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2010.04.30

桜満開@富士山

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 こ富士山標高1100メートル付近では、やっと桜(ソメイヨシノ)が満開になりました。先月末の記事「桜満開!?…実は…」の道です。今度は本物の花ですよ。氷じゃありません。あれからも4月に入って大雪になったり、先週のライヴの日にも一瞬吹雪になって急きょ「津軽海峡・冬景色」をやることになったり、まあ何が温暖化なんだよ!というような日が続いておりました。5月を目前にして、富士北麓地方はようやく暖くなって春本番という感じですね。
 まあ、山梨は標高差のおかげで約1ヶ月にわたってお花見ができるわけでして、ちょっとラッキーとも言えます。職場と自宅でも
 明日から秋田、青森に行こうと思っていますが、ちょうど向こうと同じくらいでしょうかね。桜の世界では富士山と東北がつながっていると思うとなんとなく不思議な気がしてきます。
 ただ、東北にはないのがフジザクラ(マメザクラ)とミツバツツジです。前も書いたように、この二つの花はコノハナサクヤヒメと深い関係があります。富士山が見えるところや、富士山にちなんだところにしか生息していないとも言われています。ん?植物は「生息」じゃないか。分布かな。
 このようにカラマツの林の中に低く点々と咲くんです。フジザクラの薄〜いピンクとミツバツツジの鮮やかな赤紫のコントラストが実にきれいです。

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 これらの写真を撮った場所は、昨年末「天に帰った才能とは…志村正彦くんに学ぶ」という記事に載せた、あの写真を撮った場所です。志村くんが天に旅立ったところですね。彼とコノハナサクヤヒメとの不思議な縁については、こちらの記事に書きました。今、彼もこの美しい風景を天から眺めていることでしょうね。
 今日は富士山が雲に隠れていました。富士山と二つの花の競演の写真は、5年前の記事3年前の記事に載せた写真がきれいだと思いますよ。ぜひご覧ください。
 最後にソメイヨシノとフジザクラとミツバツツジ、カラマツ、アカマツ、シラカバが織りなす自然のテクスチュアをご覧下さい。

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 今、ここでは「富士桜ミツバツツジ祭」が行われています。5月3日までです。まだしばらくこれらの花を満喫できると思いますので、ぜひお越しください。逆に私は旅に出ますが。

地図

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2010.04.29

成長→成熟

20100430_85848 日のPRIME NEWSは『もうGDPで競うな!脱成長こそ日本の活路』というテーマでの討論でした。番組の最後、水野和雄三菱UFJ証券チーフエコノミストは「動かない」を提言しました。
 たしかに、我々現代人は「動く」こと「移動する」ことを「成長」の証だと思い、「幸せ」を測る価値の一つだと思い、「美徳」であり「ステイタス」であるとさえ思ってきましたね。これはいわば西洋近代文明のスタンスでした。分かりやすく言ってしまうと、隣の国に攻め入るだけでは満足せず、海を渡って原住民を大量虐殺し、そしてその土地と自然と人とを支配下におさめるという「植民地政策」です。
 これはある意味では「定住」の裏返しでもあります。より良い土地への「定住願望」がそのような「移動」を生んだとも言えます。逆に、たとえば縄文人なんかは、「ゆるい」定住と「ゆるい」移動を繰り返していました。自然豊かな島国日本の根本的な心性は、実はそんなところにあるような気もします。
 だから、私も水野さんの意見に基本賛成したいですね。今や人間にとっても、物にとっても、無駄な「移動」こそが最もエネルギーを費やす要因となっています。動物や植物はそんな無駄な移動はしません。
 ここからいろいろ話が飛びますが許してください。私の頭は無駄な「移動」が多いもので(笑)。
 まず、やっぱり日本のオタク文化って正しいと思うんですよ。ひきこもり文化ですね。無駄なエネルギー使いませんから。もっとはっきり言ってしまえば、「ニートは世界を救う」と思うんです。労働することが当然で、労働しないのは悪のような風潮がありますが、たとえば、かの賢人お釈迦様なんか、立派なニートでしたよね。ある意味妄想して座っているだけ。そして、最低限の消費生活をし、最低限の布施を受けて、つまり余り物で生活をしていたわけですから、それはそれはとっても環境にやさしい生き方をなさったわけです。ま、前半生は王子としてこの世の栄華を極めていたわけですから、結果とんとんとも言えますが(笑)。
 いつも言うように、日本のオタク文化って貴族文化なんですよ。貴族って基本「動かない」じゃないですか。それって究極のエコかもしれません。華美な生活で無駄遣いしていたようにも思えますが、実は大した経済活動してないんですよ。逆に公共事業を創出して世のためになっていたくらいです。
 武士や商人の世の中になると、これはもう基本「戦い」ですからね。攻めるにも守るにも逃げるにも「移動」は欠かせません。そうするともうみんな命がけでエネルギーの無駄遣いに奔走するわけです。
 だからですねえ、日本のオタク=貴族文化って、これからの世界標準になっていくような気もするんですよね。特にこういうネット社会になれば、移動しないでも、家の中にいてもけっこう楽しいですから。そういうカネのかからない、すなわち移動の必要がない、エコ(エコノミー&エコロジー)で、ちょっとエゴでエロでちょっとデコな世界観…それはすなわち自然界そのものなのですが…こそが世界を救うかもしれませんね。頑張れ草食系男子!っていう感じです(笑)。
 そうそう、昨日のお酒じゃありませんが、やっぱり、じっと寝かせて「熟成」させた方がいいんですよ。なゆたの時を成熟に当てるんです。そういう価値観も思い出さねばならないでしょう。
 前にも書きましたとおり、私は「経済成長」よりも「経済成熟」を求めてほしいんです。政府も国民も企業も、そういう方向にシフトチェンジすべきじゃないでしょうか。
 今度はおとといの記事に飛びます。私もこういう歳になりましてね、もう自分が肉体的には「成長」なんかするはずもないことが分かっているわけですよ。そうしますと、何を求めるかと言えば、精神的な「成熟」であるわけです。それは皆さんも理解できるでしょう。
 それと同じように、現代日本という国もですね、10代の高度経済成長を終え、20代の安定成長も経験し、ある意味働き盛りのバブル30代で暴れまくり、そうして「なんとなく落ち着いちゃったな」「ちょっと空しさも感じるかも」の40代を迎えているような気がするんですね。だから、そろそろ年甲斐もなく「成長」なんてことを言わないでですね、ぜひ「成熟」を目標としてほしいのです。そういう立派な首相が出てきませんかね。ブータンの「GNH(国民総幸福度)」みたいな新しい指標を作りましょうよ。
20100430_85918 さて、また話が飛びます(移動します)。今日の番組のもう一人のゲストが、東大大学院の松原隆一郎さんでした。松原さんと言えば格闘技、プロレスマニアとしても有名。ちょっともったいなかったのが、せっかくキャスターの反町理さんが、「松原さん、格闘技において動かないというのは…」という実にシャレた質問をしたのに、松原さんその技を受けずに流してしまった点でした(笑)。いやあ、格闘技にとっては「無駄な動き」は絶対に許されませんよ。
 ちょうど番組が始まる前に、IGFのGMである宮戸優光さんから電話が来ましてね、ここ10年くらいの日本のプロレス界の問題点について話したんですよ。その中にも出てきましたが、今のプロレスはどうしてもハイスパートで飛んだり跳ねたりのサーカス、あるいは学芸会になりがちです。昔のプロレスは「動かない」中にも迫力や緊張感や意味を感じました。今はとにかく「意味のない動き」ばかりになってしまっています。プロレス界もまた、成熟を目指す時期が来ているのではないでしょうか。そのために必要なのは、やはり「教育」であって、「目先のカネ」ではないと、私たちは確認したのでした。そして、これはプロレス界に限ったことでないと。宮戸さんの言うとおりだと思いました。
 そういう意味では、私たち40代が、正しい日本の40代を創っていかねばならないわけですね。しっかり腰を落ち着けて、根をちゃんと張って、自他を見つめ直す必要がありますね。無駄な「動き」をせず、意味のある「動き」をしていきたいものです。

