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2010.06.30

(真)漢検を作ります!!

20100701_185945 当は「男子力」「女子力」について熱く語りたかったのですが、異様に忙しくヒマがありませんので、今日はそれにかかわるくだらない小咄をちょっと。
 相も変わらず日本漢字能力検定教会…いや協会と小競り合いを続けております。忙しいのでそんな腐りきったものを相手にしていないで本来の仕事をやればいいのに、どうしても許せないのであります。
 小咄というにはあまりに大きな内容ですけど、まず皆さんに知っていただきたいのは、主に団体受験会場である各学校に、とんでもない金額のリベートが支払われているということです。そのへんの事情についてはこちらの記事でかなり婉曲的に(?)暴露しました。そしたらすぐに鉄砲玉が飛んできたのでびっくり(笑)。おかげでますます私の義侠心がパワーアップしてしまいましたよ。
 で、もうちょっと具体的に書くとですね、たとえば生徒数1000人の学校で強制的に全員受験させますとですね、年間数十万円のお金がその学校に残ることになるんです。へたすると100万円になるかもしれません。
 そんなんだから、学校のセンセイは「資格というのは大切だ!漢字は一生ものだ!みんな受けろよ!将来のためだ!」とう言って盛んにセールスするんですよ。
 もちろん、業務を委託されているわけですから、それなりの報酬がなければ私たち教員も動きません。いくら生徒のために働く聖職者と言えども、世俗的なモチベーションがなければ、そんなボランティアみたいなことしません。
 それでですね、そうした先生方へのお駄賃、いわばリベートがですね、全国で1年間でいったい総額いくらくらいになるのか、ちょっと調べてみたんです。
 そしたら、ななななななんと、14億円!!(平成20年度)ちょっと信じられませんよね。その14億円はいったいどこに消えているんでしょうか。漢検協会は、もちろんその使い道なんか把握していません。それはもう自らの関知するところではない。それはその通りです。
 しかし、実際その金額をばらまいているのは協会であって、あとは知りませんでは済まされませんよね。
 というわけで、前も書いたように、これは漢検協会だけが私腹を肥やしていたとかいう問題ではないんです。単純に考えて数百億円のお金が、教育現場で行方不明になっているんですよ。小咄じゃないですよね。
 正直に申しますと、ウチの学校でも、昔は国語部会の収入となっていて、いろいろと本を買ったり、場合によっては飲み食いなんかにも使っていました。しかし、さすがに金額が大きく、とても普通の使い方では使い切れないので、最近は「校内漢字テスト」の成績優秀者に対するご褒美を購入して、ほとんど全額を生徒に還元することにしています。
 しかし、これも考えてみれば、漢検受験者のお金をほんとんど本人以外の生徒にばらまいているわけで、やはり問題が残ります。
 で、そういう裏の事情を生徒たちは知らないで、一生懸命勉強して受験してるわけですよ。それがどうしても聖職者(?)として堪えられないのであります。
 だから、今ウチの中学では漢検は受検させていません。かと言って事情を知らない生徒が希望したらむげに断れないし、いわゆる「新漢検」という新しい勢力もいくつかあるんですが、どうも認知度も低く、またコンセプトにも完全に同意できず、あるいはシステム自体が元祖漢検とあまり変わらなかったりして、実施には二の足を踏んでしまいます。
 まあ、どんな公的な試験にも、あるいは模擬試験などにも、そういう部分はあって当然なんですが、あまりにそれが露骨すぎるほどに派手で偽善的なのが許せないのです。純真な子どもたちの向上心を食い物にしているのが許せないのです。
 あらら、小咄のつもりが、大それた話になってしまいました。
 えっと、その大話のこれからの話はまたいつか書くとしまして、小咄に戻します。
 「男子力」の話です。男子力と漢検とどういう関係があるの?
 いやいや、「漢」という字をよく見てください。この字、中国の「漢」という国名以外にどういう意味があるか御存知ですよね。そう、「男」という意味なのです。
 「痴漢」とか「好漢」とか「大食漢」とかの「漢」ですよね。
 だから、「漢検」とは「男検定」「男子力検定」なんですよ(笑)。そういう意味での新いや真・漢検を作ってみましょうかね。男子力3級とか、準1級とか、なんか面白そうじゃないですか?
 これが小咄おオチなのでした。
 いや、冗談ではなく、今こそ「男子力検定=漢検」が必要なのではないでしょうか。まずは私が1級、いや名人位取らなきゃね。頑張ります!

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2010.06.29

「期待しない」という生き方

316059_c450 イアグラ…ではなくて、腹具合…ではなくて、パラグアイ戦。皆さんもご覧になりましたよね。まさに惜敗。
 しかし、よく頑張りましたね。たしかにサムライの戦いっぷりだった。勝負としては最も悔しい負け方であり、世界の壁を思い知らされた一戦であったとも言えますが、それなりの感銘を我々日本国民に与えたのは事実です。
 どんな政治家たちよりも、ずっと我々に勇気を与えてくれますよね。ああいう形で負けても、基本誰も責めずに労いと賛美を惜しまないあたりが、いかにも日本らしいところです。戦前はあれほどバカにしていたのにね(笑)。
 そう、そういう変わり身の早さが、日本の良さであり、また日本人のお馬鹿なところでもあります。政治に対してもそうじゃないですか。あれだけ期待していて、いざ始まってみれば愚痴ばっかり。逆のパターンですね。
 そこから見えてくるのは、実に単純な法則です。「期待度と落胆度は比例する」…これです。
 そうしますと、我々が幸せになるには、あまり「期待しない」ことですね。落胆は不幸の原因物質ですから。
 期待自体、未来に対する実は根拠のない興奮です。それだけでもエネルギーを使います。それでいて、未来においてその期待の内容が実現すると、ようやくその報酬がゼロとなり、少しでも実現しなければ、報酬はマイナスになってしまいます。
 期待が妄想である以上、期待以上の結果が出る期待値はかなり低いと言わざるを得ませんから、「期待」という行為がいかに割に合わないものかが分かりますね。
 そんな不経済な「期待」なんてもの、人間が賢くなった現代においては、とっとと捨ててしまえばいいのに、全然そうならないのは、やっぱり人間がそういうふうに設計されているということなのでしょう。
 だいいち、ここで言う「期待」とは、たいがいが他人に対する期待であって、ほとんど自分の能力や意志の及ばないところにあるものに対するある種無責任な感情です。実は行為ですらない。
 もうその原点において、期待する私たちは他律的であり、他力本願的であり、存分に無意志であり、無責任であり、愚かなのでした。
 どうせ他人のことをとやかく言うんだったら、やっぱりほめた方がお互い気分がいいじゃないですか。そのためには最初から期待なんかしないのが一番なのです。期待という妄想を抑えておけば、全ての結果に対して我々は損をしません。悪い結果であれば、それを事実として受けとめればいいし、少しでも良い結果であれば、大いに喜ぶとよろしい。
2010063000000504sansoccview000 実はこれは、我々近代人が手に入れた「貨幣経済」というフィクションに最も端的に表現されています。私たちが払う「金額」は、まんま「期待度」を表しているのです。他に対する無責任な「期待」がお金に変換されているわけです。ただ「貨幣経済」がずるいのは、ある限られた時間の中での「満足」をも、その期待に対する報酬として認めているということです。人間の持つ、「忘れる」「飽きる」という性質をうまいこと利用したシステムだと、私は感じます(「Time is Money」のお話参照)。
 だから究極的には、「期待しない」、すなわち物やサービスなんて全く買わなければいいのです。そうすれば、他者に対する不満足や憤りを感じずにすみ、結果として幸福な人生が送れるはずなのです。ま、簡単に言えば全てを自給自足すればいいということですし、妙な欲求を捨てて、禅僧のように生きればいいということです。
 でもそれができないように私たちはプログラミングされているので、それを互助的に慰め合うのが「市場経済」の仕組みであり、そのための実体のないアイテムが「カネ」であるわけです。
 というわけで、私はですね、基本未来に期待をしないように努力して生きています。そんなこと言うと、なんと味気ないつまらない人生なのだと思われるかもしれません。しかし、実際は私はずいぶんと充実した人生を歩んでいるように見えるらしい。
 そう、それこそが「期待しない」結果なんです。他者に期待しないというのは、決してその他者の能力や努力を評価しないということではありません。たとえ能力や努力があっても、時の運によっては、それが成就しないこともあると覚悟するということです。
 だから、最後のPKも落ち着いて見ることができましたし、もちろん結果も受け入れることができました。ここまで楽しませ興奮させてくれた彼らに、ストレートに感謝したいと思います。
 ところで、他者に対する期待については分かったが、自分に対する期待についてはどうなのか、というご質問にはどう答えるか。
 これはですね、はっきり言って自分には大いに期待していますよ(笑)。そりゃあ当たり前じゃないですか。私には能力もあり、そして日々たゆまぬ努力をしていますから…んなわけないでしょ!w
 そうじゃなくて、他者に期待しないがために、自分の日々の収支は絶対にマイナスになりませんから、もし何かが私に与えられるとすれば、それは「喜び」しかないわけですよ。さっきの経済の理屈で言うなら、お金払ってないのに、じゃんじゃん良品が手に入るわけでしょ(笑)。そりゃあ期待しちゃいますよね。
 なんて、冗談ぽく書いていますが、実はかなり真面目に(不真面目に?)そうやって毎日を生きています。実はこれが私の生き方の極意なのでありました。

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2010.06.28

高速道路無料化社会実験始まる

View9552859 に忙しく時間がないので、ごく簡単に。
 もうすぐ参院選ですね。私、ほとんど国政選挙というものに投票したことない(投票するべき人がいないことをアピールするため?)のですが、さすがに今回は行こうかと思っています。
 誰かに入れるというのではなく、誰かさんの当選を阻止するためです。山梨の恥、私にとっての恥ずべき先輩(?)に、もうホントに引退してもらいたいからです。そうしないと彼自身の地獄行きが決定してしまうからです。悪人をや、という仏心からの投票であります。
 こんなこと書いていいのかとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。いいんです。事実ですから。書かない方が人間として恥だとさえ思います。それほどひどい状況がずっと続いてきたのが、ここ山梨なのです。ま、細かいことはこちらをご覧下さい。
 さてさて、民主党のマニフェスト、ずいぶんと反故にされていますね。公約は守らねばならないものですが、マニフェストと言い換えるともうなんでもありということでしょうか。まさに言霊の世界ですね。外来語には魂がこもっていません。
 民主党のマニフェストの一つ、高速道路の完全無料化。これも元々なんだかなあという感じだったので、今さら「ウソつき!」とかは言いませんけど、いちおう辻褄合わせのような「社会実験」が始まりましたね。
 ここ富士山麓は、全国でも最もその怪しい恩恵を大きく受ける地域と言えるでしょうね。輿石東に、というより、私に気を遣った結果なのでは…笑。
 なにしろ、富士山を取り巻く道路という道路、みんな無料になってしまいました。
 中央道河口湖線が大月から河口湖まで、そしてそれと連結している東富士五湖道路が富士吉田から須走まで、そして西富士道路も。
 富士山に向かう道は特別なんでしょうか。というか、全国的にですね、今回の無料化路線、霊山に至る道が多いのは偶然でしょうか(偶然ですよね)。
 特にコストパフォーマンスが異様に悪かった東富士五湖道路が、いきなり無料化というのにはびっくりしました。この道路、まあいろんないろんないわくが付いておりまして、なんともいろんな意味で走りにくい、その割に妙に高い道路だったんです。ある意味裏自民党の象徴のような道路でしたから、民主党によってそのマイナスパワーが無価値化されたとも言えそうです。それがいいことか悪いことか、社会実験では解りかねますね。
 民主党というと、半島や大陸系というイメージがありますが、実は歴史的にみますと、そういう方々、政治的に山の民に対する懐柔策をとることか多かったんです。今回もその流れかな、なんて思っちゃいます(そんなこと思うの私だけか、これまた)。
 いずれにせよ、私としては比較的うれしい事態であります。どうか皆さん、これを機に富士山へ、富士北麓へ車でお出かけ下さい。

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2010.06.27

第6回富士山の森ジャズフェスタ2010

Gedc0398 日もまた楽しい時間を過させていただきました。
 我が富士学苑中学高等学校のジャズバンド部が主催する、学生バンドの祭典「富士山の森ジャズフェスタ」。6回目の今年は、私も縁の深い都留市のうぐいすホールで行われました。
 昨年の第5回は、なんだかとんでもなくせわしない気持ちで聴いていましたが、今年は音響抜群の屋内ということもあって、ゆったりと聴くことができました。
 参加校・バンドは次のとおり。
 山中湖中学校・笹下中学校・法政大学・横浜市立大学・早稲田大学・慶応義塾大学・静岡ジュニアジャズオーケストラ・日本大学・東京大学・富士学苑中学高等学校
 講師は作編曲家の内堀勝さんと、トランペット奏者の岡崎好朗さん。
 まあ、ジャズは聴く場所と体勢によってずいぶんと違って聞こえるものだなとも思いましたね。演奏する側の気分も違うでしょう。ジャズにとってどちらが本来の形かというのは別としまして、環境というかシチュエーションというのが、音楽にとって非常に重要であるということも再認識。
 特に大学生たちは目前に迫るコンテストを意識した音楽作りをしている最中ですから、造形された音楽を提供するには、こういうコンサート形式というのが一番いいのではないでしょうか。
 そんなわけで、私もいつものノリノリではなく軽く体を揺する程度、ちょっと審査員的な身構えで各学校の演奏を拝聴いたしました。というか、どうして日本の観客は体を動かさないで聴いていられるのかな。音楽、特にジャズは、ビートや流れ、スウィングを共有するものだと思うのですが。
 そうそう、そういう意味では、バンドの中でさえそれらを共有しているのか疑問なバンドもありました。個々はとっても上手なんでしょうが、なんというか全体の一体感に欠ける音楽がいくつかあったような。そういう意味で、私は慶應と日大と東大はいい感じだなと思いました。
 アンサンブルにおける「共有」とは、簡単に言うと「全体像」と「部分」の共有です。そのどちらかだけでもダメ。特にトゥッティを担当する人たちはそういう意識を持たないといけません。ソリはそこに乗るだけですから。
 私も古楽のアンサンブルを長くやってきたので、そのことは常に気をつけるようにしています(というか、最近ようやくそれが分かった)。
 ま、それに気づいたのも、ソリとしての美空ひばりの偉大さが分かるようになってからなんですがね。彼女はまさに全体と部分の統一の天才でしたから。で、彼女の場合はソリのくせにトゥッティを引っ張っちゃう。原信夫さんの言う通りですよ。
Gedc0400 で、そういう「共有」ということをもう一歩進めますと、「共有」のための「意志」というのが浮かび上がってきます。つまり、今日のいくつかの(ほとんどの?)演奏でそうだったのですが、トゥッティのそれぞれのパートに、音楽を動かしていくという意志が感じらなかったのが残念でした。
 つまり、私のフィールドで言いますと、ヴィオラが内側から音楽を作っていく、あるいは推進していくというようなことです。ビッグバンドで言うと、トロンボーンパートなんか、そういう役割が強いのではないでしょうか。そういう意味で、先ほど挙げた学校、そして手前MISO(笑)ではありますが、富士学苑のトロンボーンは音楽を豊かにしていたと感じました。
 ある意味地味ですが、大切なんですよねえ。ただ音を埋めてるわけじゃありませんよ。中音域というのは人間で言えば「心」にあたります。表面的には聞こえにくくとも、最後はそこで評価が決まる。そう思います。
 とにかく、正確に自分に与えられた音を出せばいいのではありません。それだったら、コンピューターの方が得意です。そうでなく、ある意味客観的に今自分が出している音の位置、価値、全体での意味というのを、理屈ではなく「音楽的」に感じる心が必要だと思います。その時必要な音程とは、音色とは。それこそがアンサンブル、合奏、トゥッティの基本ではないでしょうか。それはもう、最終的には理屈でもテクニックでもありませんね。その先にあるものです。
 あと気になったのは、ウッドベースの音程です。やはり基礎の部分がしっかりしていないと、その上に構築される音程の意味が不安定になります。全体の中の意味すら不明になってしまいますよね。それはベースの責任です。ジャズではベースはリズム隊として意識されていますが、本来的に低音弦楽器ととらえれば、やはり音程もリズム以上に重要です。低音域での音程感覚というのは難しいわけですが、やはりまずは「意識」「意志」の問題ではないでしょうか。ま、プロのベーシストでも、とんでもな音程の人たくさんいますけどね(苦笑)。
 最後に、また手前MISOになってしまいますけど、いろいろ総合してみますと、ウチの学校が一番良かったかなあ、やっぱり。共有という面でも、リズムや音程の面でも。やっぱり大学生はこじんまりして、硬かったなあ。曲もまるで現代音楽のようだし。まあ、コンテストの前哨戦、つまり戦いだから仕方ありませんが。もっと楽しみたかった。そういう意味では、最後の全体合奏、ジャムセッションが一番彼らの本来のパーソナリティーが聞こえてきて良かった。
 それにしても、我が中学生たち、高校生のみならず大学生とも交流できて、本当にいいですねえ。なかなかできない経験ですよ。一流大学のお兄さま、お姉さまに可愛がられて。
 それから、ウチの学校のバンドと共演した岡崎さんのソロ、かっこよかったなあ。高校生に刺激を受けているのが、よ〜く分かりました。これこそコラボレーションの妙でしょう。

