろと説明を聞いたあと、午後、1年生の教室の様子を拝見しました。いやあ、都会の子どもも田舎の子どもも全く変わりありませんね。伸び伸びとしていて笑顔がかわいい。元気で疲れ知らず、ちょっと失礼なくらい先生に対しても人懐っこい。ウチとなんら変わりありません。ある意味安心しました。
 その後教務関係の話などをうかがいまして、しっかり勉強させていただきました。ワタクシどものような田舎の小さな私学は、もはや、というか最初からライバルではありませんから、こうしてたくさん塩を送ってくださるのです。ありがとうございます。いつかライバルになって恩返しせねば。
 そして、せっかく東京に来たのだからということで、渋谷にくり出したわけです。今日はたまたま夕方からある会合がありまして、そちらに参加することとしました。ここでは、7月に私も講演などさせていただいたのですが、なんと今日の講演者は、あのカリスマ現代文講師出口汪先生と、船井幸雄さんのご子息で船井本社代表取締役社長である船井勝仁さん。ワタクシなどが同列に並ばせていただくのは実にもったいないお二人ですね。
Gedc1003 写真は、それぞれの講演のあと、出口光さん司会のもとお二人が対談していらっしゃるところです。
 いやあ、本当に勉強になりました。自分のことだけでなく、本気で他者のこと、世の中のことを考えておられるお二人の強い強いお言葉に、大いに魂が震えました。それぞれのお言葉についていろいろ語りたいことがありますが、おそらく膨大な量になってしまいますので、これからこのブログの中で小出しにさせていただこうかと思います。
 講演後、皆さんと親睦を深めました。そこでも、特に汪さんからは教育について実に壮大なお話をうかがいました。私のような者がそのような大事業にかかわれるなんて、それこそもったいない話ですね。
 そのあとも、私の短歌の師匠笹公人さんや、憧れの音楽家小久保隆さんらと、大いにスケールの大きな話で盛り上がりました。ふむふむ、言葉と音楽の関係、そして、そこに関わる心と魂の関係はやはり面白い。詳しい内容は…しばらくナイショです(笑)。
 もうこうなったら、この大きな流れに身をまかせて生きていこうと思います。その中で自分の役割はなんなのか。それは流されているうちに解るのかもしれません。
 ここのところのブログ記事、今日のいろいろな話の内容にもありましたとおり、この世の本体は、実は五感でとらえることができるコトではなく、その他のモノの方です。少なくとも自分というちっちゃなコトではありませんね。私もそろそろちっちゃな世界へのこだわりを捨てて、大海の、いや大宇宙の流れに身をゆだねてみたいと思っています。そうすると、案外自分の本当の姿や、人生の目的が見えてくるかもしれません。そう期待しています。

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2010.09.08

サラリーマンNEO 100回突破記念スペシャル part2 (NHK)

