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2010.08.31

『なぜ、「できる人」は「できる人」を育てられないのか?』 吉田典生 (日本実業出版社)

53404623 場の後輩が貸してくれました。これを貸してくれた意味はいかなるものなのでしょうか。はたして、どのようなメッセージを受けとれば良いのか(笑)。
 まず、前提として、私が「できる人」なのかどうかが問題であります。私なりの正直な答えはこうです。
 私は「できる人」でもあり、「できない人」でもある。
 な〜んだ、と思われる方も多いかもしれませんが、だって実際皆さんそうでしょう。得意なものと不得意なものがありますよね。たとえば、私はこうしてブログを毎日書き続けることは実際「できる」わけですが、マージャンやゴルフはほとんど「できない」。それから、一つのことをとっても、たとえばヴァイオリンを弾くことが「できる」とも言えるけれども、ツィゴイネルワイゼンを弾くことは「できない」わけです。ま、そういうことです。
 「できる」「できない」のデジタル的な思考からして、この本には抵抗がありました。もちろん、そうしないとこの時代本を売ることは「できない」のですが。
 そういう多様な世の中の事象の中で、この本は主にビジネスシーンにおける「できる」「できない」を扱っています。その範疇に関しても、私という人間はやっぱり「できる」とも「できない」とも言える、いや言えないでしょう。なにしろ学校のセンセイという特殊な職業をしていますので。一般企業の論理とはかなり離れたところにありますから。
 じゃあ、学校のセンセイとしてどうかというと、まあそれもやっぱりできたりできなかったりでしょう。結構得意な分野もありますが、正直四半世紀近くやっていながらいまだに苦手な分野もあります。
 まあ、組織というのはそういう多様な「できる」「できない」の集合体である方が健全で平和だと思いますよ。みんなが全ての分野で「できる人」になったら、なんか大変そうです。
 先に結論を言ってしまいますが、私としては、それぞれの分野で「できる人」が「できない人」の分まで、嬉々として仕事をすればいいと思っていますし、「できない人」は「できる人」に嬉々として仕事を任せてしまえばいいと思うのです。実際私はそうしていますし、それが案外お互いにとってストレスレスです。「できる人」は達成感や優越感を感じられますし、「できない人」は楽できますから、お互い幸せです(笑)。
 ある意味、なんでも公平にとか、ギブアンドテイクでとか、つまり経済の理屈に縛られて思考・行動するから疲れるんですよ。私はそう思います。
 その他、この本の内容、そして有用性、無用性については、いろいろな方のレビューの通りですので、私は繰り返しません。
 今日はワタクシ流に「できる」という言葉の解釈をしてみたいと思います。だいたいこういうことは得意なんですよ。変な視点からアマノジャク的な論を展開することは「できる」。
 「できる」って「出来る」じゃないですか。つまり、おおもとは「いでく」という動詞だったわけです。今風に言えば「出て来る」ということです。
 いつかも書いたとおり、日本語の可能表現を考察してみますと、日本人の「可能観」というのは、西洋などのそれとはだいぶ違うことが分かります。すなわち、それを実現するアビリティーがあるという感覚ではなく、何ものか自分の意志を超えたところにある大きな力のおかげで達成できたという感じなんですよね。
 つまり、「〜を(操作して)出す」という他動詞的感覚ではなく、「〜が(勝手に)出て来る」という自動詞的な感じなんです。ワタクシの「モノ・コト論」で言うなら、自分の内部(脳内)で処理された「コト」よりも、外部(不随意)の「モノ」を重視するこということです。そこが現代生活においても大切だと思うんです。
 すなわち、私にとっての「できる」とは、その「できる」分野に関しては、他者の力をうまく利用することができているということを表しているのです。
 たとえば、今こうしてブログの記事を書いているじゃないですか。これってなんの構想もなしにいきなり書き始めて、書き下ろしているわけですよ。自分が書いているというより、流れにまかせ、湧いてくるものをただつかえまて、「文字」として固定しているという感じなんです。そこには案外「自分」が存在しない。だから、翌日には何を書いたか忘れていたりするんですね。
 いわゆる自動書記でしょうか。ある種のトランス状態になっていて、自分がメディアになっていて、誰か他者のシグナルを受け取っているという方が、より実際に近いと思うんです。
 禅的に言うなら、「無我」や「不二」なのでしょうか。他者と一体になった時こそ、勝手に「出で来る」わけです。私にとっては、それが「できる」そのものなのです。
 逆に言えば、「できない人」は、自分へのこだわりが強すぎて、なんらかの他者の力を借りられない状況に陥っていると思うのです。自分が自分がと思えば思うほどに、その悪循環からは解脱できません。
 だから、そういう領域に関しては、この本のようにある種のマニュアル化された「技術」はほとんど利益がありません。経済システムに取り込まれた「ビジネス」という狭い領域に特化しているわけですし。
 というわけで、本当の意味での「できる」人になるためにはどうすればいいか。それをマニュアル化することは「できない」かもしれません。いや、「できる」かもしれない。それを達成するためにも、結局私は他者の力をどんどん借りねばなりません。なんとなくですが、そういう意味で「できる人」になるのが、私の人生の目標であるような気もします。修行します(笑)。

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2010.08.30

『連句遊戯』 笹公人・和田誠 (白水社)

56008079 夜 MUSIC ON! TV で放映された「フジファブリック presents フジフジ富士Q」をじっくり観ました。
 当日会場で感じたように、どの曲もそれぞれのアーティストに提供されたかのように輝いていました。つくづく志村正彦は天才であったと再確認させられました。
 名曲ぞろいのフジファブリックの中で、1曲だけ選ぶとすれば(それは非常に難しいことですが)、私は、そうですねえ、やっぱりいろいろな理由で「陽炎」でしょうか。
 そういう思い入れのある曲は、ふつうカバーされると、ちょっと苦しくなるものですが、今回の和田唱さん(トライセラトップス)の「陽炎」は実に良かった。涙が止まりませんでした。
 その和田唱さんのことがこの本には出てきます。ま、そりゃあそうですよね、だって、和田唱さんのお父様が「日本のダ・ヴィンチ」こと和田誠さんなのですから。
 さらに、笹公人さんと和田唱さんとは、文化学院の同窓生だとのこと。そんなこともあって「うちの長男」として和田唱さんが登場しているというわけです。
 和田誠さんは、私にとってもある意味父親的存在です。なんて、勝手に和田唱さんと兄弟になってますが(笑)。いや、ホントに多大な影響を受けました。和田誠さんの様々な業績については、あまりに様々すぎてとても紹介しきれませんが、美術(世間で一番知られているのはやはりイラストでしょうかね)、文学、演劇、音楽…本当に多くの場面で彼の名前に遭遇し、そしてそのたびに驚かされてきました。
 そして、笹公人さんは私の短歌の師匠です。全く不思議なご縁があって、今春から師弟関係を結びました。先日もお会いして、この本にサインしてもらってきました。
 和田誠さんと笹公人さんをつなげたのは寺山修司と言えるでしょう。和田さんと寺山は親友同士でした。笹さんや私は、青春時代に寺山に多大な影響を受けています。
 大変ずうずうしい言い方ですが、寺山修司、和田誠、笹公人、和田唱、志村正彦というつながりの中に、私も入らせていただいたこと、なんだか不思議な気がします。
 で、ちょっとそうした連環を遠くから眺めてみますと、昨日の「昭和展」のような風景がそこに広がっているような気がするんですね。昭和のセンス。
 その「昭和のセンス」というのがなんなのか、言葉で簡単に説明することはできません。しかし、今回この本を読み返してみて、やっぱりそういう「何か」があると確信しました。
 それって、もしかすると、出口王仁三郎が準備したものかもしれないなとも思いました。なんでもあり、エログロナンセンス、ユーモア、オカルト、言葉遊び、肩透かしなアンサンブル、他者への愛…。
 いや、日本にずっと伝わってきたそういう文化を総合したのが王仁三郎だったのかもしれません。昭和という時代は、それを明に暗に表に裏に小出しにして再分配していたのかもしれない。そんな気もしてきます。
 そう、この本、なんだか「霊界物語」みたいだなって思ったんです。だって話があちこち自由に飛び回り、時間も空間も次元も飛び越え、ナンセンスぎりぎりのセンスがあって、ユーモアがあって、なにしろ言霊にあふれていて元気になるんですから。
 連句って実に面白い文化ですね。いわゆる文学のジャンルとしては、異様に「他者性」が強いじゃないですか。ある意味他人によって、どんどん自分の敷いた道が曲げられて行くんですから。そして、それが誰も想定していない旅が演出される。いいですねえ。
 王仁三郎の霊界物語なんか、それを一人でやっちゃってる感じですよね。いや、多分オニさんは、たくさんの人や何かと「遊戯」していたんでしょう。だから、ああいうふうにカオスだけれどもちゃんと一本道が通っている感じがする。無限の他者性の総合体なんでしょうね。つまり「世界」そのもの。
 あと、和田さんと笹さんのやりとり、まさに昭和のプロレス名勝負という感じもしました。モンスター和田というベテランレスラーに、サイキック笹という若手レスラーが戦いを挑み、実にかみあったいい試合になっている。もちろん、主導権はベテランにあり。和田さんの余裕と、笹さんのけっこう必死な感じが実にいいリズム感を生み出しています。
 そしてなんと言っても、笹さんのワクワク感でしょうかね。憧れの人と手合わせできる、している興奮がこちらにも伝わってきます。ドキドキ、ワクワクって少年の心ですよね。
 うむ、こういう「他者」との「遊戯」って、実は最近の若者たちには極端に減っているような気もするんですよね。私なんか音楽をバリバリにやってますから、常にプロレスや連句をやってるようなものですが、プログラムされた機械的な「他者」とばかりつきあっている子どもたちを見るとちょっと心配になりますよね。
 連句の縛りもいいですね。こんなに縛りがあるなんて知りませんでした。縛られているからこその快楽ってあるじゃないですか(笑)。そこには心の解放を生む逆説的な「自由」があるんですよね。俳句や短歌自体がそういう性質のものですけれど、そこにさらに「他者性」と「決まり」という縛りと自由がある連句って、なかなか面白いなあと思いました。
 ワタクシ的な言い方をすれば、他者性(不随意性)とは「モノ」でありますし、ルールや制約は「コト」であります。そして、その「コト」がさらに「モノ」を生む。これぞ「モノガタリ」の本質であります。「コト」をきわめて「モノ」に至る。
 私もいつか気の合う方々と「連句遊戯」して、不思議な旅をしてみたいと思いました。いや、もう私は充分人様のおかげで不思議な旅をしていますか(笑)。

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2010.08.29

『近くて懐かしい昭和展』 (山梨県立博物館)

30_6_48_50 日は久しぶりに山梨県立博物館へ。半分仕事ですが、とりあえずこの特別展に間に合って良かった。
 なんでもこの特別展2万人の入場者があったとのこと。こういう企画が人気になるのは、まあ博物館としては複雑な心境なのかとも思われますが、しかし、すでに昭和は歴史の一部ですし、また民俗学的にも一つのエポックとしてすっかり研究対象になっているわけでして、きっと網野善彦さん的にも喜ばしいことなのではないでしょうか。一般庶民の歴史そのものですから、昭和は。
 ただ、どうでしょうか。もう少し「昭和」を考察する部分があっても良かったかも。博物館での企画ですから、それなりの位置づけや意味づけが前面に出ていてもよかったのでは。デパートの催し物ではないわけでして。
 さて、今回は珍しく下の娘と二人で訪れました。二人っきりでおでかけする(デートする)のは、実は初めてだったりして(笑)。
 写真のとおり、下の娘は髪型からして「昭和」しております。展示(特に当時の教室を復元した展示)の中にすっかり溶け込んでオブジェ化しておりました(笑)。
2 そう、ウチの教育は完全に昭和なので、展示内容についてもある程度知っている世界なのです。特に、力道山と美空ひばりのコーナーは、もう守備範囲そのまんまという感じですね。ま、こういう家庭教育が正しいかどうかは分かりませんが。
 そう我が家的には、今回の展示で一番感動したのは、力道山のガウンと美空ひばりの映画撮影時の衣装ですかね。本物でしたから。
 この二人と言えば、山口組三代目田岡一雄組長ですが、そのへんについても当然考察はありませんでした(当たり前か)。しかし、黒駒の勝蔵という山梨が誇る侠客もいますからね、そちらの世界ももっと学問的に取り組むべきだと真剣に思います。それこそ、網野さんのフィールドとも言えましょう。
 ところで、ちょうど館内を歩いている時に、悲しいメールが届きました。
 新日本プロレスの鬼軍曹、力道山最後の弟子の一人、山本小鉄さんが昨日急逝されたそうです。先日テレビでお元気な姿を拝見したばかり。雑草魂ではい上がった真壁選手のことを語りながら、思わず感極まって涙されていたのを思い出します。また、スネークピットの宮戸さんと、そんな山本さんが現代のプロレスについてどのように思っているのだろうとお話したばかりだったので、本当に驚いています。
 また、昭和の生き証人、古き良き昭和の文化を現代に継ぐ方を亡くしてしまいました。非常に残念です。昭和の「道場文化」もまた消えてしまうのでしょうか。
 こうして自分が育ち、自分を育てた「時代」が「文化」として語られ、そしていつのまにか「歴史」になっていってしまうのは、本当はちょっと寂しい気もします。
 夜、7月に行われたフジファブリックの「フジフジ富士Q」のテレビ放映を観ました(明日記事にしましょうか)。こうしてトリビュートされていくモノたち。全てのモノは、記録や記憶や歴史というコトになっていく。そのどうしようもない切なさ。これこそが「もののあはれ」の本質なのかな…などと考えた今日一日でありました。

山梨県立博物館公式

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2010.08.28

弦楽合奏部デビュー!

20100828_221943 ぅ、たった3分だったのですが、妙に疲れたぁ。でも、とりあえず良かった〜。
 いつも出ているコンサートは、基本自分の心配だけしていればいい。しかし、今日は全然違う状況。運動部の監督の気持ちが少し分かったような…。
 この春、中学校を開校しまして、そちらで私の夢だった「弦楽合奏部」を創らせていただきました。本日、その初めてのお披露目の機会があったのです。場所は、地域で一番大きなショッピングセンターのレジ横のスペース。弦楽器にとっては、非常に不利なシチュエーションではありましたが、まあ無事に拍手をいただきまして、ワタクシどものデビュー戦は見事成功裡に終了いたしました…かな(?)。
 私は高校時代にその名も弦楽合奏部に所属していました。そして、その時の経験が基礎となって今の私が形作られているという実感から、どうしてもいつか創りたかったのがこのクラブです。ようやく夢がかないました。
 本当に私の人生はヴァイオリンによって形成されたと言っても過言ではありません。音楽や楽器が、世界、特に人脈を広げてくれまして、単なる趣味の領域にとどまらず、私生活から仕事に至るまで、本当に大きな影響を与えてくれました。
 そうした音楽や楽器、そして人々への恩をこういう形で返すことができるようになったことは、本当にうれしいことです。自分が得た幸せを次世代にも体験させたい。これも一つの「報恩」の形だと思うのです。
 いつも書いていますが、私たちは「恩に報いる」というと、その恩人(または、たとえば音楽自体や楽器自体)にお礼をしたり、お返しをしたりすることだと思いがちです。しかし、実際の「報恩」とは、そういうことではないと思います。
 たとえば、親の恩にはなかなか報いることができないじゃないですか。分かっていても大概は「墓にふとんは着せられぬ」なのです。しかし、その代わりに、その気持ちをもとに、今度は自分の子どもに愛情を注ぐわけじゃないですか。それで、自分の子どもが全然その気持ちに応えてくれなくても我慢できるわけですよね。そうして、「恩」は天下の回りものになっているのです。
 私も、今ちょっと思い出すだけでも、特別に恩を感じる方が両手では全然足りないくらい挙がります。しかし、そのうちもう既に亡くなってしまった方が半分くらい。いつかお礼を、いつか恩返しを、と思っているうちにこんなことになってしまいました。
 たしかに世間の常識的には、私は不義理な人間かもしれない。でも、先ほど言ったように、恩というものは、その人自身に返さねばならないものではないと考えれば、気持ちも楽になりますし、また、実はその方が正しい生き方なのではないかとも思われてくるのです。
 つまり、ただその人との関係においてギブ&テイク的に、すなわち貨幣経済的に利益が交換されても、それはそれで完結してしまい、なんの発展性もありません。もちろん、そういう現世的な利益も私たちには必要ですが、それ以上に大切なのは、自らが感得した「恩」に基づき、自らの行動を変えて行くことなのではないでしょうか。
 たとえば、私なんか職業柄、感謝されたり、ま、場合によっては物品をいただくこともあるわけですよ。それもそれで意味のあることですが、どちらかというと、そうしていただくより、その教え子がその経験をもとに、社会人になって自らの仕事を通じてでもなんでもいいので、誰かの幸せのために貢献してくれれば、それで満足なのです。それこそが、私にとっては最もありがたい「報恩」の形なのです(なんて、ちょっと恩着せがましい感じですけど…)。
 私、お釈迦様が語る「縁」と「恩」ってそういうものだと思うんですよね…と、話がだいぶそれてしまいましたが、つまりそういう考え方に基づいて、今回弦楽合奏部を創らせていただいたのです。
 その初代部員たち9名が今日演奏したわけです。演奏曲目はパッヒェルベルのカノン。初心者が4ヶ月でこの曲を演奏するのは非常に難しいことだと思います。もちろん、それが可能になったのには、ちょっとしたカラクリ(編曲やらなにやら)があるわけですが、それにしても子どもたちはよく頑張ってくれたと思います。
 夏休み前の段階では、これはショッピングセンターでのテロ行為ではないか、買い物客がバッタバッタと倒れるのではないかなどと、半分冗談にならない冗談を言うほどの不協和音の連続だったのですが、まあ、なんとか皆さんの気分を害さない程度の出来にはなったかと思います。ふぅ、安心した。
 しかし、生徒たちの研鑽の旅、私の報恩の旅は始ったばかりです。勝負はまさにこれから。6年間でどこまで引き上げられるか。そして、どれだけ、一生楽器や音楽を友として生きて行ける生徒を育てられるか。頑張ります。
 今日はほかにも、日本一のジャズバンド部、昨年この場で関わった能楽部、若さはじけるダンス部、ちょっとマニアックな自然科学部、地味ながら実は最もグローバルな外国語会話部などが発表しました。浴衣姿の茶道部による接待も魅力的でした。スポーツ系のクラブが脚光を浴びがちな中、こうして文化部が一堂に会してアピールする場があるというのは、実にいいことですね。それぞれが輝いて見えました。