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2010.04.28

『那由多の刻(そば焼酎)』 雲海酒造株式会社

20100429_101131 日書いたように肝臓の数値が悪くないので、毎日の晩酌(手酌酒)は欠かしません。まあ、飲むと言ってもせいぜい日本酒1合程度ですから、そんなに肝臓には負担がかかっていないのでしょう。逆に、百薬の長として機能してくれていると思っています。
 一日一食の私は、職場から帰宅して24時間ぶりの食事をします。その時に必ずお酒もいただくわけですね。24時間ぶりに。そして風呂に入ったらもう寝ます。小学生の娘よりも早く寝ます。で、朝早く起きて…と思いきや、最近「春眠暁を覚えず」でありまして、6時頃までぐっすり寝ちゃってるんですよね。まあ、それが健康の秘訣なのかもしれませんが。宵越しの疲れは持ちません。熟睡できるのも晩酌のおかげだと信じています。
 そして、どういうわけでしょうねえ、ウチはお酒がなくなることがありません。自然に集まってきます(笑)。つまり自分で買うことはあまりなく、どちらからかいただくことがほとんどなんです。で、いただくお酒というのは、ある意味自分では買わない、いや買えない「いいお酒」が多いわけですね。ありがたいことです。
 最近で言えば「寺田本家」の日本酒が絶品だったのですが、それについてはまた近いうちに紹介するといたしまして、今日は、まさに今日いただいた焼酎を紹介します。あまり焼酎は飲まない派なんですけれども、これは「うまい!」と思ったもので。
 ある意味焼酎通からしますと、この焼酎はやや特殊なのかもしれませんが、私のような門外漢にとっては実に飲みやすい逸品でありました。
 「那由多の刻」…「なゆたのとき」と読みます。宮崎の雲海酒造さんのそば焼酎です。雲海酒造さんと言えば、私は大学時代お世話になった麦焼酎「いいとも」を思い出します。若さゆえのほろ苦い思い出ではありますが(苦笑)。
 雲海酒造さんは、麦のほかにも米、芋など定番の焼酎も作っていますが、実は実は、日本で最初に「そば焼酎」を開発販売したメーカーさんなんですよね。「そば焼酎雲海」、皆さん一度は聞いたことがあるフレーズでしょう。
 そんな「そば」にこだわりを持つ雲海酒造さんが、10年ほど前に、まさに満を持して発売したのがこの「那由多の刻」です。まずはこの「ネーミングの妙」に乾杯!
 「那由多」ってなんのことかご存知ですか?そう、仏教用語、すなわち梵語で大変大きな数を表す語ですね。それは10の60乗とも10の72乗を表すとも言われています。次の単位は「不可思議」、そして次は「無量大数」ですから、まあとにかくとんでもなく大きな数字というわけです。
Nayuta そうそう、「なゆた」と言えば、私なんか西はりま天文台にある日本最大の天体望遠鏡を思い出しますね。一般人がのぞくことができる望遠鏡としては世界最大だとも言われています。口径2メートルです。集光力8万倍。百億光年先のクエーサーまで撮影できるなんて、まさに私たち庶民からしますと「那由多」の世界ですね。
 で、お酒に話を戻します。このそば焼酎がなぜ「那由多の刻」なのか。そう、すなわち長期貯蔵酒なわけです。それも、神話の里高千穂のトンネルで貯蔵されていたというではありませんか。これはうまくないはずがありません。
 一瞬そば焼酎であることを忘れるほどに、まろやかで落ち着いた味わいです。金色がかったその見た目からも、なんとなく高級ウイスキーのような感覚ですね。ストレートで楽しめる実にぜいたくなお味です。本当にクセがないので、どんなお料理にも合うでしょうし、女性の方でもぐいぐい行けてしまうのではないでしょうか。とにかく割らないでストレートがロックでいただくのが一番ですが、お湯で割りますと、少しそばの香りがしますので、それもまた楽しいかもしれません。
 なんでも2007年度には、「インターナショナル・ワイン&スピリッツ・コンペティション」で金賞及びカテゴリー部門最高位を受賞、さらにモンドセレクションでも最高金賞を受賞したとのこと。さもありなんですね。
 ふむ、やっぱり「とき」の重みというのは、なにものにも代え難いですね。どんな技術を使っても、こればかりは即席にはできません。そんなことを思いながら今夜もじっくり味わわせていただきました。案外お値段もお手ごろですので、ぜひ皆さんもご賞味あれ。