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2010.06.26

全日本プロレス 富士急ハイランド大会

20100627_112835 ロレスLOVE!素晴らしい大会でした。やっぱりプロレスはいいなあ。地元富士吉田の生んだ(志村正彦くんと並ぶ)英雄、プロレスラー武藤敬司久々の凱旋(ちなみに彼の実家はウチの学校の母体となっているお寺の檀家さんです)。
 というわけで、お膝元富士急ハイランドホールシアターで行われた全日本プロレスの興行に、家族4人で行ってきました。最初はいやがって泣いていた娘二人も、終わってみれば超ゴキゲン。武藤社長の目指すパッケージ・プロレスの素晴らしさを存分に堪能しました。これこそプロレスの力です!
 その報告をする前に、今日の私の一日についてちょっと語らせて下さい。少し愚痴入ってます(笑)。
20100627_113715 まず、昨日の夜の話なんですが、実はあるところを介して、某8chの月9、すなわちK村T哉さん主演のドラマへのエキストラ出演の依頼が来まして、それでまあ私としては、セーラーマーズことK川K子さんに会えたらいいなというミーハーな気持ちで現場に向かいました。
 そう、ウチは富士山麓の別荘地内にあって、すぐ近くにはその主演男優さんの奥様の別荘もあったりして、時々ご家族でお見かけしたりするんですけど、ちょうどそのまた近くの某所でロケが行われていたんです。
 で、時間に間に合うようにそこに出向いて待っていましたら、まあロケのご多分に漏れず押すこと押すこと。結局3時間待って日付も変わろうかという時、「ちょっと休憩です。○時○○分再開です。そのあとよろしくお願いします」と言われ、さあいよいよだなと思ってちょっと緊張していたら、いきなりスタッフさんが「す、すみません。今日は時間の関係でエキストラの方の出演はありません…」と!ガーン。
 様々な私の目論見はこの瞬間ついえました(笑)。で、帰ってきたらもう今日になっていました。酒呑んで寝ました。おかげで、楽しみにしていたスペイン対チリを見逃した…。
 さあ、朝起きて、なんとなくモヤモヤした気持ちのまま、たまった仕事をこなすために職場へ。なんとなく仕事がはかどりません。納得いかない!のか?w それでもなんとか最低限の仕事を終わらせ、今日こそリベンジ(すなわちプロレスで盛り上がる!)と意気込んで帰宅しましたら…。
 そう、なんだか娘たちの雲行きが怪しいのです。普段たっぷり洗脳してあるはずなのに、なんとなく「行きたくない」オーラを出している。先週の土曜日には、カミさんが鈴木みのる先生によるプロレス勉強会に連れて行ったりして、そこまでして今日の大会に対する心の準備をさせておいたのに!(そういう強制的なところが逆効果らしいw)
Gedc0346 私も昨日からの流れがあるので、なんとなく気持ちが投げやりなところもあり、「もう、今日は行かない!」と子供じみたことを言い始めてしまいました。しかし、そんな時、めげずに突撃するのはやっぱりカミさんです。娘をうまいことなだめすかし(いや、優しく脅迫し)、なんとか連れ出すことには成功。当日券を買って、いざ観戦ということになりました。
 ここ富士急ハイランドホールシアターでプロレスを観戦するのは、8年ぶりでしょうか。古くは私が大学生だった1985年(昭和60年)7月5日に新日本プロレスを観たことを思い出しますね。この時は金曜のゴールデンで生中継されたと思います。テレビに映ろうとして、名前(自分の名前ではなく後輩の女の子の名前)を書いたボードを持って行ったことを覚えています。坂口征二とブルーザー・ブロディーのシングル戦がありましたっけ。懐かしい。
 その後、馬場全日本も行きましたね。ちょうど今日ノアでお別れ会が開催された故ラッシャー木村さんとお話したことを思い出します。あれはたぶん、1998年くらいかなあ。
Gedc0369 それから、2002年9月15日の新生武藤全日本の凱旋興行。この時の記憶は実はただ一つ、カズ・ハヤシ選手の素晴らしさです。私は全く勉強不足で、獅龍もニューヨークのカズ・ハヤシも知らなかったので、「こんな素晴らしい選手がいたのか!」と驚いたことを覚えています(写真は今日のカズ選手の美しい飛行)。
 あれから8年、武藤全日本は王道を継承しつつ、常に新しいことに挑戦し、一つの「型」を完成させつつあります。それがパッケージ・プロレスです。今日、久々にそれを拝見しまして、そして、とても感動し、また安心いたしました。
Gedc0353 なんと言いますか、カミさんもさかんに言っていましたが、「昭和のプロレス」を感じさせる全体の雰囲気ですね。赤ちゃんからお年寄りまで、男性も女性もみんな楽しめる、そして全体として決して物足りなさや不完全燃焼感を残さない、プロの「芸」。全国を巡ってやってくる「モノノケ」たち。肉体と肉体のぶつかり合い(特に曙とビッグ・ダディ・ブードゥー)が生む波動が「神事」を感じさせます。そして、見事なまでの「勧善懲悪」。ある種伝統芸能にも通じますね。というか、これこそが本来の「大相撲」のあり方でしょう。
Gedc0328_2 ホントもう、日本相撲協会を解散してですね、全日本相撲協会やら新日本相撲協会やらを設立してもらいたいですよ。「明るく、激しく、楽しく、新しく」…ぜひ、角界も見習ってもらいたいものです。そして、NHKで再びプロレス中継を!教育テレビの「伝統芸能」の時間でもいいから!
 さて、一つ一つの試合、選手について語り出すと、これはもうやたら長くなりますし、マニアックになりすぎると思いますので、今回は書きません(残念ですが)。
 とにかくその素晴らしさは、ウチの娘たちが時間を追うごとにその物語世界に没入し、悪神軍団であるブードゥー・マーダーズを恨み憎み、そして「善神」の勝利に欣喜雀躍する様子を見れば、誰もが納得するものと思われます。どんな「人間」の偉そうな「教育」よりも、ずっとずっと「教育的」ですよ。正義は勝つ!そして、やられてもやられても諦めない折れない心。そして、全ての「神」に宿る「慈愛」「優しさ」。
 やはり子供のうちに、こういう体験させたいですよ。それも地元でね。日常に降臨する非日常。素晴らしい体験ですよ。
Gedc0318 途中、負傷欠場中の武藤社長と神奈月さんによるW武藤トークショーや、武藤社長の娘さんである愛莉さんもメンバーとして活躍するマハリー・ガールズの歌謡ショー(?)もあったり、まさに総合的なエンターテインメントのパッケージになっていました。あれなら誰もが「来て良かった」と思うでしょうね。お客さんを巻き込んだ「場外乱闘」も大サービスでしたし。リアルなまはげ体験、いや武藤社長の目指す「リアル・アトラクション」が見事に表現されていたと思います。
Gedc0381 全てに満足した私たちは、もちろん出待ちもしましたよ。そして、いろいろなレスラーの方々とプチ交流。家族は大好きなTAKAみちのく選手と写真を撮ってさらにゴキゲンになりました!
 ちょっと前にも、地元マスコミ関係の方々とお話したのですが、こういう生きた「地方文化」の再興を願いたいですね。地元のヤクザさんが消え、地方の興行主不在になって久しい現在、古くから地元に根ざしている企業さんにぜひ立ち上がってもらいたいものです。
 日本のほとんど全ては「地方」です。地方に夢を。その第一歩が、地方のプロレス、地方の歌謡ショーの復活だと真剣に思っているワタクシであります。
 武藤社長、またぜひ凱旋してください!心から応援します!

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2010.06.25

祝!(呪?)日本決勝トーナメント進出!

2010062500000010maipsoccview000 やぁ、盛り上がりましたねえ、ワールドカップ。ちょいと遅ればせながらお祝いいたしましょう。実に見事な勝利でありました。
 前評判はずいぶんと悪かった今回の日本代表。期待していなかった分、驚きと感動はひとしおであります。
 この前、カメルーンに勝利した時には、祝?呪?ワールドカップ日本勝利なんていう失礼な(自虐的な?)記事を書きましたが、まあある意味あそこに書いた通りになりましたかね。オランダに負けて、しかし最後は「はやぶさ」ばりの大和魂を発揮して決勝トーナメント進出と。
 こうなるとトーナメントでも奇跡の快進撃!となりそうな予感もしますが、「はやぶさ」は無事帰還したはいいけれど、結局これも私の予言どおり、岩石のサンプルはなしというオチになりそうですから、ここから先はあんまり「はやぶさ」にあやからない方がいいのかも。
 いやいや、「はやぶさ」にも最後の大逆転があるかもしれませんから、まあ両方とも期待しないで期待していましょう。それがコツのようです。
 ところで、サッカーってホント面白いですね。何がって、ああやって世界中の大の大人たちが、みんなボールを足で蹴って相手のゴールに叩き込もうと必死になるんですから。
 そう、サッカーの起源から言いますと、あのボールは「呪いのシャレコウベ」ですよね。あるいは「呪いの首級」。とにかく忌まわしい「頭」を相手の村に叩き込んでいやがらせしようというのが、サッカーの基本的な性格です。あんまり忌まわしいから、手で持ちたくない。だからああして足蹴にするんですよ。
 と、これはある種まゆつばのサッカー起源説ですが、実は決して笑い話ではすまされない部分もあるんですよ。今日はその辺の欧州闇歴史的事情については割愛いたしますが、いちおうそういう説に則ってワールドカップを観るとですね、これはまた面白いのです(ま、そんな観方してる人いないか)。
 ものすごく忌まわしいものですから、さっさと敵に渡してしまいたいのではないかという気もします。しかし、相手に渡してしまうと自分の村の方まで持ってこられて、それで蹴り込まれてしまう可能性が出てきます。あんな「悪魔の頭」を頂戴したら、村が滅んでしまいます。ワールドカップの場合「国」が滅んでしまう。7個も頂戴した北朝鮮なんか滅亡寸前ですよ(笑)。
 それで、いやいやながらもパスしたり、ドリブルしたりして「キープ」するんですね。それで最後にドカンと蹴り込む。つまり肉を切らせて骨を断つわけです。
2010062600000027spnsoccview000 相手チームは当然「村」、いや「国」を守ろうとします。その最後の守護神がゴールキーパーです。村の入り口、たぶん城門かなんかでしょうかね、その前で仁王立ちして最後に自らの「村(国)」を死守するのです。そう、まさに死守。なぜなら、キーパーはその呪いの頭蓋骨、あるいは呪いの表情をした「みしるし」を、「手」でキャッチする、あるいは跳ね返さなければならないのですから。命懸けですよ。
 ね、そう考えると実に面白いでしょ?これは冗談でもネタでもなく、実は本質的なお話なのです。言い方は悪いけれども、サッカーはものすごく野蛮なスポーツでもあるのです。だからこそ盛り上がる。国の命運を賭けて戦う、相手の国を呪いの力で滅亡させようとするわけですから、そりゃあ盛り上がりますよ。
 ちなみに、サッカーのシュートは「相手のゴール」に入れますが、バスケットボールのシュートは「自分のゴール」に入れるんですよね。バスケットボールは、バナナとかヤシの実を自分の陣地にある高い木の上の「籠」にキープするものですから。食べ物の奪い合いです。
 そう考えると、サッカーのオウンゴールっていうのは、ホント悲惨というか、実に忌まわしい行為、非国民的、国賊的行為ということになりますね。自殺点とか言いますけど、はっきり言って他殺ですよ。それも親族殺人。ま、正確には業務上過失致死ですが。
 話が物騒になってきましたので、現実に戻します。でも、そういうふうにサッカー、特にワールドカップを観ると、「人間のおかしみ」「人間のいやらしさ」が感じられて、それはそれで面白いということになります。ん?ってことは、勝ち進む国ほど「性格が悪い」ということになるのか?ww 北朝鮮は実は良心的な国家ということですか?ww
 決勝トーナメントでは、ぜひ一瞬でいいから、そういう気持ちになりきって観戦してみてください。また違った人間の歴史や本質を発見できることでしょう。選手のみならず応援団やマスコミまで、違った景色として見えてくるに違いありません。
 がんばれ!ニッポン!? シャレコウベがこっちを向いて揺れながらやってくる、そんなホンダのシュートに期待しましょう(笑)。

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2010.06.24

茜色の富士(夏編その2)

 6月24日。美空ひばりさんの命日です。そして、志村正彦くんが亡くなって半年。日本を代表する歌人(うたびと)を偲ばずにいられない日でした。
 そんな思いを映したのか、今日の夕空もまた実に美しい茜色でした。

Gedc0252

 志村くんが東京で見た茜色の夕日は、すなわち、富士山の方向、故郷富士吉田の方角でした。単に夕日の色に何かを思い出したのではなかったのでしょう。

 Gedc0263

 この神がかった空の表情は、きっと天に召された天才たちの醸すハーモニーに違いありません。まるで音楽が聞こえてくるような気がします。
 両天才の、夕日にまつわる歌を聴きながら、改めてお二人の功績に感謝しつつ、ご冥福をお祈りしたいと思います。

美空ひばり 「夕日に赤い帆」

フジファブリック 「茜色の夕日」

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2010.06.23

ジェイソン・ヴィーオ 『イメージズ・オブ・メセニー』

Jason Vieaux 『Images of Metheny』
61uryjspjl_sl500_aa300_ れは本当に素晴らしいアルバム!隠れた名作。ぜったい買いです。
 昨日も「カバー」のお話でした。カバーが成功して、オリジナルのファンが絶賛するというのは、あまりないことです。オリジナル自身が絶賛するのは普通ですが(笑)。
 このアルバムは、そのオリジナルであるパット・メセニー自身はもちろん、多くのメセニーファンも絶賛している名カバー集です。
 パット・メセニーの名曲たちをクラシック・ギター用に編曲し演奏しているのは、ジェイソン・ヴィーオ。現代アメリカを代表する若手ギタリストです。
 彼はバッハからラテン、そしてメセニーまで、ある意味なんでもこなす演奏家でして、そのいずれもが比較的オーソドックスな解釈で安心して聴くことができます。卓越したテクニックだけでなく、音色の美しさも彼の特徴ではないでしょうか。
 まず彼のバッハを聴いてみましょうか。

 なかなかいい演奏ですね。バッハの音楽の本質がスマートに表現されています。
 彼はバッハなどバロックのレパートリーも得意としているようです。その影響か、今日紹介するアルバムにも、メセニーの楽曲を自らバロック組曲風に編曲しているものがあります。それもなかなかいい。バロック舞曲&パット・メセニーファンの私のツボに入りまくりました。
 こういうのを聴きますと、クラシック・ギターっていいなあ…と思ってしまいますね。意外に思われるかもしれませんが、私、実はアコースティック・ギターに憧れているんですよ。ある意味ギターに挫折してヴァイオリンに行ってしまったとも言えます。
 発音の瞬間にかける感覚と、減衰の中での色付けに魅力を感じます。それが可能なのはギターとクラヴィコードですね。生まれかわったらそのどちらかを弾きたいと思っています。ヴァイオリンはもういいや(笑)。
 では、このアルバムから1曲聴いてみましょうか。メセニー節の中でも特に有名な『Letter From Home』です。

