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2010.07.25

あきらめてはいけない…その3

Tky201007250404 川高校優勝おめでとう。本校は決勝戦で3-4で敗れ、準優勝でした。あと一歩でした。
 予想通り相手投手のスライダーにてこずり、2試合連続の逆転劇を演じた力をもってしても、あと1点及びませんでした。
 それでも、選手たちは最後まであきらめず全力で戦いました。その姿に心打たれました。彼らもこの大会の勝ちと負けから多くのものを学んでくれたことと思います。
 野球という競技、また、高校野球という文化の特殊性については、こちらに書きました。だからこそある種の悲劇が伴い、それがまた物語を生み、人気を呼ぶ原因になっているんですね。
 そして今日、私の静岡の母校も、準決勝でサヨナラ負けを喫しました。最後の最後に力尽きた感じです。厳しい現実ですね。
 また、本校中学生のバスケットボール部、初の県大会は2回戦で敗退となりました。もちろん、1年生だけのチームですから、1勝しただけでも画期的、歴史的なことだと思います。2回戦は観戦しました。甲府地区1位の強豪チームに対して、第3クオーターまではリードしていたのですが、最終クオーターでは体力の差が表れ、逆転されてしまいました。
 しかし、それこそきゃしゃな体で大きな先輩たちと互角に戦っている姿に感銘を受けましたね。数ヶ月前まで小学生だった彼女たちが、高校生目前の相手にあそこまで肉迫するとは…。本当に立派です。
 スポーツというのは、ある意味残酷なものです。非常にデジタル的なものです。勝ちか負けか。
 特に近代スポーツはルールの標準化と厳格化のために「数値」を多用するようになりました。その結果、内容よりも勝敗や順位や記録が重視されるようになったのです。記憶より記録ということですね。
 そのため、競技に必要な技術もある意味規格化されましたし、そのための練習方法も確立されてきました。それが学校スポーツという特殊な教育活動をも生みました。それがはたしてどこまで教育的なのかは別としまして。
 私は個人的には、記録よりも記憶、勝敗よりも内容という、本来の(古来の)「sport」に興味が持って生きてきました。だから、プロレスが好きだったり、音楽が好きだったりするわけです。
 だからこそ、自分のできない、あるいは通ってこなかった「近代スポーツ」の世界にも憧れを抱きますし、それに日々精進する生徒たちの姿から、自分にない多くのものを学ぶことができるわけですね。
 この夏の彼ら彼女らの熱い戦いからは、「あきらめてはいけない」ということを存分に学ばせていただきました。経過がどうあれ、最後の1秒まで「あきらめてはいけない」。あきらめたら負けしかありません。あきらめなければ、もしかすると逆転があるかもしれません。それはスポーツだけに当てはまることではありませんね。日々の生活の全てがそうなのでしょう。あきらめたら、もうその先はゼロです。あきらめなければ、時間はかかるかもしれませんが、必ず何かが変ります。
 この瞬間瞬間のさまざまな岐路において、常に先がゼロではない、行き止まりではない方を選んで行きたいと思いました。あきらめたら、あるいは満足してしまったら、もう行き止まりなのです。
 仏教の教えの中に「自慢は智恵の行き止まり」という言い方があります。仏教用語としての「自慢」や「我慢」は「慢心」のことです。「慢」という字の義は「怠る」ということです。すなわち、それは「あきらめ」であり、安易な「満足」であります。
 私もこれから、自分自身を、あるいは世界を「明きらめる」「諦観する」ために、いろいろなことを怠らず、あきらめず生きたいと思います。
 あらためて生徒たちにありがとうと言いたいと思います。

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