20100909_63606 々のNEOネタです。ある意味昨日の続き。霊性の問題だな、こりゃ。
 今年はどうも見逃すことが多いNEO。木曜日の10時55分というのがいかんのだと思います。
 最も曜日感覚が希薄、かつ疲れもたまって眠くなるのも早い木曜日ですから。
 そう、私、昔から木曜日が苦手なんですよ。なんでだろ。週の真ん中だからかなあ。週末までまだ遠い感じだからかなあ。金曜日は多少きつくてもなんとか乗り越えちゃうんですよね。明日土曜日だ!って思えば。
 うん、今日も水泳の授業で中学生と思いっきり泳いできたんですけど、25メートル泳ぐにしてもですね、やっぱり15メートルくらいが一番きついじゃないですか。20メートルになると、あとちょっとと思うから頑張れますよね。それと同じか。木曜日は15メートル付近か。月曜日始まりとして考えると、たしかに25÷7×4=14.2857だな。
 というわけで、先週のスペシャル2も見忘れちゃいまして、一昨日の再放送を録画いたしました。そして、今日観たと、そういうわけです。
 さすが100回突破記念スペシャルということで、大泉洋さん、伊東四朗さん、そして美輪明宏さんが登場。みごとNEOワールドに溶け込んでおりました。
 特に美輪明宏さんをゲストに迎えた「私とNEO」は出色でしたね。
 かなり現世的な内田有紀さんと、十二分に来世的、いや前世的な美輪明宏さまが、絶妙な掛け合いを見せてくれました。そこになぜか観音様も乱入。なんでも極楽も不景気だとか。観音様もお不動様も大変だと。で、観音様もウエイトレスのバイトをしているのだとか…観音様に対してそんなこと言えるの美輪さんくらいですよねえ(笑)。
 美輪さん、なんだか立派なこと言ってるようですが、実はどうでもいいことばっかりですね(笑)。だけど、あのオーラがあると、なんだか言葉に重みが加わるんですよ。これって、ほら、昨日の「行間」の話の逆じゃないですか。言葉にあらわせないモノではなく、モノが言葉に意味を与えているわけでしょ。面白いですね。
 案外宗教的な言葉、すなわち一般に「言霊」と言われるものは、こういうものなのかもしれませんね。言葉自体には実は意味がなくても、そういったモノを感じる人にとっては、特別な意味が生まれてしまう。たいがい信者以外からすると、教組の言葉なんて、全然ありがたくないことが多いじゃないですか。
 美輪さんは当然そのあたりのことを分かっていて、そういう現象のパロディーとして、ああいう演技をしたのでしょう。そこがさすがなところですし、「オーラの泉」やあのCMをネタにしてセルフ・パロディーもやっちゃうところもすごいですね。NEOにぴったりです。
 一方、さりげなく本質的なことも言っていましたね。寺山修司の名前を出して、「王道をふまえた上で、それを崩して崩して新しくしていくと面白い」ですと。これは現代文化に対するガチな批判ですよ。こういうですね、まじめとおふざけ、すなわちリアルとフィクション、つまりこの世とあの世(いや、その逆か?)を行ったきり来たりできるのが、美輪さんの尊敬すべきところです。まさに本来のメディア(ミーディアム)の役割を果たしていますね。
 ううむ、こういうオーラって、結局は経験や実績という「コト」が生み出すのかもしれないなあ。やっぱり「コト」をきわめて「モノ」に至る、ですな。
 今年のサラリーマンNEOももうすぐ終わります。毎年のことですけれど、NEOが終わると「これから冬が来るなあ」と思います。こういう感覚というのも、「コト」が生み出す「モノ」の一つかもしれませんね。
 おっと、明日木曜日だ。録画の予約を忘れないようにしないと。

サラリーマンNEO公式

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2010.09.07

『現代霊性論』 内田樹・釈徹宗 (講談社)