 う〜ん、いいなあ。涙が出そう。美しい。こうしてクラシック、いや現代音楽として聴くとですね、パット・メセニーがいかにすぐれた「作曲家(コンポーザー)」であるか分かります。彼の特徴を一言で言うなら、「単純と複雜の織りなす妙なる綾」なんですよね(全然一言じゃないか)。
 シンプルさと複雑さの交錯は、これはすなわち「自然界」のあり方であって、言うなれば「musica mundana」なのです。これは「天上の音楽」と訳されることが多いのですが、それよりも「自然界の音楽」と言った方が私たちには分かりやすいかもしれません。
 そう考えると、先日紹介した「オーケストリオン」は、それと「musica humana(人間の音楽)」、「musica instrumentalis(道具の音楽)」のハイレベルな融合なのかもしれませんね。おそるべし、パット・メセニー。音楽界を全制覇か…。
 原曲も聴いておきましょうか。やっぱりこちらも美しすぎる…。

Amazon Images of Metheny

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2010.06.22

Bank Band 『若者のすべて』

 日の山梨日日新聞にフジファブリックの志村くんの記事が載っていました。記事を執筆された沢登さんとは、以前じっくりお話をさせていただいたことがあります。私と沢登さんは志村くんと富士吉田について、大変似た考えを持っていまして、その時もお互いの仕事の上で、なんとか志村くんと富士吉田のことを、もっともっと知ってもらえるような、特にその地元「富士吉田」自身に知ってもらえるような活動をしていきたいという話をさせていただきました。
 ぜひフジフジ富士Qの前までには連載記事を!という願いが、こうして実現したことを心から嬉しく思いますし、感謝したいと思います。本当に「心」のこもった素晴らしい記事でした。今後の連載が楽しみです。
 さて、彼の訃報からそろそろ半年が経とうとしています。ファンやメンバーのみならず、彼を取り巻く多くのアーティストやスタッフの皆さんは、それぞれにそれぞれの一歩を踏み出し始めていることでしょう。その一つの集大成が7月17日になることと思われます。
 それに先立ち、フジファブリックとしてもシングル・コレクションや映像集が発売されることになっており、またその後もニューシングル(ドラマとのタイアップ)、ニューアルバムの発売も予定されていて、ファンにとっては新しい志村くんの歌声や姿と出会うことができる機会が待っています。とっても楽しみですね。
 また、このような動きもあります。Bank Bandによる「若者のすべて」のカバーです。ヴォーカルの櫻井和寿さんをはじめ、小林武史さん、亀田誠治さん、小倉博和さん、河村智康さんと言った日本ポピュラー音楽界を代表する重鎮たちによってフジの曲、志村くんの曲がカバーされるというのは、非常に喜ばしいことです。
 発売前ではありますが、こうしてYouTubeに上がっておりましたので、さっそく聴いてみましたが、なかなかいいですね。そして、感慨深いものがあります。志村くん本人に聴かせてあげたいなあ…あっ、聴いてるか。
 ワタクシ的にはやはりアレンジが見事だと感じました。さすが重鎮たち、原曲の良さ、良い部分をしっかりつかんで離さず、しかし一方でより職人技を活かした作りになっていますね。音楽に対する、詩に対する、そして志村くんに対する愛情と理解を感じることができます。さすがです。
 亀田さん、たまたまお通夜の時御一緒させていただきました。なんとも信じられないというような沈痛な面持ちで焼香されていたのを思い出します。いったいどんな思いでこの「若者のすべて」のベースを演奏したのでしょうか。基本原曲を踏襲したベースラインですが、亀田さんらしいブリッジに気持ちがこもっているような気がします。
 いわゆるカバーの難しさについては、このブログでも何度も語ってきましたから、それは繰り返しません。しかし、何より、こうして超一流のミュージシャンが志村くんをトリビュートしてくれることの価値に注目すべきです。
 音楽というのは、互いに影響し合い、賞賛し合ってどんどん広がっていく、進化していくものです。つまり、人と人との縁によって進化していくものなんですね。あるいは語り継がれていくもの。そして永遠の命を得るものなのです。
 こうして志村正彦の言葉と音楽と人生はずっとずっと歌い継がれ、語り継がれていくに違いありません。

 原曲はこちら

Amazon 沿志奏逢 3

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2010.06.21

『理系の人々 2』 よしたに (中経出版)

80613667 あもうあれから1年半以上経ってるんですね。日本人4人がノーベル賞受賞。
 久々に3月までの職場、すなわち高校の特別進学棟に行きました。私の本なんかがそのまま放置してあるので引き上げに行ったのです。これを中学の図書室に…と思ったけれど、だいたいがこのブログで紹介したような本なので、さすがにマニアックすぎます。中学生向けのどちらかというと可愛らしい蔵書が並ぶ中、「山口文庫」は異彩を放ちすぎてますな(さすがにこれは職員室に引き上げてきました…ってか、職員室にあってもいいのか?w)。いかんいかん、なるべく書棚の上の方に並べよっと。
 と、高校生を使ってそんな作業をしていたら、数学の先生が「これ読みましたか?」って差し出してくれました。そう、「理系の人々(無印)」で、「99%当てはまっている!」と言っていた先生です。
 その先生曰く、「2はSEネタに限定されすぎていて、無印ほどの共感がなかった」と。で、さっそくちゃっちゃと読んでみましたが、たしかにその通りだという印象を持ちました。それでも、私自身の共感度は無印と同様15%くらいでしたから、なるほど、私の潜在的な仕事はSEなのかもしれない…などとも思ってしまったのでありました。なんとなくあり得る話です。
 エコを糾弾したり、占い師をやりこめたり、あるいはGPSナビの性能を実感するために旅したりするあたりなんか、まんま私ではないかと思ったりして(笑)。やはり自分って、基本理系的な思考をする文系オタクなんだな。なんだか一番世の中で使えない人間であるような…。
 ま、全体として思ったことは、結局第1巻(無印)について書いたこちらの記事の通りです。あそこにほとんど全部言いたいことは書いてありますね。
 ただ一つ加えるとすれば、そういう理系オタク(男性)特有の「思い入れ」が奇跡を生む可能性があるということです。いや、歴史上のほとんどの奇跡的な発見や開発、発明、プロジェクトの成功というものは、そういう「思い入れ」に立脚しているのではないでしょうか。
 プロジェクトXで語られた「物語」も、ある種神がかった「思い入れ」「こだわり」のお話でしたし、このたびの「はやぶさ」の奇跡なんかもまさにそれです。文系じゃあ、さっさと諦めて「悲劇」に浸っているでしょう。そして、女性も違った意味であきらめ(それはおそらく「上書き」だと思いますが)が早いし、オタクじゃない人は、ああいう逆転の発想はできなかったでしょう。
 だからやっぱり「理系の人々」あるいは「理系クン」が世の中の変革役を担っているのです。こういう閉塞感のある世の中だからこそ、理系の「思い入れ」が重要になってくるんじゃないでしょうかね。その点、政治家は「文系クン」ばっかりで…いやいや、菅首相は東工大の出でしたね。応用物理でしたっけ。それにしちゃあ、なんだかなあ…。
 とにかくそういう理系パワーをですね、こうして茶化して終わらせるんじゃなくて、もっと有効利用したいものです。高校生なんか見てても、やっぱり理系の方がパワフルな感じがします。
 理系の研究費を削るなんていうアホくさい事業仕分けなんかやってるようじゃあ、この日本の未来も暗いですよ。ただし、理系のパワーの使いどころをコントロールするのは、文系の仕事なんです。理系は「思い入れ」のあまり、「思いやり」を失い、暴走するきらいがありますので。
 やっぱり世の中バランスですね。そして適材適所。互いを認めて活かし合わなきゃ。まずは自分の中でそれを実現してみるか。そんなことを考えながら15分ほどでこのコミックを読み終えました。

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2010.06.20

バッハ vs みのるちゃん(その2)

 あ、バッハとみのるちゃんの対決(?)、どっちが勝ったのでしょうか。
 皆さんは全く理解できないかもしれませんが、このブログにも時々書いているように、私にとって「音楽とプロレス」は全く同じものです。寸分も違わないと言ってもいいでしょう。少なくとも私がそれらを鑑賞する際、脳ミソの全く同じ部分を使っているのは事実なのです。それを前提に「鈴木みのる選手」について書いていこうかと思います。
 で、昨日は何があったのかと言いますとですね、そうです、半恒例のプロレスリングの勉強会「スネークピット・キャラバン・サイエンス」が、鈴木みのる選手を講師に迎えて行われたのです!
 スネークピット・キャラバンと言えば、我が家では桜庭和志選手の時を皮切りに、ウチの夫婦は高山善廣選手木戸修さん、そして藤波辰爾さんと、夢のような講師陣の回に参加。それぞれの講師に十数人の生徒という、めちゃくちゃ贅沢な勉強会です。特に「サイエンス」はトークだけでなく、技の実演(セミナー)もあり、もうマニアなら卒倒しそうなくらいの魅力的な催しなのです。
Uni_4578 今回は、現三冠チャンピオンである鈴木みのる選手が講師ということで、私は行きたくて死にそうだった(?)わけですが、さすがに自分の試合…じゃなくてコンサート(いや、やっぱり試合だな)があり、それも教え子たちが観戦…いや鑑賞しにくるとなれば、さすがに断念せざるを得ません。しかし、そこはプロレス好き最強タッグチームの我が家、私を除く3人がしっかり私の分まで勉強してきてくれました(ま、娘たちは端っこでお絵描きとかしてたみたいですが…笑)。
 そして、彼女たちからさっそく伝え聞いたところによりますと、やっぱり「鈴木みのる」は私の思った通りのプロレスラーだったようです。カミさんはじめ生徒の皆さん、スネークピット所属のレスラーの皆さん、そしてスネークピット・ジャパンのボス宮戸さんも、改めていろいな発見があり感動したようです。
 サイエンスでは、プロレスリング研究家、那嵯涼介さんが司会進行を務めてくださいます。私が家内に託したみのるちゃんへの質問もしっかり聞いてくださりました。那嵯さん自身も得るところの多い勉強会だったようですね。ああ、行きたかったなあ…。
 私、このブログでは鈴木みのる選手のことを一度しか書いていないんですよね。こちらの記事です。ノアでの秋山戦。そこにも書いてありますが、それまで実はあんまり好きじゃなかったんですよ。でも、あの試合から突然大ファンになってしまった。あっ、この人はプロレスを本当に理解している!と感じたのです。あっ動画がありました!

 うわぁ!今見直して泣いてしまった…。負けてかっこいいみのるちゃん。しっかし、すごいプロレスですね。総合格闘技、MMAとは全く違う「モノ」があります。
 繰り出された技は、秋山選手のエクスプロイダー以外はほとんど古典的な技ばかり。張り手(ビンタ)に至っては「技」以前の原始的な動きです。それでこれだけ人を感動させられるんですからね。プロレス道ここに極まれり、ですよ。
 サイエンスでの発言内容はここには書けませんが(オフレコです)、とにかくみのるちゃんは、頭が良くて、しっかりプロレスの歴史も現状も、あるいは自分の立つべき位置もわかっていて、その上で自分のスタイルを貫いていることが理解できました。
 なんていうのかなあ、やたらと大技を連発したり、ロープワークやコーナーポストを使ったり、飛んだり跳ねたりするのではなく、きっちり基本的な動きの中で相手を支配し、試合を支配し、会場を支配していく…本来あるべきスタイルではないでしょうか。
 音楽でも、たとえば古楽なんか、どんどん曲芸みたいな演奏が増えてるんですよ。やたらハイスパートで、アクロバティックな演奏。そういうのも面白いと思った時もありましたし、そういう音楽のあり方、特にライヴな音楽のあり方というのも認めますが、やっぱり最近飽きてきてしまった。もっと、「心」のある演奏を聴きたいし、演奏をしたいと思うようになりました。
Uni_4592 みのるちゃん(あえて敬意を表してこう呼ばせていただきます…笑)は、日本人では数少ないカール・ゴッチの本当の弟子です。私生活まで含めて、彼はゴッチ先生とある意味対等につきあって、そのスピリットの部分をしっかり受け継いでいるレスラーです。
 音楽で言えば、古楽の伝統(それはテクニックだけではなくスピリットも含めてですよ)をしっかり体得して、現代に自分のスタイルとして継承している演奏者ということです。ブレない、その人にしかできない音楽を持っている奏者です。実は音楽会にも、そういう人なかなかいません。やたら上手な若手は増えましたが…。どこも同じような状況ですね。
 というわけで、私は改めて鈴木みのる選手の偉大さを知り、そのスピリットを自分の仕事や趣味に活かしていきたいと心から思いました。臨済禅でいう「請務其本」です。枝葉末節に心を奪われず、しっかりその「本」…「根本」、「本質」、「本流」を見極めて行きたいものです。
 今週末には鈴木選手が地元にやってきます。もちろん観戦しに行きます。そして、できたら私も話をしてみたいなあ…。

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2010.06.19

バッハ vs みのるちゃん(その1)

 れも「どっちがすごい?」なのかな。すみません、家族で変な対抗戦してて(笑)。
 前回ははっきり言ってカミさんの勝ちでしたね。いろいろな方からもそう言われました。実際、あの記事には載せなかった(載せられなかった)衝撃的なフェイスロックの現場写真を見ると、うぅむ…負けを認めざるを得ない…かな。四郎先生が私にかけた心のロックもすごかったけれど。
325 さて、今日はどんな戦い模様かと言いますと、私の方は横浜にてコンサート。それも中学の遠足&芸術鑑賞を兼ねているという荒技。なかなかこういう学校もないでしょう。芸術鑑賞に教頭先生が出ているというのも(笑)。
 でも、生徒たちにとってはいい機会だったと思いますよ。知っている身近な人が出ている方が間違いなく興味持ちます。普通のコンサートならグゥグゥ寝ちゃうところ、なんとか我慢できるだろうし、事前の指導もしやすいし。
 なんでもそうなんですよ。やっぱり未知の世界とつながるには、「知人」「身近な人」というデバイスというかインターフェイスというか、とにかくミーディアムが必要なんです。それが「縁」でしょう。
 そういう意味で、今回の演奏会は大成功だったと思います。そして、私にとっても本当に貴重な経験となりました。
 だいたい、なんで私があのような横浜のコンサートに参加できるか、呼んでいただけるか、それを説明するだけでも、生徒たちにとってはいい勉強になると思います。本当に「縁」ですから。全くつながる可能性のなかった人たちと、「音楽」というものを通じてつながった、つまり「芸は身を助く」、それもまさに中学時代に出会ったヴァイオリンによる「縁」。そういう実例としていい教材になったんではないかと。このたび、一つの夢であった「弦楽合奏部」も創りましたし、その部員も今回の演奏を聴きましたから。
 自分のこととして考えてみても、こういうプロの方々と一緒に演奏できるなんて夢のようですし、これでブランデンブルク協奏曲は全曲古楽器での演奏に参加したことになりました。ナチュラル・トランペット(バロック・トランペット)が入る2番だけは難しいかなあと思っていたのが、とうとうこうして実現してしまいました。こんなこと、ヴァイオリンを始めた頃、そして古楽に出会った頃、とても想像できませんでしたね。それにしても松野さんの超絶テクニックはすごかったなあ…。
 そうそう、この演奏会の寸前に、突然オランダからメールが届きました。今や世界のバロック・ヴァイオリニストとなった赤津眞言さんからのメールです。思えば、四半世紀前の赤津さんとのアンサンブルが、私にとっての全ての始まりでした。あの時、今の私の音楽的な立場を想像できたでしょうか。妄想すらしていなかった。つまり、夢が実現したというより、夢にも思わなかったことが、「縁」によって実現しているということなのです。
X2_1aa8b62 だから人生は素晴らしい。行動し、そして「縁」を大切にしていれば、おのずと道は開け、そして妄想以上のことが実現していく。中学生にはそのきっかけとなる「出会い」をしてもらいたいですね。音楽でもスポーツでもなんでもいいのです。そういう人生の武器と出会ってほしい。
 さて、このコンサートの詳細については、アンサンブル山手バロッコのホームページの方でご確認ください。昨年同様湿気には苦しみましたが、全体にレベルの高いアンサンブルが展開されたと思います。なにより、演奏者の皆さんのお人柄によって、楽しく音楽の会話ができたのが良かった。それがお客様にも伝わったのではないでしょうか。
 ご来場下さった満員のお客様、生徒諸君、そして演奏者の皆様、ありがとうございました。お疲れさまでした。ぜひ学校行事としても恒例化したいものです。
 あっそうそう、今回うれしかったのは、お客様の中で、わざわざ私に「ヴィオラが良かった」と声をかけてくださった方がいらしたことです。ヴィオラを聴いていてくれたなんて…。地味に後の方で弾いていたのに。いや、バッハのヴィオラって素晴らしいんですよ。本人が弾いていたのでしょうかね。まさに内側から音楽を創る喜びに満ちたパートなんです。いわば「音楽の心」担当というか。特にあのカンタータのヴィオラはバッハの中でも最高でしょう。
20100620_131920 さてさて、一方のカミさんと娘たちですが、こっちもすごいなあ…な、な、なんと!プロレスラーの鈴木みのる選手と…。これも不思議な「縁」のなせる荒技ですよ。去年からのこの急展開はなんなんだ!という感じですね。
 去年の秋も同じような対決がありまして、「バロック vs プロレス」という記事を書きましたね。今日はより具体的に「バッハ vs みのるちゃん」です。う〜ん、そっちにも行きたかった!これまたある意味両者はほとんど同じもので、全然矛盾しないかもしれません。
 と書いたところで、長くなりそうなので、続きは明日にします。