Amazon 那由多の刻

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2010.04.27

悪玉コレステロール

070227 日血液検査の結果が送られてきました。あいかわらず「悪玉コレステロール」が基準値を超えており(177mg/dl)、医療機関へ行けとの指示が出ております。もちろん行きませんが(笑)。
 ほかは全て正常値です(前日たらふくお酒を呑んだのですが、肝臓関係の値もいたって正常でした)。もちろんメタボでもありません。
 皆さんご存知のとおり、ワタクシはここ6年ほど一日一食の生活、それもかなり野菜や魚に偏りつつ、さらに低脂肪な食生活をしており、これ以上食事内容を改善せよと言われても、どうしようもありません。二日に一食にするしかないでしょうかね。
 ちなみに中性脂肪は今回「48mg/dl」という神懸かり的な数値を叩き出してしまいました。一日三食食べていた時は150を超えて異常領域に入っていましたから、まさに劇的な減少です。てか、一般には50以下って「栄養失調」と判断されるんじゃないのかな(笑)。
 それなのに「悪玉コレステロール(LDLコレステロール)」値が高いというのは、いったい何が原因なのでしょうか。おそらくは遺伝的な要因ではないかと思われます。母親もガリガリの痩せですが、昔からコレステロール値が高いと言われていました。末梢でのコレステロール受容に問題があるのかもしれません。
 また、ある専門家の方に聞きましたら、一日一食という食生活とも関係があるかもしれないとのことでした。ある意味特殊な食生活ですからね、なんらかの進化を遂げたのかもしれません。あるいはこれこそが正常な状態なのかもしれないともおっしゃっていました。ぜひ実験を続けてくれたまえと(笑)。
Shinzo03 「悪玉」なんて名前を付けられて実に可愛そうなコレステロール君でありますが、実は、人間の生命活動にとって「悪玉コレステロール」も必須の存在なのです。必要だから一定値体内にあるわけですよね、単純に。そういえば一日一食道の師匠とも言える、あの日野原重明医師も「コレステロールは高めの方がいい」とおっしゃっていました。コレステロールが高めで血圧も高めなのは、まさに「元気」な証拠であると。まんま私の状況です。血圧もちょっぴりですが高めですので。
 検査結果とともに、なんか冊子をいただきました。小渕元首相が主役の妙な冊子です。ヘルスケア・コミッティー株式会社というアヤシイ(失礼)会社が発行しているものです。なんだ花王グループか。
 ここにこういう文句が掲げられています。
「薬をのむ、病院へ行く、そんな当たり前のことを、あなたにしてほしい」
 おいおい、こりゃなんだ!?お前にそんなこと言われたくないよ。薬と病院が当たり前って誰が決めたの?あんた誰?とりあえず小渕さんじゃないですよね(笑)。
 どういう利権が存在しているのか、だいたい分かりますよね。一部の常識ある人たちが言うように、日本の医療界は「健康診断」「特定健康診査」のおかげで成り立っているとも言えます。意地悪な言い方をすれば、健康な人を病気にしてしまうシステムであるとも言えます。
 私はいろいろな人にこう言っています。みんな一日一食にすれば、健康になって(花粉症も治る!)、食費も浮いて(6年で100万円浮いた!)、余計な運動もしなくていいし、医療費もかからないし、生命保険の保険料も下がるし、いいことばっかりだよと。ま、間違いではないと思いますよ、これ。
 今の風潮は、とにかく1日3食しっかり食べましょう、そうすると太るから、お金払って運動しましょう、それでも痩せないから、病院に行って薬を飲みましょう…そんな感じじゃないですか。なんかおかしくないですか?
 まあいいや。それより、今日はとにかくですね、必須な物質であり、そして、一生懸命私たちのために活躍してくれているヤツに対してですね、「悪玉」なんて名前をつけるのはどうかと、それを言いたいのでした。いかにも人間のエゴの象徴ですよね。自らの価値観、いや他者の判断や社会の風潮を鵜呑みにして、「悪」を設定し、それを排除することで結束してしまう…。
 というわけで、私は壮大なる人体実験中です。「悪玉」と決めつけられた社会的弱者のために闘い続けます。
 そうそう、コレステロールって細胞膜の生成に大きく関わっているわけじゃないですか。私ってもうすぐ46歳なんですが、肌の艶や質は、小学生の娘以上に美しいのです。これはみんなが驚く私の唯一の美点です。頭皮の新陳代謝の早さも尋常ではありません。これって、もしかして「悪玉コレステロール」君のおかげかもしれませんね。

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2010.04.26

『13歳からのシンプルな生き方哲学 & 同 part 2』 船井幸雄 (マガジンハウス)

