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2010.05.29

不自由が生む自由

Img_0742 事「接心」が終了しました。本校の「接心」という行事は、禅宗の修行をほんの少しだけまねるものです。
 中学生は本当によく頑張りました。もちろん、初めての経験ですし、あまりに非日常的な時間と空間です。そして、今回は事前の指導もあえて最低限にしていましたから、生徒たちは本当に「不安」だったでしょうし、実際どの瞬間も「不自由」で、正直「不快」であったと思います。
 しゃべっていはいけない、というだけで、彼ら彼女らはとんでもなく不自由な思いをしたでしょう。そして、正座や座禅、和室での礼法など、今までほとんど経験したことのない身体動作の連続ですからね。食事も質素を極め、最後はたくあんとお茶で食器を洗わなければなりません。
 たぶん、皆「もう二度とやりたくない」と思ったことでしょう。それでいいのです。そう思ってもらうことが目的であるとも言えます。
 中学生ともなりますと、言語の面においても、あるいは運動の面においても、かなり「随意」を獲得しているものです。つまり、ほとんど私たち「大人」と同じような感覚を、「ようやく」手に入れる時期です。
 そうした獲得した「随意」、すなわち一般に言われる「自由」を、一時的にでも否定される体験をするのは、とても重要なことだと思うのです。つまり、「自分」だと思っていた「コト」が、実は全く思い通りにならない外部の「モノ」であったということに気づかせる体験です。
 人間は、そういった「不随意」「不自由」に出会うと「不快」を感じるようにプログラミングされています。そのプログラミング自体は、おそらく間違いではありません。問題はその後の対処の仕方です。
 現代の私たちは、そういった「不随意」「不自由」な「モノ」をどう克服するかと言うと、「言語」や「技術」や「法」や「学問」や「論理」といった「コト」をもって、それらを制御しようとします。つまり、モノノケ退治をするというわけです。特に近代西洋文明は…。
 昨日、今日の接心には、アメリカの大学で日本文学を教えているアメリカ人が飛び入り参加しました。彼と接心終了後じっくり話をさせてもらいました。彼は日本文化について私よりも深い見識がありますから、私の言うことも理解してくれました。
 もちろん「モノ・コト論」的な話をしたわけではありませんが、とりあえず、「禅」が言語や技術や法や学問や論理を否定するところから始まるということについては、互いに納得しあいました。
 私の考える本当の「自由」とは、「自分」だと思っているコト、あるいは「世界」だと認識しているコトを超えることです。実は、「これは自分である」、「これが世界である」と思っていること自体が、私たち自身を「牢獄」に押し込めている。実はそれはものすごく「不自由」だと思うのです。
 自己の外部(モノ)が自分の思い通りにコントロールできているという状態を、近代西洋文明では「自由」と言います。少し前にこちらで「自由とは必然性の洞察である」という(ヘーゲルの言葉をエンゲルスが記録したものを益川敏英さんが引用した)言葉を紹介しましたね。これです。「必然性」こそ「牢獄」であると私は感じ、わざとヘーゲルに対抗して(怖いモノ知らずですね…笑)「自由とは偶然性の洞察である」と書いたわけです。
 だから私は(というか、たぶんお釈迦様や老荘は)、そうした「牢獄」から出て、自己や世界を無限に拡張して、結果としてその両者が不二一如であると観ずることができる状態を「自由」と呼びたいのです。
 こんな、まさに屁理屈はどうでもいい。生徒たちにそんなことは説明しません。しかし、これだけは言いました。「辛いとか、痛いとか、もう二度とやりたくないとか、そう感じた瞬間だけが、自分の成長のチャンスだ」。彼らの身近なところで言えば、成長痛や筋肉痛です。
 そうそう、誰かも言っていましたが、そういう肉体的なことだけでなく、最近の子どもたちは「心の成長痛や筋肉痛」にも耐えられないと。それありますね。大人の責任ですよ。すぐに逃避の方向で子どもに加勢しちゃいますからね。
 いずれにせよ、昨日、今日、私も含めて日本人もアメリカ人も、大人も子どもも、みんな「自分がこんなに不自由なものだったとは」と感じたことでしょう。世の中や生活の中に、こんな「不自由」があったとは、と。
 本来の日本の文化は、そういう意味で、真の「自由」を獲得するためのシステムを発展させてきたんですよね。ですから、今、中学生が必修で体験している「禅」「能」「剣道」「茶道」「書道」「俳句・短歌」「漢字」などは、まさにそれなんです。彼ら彼女らには、それを理屈でなく、身をもって体験してもらいたいのです。そういう「不自由」や「不快」や「不安」が、自らの可能性を拡げるサインであることを知ってもらいたいのです。
 もちろん、それを今理解しろとは言いません。何十年後でもいいので、ふと思い出してもらいたいし、それを、この世界の行き詰まった現状を打破するための「智恵」にしていただきたいのです。
 今回は私も教頭になって初めての接心でしたから、それこそ初体験の役目がたくさんありまして、始まる前は逃げたいくらいの「不自由」や「不快」や「不安」を味わいましたが、終わってみれば、昨日の自分とは明らかに違う自分になっていることに気づかされました。そういう意味で、悟りとか真の自由とか言う高い次元ではないけれども、単純に「できることが増える」という「自由」を得たとも言えますね。とにかく、そういう「不自由」や「不快」や「不安」を用意してくれた先人の「智恵」に感謝であります。
 来年は本物の修行道場で接心ができそうです。ものすごく楽しみです。皆さん、お疲れ様でした。

不自由が生む自由(その二)

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コメント

お久です。
接心なつかしー。
みんな大変ですね。
アタシはご飯作る人だから、楽だったの思い出しました。
1年時は、延期ばかりでしたね。
元気になってよかったですねー。

投稿: カオル | 2010.05.30 15:51

どうも、お久しぶりです。

接心!!懐かしいですね~。

私は、本当に『接心』大嫌いでした。

二度とやりたくない(>_<)

退学になってもいいから、逃げようかなって、座禅組んでるときに考えてたのを思い出します。

今では、良い思い出かな?


投稿: nabe | 2010.05.30 18:21

カヲル&nabe、どうもどうも。
懐かしいでしょ!?
でも、もうやりたくないんじゃないのかな。
オレももうしばらくいいや。
つくづくお坊さんは偉いと思うよね。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.05.31 14:55

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