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2010.06.18

パット・メセニー 『オーケストリオン』

20100620_94048 年1月に出た新譜、遅ればせながら聴いてみました。これはすごいですね、いろいろな意味で。「パット・メセニー」というジャンルがあるのだなあと実感。
 パット・メセニーは好きなミュージシャンの一人ではありますが、その天才性のゆえか、やや理解を超えた音楽であることもたしかでした。それがとうとうここまで来てしまったか。「天才」と「バカ」は紙一重。まさに「天才バカボン」です。
 オーケストリオン…機械仕掛けの自動演奏オーケストラ。それを自ら作り上げ、自らコントロールし、ものすごく魅力的な「音楽」を創造してしまった。
 なんかバッハみたいですよ。自分のこだわりを極致まで追求した結果、人間性を突破してある種の聖域、つまり「神の領域」にまで行ってしまった。まずは、この動画をご覧下さい。

 ううむ。このデジタル時代、このアナログ感はなんなんだ。これは時代に対するアンチテーゼですよ。コンピューターで制御しているけれども、発音はどこまでも自然楽器。
 つまり、自らもそうであったように、人間技を極めて、どんどん複雑化していく「現代音楽」と、逆に経済的な、あるいは時間的なチープさを極めていく「打ち込み音楽」に対する、天才(バカボン)らしい反撃ですよ。
 なんで、こういう発想になるんだ?彼自身が極めてきた「インタープレイ」はどこへ行った。いや、これこそが彼と彼自身の究極のインタープレイであり、インプロヴィゼーションなのか?
 機械仕掛けであるからこその、シンプルさ…たとえば、強弱一つとってもある意味デジタル的にならざるを得ない…の中で、彼のギターは相変わらず変幻自在で自由奔放に鳴り響きます。バックグラウンドが平坦であるために、逆に浮かび上がるパット・メセニーという人間。
 ある意味では「カラオケ」ですよねえ。究極の「空オーケストラ」です。それがこんなにカッコよくて、美しいのはなぜ?もう、完全に凡人の想像力を越えてしまっていますけれど、しかし結論は結論、結果は結果。認めざるを得ません。
 デジタルは「情報」という不変な「コト」世界です。アナログは「他者」という不随意な「モノ」世界です。パット・メセニーは、その「コト」世界と「モノ」世界を見事に融合して、そこに「ヒト」世界を現出してしまいました。それを「神業(神事・神技)」と言わずしてなんと言うのか。
 今、このオーケストリオンを率いて(?)ワールド・ツアーをしています。先日、日本にもやってきて、音楽&機械好きの日本人の度肝を抜きまくったそうです。こちらの記事でもその興奮の様子がうかがい知れますね。
 パット・メセニーはジャズ・ギタリストとして有名なわけですが、もうこれはジャズではないですね。ジャズは広範で柔軟なジャンルであります。しかし、これはもうそれさえもはみ出してしまった。やはり「パット・メセニー」というジャンルですね。「バッハ」というジャンルが孤高としてそびえ立っているのと同じです。
 賛否両論あるのはもちろん理解できます。神に対しては、凡人はひれ伏すか無視するかしかできませんから。
 しっかし、どうやって作ったんだろう。子どもみたいな気持ちがないと無理だよなあ。そう、これは究極のピタゴラスイッチです。

Amazon オーケストリオン

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2010.06.17

『憚りながら』 後藤忠政(忠叡) (宝島社)

79667547 ず今日は一言短く。男らしく。「これを読め!」。
 かなり売れているようですね。そして非常に評価が高い。こういう本が売れるということは、まだまだこの世の中も捨てたもんじゃないということです。よかった。
 最近、山口組関係の本を読むことが多く、そして田岡三代目組長を礼讃する記事をずいぶんと書いてきました。彼はてっぺんの人間でしたから、ああやって「神」として君臨し、我々弱者に「慈愛」を垂れ続けることができました。彼は指も全部あったし、刺青もまったくなし。薬に関しては本気で撲滅運動をしていました。
 しかし、そのピラミッドの下には、また違う世界が広がっています。もちろん私もそのことはよ〜くわかった上で、最近の「ヤクザ」肯定論を展開しています。こういう時代だからこそ、あえてこうして発信しているのであり、よけいなご心配は無用です。
 ですから、「学校のセンセイがそんなこと言っていいのか」と思われた方、つまり心配してくれる方、および批判してくれる方には、ぜひもっと歴史を勉強してもらいたいと思います。個人個人に表裏、明部暗部があるように、もちろん社会もその両面、そしてそのマージナル・ゾーンがあってはじめて「現実」です。
 我々教育者の責任でもあるのですが、ここ数十年日本人はそうした「文化」継承を怠りすぎました。実際私も学校教育においては、「表」と「明」と「善」しか学んできませんでした。今、私はそういう自分の歴史をも省みて、今こういう表現活動をしています。ま、現場ではそれなりに「憚りながら」やってますが(笑)。
 さてさて、そのピラミッドの頂点のすぐ下、いわゆる「直参」であった後藤組組長さんのこのインタビュー自伝、本当にものすごいことになっています。「もの」すごいのです。それこそ、私たちが何も知らずうわべだけを撫でて生きてきた、その薄皮をはがしたところに見えてくる広大なる裏の世界、暗の世界、悪の世界。そのほんの一端だけなのですが、こうしてその世界の住人が語ってくれますと、もう本当に「物語」そのものになりますね。はっきり言って美しい。あの「『YOUNG YAKUZA』」の「美の国は道徳よりも広大である」という言葉を思い出します。
 そして、今や後藤さんは組長ではなく、天台宗の僧侶ですからね。ま、得度しただけですが。
 得度したという話を聞いた時、私は「Time is Money」のお話という記事の中で、「彼はまじめに悟ったのでしょう。本当の理想の『時間』は、『金』でも『暴力』でも『権力』でも買うことができないと…」と書きました。この予想はある意味当たったとも言えますし、ある意味全くはずれたとも言えますね。彼の欲望、野望は全く衰えることなく、いまだに燃え盛っていましたから。
 それにしても、実に興味深い内容でしたねえ。私も静岡出身の人間ですし、彼のお膝元富士宮とは、今でもある意味お隣の関係ですし、浅間神社的に言えば表と裏の関係でもあります。そんな身近な土地で、このようなことが展開していたとは。もうそれだけでも正直ワクワクしてしまいました。
 富士吉田も一言出てきますね。そうそう、実際こちらのヤクザとの抗争がいろいろありました。まさに職場のすぐ隣、西裏界隈がその舞台になっていました。なんか懐かしいな。
 もちろん、そういうローカルな物語だけでなく、スケールの大きな物語がじゃんじゃん語られますよ。政治家、芸能人、そして某宗教団体のドン…みんな実名で登場します。こういう大物たちをこうしてストレートに指弾できるのは、まあ、後藤さんくらいしかいないでしょう、今の世の中では。特に某学会の某池田大作ちゃんに対する苦言は、正直痛快でさえありました。
 後藤さんは自らのことを「しょせん、俺はチンピラだった」と謙遜していますが(いや、実際そうなのかも…)、一方で「小チンピラ」のことを徹底的に批判しています。なんか分かりますね。最近「小チンピラ」が増えたっていう事実。筋を通さない、肚のすわっていない男ばっかり。
 特に世の中をリードすべき政治家に、そういう「小チンピラ」が増えてしまったのが、この日本がこんなふうになってしまった原因でしょう。やっぱり、政治家は正しい意味で「ヤクザ」であって、「宗教家」であるべきなんですよ。
 そう、これもいつも言っていますけれど、日本の歴史って「表」と「裏」、「明」と「暗」、「善」と「悪」、「聖」と「俗」が、グルッと一周回ってつながっているじゃないですか。この本を読んでそのことを再確認しましたね。神社や寺の機能なんかその分かりやすい例ですよ。ローカルな話で言えば、浅間神社とか月江寺とかですね。門前にそういう輩が必ずいたんです。もちろんテキ屋はその流れです。
 天皇家や芸能人も歴史的にずっとそういうシステムを保ってきたじゃないですか。それが当たり前だし、必然だった。論理とか学問とか、それこそ道徳なんかでは説明できない「モノ」がそこにあったわけです。それをお馬鹿な「常識人」…それが教員、先生であったりするから困るわけですが…が、否定してしまった。
 ここのところかまびすしい「大相撲」と「暴力団」との関係なんか、ああやって報道して問題視すること自体、ちゃんちゃらおかしいと思います。いや、今の両者の状況はどちらも憂慮すべきですよ。でも、歴史的な必然性なんかを勉強しないで、ただ現状だけ見て「けしからん」とコメントしてしまう、報道や識者に、私は違和感を抱きます。角界とはなんなのか、しっかり勉強しなさい。
 後藤さん、もしかすると最後の「語り部」かもしれませんね。僧侶になって、結局「シャバ」に帰ることも「カタギ」になることもなく一生を終わるんでしょう。まさに天皇が出家して法皇になるようなものか。一度謁見してお話をうかがいたいものです。
 最後に一つ。この本には、後藤さん以上の「極道」が登場します。それはお読みになってご確認下さい。最強です。

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2010.06.16

茜色の富士(夏編)

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 ジフジ富士Qまで、あと1ヶ月ほどとなりました。参加アーティストの皆さん、スタッフの皆さん、準備は順調でしょうか。おそらく梅雨明け前だと思いますから、あとは天候のことを祈るだけですね。
 今日は梅雨の晴れ間、こちら富士北麓地方もたいへん暑くなりました。しかし、この季節独特の木々の生命感はまた格別なものがあります。本格的な夏へ向けて必死に水を吸って、そして貴重な日光を一生懸命浴びています。
 今日はそんな富士吉田を、フジファブリックのメンバーが訪ねてくれました。まさにフジフジ富士Qの主役である彼らは、本番を1ヶ月前に控えて、きっと木々や山々から、そしてなんといって富士山から、でっかいパワーをもらったことでしょう。もちろん、志村くんからも…。
 本当に今日は、彼らを歓迎するかのように、この季節としては珍しく富士山が見えていたんですよね。空梅雨ならまだしも、普通の梅雨空が続く年ですと、地元の私たちでも、なかなか富士山を拝めません。
 なんとなく富士山を見ずに過ごす1ヶ月の間に、実は富士山自身は大きな変化をしているものなのです。つまり、梅雨時の雨は、富士山にとっては「雪」と「雨」のちょうど境目にあたりまして、雪が降れば、この前のように再び雪化粧しますし、雨が降れば、その雪がものすごい勢いで解けることになります。
 百人一首の「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」、いやいやそのオリジナル・ヴァージョンである万葉集山部赤人の「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」とは、この季節の感慨を歌ったものです。「つつ」じゃあダメダメですよねえ。気づき・発見・驚嘆の「けり」じゃないと。誰だ改作したのは!
 …と、そうした冬と夏のせめぎ合いの中で、富士山は人々を迎える「夏仕様」に変わっていくのです。
 梅雨明けして突然、山肌をあらわにした富士山に「驚く」というのが、地元民のパターンなのです。梅雨入り前はあんなに雪があったのに、もうほとんどないじゃん!夏だなあ…と。
 ですから、今日のようにその途中経過を見ることは、実は地元民でもそうそうないんですよね。今日みたいな日は特別。こういう雪加減の富士山を見ることはあんまりありません。
 そういう意味でも、今日来てくれたメンバーやスタッフの皆さんはラッキーでしたよ。きっと志村くんの粋な計らいなのでしょう。
 夕方、そんな富士山に夕陽がさしまして、微妙に残った雪が茜色に染まっていました。写真ではうまく表現できないとは思いましたが、中学校のいつもの窓からデジカメで撮ってみました。どうでしょうか。少しはその美しい茜色が伝わるでしょうか。
Gedc0228
 冬に「茜色の富士」と題した記事を書きましたが、どちらかというと「茜色」というのは、今日の雪の色に近いのではないかとも思います。
 富士山の写真は、快晴のもと撮影されたものや、芸術的な雲がかかっているようなものが多いのですが、私はこのように何気ない雲がかかっている普段着の富士山が大好きでして、そういう写真集なんか出ないかなと思っているくらいなんです。出回っているものは、ほとんどがヨソユキの富士山だもので。
 いずれにせよ、こうして志村くんが見て育った風景、そして微妙な色合い、空気というものを、メンバーはじめいろいろな方々に感じていただけるのは、私としてもうれしいことです。
 さあ、7月17日、こういう普段着の富士山が見られるといいですね。カンカンに晴れてもライヴはきついでしょうし、雨が降るとめちゃ寒いですし、非常に難しいんですよ、山の天気は。
 ところで、この日、全国から、おそらく1万7千人くらいの方々が富士吉田にやってくるものと思われます。そして、当然皆さん、志村くんの生まれ育った街を散策することでしょう。それは実にありがたいことです。
 しかし、本当に私のような者が言うのはおこがましく、また差し出がましいのですが、はっきり申して富士吉田市側には、そんな、人口の3分の1にあたるようなお客様を迎える体制も心積もりも全くありませんので、いろいろ心配なことがあります。
 それこそ差し出がましいとは思いますが、主催者や富士急行、そして市に、いちおう私の方からもいろいろと対策や準備をお願いしているところです。
 ファンの方々には、せっかく全国から来ていただいているので、当然この街を楽しんでいただきたいのですが、ぜひとも良識ある行動をとっていただきたいと思います。特に志村くんのご家族にご迷惑がかかるようなことはないようにしていただきたいし、私自身もそうしたいと思います。
 みうらうどんとか大丈夫かなあ。今のみうらうどんって志村くんのおススメしていたのとは違うお店(関係はありますが)だし、他にもた〜くさん吉田のうどんのお店はあるので、うまく分散していただけることを祈ります。
 いちファンとして、いち富士吉田関係者として、そしていち個人として、ここに書かせていただきます。

PS ちなみに、その日の午前中は我が中学校のオープンスクールがありまして、これは誰でも自由に出入り可能ですから、月江寺周辺にいらした際にはぜひお寄りくださいませ。なんて、ずうずうしく宣伝しちゃったりして(笑)。

富士学苑中学校公式

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2010.06.15

祝?呪?ワールドカップ日本勝利

2010061500000088sansociview000 ールドカップが始まりましたね。日本はカメルーンに勝ちました。私は眠すぎて寝ていましたが、階下でカミさんと娘たちの歓喜の雄叫び(雌叫び)が聞こえましたので、ああ勝ったのだなと夢の中で思っていました。
 決勝ゴールを決めた本田圭佑選手、プロレスラーの本田多聞選手の親戚なんだそうです。さすが国際舞台に強い血筋(?)。多聞さんはロス五輪5位入賞ですからね。
 さてさて、カメルーンと言えば思い出すことがあります。8年前、日韓共催の時、カメルーンが富士吉田市で合宿したんですよね。今回も中津江村ではカメルーンを応援していたようですが、実は中津江に行く前には富士吉田に来ていたんです。
 それで、あのお馬鹿なことをやってしまったんですよ、富士吉田は。さすが富士吉田です。あえて自虐的に言わせていただきます。さすがにお馬鹿すぎて、笑うしかありません。
 ええとですね、カメルーンの選手たちが去ってのち、同国との友好のしるしとして、富士吉田市がモニュメントを造ったんですよね。道の駅かどこかに。
 で、その除幕式を大々的にやったわけです。マスコミとか呼んで。それでパンパカパーンって幕を取り去ったら…