83871879 校独自のテキストの一つがこれです。いわばバイブルのような存在。これを毎週末、1章ずつ手で写します。写経みたいなものでしょうか。心に残った文に線を引き、一言でいいので感想を書きます。
 我が中学では、私学の特性を活かしてユニークな教育活動を行っています。公立では考えられないようなことが必修となっています。座禅や茶道や剣道、能も全員が習います。本校は禅宗のお寺が母体となっていますので、こういう「禅」文化を習うのは当然と言えば当然。
 しかし、案外難しいのが、「仏教」自体の学習です。私にとっても、お釈迦様は最も尊敬すべき存在であり、お釈迦様の教えは、私が最も影響を受けた「生き方哲学」ですが、これを歴史や文学、あるいは道徳として扱ってしまうと、どうも「抹香臭い」「堅苦しい」「難しい」ものになってしまいます。それはそうですね。人類史上最も頭のいい人の言動ですので、そんなに簡単に私たちは理解できるわけがありません。
 そこで、私はこの本に力を借りることにしました。別にこの本は「仏教学」のテキストではありませんし、著者の船井さんもそんなことを意識してお書きになったわけではないと思います。単純に「船井哲学」を子どもたちにという意味で書かれたのでしょう。
 しかし、私はこの本を読んだ時、あまりにその内容が「私の言いたいこと」だったので、本当にびっくりしたのです。これを中学生に伝えたいのだ!と心の奥からそう思いました。そして、よくよく分析してみましたところ、ここには私の影響を受けてきた偉人たちの智恵が詰まっているのだということに気づかされました。特に「仏教」「禅」、それから少し「神道」&「キリスト教」。
 ご存知のように、船井幸雄さんは、カリスマ経営コンサルタントです。実業界での影響力は実に大きなものがあります。しかし、一方である種の宗教性を持った方、宗教的な「何か」を感得されている方であるのも事実です。
 私がよく言うように、「カネ」という悪神に対抗するには、「神仏」を味方につけるしかありません。船井さんはそれを実業界で見事にやってのけている稀有な存在です。だからこそ、その言葉は我々世俗の人、あるいは子どもたちにも分かり易いし、実際生活の中で有効に働くわけです。
 そういうある意味包括的な宗教書、アヤシイ意味ではなく、そうした現実の厳しさと恐ろしさに対抗し得る「智恵」を提示してくれる本当の意味での「テキスト」を探していたんです。自分で書こうかと思ったこともありましたが、私のような下卑た人間の言葉では、さすがに子どもとは言え、信用してくれないだろうと思い、あきらめていました。
83872024 さあ、どうしようかと思っていた矢先、今年の2月、「王仁魂」講演会に出席した際に船井さんの秘書の方と知り合いました。そこで、ピンと来たんです。あっそうだ、船井さんの本をもう一度読んでみよう。それまで、この本の存在を知りませんでした。子ども向けの御著書があるとは思っていなかったのです。
 だから、この本を見つけ、注文して読んだ時、本当に「ありがたや!」と思いました。王仁三郎さんのしゃれた計らいだったのかもしれませんね。あの日はいろいろととんでもない出会いがありましたし、だいいち、あの日自体奇跡的な日でしたから。
 そう、先ほど、「仏教」「禅」「神道」「キリスト教」と書きましたが、それこそ出口王仁三郎そのものとも言えますね。私も真剣に彼に少しでも近づきたいと思っていますし、子どもたちにも、ああいうスケールの大きな、人類の平和のために生きるような人間になってもらいたいと思っています。
 というわけで、この本、ぜひとも「大人」の方々に読んでいただきたい。いや、大人の方にこそ読んでいただきたい。これからでも遅くありません。人生変りますよ。私たちがどれだけ悪神に洗脳され、大切なことを忘れているか、気づかされることでしょう。そういう「気づき」だけでも、とっても大切だと思います。その「気づき」が過半数を超えた時、世の中も変わるかもしれません。
 Amazonの「なか見!検索」で目次を見られますから、ぜひ内容を確かめてください。

Amazon 13歳からのシンプルな生き方哲学
 13歳からのシンプルな生き方哲学(part 2)

楽天ブックス 13歳からのシンプルな生き方哲学
 13歳からのシンプルな生き方哲学(part 2)

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2010.04.25

Roxio Popcorn 4

Pop1 日のライヴの映像を自前のflashに変換したのが、このソフトです。

ふじやまライヴ(ものまね)

 基本、DVDのコピーやiPodに入れるための動画変換などは、このソフトでやっています。機能的にも性能的にもけっこう至れり尽くせりでして、気に入っていますね。購入する時は、ちょっと高いかなと思いましたが、これだけ使えれば納得です。
 DVDのクリップを抽出して、それを組み合わせてオリジナルのDVDを作れるのも便利ですし、Fit-to-DVDという圧縮技術で2層DVDを高画質で1層に焼けるのもいいですね。
 DVDの複製のほかによく使うのは、娘たちの要望に応じて、YouTubeやニコ動の動画をiPodに入れるという作業ですね。iTube Grabberで動画をダウンロードして、それをmp4とかに変換するわけです。それらの処理速度も大変速いですし、自動的にiTunesに保存されるので、小学生の娘たちでも、お好みの動画や画像を自分たちのiPodに入れられます。ま、だいたいアニメの主題歌とかなんですが。
 考えてみれば、小学生がそういうことをする時代になったんですよね。ウチは家族全員オタクなので(笑)、特別と言えば特別ですけど、それにしても、子供のデジタル機器を使いこなしていく能力はすごいですよ。説明書なんか読まないし、私に教わっているわけでもないのにね。Macだからというのもあるかもしれません。直感的に操作できますから。
 ところで、私、こういうソフトを持っていて、いくらでもYouTubeやニコ動に動画をアップできる環境にあるのに、なぜ実際はそれをしないのかと言いますと…理由は非常に簡単です。
 ウチには秘蔵の映像、レア映像がたんまりあるので、それをアップしはじめると、きっとキリがなくなってしまい、大変な時間のロスになると予想されるからです。
 そうしたビデオ・フィルム資産をDVD化することも考えているのですが、こればっかりは時間を短縮するわけにもいかず、結局実時間以上かかるのは明らかなので先送りになっています。退職してヒマになったらやろうかな…と思っている人がたくさんいるでしょうね。
 しかし、ご存知のとおり、デジタル的な記録媒体の方がアナログ的なものよりも、実は長持ちしないんですよね。結局頻繁にコピーを繰り返さなければならないとなると、たしかにネット上(クラウド)に半永久的に保存していった方がいいのかもしれません。公共化することによって、みんなが勝手に保存、管理してくれる可能性があるわけですからね。
 でも、まずそれぞれの記録の保存優先順位を決めるために、全ての記録に目を通さねばならないという、どうにも気の遠くなるような時間と手間がかかるわけでして、結局やらないで終わる可能性が…。
 ま、過去人類はこうしてほとんどの記録と記憶を無に帰してきたわけです。「コト」化の欲求はあれど、それにこたえる自己の根性が欠けている点が、神様が人類を創造した際の致命的な設計ミスだったようですね(笑)。
 あっそうだ!最後にこのソフトな致命的な(私にとってですが)欠陥は、CDのコピーができないことです。どういう事情でしょうか。ああいう事情でしょうか。今、MacでCDをコピーするのは難しいんですよね。

Amazon Roxio Popcorn 4

Roxio Popcorn 4 公式

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2010.04.24

歌謡曲バンド「ふじやま」ライヴ at EN

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4月24日(土)14時〜
富士吉田市 月江寺駅前 富士学苑野外ステージ「EN」