06215954 「問学問」の録画を観ていたら、太田さんがまたおもしろいことを言っていました。
 生物言語学の岡ノ谷一夫さんの回だったのですが、言葉で表現できない領域の話になって、向田邦子さんの遺書の「行間」のことや、音楽と「沈黙」のことを彼が熱く語りました。そっちの方が本質ではないかと。
 私の「モノ・コト論」から言いますと、「言語」や「音楽」は「コト」世界に属します。一方、「行間」や音楽の背景たる「沈黙」は「モノ」世界になります。メディアの管理化にあるのが「コト」であり、その外部が「モノ」なのです。
 そして、この本における「霊性」という言葉は「モノ」そのものという気がしました。実際本書の中で内田先生は「説明できないけれどリアルなもの」という表現を使っています。釈先生も、宗教の特徴として「この世界の外部を設定する」と述べています。
 私はこの歳になって、ようやく我々人間の、特に近・現代人の「コト」世界の呪縛から自由になりつつあります。
 私も学校というところで散々「コト」を勉強し、また、教員になってからはそれを教え、社会の中で「シゴト」しながら、基本的に「モノ」を幽閉する、あるいは無視する生活を送ってきたわけですね。
 しかし、どうもそれだけでは何か落ち着かない。たぶん、自分たちを安心させるための「コト」社会のはずが、逆に自分に不安を与えているということに気づき始めたんですね。
 もともと、霊的な世界(生徒が一番喜ぶ「幽霊」の話や、予言の話や、占いの話など)が得意な方でしたが、そういう、いわば準「コト」化された「モノ」世界ではなく、本当に「コトワケ」されていない「モノ」本体の存在を強く感じるようになったのは、実は最近のことです。
 もろちん、この本にも数回出て来る、出口王仁三郎の世界に出会ったのも大きなきっかけでありますし、音楽を通じて、理論や知識や言語を超えた感動や共感をたくさん味わってきたのも、その契機となっているでしょう。
 太田さんの言うように、五感では認知できない「何か」が本体であるという予感が、たしかに私たちにはあるのです。
 現代における霊性のあり方というのは、まさに、そうした「何か」、「モノ」世界とのつきあい方だと思うんですよね。それがとっても難しいわけです。なにしろ、現代は「コト」こそが「真実=マコト」ということになっていますから。
 ちょっとアヤシイ話をすると、すぐに科学や論理や法や常識を盾に反論されてしまい、議論はかみ合わなくなります。あるいは白い目で見られておしまい。
 実際、私だってこういう話は教室ではやりませんよ。昔は教室を静かにさせるために、よくやりましたが(笑)。さすがに今の立場になってからは、あんまり露骨に話しません。不適格教員のレッテルは貼られてしまうからです。
 それでも、まだいいですよね。ウチは仏教(禅宗)系の学校ですから、ある意味それを矛にして語ることはできる。言葉で説明できないというのが禅の基本ですので。しかし、当然限界はあります。
 でも、どうなんでしょうか、それこそ、こういう「コト」だけを認めるような逼塞した世の中を作ったのは、近代教育だとも言えないでしょうか。そこに自分は矛盾を抱えて毎日「シゴト」しつつ、ちょっぴり「モノガタリ」しているわけです。
 学校というところは、ある意味では生徒に「メディア」を与える場所です。ものすごくたくさんの言葉や記号でもってして、世の中のというか、人間のルールを教えこんでいくところです。
 しかし、考えてみれば、本来の「メディア」とは、音楽がそうであるように、我々が、自らの背景にある「モノ」世界とつながるための媒介であるべきです。人間の為す「コト」は内側に向かうのではなく、本来は外部に向かっていくべきなのではないでしょうか。
 そうした姿勢や考え方こそが、「現代」における「霊性」のあり方であると、この「現代霊性論」を読んで深く再確認したのでした。そういうきっかけを与えてくれる良書です。一読をおススメします。

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2010.09.06

追悼 マイク・エドワーズ(元ELO)

 きだったバンドのメンバーが亡くなるというのは、なんとも哀しいことです。
 私の人生を変えたバンド、エレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO)の初期メンバーだった、チェリストのマイク・エドワーズ氏が、不慮の事故でお亡くなりになりました。なんでも、車の運転中、空から600キロもの干し草が降ってきたのだとか。そんなこと本人はもちろん、誰も予想しなかったことでしょう。いったいどういう状況だったのでしょうか。
 フジファブリックの志村くんの時はもちろん、ビートルズのジョン・レノンやジョージ・ハリスン、ELOで言えばケリー・グロウカットの時も、ああもうあのバンドはあの形ではお目にかかれないのだなという、なんとも言えない気持ちになったのを思い出します。
 もろちん個人の死というのもどうしようもなく哀しいのですが、たとえば解散したバンドであれば、もうオリジナル・メンバーでの再結成はないのだなという、一種独特な落胆がありますね。
 上の映像は1973年の「Roll Over Beethoven」です。マイクの笑顔がかわいいですね(チェロのヒゲの方です)。人のチェロ弾き出すし(笑)。我々弦楽器奏者なら必ずやるいたずらです。
 次は1974年の「Daybreaker」です。中学1年生の時、この曲を聴いて衝撃を受けたのを思い出します。今聴いても、本当にすごい曲ですな。これはロックなのか!?かっこいい。