 Would Cup 2002

 …おいおい、「ウドゥ・カップ」ってなんなんだよ!?ww
 なんでも何百万円もする高価な石に、そう彫っちゃったらしい。それをコンクリでちゃんと設置しちゃってたわけです。ガーン。
 てか、なんでそこまでに誰も気づかないの?…と、そんなところが富士吉田クオリティーなのであります(苦笑)。まあ、ギャグとしては最高ですね。ネタだとしたら素晴らしすぎます。
 ま、そんな「呪い」のおかげか、FIFAランクなど見れば圧倒的有利であったはずのカメルーンは脱力して日本に苦杯を喫してしまいました。8年越しの作戦が実ったというわけです(笑)。
 まあ、これはシャレにならない冗談としても、よく頑張ったとは思いますよ。ただ、これで喜んでいると、オランダ戦で日本国民は痛い目に遭うことでしょう。
 そうそう、オランダと言えば…ま、オランダだけじゃありませんけど、ヨーロッパのチームになんであんなに黒人がいるのか。今日は中学生にそんな話をしました。ただ、観てるだけじゃ勉強になりませんからね。
 彼らは母なる大地に帰って試合をしているんですよね。いったいどういう心境なのでしょうか。こういうことは日本人には計り知れない部分であります。ま、在日とか帰化人とかの問題はありますが。
 ワールドカップに、そういう歴史的な問題、あるいは政治的な問題を持ち込んではいけないとは分かっていても、それでもやはりいろいろな物語が見えてきてしまうのも事実です。
 北朝鮮もブラジル相手に善戦しましたね。両国とも選手の背負うプレッシャーは大変大きなものがあるでしょう。ちょっと意味合いは違うとはいえ、命懸けで戦っているのにはかわりありません。まじで命が危ない。それこそシャレになりません。
 今回中学校では、地理の勉強を兼ねて、一人一国ずつあてがわれて、それぞれの国についての調べ学習をしつつ、試合を楽しむという企画をやっております。サッカー好きの担任の先生のアイデアです。たしかに生徒たちは興味を持って注目していますね。いい勉強になっているようです。
 それぞれの担当国はくじ引きで決めました。生徒だけだと全部まかないきれないので先生も参加しています。ちなみに私の担当は「チリ」です。なかなか渋いですね。今まで全く注目したことのなかったチームでしたが、こういう縁がありましたので密かに応援したいと思っています。明日ホンジュラスと初戦ですね。
 はたして日本は奇跡の決勝トーナメント出場なるか!?「はやぶさ」に負けないよう、大和魂を見せてもらいたいものです。

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2010.06.14

『実録 神戸芸能社』 山平重樹 (双葉社)

山口組・田岡一雄 三代と戦後芸能界
57530172 本のドン「田岡一雄組長」、永遠の歌姫「美空ひばり」、そして国民のヒーロー「力道山」。
 昨日はプロレスラー三沢さんの命日でした。三沢さんが守り、発展させたプロレス界を作ったのは、言うまでもなく力道山です。その力道山を支え、彼をヒーローにまで育てたのは、山口組三代目組長田岡一雄でした。
 そして、昨日夜、先週に続きましてBS朝日で「旅立ちから20年『甦る!幻のスーパーライブ』」の第二夜として1976年の大晦日の「美空ひばり芸能生活30周年記念ライブ」が放映されました。ものすごいライヴでした。長らく録画が見つからず幻の映像となっていたものです。ひばりさん自身が録画したものが見つかり、それが昨年初めて放映されました。その再放送です。
 先週の記事にも書きましたとおり、彼女を育てたのも田岡さんですし、こうして大晦日にNHKに出られなかった遠因も田岡さんであると言えます。
 いずれにせよ、田岡さんが戦後日本、昭和日本に果たした役割の大きさはとてつもないものがありました。美空ひばり、力道山、この二人だけをあげても、いかに日本を、日本人を影から支えたかがわかります。正直、表舞台の政治家なんかよりも、ずっと国民のことを思い、実際に国民に力を与え続けました。
 そういう意味で、戦後日本を牽引した「神戸芸能社」とはどんな「会社」であったのか、最近大変に興味を持っています。私も昭和に育てられた人間ですが、実は神戸芸能社にすっかりお世話になっていながら、子どもの頃、若い頃には全く気づかず知らなかったんですよね。まさに裏から支えてもらっていたんでしょう。
 その神戸芸能社についての、なかなか素晴らしいルポルタージュであるこの本、その文学的な香りもあいまって、その古き良き時代の空気を実にうまく伝えていると感じました。昭和の裏側の、あの明るく暗い雰囲気、良きにつけ悪しきにつけパワフルだったあの頃の空気は、すでに懐かしい物語となってしまいましたね。私たち世代は、それをギリギリ体感できた幸運な世代だとも言えます。
 この本を読むとよく分かります。ちょうど私が生まれた昭和39年あたりを境に、日本は「日本」を捨て始めました。東京オリンピックが象徴するように、新しい国際国家としての「JAPAN」へと、時代は急行しました。それとともに消えていった古き良き日本。その一つが「ヤクザ文化」でした。
 ヤクザ的な物語世界、あえて言うなら「必要悪」という聖なる存在は、この日本を何千年にもわたって支配してきました。それが高度成長とともに一気に闇に葬り去られていきました。私はそういう時代の交代とともに生きてきたようなものです。だからこそ、最近、ある種の寂しさと不安を強く感じるのでしょうね。自分もそうした「モノノケ」退治に参画してきたからです。子どもとして、大人として、社会人として、常識人として、そして教育者として。
 そんな反省もあってからでしょうかね、最近異様に「歌謡曲」と「プロレス」の復興に燃えてしまうんですよ。意識はしていなかったのだけれども、気がついたらそうなっていた。面白いものです。
 そう考えてくると、資本主義や市場経済という「外来」のシステムの中で、古き良き「固有」の文化を継承、発展させた「神戸芸能社」という「会社」組織は、実に興味深い存在ですね。山口組の先取性、というか、田岡さんの才覚なくしては、こんな高度な芸当は無理だったと思います。
 そう、結局、そんな奇跡を可能にしたのは、田岡さんの「人柄」「愛」だったのです。非常に安っぽい表現になってしまいますけれど、つまりは「愛はカネに勝つ」ということですよ。たしかに一面では暴力的にカネを稼いだとも言えます。もちろんそれも認めますが、これだけの「才能(タレント)」を活かし、国民を楽しませ、喜ばせ、そして日本を元気にしたことは事実であって、その根底にはそれぞれのタレントに対する「愛情」、そして国民に対する「愛情」、国に対する「愛情」があったのは間違いありません。
 逆に言えば、今の興行主…音楽界をはじめとする芸能界、プロレスをはじめとする格闘技界も…には、正直「愛」を感じません。とりあえず、その「才能(タレント)」を理解しているとは思えません。単なるカネ稼ぎのための、その場しのぎの使い捨てのコマにしか思っていない。業界を育てようとか、人材を育てようとか、国民を元気にしようとか、そんなこと真剣に考えていませんよ。
 特に外国資本が入ってくると、もう本当にダメですね。残念です。
 まあ、いくら古き良き時代を回顧していても未来は始まりませんから、少なくとも自分はもっともっと「愛」を持てるように頑張っていかねばならないと思います。愚痴っていてばかりではダメです。もっと自分の「器」を大きくし、そして磨いていかねばならないと、真剣に思います。
 この本には、貴重な写真もたくさん掲載されています。田岡さんと、当時の超有名タレントたちとの、なんとも幸せそうな表情のスナップ。この表情こそ、当時の日本の元気の素だったのでしょう。
 政治家がいくら「日本に元気を!」と叫んでも、あの表情じゃあ無理ですよ。国民に元気を与えるのは、政治ではありません。ワールドカップで日本が得点すれば、もうこんなに元気になるじゃないですか。今の私たちに本当に必要なのは、スポーツや芸能や「はやぶさの帰還」などという「無駄なこと」を心から楽しむ力なのではないでしょうか。

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2010.06.13

『ドンマイドンマイッ!』 三沢光晴 (ミシマ社)

プロレスラー三沢からのメッセージ 特別発行人 香山リカ
90390819 
 年の今日は本当に悪夢のような日でした。悪夢であってほしいと、真剣に思いました。その後も私にとって大切な人を何人か亡くしまして、昨年は本当にとんでもない年でした
 それぞれの「死」を、実はいまだに受け入れられずにいる私です。なんでまじめに誠実に生きている人、人々を勇気づけ癒してきた人が、たとえば私なんかよりも早く天に召されてしまうのでしょうか。まさに「もののあはれ」を強く感じたこの1年間でありました。
 ただ一つ確実に言えるのは、そういう方々は皆、本当に命懸けで仕事をしていたということです。私のように何でもテキトーにやっていくのではなく、いつもまじめに自分やお客さんや世の中としっかり対面して、そしてごまかさずにやってきた。そういう人たちがまさに自らの命を代償として、世の中に「気づき」を与えてくれたのです。
 プロレスについてもそうです。三沢さんの死から、正直プロレス界は何かを気づかされ、そしてようやくそれまでの停滞しきった空気を払拭しようとするムードが生まれました。三沢さんの命が、業界全体の命になって息づいているかのようです。
 そう、たぶん三沢さんは、自分自身のためでなく、業界のために、社員のために、世界のために闘い続けたのでしょう。ボロボロになりながら…。
 この本は、そんな三沢さんが、死の直前まで書き続けたネット上の日記風コラムをまとめたものです。飾らない三沢さんの言葉が並んでいますが、実はその言葉たちには深い深い味わいがあります。
 いちおうこうしてネット上に言葉を連ねている私からしますと、三沢さんの「心遣い」がよ〜くわかるんですよね。まず、私も実はいろいろな人から指摘をされるんです「が」、今使った「順接の『が』」の多用に、三沢さんの「他者意識」というのを強く感じます。
 この「順接の『が』」はですね、いろいろな立場やいろいろな考えの不特定多数を意識すると、どうしても使わざるを得ない言葉なのです。私もこのブログの文章以外では、これほどその「が」を使いません。だいいち、「です・ます体」もめったに使いませんからね。とにかく気を遣って文を書くと、こういう文体になるんですよ。「が」「が」うるさいと言われるんです「が」、これはしかたありません。不特定多数の未知なる他者に向けて文章を書くと、こうならざるを得ません。
 三沢さんの文体もそれなんです。まず、そこに三沢さんらしさを感じました。
 そうした文体で語られることは、まじめな話、ちょっとふざけた話、下ネタ、オヤジギャグ、オタクトーク…本当に多岐にわたっています。そこに共通しているのは、やっぱり「愛」でしょうかね。自己愛ではなくて、他者に向けた大きな「愛」。それはほとんど神がかっています。多くの人に愛され、そして決して悪く言われなかった三沢さん。その理由が本当によくわかります。
 時々語られる、首を中心とした故障の話題。なんとも読むのが辛いですね。寝るのも歯を磨くのも、歩くのも困難なのに、あれだけ激しい戦いを続けるレスラーとは、いったいどんな精神力を持っているのでしょう。
 肉体よりも精神が勝るということなんでしょうね。そうすると、私たちが考える「死」というのは、あくまで肉体の死であって、精神はやはり生き続けるし、そしてそこにはより崇高な意味があるということになると思います。
 私も微力ながら三沢さんの遺志を継いで、プロレス界の復興に努力していきたいと思っています。ファンの一人として、またプロレスを研究する会のメンバーとして、スポーツとしての、文化としてのプロレスを復興するため頑張ります。
 こういう時代だからこそ、プロレス的な世界観、価値観が大切だと思うからです。そのための大切な智恵がこの本にはたくさん詰まっています。他を認め活かす心の広さ、大きさ、深さがそれです。
 ありがとう三沢さん。お疲れ様三沢さん。

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2010.06.12

『ジョン・レノンの魂 ~アーティストへの脱皮 苦悩の時代~』 (NHK/Blast Films, BBC)

国際共同制作ドラマ ハイビジョン特集フロンティア
20100613_75449 かなかよくできたドラマでした。泣いてしまった。作り手は、おそらく私と同年代かその下、ビートルズ以降の第二世代でしょう。ジョンの、ビートルズの、そしてヨーコの読み直しというか、つまり彼らもいよいよ歴史的人物になったということでしょうかね。まだ元気な方々もいらっしゃるのに。
 ジョン・レノンが凶弾に倒れてから30年ですか。歴史の1ページとは言っても、個人的にはあの日のことを昨日のことのように思い出します。今までの人生の中で最も鮮烈な記憶となっている1日です。
 記憶と歴史の狭間という微妙な感じが、なんとなく不思議です。だからこそ、このドラマは浮揚感のある印象を残したのかもしれませんね。今だからこそできた解釈や描写なのでしょう。
 この、ジョンの苦悩と変容に迫るドキュメンタリー・ドラマ、制作はBBCとNHKです。ある意味彼に捨てられたイギリスと、そのきっかけを作ったとも言えるオノ・ヨーコを生んだ日本。
 両者の共同制作と言えば、私は「スーパーボルケーノ」を思い出しますね。あれもその先に「アメリカ」や、アメリカが象徴する「現代」、いわば自由とカネがありました。資本主義市場経済ですね。イギリスにとっても日本にとっても、アメリカというのはなんとも微妙な存在なのでしょう。どこか「恨み」というか、「ルーツ意識」というか、そういうものが感じられますよね、いつも。
 さて、このドラマ、ジョンの苦悩と成長のきっかけとなった、父親とヨーコという二人の人物との関係にスポットライトを当てた作りとなっていました。
 ジョンの表現の根底にあったのは、やはり「愛の欠落」だったのでしょうか。先日、私、「ロックとは寂しさである」と定義しましたね。寂しさとは、まさに「愛の欠落感」です。もちろん「愛」には様々な種類がありますから、具体的に何の愛かは一般化できませんが、とりあえずジョンにとってのそれは、明らかに「両親の愛」でした。
 6歳の時、両親に捨てられたジョンは、ビートルズの一人として、何千万人もの他人の愛を手に入れますが、しかしそれで求めていたものが得られるはずもなく、いや、それはより一層欠落感を大きくすることになってしまいました。みんなに愛されているということは、誰からも愛されていないということ…そういう言葉がありました。
 そんな大きくひろがった真っ黒な穴を、真っ白な姿で埋めてくれたのが、オノ・ヨーコだったわけですね。やはり彼女との出会いは運命的だったのでしょう。
 その穴を埋めるということはすなわち、何千万人もの幻想を打ち砕くことになります。ですから、ヨーコに対するバッシングはとんでもなく大きなものになりました。それでも、動じなかった、少なくとも動じる様子を見せなかったオノ・ヨーコは本当にすごい女性でした。まさにジョンのために生まれてきたようなものですね。一柳慧やアンソニー・コックスの妻じゃ役不足だったというわけですか(笑)。
 おそらくヨーコには父性と母性両方が備わっていたのでしょう。よくジョンは「ヨーコは私の先生だ」というようなことを言っていたと記憶していますが、私もいちおう「先生」のはしくれとして、その仕事には父性と母性の両方が必要だということを痛感しています。ヨーコはそういう「強さ」と「優しさ」、いわば「厳(いづ)」と「瑞(みづ)」の両方を持っていたのだと思います。カミさんならぬ神様ですねえ。
 逆にジョンは、世界中の孤独な人間の代表のような存在でした。ですから、この夫婦は神人合一の象徴かもしれませんね。
 少し話がそれますけれど、そんな二人が「厳」と「瑞」、「神」と「人」の合一を目指した、大本のお膝元亀岡をお忍びで訪れていたという事実には、なにか不思議な運命を感じます。「Imagine」の「no religion」という言葉も、もしかすると出口王仁三郎の「宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである」という考えとつながる部分があるのかもしれません。
 さてさて、このドラマでジョンを演じたクリストファー・エクルストンとヨーコを演じた森尚子さん、なかなかの好演でしたね。最初は似ているとか似ていないとか、ついついそういう次元で見てしまいましたが、ドラマが進行するうちに、すっかりそんなことは忘れてしまいました。まさに「魂」のレベルで本人と一体化した演技をしていたと思います。
 このドラマ、オノ・ヨーコさんご自身はどのようにご覧になるのでしょうかね。それなりに高く評価されるのではないかと思うのですか。
 ジョンが亡くなって30年。世の中も私もロックも、大きな変化を遂げました。しかし、人間の根源的な「寂しさ」は何ら変っていません。寂しさを埋める私たちの旅は永遠に続くのでしょうか。
 「貧乏には耐えられる でもさみしさは さみしさには耐えられない」(オノ・ヨーコ)