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2010.08.27

火の洗礼と水の洗礼(火祭りと豪雨)

↓click!黒いゴミのようなのが巨大な雨粒です。
28_8_36_44 日の火祭りは天候にも恵まれ、素晴らしい鎮火の儀式になっていたと思います。以前も書いたように、鎮火を火をもってするというところが、日本的な発想の素晴らしさです。
 昨日書き忘れましたが、あの屹立する大松明は、もちろん(とは言っても誰も言っていませんけど)男性の象徴でもあります。女性神である富士山に対する一種の性的な慰めともなっているのは間違いありません。これも非常に重要なポイントです。
 さて、今日は昨日とうってかわって、富士吉田は夕方から大変な豪雨となりました。突然のゲリラ豪雨に難儀した方もたくさんおられたのでは。我が学校でもいろいろなところが洪水状態となっていました。
 実はですね、ものすごく変な話ですけれども、この豪雨には私も関与していたのです(笑)。
 というのは、今日学校にあるお客様がいらっしゃったのですが、その方と私、まさに火の洗礼と水の洗礼の話をしておりまして(ってどういう話してるんだ?w)、特に学校周辺の水のことやら、竜神様の話やらをしていた矢先に、ボツボツと超大粒の雨が落ち出しまして、そしてあのような大変な状況になっていったのです。
 その方は、自然との交流のできる方でして、いろいろなところでこのように天候を動かしてきた方です。そういうことがあるんですよね。昔の人は自然にそういうことをしていたのではないでしょうか。
 その方いわく、私もかなりそういうところがあるとのこと。昨日神様と交流したこともあってか、その方と私の波長かなんかが妙に合ってしまったらしく、こういうことになったようです(笑)。
 大豪雨になってもしばらしくは太陽も出ていましたし、富士山も見えていたんですよ。とってもピンポイントな大雨だったんです。ただ、ちょっと竜神様も興奮しすぎたのか、その後豪雨の範囲もずいぶん広がったようで、隣の隣の村であるウチの布団も濡れちゃったり、子どもたちもビシャビシャになって帰ってきたりしたようです。でも、ここのところ水不足で苦しんでいた我が村では恵みの雨となったとのこと。そう、ウチの村には河川が一本もないんですよ。天水だけが頼り。まさに竜神様にお祈りしていたところだったらしい。
 ちなみに、その方、傘を持ってきてなかったので、ご自分もびしょ濡れになってお帰りになりました(笑)。興奮した竜神様を鎮めるのは難しいらしい。
 ところで、この豪雨を眺めながら、ある文章を思い出しました。たしか以前も紹介したと思うのですが、太宰治の「服装に就いて」という小文の一部です。火祭りと豪雨の話です。
 やっぱり太宰治レベルともなれば、こうして自然と交流したり、神様を興奮させたりできたのでしょうね。
 ちなみに、この文章の中にある「駅」はおそらく月江寺駅、「料亭」は特定できませんが、西裏界隈でしょうか。そして「池」は月江寺の池、「池のほとりの大きな旅館」は旧杉林旅館だと思われます。その旅館の跡地に、今、我が中学校が建っています。なんか不思議な気がします。太宰が火祭りの日に逗留し、豪雨を眺めていたところで、今私は仕事をし、火祭りと豪雨に思いを馳せているわけですから。

  太宰治「服装に就いて」より

 銘仙の絣の単衣は、家内の亡父の遺品である。着て歩くと裾がさらさらして、いい気持だ。この着物を着て、遊びに出掛けると、不思議に必ず雨が降るのである。亡父の戒めかも知れない。洪水にさえ見舞われた。一度は、南伊豆。もう一度は、富士吉田で、私は大水に遭い多少の難儀をした。南伊豆は七月上旬の事で、私の泊っていた小さい温泉宿は、濁流に呑まれ、もう少しのところで、押し流されるところであった。富士吉田は、八月末の火祭りの日であった。その土地の友人から遊びに来いと言われ、私はいまは暑いからいやだ、もっと涼しくなってから参りますと返事したら、その友人から重ねて、吉田の火祭りは一年に一度しか無いのです、吉田は、もはや既に涼しい、来月になったら寒くなります、という手紙で、ひどく怒っているらしい様子だったので私は、あわてて吉田に出かけた。家を出る時、家内は、この着物を着ておいでになると、また洪水にお遭いになりますよ、といやな、けちを附けた。何だか不吉な予感を覚えた。八王子あたりまでは、よく晴れていたのだが、大月で、富士吉田行の電車に乗り換えてからは、もはや大豪雨であった。ぎっしり互いに身動きの出来ぬほどに乗り込んだ登山者あるいは遊覧の男女の客は、口々に、わあ、ひどい、これあ困ったと豪雨に対して不平を並べた。亡父の遺品の雨着物を着ている私は、この豪雨の張本人のような気がして、まことに、そら恐しい罪悪感を覚え、顔を挙げることが出来なかった。吉田に着いてからも篠つく雨は、いよいよさかんで、私は駅まで迎えに来てくれていた友人と共に、ころげこむようにして駅の近くの料亭に飛び込んだ。友人は私に対して気の毒がっていたが、私は、この豪雨の原因が、私の銘仙の着物に在るということを知っていたので、かえって友人にすまない気持で、けれどもそれは、あまりに恐ろしい罪なので、私は告白できなかった。火祭りも何も、滅茶滅茶になった様子であった。毎年、富士の山仕舞いの日に木花咲耶姫へお礼のために、家々の門口に、丈余の高さに薪を積み上げ、それに火を点じて、おのおの負けず劣らず火焔の猛烈を競うのだそうであるが、私は、未だ一度も見ていない。ことしは見れると思って来たのだが、この豪雨のためにお流れになってしまったらしいのである。私たちはその料亭で、いたずらに酒を飲んだりして、雨のはれるのを待った。夜になって、風さえ出て来た。給仕の女中さんが、雨戸を細めにあけて、「ああ、ぼんやり赤い」と呟いた。私たちは立っていって、外をのぞいて見たら、南の空が幽かに赤かった。この大暴風雨の中でも、せめて一つ、木花咲耶姫へのお礼の為に、誰かが苦心して、のろしを挙げているのであろう。私は、わびしくてならなかった。この憎い大暴風雨も、もとはと言えば、私の雨着物の為なのである。要らざる時に東京から、のこのこやって来て、この吉田の老若男女ひとしく指折り数えて待っていた楽しい夜を、滅茶滅茶にした雨男は、ここにいます、ということを、この女中さんにちょっとでも告白したならば、私は、たちまち吉田の町民に袋たたきにされるであろう。私は、やはり腹黒く、自分の罪をその友人にも女中さんにも、打ち明けることはしなかった。その夜おそく雨が小降りになったころ私たちはその料亭を出て、池のほとりの大きい旅館に一緒に泊り、翌る朝は、からりと晴れていたので、私は友人とわかれてバスに乗り御坂峠を越えて甲府へ行こうとしたが、バスは河口湖を過ぎて二十分くらい峠をのぼりはじめたと思うと、既に恐ろしい山崩れの個所に逢着し、乗客十五人が、おのおの尻端折りして、歩いて峠を越そうと覚悟をきめて三々五々、峠をのぼりはじめたが、行けども行けども甲府方面からの迎えのバスが来ていない。断念して、また引返し、むなしくもとのバスに再び乗って吉田町まで帰って来たわけであるが、すべては、私の魔の銘仙のせいである。こんど、どこか旱魃の土地の噂でも聞いた時には、私はこの着物を着てその土地に出掛け、ぶらぶら矢鱈に歩き廻って見ようと思っている。沛然と大雨になり、無力な私も、思わぬところで御奉公できるかも知れない。


 どうですか。太宰らしい軽妙な名文ですね。ところで、私たちも二人で各地を雨乞いして回ろうかしら(笑)。

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2010.08.26

吉田の火祭り2010

Gedc0948 年も火祭りの日がやってまいりました。昨年もなかなか神懸かり的な体験をした我が家族でありますが、今年はまたちょっと違った意味で、いろいろなことを感じて帰ってきました。
 一般に言われるこの火祭りの意義については、昨年の記事などにある程度書いてありますね。しかし、実際には私にとってもっともっと多義的な要素を含んだ祭です。
 まず、昨年末に惜しくも亡くなった、富士吉田出身、フジファブリックの志村正彦くんのことを書かねばなりません。
 彼と、この火祭りの主役であるコノハナサクヤヒメとの関係については、以前下浅間の記事の中に書きました。
 あの時は、いわば思いつきのレベルだったのですが、今はそれらは確信に変わっています。ただ、なんというか、コノハナサクヤヒメと特定するのではなく、富士山の女神とでも言いたいような、そんな気持ちもあります。
Gedc0946 実を言うと、富士山の祭神がコノハナサクヤヒメだというのは、江戸時代くらいに定着した考え方なのです。では、それ以前はなんと言われていたのか。
 なんと初期には「赫夜姫(かぐやひめ)」、そして「富士浅間大菩薩」などと呼ばれていたのです。それが江戸の富士講の隆盛とともにコノハナサクヤヒメに定着していったといういきさつがあるようです。
 しかし、いずれにしても、その本質が「女」であることにはかわりありません。富士山は女性なのです。
 志村くんはもちろん現実的には男性ですが、どこか女性的な魅力をたたえた青年でした。私も彼に見つめられた時には、正直「男として」ドキッとしたものです(笑)。
 私の研究している出口王仁三郎(彼も富士の女神と深い関係を持っています)の発想の中に「変性女子」「変性男子」というものがあります。姿形は男性だけれども、魂のレベルでは女性、あるいはその逆という存在のことです。そうした超越的な「不二」観が、彼の特徴であると言えるでしょう(こちらのインタビュー参照)。
Ff080531_2 今日ゆっくり富士の神域を巡ってみて、私は実に身近に志村くんを感じることができました。やっぱり彼は今、富士の女神として私たちを見下ろしてくれているんだなと思いました。
 生前彼も、この火祭りに何度も繰り出し、胸躍らせ、またちょっと切ない気持ちになり(吉田の夏、あるいは夏休みはたいがいこの火祭りで終わりますし)、富士山にいろいろな願いを託したことでしょう。あの人ごみの中に、彼の姿があったような気がしたのは、もしかすると私だけではなかったかもしれません。
Gedc0925 さて、私たち家族は、今年もまた普通の方々とは違う形での祭への参加をしてまいりました。
 もちろんメインは連なる屋台でも火焔見物でもありません。神々との交流です(アヤシイな)。
 まずは冨士浅間神社(上浅間)の本殿横に車を停めまして、鳥居をくぐらずに神域に入ります。家族は御手洗で身を清め、ワタクシは恒例のお神酒をいただきまして(結局4杯飲んで娘に止められました…笑)、いよいよ本殿参拝です。
Gedc0928_2 ここは、私たち夫婦が契りの証をした、つまり結婚式を挙げた場所です。私たちは富士の女神の前で誓い合ったのです。そんなちょっと懐かしい場所でもあるのです。一般には禁足の場所になっていますから、もうあそこへ上がることはないでしょうね。考えてみると、あの時私たちは一般の参拝客に拝まれる存在になっていたんですね。コノハナとニニギ、イザナミとイザナギのような感じかな(?)。
 すっかりこうした神仏への参拝になれている私たち家族ですが、今日はさすがにちょっといつもと気持ちが違う感じしましたね。ドキドキしました。
Gedc0932 しかし、私たちはすぐに横にある「売店」に気持ちが…。こうした聖俗綯い交ぜな感じが、日本の神様のいいところです。そこには巫女姿のカワイイ教え子がいたりして、ますます聖俗入り乱れます(笑)。
 ちょっとした神様ショッピングを終えた私たちは、ある意味メインである神様巡りを開始しました。そう、この浅間神社には、とんでもない数の社があり、数十の神仏、あるいは人間が祀られているです。それを全部回るのが我々に課せられたミッションなのです。
Gedc0939 地元の人はもちろん、観光客も、実はなかなかここまではしません。だいたい地元の人は本殿にすら参りませんからね。あまりに生活に根ざした祭なので、庭先で一晩中飲んで、時々屋台の方に繰り出すくらいでしょうか。
 ほとんど人のいない真っ暗な中を一つ一つ祭神を確かめながらお参りする私たち家族って…かなりマニアックですな(笑)。しかし、面白いもので、霊感の全くないカミさんは別として、私と娘たちは、それぞれに特定の社で「何か」を感じるんですよね。そうした理屈を超えた体験というのは、子どもたちにとってもとても大切だと信じています。
Gedc0952 ひととおりミッションが終わって、ようやく神社を下り、松明の燃え盛る本町通り、すなわち屋台の群れに向かいました。そこでしばし神農さんたちとの会話を楽しみ、私たちの火祭りは終了。今年は特にたくさんの神様と交流いたしましたね。素晴らしい体験でした。
 皆さまもぜひ一度おいでください。もし、一般とは違うマニアックな楽しみ方をなさりたい方は、ワタクシに声をかけてくださればご案内します。

PS 富士の女神と交流したおかげか、夢で再び「天の歌」を聴くことができました!ヘヴィーなロックナンバー。なんか、高校時代に作った曲を掘り出してきて手を加えたとか言ってたような…。志村くんダミ声なんか出しちゃって、ちょっと新境地開いたみたいです。相変わらず曲作りに励んでいるようですね!