またまたちゃっかり、日本一(浅草ジャズグランプリ)のジャズバンド富士学苑高校ムーン・インレット・サウンズ・オーケストラの前座をさせていただきます。
今回も「三木たかし」特集です。

歌謡曲バンド「ふじやま」
 唄&ものまね(?) 山口陽子
 ヴァイオリン 山口隆之
 キーボード 吉野洋美
 ドラムス 柳沢昭彦

 記のように告知させていただいていました我が歌謡曲バンドのライヴが無事(?)終了いたしました。
 まずは私たちを呼んでくださった富士学苑中学・高校のジャズバンド部「ムーン・インレット・サウンズ・オーケストラ」の皆さん、そしてご来場くださった方々に、心から御礼申し上げます。
 そして、ごめんなさい。日本一のビッグバンドの皆さんの素晴らしい演奏、そして、中学1年生、高校1年生の新入部員の皆さんの記念すべきデビュー・ステージに、私たち「大人」がまたまたとんでもないミソをつけてしまい、申し訳ありませんでした。ま、ジャズバンド部の愛称「MISO」に免じて許して下さい(笑)。
 例によって私たちは当日初集合、1時間ほど曲目決めや曲順決め、そしてなぜか関係ない遊びなどに興じてから、いざ本番へ。これが「大人」な音楽の楽しみ方なのか!?
 それにしてもですね、あいかわらずジャズバンド部のレギュラー・バンドの皆さん、お上手ですね。日々の精進の賜物です。そして、今日デビューしたジュニア・バンドの初々しいこと!正直、先輩と比較するのは酷ですが、逆に言えば、あの先輩たちも、みんな最初はこうだったんですよね。そして、日々の練習によって、あそこまで立派な音を出し、立派な音楽を作り出すようになるわけです。なんか感動ですね。若者の素晴らしい成長力を見せられた、聴かせられた気がしました。新人たちよ!頑張れ!
 そして、そういう経験を積み、おじさん、おばさんになると、こうなってしまうのか!?というのが、ウチのバンドの演奏というか、姿勢ですよね。はたしてこれは教育的にどうなのか。ちょっと微妙ではありますが…笑。
 今回は練習の機会が一度もなかったので、とりあえず昨年7月にやった「三木たかし特集」から4曲をピックアップして再演しました。「津軽海峡・冬景色」「みずいろの手紙」「時の流れに身をまかせ」「夜桜お七」です。
 当初はやる予定のなかった「津軽海峡・冬景色」でしたが、なにしろ今日は「吹雪」だったので…。いや、まじで、ウチのあたりは横殴りの雪が降っていたんです。4月のこの時期にですよ!そんな寒さだったので、この曲からいきなり入りました。あまりの寒さに手がかじかんで、ヴァイオリンの音程がひどいのですが、それがまたリアルな「こごえそうな」演奏ということで(笑)。
 それから、1曲、美空ひばりさんの隠れた名曲「さくらの唄」を加えました。いやあ、この曲、演奏していても泣けますね。三木先生の曲も素晴らしすぎますが、なかにし礼さんの歌詞がまたすごい…。寸前に調の変更(短三度上げ)をしましたが、無事演奏できたかな?こういう臨機応変さがウチのバンドの強みです。
 そして、今回、直前の練習の中でちょっとやってみたらメンバーに大ウケだったので、急きょやることになったのが「ものまねコーナー」…とか言って、告知にもなぜか「唄&ものまね」って書いてあるし。最初からその気だったのでは(笑)。
 これが一番ウケましたかね。いや、例によって「ドン引き」させちゃったかも!?やってる方ですらドン引きしちゃいましたからね。
 ウチの演奏が、ドラ息子(ドラム担当)によってYouTubeにアップされました。お聴きになってください(ドン引きしてください)。

おまけ(ものまね)←覚悟してclickしてください。

 最後にはジャズバンド部の皆さんと共演させていただきました。これもまたなんの打ち合わせもなく全くのぶっつけ本番。カミさんはセルジオ・メンデス&ブラジル77の「マシュ・ケ・ナダ」をなんちゃってポルトガル語でいきなり歌い、私はジャコの「チキン」をめちゃくちゃな即興で弾かせていただきました。このずうずうしさというか、厚かましさ、どうにかならないですかね(笑)。ホント失礼いたしました。
 でも、こういう「いきなり」楽しめる音楽のあり方って、とっても幸せだと思いますよ。気の合う友との会話みたいなものですから。生徒の皆さんも一生音楽を続けて、大人になってからも楽しんでほしいと思います。みんな頑張れ!
 フジファブリックの志村正彦くんの故郷、ここ富士吉田の月江寺周辺。とっても「昭和」の似合う街です。今日もお空から我々の演奏を聴いて、プッと吹き出していたことでしょう。本当はフジファブリックの曲もカバーしようかと思っていたのですが、さすがに時間がなく断念しました。いつか必ずやります。