 再放送はBShi で6月27日(日)午後4時30分からです。

NHK公式

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2010.06.11

成長

X2_1957485 日、本校の女子バスケットボール部は総合体育大会の地区予選に臨み、みごと強敵を下して県大会出場を決めました。相手は、2ヶ月前惜敗を喫した学校でした。こちらに書いた試合ですね。
 この地域を勝ち抜いて県大会に出場すれば、それはほとんどすなわち県大会での上位が約束されます。ここはそういう地域なのです。そんな激戦区で、1年生だけの本校チームは3年生主体のチームに見事65対50で勝ちました。
 誰がどう見ても体力的な差は歴然です。特に体格。中学の2年間の肉体的な「成長」は誰しもが理解できることでしょう。つまり、小学生と高校生の戦いと言ってもいい状況なのです。
 しかし、私たちの生徒は、そんな肉体的な「成長」を上回る、技術的、精神的な成長を遂げました。たった2ヶ月の間に。
 これはひとえに本人たちの努力と、顧問の熱心な指導、そして全国レベルの高校生と毎日練習できる環境の賜物です。子どもたちは環境に恵まれると、信じられないほどの「成長」をします。
 県大会まで1ヶ月半ほどあります。その間にまた彼女らとんでもなく「成長」することでしょう。楽しみです。ケガのないように頑張ってもらいたいものです。
2010061100000058sanpolthum000 彼女たちが準決勝を戦っている時、ちょうど菅直人首相による所信表明演説が行われていました。このなんとも頼りない演説の中にも「成長」という言葉が出てきました。
 「年平均で名目3%の経済成長を目指す」
 もうお題目は結構です。その具体策の一端すら明示せず、こういうことを言うのは、もうほとんど詐欺ですね。まさにあのマニフェストのばらまき宣言と一緒です。
 だいたいですね、この前「成長→成熟」に書いたとおり、日本という国家が現在中学生だとは思えないのですよ。たぶん私と同じくらいの年齢(ライフステージ)なんじゃないでしょうか。
 私は、国家というものもそれぞれの年齢に従ったライフスタイルを目指すべきだと思うんですね。新興国の若者と張り合ってどうするんですか。私が中学生と同様の「成長」を目指してどうするんですか。
 政治家の皆さんには、ぜひとも国民を「成長より成熟へ」という方向に導いてもらいたいものです。ただ選挙の票のために、愚民(あえてそう言います)の目先の欲望を満たすような、すなわち大人の成熟を妨げ、愚を助長するような政策を掲げるのではなく、ちゃんと私たちを正しい方向に導いてほしい。本当の政治家とはそういうものでしょう。徳治ですよ。人間的に尊敬されて、「なるほど」と思わせないと。「この人が言うんだったら、私たちもちょっと我慢しよう」と悟らせないと。
 今の政治家は、そういう意味で教育者ではありません。私は、政治家とは、「大人にとっての先生」でなくてはならないと思うのです。
 それは経済政策だけに限ったことではありません。外交も国防もいっしょです。みんながわがままを言っていたら、いや、みんなにわがままを言わせていては、それは問題は解決しませんよ。
 「わがまま」を言わせない、つまり、人間としての矜恃を持たせる、あるいは「恥」を意識させるのが、本当の政治家の仕事であり、経世済民の目指すべき方向であり、経営者の前提条件であるべきだと思います。
 そういう意味で、この山梨の政治家の皆さんにもかなり腐臭が漂っています。いずれ私も政治家にでもなりましょうかね。まずは県政から?ま、そのために今「ヤクザ」の研究してるんですが(笑)。
 な〜んて、まずは自分が「子どもにとっての先生」として、ちゃんと尊敬される存在にならないとダメですね。なんだか最近生徒たちが用もないのに職員室に入り浸っていて、「おい、用がないなら帰れ。職員室は遊び場じゃないんだぞ」と言ったら、「だって面白いんだもん」と。そんな様子を高校の卒業生が見て、「先生、また生徒になめられてますね」と言ってましたっけ(苦笑)。いかん、いかん。
 私、実は「成熟」以前に、まだまだ「成長」の余地があったりして。

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2010.06.10

『傷だらけの帰還 探査機はやぶさの大航海』 (NHKクローズアップ現代)

P02100028579jpg 6月13日は日本の宇宙研究開発にとって記念すべき日になります。日本の小惑星探査機「はやぶさ」が7年の大航海の末、地球に帰還するのです。
 「はやぶさ」は世界で初めて、月以外の天体に着陸し再び離陸したという実績を持ちます。そして、その小惑星「イトカワ」の岩石を採取して持ち帰ることに成功すれば、それもまた世界初の快挙となります。はたして無事にオーストラリアの砂漠に帰ってくるのか。そして、イトカワの岩石が持ち帰られるのか。
 そうした科学的な実績ももちろん注目されているわけですが、実はこの「はやぶさ」、ある意味それ以上に「人間ドラマ」としての魅力を持っているですよね。今日のクローズアップ現代はそういう部分にスポットライトを当てた作りとなっていました。
 いやあ、ご覧になった方々は、おそらく一篇の映画を観たような感動を受けたことでしょう。私も改めて心動かされました。
 これがフィクションのドラマであったら、きっと「そんなにうまく行くわけないよ」とか「できすぎだよ」とか言われちゃうでしょうね。それほど奇跡が重なったのです。
 イトカワ着陸時の横転、姿勢制御装置の故障、イオンエンジンの故障や停止、化学エンジンの燃料漏れ、電池切れ、通信途絶などなど…。
 普通ならあきらめてしまうようなアクシデントの連続。まあ、考えようによっては、そういうアクシデントがあること自体に問題があると言えばあるのですが、なにしろ日本の宇宙開発に関する予算は超少ないですからね。しかたないとも言えます。また、実際初めての挑戦ばかりでしたから、想定外の故障も致し方なかったのかも。
 いやいや、今日の放送でも紹介されていましたね、けっこうそうしたアクシデントは想定内であったと。で、そのバックアップがある程度なされていたと。ただ、あまりにバックアップをしっかりすると、予算は増大するし、重量も増えてしまいます。ですから最低限のバックアップ機能しか備えていなかったわけですね。
 で、そういうハード的な薄さをカバーしたのが、日本人独特の「精神力」の厚さであったということなんですよね。そこが感動的。
 つまり、あきらめない心や智恵でしょうか。異常とも言える執念と、デジタル的でないアナログ的で柔軟な発想によって数々のピンチをしのいだということです。
 そして、その「気持ち」が遠く何百万キロも離れた「機械」にまで伝わって奇跡が連続的に起きたわけです。機械が人間の思いに応えるという奇跡。
 なんか途中から、「はやぶさ」が本当に生き物のように感じられましたね。かわいい子どものような感じ。一人旅に出したら、途中行方不明になって、誰もが「もう死んだな」「もう二度と会えないな」「もう帰ってこないな」「いったいどこで宇宙の藻くずとなっているだろう」と思っていたところ、急に「生きてるよ〜」と連絡が入ったとかね。こっちの親心というか、真剣に安否を気づかうその祈りが先方にも通じて、様々な奇跡を起こしていく。面白いですね。ま、当事者の皆さんにとっては、とんでもない心労だったと思いますが。
 また、ちょっと例えが悪いかもしれませんけれど、違う観点からすると、「大和魂」というか、ちょっと外国から見たら怖いくらいの精神力なのかもしれません。もともと低予算を繊細な技術力と智恵でカバーして武器を作り、しかし戦場では敵の猛威や自然の厳しさで満身創痍となり、武器も弾薬も尽きたところから、異様なほどの精神力で巻き返す、あるいは玉砕するまで絶対にあきらめない日本軍の戦い方のような感じ。まあ、そういう精神性がどのような方向に現れるかということでしょうね。
 そうして5年のはずの一人旅が7年になって、そうして13日に故郷に帰ってくる「はやぶさ」ですが、考えてみると、最後の最後に悲劇がないとも限らないのですよね。大気圏突入という大変な難関が待っているのですから。部品や素材の耐用年数の問題もあります。なにしろ想定外の長旅になりましたから。ちなみに本体は大気圏で燃え尽きます。地上に帰還するのはカプセルのみ。なんか可哀想ですね。それこそ特攻隊みたい。
 だいいち、機体の制御も本当にままならない状況で帰ってきましたから、場合によっては市街地に落下することも考えられたわけです。その場合は、すぐそこに夢にまで見た我が家が見えるのに帰れないという悲劇になったかもしれません。それもけっこう奇跡的にコントロールできて、オーストラリアの砂漠に帰還できることになったとのこと。海とかに落下しちゃう可能性もあったわけですし。いやあ、精神力ってすごいですね。機械にも乗り移る。
 ただ、イトカワの岩石が採取できているかは分からないんですよね。当初の計画どおりの採取活動はできなかったようですから。これでフタを開けてみたら空っぽだった…というのはちょっと哀しいかも。
 ま、とにかく無事帰宅、いや帰還することを祈っていましょう。おそらく無事帰ってきた折には、そうした奇跡の一人旅を紹介する特集番組とかやるでしょう。ぜひお楽しみに。

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2010.06.09

フジファブリック 『バウムクーヘン』

 ックの日。実際ロッカーとしても活躍されていた歌人笹公人さんにお誘いを受け、始めた短歌。笹さん率いる我らが短歌バンド(?)の、今日の定例歌会のお題は「ロック」でした。
 改めて短歌を始めて、まだ2ヶ月ほどですが、言葉を紡ぐ難しさとの格闘が、そして、そうした苦悩と喜びから生まれる日常の再整理が、なんだかとっても楽しくなってきました。
 と同時に、やっぱり思い出されるのは、まさに現代のロック詩人、歌人であった志村正彦くんのことです。こうして、言葉と、日常の風景と闘っていると、彼の苦悩と恍惚の一端に触れるような気がするのです。
 特に今回はお題がまんま「ロック」でしたから、まずは「ロック」とは何かという、今まであまりに身近すぎて考えてこなかった大きなテーマと対峙しなければならなかった。それを「言葉」で表現しなければならないわけですから、ある意味楽しかったけれども、やっぱり正直辛かったかも。
 習作というか出来損ないが大量に生まれては捨てられの連続。この営みこそが「ロック」だ!と叫びたくなるような日々が続きました(とは言っても三日くらいですが…)。これを仕事にしたら大変だろうなあ…。
 結果として行き着いた、私の結論。「ロックとは寂しさである」。
 ロッカーとは、その寂しさから逃げない人。彼らは人を楽しませたり、救ったりしようなどとは考えていません。
 たとえば野に咲く花だって、私たち人間を楽しませよう、癒そうなどとは思っていませんよね。ただ、「僕を見て!」と叫んで一生懸命に咲いているだけです。ロッカーも花も、たくさんの愛がほしいだけなのです。
 そんなことを思っていたら、やっぱりこの曲が思い出されました。この優しいメロディーと歌声は、もしかすると一瞬ロックを思わせないかもしれません。しかし、そこで叫ばれている言葉は、まさにロックだと思います。ある意味、ロック史上、すなわち人類の歴史史上、こんなにもストレートにロックの本質を歌った歌はなかったかもしれません。それはきっと命がけの創造作業だったのでしょう。
 そんな彼からのメッセージを、私自身も素直に表現してみました。私の歌は、現実の厳しさや悲しみを直視しつつ、未来への希望も感じさせるものにしたつもりですが、それが皆さんに伝わったかどうか。私の才能では、なんとも心もとないかぎりです。というか、点が入らなかったりして(苦笑…この歌会はネット投票もあるので、まだ結果はわかりません)。
 季節が巡り、彼が遺したたくさんの音楽の種が、しっかり芽を出し、大きく葉を広げ、そしてもうすぐ花開き実を結ぶと思います。彼は才能を天に返しましたが、その天からの贈り物は確実に私たちの手に届くことでしょう。そういう意味でも、やっぱり彼は永遠に生き続けるのだと思います。本当にありがとう。

PS 歌会の結果が出ましたので、僭越ながら私の歌を掲載させていただきます。

 僕を見て!叫びて逝きしロッカーの墓前にスミレ音もなく咲く

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2010.06.08

人一倍の負けず嫌い?

20100602dd0phj000001000p_size5 学校の英語で「冠詞」を教えています。そこでちょっと自分自身疑問に思ったことがありました。今まで気にしてなかったのに、いざ自分が教えるとなると、変なことに気づくものです。昨日の「筆順(書き順)」もそうですね。
 気になったのは、「a year」と「an hour」です。教え方として、母音の前は「an」になると言うと、いろいろ面倒なこともでてきますよね。まだ中一ですから、母音と言ってもよくわかりません。そうするとまあとりあえず「aiueo」だよと教えます。それでまた面倒が増えます。その母音というのが発音なのか表記なのか、も含めて。
 ウチの学校では、世の中の流れに逆らって最初にきちんと発音記号を教えこんでありますから、まだいい方かもしれません。それでも、「year」と「ear」の発音の違いはなかなか日本人にはわかりません。どちらもカタカナで書けば「イヤー」じゃん。「イ」は母音じゃん。じゃあなんで、1年は「a」なのに、片方の耳は「an」なんだということになっちゃいますよね。
 実際は「年」の方には「y」という子音が含まれており、ネイティヴにとっては「耳」とは全く違う発音になるようです。同様のことは、例えば「wood」などの「ウ」にも言えます。
 そのあたりを、私はちゃんと学校で教わった記憶がなかったものですから、実際教えてみて、一瞬「あれっ?」と思ったわけです。生徒にはちゃんと教えておかないと混乱するなと。イヤ…いやいや、いや、そんな細かいことを教えちゃうと、余計に混乱するか。
 てか、こういう時の「いや」ってなに?「いやだ」の「いや」とどう違うのかとか、外国人に聞かれたらうまく答えられませんよね。そんなものです。
 ちなみに「yi」の発音、日本にもあった可能性があります。すなわち「ヤ行のイ」です。たとえば上一段活用の「射る」はヤ行ですから、この「いる」の「い」は昔「yi」と発音されていた可能性が高い。これはもちろん、「矢」や「弓」がヤ行の音でできているのと関係があります。語源が一緒だからです。たとえばそんなことを知っている現代日本人はそんなにいませんよね。
 あるいは、これは生徒にも話しましたが、日本語の「ん」は実は一つの発音ではありませんよね。たとえば「銀座(ぎんざ)」という時の「ん」と、「御殿場(ごてんば)」という時の「ん」と、「仙川(せんがわ)」という時の「ん」では、全て違う発音です。それを同じ「ん」で表してしまっているのは、外国人からすると不思議なことかもしれませんね。
 そういう意味で、我々が使っている日本語の矛盾というのにも思わず気がついたりします。前に紹介したものですと、「おかえりなさい」なんかその代表格です。いまだによく分かりません(笑)。
 今日気づいたのは、もうすぐ始まるワールド・カップに関する記事の中の日本語です。上に玉田選手の写真があるので、「なんだろう?」と思った方もいらっしゃったかも。別に玉田選手が悪いわけじゃありませんよ。日本語、そしてそれを普通に使っている日本人が「面白い」のです。
 この記事の中に、玉田選手のことを「人一倍の負けず嫌い」と表現した部分がありますね。この「人一倍の負けず嫌い」という日本語、一見矛盾を抱えています。お分かりになりますか?
 そう、この表現を文面どおり受けとると、「人並みに、勝つことが嫌い」ということになり、玉田選手は日本代表にはとてもとても似つかわしくない人物だということになってしまいます。
 だって、「人」より「一倍」ですから、人×1ということで「人並み」、「負けず=負けない=勝つ(もしくは引き分け?)」ことが「嫌い」なんですから。それだったら、私なんかも堂々と「人一倍の負けず嫌い」だと言いきれますよ(笑)。
 これこそが「慣用句」の面白いところです。元の意味とか理屈とかを抜きにして「慣用」されているわけです。誤用とか誤解以前の問題ですよね。慣用句に対してはみんな「寛容」です。「おかえりなさい」みたいな挨拶語もそうです。英米人でも、helloとか、その語源なんか誰も考えてないと思いますよ。
 ちなみに、「人一倍」については、「倍」自体が「2倍」を表すので矛盾していないとおっしゃる方も多くいます。でも、それだったら、「一」はいらないし、じゃあ「二倍」は「×4」になっちゃうじゃんという屁理屈も成り立つので、まあ無理して説明しなくてもいいと思います。
 「負けず嫌い」の成り立ちは、結論としてある「負けない」という否定的なニュアンスを出すために「ず」が付いてしまったと解説されたり、「食わず嫌い」(これは正しい)の影響を受けたとか言われますが、まあこれだってどうでもいいのかもしれませんね。
 でも、こういう日常を非日常にして楽しむ(あるいは悩む)というのも、一つの生きるための智恵であると信じています。当たり前の風景を突然劇的なものに変えるということを、これからもどんどん生徒たちに教えていきたいと思います。こういうことできるようになると、日常が全然退屈じゃなくなるんで。