 世の、中1のご多分にもれずバンドをやりたかった私、周りがみんなギターやベースやドラムスをやっていたので、自分はキーボードかストリングスをやろうと決断しました。そして、なんとなくヴァイオリンを始めて今に至る…。
 そういう意味で本当に私の人生に大きな影響を与えた一人が亡くなってしまいました。彼は仏教徒になるために1975年にELOを脱退しました。その後の生活については、ほとんど情報がありませんでした。
 こういう事故のことを思うと、「世の中神も仏もないじゃないか」と叫びたくなりますね。ご冥福をお祈りします。そして、ありがとうございました。

Amazon ベリー・ベスト・オブ・ELO

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2010.09.05

遼くん優勝!…ゴルフという球技

342741_c450 川遼プレーオフ4ホールで高校の先輩薗田峻輔を振りきる。
 すごい勝負でしたね。こういう若くて実力のある選手を育ててきた競技は前途洋々です。女子もいいしなあ。ほかのスポーツも大いに見習うべきでしょう。
 この感動の勝利の現場、富士桜カントリー倶楽部は本当にご近所です。遼くんも以前から我が家の近くでよく練習しております。何度かお見かけしました。
 私はそのフジサンケイクラシックのギャラリーの車列とすれ違いながら東京に行っておりました。秋のコンサートの練習だったのですが、演奏しながら部屋のテレビに映る「近所」の映像が気になってしかたがありませんでした。おかげで音はずしまくり。なんて遼くんのせいにしちゃいかんな(笑)。
 昨日のパチンコと同様、私はゴルフも最近していません。基本的に両方とも世の中年男性の代表的趣味ですよね。しかし、両方とも「日曜日」などの休日がその活動の中心になるじゃないですか。私はだいたいそれらは音楽に費やされてしまうので、まあやりたくてもできないという事情もあります。
 よく言われるんですよね。ウチの周りには有名なゴルフ場がたくさんありますから。実にもったいないと。
 たしかにシーズンオフや時間帯によっては富士桜だって格安で利用できたりします。そういう趣味を持っていたら、たしかにぜいたくできますね。実際、私の周辺の皆さんの約半数は、ゴルフのための宿泊施設とて自らの別荘を利用しているように見えます。お隣さんも、いつも私の出勤と同時に、ゴルフ場へ出勤していきます。
 ゴルフって非常に特殊な球技です。完全なる個人競技、すなわち、ボールが他者のプレーの影響を受けないのは、ええと、たぶんゴルフとボウリングだけだと思います(メジャーどころでは)。しかし、結果(得点)は他者との競争になりますから、両競技とも組んだ相手や、その他の組の選手の結果がメンタル面に影響を及ぼします。
 そういう意味では、ゴルフもボウリングも、基本自己との戦い、自分の精神の安定をいかに保つかの球技であると言えます。
 私はボウリングは比較的得意です。ボウリングは年に一回くらいしかやらないけれども、この前も200超えたりしました。ゴルフも同様です。年に一回やったとすると、だいたい200をオーバーします(笑)。
 すなわち、ボウリングは常にある程度一定の環境で、同じ動作を繰り返せばよく、プロになるのでもなければ、その数十のパターンを記憶していれば、なんとか体面を保てるんですね。また、そういうある程度の技術の記憶があれば、精神的な安心も得られます。
 しかし、ゴルフはほとんど無限に近いバリエーションのシチュエーションでの判断力や技術力が問われますから、それなりの経験、すなわち「練習」が必要となります。
 もちろん、ゴルフのボールはとても小さく、またクラブも長く細く打面も小さいので、単純にまっすぐ打つのすら難しいという側面もあります。大きなボールを自らの手で転がすのとはかなり違う。そういう意味でも「練習」や「試合」を重ねなければならないと言えますね。
 そんなわけで、私は残念ながら今ゴルフを楽しめる状況にありません。いや、その気になればいくらでも「練習」や「試合」ができるはずなんですけどね。どうも苦手意識があるんでしょうか。今までおそらく十数回はラウンドしたことがあると思うんですが、なんか一緒の組の人やキャディさんに申し訳なくて、それでトラウマになってるんでしょうか(笑)。
 ま、環境が環境ですから、そのうち突然目覚めるかもしれません。それまでは、昨日のパチンコと同じく、iPhoneのゲーム・アプリでイメージ・トレーニングしておきます。