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2010.04.23

BUMP OF CHICKEN 『魔法の料理 〜君から君へ〜』

 2週続けて新曲をリリースしたバンプ。こちらの曲は「みんなうた」で月の始めから流れていたので、もうずいぶん聴いていました。
 これは名曲ですね。バンプらしい、藤原基央くんらしい名曲です。スタンダードになりうる力を持った曲です。
 正直、うまいなあというか、ずるいなあというか、大人としてちょっと嫉妬してしまうほどのセンスを持っていますね、彼。
 これは大人のための「童話」であり、大人のための「童謡」であります。大きくなった「子ども」が、未来の「大人」に語る形をとっていますが、実際上この詩、いや散文に共感し感銘を受けるのは大きくなった「子ども」でしょう。
 誰もが持っているであろう「子どもの記憶」。それはほとんどが「夢想」をベースにした「モノ」です。私たちは「大人」になる、「大人」に仕立て上げられる中で、そうした「モノ」を捨てて行きます。その「モノ」を語ると「物語」になるわけですね。
 藤原くんの歌詞はどれも「詩」というには饒舌すぎて、そこが「詩」を求める人にとっては、ある種の「説教臭さ」を感じてしまう原因となっているんですが、この曲に関しては、もう最初から「物語」をやろうというスタンスから始まっているので、実に功を奏していると思いました。
 「みんなのうた」というある意味壮大な、時間を超えた「物語」の中でこれをやったか!という感じですよね。「みんなのうた」自体の歌とも言えます。私たちおじさんおばさんも、たくさんの「子どもの頃の思い出」を「みんなのうた」に乗せて大事に持っているじゃないですか。
 彼のこういう「語る」音楽というのは、世界的にもなかなか珍しい。あえて言うなら、やっぱり西洋音楽の音楽史の延長にあると言えますよね。何度も言うように「キリスト教音楽」です。オラトリオやオペラの系譜ですよ。日本の「歌=和歌」の系譜とは全く違います。
 散文詩という面でもそうですし、内容的にもそうですね。この歌詞なんかにも、たくさんの「否定的」「負」の言葉がちりばめられていますけれど、結果としてそういう「悲劇」をも肯定的にとらえる道を示しています。そこが、いつもの彼らのリアリティーなんですよね。きれいごとでは終わらない。悲劇に根ざした、現実を消化した上での、新しい「夢」「物語」を紡いでいくような感じがします。だから、子どもには分からない音楽であり文学なんですよ。
 ところで、私、この曲を聴くと、どうしても思い出してしまう、別のミュージシャンの曲があるんですよ。それは、フジファブリックの「Clock」です。
 『魔法の料理 〜君から君へ〜』のサビを聴いてみてください。2回同じ旋律、藤くんらしい伸びやかなメロディーが歌われますね。「君の願いはちゃんと叶うよ」というところと「これから出会う宝物は」のところです。ここのベースラインをよく聴いてみてください。1回目は「ドレミファソ」と上がっていきますね。2回目は「ドシ♭ララ♭ソ」と半音階的に下がっていきます。ここがこの曲のミソであり、うまい!というところなんですが(それぞれ次にファ♯に行くプチ転調もナイス!)、同じメロディーに全く違うベースラインが重なるということは、その全く違う二つのベースライン自体も重なる可能性があるということじゃないですか。
 で、それを実際に重ねているのが、フジファブリックの「Clock」なんです。ベースではなく、金澤くんのキーボードなんですけどね。聴けばわかります。
 

 どうですか。こんなことに気づくのは私だけかもしれませんね(笑)。しかし、あまりに対照的な歌詞の世界も含めて、私の中ではこの2曲が不思議とつながってしまうんです。
 同じ「悲劇」の捉え方、表現の仕方もいろいろあるなと。この前、『HAPPY』のところで書きましたね。修行僧のように「現実」を直視しすぎるほどに直視し、独り「孤独」と闘った志村正彦くんと、言葉というフィクション(共同幻想)で「孤独」を駆逐していこうとする藤原基央くん。日本のロックの深さ、広さを感じさせるコントラストであります。
 今30くらいのロック・ミュージシャン、たくさんいますよね。彼らの世代はなんというか、不思議と私たちの世代に通じるところがあるんですよね。なんとなく共感する部分が多い。それがどういう現象なのか、そのあたりもちょっと考えてみようと思っています。

Amazon 魔法の料理 ~君から君へ~

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2010.04.22

パクリ以前の問題

上海万博PRソング 「2010 等你来」

 然性か?必然性か?
 世の中を騒がせている上海万博PRソング盗作問題。
 結果として、上海万博への注目が集まり、そして、岡本真夜の「そのままの君でいて」がリバイバル・ヒットするということになりました。岡本さんは「使用許可」を出すし、もともと両者に密約があったのではないかと疑いたくなります(笑)。
 両者を比較して聴きますと、たしかによく似ているわけで、これはもう盗作と言われてもしかたないのですが、実は問題はそれ以前にあるような気がするのは私だけでしょうか。
 その「以前」の話をする前に、次の編集動画(絵はないけど)を聴いてみてください。この編集をした人、とってもGJです。両者は調も違うし、中国の方は「よくある」転調もしているし、当然テンポも違います。挿入句も違ったりします。それを最新のデジタル技術で全部上手に重ねちゃったのが、この音源です。けっこう面倒くさかったのでは。
 まあ、それを聴いてみてください。

 もうこれは、何をか言わんやであります。ここまで潔いと逆に拍手したくなります。中国はもともとパクリ…いや、模倣の得意な国でありますから、このくらいは朝飯前でありましょう。しかし、それを国家的行事でやってしまうところがすごい。そして、結果としてこうして注目を集めてしまうのですから。
 岡本さんも岡本さんです。「どうぞ使って下さい。光栄です」なんて言っちゃだめですよ。国家的パクリを許しちゃいけません!…ではなくて…。
 ここからが、その「それ以前」の問題です。
 実は私、この岡本真夜さんの曲、心から大嫌いだったのです。今聴くとまあ許せるのですが、当時はとにかくこの曲が街でかかったりすると、もう全身鳥肌ものだったのですよ。
 そう、80年代後半から90年代にかけて、あまりに量産されすぎた、そして量産されすぎてさらにチープになってしまった、「王道進行」とも言いたくないほど使い古されたコード進行の連続なんですよねえ。
 あまりに露骨で、おそらくアメリカの方が聴いたら、とってもネオテニーな音楽に感じられることでしょう。
 いや、別にこういう音楽の存在を否定しているわけではありません。ヴィヴァルディやバッハやテレマンなんかにも、こういうレベルの量産がありますからね。
 しかし、あの当時のJ-POPはひどすぎました。バブルで頭がスカスカになっちゃったんでしょうかね。猫も杓子もという感じ。ベスト10の曲のほとんどは、三つくらいの類型に収まっていました。
 そう、その前の、いわゆる「歌謡曲」の時代が、あまりに多様で豊かであったから、特にそう感じられてしまったのですね。プロ中のプロによる作詞、作曲が当たり前でしたから。
 そういう意味で、岡本真夜さんは究極のシロウトでありました。よくぞ恥ずかしげもなく、と当時は思ったものです。
 しかし!今、こうして両者を聴いてみますと、明らかにそういう意味においては中国に負けています!まだ甘かったか、真夜!
 やっぱり、あのコテコテ転調と、あとサビのメロディーでしょうかね。ああいう下降音階バスには、メロディーも平行3度下降で応じてほしかった。その点、上海は見事に「王道」しています(Jackson 5の I'll Be Thereみたいに…あれはちゃんとバスに工夫がありますが)。
 というわけで、パクリ以前に、コテコテの恥知らずにおいて、日本は中国に負けました。残念。

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2010.04.21

自由とは「偶然性」の洞察である(?)