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2010.08.25

来たれ!中二病

51udd0qq0al_sl500_aa300_ 年までは、高校生担当でしたからね、生徒が貸してくれるCDやマンガというのも、まあそれなりのものが多かったわけです。このブログでもたくさんネタにさせてもらいました。
 しかし、そういう高校生たちは、実は高校生になってからそういうものに出会ったのではなく、たいがいが中学2年生くらいに目覚めているものなのですよね。
 ま、世間一般(?)で言われている「中二病」というやつの副産物であることが多いのです。自立、独立、自我の確立の過程で、「人と違うもの」や「クラスの友だちとは違う心の友」を求めるところから、それは生まれるのでしょうか。
 私も思えばそういう時期がありました。私の場合は少し早稲で、中一の頃だったような気もします。いや、やっぱり最も顕著に現れていたのは中二かな。
 「オタク用語の基礎知識」によると主な症例は次のようなものです。

・洋楽を聞き始める。
・うまくもないコーヒーを飲み始める。
・売れたバンドを「売れる前から知っている」とムキになる。
・やればできると思っている。
・母親に対して激昂して「プライバシーを尊重してくれ」などと言い出す。
・社会の勉強をある程度して、歴史に詳しくなると「アメリカって汚いよな」と急に言い出す。

 なかなか笑えますね。なにしろ身に覚えがありまくりですし、実は今でもこんな感じだからです(笑)。
 また、「中二病取扱説明書」によると、次のような三つのタイプがあるといいます。

・DQN系
反社会的な行動や不良を演じる。根はまじめだったり臆病だったりするので、本当の不良には成りきれない。喧嘩や犯罪行為に対する虚言が多い。
・サブカル系
流行に流されずマイナー路線を好み、他人とは違う特別な存在であろうとする。別にサブカルが好きなわけではなく、他人と違う趣味の自分は格好いいと思い込んでいる。
・邪気眼系
不思議な力に憧れ、自分には隠された力があると思い込み、そういった設定のキャラ作りをしている。別名、妄想系。

 ふむふむ、これも全部身に覚えがあるぞ。てか、サブカルと邪気眼は、まんま今のワタクシではあ〜りませんか!46歳にして中二病癒えず…笑。
 それで、今年から中学の担当になったじゃないですか。それも新設校ですから、今1年生しかいません。そして、いよいよそういう子が登場しつつあるわけですよ。全体にまだまだ小学生ですが、ほんの一部では、「大人」の胎動が始まっているのです。
 その一人がこれらを貸してくれました。RADWIMPSの最新シングル2枚。おお、ラッドか。なるほどラッドなんか、まさに中二病の象徴みたいなもんだな。いや、私が好んで聴いている現代の日本のロックもみんな「中二病」です。いやいや、ロックは中二病です。なぜなら、私が定義したように「ロック=さびしさ」なのですから!「ロック=僕を見て!」なんですから!
 そう、私がフジファブリックをはじめとする若者のロックを聴くのは、正直「中二病」を求めているからなのです。46歳の私の中の中二の私がそこにいるんですよね。そして、46歳の私は私の中の中二の私に憧れている…。
 だから、こうして着実に中二に向かっている少年たちを見ると、ちょっと懐かしく、うらやましく思うし、応援したくなるのです。
 明日、なんと始業式です。寒冷地ですから。夏休みの国語の宿題が楽しみです。ジャンルを問わず、自分のおススメについてのプレゼンテーションを作ってきてもらいます。ま、広告みたいなものですね。これで各生徒の「中二病度」が分かるのではないでしょうか(もちろん、それを知るのが目的ではありませんよ)。
31zrcvfvldl_sl500_aa300_ ところで、今回のラッドですが、声質と曲調、またいつも書いているJ-ROCKの特徴である「6指向」のため、どう聴いてもBUMP OF CHICKENにしか聞こえません。私はラッドとは距離のある人間ですから、別にいいのですが、ファンは落胆するでしょうね。そして、バンプのファンは怒るでしょう。
 レビューを見ると、特に「携帯電話」が「車輪の唄」にそっくりだという人が多い。しかし、これは全く当たっていません。音楽的な共通点は「カントリー」をベースにしている点だけです。ただ、あの「声」「歌い方」そして「カントリー」が揃えば、たしかに「そっくり」に聞こえるでしょうね。それは感覚としては当たっています。
 バンプこそ「中二病の権化」です。あそこまで徹底していれば、私は尊敬します。その点、ラッドは、つまり野田洋次郎は中途半端なのかもしれません。
 以前、「アルトコロニーの定理」のところに書いたように、野田さんの課題は「○○に似ている」からの脱却、すなわち、中二病の徹底、重篤化なのかもしれません。ロックは大変だ。ロッカーは一生中学2年生でいなければならないのですから。
 まあ、私も含めて、こうしてアーティストの作品を「ああでもない、こうでもない」言ってる大人たちも、充分に中二病ですね。
 そうそう、今日変な夢見ました。自分が山口組の組長に抜擢される夢です。夢の中で私はすっかりその気になっていました。やっぱり中二病が癒えていないようです(笑)。

↓携帯電話PV

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2010.08.24

ウラルで遊ぶ

25_8_08_20 日から現実に帰還して、たまったお仕事を片っ端からやっつけていかねばなりません。さっそく甲府へ出張。暑すぎ。溶けそう。
 その前にとっても楽しい体験をしました。開校したばかりの中学の方を手伝っていただいている元カリスマ中学校長の「じいじ」先生が、あるサイドカー付きバイクに乗って出勤してきたんですね。
 それがこのウラル。実物を見るのは初めてです。その先生もどうしても私たちに見せたかったらしく、夏休みというタイミングを見計らってやってきたようです。
 まず最初に言っておきましょう。これは「男のロマン」です。いや、「男の道楽」です(笑)。ま、私もいまだに子どもみたいなことばかりやっていますが、この「じいじ」もなかなかのお子ちゃまですぞ(笑)。
 私、この先生のお噂は昔からよく聞いていまして、とにかくカリスマな方で、誰に聞いても「いい先生」「熱血漢」という感じでしたから、なんとなくですが、遠い存在だと思っていたんですね。まさかこうして毎日隣同士で仕事するようになるとは、夢にも思っていなかったんです。
 そして、なんといっても、これほど気が合うとは(笑)。私は決して熱血ではないし、育ってきたというか働いてきた環境も違いますから、どんなものかなあと多少危惧さえしていたのですよ。しかし!実際毎日一緒に仕事させてもらっているうちに、妙に波長が合うことが分かってきました。
 つまり、二人ともある意味「いい加減」であり、ある意味「子ども」であり、ある意味「お馬鹿」なんですね。ま、この三拍子が合えば、そりゃあ意気投合するに決まってます。
 で、そんなんですから、その先生もどうしても私にこの「おもちゃ」を見てもらいたかったのでしょう。そりゃあ、私も見たいですよ。
 そしてやっきましたウラルくん。鮮やかなBMWのロゴがかしこに貼られていますが、立派なニセモノ、ロシア製であります。
 しっかし、まず表情がいいですねえ。ちょっととぼけたような目でこちらを見ている。なんとも純朴だが、しかしどこか頼りがいのありそうな感じ。正直「萌え」であります。
25_8_08_06 うわぁ、こりゃマニアックだ。シンプルだからこそマニアックなのであります。4ストローク水平対向2気筒750ccエンジン。いちおうセルを後付けしてありますが、案外キックで簡単にスムーズに始動します。まずそこにビックリ。よくできている…のかな。
 いい音してますねえ。2気筒らしいリズムが心地よい。
 さすがに今回私は運転はしませんでした。これって、登録上は二輪扱いだけれども、免許は普通自動車なんですよね。
 つまり、このバイクはパートタイム2輪駆動なんです。側車のタイヤも必要があれば駆動することができる。だから簡単に言うと三輪自動車扱いになるわけです。
 ふむふむ、たしかにシャフトが見えます。ただし、デフがついていないので、舗装路などでは四駆で言うタイトコーナー・ブレーキング現象が起きてしまいます。未舗装路や雪道では遊べるわけですね。実際、先生は雪の日に遊ぶそうです(笑)。
 それ以前にエンジンから後輪への動力伝達はシャフトによるんですね。チェーンを見慣れているので、なんとなく新鮮。そうそうシャフト・ドライブである利点はバックも可能だということですね。サイドカーを押すのはなかなか大変ですから、このバック機能は便利ですね。エンジンをふかすとバックする光景はやはり新鮮。
25_8_07_51 私もサイドカーに乗らせていただきました。耳元で鳴る豪快なエンジン音、ゴツゴツと伝わる路面の振動、暑い陽射しに熱いシート。そしてリアル・マッドマウスかと思われるようなあの遠心力。ふむ、たしかに一度乗って「もう二度と乗らない」と言った、先生の奥様の言葉も納得できるというものです(笑)。
 近くにいた中学生や高校生も乗せて、駐車場内をグルグル回ったりして、ひとしきり遊んだ先生の笑顔は、まさに少年のそれでありました。
 何歳になっても、子ども心を忘れないことは、とっても大切なことだと思います。特に男はいつまでも男の子でいたいものですね。メカを愛し、メカを手入れし、メカを操る…これこそ少年の時の興奮そのものです。
 とってもいい体験をしました。ありがとうございました。今度は雪の日に乗ってきてください(笑)。

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2010.08.23

第25回 都留音楽祭 最終日

Img_1073 も終了し、いよいよ音楽祭最終日。
 午前中に皆さんの研鑽の結果を発表します。たった5日間ではありますが、密度の濃い、そして距離の近いレッスンを受けて、皆さんおそらくドラスティックな変化を遂げていることでしょう。
 スタッフとして、皆さんの表情を拝見していると、それを感じることができるのです。みな、音楽から、そして仲間からたくさんの力をもらっている。
 私もヴィオラで参加した全体アンサンブルの曲目は、ドゥランテのマニフィカートでした。全体にコンパクトながら、魅力的な旋律、和声展開が聴かれる佳曲でありました。弟子であるペルゴレージの作品として伝承されてきたとのこと。たしかに、ある種のコテコテ感がペルゴレージにつながっている感じがしました。ということは、ペルゴレージのコテコテ感は師匠ドゥランテ譲りということでしょうか。
 おそらく本邦初演でしょう。このような機会に恵まれる私たちは、やはり幸せ者でしょう。ドゥランテ自身も、まさか300年後に極東の国ジパングで、自らの作品が演奏されるなんて夢にも思わなかったことでしょう。音楽はすごい。
Img_1075 さて、毎度音楽祭での私の大きな仕事の一つは、お昼のフリーコンサートの司会です。実はこれってかなりエネルギーを使います。ただ演奏者と曲目の紹介だけで終わっては面白くないので、その演奏を聴きながら話すことを考えなければならないからです。3分とか5分とかの間で、その場の空気に合った内容で、かつ多少は笑いを取れるようなことを考えなければならないので、まあ大変です。
 これって、アドリブ力養成の訓練にはなりますね。私は仕事柄、毎日司会とお笑いのパフォーマンスをやっているようなものですから、こうした体験は相互にとてもいい影響を与えます。傾向として、どうしても「失礼」の方向に行ってしまうのが反省点でありますが(笑)。
 つのだたかし先生なんか見ていますと、ステージ上での演奏だけでなく、いわゆるMCというかしゃべりですね、それから動き、あるいは「間」など、実にパフォーマンスがうまい。エンターテイナーとして、まさに理想的な姿だと思います。
 音楽家も、ただ音楽を提供しているだけではダメです。ステージは総合芸術です。私はロックやジャズなどのライヴにもよく行きますので、そのあたりの重要性については特によく分かっているつもりです。古楽のみならず、いわゆるクラシック音楽界も、もっといろいろ工夫していかなければならないでしょうね。特に古楽の本質は近代的な「コンサート」ではないはずですから。
 その点、最後のお別れフリーコンサートでのエマ・カークビーさん率いる声楽パフォーマンスは良かった。ああやって、会場を巻き込んでの音楽的一体感はとても大切です。さすがだと思いました。
 ということで、皆さん本当にお疲れさまでした。私自身もいろいろな意味で楽しませていただきつつ勉強もさせていただきました。ありがとうございました。
 来年からは、さらに次の四半世紀の歴史を重ねるべく、自然体で頑張っていきたいと思います。もちろん皆さんからいただいた貴重な意見を参考に、細部の改善はしていきますが、私は基本、この音楽祭はこのままの内容、このままの雰囲気で続いていってほしいと思っています。これからも「心のアンサンブル」の場でありつづけるよう、私も微力ながらお手伝いしてまいります。
 とりあえず、また来年お会いしましょう!

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2010.08.22

第25回 都留音楽祭 4日目

Img_1076 楽祭4日目。いつも最も忙しい日となります。なぜなら、私にとっての「本番」、「クロージング・パーティー」が行われるからです。
 今日はその前に、韓国リコーダー界の新星、まだ18歳というウンチョ・ヨムさん、いやウンチョ・ヨムちゃんのコンサートがありました。いやあ、すごい女の子だ。これはもう古楽というくくりでは捉えきれませんね。西洋的でもないし、日本的でもない。うん、やっぱり韓国的なのかなあ。
 非常にテクニカルでパワフル。さらにエモーショナル。控え目な日本人からすると、ちょっとやりすぎなんじゃと思われるかもしれませんが、まあ若いし、いろいろなものにとらわれる必要はないので、今のうち存分暴れておいていいんじゃないかと思いました。
 西洋人には西洋人なりの西洋音楽があり、日本人には日本人なりの西洋音楽があり、韓国人には韓国人なりの西洋音楽があってしかるべきです。異文化との融合や対立が、新たな生命力を生み出すに違いありませんから、どうせなら音楽は地域や時代や文化を超えた方がいいに決まっています。
 昨夜のエマさんとは、まあ対照的と言っていいでしょう。しかし、天才は天才だと思いましたよ。これからどうなっていくのか。こちらもまた一緒に写真撮りましたけど、まあ、普通の日本のうるさい(失礼)女子高生となんら変わりありません。ついつい私もピースしちゃいました。
 さてさてそのあとはいよいよお楽しみのパーティーです。
 あまりにも有名な(?)この都留音楽祭のパーティーすなわち宴会。なにしろ私は第1回から今年で25回連続宴会芸披露という、まあとんでもない記録を樹立してしまったのですよ(笑)。もう、正直いつ何をやったかなんて全然覚えていません。ただただ、ものすごく疲れたけれども、とんでもなく楽しかったという記憶しかありません。
 私の音楽は、皆さん御存知のように「なんちゃって」80%を誇りますからね、こういう宴会芸にはうってつけなんです。
 なにしろ、皆さんはいかに完璧なキズのない音楽を奏でるかをテーマに、日々研鑽を続けているわけじゃないですか。ですから、逆にこのパーティーだけは、その緊張感やら常識や義務から皆さんを解放してあげたいわけですよ。で、私の「なんちゃって」が役立つと。
 というわけで、今年もやらかしました。それも今年は25回記念ということで(?)、二つ出し物をやらせていただきました。
20100823_234538 まず最初は歌謡曲バンドふじやまの古楽版で岩崎宏美さんの「思秋期」(作曲三木たかし)をやらせていただきました。うむうむ、これがなかなか評判良かったんですよねえ。メンバーもすごいですよ。

 フォルテピアノ 吉野洋美
 パーカッション 飯塚直子
 ウード(?) つのだたかし
 バロック・ヴァイオリン 山口隆之
 ヴォーカル 山口陽子

 自然にこれだけメンバーが集まるんだから、ウチの歌謡曲バンドはどれだけ「古楽度」が高いんだ?そして、スペシャル・ゲストに、つのだたかしさんが!
 いや、つのださん、岩崎宏美の大ファンで、なんでもサインまで持ってるとか!?で、「思秋期」やりますよ〜と言ったら、「やる、やる」と(笑)。
 直べえも、今回はたまたまウンチョ・ヨムちゃんのコンサートに飛び入りで参加したんですよね。私、今日まで来るとは知らなかったし。で、あらら、いるならやろうよという流れで。
 つまり、みんな得意のアドリブというわけです。
 それにしても、恐るべきはウチのカミさんです。世界一のソプラノ、イギリスの宝、天使の歌声のエマを始めとしてなみいる名歌手たちを前にして、緊張一つせず、いやそれどころかいつもよりうまく歌いきってしまうんだから恐ろしい。絶対に何かが欠落している!おかしい!ww
 そう、それで、皆さまのおかげでかなり盛り上がったので、フラッシュムービーにしてご覧にいれましょう。こちらです。うん、たしかになかなかいい演奏ですぞ…と自画自賛。
 小倉貴久子先生とも話したんですけど、この演奏ではフォルテピアノの新しい可能性を示せたとも思っています、大げさでなく。ものすごく「三木たかし節」に合っていましたよ。最高。弾いていた本人が一番感動してましたね。たしかにいい。
20100823_234617 さてさて、もう一つは一昨年、昨年からの流れで、マトリョミンの登場です。今回は次のような編成でバッハの平均率第1巻の24番のプレリュードを演奏しました。これはさすがにお見せ(お聴かせ)できませんな(笑)。

 チェンバロ 小倉貴久子
 フラウト・トラヴェルソ 中村忠
 胡弓 渡辺敏晴
 マトリョミン 山口隆之

 まあ、相変わらずワケわかりませんな。バッハもお怒りのことでしょう。ごめんなさい。でも、面白けりゃいいんですよ。宴会ですから。多少失礼なことくらいやらなきゃ、バッハの呪縛から解放されません!なんちゃって。
 というわけで、ほかの出し物も大変楽しく、今年もまたとんでもない盛り上がりの中、あっという間に時間は過ぎ去り、音楽祭もあと1日を残すのみとなりました。ああそうそう、エマさんと波多野さんの「浜辺の歌」…超絶に美しくも、なぜか哀しかった。涙が出ました。なんとなく毎回寂しいんだよなあ、宴会が終わると…。