レッツ!ゴルフ

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2010.09.04

『Pachinko(パチンコ)』 (iPhone・iPadアプリ)

Mzlxlziaezc320x48075 日はちょっと息抜きネタを。
 午前中中学の見学会、午後は娘たちの小学校の運動会と、なんとなく忙しかったので、家に帰ってからはこのアプリをボーッとやりながら居眠りなどしてグータラしました。
 これはいわゆる手打ち式の、昔懐かしいタイプのパチンコを再現したアプリです。ものすごくよくできています。
 玉の動き、レバーの動き、大当たりの出具合なんか、かなりリアルだと思います。玉がつまったり、引っかかったりするところも。
 そして、なんと言っても、SEですね。音が素晴らしくリアルです。と思ったら、なんと実機からサンプリングしたとのこと。レバーの操作音、玉の発射音、釘に当たる音、ガラスに当たる音、出玉の音、かなりのこだわりを感じます。これってアメリカ人が作ったアプリなんですね。面白いアメリカ人がいるもんだ。
 これが115円で半永久的に遊べるわけですから、まあいい時代になりましたね。
 少年の頃、雑誌の裏表紙の広告にあったパチンコ台に憧れを持ったものでした。自宅でやってみたかったんですよね。もちろん、子どもですから基本店ではできなかったわけですが、たまに大人に連れていってもらって、何発か打たせてもらったりして、超ウキウキワクワクしたものです。早く大人になりたい!って思いましたね。
 そして、たまに町の片隅に古い台が捨てられてたりして、それを友だちと回収してきて、空き地にあった基地に持ち込んで親に内緒でやったりしました。あの頃って、なぜかパチンコ玉もそのへんに落ちてたんですよね。たぶん百個単位で集めてたと思います。それを使ってみんなで遊びました。
 今の私はパチンコはやりません。もう20年くらいパチンコ屋に行ってないような気がします。いわゆる電動(自動射出機構)になってからはどうも魅力がなくなってしまった。そして、CRなどの確変を伴う射幸心をあおる機種が主流になってからは、その自らの射幸心の馬鹿らしさがいやになって、ほとんど通わなくなってしまいました。
 パチンコの文化もずいぶんと変わってしまいましたね。今では文化というより、単なる産業になってしまった感じがします。そのあたりのことについては、以前「パチンコの経済学」という記事の中で少しグチりました。
 ま、いくら懐古しても、なかなか手打ち式のパチンコを本格的に楽しめる環境がなかったんですね。しかし、こうしてデジタルなハイテクのおかげで、ずいぶんとリアルに再体験できるようになった。実に喜ばしいことです。
 もちろん、iPhoneでやるということは、あの大きな台が手のひらにおさまるということですから、そういう意味でのリアル感はないはずです。しかし、不思議なもので、集中していると、そういう「サイズ」という概念は希薄になっていくんですよね。これは人間の感覚の特徴の一つです。写真やテレビやYouTubeの映像なんかを見る自分のことを考えても分かりますよね。人間の中の縮尺は案外いいかげんなもののようです。
 それでも、このアプリ、iPadでプレイしてみたくなりますね。レバーの操作、微妙な調整がもうちょっと繊細にできそうです。
 そう、私まだiPad触ってないんですよ〜。校長先生が買ったらしいので、今度パチンコやらせてもらおうかな(笑)。

ps ちなみに私のハイスコアは出玉5で、現在3895です。

iTunes Pachinko(パチンコ)

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2010.09.03

(悪玉)コレステロールが高いほど長寿!?