20100422_63119_2 由とは「必然性」の洞察である…昨日見逃したPRIME NEWSを、例の通り公式サイトのハイライトムービーで観ていましたら、この言葉が出てきました。
 ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんが「日本の科学と教育」について語っていたんです。益川さん、いわゆる天才タイプですから、昨日の話ではないけれども、やっぱり「益川言語」があって面白かった。ある種の「ぶっとび」ですね。益川さん自身も言っていました。最近は「はちゃめちゃ」な学生が減ったと。それはすなわち「天才」が減ったことだと。それはなんとなく分かりますね。高校生でもそうですから。
 平成になって、極端に「バカ田大学」のセンセーやガクセーが減りましたよね。みんなある意味優等生になってしまった。こういう時代には変革はありえません。そして、世の中全体が停滞します。パワーを失って皆がウチにこもり、愚痴っぽくなります。「これでいいのだ!」と言って、善も悪も肯定してしまうことができなくなります。今、そんな感じですよね。
 そんな実情を作ったのは、益川さんのおっしゃるように、「教育」でしょう。「教育汚染」が進んでいると。そのとおりです。私も高校生には「分からない問題があったら飛ばせ!」と教えていましたから。
 そんな反省も含めて、中学では「分からない問題にも食いつけ!」と教えています。たしかに人生は、初見で未知の問題との格闘していくことにほかなりません。その連続です。ワタクシ流に言うなら、「コト」よりも「モノ」の連続だということです。随意なんてほとんどなくて、不随意ばかり。
Hegel 益川さんは…というより、ヘーゲルは…というか、この言葉を書き残したのはエンゲルスなんですよね。エンゲルスがヘーゲルの言ったことを自著で引用して、それをまた益川さんが引用したということです。で、ヘーゲルは、その「モノ」を「コト」にしていくのが、「自由」であると説いた。もちろん、そんな「モノ・コト論」で言ったわけではありませんが、とにかく、学問によって対象を支配してコントロールすれば、我々は自由を獲得できると言ったわけです(たぶん)。
 益川さんは、それをこんなふうに説明していましたね。二つのレバーがある。片方のレバーを引くと百万円が出てくる。もう片方を引くと青酸ガスが出てくる。さあ、ご自由にお引きください。この時、「科学的知識」があれば、当然引くべきレバーは決まってきます。そうした、知識に則った選択のことを「自由」というのだと。知識がなければ単なる「偶然性」であると。そして、その「自由」の獲得に資するのが「科学」のあるべき姿だと。こんなようなことをおっしゃっていました。
 なるほど面白い喩えですね。ま、禅を勉強している私からしますと、そんな「自由」論も、いかにも近代西洋的な「不自由」に取り憑かれた方便にしか聞こえませんが、ただ、たしかに学校での教育、学問、勉強というものは、多分にヘーゲル的な目的意識を持っているのも事実ですよね。私なんか、本当は「勉強を極めて、そしてその空しさを諦観し、真の自由を獲得せよ!」とか言いたいところですが、そんなことを言っても、生徒は解りませんし、まじでそんなことを標榜していたら、そのうち学校もつぶれちゃうでしょう(笑)。
 だからいいんです。ヘーゲルやエンゲルスや益川さんのような考え方で。それを極めた先に何があるか、何を見つけるべきかは、そこまで行った人でないと分かりませんからね。全然そんなところまで行っていない私がとやかく言う問題ではありません。
 とりあえず行ってみる価値はあるのでしょう。いや、ペレリマンみたいになっちゃうのも困るか(笑)。
 いや実は、必然性を洞察していくと、結局偶然性の宇宙に放り出されてしまうのではないでしょうか。そこで、私達は自分たちが「コト」化(随意化)の煩悩にとらわれていたことに気づき、そこから初めて解放されて、お釈迦様の唱えた「自由」を得ることができるのかもしれませんね。
 だから、私はあえてこう言いましょう。
「自由とは偶然性の洞察である!…これでいいのだ!」

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2010.04.20

『佐山原理 新生武士道真陰』 初代タイガーマスク佐山サトル (東邦出版)

