さらける
私たちにとって日本語はあまりに日常的な存在であり、また、ある種社会的な縛りの象徴のような部分もあって、その無意識の枠組みから飛び出すことには、非常なる勇気とエネルギー、すなわち才能が必要です。
それを仕事にしているのが、たとえば「詩人」であると思います。
フジファブリックのニューアルバム、もう何度も聴いています。いろいろと感じるところがありますが、今日は一つ、前から気にかかっていたことを書きます。
アルバム最終曲の「眠れぬ夜」。これほど胸をしめつける音楽はそうそうありません。先に一つ、本題ではないけれどもどうしても言っておきたいことを書きます。
この曲のストリング・アレンジについてです。フジファブリックとしては、おそらく初めてのストリングス導入です。ストリングスを入れるというのは、ある意味「メジャー」の証。ビートルズ以来の伝統です。
メジャーになったバンドが、ストリングスを入れたくなって、実際に入れて、そして失敗する例もたくさんありました。
ロックにストリングスということに関しては、まあ私は、聴く方も弾く方も、半分プロみたいな立場であるわけでして(ここだけは譲れません…笑)、かなりうるさい評論家になりうると思っています。
で、正直、有名なプロデューサーや編曲家の方でも、その悪魔的な魅力にやられて、結果として失敗してしまう例を、いやというほど聴いてきたんですね。
今回もプレビューで「ストリングス」を入れたとあったのを見て、正直心配だったわけですよ。アルバム制作の事情が事情だけに。
しかし!私は初めてこの曲を聴いて、そのストリング・アレンジにも、心から感動しました。うまい!
金澤くん、お見事です。弦が持っている力をしっかり引き出しています。各楽器の音域や音形、全体の中での音量、文句のつけようがありません。久々に納得の行く弦のアレンジを聴きました。
あのバンドやあのバンドのアレンジみたいにしたら、ぜったい志村くん怒っちゃったと思いますよ。弦楽器奏者から言わせていただきますと、ストリングスというのは、豪華さや高貴さを表すものではないんです。もっと空気のような、香りのような、あるいは切ない雰囲気のような、そういうものなんですよね。
さてさて、続いては本題、志村正彦くんの「言葉」について語りましょう。
この曲の重要なキーワードについてです。
実は、「蒼い鳥」を聴いた時にも気になったのですが、すっかり忘れていました。「さらける」という言葉です。
「蒼い鳥」では、「可能なら さらけてしまえたらいい 蒼さに足止めをされている」と歌っていました。はあ、「さらける」か、「さらけ出す」の意味だろうな、「さらける+出す」で「さらけ出す」だから、そういう日本語もあるんだろうな、でもオレは使わないなあ…と思ったのを思い出します。
そして、「眠れぬ夜」では、サビの部分にこうあります。
そしてできれば 何より君に先ず
伝えたい事がある
嫌がれる程何もかも
さらけてしまえたらいい
この曲はずいぶん前から出来ていたと言いますから、もしかすると、2006年頃、志村くんの中に、この「さらけてしまえたらいい」というフレーズが巡っていたのかもしれませんね。
私、今回、この曲のこの言葉を聴いて、突然涙が溢れ出てしまったんです。そこまでは、先日書いたように、比較的冷静に聴いていたんですけどね。
「さらける」という日本語の意味が突然分かった。辞書的な意味ではなくて、「さらける」でないといけない意味、たとえば「さらけ出す」とか「さらす」ではダメな意味が、理性を越えて飛び込んできたのです。
それを言葉にするには、私たちは残念ながら、理性すなわち辞書や社会的な日本語を使わなくてはなりません。そこが「詩人」と違うところなんだよなあ…。
そう、私も今回調べて初めて知ったのです。「さらける」という日本語は基本的にないということを。
日本国語大辞典には
1、すべて隠さずにする。さらけだす。
*社会百面相〔1902〕〈内田魯庵〉破調・中「貴郎の愛想の尽きるやうに、妾くしの楽屋を悉皆暴露(サラ)けて御覧に入れます」
2、すべて投げ出す。投げすてる。
とありますが、1も2も決して一般的な用法ではないと思います。方言では、たとえば栃木や茨城では「(乗り物で)転ぶ」という意味で使われているようですね。山梨では私の知っているかぎり、「さらける」という言葉はないような気がします(もし、使うという方がいらっしゃったら教えて下さい)。
いろいろ調べてみますと、実は「さらけ出す」の「さらけ」は、「さらける(さらく)」という動詞ではないようなんですね。どちらかというと「さらに〜ず」の「さらに」とか、「まっさら」の「さら」とか、山梨の方言の「いっさら」の「さら」に近い意味を持った接頭辞のようです。
つまり、「さらけあげる」「さらけおちる」「さらけこむ」「さらけやめる」のように、「すっかり〜する」「全てを〜する」という意味を持っているようなのです。
これと「さらす(曝す・晒す)」は、もちろん関係しています。「水にさらす」とか「日にさらす」とか「恥をさらす」とかいう「さらす」ですね。つまり、「主体の意志を無視して、なかば強制的に、ある絶対的な存在の中に放り込む」という感じです(ああ、詩人じゃないと、こういう無粋な表現しかできなくてイヤだなあ…苦笑)。
志村くんの「さらける」も、まあ言葉で無理矢理説明すれば、そういう感じを持っているんですよね。私の「モノ・コト論」で言えば、不随意の「モノ」、自己の外界に身をまかせる「もののあはれ」の境地です。お分かりになるでしょうか。
「可能なら」とか「しまえたら」という可能表現が使われているのもミソだと思います。まさに、自己の意志ではどうしようもなく、他力にまかせたい気持ちです。日本人にとっての「可能」は、「be able to」ではありません。こちらにも書いたように、自分の意志ではないんですよね。
もう、誰か、僕を「さらって」、もう勝手に「さらして」くれ。自分というちっぽけで勇気のない存在じゃあ、実現不可能だ…。誰か、誰か…という気持ちが「さらける」という動詞にこめられているような気がします。
浜崎あゆみの、他動詞の「咲き誇る」もそうです。冒頭に書いたような言葉の枠組みから飛び出して、つまり辞書や社会や常識や日常という牢獄から言葉を解放して見せるのが、「詩人」の仕事です。
志村正彦は本当に優れた詩人です。彼によって解放された言葉は無数にあります。そして、それを聴く私たちの心も、ある種の牢獄から解き放たれるのでした。
眠れぬ夜
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