Pk2010090302100066_size0 の言ったことが学会で証明される!?
 ニュースにもなっていたので、皆さんもご存知と思いますが、今日、脂質栄養学会さんが「コレステロールが高いほどガンや感染症にかかりにくく、結果として長寿」という発表をしたそうです。
 ふむふむ、日本動脈硬化学会に真っ向勝負を挑んだわけですね。
 両学会の対決は面白そうですね。「油は栄養」と言ってアブラを神と信奉する教団と、「油こそ病気の原因」としてアブラを悪魔とする教団どうしですから、そりゃあ正面からぶつかりますよね(笑)。
 私はアブラ教の方に属していますので、今回の発表には「そうだ!そうだ!アブラカダブラ!」と大喜びしているわけです。
 何度も書いているとおり、私は一日一食を6年以上続けています。6年ですから2000日以上になります。夕食だけ食べますから、毎日がラマダーンみたいなものです。それで、すっかり元気で健康で活動的で、ついでに幸福になりました。
 ただ一つ困ったことがあったのが、このコレステロールの値だったのです。冒頭に引用した記事にも書いたとおり、血液検査をすると「総コレステロール値」と「悪玉コレステロール値」が必ず異常域に入ってしまい、「薬をのむ、病院へ行く、そんな当たり前のことを、あなたにしてほしい」という実にお節介な書類が来たりするんです。もちろん無視しますが。
 ついでに食事内容に関する余計なお世話もあったりするわけですが、これ以上どうやって粗食にせよというのでしょう。
 この夏は一日一食でも太ってしまうという奇跡を起こしてしまったので、何度か完全なる断食をして調整をしました。今はおかげで理想体重をキープしています。だいたい一日一食の一食を抜くと、2キロは体重を落とせます。そういう意味では、体重の調整なんてお手の物です。自由自在に操れますよ。
 今回の脂質栄養学会の発表によると、悪玉を含むコレステロール値が高いと、たしかに心疾患は増えるが、その他の病気、たとえばガンや感染症にはかかりにくく、結果として長寿になることが多いということです。
 日本動脈硬化学会さんの言い分だと、とにかく動脈硬化が悪い、心筋梗塞や脳梗塞で死ぬことになるぞ、という感じでした。たしかにそのような病気で突然死んでしまうことは恐ろしいことではあります。
 しかし、考えようによっては、そうした血管詰まる系の病気で死んだ方が、自分にとっても他人にとっても幸せであるとも言えますよね。ガンや感染症で長い闘病生活をして、まあ長いこと苦しんで、家族にも多大な負担をかけて死んで行くのは、正直私はイヤです。薬づけにもなりたくありません。
 まあ、これはあくまでも私の個人的な意見ですから、皆さんに押し付けるべきものではないと思いますが、たとえば、そういうふうに考えて、自分なりの健康観や病気観、人生観を持つのは悪いことではないでしょう。製薬会社や医療機関や政府が誘導する人生設計に乗っかっていることに気づくことも必要です。
 最近の「とにかく水をガブガブ飲みましょう」的な風潮にも、私は疑問を感じます。絶対に弊害もあります。日本だからそういう言い方できるんですよね。私は体質的に水分もあまり補給せずに生活できます。夏でも一滴も水分を摂らない日があるくらいです。まさにサウムですな。
 やっぱり、それぞれの「健康観」というのを、人の意見を鵜呑みにするのではなく、自分自身の体や心と相談して決定していくべきだと思うんですよね。
 皆さんもこれを機にぜひ、自分に合った自分独自の健康法、そして「死に方観」を考えてみてください。命に関することです。人の意見を無闇に信用する前に、自分の実感を信じてみるべきでしょう。

日本脂質栄養学会

日本動脈硬化学会

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2010.09.02

『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』 カーマイン・ガロ (著), 外村仁 (解説), 井口耕二 (翻訳) (日経BP社)