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2010.08.21

第25回 都留音楽祭 3日目

Gedc0894 楽祭も3日目。盛り上がってまいりました。
 都留音楽祭のいいところだと言える「とってもアットホームであったかい雰囲気」が、じわ〜っと醸されてきました。初参加の方もすっかりそのムードに慣れてきたようですね。
 そういう意味でも昨日よりだいぶ落ち着いてきたので、私も、実行委員というか受付の仕事の合間に、いろいろなレッスンを見て回ってきました。皆さん真剣な中にも少しずつ遊び心なんかも芽生えてきたりしているようでした。
 昨日の素晴らしいコンサートの余韻も冷めやらない大ホールのステージでは、エマ・カークビーさんのレッスンが行なわれています。ほんの少しその様子を拝見しましたが、たまたま昨日私が感じたようなことをカークビーさんがおっしゃっていたのでビックリ。やっぱり美空ひばりだ!
 こんな言葉が印象に残りました。
「日本の職人さんの仕事は、とても細かいところにこだわっている。しかし、その仕事ぶりを見ると、案外バサッとおおざっぱに(いさぎよく)やっている」
 うむ、私のよく言う、「大きな流れの中の細部」というやつですね。リズム一つとってもそれをしっかりつかんでいる音楽家はあんまりいません。音程や音色、そして表現の綾についても同様です。
 美空ひばりはそれを常に完璧に、そして毎度違えて実現することができる稀有な音楽家なのでした。もちろん、エマさんもそういうレベルの方です。
Gedc0903 またまた感動してしまったワタクシは、得意のミーハー心と突撃魂をもって、ご一緒に記念撮影をさせてもらいました。もうホントに優しくフランクに接して下さいまして、ますますファンになってしまいました。ご自分のカメラでもなんだかパシャパシャ私の姿を撮影していました。なんでも、この頭の形がいいのだとか。あるいは光具合が…笑。うれしいですねえ。
 しっかし、エマさんと波多野さんに囲まれて記念撮影してもらえるなんて…それこそ、四半世紀前の私は想像すらしませんでしたね。それも、ビル・ロビンソンが描いたプロレスリングの絵のTシャツ着てるし(笑)。いや、イギリスつながりということで。
 やっぱり音楽はお人柄ですね。お人柄が音に乗る。超一流の方は、どんなジャンルにおいてもそうですが、とにかくみんな魅力的なお人柄なんですよね。逆に言えば、人徳がなければ超一流にはなれないということです。特にエンターテインメントの世界では。
Gedc0901 さて、今日の夜のコンサートは久しぶりに「タブラトゥーラ」です。以前一度オープニングアクトをお願いしたことがありました。今夜もあの時同様に客席を巻き込んだ大熱演。
 最後はお客さんも舞台に上がってダンス・ダンス・ダンス。無国籍音楽なだけに、インスパイアされた踊りの方もなんだか無国籍、無秩序(笑)。楽しいなあ。
 タブラトゥーラの音楽は、いわば近代化されていない、あるいは西欧的でないタイプの音楽。音階一つとっても単純なドレミではありません。旋法も多彩。ドローンや循環バスの上に即興が乗っていく。規格化、あるいは企画化されすぎたクラシック音楽へのアンチテーゼとも言える、現代人にとってはなんとも懐かしく、また一方で刺激的な音楽です。ある意味私の理想に近いかも。
 それにしても皆さん達者でらっしゃる。それこそクラシック音楽をベースにそのテクニックを磨いてきた人も、それはそれですごいのですが、なんか今回妙に心に残ったのは、山崎まさしさんのさりげないけれども実はすごすぎるビウエラ演奏でしょうか。主張しないで主張しているところがすごい。人が主張しているのではないけれども、音自身はぐんぐん主張してくる。かっこいいなあ。これまたある意味私の理想に近いかも。
 それにしても毎日素敵すぎるコンサートの連続。なんと贅沢な夜を過していることか。

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2010.08.20

第25回 都留音楽祭 2日目

Gedc0871_2 (昨日の続き)
 れが有村祐輔先生との出会いでした(先生はお忘れになっているようでしたが…笑)。
 「来年あたり、都留で古楽の音楽祭をやろうと思ってる…」
 そんな信じられない言葉を聞いたのは、たしかその時だったと記憶しています。この山梨の小さな市のそれこそ目立たない小さな大学で、それも基本的に音楽とは関係のない文学部の単科大学でなんで!?!?
 私たちは我が耳を疑いました。だってそうでしょう。想像してみてくださいよ。そんなことまさに夢にも思うわけないじゃないですか。だいいち、自分の大学にそんな古楽の権威の先生がいらっしゃるなんて、それまで全く知らなかったのですから。
 それまでの私は、まあいろいろあってこの田舎の大学に来てしまったことを正直悔いていました。広大な大自然、特に富士山との出会いなど、もちろん有益なこともたくさんありましたが、こと音楽に関してはなんとなく大学の中では不完全燃焼していたんですね。
Gedc0873 ただ、実はこの有村先生との出会いとほぼ同時期に、これまた不思議な縁から東京は東久留米の聖グレゴリオの家のグレゴリオ音楽院古楽科に通うようになっていたんです。これはなんと天文愛好会が生んだ縁でした。
 私は結構熱心な天文愛好家だったのですが、ある時、天文ガイドという雑誌にあるコンサートの案内が載っていたのです。それはあの天文学者ハーシェルの作曲した作品を演奏するというものでした。
 その演奏家には、今回タブラトゥーラのスペシャル・コンサートでフィドルを演奏してくださる田崎瑞博先生もいらっしゃいました。古典四重奏団ですね。そして、その演奏会の場所がグレゴリオの家だったのです。そこを訪れた折に、置いてあったパンフレットから古楽科のあることを知り、さっそくアンサンブル・クラスに通うことにしたのでした。そう思うと、やはり1985年というのは私にとって非常に大きな転機の年であったと言えます。
 今年、この25回目の音楽祭で、当時グレゴリオで知り合い、また第1回目の都留音楽祭でもお会いした方とそれこそ24年ぶりにお会いすることができました。ま、実際はその後も東京では数回は会っているのかもしれませんが、都留で会うのは24年ぶりです。お互いなんとも不思議な感じになっていましたね。ある意味全然ブランクを感じないというか…。
Gedc0875 そして1986年、実際に始まった都留音楽祭は、本当に夢のような内容でした。コンサートやCD(当時出たてのホヤホヤでしたね。プレーヤーが12万円もしました!)や書籍などで知っている憧れの有名演奏家の皆さんが、なななんと自分の大学に来てくれている!そして、素晴らしいレッスン、合奏、飲み会…全てが夢のようでした。私にとっては、特にバロック・ヴァイオリンの若松夏美先生との交流が心に残りました。
 で、それがあまりに夢のようなとんでもない体験だったものですから、私は私の人生の方向性を変える決心をしてしまったのです。つまり、実家のある静岡には帰らず、しばらく山梨にいようと決めてしまったのです。これまた不思議な縁で首尾よく就職先(今も奉職している学校)も決まってしまい、全ては今につながる展開に。
Gedc0881 実際にはそれ以外の理由、たとえばこちらで述べたような魅力もあったのですが、いずれにしても、いろいろな方々との出会いが私の運命をどんどん変えていってしまったのです。それは今思えば全て必然でした。偶然というものは、それを素直に受け入れて行くと、全てが必然に変わっていくのです。
 さて、今日から本格的にレッスンやワークショップが始まりました。今回は全参加者が140名以上に及びます。もちろん25年の歴史の中で最大規模。いつもながらリピーターも多いのですが、初めての方もいらっしゃいますから、初日はちょっとした緊張感が漂っています。
Gedc0887 そして今夜は、25年の音楽祭の歴史の中でも特に素晴らしいコンサートが行われました。
 そう、誰もが認める世界一のソプラノ、エマ・カークビーさんのコンサートです。なんとも贅沢なことに、我等が日本の誇るメゾ・ソプラノ波多野睦美さんとの共演もありました。まさに夢のようなコンサート。
 前半は、波多野先生も私のすぐ前で、聴衆としてエマの世界に酔っておられました。波多野さんにとっても今年の都留音楽祭は夢のような出来事だとのこと。それはそうでしょうね。
 私の正直な感想を書かせていただきます。もちろんとんでもなく感動しました。こういう言い方が正しいかどうか分かりませんが、「晩年の美空ひばりだな」と思いました。
 全体と部分のコントロールがあまりに絶妙だったからです。そして、ある種の安心の上に成り立つ、いつもとは違う音楽的な感動。身をまかせていられる幸せ。もちろん完璧なテクニック、感情表現、言葉の美しさ…。
 この素晴らしい夜に、やはり私は25年前の自分を思い起こすのでした。やはり人生は面白い。ここへ来て、夢にも思わなかったことがたくさん実現しています。実現しているというと、自分の努力の結果のようですね。そうではなくて、訪れるのです。
 継続は力なり。たしかにどれも25年くらい続けてきたことです。それが実を結び始めたのでしょうか。継続しているところには先方から必ず何かやってきます。
 桃栗三年柿八年、達磨は九年、俺一生…先日秋田で見た武者小路実篤の言葉を思い出しました。なにごとも四半世紀は続けなきゃダメなんですね。

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2010.08.19

第25回 都留音楽祭 1日目

↓オープニングコンサートの一幕
Img_1062 年で25回目を迎える東西古楽の祭典、都留音楽祭がいよいよ始まりました。あの世界一のソプラノ歌手、エマ・カークビーさんも講師としていらっしゃっています!夢のようです。
 25年前のあの日、こんな日が訪れるとはそれこそ夢にも思いませんでした。
 今年は音楽祭の25回目を祝うとともに、自分自身の25年に及ぶ古楽生活を振り返りながら記事を書きたいと思います。
 四半世紀ですかあ。まあ、25回目ですから、周年で言えば24周年ということですね。ただ、私にとってはまさに25周年なんですよ。
 今から25年前の1985年。季節は覚えていません。あの日から私の「都留音楽祭」は始まったのでした。あの頃、私は都留文科大学の3年生でした。正直、この山の中の小さな大学には不本意入学でしたし、大学2年生までは、大好きな古楽(バロック音楽)を楽しむには程遠い生活をしていました。
 そんな私は何を思ったか(いや、単に下心があったのでしょうが)、なぜか東洋の古楽にいそしむため「箏曲愛好会」に入部して、美しい女性たちに囲まれながらお琴を弾いていたのでした。実は男性部員は二人いました。高校の弦楽合奏部の先輩が私のあとに入部してきまして、たった二人で女性独特のドロドロした世界に巻き込まれながらも、尊敬すべき先生にも助けれて、なんとか活動を続け、もっぱら荷物運びにいそしんでいました。
 その先輩とは、時々古楽のまねごとをして遊んでいました。ヴァイオリンとチェロでコレルリのソナタなんかを二人で演奏したことを思い出します。また、お琴でバッハなんてことも、もうその頃からやっていました。
 今思えば、その先輩との東西古楽生活がこの音楽祭の基礎になっているとも言える…なんてことはないか…いや、一概に否定できない部分もあるのです。
 で、その先輩とのある行動が、この音楽祭の音楽監督として四半世紀にわたって君臨し続ける(?)有村祐輔先生との出会いを生んだのでした。
 当時、まだ大学には現在のような立派な音楽棟はありませんでした。あったのは木造の、正直絵に描いたようなオンボロ校舎。歩けばかしこでギーギー、キューキュー、美しい(?)音楽が奏でられるような校舎です。
 私とその先輩(大学では後輩でしたが)は国文科でしたので、実はほとんど音楽棟に行ったことはありませんでした。しかし、ある日、初等教育学科の友人から、「音楽棟にハープシコードがある」とのウワサを聞きつけまして、その夢の楽器に一度も触れたことのなかった二人は、興奮して見に行くことにしたのでした。
Gedc0905 うわぁ!本当にあった!!ある教室の奥に、その幻の楽器は鎮座ましましていたのです。
 しかし、当然と言えば当然、その部屋の扉には鍵がかかっています。私たちは地団駄踏みました。それはそうです。そこにたしかに憧れのチェンバロが見えているのに、触れることも、いや近づくこともできない。
 ついに私たちはある強行手段に出ました。音楽科の先生に直談判に行った…のではなく、なんとなんと、そんな面倒な手順を踏むほど冷静ではなかった私たちは、そのオンボロ校舎がオンボロであるのをいいことに、いかにも年季の入って隙間だらけの引き戸を力づくで外しにかかったのです!
 たしか二枚の引き戸の中央に、あのネジ様の鍵をねじ込むタイプだったと思います。そのネジによって完全に連結された二枚のガラスの入った戸板をそのまま外してしまったと記憶しています(笑)。
 今思えば、あの校舎があのような木造校舎だったからこそ、そんな過激な潜入が可能になったのですね。今の校舎のようなフツーの堅固なドアと鍵だったら、そんな大胆な発想は出てきませんよね。まったく運命というのは不思議なものです。
 見事に潜入を成功させた私たちは、我先にとその幻の楽器に向かって走りました。そして今、目の前にその楽器が現実としてある!私たちの手は明らかに震えていました。
 どちらが先に手を触れたのでしょうか。いや、今思い出したぞ。鍵盤楽器が弾ける女の子を連れていったんだ!w その彼女が最初に弾いたのかなあ。とにかく、その全く調律されていないハープシコード(当時はそう呼んでいたような気がします)から、調子っぱずれの「インヴェンション第1番」が鳴り響いた記憶があります。それはそれは感動的な不協和音でありました。
 ひとしきり、憧れの相手との出会いと触れ合いを堪能した私たちは、背後に人の気配のあるのに気づきました。いや、気づかないほどに興じていたのかもしれません。突然声をかけられた私たちは思わず現実に引き戻されました。
 うわっ、大学の先生だ!怒られる!始末書ものだ…そう思った私たちは、ある意味我が耳と目を疑いました。
 「君たち、チェンバロに興味があるのかね?」
 そこに立つ男性は、ものすごく優しい目をしていらっしゃり、そしてなんとも言えない喜びの笑みを浮かべているように見えたからです(明日に続く)。

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2010.08.18

西馬音内盆踊り2010

16日づけ記事の続きです。
Img_1041 後町を代表する文化の一つ、国の重要無形文化財にも指定されている有名な盆踊りです。
 今日はほんの少しだけ動画で撮影してきましたので、それをフラッシュムービーにしてご覧にいれます。酔っぱらった私がなんだかいろいろ言っています(「顔が見えないから萌え」とか言ってる…笑)が、許して下さい。
 最初は男性の彦三頭巾、続いて女性の彦三頭巾、これらは亡霊、亡者だと言います。そして編笠の女性。いずれも異様に優美でエロティックです。これは本当に一度生で見ていただきたい。
 特に夜の10時を過ぎたあたりからの異様にエロティックな雰囲気は必見です。必見というか、がんけ(甚句)の歌詞がとんでもなくエッチらしいので必聴とも言えましょうか。ま、下ネタですね。それが秋田弁だから、私たち外部の人間にとっては完全に暗号のようになっていて、ちょっと悔しい。カミさんは何度も吹き出していましたが。
 もともと、盆踊りというのは、「死」と「生」の「むすび」の空間と時間であったと思います。ですからそこに性的なモノがあるのは当然と言えば当然であります。
 そんなところも、また、やはり顔の見えない「チラリズム」も、現代の「萌え」につながっているような気がしますから、羽後町が今「萌え」で町おこししているのは、私にとっては全然自然なことだと思えるわけです。実際屋台にメイドさんが何人かいましたし(笑)。面白いですね。
 では、こちらをクリックしてご覧ください。

