『なぜ、「できる人」は「できる人」を育てられないのか?』 吉田典生 (日本実業出版社)
職場の後輩が貸してくれました。これを貸してくれた意味はいかなるものなのでしょうか。はたして、どのようなメッセージを受けとれば良いのか(笑)。
まず、前提として、私が「できる人」なのかどうかが問題であります。私なりの正直な答えはこうです。
私は「できる人」でもあり、「できない人」でもある。
な〜んだ、と思われる方も多いかもしれませんが、だって実際皆さんそうでしょう。得意なものと不得意なものがありますよね。たとえば、私はこうしてブログを毎日書き続けることは実際「できる」わけですが、マージャンやゴルフはほとんど「できない」。それから、一つのことをとっても、たとえばヴァイオリンを弾くことが「できる」とも言えるけれども、ツィゴイネルワイゼンを弾くことは「できない」わけです。ま、そういうことです。
「できる」「できない」のデジタル的な思考からして、この本には抵抗がありました。もちろん、そうしないとこの時代本を売ることは「できない」のですが。
そういう多様な世の中の事象の中で、この本は主にビジネスシーンにおける「できる」「できない」を扱っています。その範疇に関しても、私という人間はやっぱり「できる」とも「できない」とも言える、いや言えないでしょう。なにしろ学校のセンセイという特殊な職業をしていますので。一般企業の論理とはかなり離れたところにありますから。
じゃあ、学校のセンセイとしてどうかというと、まあそれもやっぱりできたりできなかったりでしょう。結構得意な分野もありますが、正直四半世紀近くやっていながらいまだに苦手な分野もあります。
まあ、組織というのはそういう多様な「できる」「できない」の集合体である方が健全で平和だと思いますよ。みんなが全ての分野で「できる人」になったら、なんか大変そうです。
先に結論を言ってしまいますが、私としては、それぞれの分野で「できる人」が「できない人」の分まで、嬉々として仕事をすればいいと思っていますし、「できない人」は「できる人」に嬉々として仕事を任せてしまえばいいと思うのです。実際私はそうしていますし、それが案外お互いにとってストレスレスです。「できる人」は達成感や優越感を感じられますし、「できない人」は楽できますから、お互い幸せです(笑)。
ある意味、なんでも公平にとか、ギブアンドテイクでとか、つまり経済の理屈に縛られて思考・行動するから疲れるんですよ。私はそう思います。
その他、この本の内容、そして有用性、無用性については、いろいろな方のレビューの通りですので、私は繰り返しません。
今日はワタクシ流に「できる」という言葉の解釈をしてみたいと思います。だいたいこういうことは得意なんですよ。変な視点からアマノジャク的な論を展開することは「できる」。
「できる」って「出来る」じゃないですか。つまり、おおもとは「いでく」という動詞だったわけです。今風に言えば「出て来る」ということです。
いつかも書いたとおり、日本語の可能表現を考察してみますと、日本人の「可能観」というのは、西洋などのそれとはだいぶ違うことが分かります。すなわち、それを実現するアビリティーがあるという感覚ではなく、何ものか自分の意志を超えたところにある大きな力のおかげで達成できたという感じなんですよね。
つまり、「〜を(操作して)出す」という他動詞的感覚ではなく、「〜が(勝手に)出て来る」という自動詞的な感じなんです。ワタクシの「モノ・コト論」で言うなら、自分の内部(脳内)で処理された「コト」よりも、外部(不随意)の「モノ」を重視するこということです。そこが現代生活においても大切だと思うんです。
すなわち、私にとっての「できる」とは、その「できる」分野に関しては、他者の力をうまく利用することができているということを表しているのです。
たとえば、今こうしてブログの記事を書いているじゃないですか。これってなんの構想もなしにいきなり書き始めて、書き下ろしているわけですよ。自分が書いているというより、流れにまかせ、湧いてくるものをただつかえまて、「文字」として固定しているという感じなんです。そこには案外「自分」が存在しない。だから、翌日には何を書いたか忘れていたりするんですね。
いわゆる自動書記でしょうか。ある種のトランス状態になっていて、自分がメディアになっていて、誰か他者のシグナルを受け取っているという方が、より実際に近いと思うんです。
禅的に言うなら、「無我」や「不二」なのでしょうか。他者と一体になった時こそ、勝手に「出で来る」わけです。私にとっては、それが「できる」そのものなのです。
逆に言えば、「できない人」は、自分へのこだわりが強すぎて、なんらかの他者の力を借りられない状況に陥っていると思うのです。自分が自分がと思えば思うほどに、その悪循環からは解脱できません。
だから、そういう領域に関しては、この本のようにある種のマニュアル化された「技術」はほとんど利益がありません。経済システムに取り込まれた「ビジネス」という狭い領域に特化しているわけですし。
というわけで、本当の意味での「できる」人になるためにはどうすればいいか。それをマニュアル化することは「できない」かもしれません。いや、「できる」かもしれない。それを達成するためにも、結局私は他者の力をどんどん借りねばなりません。なんとなくですが、そういう意味で「できる人」になるのが、私の人生の目標であるような気もします。修行します(笑)。
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