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2010.06.07

筆順は難しい…

20100608_95658 日記事にした「改訂常用漢字案」が文部科学大臣に正式に答申として報告されました。
 今回はこういう「打つ」時代を反映しましての改訂ということで、まあ書けないけれど読めればいいという字も追加されましたね。「鬱」とか、実際書こうとするだけでウツになります。名は体を表すというか、体は名を表すというか。
 そうそう、漢字って「顔」があって面白いですよね。「笑」とか、ぜったい笑ってますし。というか、巫女が楽しそうに踊っている姿を模した象形文字なんですよね。
 一方、「悲」は全然楽しそうじゃない。なんか悲惨な感じです。それもそのはず、これも元は象形文字の組み合わせです。「非」は櫛の形を模したもの、「心」は心臓の形ですよね。それを組み合わせたわけで、まあ「ギザギザハート」ってことですか(笑)。
 …と、今日はそういう話ではなくて、漢字の筆順についてです。国語のセンセイとかやってますと、さすがに筆順には気をつけるようになります。黒板に書く漢字の筆順が間違ってるとカッコ悪いですからね。
 高校の授業ではほとんど板書というものをしなかったし、漢字もデザイン的に合ってればそれでいい(つまり、大学入試で○がもらえればよい)というような方針だったんですけどね、さすがに中学生を教えるようになって、ずいぶんと筆順にも気をつけるようになりました。
 というか、実際板書している最中に自信がなくなることがしょっちゅうあるんですよ。あれっ?これってホントに合ってるのかな…と。
 それで、そんな時は、胸ポケットからiPhoneを取り出して、「筆順辞典」というアプリで確認します。ある意味すごい先生でしょ?分からないことや自信がないことは、その場で調べるのです。もちろんWikiなんかにもお世話になってます。
 ウチの学校では、授業の様子なんかもiPhoneからTwitterで保護者にリアルタイム中継しているので、iPhoneは常に片手に持っているという感じなんです。もうiPhoneなしでは教室に行けません。すごい時代ですよね。
 で、今日もですね、授業中じゃなかったんですが、ある生徒の名前に使われている「虎」という字の筆順が分からなくなってしまった(ちなみにこの漢字、常用漢字に仲間入りしそうです)。皆さん、わかります?
 基本、横棒とその左端から下に向かって払い(たれ)がある場合、その横棒を突き抜ける画がない時は横棒から、突き抜ける画がある時は払いからというルールがあります(たぶん)。私はそれで覚えていたんですね。つまり、「厂(がんだれ)」とか「广(まだれ)」とか「疒(やまいだれ)」とかは、払いより横棒の方を先に書き、「成」とか「皮」とかの最初のところは払いから書くと。実際生徒にもそういうふうに教えてきたわけです。
 そのルールによれば、「虍(とらがしら)」は突き抜けてないので、横棒から書くような気がしますよね。だいいち、上の「ト」を書いたら、それこそ「上」みたいに下棒を書きたくなるじゃないですか。
 そしたら、なんと違うじゃないですか!払い(たれ)からだそうです。今まで間違ってた!
 こちらの便利なサイトで確認してみてください(ここにもお世話になってます)。
 ま、考え方によっては、この横画、最後に左に向かってはねているので(トラにはキバがあると教えています)、「宀(うかんむり)」などと同じであるとも言えます。それならこういう筆順も納得いきます。実際「とらがしら」は「とらかんむり」とも呼ばれていますからね。うん、「かんむり」だと思えば自然と正しい筆順になるな。今まで、なんとなく「たれ」だと思っていたんですよ。
 ま、どうでもいいのかもしれませんが、なんとなく今まで45年間間違いっていたというのがショックでした。こんなのが実はた〜くさんあるんだろうなあ…。
 古跡やら古文書なんか見ますと、昔から筆順はとってもいい加減だったようでして、そういう意味でも、またこういう活字時代だからこそ、あんまり気にしなくてもいいのかもしれませんし、私の大嫌いな漢検でも上級では筆順なんか問われないし、ま、どうでもいいのかも。もっと大切なこと、もっとこだわるべきことがあるような気もしますが、これは職業病というか…。
 いや、生徒たちを見ても、また娘たちを見ても、小学校の先生がちゃんと筆順を教えていないというのが明らかでして、それを憂えてムキになっているのが、今の私なのかもしれません。はたして教え子たちは幸せなのでしょうか、それとも…。
 えっと、とりあえず教え方変えます。「キバはあと!」…これでいいや。

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2010.06.06

美空ひばり 旅立ちから20年『甦る!幻のスーパーライブ 第一夜』(BS朝日)』

20100607_81732 京でバッハを練習。ブランデンブルク協奏曲の2番を、初めてナチュラル・トランペットと一緒に演奏しました。なんという超絶技巧。そして、美しく艶のある音色。
 こんな日が来るとは、夢にも思いませんでしたね。これで私、ブランデンブルクは全曲ピリオド楽器オリジナル編成で演奏したことになります。プロでもなかなか経験できないことですよね。全く幸せ者であります。
 いや正確に言うと、ピリオド楽器じゃないな、自分だけ(笑)。今日は私はヴィオラを弾きましたが、この楽器、鈴木の安物です。ちなみに1番のヴィオリーノ・ピッコロを弾いたこともあるのですが、あれも鈴木の4分の3でしたっけ。まわりがちゃんとナチュラル・ホルンとかバロック・オーボエとかだったのに。
 ま、楽器ではなく、あくまでもスピリットですから。時代考証よりも大切なものがあります!…ということにしておこう。だいたい自分、日本人だし。それに坊主だし(笑)。全然ピリオドでもオリジナルでもない。
 スピリットと言えば、帰宅後観たこの番組には、思わず涙しましたねえ。スピリット、いや、それ以上に「愛」が満ちあふれていました。
 美空ひばりさんの貴重な映像。そう、NHKの特集ではお目にかかれないレア映像です。ちょうど、NHKとの関係がギクシャクしていた時のものですから。具体的には1973年74年ということになるのでしょうか。それまで10年連続大トリを務めてきた紅白歌合戦を辞退し、その代わりに裏番組のNET(現テレビ朝日)の「美空ひばりショー」に出演しました。その秘蔵映像です。
 紅白を辞退した理由は、ご存知のとおり、弟さんであるかとう哲也さんが「暴力団」の関係者であったことです。ある意味NHKも仁侠界のおかげで番組を作れていたはずなのに、あの時代の政策や世論に押されて、国家的な歌手を国営放送…いやいや公共放送が締め出すという不幸なことになってしまいました。
 しかし、考えようによっては、この一件でひばりさんはより成長し、深みを増したとも言えましょう。実際はこの後、ヒット曲にも恵まれず、また誹謗中傷も絶えず心労も重なっていったわけですが、「歌」の深さはより増していきました。
 そこには、そんな可哀想なひばりを支えた、二人の大きな「愛」があったからです。その愛は苦難を通じてより強くなりましたから。まずなんと言っても実母である喜美枝さんですね。息子のことも含めて大変心を痛めていたことでしょう。母親の愛は本能的なものですから、そういう子どもたちのピンチに際しては、よりその強さ深さを増したことでしょう。
 そして、「父親」たる山口組三代目組長田岡一雄の「愛」もまた、この事件ののち更に大きくなっていきました。実の父親以上の「愛」を注いできた田岡さんですが、ある意味自分のために、国を敵に回してしまい、いわれのないバッシングを受けることになった「お嬢」に対して、この時いったいどれだけの「慈愛」を注いだことでしょう。
 この時期の映像というか、歌には、そんな強い他者の思いと、それに応えようと頑張るひばりさん自身の思いが、はっきりと表れていて、今観たり聴いたりしますと、まさに「うまい」とか「へた」とか、「技術」がどうこうとか、ましてや「時代考証」とか「様式」とか、そんなことは本当にどうでもいいと思ってしまいますね。「歌」は「心」です。
 この前、「お父さんの石けん箱」にも書いたように、ある意味特殊な世界であり、一般人の私たちには与り知れぬ世界であったからこそではありますが、「愛」や「仁」が人を育て、「芸術」を育てていくんだということを再確認せずにはいられません。
 この歌こそが、「愛」にも「芸術」にも枯渇したこの現代に手渡された価値ある遺産なのです。全ての日本人に聴いていただきたい。
 来週の日曜日(13日)には、第二夜として1976年の大晦日の「美空ひばり芸能生活30周年記念ライブ」が放映されます。これも絶対に見逃せない番組です。ぜひぜひ、今まで興味のなかった方々もお聴きくださいませ。

YouTube 1973年「悲しい酒」…古賀政男さんの言葉に、すでに涙…。

BS朝日公式

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2010.06.05

ウォーキング(ランニング)・ベース

Pic_sche03 NHKの「schola 音楽の学校」面白いですねえ。坂本龍一さんがジャンルを問わず音楽の本質を分かりやすく解説してくれます。4月のバッハ、5月のジャズ、私のツボにはまりまくっていました。豪華ゲストとのセッションも楽しみですよね。
 6月は「ドラムズ&ベース」。先週の放送では、なななんとゲストに高橋幸宏さんと細野晴臣さんが!さりげなくYMOが演奏しているところがすごい。NHKおそるべし。
 さて、先週の「ドラムズ&ベース」の歴史解説コーナーで、坂本さんがウォーキング・ベースの上に和音が乗るというポピュラー音楽のルーツは、バロック音楽の通奏低音ではないかと言っていました。それを聞いて、ピーター・バラカンさんが、バッハのベースはかっこいい!当時の舞曲はダンス・ミュージックで、バッハのベースの強さはそこに由来しているのではないか、と言っていました。
 てか、この二人の発言って、私がしょっちゅう言ってることじゃあ〜りませんか。今頃気づいたの?なんちゃって。
 ただ、その二人の会話というか解説を聞いていて、私も気づかされたたことがあります。歴史的になぜベースが歩いてリズムをキープするようになったかについての解説ですね。ドラムズ(ドラムスではない)がより自由になって、リズム・キーパーの役割から解放された結果、まあしかたなくベースが一定のリズムを担当するようになったと。
 ふむふむ。で、たぶんただリズムをキープするだけではつまらないから、音階的に流れるようになったんでしょうかね。
 番組でも、ウォーキング・ベースの代表格として紹介されていたレイ・ブラウンのすごい「歩き」…いやこれはランニング(走り)だな…を聴いてみましょうか。ベニー・グリーンのピアノ以上にレイ・ブラウンのベースが聞き物です。

 正確なリズムのキープももちろんですが、縦の和声の中でいかに横の流れを作るかは、ベーシストのセンスによります。単純そうで実はめちゃくちゃ難しい…私はできません。
 さてさて、それでふと思いついたのは、バッハのある曲です。バロック音楽において通奏低音のチェンバロはいろいろな役割を果たしていますが、その中心にあるのは「リズムのキープ」です。指揮者はいない時代ですからね、通奏低音のチェンバリストが全体をしきる役割をしていました。
 まあ、あの金属的な倍音を多く含んだ音質は、ある意味打楽器的、シンバル的なんですよね。音程は聞こえなくとも、常に演奏者の耳に届きます。アンサンブルを経験しますとよくわかります。チェンバロがいないと私たち古楽奏者は急に不安になります。リズムの面でも和声の面でも。逆に言えば、そういうことを理解している、そしてそれができるチェンバリストと共演したいと思うものです。
 さて、それで、さっき書いたドラムズが自由を得たのと同じように、実はチェンバロもリズム・キープから解放される瞬間が訪れたんですね。それが、バッハのブランデンブルク協奏曲の5番です。チェンバロがソロ楽器として活躍することによって、それまでの役割を放棄してしまいます。
 ちなみにこの曲、今月の横浜のコンサートで演奏します。明日も練習に行ってきます。
 で、この曲のベースライン、すなわちチェロのパート(&チェンバロの左手パート)が、見事なウォーキング(ランニング)ベースになってるんですよね。バッハの意図がどこにあったかは定かではありませんが、ジャズやブルースの歴史と重なる部分があるような気がしたのです。チェンバロがリズムをキープしなくなったために、チェロが音階的に一定のリズムを刻んでいると。
 それが実にかっこいいんですよね。バッハの名低音の中でも、特に傑作だと思います。チェリストはたまらないでしょう。気持ちいいと思いますよ。では、それもお聴き下さい。

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2010.06.04

ことたま…政治における「言葉」とは

20100605_63545 首相誕生。すなわち民主党分裂の序章。全てはシナリオ通り…?。
 カリスマのいない集団は必ずこういう形になります。今やどこにもカリスマはいません。カリスマとは壮大なる「物語」の語り部のことです。
 政治は「まつりごと」。大衆の気分をまとめあげて、高次のパワーを現出させるのが、まつりごとのカリスマの仕事です。そうしたコトを為すには、「言葉」の力、すなわち「言霊」がなければなりません。
 「ことたま」という言葉、私は自らの研究(?)に基づき、一般的な解釈(江戸時代に生まれた新しい解釈)とは一線を画して理解しております。古い文献には「事霊」と書かれることが多くあることに注目して、素直に「事」の「エネルギー」と解しているわけです。
 では、「事(コト)」とは何かと申しますと、これは「物(モノ)」の対義語でありまして、ものすごく簡単に言ってしまうと、「実現」「現実化」ということです。「モノ」が「夢」や「妄想」だとすると、それを現実化して「コト」にするエネルギーが「事霊」です。
 その「コト化」の方法、手段、メディアとして「コトの葉」が発明されました。言葉の起源です。ですから、「事霊」と「言霊」とは重なることが多くなり、いつか混同されるようになり、さらに江戸時代の国学者たちによって「誤読」されていきます。そして今に至る。
 日本は「ことたまさきはふ国」でした。優れた「言葉」によって「まつりごと」が為され、そして、理想がどんどん現実化していく、そういうエネルギーに満ちた国でした。それがこんな骨抜きなつまらない国家になってしまった。残念ですね。
 私はそういう意味において、けっこう保守派です。昨日の記事も、そういう意味での「物語」や「言霊」や「事霊」の復活を願う内容でしたね。
 さてさて、今日のプライムニュースは、「緊急特集!新内閣発足 西部邁が新政権を斬る」。ある意味私好みの論客である西部邁さんが、思いっきり西部節を炸裂させてくれまして、実に面白かった。民主党の松井孝治前官房副長官や新進気鋭の評論家宇野常寛さんを向こうに回して、実に「懐かしい」言霊で「保守的な」物語を語ってくれました。
 ああ、なんか安心するなあ。こういう人。バカ田大学の教授って感じでしょうか。一般人に理解できるかどうかは別として、確固たる「筋の通った」物語を語れる人って、今減ってしまいましたからね。
 10日間はこちらで観られます(聴けます)ので、ぜひご覧(お聴き)ください。
 「汝みずからを知れ」「日本国民は黙れ」「一知半解の者が口数が多すぎる」「民意なんて気分」「革命や維新は温故知新」「過去の英知を現在に巡り来たらす」「ブルシット」「人間リテラシー」
 西部さん、結局、大衆批判、知識人批判という昔から変わらない語り口だったと思いますが、ここまで来れば、もう立派な「芸」ですよ。言葉に力がある。そして、面白い。微笑ましい。
 正しいか、正しくないかではなくて、やっぱりその人の脳内ビジョンというのは、「まつりごと」にとって非常に重要だと思いました。ピジョン(鳩)のビジョンは正直理想論すぎて、そして、それを表現する言葉があまりに稚拙すぎて、「民意=気分」という「大衆愚」を「事霊」にまで昇華できなかった。その点、なんだかんだ言って小泉さんはカリスマだったと思いますよ。
 結局、私たちはそういうビジョン(物語、言葉)のもとに集まるピジョンみたいな存在なのですね。ピジョンにはピジョンを束ねる力がなかったということですか(笑)。

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2010.06.03

『お父さんの石けん箱−愛される事を忘れている人へ。』 田岡由伎 (角川文庫)