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2010.08.17

秋田こまちプロレス@由利本荘市

(ちょっと時間がないので、一つの記事を二つに分割しました。すなわち手抜きです。15日のことが記されています)
20100818_155251 てさて、マニアックな仏事を拝見したあとは、マニアックな神事に参りましょう。そう、8月15日と言えば、かつては旧皆瀬村で行われていたプロレスリング・ノアによる「みちのくメルヘン」ですよね。残念ながら昨年はあのような三沢社長の悲劇もあり、ノアの興行としては開催されませんでした。11月にみちのくプロレス主催で行なわれたんですよね。
 で、お盆に秋田に行っていた私としては、この終戦の日の神事が見られなくなってしまうのは実に悲しいことだったのですが、代わりと言ってはなんですけれども、今年は秋田県内でいくつかのご当地プロレス興行(鎮魂祭)が行われたようです。
 そのうちの一つ、秋田こまちプロレス主催の「格闘ファンタジー」に家族+αで行って参りました。場所は由利本荘市の市民交流学習センターです。
 ちょっと細かいことには触れる余裕がありませんが、とにかく楽しい素晴らしい地方プロレスの興行でした。私はこういうプロレスも全然ありだという人間です。「ごっこ」も立派な興行になりうるのがまた、プロレスの奥深さ、幅広さであると思うからです。
 いや、実際試合内容も良かった。私はある意味対極にある「UWFスネークピット・ジャパン」のTシャツを着て行ったのですが、全然違和感がないどころか、プロレスと総合格闘技を超えた内容という意味では、充分になじんでいたのではないかと思います。
 もちろん、ご当地プロレスらしく「鳥海山・太平山・寒風山」の山トリオや、マスクの「農村」の字もまぶしい「アグリマン」など、楽しく親しめるレスラーも多数参加。お笑い芸人さんによる実況もあって、場内はなかなかの盛り上がりでした。
20100818_155455 ワタクシ的には、OHC(おらほのチャンピオン)タイトルマッチ、王者の「鉄人こまち」と総合格闘技団体サイトー會館の選手「エスカル御殿」の対決がツボにはまりまくりました。まさに「格闘ファンタジー」。プロレスが総合を軽く凌駕していくという「夢」を見事に現出させてくれていました。
 特に私、「エスカル御殿」選手にはまっちゃいましたねえ。いやあ、あの方、素晴らしすぎます。理想のレスラーです。大ファンになってしまいました(笑)。
19_9_24_23 この日、大館でも、ご当地出身のグレート・東郷さんを中心としたプロレスが行なわれたとのこと。そう、秋田って、なんとなく静岡と並ぶ昭和プロレスのメッカという感じがするんですよね。あまりに多くの名勝負が秋田で繰り広げられましたっけ。静岡の私と秋田のカミさんは、プロレスで結ばれたようなものですからね。お互いに地方の素晴らしいプロレス文化の復興に尽力していきたいと思っています。
 ウチの娘たちはプロレス観戦に慣れていますが、今回初めて観戦した甥っ子は、かなり感化されたようです。うん、たしかにリアルなまはげ体験だったと思います。本気で怖がっていましたから。そして、正義の味方が勝つというストーリーに満足だったようです。
 家に帰ってからは、フトンというリングの上で、私と娘二人と甥っ子の4人で延々とタッグマッチが行われたことは言うまでもありません。とってもいい思い出ができました。やっぱりプロレスって大切です。プロレスごっこも大切です。マレビトの来訪、主人(大人)の絶対的権力、調和と思いやり、手加減、本気の寸前の感覚、感情のコントロール、子どもの時に学んでおかねばならないことが、ここにはたくさんありました。まさに神事ですね。
 やっぱりいいなあ…秋田。

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2010.08.16

田沢湖→八幡平→十和田湖

 夜、ある方から驚きのメールをいただき、その内容が内容でしたし、今朝はその事件に関する不思議な夢を見たので、今日はなんとしても田沢湖と十和田湖へ行かねばならないと思いました。
 いわゆる三湖伝説によれば、現在、八郎太郎と辰子は田沢湖に、南祖坊は十和田湖にいるということになります。その三者に会わねばならないような気がしたのです(変な話ですみません)。
 横手市から北上し、まずは田沢湖へ。昨年の秋に初めて行き、ある種の神託を受けた湖です。
 今回は、昨年遊覧船から見た御座石(ござのいし)神社に行ってきました。このあたりの水の色はある意味異常です。クニマスもたくさん泳いでいました(後注 クニマスについてはこちら参照)。
Gedc0826_3
 御座石神社には辰子が祀られています。拝殿のご神体は妙に現代的な反射率を誇る鏡でして、お参りすると自分自身が映るようになっています。私はわざと中央に立たずに自分が映らないようにしました(笑)。
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 今日の田沢湖は比較的穏やかで、昨秋感じたような胸騒ぎはありませんでした。
 続きましてさらに車を北上させます。今回は全て一般道で十和田湖に向かいました。途中、八幡平の秋田側を縦断します。途中、ガンなどの難病治療で有名なpH1.2(!)という超酸性の玉川温泉など、たくさんの温泉を通過しました。広大な山全体に硫化硫黄の臭いが充満しています。
 本当に深い深い原生林の中を行く感じです。途中何箇所にも「熊注意」の看板が。いや、熊注意ではなく、実際に熊と遭遇した時の対処法などが書いてあります。遊歩道にもそんな看板が立ち並んでいます。とても優雅に散策できませんね。自然は素晴らしいものですが、同時に恐ろしいものです。写真はやや整備された山です。それでもよく熊が出るとのこと。散策しようと思いましたが、やめました。誕生日の前日に熊に襲われて山の藻くず(?)になるのはさすがに御免ですから。
Gedc0836
 お昼過ぎに十和田湖に到着しました。前回ほど風はなく、全体に穏やかですが、小波が立っていて、それはそれで幻想的でした。前回は思いっきり波が打ち寄せていましたからね。まるで海のようでした。初めて行った時は全く波がなく雪をかぶった外輪山が鏡のような湖面に鮮明に映っていましたっけ。どの十和田湖もいいものです。
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 田沢湖に劣らず湖面の色の変化が素晴らしい。そうそう、田沢湖や十和田湖にいらっしゃる時には、ぜひとも「偏光フィルター」もしくは「偏光サングラス」を持参されたい。写真は全て、偏光サングラス越しに撮影したもので、肉眼では湖面の乱反射でこれほどくっきり色が見えません。たとえば釣り用の偏光サングラスなどをしていれば、写真のように美しい藍色、エメラルドグリーン、瑠璃色を見ることができます。
 こういう色合い、そしてテクスチュアもいいでしょう。
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 いろいろと感じるものがありましたね。私は私なりにちょっとほっとしたこともありました。形あるものよりも形のないものの方が大切であると、昨夜からの一連の出来事から学ぶことができました。十和田湖の龍神様にお礼を申し上げたいと思います。
 ところで、私の家でお預かりしている出口王仁三郎の耀わんですが、いつのまにか(笑)「十和田」と命名されました。たしかに、あの緑と瑠璃色の色彩は十和田湖そのものです。
 ランドサットからの衛星画像があります。これなんか、まさにあの耀わんそのものですよね。さすが王仁三郎、十和田湖を宇宙から見ていたというわけですか。
594pxlake_towada_landsat
 さて、十和田湖をあとにした私は、今度は高速で急いで横手市に戻りました。親戚の皆さんが温泉で私の誕生日イヴを祝ってくれるというのです。ありがたや。
 その宴もゆったりまったりと終わり、さあ夜も更けてまいりましたので、そろそろ出かけましょうか。そう、今日は久しぶりにあの西馬音内(にしもない)の盆踊りを見るのです(18日づけの記事に続きます)。

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2010.08.15

お盆の秘儀@羽後町田代天神堂

Uni_4819 あ、今日は今日でまたいろいろ面白いことがありました。フィールドワーク収穫大。秋田の文化風俗。仏事または神事。
 まず、土方巽・細江英光の「鎌鼬」の舞台でもあるカミさんの母方の御実家を訪問。
 そういえば、あの写真集で重要な役割を果たされ、また私たちの突然の訪問にも快く対応しくださった高橋市之助さんご夫婦、残念ながらお二人ともこの1年のうちにお亡くなりになってしまいました。あの日うかがったお話、すなわち昭和の風景、心を語り継いでいかねばなりませんね。
 さて、ここからさらに一山越えた、以前カミさんの実家があったところでは、いまだ仏教が伝来しておらず(!)、いわゆる神道式のお盆(?)が行われていましたが、こちらは門前という地名が物語るように近くにお寺もあります。
 で、まずは盆棚です。上の写真をご覧下さい。秋田でよく見られるタイプの盆棚でしょう(あまり詳しくありませんが)。そして当地のお盆の秘儀(?)を拝見。ふむ、これは全く初めて見る光景です。
 先祖から伝わっている香炉がありまして、そこにある決まった手順で抹香を盛り、そして火を付けるのです。動画で撮影してきたのですが、とりあえず静止画にして紹介します。
↓盆棚の右手前の燭台の横に大きな香炉があります。その網目状のフタを開けますと、このようになっています。
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↓そこに写真のような模様(梵字?)の穴が空いた木枠を乗せます。
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↓裏山から取ってきた葉(おそらく「樒(しきみ)」の葉)を乾燥させて粉末にした抹香をまきます。
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↓それを専用のヘラで平らにのばします(穴に粉を詰める)。
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↓さらに専用の木片(板)で、その穴に詰めた抹香を固めます。この専用具で全ての「画」の穴の大きさに対応しているようです。
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↓長老から指示が飛びます。
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↓木枠を取り除くと、盛香で模様(梵字?)が描かれます。
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↓そこに普通の線香で着火します。かすかな香りの煙が立ち上ります。
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 う〜む、これは興味深い。実際こういう抹香の焚き方がどの程度一般的なのか分かりませんが、とりあえず私は初めて見ました(詳しい方教えてください)。
 こういう伝統もしっかり継いでいかないと、いつか消えてしまいそうです。


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2010.08.14

稲住温泉(@秋の宮温泉郷)

Gedc0806 あ、私たち家族は秋田にやってきました。昨日の晩餐のあと、一晩中車を走らせて朝の9時頃に横手市の十文字に到着。私はそこから数時間死んだように眠りまして、そして午後からさっそく活動(フィールドワーク)開始です。
 昨夜の興奮冷めやらないまま、白井晟一作品を拝みに行きましょう。ついでに温泉につかって旅の疲れを癒します。向かうは秋ノ宮温泉郷にあります、老舗旅館「稲住温泉」です。
 到着した私たちは、白井晟一デザインが残る玄関をくぐって、まずはお風呂へ。秋田と言えば温泉ですよねえ。私も秋田に縁ができてからというもの、いろいろな温泉に入らせていただきましたが、ここのお湯は今までで一番のお気に入りになりました。
Gedc0797 写真を見てください。ここが昼間は男性用の露天風呂です。今日は時間の関係で、私はここだけ入浴。手前に比較的大きな湯船があり、その先、山と谷を望むちょっとした舞台に釜風呂二つと桶風呂があります。
 私と入れ替わりに地元の方とおぼしきオジサマが一人上がりまして、結局このお風呂を独占させていただきました。ふむ、この薄めでぬるめの味噌汁のようなお湯がいいぞ。私、基本的にぬるめで濁ったお湯が好きだものでして。
 大雨のあとのなんとも生命力にあふれた森に囲まれて湯につかり、私は完全にリフレッシュ。昨日からの流れもあって、ワクワクドキドキが止まりません。
 お風呂だけでなく、館内のちょっとした部分に、古き良き昭和の味わいがにじみ出ています。白井晟一の個性をも呑み込む、いわゆる旅館風情でしょうか。
 お風呂へ向かう道すがらの光景をちょっとご覧下さい。
 ↓客室の並ぶ廊下。
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 ↓ミニ卓球台がある洗面所。
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 ↓トイレの表示。
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 白井晟一は置いておきまして、ここ稲住温泉は武者小路実篤とも縁の深いところです。疎開先であった当地を大変気に入り、その後何回かここを訪れています。館内には武者小路直筆の書画や書簡などがた〜くさんあります。それだけでも、かなり貴重な宿と言えますよね。
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↓人見るもよし人見ざるもよし我は咲く也
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↓桃栗三年柿八年達磨は九年俺一生
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 さていよいよ白井晟一作品を鑑賞いたしましょう。というか、一番大きな白亜の洋館全体が白井の作品「浮雲」なんですよね。もちろん、その後の改装で全てが往時のままではありませんが、なんとなくその風情には彼らしい個性が残っています。
↓栗をぜいたくに使った柱や窓枠。漆喰は当時のままだとか。
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↓1階の会議室。昔はダンスホールだったとか。
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 一番見たかった白井の傑作「離れ」は宿泊客がいらっしゃったため今日は断念。ちょっと高いけれども、ぜひ一度は泊まってみたいですね。
 さて、もう一つこの宿の売りは「愛ちゃん」です。卓球の福原愛選手です。先代のおかみさんが愛ちゃんのおばさんに当たるのだとか。それだけでも結構すごいことですよね。
 そして、その愛ちゃんの練習のための建物「友誼館」もまた重要な白井作品であります。旧秋の宮村役場を移築し、そして卓球場として改装したものです。
 中は別として、外見は往時のままです。1951年、この山の中に、こんなモダンな建物があったとは…。しかし、意外にストンと腑に落ちる感じもする。やはり縄文は超近代的なのでしょうか。
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 そうそう、愛ちゃんと言えば、こんな物も展示してありました。愛ちゃん5歳の時の手形。そして、私はその隣の大きな手形に注目しました。「世界巨人 金富貴」…韓国の僧侶ですね。昭和12年に来日し、東京巨人倶楽部に入った時の手形のようです。どういう縁でここに…。
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 というわけで、本当に見どころ満載の温泉宿です。皆さんもぜひ行ってみてください。こんな秘境にこんなステキな宿があるなんて、なんだか不思議な気持ちになりますよ。

稲住温泉 公式


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2010.08.13

またまた不思議なご縁

Sirai 築家白井晟一です。こんなところで彼の息吹に触れることができようとは。またまた不思議なご縁のおかげで、貴重な体験をいたしました。
 私はたしかに人以上に「不思議なご縁」に恵まれている人間だと思います。想定外のご縁にどれだけ助けられ、また、楽しませていただいてることか。
 皆さんにも判断していただきたく、ごく簡単にではありますが、その不思議なつながりを説明したいと思います。
 まず、全ての発端はフジファブリックの志村正彦くんでした。そういう意味でやはりまずは彼に感謝せねばならないでしょう。
 彼が亡くなってからいろいろな方々から連絡をいただきましたが、その中にタイにお住まいの方がいらっしゃいました。その方とは、志村くんのグローバルな才能と魅力についてよく意見をかわしました。実際、その方は彼の曲をタイ語や英語に翻訳してアジアに、そして世界に紹介してくれています(こちら)。私ももともとフジファブリックの音楽は絶対にアジアやヨーロッパで受けると信じていましたので、とてもうれしい出会いでした。
 その方が山梨の甲府出身の方だったこともあり、何度かお会いする機会も得ました。その時は単純にフジファブリックファンどうしとしての話しかしていなかったのです。まあ当然ですよね。
 しかし、ある時驚きのメールをいただきました。そのキーワードが「白井晟一」だったのです。
 昭和を代表する巨人の一人とは言え、まあそれほどその名を知っている人はいないと思います。私もたまたま、本当に多少建築に興味があって、いろいろな大家の一人としてその名前と、それから作品として「芹沢銈介美術館」を知っているくらいでした。私は静岡の出身であり、芹沢銈介は私の高校の大先輩にあたるからです。
 その白井晟一を特別に意識するようになったのは、バッハつながりで知り合ったある建築家の方のおかげです。彼は私と同様にバロック・ヴァイオリンを演奏するアマチュア音楽家でもあります。
 たまたまある演奏会でその方と御一緒する機会があり、そして、その打ち上げでたまたま隣の席に座らせていただいて、「お仕事は?」という話から、建築の話をちらっとさせていただきました。
 その建築家の方が、白井晟一を卒論で扱うほどのマニアだったわけです。それで私も俄然白井に興味を持ち、ちょっと調べてみてまたビックリ!
 なんと東京生まれの白井晟一の作品が、ウチのカミさんの秋田の故郷付近、湯沢や横手や雄勝に大量に残されているというのです。なんでも、白井は疎開で行った秋田をとても気に入ったらしく(おそらくその「縄文性」でしょう)、多くの公的な建物や個人の住宅を残したのでした。
 それまでそんなことは全く知らず訪れていたその地が、特別なものになった瞬間です。さっそく次の来訪の折には、白井作品を尋ねて回りました。その時の記事はこちらです(土方巽との縁も不思議すぎますよねえ)。
 そして、そんな不思議な縁はそこで止まりませんでした。ついに今日、その白井晟一が手にした物を私自身も手にしてしまった!
 さて、話を戻します。フジファブリック関係で知り合ったタイの方からのメールの内容です。なんと、その方のお父様が白井晟一と一緒に仕事をされていたというのです!えっ?そ、そんなことがありうるのか!?
 いろいろな意味でご縁のタイミングがずれていたら、このような出会いはなかったことでしょう。私は本当に不思議で不思議でなりません。
 そして、今日、タイから帰国されているそのフジファブリックファンの方からお誘いを受けまして、甲府の御実家を家族で訪ね、そしてお父様とお話をする機会を得たのです。
 まずその素晴らしいお宅に感動いたしました。ライトの孫弟子(レーモンド設計事務所の方)による設計の建物はもちろん、広大なお庭から、ご家族ご親戚の皆様、そして飼われている猫ちゃんからワンちゃんに至るまで、本当に素晴らしかった。お世辞でなく、なかなか得られないご縁だと思いました。
 その家の主であられるお父様は、建築の内装材、外装材のメーカーの社長さんでして、多くの建築家の方々から信頼を得ている、その道ではたいへん有名な方でした。
 白井晟一のほか、私もよく知っている昭和の建築の巨人たち、丹下健三や内井昭蔵、村野藤吾らとも多くの仕事をなさり、そうした方々ととってもフランクにおつきあいなさっていたとのことです。もう、それだけでも、私からしますと「神」レベルの方です。
 しかし、私のような見ず知らずのシロウトに、とても優しく分かりやすく建築のお話をしてくださいました。ううむ、昭和の巨人もすごいが、その巨人から愛されたこの職人さんもすごい…。なんと言っても、その謙虚さですね。どの道でも超一流の方はみな「謙虚」です。
 ありがたいことに、それぞれの先生自身からもらったという、作品集や書簡などを見せていただきました。もう本当に信じられないことです。あの大家の皆さんが手にしたものを、私も手にしている…。私は幸せ者です。
 白井先生の話で特に印象に残ったのは、「自宅のトイレに電灯をつけ忘れた」という彼らしいエピソードでしょう。ドアを開けてすればいいじゃないかとおっしゃったその先生御本人は、なんでも庭の玉砂利であたかも猫のように用を足していたとかいないとか…。
 お父様だけでなく、お母様との「隠された歴史」の話も私のツボにはまりまして、本当に素晴らしいひとときを過ごさせていただきました。もちろん、おいしいお料理も存分に堪能いたしました。
 それぞれの皆様と再会を約して、私たち家族は白井晟一の「第二のふるさと」秋田へ向かったのでした。本当に不思議なご縁に導かれて。