人々を惹きつける18の法則
82224816 型iPodが発表されました。今日はこの本を読もうと思っていたので、ナイスすぎるタイミングにびっくり。
 今回もまた、ジョブズのプレゼンは魅力的だったようです。誰もが認める彼の「驚異のプレゼン」の秘密がつまったこの本、たしかにとってもためになりました。
 400ページ近くある大著なのですが、一気に読んでしまった。ジョブズのプレゼンも驚異ならば、それを分析して示したこの本も充分驚異的。
 ジョブズ流のプレゼン術からしますと、この本はちょっと内容が膨大すぎるのかもしれません。しかし、あの極度にシンプルなジョブズのプレゼンには、実はこれだけの中身や智恵やアイデアや技術が詰まっていると考えれば、このようなボリュームになるのは当然と言えば当然ですし、逆にそれだからこそ、彼のプレゼンは人の心を動かすことができるのでしょう。
 プレゼンテーションは、まさに「提示」することであり、「贈り物」であり、そして「表現」であります。そういう意味では、これは、いわゆるビジネスシーンでのプレゼンにとどまることなく、世の中の全ての表現行為や伝達行為にも通ずる極意であるとも言えます。
 たとえば、私でいうなら、授業や、演奏や、講演や、日常のコミュニケーション、そしてこのブログ執筆の極意であるわけです。
 そう、私はこうして語りすぎる(騙りすぎる)ところがあるんですよねえ。長いし、いろいろ言いすぎて、結局要点がつかめない。自分でも何が要点かわからなくなってしまうことが多々あります。
 ジョブズは禅の勉強をしていると言います。その一つの成果、体現の形が、彼のシンプルを極めたプレゼンということになるようです。私もいちおう野狐禅をやってますが、全く活かされていませんね(苦笑)。
96958a9c93819499e2e0e2e38a8de2e0e2e たとえば、三つに絞られたメッセージ(3点ルール)。人は三つ以上のメッセージは受けとれないと言います。なるほど、そうかもしれない。私なんか、昨年のこの中学の開設プレゼンで、数十もの箇条書きを提示してしまいました。おお、恥ずかしい。彼は箇条書きは一切やらないらしい。
 メタファーとアナロジー、デモ、敵役と正義の味方…なるほど、全ての表現に必要なものばかり。
 そして、なんと言っても、メッセージの奥にある「あなたの生活、あるいは世界をこう変えます」という強い意志。ただ商品を紹介するわけではない。
 授業で言えば、ただ教材を教えるのではない。その先にある「あなたや世界がこう変わる」「あなたや世界をこう変える」がないと、なんの感動もないし、生徒をひきつけることができない。たしかにそこまで考えて教えてなかったなあ…。
 プロレスなんかも、まさにこれですよね。ただ技や勝敗を見せるのではない。観ている人の人生を変えるほどの、何か強い信念や魂がないとダメです。音楽も全く同じ。
 「宇宙に衝撃を与えることが僕らの仕事だ」…こんなこと思って仕事している人、どのくらいいるのでしょうか。しかし、結局はそこが彼やApple社の魅力につながっているんでしょうね。些末な技術論ではないのです。
 あるいはこの本でも示されている「デザイン」という言葉の意味。私たちもある意味デザイナーにならなければいけないのだなと思いました。生活を、社会を、世界を、そして宇宙をデザインするのか。
96958a9c93819499e2e0e2e38a8de2e0e_2 アイコンタクト、開いた姿勢、手ぶり、抑揚、変化、間。そして、1に練習、2に練習、3、4がなくて5に練習。台本を捨てる。自然に楽しめるレベルまで、とにかく練習。
 当たり前ですが、なかなかできないことばかりですね。私なんか、アドリブ力とかハッタリ力と言って、練習しないで臨むのを売りにしているくらいですから、まあひどいものです(苦笑)。
 ジョブズのすごさは、もちろん、台本どおり行かなかった時にも発揮されます。アクシデントをもプラスに転換してしまう本当のアドリブ力。これもまた、音楽やプロレスの名人にも通じていますよね。
 ううむ、再来週には研修での発表が、その次の週には募集説明会でのプレゼンが控えています。演奏会もたくさんありますし、なにしろ毎日授業があります。
 この本を読んだからには、今までとちょっと違う表現をしなければなりませんね。はたして私は、真にクールなプレゼンができるのでしょうか!?
 まずは、YouTubeでジョブズのプレゼンを改めて観てみようっと。
 もちろん彼のマネをしようとしてもダメですよね。たとえば、いきなり黒のタートルネックにジーパンで登場するとか(笑)。