04369501 の「親分」がしみじみ語っていました。「やめられるヤツはいいよな。本当に責任があるヤツはやめたくてもやめられないんだよ…」。
 まったくそのとおりだと思います。4年で4人の総理が任期満了前に「引責辞任」するという異常な国、ニッポン。筋を通せない大人たちが、いったいこれからの未来を担う子どもたちに何を教えられるというのでしょう。
 今日は、そんなニッポンとは正反対の、古き良き「日本」の大人のあり方を、この本からたっぷり学びました。本当に全ての大人に読んでいただきたい。父親にも母親にも読んでいただきたい。この本は「日本」のバイブルです。なぜ、私たちはこういう大切な「日本」を捨ててしまったのでしょうか。
 著者は山口組三代目組長田岡一雄の娘。ですから、「お父さん」とは、もちろん田岡一雄のことです。父親にも母親にもとことん愛された娘から見た両親の姿が、これまた深い深い愛情をこめて記されています。
 さらに驚くべきことは、みんな、こうした家族への愛情だけでなく、全くの他人に対しても、あるいは「組織」や「弱者」や「国」という抽象的なものに対しても、同様の愛情をもって接しているということです。なぜ、昔の日本人はこんなに「愛」をたくさん持っていたのでしょう。これが「仁」であり「義」であり「礼」なのでしょうか。
 「愛される」ための、ただ一つの方法は「愛する」ことしかありません。今、私たちは、その「愛する」ことを忘れてしまったがために、「愛される」ことも忘れてしまっているのです。由伎さんは、それを憂えているのです。
 その「愛」のレベルは、先ほど書いたように、まずは「他人」にも及ぶべきです。今、たとえば、「自分は自分の子どもをしっかり愛している」と主張する親は、自分の子どもしか愛していないことが多い。だから、極端に言えば、他人の子を「敵」にさえしてしまうのです。他人を敵視することが身内を愛することだと勘違いしている馬鹿さえいる。恥ずかしいことです。
 そして、本当の「愛」は、より抽象的な、あるいは遠隔的な他者にも及ぶべきなのです。たとえば「国」。はたして、総理各人は、本当に「国」を愛していたのでしょうか。「国」を憂えていたのでしょうか。はなはだ疑問です。
 本書の最後の方に「憂国ってどんなこと?」という章があります。そこにこのような記述があります。

「…一番怖いのは、国と国の“デイリ”ということになるやろなァ」
「力のない者が、なに言うてもたわ言になってしまうやろ? そやから、力競べしてしまうんや。それがどんどんエスカレートしていく…時が来な、ホンマの平和はむずかしいやろうなァ」。お父さんは、しみじみとそう言っていた。
 …時は流れ、日本はお父さんの憂えていたとおりの道へ向かっている気がする。社会は「出来がわるい」というレッテルを無遠慮にはりつけて、枠に入れない者を切りすててゆく。のこっているのは淋しい日本人。力と力の戦いでイライラする人々。美しいものを感じる感性をなくし、当たり前のことができなくなる。お金と物に魂を奪われ、愛することを忘れ、姿が見えないけもの以下の人間…日本人は、どうなるのだろう…。

 田岡一雄さんは、ある意味「みろくの世」を目指していたのかもしれませんね。
 今の私の世代の大人たちは、田岡さんのことをどの程度知っているのでしょうか。暴力団のドン、悪の権化だと思っているのでしょうか。私はたまたま、自分の趣味(プロレスや歌謡曲、そして宗教など)や仕事(教育)から、この世界の研究をしてきましたので、ある意味特別にその世界を理解している人間かもしれません(ちなみに私の姓はこの組と同じでありますが、直接的な関係はありません。あしからず)。
 いつも書いているように、「仁侠」が「カネ」に敗れ、つまり「和魂」が「洋才」に敗れ、「ヤクザ」や「侠客」が減り、「チンピラ」と「暴力団」ばかりになってしまってからというもの、この国は本当にどうかしてしまった。そこには家族も文化も芸術も教育も、本来の政治も経世済民も何もありません。
 こういう時だからこそ、こうしたバイブルをみんなで読んで、大切な何かを思い出さねばならないでしょう。
 ここに書かれていることはどうせ「きれいごと」ばかりだと言う方もいらっしゃるでしょう。でも、バイブルはそれでいいんです。聖書、聖典は皆、そういう性質のものです。そういう人間の「愛」だけを抽出して見せるからこそ、その意義があるのです。
 しかし、はっきり申して、この本の内容はほとんど全てが「真実」でしょう。ただ私たちが知らされてこなかった、あるいは、逆に偽りによって洗脳されてきただけでしょうね。そこにいったいどういう力学が働いていたのでしょうか。今度はそこを勉強したいと思います。
 さあ、私はこの本を読んで、なんの迷いもなくこう言いますよ。よけいなご心配は全く無用です。
 田岡一雄さんのような「父親」に、「教育者」に、「親分」に、「大人」に、「男」に、そして「日本人」になりたい!

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2010.06.02

予言以上? 鳩山(&小沢)辞任

親指を立てて「アウト!!」
Img_a946f694219633fe531c41eb4ab1128 え得る最悪のシナリオですね。いや、鳩山さん続投を望んでいるわけではありません。どうせダメと分かっていたものの、これほどダメダメだとは思わなかったということです。
 昨年の夏の終わり、私はまず民主党圧勝、政権交代へ…どこかおかしくないですか?という記事で、「数年後、あるいは数ヶ月後、反省をするのではなく、逆ギレしている国民の姿が目に浮かぶようです。ああ、いやだなあ…」と書いていましたが、まさか本当に「数ヶ月後」になるとは。「愚民」という言葉は不適切だったかもしれませんね。でも、我々国民が「賢くない」のは事実だと証明されたようです。残念です。
 また、そこに「日米関係も面倒なことになるでしょう」と書いてありますね。これもまた懸念が的中と言ったところでしょうか。ま、誰もが予想していたことですけど。
 「政治とカネ」の問題が、鳩の首をひねることになるのは分かっていました。麻生さんが寂しく公邸を去った日、私は「9.11」からいろいろとという記事を書いて、そのことも予言しておきました(笑)。もともとが財閥のお子ちゃまなわけですから、黙っていても「カネ」の話は出てきます。ま、ホントに「おこづかい」がニュースになるとは思いませんでしたが(笑)。
 鳩山内閣発足の時には、祝or呪として、縄文弥生以来の「霊権交代」と書きました。普天間問題が致命傷を与えた事実は、まさに「縄文」の反乱であったとも言えましょうか。
 そして、「今後、アジアの外交関係は一見好転するように見えるでしょう。その代わりに対米関係はぎくしゃくするでしょうけどね」と書いています。これもまあその通りになっていますよね。自民党政権時の中・韓・露との軋轢は、今ほとんど忘れ去られています。国民は「好転した」とも思っていないのではないでしょうか。いい時はそれが当たり前になってしまうのが、我々人間のサガであります。
 しかし、面白いもので、私たち日本人は「対米関係」については案外楽観的なんですよね。だから、「とりあえず、目先の面倒な問題はずいぶんと軽減するように見えるでしょう。しかし、そのツケは10年後、いや5年後に必ず現れますよ。予言しておきます」なんですよ。ここで私の「予言」をさらに具体化しておきます。5年後(今からだと4年後かな?)に現れる「ツケ」とは、対アジアに関する面倒なことに対してアメリカの協力が得られなくなるということです。もう逆戻りできませんよ。「愚」の生む当然の結果です…なんて書くと、また怒られるか(苦笑)。
 なんて、まるで私自身が予言者のよう、あるいはこの不二草紙が霊界物語かのように書いちゃいましたけど、ま、半分本気、半分冗談と思っていて下さい。
 そんなことよりですね、安倍さん福田さんに続く「ドタキャン辞任」「バックレ辞任」「登校拒否辞任」はですね、教育現場としてはホント困るんですよ。麻生さんはまあ許せるとしまして、一国の首領がこうしてみんな途中で投げ出してしまうと、子どもにもそういう「逃避」が伝染するんですよねえ。先生も「最後まで頑張れ」「あきらめるな」「逃げるな」と言えなくなってしまう。
 今や、皇室もなんだか「ひきこもり」ですしね。日本も病んでますよ、まったく。大人たち、頑張って!!
 なんだかんだ、2000日頑張って筋を通した小泉さんは、立派な大人、教育者だったのかもしれませんな。
 さて、参院選はどうなるのか。特にここ輿石東のお膝元山梨県ではどうなるのか。この予言は難しいですね。とりあえず国対委員長の山岡さんの「プロレスは八百長」発言に対する天誅が下ることだけは確かです(笑…いや、怒)。

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2010.06.01

新屋山神社(奥宮)

Gedc0193_3 元に住んでいながら、実は今日初めて行きました。ううむ、いろいろな意味で最高。こりゃ御利益あるわ。
 今日はですねえ、職場が「創立記念日」でお休みだったのですよ。平日が休みなんて、そうそうありません。かといって、子どもたちは普通に小学校だし、遠出をするのもなんですから、久々にカミさんとデートしてきました(笑)。私たちが二人で出かけるといえば、だいたい山梨の怪しいスポット巡りか、プロレス観戦か、ロックのライヴ参戦になるんですよね。
 で、今日なんで急にこの神社に行こうかと思ったのか。それは単に「神のお告げ」があったからです。私たちは「神々のネットワーク」の上で生活させていただいてますので、全ては神様の思し召しの通り行動いたします…って、別に変な宗教やってるわけではありませんよ。つまり、思いつきで行動すると、必ずいいことがあるというだけです(笑)。
Gedc0195 さて、この新屋山神社(「あらやさんじんじゃ」ではなくて「あらや・やまじんじゃ」)、今やとんでもない人気スポットになってしまっています。富士山の二合目、滝沢林道沿いに位置するこの神社は、富士吉田の新屋にある本宮の奥宮という位置づけ。本当に単なる「山神社」、すなわち林業関係者が山に仕事に入る際に「山の神様」にご挨拶するための神社でした。それは全国各地に無数にありますよね。
 カミさんの実家、秋田の山奥では、各家庭でいまだに「山の神様(ヤマノガミサマ)」が強く信仰されています。とっても怖い怖い神様だそうです。ま、そんなところから、嫁さんのことを「山の神(カミさん)」というわけですが(笑)。
 秋田で言えば、マタギなんか、山で仕事する時、山の神様に対して秘儀を行ないますね。こちらの番組でも、さすがにそこはカットされていましたっけ。おそらく縄文系の性的な儀式なんでしょうね。山を生業にする者たちにとって、山は「生命」「繁殖」そのものだったのでしょう。
Gedc0197 さて、富士山にももちろん、そういう「山神社」は無数にあります。ここ鳴沢村にも同じような機能を持った神社が散在していました。今では一部の林業関係者しかお参りしないようですが。そうした神様の一つに過ぎなかった「新屋の山神社」が、なぜ今こんなに人気なのか…。
 これはですね、あの船井幸雄さんが、ここを「金運神社」として紹介したからです。経営の神様がここの神様を紹介したわけですからね、そりゃあ人が集まりますよ。今日も、平日の午前中にも関わらず、まあひっきりなしに参拝者が来ること来ること。県外ナンバーもちらほら。
 考えてみれば、今年になってから、私自身も船井さんとご縁ができまして、今では船井さんのこちらの著書を学校で道徳のテキストとして使っているくらいですからね。そういうタイミングで「神のお告げ」があったのは、やっぱり何かそういうモノがあるんでしょうね。
Gedc0207 さてさて、そんな多くの参拝者たちをですね、一人一人宮司さん自らが出迎えて、鳥居の前でちゃんと祝詞を読んでお祓いしてくれます。それから宮司さんが私たちに玉串を渡してくれまして、神前に奉奠します。こんな山の中の小さな神社で、ここまでやるとは思わなかった…。
 ううむ、うん!まず最初に申し上げておきましょう。まず、この宮司さんがあまりに「神々しい」ということ。私たちが参拝中、ずっとついてきてくれて、いろいろと説明をしてくれましたが、まあなんというか、福々しいお顔というか、たたずまいや、あとやっぱりあの独特の「言霊」ですね。日本の神様を象徴するような、ちょっと世離れした一種のユーモアが感じられました。のちにカミさんと「おお、バカボンだ。バカ田大学出身者がここにもいた!」と言ってしまいました。いや、これは最大の賛辞ですよ。このブログをお読みの方はお解りと思いますが。
 さて、本当に小さな神社ではありますが、なかなかいろいろと感嘆すべき点(考えようによってはツッコミどころ)がありました。
Gedc0201 まずは、境内の木の幹に祭神「大山祇命」が出現しているという奇跡!6年前から突然姿を現されたとのこと。たしかに、見ようによっては剣を持った山の神様がいるような気もしてくる。少し素直さを失って考えると、周辺の木々にも同じような模様がないとは言えませんが…。
 うん、しかしたしかにその木の周辺には不思議な気が流れているような気がしました。いや、実際行ってみると分かりますが、たしかにこの神社の周辺には何か大きな目に見えないモノが流れています。私の感覚では、富士山の頂上に向かって流れる気と、麓に流れ下る気とが交わっているような気がしました。昔の人たちは、そういうことにもっと敏感でしたから、当然そういう所に祠を建てたでしょうね。
Gedc0203 そして、もう一つの見どころ、ストーンサークル。まあいわゆる環状列石ですな。これは、なんだかいつの間にか誰かが作ったそうでして、時計回りに3回回るというような謎の参拝方法も、いつの間にやら定着したようです。
 まあ、山の神様は縄文系ですから、こういう列石もありでしょうね。山梨にも金立神社の有名な環状列石がありますし。先日行った、秋田は大湯の元祖(?)ストーンサークルも、なんだかずいぶんと整備されてしまって、いったいどれが本来のもので、どれが最近作られたものか分からない、トンデモな状況になっていましたっけ。それが許されるのだったら、これなんかずっと原始的で純粋なものかもしれません。ま、富士山の溶岩に混ざって、ビー玉のような「貴石」がちりばめられているあたり、ちょっとB級なセンスも感じましたが…笑。
Gedc0202 それにしても面白かったのは、その列石の中心に「馬」が2頭祀ってあったことです。このなんとも大陸風な造型は…。縄文と弥生の交錯、混同、混沌。さらに、そのお馬さんの前には、しっかりと2本のニンジンが…。さらにさらにその間には「あぶらあげ」が!!ものすごい習合状況であります。お供えは「鬼ころし」だし!!ううむ、最強の「気」を感じます。
 と、このような感動的な参拝を終えまして、聖域にさりげなくたたずむ売店…いや販売所へ。いかにもというような「商品」が並んでいましたが、やはりこういう場所にあるとその価値は「商品」以上になるものです。ウチもいくつか「開運グッズ」を購入。
Gedc0218 帰りには宮司さんが「富士山羊羹」をお土産にくれました(笑)。最後の最後まで最高の演出。日本の神様はこうじゃなきゃ。あっそうそう、それですっかり気分を良くして、ふだんあまりやらないおみくじまで引いてしまいました。それも「貴石」入り。もちろん二人とも「大吉」。そして、入っていた石も、両方とも予想通り、私は「クリスタル」、カミさんは「タイガーアイ」。ま、両方ともガラス玉だと思いますが(笑)。
 いやあ、ここはたしかにすごいスポットですぞ。ものすごく「楽しい」気分になって帰ってきました。古来の「山の神様」とは一味も二味も違う、実にトンデモない魅力に溢れた空間でした。そして、多くの参拝者が抱えている「金銭欲」。全国からそんなパワーが集まっているわけですからね。そりゃあパワースポットにもなりますよ。最高。
 ウチから20分くらいで着きますので、これからも時々遊びに…いやお参りに行こうと思います。ぜひ、皆さまもお出かけください。大山祇命と言えば、富士山の祭神である木乃花咲耶姫命のお父様です。ある意味最強ですし、その「山の神」の「山の神(奥さん)」も祀ってありますから、もうこわいものなしでしょう。
 しかし、なんで山の神が「金運」に発展したのか…ぜひ船井さんに聞いてみたいところです。
 詳細は「山神社ドットコム(!)」か、こちらのレポートなどをご覧ください。そうそう、この地元のFujigoko.TVのサイト、いろいろ面白いですよ。船井さんも研究しいてる富士山レイラインの解説など、なかなかです。ただ、明見の北東本宮浅間神社がオミットされているのが惜しい!…かな。

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