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2010.08.12

あの日から25年

Pk2010081302100008_size0 航ジャンボ機墜落事故から四半世紀。あの日のあの瞬間のことは、私にとっても忘れられない、忘れることのできないものとなっています。
 このことについては、6年前にも少し書きました。再びここに書くことについては、もちろん憚られる部分もありますが、やはり、一つの事実として記録していくことにそれなりの意味があると考えますので、記事にさせていただきます。
 まず最初に、この事故で亡くなった方々の魂に、心から哀悼の意を表したいと思います。どうぞ安らかにお眠りください。また、遺族の方々、ケガをされた方々にも、あらためてお見舞いの気持ちを伝えたいと思います。
 あの日、私たち都留文科大学天文同好会のメンバーは、恒例のペルセウス座流星群観測のため、富士山に向かっていました。私の記憶では、夕方の5時頃に都留を出たのだと思います。たぶん15名くらいのグループだったのではないでしょうか。数台の車に分乗していました。
 18時30分くらいにスバルラインの5合目に到着し、観測場所を決めることになりました。結果として、たしか4合目の駐車場での観測となったように記憶しています。
 日本航空123便は、18時24分に非常事態が発生、40分くらいに我々のいる富士山の西側を大きく旋回し、北に向かっていました。その時、高度は6000メートルくらいでしたから、一般の飛行機とそれほど変わりません。私たちはその機影には気づきませんでした(都留ではふだんと違う方向に飛ぶ航空機を目撃した友人がいました)。
 18時50分頃、私と友人2、3名は、5合目駐車場の北端から、北の空を眺めていました。そろそろ辺りが暗くなり始め、いくつかの1等星が肉眼で確認できるような夕闇の状況だったと思います。
 当日は素晴らしい快晴であり、5合目からは周囲の山並みを鮮明に見ることができました。私たちはたまたま北方向、つまり奥秩父の山塊の方角を見ていたのです。あまりの天気の良さ、空気の透明度の高さに、我々は興奮ぎみでした。
 18時56分。まさにその時だったのでしょう。私たちは遠い奥秩父の山塊に、小規模な閃光を見ました。たしか2回光ったと思います。私たちはこんな会話をしたと記憶しています。
「今のなんだ?」「雷かな」「いや、雲もないし、雷光ならもっと広い範囲が光るよ」「うん、2回だけっていうのも変だな」
 もちろん私たちは航空機の墜落があったなどとは知る由もありません。当時は知る術もありませんでした。
 結局「?」は「?」のまま、4合目に移動し、いつもどおり流星観測を開始しました。私は記録係だったので克明に覚えています。あの晩、私たちは500を超える流星を確認し、記録しました。
 ここで私は正直に申し上げます。今となっては大変不謹慎な発言ですが、本当のことなので隠したくありません。ただ、自己弁護するのなら、とにかく私たちは事故が起きていることを知る術がなかったのです。事故が起きていたことを誰も知らなかったのです。
 「今日はたくさん人が亡くなったのかなあ…」
 世界には古くから、「流星は死者の魂である」という考え方があります。私はそんなことを思い出して、深い考えなくそんなことを言ってしまったのです。
 私たちは観測の大成功に喜びながら、朝日に照らされた富士山を下りました。都留の下宿に到着したのは朝の6時半頃だったと思います。そして、私たちは、いつもの場所に無造作に置かれた新聞の朝刊のその異様に大きな活字に目を疑いました。
「524人乗せ日航機墜落」
 私はすぐに、さきの言葉を発してしまったことを後悔しました。あまりのショックに新聞を持つ手が震えます。
 私は記事をむさぼるように読みました。18時56分、南相木村の御巣鷹山…地図を見て戦慄が走りました。それは、あの閃光を見た時間、そして方角そのものだったのです…。
 あれから25年経ちましたが、あの衝撃の記憶は決して消えることもなく薄まることもありません。
 もう二度とこのような悲劇は起こってほしくないし、起こしてはならないと思います。あらためてお亡くなりになった方々の魂が、安らかに天に召されることをお祈り申し上げます。
 毎年、この季節になり、ペルセウス座流星群を見るたびに思い出します。今日も自宅の窓から、いくつかの星が流れるのを見ました。あの日以来、私にはそれが天の涙に見えてしかたありません。

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2010.08.11

宇宙人(もしくは土左衛門)@小土肥海水浴場

Uni_4805 日は忙しかったけれど、精神的に大充実!!自分がパワーアップしたような気がします。
 さてさて、夜中に富士山に帰ってきまして、2時間ほどの睡眠ののち、ご近所さんと伊豆の海に向かいました。けっこうハードなようですが、今日は頭を使わず体を使うので大丈夫。
 それも私にとっての「海」は「泳ぐ」ところではありません。「浮かぶ」ところですから、全然体力も使いませんし、海面上でゆっくり睡眠もとれます(笑)。
 私、人から「宇宙人」と言われることが多いのですが、こんな点ももしかしたら人間離れしているのかもしれません。
 そう、以前書きましたよね。何年前だろう。ああ4年前だ。そこにもあるとおり、私はどうも地球人ではないようでして、異様に比重が小さいんですよね。特異体質なのでしょうか。とにかくプカプカ浮くんですよ。大波が来ようと、まるで漂流する大木のように沈むことがないんです(笑)。
 で、あれからもう4年も経っているし、その間、食生活も変化していますし、もしかするともう浮かばないかもしれない、もしそうだとすると、泳がねばならないので運動不足かつ疲労のたまったこの肉体には酷だよなあ…などと考えながら、おそるおそる海に入りましたら、なんだ、ちゃんと浮かぶじゃないか、それも以前よりもさらにパワーアップ(なんの力だ?浮力か?)しているようにも感じられました。ふむ、これで休める。
 行ったのは、伊豆の西海岸、土肥のお隣の「小土肥(おどい)」です。ご近所さんおススメの海水浴場。うん、たしかに混んでないし適度な波もあって心地よいぞ。
 あんまり泳げない女の子4人がいましたので、私は彼女たちの世話をしながらブカブカと浮いていました。ホントにラッコ状態なんですよ。なんの憂いもない。ただ空を眺めていればよい。寝ても大丈夫。
 ただ、睡眠不足の割にはなぜか全然眠くならなかったので、基本今回は海上睡眠はなし。テントの中でお酒呑んでちょっと寝たくらいです。
 さて、その私のプカプカぶりですが、ちょっとご覧いただきましょうか。カミさんに撮影してもらいました。本当は動画なんですが、あんまりにも馬鹿らしいので静止画にしておきます(笑)。
 まず、基本。あおむけ寝。ラッコというより、土左衛門ですな。永遠に浮かんでいられます。いかに脱力するか、無念無想になれるかがポイントです。
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 続きまして、うつぶせ寝。これはなかなか高度な技ですよ。完全につっぷしてしまうと本物の土左衛門になってしまうので、いつもふとんの上でやっているうつぶせ寝と同様に、顔の下に手を置いて、つまり手枕をして寝ます。写真ではちょっと傾いていますが、うまくバランスを取ると完全なうつぶせも可能です。
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 次は涅槃図です。つまり、右ヒジを立てて頭を支えています。お腹がいっぱいの時はこれが一番安定します(笑)。
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 ついでに左手を腰に当ててみました。これも意外に安定します。
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 さすがに周りの人たちも変な目で見ていました。これら以外にも変な技、たとえば水中座禅や人間魚雷回天ならぬ回転などをやって遊んでいました(笑)。
 いやあ、海は楽しいし、疲れがとれますねえ。たまにはいいものだ。
 ただ、宇宙人は日焼けに弱いんです。日焼け止め塗っても全然ダメ。そうそう、私の肌も地球上の材質じゃないんですよ。それについては、また紹介します(笑)。
 カミさんが私のためにテントを買ってきてくれたんですが、本物の安物(?)でして、はっきり言って紫外線だけを通す材質でできていたものだから、もう大変。日陰なのに焼ける焼ける!痛い痛い!
 というわけで、今の私は因幡の白兎、もしくはカチカチ山の狸状態であります。
 トウガラシ塗ってあげようか、というカミさんの言葉だけでも、ヒリヒリ心にしみるのでありました。

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2010.08.10

「勇」なる方、お二人。

Uni_2581 日は午後から東京へ。ここ数年、私の人生を変えた「勇」なるお二人に会うためです。
 まず高円寺へ。ここのところ高円寺にいろいろと縁があります。
 高円寺駅の南口、そう、フジファブリックの志村正彦くんとの関係で、1月に南口ロータリーという記事を書きましたね。もうほとんど工事も終了して、往時の面影もほとんどなくなってしまっていました。なんとなく寂しい気持ちもしますが、それが時の流れというものでしょう。
 さあ、私は北口に車を置きまして、向かうは世界で唯一本当のプロレスリングを教えているジム「スネークピット・ジャパン」です。今日はジムの代表宮戸優光さんに、ウチでとれたトウモロコシをお届けしようと、そういうわけです(笑)。
 ここのところ、プロレスの勉強会も、私自身の都合がいろいろあって参加できないでいたので、ずいぶんとお久しぶりな感じがしました。ご自身のジムの運営、若手の育成、IGFでのお仕事などなど、きっととってもお忙しいのでしょうが、なんとなく余裕を感じさせるのはいつもどおりさすが。
 そして、眼光鋭く物事の本質を見極め、それを的確に伝える言葉の重さは相変わらず。渋滞のため到着が遅れ、実質30分くらいしかお話できませんでしたが、私も私なりに感じている地方のプロレス熱の再燃などについて、お伝えしました。
 一つ興味深かったのは、「1.5回」体験されたという「合気道」的な瞬間のお話。これから出口光さんの話を聴きに行くというところから、出口王仁三郎、そしてその弟子にして合気道の創始者植芝盛平の話題になって、そういうお話を聴くことができました。なるほど、そういう瞬間があるそうです。自分が相手をコントロールするという、そういう理想的な状態を、さらに超えた境地。コントロールしたという意識もなかったと言います。勝手に相手が負けたというか…。宮戸さんもそういう部分に大きな興味をお持ちのようです。
 さて、再会を約し、さらにおやみげまでいただいて、ジムの外に出ますと、世界グラップリング選手権金メダリストのタカ・クノウ選手がジムのオープンをお待ちでした。少し御挨拶させていただいて、電車に飛び乗り、いざ渋谷へ。
Uni_2501 一昨日お世話になった出口光さんの講演を中心とした「個性認識学講座」への参加です。またいずれ詳しく書く時が来ると思いますが、「四つの個性学(一霊四魂)」を中心とした古典的かつ斬新な発想で、自己および他者の個性を認識し、そして、それによって人間関係に革命を起こすというものです。
 これが非常に面白かった。書籍などである程度の知識を持っていましたし、また、仕事柄そういうことを無意識のうちにやって来たと思いますけれども、光さんの志はもっと先の次元にまで到達していました。
 単純にその人の個性を見分け、あるいはその人のいいところを見てそれを挙げるとか、そういう次元ではありません。いわゆる短所であったり、他者からの非難の言葉であったり、また本人の嘆きであったり、そういうマイナス要因と考えられがちなところを、逆に魂の本質へのアプローチの入り口にするあたり、さすが思考のスケールが違うと思いました。
 そして、それが「知識」で終わることなく「認識(の変化)」にまで発展し、さらにそれを互いに伝え合う「言葉」の重要性、あるいは技術にまで及ぶところがまたすごい。これは教育に最も有効利用できるのではないでしょうか。
 私もそれをどこまで現場で活用できるか。いろいろと研究、研鑽が必要なようです。最終目標は全人類の人間関係の改善です。何を妄想しているのかと言われそうですが、私たちは大まじめです。船井幸雄さんもおっしゃる「百匹目の猿現象」の、その百匹目に自分がならないとは限らないですし、私の関わった人たち、たちえば生徒たちがその百匹目にならないとは限らないからです。
 四魂とは「勇」「愛」「智」「親」のことです。私はたぶん今までは「親」の強い人間だったと思います。比較的全体のバランスを見て、波風立たせず周囲に気を遣い、誰とでも平等につきあってきたのではないでしょうか。それは自分でも非常にいいことだと思ってきましたし、今でもそう思っています。
 宮戸さんは、私から見ますと明らかに「勇」の人。行動第一。大義のためなら命をも捨てる強さを持った方です。出口光さんも、自らを「勇」の人であると認識しています。
 「親」の対極(対角線)にある「勇」の力を得るということは、私にとっても非常に大きな意味があります。「智」と「愛」もそこそこ自分は得意とする分野でした。ただどうも足りなかったのが「勇」だったのです。最近の私は、「勇」なる方々に引っ張っていただいて、ずいぶんと変った気がします。
 特に今日お会いしたお二人には、本当に多くのことを教えていただき、また、いろいろな方を紹介していただき、私の隠れた何かを引き出していただきました。ありがとうございます。
 これからはお二人をはじめとする多くの方々の恩に報いるよう、さらに頑張って参りたいと思っています。

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2010.08.09

「王仁魂インタビュー第4弾」が掲載されました!