Amazon スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン

楽天ブックス スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン

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2010.09.01

初代若乃花逝く…「命懸け」とは

鬼の目に泪
Mrt1009011928003p19 軍曹に続いて、土俵の鬼もこの世を去ってしまいました。また昭和は遠くなっていきます。
 もちろんしかたがないこととはいえ、やはり寂しいものです。
 両鬼、花田勝治さんと山本小鉄さんには共通点があります。それは「力道山にかわいがられた」ということです。もちろん、この場合の「かわいがられた」はダブルミーニング。鬼が鬼を生んだわけです。
 若乃花は二所ノ関部屋で先輩力士力道山に思いっきりかわいがられました。命の危険を感じるほどの猛烈な稽古をつけられたと言います。しかし、それがあの脅威の瞬発力や粘り腰を生んだわけで、後年、恐ろしすぎた鬼先輩に対して感謝の気持ちを表しています。
 そう、有名な逸話がありますね。力道山のあまりの厳しいかわいがりに、それこそ生命の危険を感じた若乃花は、思わず力道山のすねに噛みついてその場を逃げ出しました。その時の傷(歯形?)を隠すために、プロレスラー力道山は、あの黒のロングタイツを履いたそうです。まあ、世界最強の「すねかじり」ですな(笑)。
 一方、山本小鉄さんは、プロレスラー力道山の最後の弟子。アントニオ猪木さんに対する異常な「かわいがり」ほどではありませんが、充分に厳しく育てられたようです。それが、のちの新日本プロレスの道場の空気を作り出していったわけです。
 このように両者には力道山の「かわいがり」のゲノムが流れていたわけですね。そのお二人がほぼ同時にこの世を去ってしまい、その遺伝子がはたして正しく伝承されていくのか、相撲界、プロレス界ともに少々心配であります。
 まあ、なまぬるい人生を送っている私がそんなことを言う立場ではないこともわかりますが、こうした闘いの世界だけでなく、世の中全体から古き良き「無理」がなくなっているような気がするのも事実です。
 もちろん命は大切にしなければなりませんが、だからと言って、それを単なる壊れ物のように丁重に扱うだけでは、その命自身の価値も下がりこそすれ上がりはしないと思うのです。子育てや教育と一緒です。
 ある意味「命懸け」なこと、「生命の危険を感じる」ことのみが、その命自身を鍛え上げるとも言えそうです。人は命を懸けると「鬼」になるのです。

 上の「栃若時代」の映像を観てください。同じ大相撲とは思えないほどに激しく高度な戦いが展開されています。筋肉の付き方も違うし、肉体の動きや形(姿勢)も違います。これはもちろんプロレスにも言えることですね。
 このように目に見える部分だけでなく、私たちの「命」や「魂」という見えないものも、すっかりその形を変えてしまったのではないでしょうか。
 はたして今の自分は「命懸け」で生きているでしょうか。「命」を懸けないで「命」を生きているということは、卑近な言い方をすると、「お金を使わないでただ貯め込んでいる」のと同じ状態なのかもしれません。
 私もずいぶん命の貯蓄ができてしまいましたから、そろそろ真剣に世のため人のため自分のために使おうかと思っています。早く人を卒業して鬼になりたいものです。
 あらためて、両鬼、そしてその親鬼に敬意を表しつつ、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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