20100809_150042 〜む、こうしてオニさんと一緒に写真が掲載される時が来ようとは、いったい誰が予想したでありましょうか。私が予想していないんですから、誰も予想するわけないですよね(笑)。いや、オニさんは予想していたのかも。
 というわけで、このたび、「王仁魂復活プロジェクト」のホームページ「出口王仁三郎ミュージアム」の人気コーナー(だそうです)王仁魂インタビューの「インタビューされる人」に抜擢していただきまして、いろいろと語らせていただきました(インタビュー記事はこちらです)。
 第1回の歌人笹公人さん、第2回の宗教学者上本雄一郎さん、第3回の俳優上杉祥三さん、そしてワタクシですか!?w…というか、「日本語・日本文化研究家」だったんだ、ワタクシ…。なんて、今回自分でこの肩書き考えました(笑)。
 自分の肩書きって、今までは普通に「学校のセンセイ」だと思っていたんですが、どうも最近、そっちは副業のような気さえしてきたんですよねえ。そんなこと言ったら怒られるか。ま、本業がいくつもあるというか。寺山修司的にカッコつけて言えば、「職業は山口隆之」ってとこでしょうか(笑)。でも、寺山流に書いちゃうと「山口隆之として活躍中の山口隆之さん…」とかいうことになってしまいますからね。いや、文脈的には間違っていないか。「学校のセンセイとして活躍中…」では、やや事実に反するかもしれない(苦笑)。
 実は、このインタビューの内容、ほとんどが7月15日の王仁魂講演会の内容とかぶっております。
 実はあの講演会、ほとんどアドリブだったんですよねえ。それを事務局長の飯塚弘明さんがちゃんと記録して活字に起こしてくれたんです。それをもとにインタビューをしてくれましたので、私としても助かりましたし、いろいろと復習になったり、頭の整理もできたりしました。いつもながら、ありがとうございます。
 こんなことを言うとまったく無責任なヤツだと思われるかもしれませんが、今回こうして文章になったものを読みますと、自分でも「なるほど〜、そうかそうか」とか思ってしまうんですよ。
 そう、こういう「語り」って、音楽のアドリブと同様に、人前でアドリブでしゃべる時というのは、一種のトランス状態になっているような気もするんですよね。
 いわば、出口王仁三郎の口述筆記状態みたいなものでしょうか(レベルが違いすぎるって)。それでも、たしかにそういうところがある。あんまり自分の頭で考えきってしまわないで、その場の空気、流れにまかせるというか。他力というか。無我というか。
 ワタクシ流に言えば、「コト(自己)」より「モノ(他者)」、すなわちそれこそが「モノガタリ」なのでは、とも考えているわけですが、ある種のトランス状態で、自分が何かと何かの媒体(ミーディアム・メディア)になるという「カタリ(語り・騙り)」というのがあるのはたしかです。
 期せずしてそれを体験しました。おそらく、「語り手」たる多くの芸術家はそういう体験をしているのではないでしょうか。あるいはスポーツ選手なども。頭で考えすぎていると一流にはなれません。
 そんなわけで、まるで自分がしゃべったのではないような気さえします。だからこそある程度面白いモノが語れたのではないかとも思います。
 今回、このような機会をいただき、過去の自分、今の自分、そして未来の自分が一本の線につながったに感じました。このように「公的な(私的ではない)言葉」によって自らを客観的に顧みることができるというのは、まさに「言葉」の功罪の功の部分ですね。
 皆さん、本当にありがとうございました。

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2010.08.08

メキキの会14周年祝賀会 『美しい国 輝く未来』

↓パンフレットより
Gedc0778 日もまた、素晴らしい仲間に囲まれての至上の時を体験させていただきました。
 天命に目覚めた志あふれる人々の気脈ネットワークである「メキキの会」。その14周年のイベントに、同会会長である出口光さんらのお誘いを受けて参加してきました。またまた素晴らしい出会いもあり、感動、そして勉強の充実の時間を送らせていただきました。
 まずは第1部の「雅楽」公演でガツンとやられました。発見多数。いやあ、素晴らしい演舞でありました。私、比較的雅楽に触れる機会の多い人間です。今まで何回も生で聴いてきましたが、今日は格も質も一段違いました。
 宮内庁楽部の生の舞台をこんなに間近で鑑賞するのはもちろん初めて。さすが国の重要無形文化財。そして、昨年ユネスコ無形文化遺産保護条約「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に載っただけのことはあります。いや、そんな「言葉」はどうでもいい。
 「ことのは」としてではなく「もののね」として、私は雅楽の本質をつかんだような気がしました。そうか!今まで何を聴いていたのだろう。いや、聴きすぎていたのに違いない。
 そこには、「もののね」としての、ある種の混沌や混濁、そしてそこから生まれる不可予知なる新たな「響き」、まさにある種不随意な「モノの音」がありました。これこそ、たしかに日本の姿だ。理屈を超えた、あるいは人間の意思を超えた「和合」。
 形式(コト)から生まれる自然(モノ)。なるほど、日本における音楽、「もののね」の本質はここにあったか!これは本当に驚きであり興奮でありました。ひとえに、楽師の方々の技量と精神性から生まれた現象であったと思います。
 いちおう、プログラムを記録しておきましょう。

管絃
・平調音取
・越殿楽
・朗詠「嘉辰」
・陪臚
舞楽
・貴徳
・蘭陵王

 舞いにおける多様性の見事な統合には鳥肌が立ちました。これをもって正統日本の舞ではないと言うことも簡単ですが、もうそういう次元ではありませんね。なぜなら、私の知る限りの古代の舞もしっかりそこに含まれていると感じたからです。
 あと、これはまあ失礼な見方かもしれませんけれども、ワタクシらしく書いておきます。一人舞も入場からしてプロレスだ!素晴らしい覆面レスラーのパフォーマンスでした。意外なところに引き継がれているなあと感じました。
 武器や戦闘の動きを昇華して、平和を見せるあたりも、実はそのあたりの現代文化とつながっていると感じました。大相撲よ、ますますしっかりせい!
 さあ第1部だけでもかなりお腹いっぱいになりましたが、第2部がまた素晴らしかった。
 たまたま同じテーブルになった皆様とのステキな出会い。そして、経済アナリスト藤原直哉さんの講演。私が普段考えていることを、平易に、そして明解に語ってくださりました。そう、日本は全然ダメじゃない。変革のチャンスなのです。もっとゆっくりでいいのです。とにかく負の集団気分だけはやめたいですね。言葉の弊害です。
 そして、出口光会長の講演。私たちがいかに自らの天命に気づき、そしてそれを仕事として実践し、互いに気づき合い、つながり合い、世の中をよくしていくか。経済的、経営的な損得勘定を超えた、もっと大きな地球規模、いや宇宙規模での「志」の大切さ、命が有限であるからこその時間の大切さなどを、しっかり勉強させていただきました。
 また今年から、メキキのネットワークは、ついに船井幸雄先生の「にんげんクラブ」と一つにつながるとのこと。その報告が、船井勝仁社長からなされました。これは大きな一歩だと思います。
Gedc0777 というわけで、ワタクシも大変遅ればせながら、メキキの会員とならせていただきました。というか、私なんかでいいんでしょうか。
 それでもずうずうしく光さんと記念撮影。考えてみれば、この1年の個人的な大激動は、光さんからの拙ブログへのコメントから始まったのでした。本当に不思議な力を持った方です。
 船井社長とも初めてお話しさせていただきましたし、最近ご指導いただいているスーパー歌人の笹公人さんにもちゃっかりサインをいただき、その他いろいろな分野での同志とお会いすることができまして、本当に夢のような時間を過ごさせていただきました。
 こうしたご縁をいただいたことに感謝し、今度は私が様々な人々、そして世の中に貢献していく番だと強く感じました。まだまだ勉強不足、努力不足な私でありますが、どうかよろしくお願い申し上げます。
 教師という仕事は、どうしても世界が小さくなりがちです。こうして異業種の一流の方々から直接いろいろなことを学べるのは、そういう意味でも大変にありがたいことです。まだまだ勉強することは無限にありそうです。
 うむ、これからの人生、ますます楽しそうだぞ!

メキキの会 公式

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2010.08.07

都留文科大学国文学科創設50周年記念講演会&パーティー

08_7_25_36 日とは打って変わって超文系の講演会。演題は「国文学と筆跡の認定」&「壷井栄論−作家誕生の秘密」。う〜む、ワタクシ的にはかなり萌えな内容ですが、一般の方にはどうなんでしょうか(苦笑)。
 なにしろ「文科」ですから。「理科」の対極であるのはあたりまえ。よく「文化」と間違われるんですよね。なんで、「理科」という言葉は残って「文科」は消えてしまったのだろう…そういう時代、世界の潮流だったんですかね。
 さて、久保木哲夫先生の「国文学と筆跡の鑑定」は、オリジナル主義の私にはなかなか面白い内容でした。いやいや、それ以上に四半世紀前と全く変らぬお姿の久保木先生にビックリ。相変わらず背筋が伸びていらっしゃる。話し方、声、マイクの持ち方まで懐かしく、一瞬タイムスリップしたような気分に。
 ふむ、筆跡鑑定にも「文学」は有効であると。たしかにそうですよねえ。たとえば音楽でも自筆譜の認定には、当然その内容、すなわち音楽性も関与してきます。表面上のデザインだけで認定するなんてとんでもない話ですね。ま、バッハの奥さんのように、旦那さんの作品を旦那さんそっくりの「筆跡」で写譜しちゃった人もいますが。
 昨日からの流れもあって、「この発見(筆跡の認定)が、いったい人類の何に寄与するのか」なんて、それこそ野暮な発想もないではなかったわけですけれど、やはり、そういう「真」を追求、追究する心こそ大切なのだと思いますよ。
 そういう意味では、鷺只雄先生の「壷井栄論」もそう。たとえば壷井本人からすると、いろいろせっかく隠していたり誤魔化していたりしたものを暴露されて迷惑なわけだし、壷井やらその周辺のプライバシーが人類の何に寄与するのかわからんわけでして、そういう意味では、文系(文科)の研究なんて自己満足だという、そういう意地悪な言い方もできるわけです。
 また、こういう言い方も叱られるかもなんですが、理系は未来の学問、文系は過去の学問という分け方もできますよね。そうすると、やはり過去の遺産、過去の人類の営み、真理の追究の足跡を再評価、再検討するというのは、これは未来のそれよりも価値があるような気もしてきます。
 「未知」の領域は、過去にも未来にも同様に広がっているはずです。なぜなら、私たちはそうした無限の時間の流れの一点にすぎないわけですから。過去とか(現在とか)未来とかいう「コトワケ」自体も、私たち人間の勝手な感覚にすぎません。未知の「モノ」は無限に広がっています。
 さてさて、自分の過去を顧みる意味でも、今回の記念行事はいいものでしたねえ。パーティーでは、懐かしい同級生、クラブの先輩、後輩たちとの再会、先生方との交流など、とっても楽しい時間を過ごさせていただきました。
 私の代は7人の出席があったのですが、うち6人が我がクラスの面々でした。さすが、級長がいいからだ!とイヤミを言われました(私が級長でした…笑)。その他にも、もう一生会わないであろうリストに乗っていた方々(失礼)にも、期せずして再会することができ、それはすなわち、自分の「若気の至り」の復習及び反省の時間ともなったわけで、それはそれである種「文系」「文科」的な邂逅ではありました。これこそが「文系」「文化系」の楽しみそのものなのではないかとさえ思いました。
 うん、私「文科」で良かったかも。「理科」の先生になるべく受験した第一志望校に落ちて良かった。今の自分に全て満足していますので。そう考えると実にいい大学でした。あの時の出会いが、今の自分の仕事や趣味や家族につながっていますからね。
 先生方ともお話しましたが、これからはそんな母校に何らかの形で恩返しをしていきたいと思っています。

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2010.08.06

野口聡一さん講義 in「創造性の育成塾」

20100806_5_noguchi01 島原爆の日、宇宙飛行士野口聡一さんの講義を聴きに行ってきました。
 ここ富士吉田市で行われている「創造性の育成塾」の講義の一つです。まずは、いろいろ説明する前に、今年のこの塾の時間割を見てみましょう。こちらです。
 これはすごすぎますね。いきなりノーベル物理学賞二人に塩じいか…。
 この中の一つが野口さんの講義ということです。対象は全国から選ばれた中学2年生48人。いわば全国レベルの「理科好き」、未来の日本を担う「理系くん」「理系ちゃん」ですね。
 そこに私が参加させていただいたのは、富士吉田市内の中学に勤めているという地の利のおかげです。ウチの生徒も4人特別に入れてもらいました。
 たぶん集まっている中学生の偏差値は平均88くらいだから、まあ多めに見ても55くらいのオレたちが5人入ると、えっと偏差値が3くらい下がるな…などと、いちおう理系っぽい(?)話をしながら会場入りした私たちを待っていたのは、たしかにこれは88だなと思わせる「メガネっ子」軍団。メガネ率70%弱。
 たぶん、中学一年生の頃の私は、こういう感じだったと思います。自他ともに私は理系だと思っていましたし、まあ中一まではけっこう頭が良かったと思いますので(笑)。どこで人生間違ったのかな…。
 そう、もし中二の時、この塾に参加していたら、きっと私は本気で理系に進んでいたことでしょう。それほど、この塾は充実しています。講師との出会いだけでなく、全国から集まるよきライバルたちとの出会いが、人生を変える大きな刺激となることでしょう。ちょっとうらやましい。
 ま、そういう出会いがなかったのも、私にとっては運命だったのかもしれませんね。その代わりと言ってはなんですが、中一の時に教育の神様大村はま先生に出会ったわけですから。
 さて、野口さんの講演というか講義、非常に面白く勉強になりました。特に後半、塾生ほとんど全員による質問コーナーには感動。まず、中二の塾生たちの質問がすごい。だいたい、ああやって違う質問が数十出てくること自体がエリート集団ですね。日本語力もなかなかのもの。ウチの生徒たちは呆気にとられています。世界が違う…。
 それに対して実に的確に、そして端的に、ユーモアも含めながらていねいに答えていく野口さんが、またすごい!この人は本当に頭がいいんだなあ…宇宙飛行士として、地球人を代表して宇宙に行くには、いわゆる偏差値の高さを超えた「頭の良さ」「賢さ」が必要なんだなあと実感。人徳を感じましたね。
 特に印象に残ったのは、「野口さんにとって『創造性』とはなんですか?」という塾生の質問に対する答え。
 「創造性というのは、method ではなくて view 」「方法論ではなく着眼点を変えること」「やり方を変えるだけでは創造性ではない」
 これには、思わずうなずかされました。そうそう、その通り!
 講義を聴きながら、ずっと考えていたことがありました。創造性って、自然科学だけに必要なものではありませんよね。人文科学や社会科学の分野でも、こういう育成塾をやりたいな、そして最終的には両者を融合させたいな。
 原爆の日ということもあったんでしょうかね。「科学」は常に善や美であるとは限らないことにも思いを馳せました。アインシュタインの生んだ「自然科学」が、彼の意思を超えて暴走した結果が原爆であるとも言えます。当然この塾ではそういう勉強もしていることでしょう。しかし、たとえば戦争という歴史を検証するのに、自然科学よりも社会科学や人文科学が有効であるように、やはりそれぞれのバランスが大切だと思うんです。
 そういう意味では、今の私はですね、自然科学の上位に社会科学を、さらにその上位に人文科学を置きたいと考えているんです。基本は人間の心ですから。
 このブログらしい言い方をすれば、「コト」より「モノ」だということです。自然科学は実は人間の脳内の産物であり、典型的な「コト」世界です。実際の「自然」は、実は私たちの埒外である「モノ」なのです。そういう意味で、超近代的な「モノの復権」、私たち人間の脳内で「コトワケ(分析)」されたものたちを、再び総合、統合、和合させるのが、それぞれの科学の先にあるべき「何か」であると思っています。
 この塾は、ある意味最先端ですが、ある意味最後尾でもあるなと、そんなちょっと意地悪な(コンプレックスの裏返しか?)感想を持ったのも事実でした。
 さあ、来年は我が校の生徒にも応募させようかな。とりあえずウチの娘にすすめたら、「行かな〜い」だって(苦笑)。

創造性の育成塾 公式

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2010.08.05

断食に失敗!

↓杉浦 vs KENTA
2010080600000000spnavi_otfightview0 日はなかなか暑い熱い日でしたなあ。
 実際全国的に気温が高かったようです。うだるような暑さ、いや熱さにうんざりされている方には申し訳ありませんが、こちら富士山麓は夜にはひんやり。窓を開けて寝たら完全に風邪がぶり返します。最低気温は15度くらいでしょうか。なんか、ごめんなさい…笑。
 さて、本日は午前中クラブの指導、午後は久しぶりにある青年に会いまして、すっかり意気投合してしまいました。彼は東大で教育学を修めた人物で、ちょうど昨日の記事に書いたような山梨の教育界の現状を打破したいとのこと。素晴らしいタイミングで同志を得た気持ちになりました。これからどういう展開になるか楽しみです。
 その後高校の進学合宿に顔を出し、夜は誘われたBBQを断って断食。そうなんです、ここのところ太ってしまって、ベスト体重を4キロも上回ってしまっていたんです。
 もう一日一食を丸6年続けていて、体質が変わってしまったんでしょうかね。非常に効率良く太るようになって、ここのところもらったアイスとかシュークリームとか、あとちょっと肉を多めに食べたら一気に太ってしまった。
 おかげで体調も悪くなってしまいました。こういう時はプチ断食に限ります。とにかく一食抜くのです。一日一食夕食のみの、その夕食を抜くわけです。そうすると、だいたい二日で2キロくらい簡単に落ち、また、体の毒素のようなものが全部排出されて、なんとなく体も心も一新されたような感じになるものです。
 だいたい夏はやせて冬は太るというパターンだったのですが、今年の夏は不覚にも太ってしまった。単純に運動不足な上に、冷房のかかったところにずっといて汗もかかないからでしょうか。
 というわけで、これは真剣に断食せねば!と思って気合いを入れていたんです。そしたら、まずBBQの誘いの電話が…。家族はそちらに行っているのです。
 ううむ、肉は食べたくないんだけど、なんとその肉を焼いている鉄板というか、肉焼き器は上九一色のあのテロ教団からもらってきたものだというではないですか!どういうBBQなんじゃ!?ww
 しかし、そこは我慢我慢。お断りをしました。断食断食。
 でも、断食はあくまで断食であって、断酒ではありません(笑)。さっそく、缶ビールを開けて、空きっ腹に流し込みました。う〜む、これだと足りない。では、日本酒をちょっとだけ…。
 そうしましたら、ピンポーン…うわっこの時間に誰だ?と思ったら、宅配便でした。おっと、刺客からのお中元だ!笑
 なんとなく悪い(いい)予感がして、開封してみますと、おお!高級缶詰めセットではありませんか!ううむ、このカニ缶は、あまりに日本酒にマッチしそうだあ…。こちらの鮭の水煮もうまそう…、帆立もあるでよ。
 結構食欲という本能には打ち克って生活をしてきた私ではありますが、さすがにこの缶詰めセットの魔力には負けそうだあ。
 これでは刺客の送り主の思うツボではないか…。こうして私の断食計画は破られ、そして過剰なカロリーを摂取し、メタボになり、成人病で死んでいく。ううむ、敵に毒を盛られているようなものだ…。缶詰めというところが敵ながらあっぱれだ。調理の必要もなく、また、いかにも酒の肴になりそうなものを、プチ一人暮らし&プチ断食をしているところに送り届けるとは…。
 と思いつつ、結局、カニ缶を勢いよく開けて、マヨネーズぶっかけて食っちゃいました(苦笑)。あ〜あ、意志が弱いなあ。でも、今日の食事はカニ缶だけ。ま、断食みたいなものか。
 その後、河口湖湖上祭の花火の音を聴きながら、チビチビ飲み、そして、プロレスリング・ノアの10周年大会を、サムライTVのニアライブで観戦しながらもう一杯。ああこの人たちは断食とかと無縁だろうなあ。焼肉10人前くらい食べるんだろうなあ…。同じ人間なのに、全然消費カロリーが違う。俺の人生は細く長くだろうなあ…。この人たちは太く短く。そんなことを考えていたら眠くなってきたので、おやすみなさい。

PS、翌朝(6日)体重を量ったら、ちゃんと2キロ減っていました。もう一歩なので、6日も缶詰め1コで済ませます。

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2010.08.04

やっと国会で…

↓この顔は貼りたくないが…
2010080400000591sansocithum000 日の記事でも、やや挑戦的、挑発的に書いてしまった「山梨の公教育問題」すなわち「山教組問題」。
 今日の予算委員会でようやく自民党議員から質問されました。内容は現職の教員が知り合いにメールで「輿石東」および「民主党」への投票をお願いしたというもの。
 まあ、こんなのは地元では普通のことです。ワタクシのような敵というか抵抗勢力に対しても、今までどおり電話もかかってきていますし、お中元も届きました(笑)。ごちそうさまです(って買収されてるんか?ww)。
 このたびの参院選の山教組の活動については、投票前にこちらの記事を、投票後にこちらの記事を書いていました。
 このたびも積極的に報道しているのは産経新聞だけです。地元山梨日日新聞も、なんとなくこの問題に関しては消極的。山梨で産経新聞を取っている家庭なんかあんまりありませんし、基本フジテレビも見られませんから、地元ではほとんど話題に上がりません。
 これが困ったことなのです。ウチも含めてほとんど全ての家庭で、自らの子どもを預けているその現場がこういう異常な状態だということを知っているのはごく少数。
 いや、まだ最近はいいんです。なぜなら、たとえばYahoo!ニュースなんかで産経の記事が目に入るようになっていますから。逆にYahoo!ニュースで(なぜか)取り上げられない朝日新聞の方がピンチですよね。
 しかし、やはりどう考えても、山梨は他県から笑いものになっているとしか思えません。その事実についても県民はあまりに無頓着すぎます。昔から閉鎖的で、身内の目は異様に気にするけれども、他人の目は全く気にしない気質があるんですよねえ。
 ただ、逆に、他人から誤解されているというのもあると思うんですよね。つまり、山梨の公立の教員の組合加盟率が95%を超えているとしても、みんなが同じような政治的な意図を持っているわけではありません。経験的に言えば、そういうポリシーに基づいて組合活動をしている人は、逆に5%いないと思うんですよね。
 もちろん、そんなこと身内から発言できませんから、私が代わりに世界に発信してあげます。
 いつも書いているとおり、私にとっては公立の先生方は同志であり、尊敬すべき方々であり、またいい意味でのライバルであるわけです。決して「敵」ではありません。
 ですから、あえて私がこういうことを書くのです。私が以前の記事にも書いたとおり、あるいは、産経のこの記事にもあるように、彼らの「善意」や「良心」や「教育的中立」を軽く凌駕してしまうほどの強力な「力」が、その裏側にはびこっているのです。そんな異常な状況から、同志を救いたい…ま、そんな大仰なものではありませんが…という気持ちなのです。
 実際、何人もの知り合いから愚痴をしょっちゅう聞かされています。職場では愚痴も言えない雰囲気らしく、私に対してはけっこういろいろ話してくれます。本当は本来の教育に心血を注ぎたいのだと。そりゃあそうでしょう。彼らを解放してあげたいと思いませんか?
 私は私で、そんなチンケで腐った権力とは格もケタも違う強大な「力」をバックにつけていますから、まあ気に入らない人はどうぞ刺客でもなんでも送り込んでくださいな。あるいはお中元でもお歳暮でも送ってくださいな(笑)。
 とにかく私の故郷となったここ山梨が、日本中から指を差されて笑われ、呆れられるのが堪えられないのです。だからこそ、あえて県民にも国民にもこの実態をしてもらいたい。そこから始めなきゃ、ということです。

参考までにどうぞ

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2010.08.03

『日本人の歴史教科書』 藤岡信勝ほか (自由社)

20100804_84235 日の続きでしょうか。幅広い勉強の一環。よって、この問題に関する議論には応じませんのであしからず。また敵前逃亡。ま、私は愛国的非国民ですから(笑)。
 今日のニュース…天皇陛下から白鵬関にねぎらいの書簡が送られた…いい話でしたね。これこそが、天皇という装置のあるべき意味です。誰も言えないこと、できないことを、それこそ「一言」で「超人」的にやってのけるのが、天皇というシステムです。災害時のお見舞いも、あるいは歴史的に言うなら、あの玉音放送もそのたぐいです。
 もちろん、天皇制には、その時代ごとのいろいろな意味、いい部分も悪い部分もありましたので、一絡げに「万歳」とか「反対」とか叫べません。しかし、万世一系かどうかは分からないとしても、こうして一つの王室が何千年も続いているというのは、たしかに世界史的には異常な事態です。そこに意味を見出さず、現代的な視点のみから、廃絶すべきだとかいう、そういう神経には、残念ながら私は同調できません。
 私は自らソフトな右派を名乗っていますが、まあ、実際の私を知っている人なら、ある部分ではたしかにそうだけれども、ある部分ではどちらかというと左なのではないかと感じていると思います。正直、そんなデジタル的な二元論はどうでもいいんですよ。
 そうそう、近々あるところに私のインタビューが載るんですよ。ある意味アヤシイところに(笑)。それをご覧になれば、そうした右だ左だというようなデジタル的な思考こそが、私が乗り越えんとしている「コト」であるというのがお分かりになるでしょう。
 さてさて、この「日本人の歴史教科書」、なかなかの名著だと思いましたよ。もちろん、だからと言って、ウチの中学で採用するわけではありません。我が家では採用しましたが(笑)。
 これって、いわゆる扶桑社版「新しい歴史教科書」の改訂版と言っていいと思います。本来、左翼的な自虐史観に対する抵抗勢力として成ったはずの「新しい歴史教科書をつくる会」が、その内部で離合集散を繰り返しているのも、まあよくある光景とはいえ、やはりイデオロギーの難しさを感じさせました。結果として、このような不思議なバランスのとれた教科書が出来上がったのは、皮肉と言えば皮肉なことです。
 この本は、検定合格した学校版「新編 新しい歴史教科書」の書店版です。中学を作るにあたり、私も当然この自由社版の教科書にも一通り目を通しました。また、山梨県の教育委員会による「教科書分析」も拝見いたしまして、結局採択は見送りました。それは多分に世間体を気にしてのことです。正直に言えばそういうことです。
 ある意味異常な状態にある山梨県の公教育に対抗するには、思い切ってこの教科書なり、扶桑社版なりを採用する手もあったかもしれませんが、やはり、世間一般の評価と、あと「誤解」ですね。それを恐れて他社のあたりさわりのない教科書を採択しました。
 ただ、一つのメディア・リテラシー教育として、自由社版や扶桑社版、あと昨日の中国や韓国の教科書を教材に使うということもありだと思っています。
 少なくとも、子どもたちには「教科書は正しいとは限らない」ということを知ってほしいですし、昨日も書いたように、それぞれ個人レベルでの「コト」は無限にあるけれども、特に「歴史」にとっては、いわゆる「マコト」は存在し得ないということを、なんとなくでもいいので感じてもらいたいと思います。
 それが他者理解…いや、他者を理解できないことを知る第一歩ですし、理解できなくとも、共存や融和はできるということを知る出発点になると思うからです。また、それは原理主義を防ぐことにもつながりますし、不可理解を暴力以外の方法で解決することを模索する原点ともなるからです。
 お題目だけの「平和教育」とやらを、私もしっかり受けてきましたが、それはなんの役にも立たない情緒論に過ぎませんでした。ある意味自虐史観もそういうセンチメンタリズムから生じているとさえ感じます。もちろんもう一方の立場の極論もそうです。困ったものです。
 しっかし、この自由社版教科書、いろいろと面白いことも起きていますね。だいたいが、自由社の社長さん、思いっきり社会主義者じゃないですか(笑)。それがこういう流れの教科書を出版しているところからして、もう充分にバランスが取れていると言えば取れている。まったく大人の世界は不思議なものです。
 実際、ずいぶん右寄りなのかなと思って読んでみると、秀吉の「朝鮮出兵」が「朝鮮侵略」と表現されていたり、伊藤博文暗殺の安重根が「独立の志士」と表現されていたりと、まあ実に「自虐的」になっていて驚きました。
 私も実際そうだったわけですが、この教科書に対する批判とか抵抗をする人たち、正直ちゃんと読んでいませんよね、きっと。韓国からもクレームがついたそうですけど、彼らちゃんと読んでるんでしょうか。ま、私も韓国の教科書(の一部)を昨日読んだばかりですが…。
 結局、いざこざとか戦争とか「反〜」とか、そういうものは、こうして互いの言葉をしっかり読んだり聞いたりせず、勝手に解釈したり、無反省に誤解したりして起こるものなのでしょう。自国の歴史うんぬんよりも、そういう事実をしっかり学んだ方がお互いのためじゃないでしょうかね。
 おっと、肝心なことを書くのを忘れてしまった。冒頭の白鵬の話に関連して。この本のための特別寄稿、「髭の殿下」寛仁親王による『天皇と日本』が秀逸です。内容がどうのこうのとか、文章作法がどうのこうのではなく、皇室の生のお言葉がこうして私たち庶民の目に触れるということ自体に、その価値を感じます。やっぱり何かが違う。非日常的な、ハレな感じがする。白鵬の感激が少し分かるような気がします。
 それに比べて、他の寄稿「日本を読み解く15の視座」には少々がっかり。ずいぶんと偏った視座しか提示されていないからです。ま、しかたないか。
 ただ、全体を通じて多くの図版の美しさには目を奪われます。日本を眺め直すにはなかなか魅力的な本かもしれません。表紙の写真も実に美しい…ん?これって、どう見ても日本の造形ではないよなあ(苦笑)。

Amazon 日本人の歴史教科書

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2010.08.02

『「中国・韓国の歴史教科書」に書かれた日本』 別冊宝島編集部編 (宝島社)

20100803_81214 年ほど本を読まない年はありません。本当に読むヒマがありません。よってこのブログでも書籍の紹介がほとんどありませんよね。自分としてはとても残念です。というか、よく昨年度まではあんなに読むヒマがあったよなあ…。ま、私はいわゆる「即読(速読ではない)」なので、1冊1時間半くらいで読んでしまうので、今でも読もうと思えば読めるのでしょうが、気持ちの余裕がないのでしょうか。
 余裕のないワタクシなんかワタクシではない!と思います。でも、実際余裕がないんでしょうね。ハッタリ人生、ギリギリ人生の集大成みたいな毎日を送っていますので。
 さて、そんな中、久々に読んだ本がコレっていうのもどうかと(笑)。でも、とっても面白かったので紹介します。
 先に言っておきますが、腰巻きに「これが『反日教育』の現実だ!!」とありますけれど、もしこれが「反日教育の現実」だとすれば、正直「!!」をつけるほどのことはないと感じました。ある意味期待外れ(?)。
 たとえば、冒頭にも書かれているとおり、私たちが異常に気にしている「従軍慰安婦」や「七三一部隊」などは、ほとんど登場しません。肩透かしをくらった感じです。
 「南京大虐殺」や「日帝支配」についても、私が知っている、20年くらい前の両国の教科書に比べると、ずいぶんとおとなしくなっているように感じました。
 高校で最後に持ったギャルクラスには、旧満州からやってきた朝鮮族の中国人がいたり、お母さんが韓国人だったりする生徒がいたりしましたので、いろいろとぶっちゃけ話を聞いてみんなでワイワイ楽しんだりしましたけれど、なんか、いわゆる報道されているほどの「反日感情」を持っておらず…というか、それもあるんだけれども、それ以上に「経済」や「文化」の面で日本に好印象を持っている、というのが実情のような気がしました。
 あっ、そうだ。ここで書いておこう。この問題を記事にすると、必ず「まじめな」人がKYなコメントをくれるんですけど(特にこの季節は多い)、私は議論する気はありませんから、もし書いていただいても、今回は一切お返事しませんのであしからず。敵前逃亡宣言しておきます。ただし、書かれたものは全て教材として使わせていただきます。それを承知の上書き込んでください。
 まあ、とにかく、ワタクシに言わせれば、「歴史」は全て「言葉」によって記述された(語られた・騙られた)フィクション、すなわち「コト」であって、「マコト」ではないということです。あるいは、人間界には「マコト」なんていうのは存在しないと言っていいと思います。歴史的な事実なんていう言葉自体がすで矛盾をはらんだものです。どんな言語も、必ず個別の脳ミソを通過しているわけですから、絶対に普遍的、絶対的ではありえません。
 ですから、私がこの問題に関して誰かや何かを批判するとすれば、それは、そうした「マコト(真実)」は存在しないという「マコト(真実)」を無視して、自らの脳ミソという狭い世界(コト世界)に自己洗脳されている、その姿勢だけです。まあ、それを「仕事(シゴト)」にしている方もおられるわけで、営業妨害はできませんけれど。
 というわけで、今日もあまり時間がないのでこのへんで終わりにしてしまいます。とにかく、この本を一読されることをおススメします。この本ももちろん脳ミソの編集を経た「コト」でありますが、ある種の人たちの「自己洗脳」を解く一つの良薬になる可能性はあると思います。
 そしてまた、別の方には、日本の教科書問題が何に根ざしたものかが、多少は解るのではないでしょうか。
 やはり、幅広い勉強は大切ですね。

Amazon 「中国・韓国の歴史教科書」に書かれた日本

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2010.08.01

桃 2010

Gedc0712 っても忙しいので、今日はちょっとした自慢話(?)で、終わりにします。
 今年もおいしい桃の収穫の季節がやってまいりました。山梨と言えば桃。桃と言えば山梨。日本一の生産量を誇ります。もちろん、こちら富士山麓は寒冷地ですので桃はとれません。御坂山脈を越えた甲府盆地の、特に東側がその名産地です。
 で、今日はありがたいことに、笛吹市御坂からおいしい桃が届きました。山梨を代表する某バンドのボーカル&ギターを担当している、そう写真で言えばサインの真ん中の方の実家の農園でとれた桃です。
 いろいろと不思議なご縁もあって、昨年からある方を通じまして送っていただいています。ものすごく立派でおいしい桃です。今年は梅雨明け後の暑さも手伝って糖度が高く、いつも以上に甘くておいしい桃となっています。
 この夏はぜひ、山梨の桃をご賞味ください。もちろん、来県されて桃狩りというのもいいでしょう。
 桃は日本人にとってとても重要な果物でした。古事記にも出てきますね、桃爆弾が(笑)。桃太郎のお話も、そういう特別視の中から生まれたものです。
 もちろん桃の原産地である中国においても特別な存在ですよね。桃源郷。桃の節句も中国渡来の風習です。
 今日は詳しく書けないのが残念です。また機会を見てしっかり書きたいと思います。
 桃の聖なる力を借りて、暑い夏を乗り切りましょう。

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