君に不動心を植えつけよう
80940850 変卑近な例で申し訳ないし、ちょっと自慢が入っているところが鼻持ちなりませんが(苦笑)、昨日の記事からの流れもあるので、まずは今日の出来事から。
 中学の現在の役職になって3週間が経ちました。毎日が自他の発見であり、自他との格闘です。しかし、そんな中、ちょっと懐かしく、ある意味落ち着く授業があります。それは高校3年生に対する受験国語の指導の時間です。ううむ、人間というのは、5年でこれほども変ってしまうのか(笑)。
 中学1年生の純粋さと、高校3年生のある種の達観。透明で壊れそうな魂と接するのもいいものですが、たまには自分と同じくらいタフになり、ある意味色のついた(濁った?)魂との交流に安堵するのも事実です。ま、簡単に言えば、言いたいことバンバン言えるわけです。彼らはある意味「自己を捨て」ている部分があるからでしょうね。もちろん、禅や仁侠レベルではありませんけど。単なる「自虐」とも言えるか(笑)。
 その流れで、放課後高校生とボウリングをすることになりました。特進コース恒例の新入生歓迎ボウリング大会に招待されたのです。
 私自身、1年ぶりのボウリングでしたので、最初は今一つ体も心も言うことを聞かず苦労しました。しかし、いちおうボウリングでは高校生には負けたくないという気持ちからか、ある意味大人げなく、だんだん真剣モードに入っていきました。
 2ゲーム目(つまり最後のゲーム)は最初の2フレームこそオープンでしたが、そこから気持ちを立て直し、なんとか6フレまでノーミスで来ました。隣の高校生は4連続ストライクなど出し、私よりかなりいい点を取っています。
 ここで私は、この初代タイガーマスク佐山聡さんの本を思い出したんです。「不動心」。
 ボウリングって、ほとんど自分の心との闘いじゃないですか。動揺したり、緊張したりしたら、まずダメです。で、昨日の「親分」の話なんかも思い出し、自分自身に対して肚を据えて勝負してみようと思ったんです。
 今までの私だったら、途中まで調子が良ければ良いほど、後半崩れる傾向があったんですけど、今日はなんというか、自分もこの歳になったし、いろいろな意味で立場も変ったので、実質的に自己改革していきたいなという、まあある種の欲気でもあるんですけど、そういうものがふつふつと沸いてきたような気がしたんですね。
 で、決めました。7フレームから命がけでやろうと。全部ストライク取ってやる!という目標や夢さえも捨てて、ただただ、「ボウリングになりきる」。
 つまり、佐山さんの言う「無波フィルター」を自分にかけてみたんです。「無波フィルター」とは「観念フィルターを武士道的無意識によって強化したもの」で、一種の自己催眠誘導です。あやしいと思わないでください(笑)。ただただ呼吸を整え、自分の心の波を抑えるイメージをして投げただけですよ。
20100421_64001 そうしたら、結果はこれです!最終フレームなんか、もう私以外のみんなはゲームが終了していたので、総勢30人くらいに固唾を飲んで観られていたわけです。今までの私だったら、絶対コケてましたよ。間違いなく。
 いやあ、だから、最後パンチアウトできた瞬間は、「佐山さん、ありがとう!!」と心の中で叫んでしまいました(笑)。
 と、たかがボウリングではありますが、こうして自分の動揺や緊張の波を初めて抑えられたことに、自分自身ちょっと感動してしまいました。おお、オレもようやくこういう境地になってきたかと。
 たしかに、最近コンサートに出る時も、昔ほど緊張しなくなりましたし、人前でしゃべったりする時も、かなり落ち着いていられるようになりました。ま、単に経験を積んだ(積みすぎた?)というのもあるでしょう。しかし、たしかにテクニックとしての、自己暗示というか、自己催眠というか、「無の境地」へ自分を連れていくみたいなこと(おそらく真似事でしょうけど)が多少できるようになった気がします。
 そういう自分を体験すると、いかなる難事や想定外のことに遭遇しても、どこか「安心立命」でいられるような気がしますね。これがもしかして「武士道」の精神状態の入り口なのかもしれません。ま、まだまだ「命」への執着は捨てられませんが…。
 と、このような実践的、実戦的な効果を発揮してくれた佐山さんのこの本。なかなかすごい出来になっています。天才の言葉は常に「ぶっとんでいます」。長嶋言語やイチロー言語がそうであるように、この佐山言語は、もしかすると常人には理解できない部分があるかもしれません。なにしろ、世の中の意味論や文法論を無視しているところさえありますから(笑)。
 「はじめに」の冒頭の文を引用します。

 刃先まで僅か七十数センチの日本刀。この命をかける真剣の間(ま)が、私たちに日本人の繊細な心に関与してきました。
 恐怖と不動心と礼儀、千年にわたる刀の文化は、今私達に何を語りかけようとしているのでしょうか?

 佐山さんは、その「間」を制御することによって、真実を見よう試みます。それこそが「佐山原理」です。そして、「侍のような強い軸のある不動心をこの国に復活させたい」と言います。
 その後、武士道論、大東亜戦争論、脳科学、生理学、プロレス論、自己催眠術、そして実戦的な格闘技術にいたるまで、まあ、かなり「ぶっとんだ」ことになっていきます。付属しているDVDもまた、実に不思議な味わいがあります。
 しかし、たしかに「佐山原理」は私を変えました。ボウリング次元のことではありますが、たしかに効果がありました。天才の力は、「言葉」や「常識」を超えるということでしょうか。
 今年は佐山さんにも直接お会いしていろいろお話を聞きたいと考えています。甘党だけれど左党ではない(笑)佐山さんへの手土産は、山梨の「黒玉」と、そして…。今から非常に楽しみです。

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2010.04.19

『仕事で使える ヤクザ親分の名言』 山平重樹 (徳間書店)

19862892 にとっての「親分」が貸してくれました。そっちの世界の人ではありません。純粋にこっちの世界の人でもありませんが(笑)。
 私はこのブログで何回も「ヤクザ」を取り上げてきました。もちろんそこにはいろいろな理由があります。基本は「文化」としての「ヤクザ」について勉強してきたつもりですが、結果として「政治」も「経済」も「宗教」も「教育」も語ることになっていましたね。つまり、ほとんど日本の全てを語る際に、彼らの存在は無視できないということです。
 その存在価値と魅力については、なかなか一言では説明できません。ただ裏返しにして言えば、歴史的事実と現代の実態を勉強せず、ひたすら無反省に「暴力反対!」とか「社会のクズは消えろ!」とか「あいつらはダニかゴキブリ!」とか言うバカは軽蔑するということです。たぶんそういう人は、この世から(ホンモノの)ダニやゴキブリがいなくなるとどうなるかということを知らない人なのでしょう。そこまで想像力が及ばないというか、単なる嫌悪感や先入観から、彼らのことを知ろうともしない人なのでしょう。
 ヤクザを語る際に必ず出てくる「仁侠」や「義侠」という言葉。この「侠」という字、最近私の中でブームになっています。この本にもありますが、普通「おとこだて」「男気」と訓まれます。もともとは「金離れが良い」という意味です。「金勘定を無視して行動する」ということですね。
 単純に考えて、現代日本にはこういう「侠」がほとんどいないということがわかります。いつも言っているように、現代の大人たちは、「カネ」という悪神に取り憑かれて、それを拝し、それに翻弄され、人としての心より先に、自分が経済的「勝ち組」になることばかり考えています。もちろん、全部が全部ではありませんが、まず自分を省みてみて、どうですか?多少なりともそういう要素はあるでしょう。
 つまり、現代においては、男は常に有能なビジネスマンであるべきでして、「ヤクザ」なんてのはその対極にあってですね、とことん忌避するべきものなのです。皆そう思うでしょう。それはそうです。そういう風潮(空気)に乗っかっていれば楽と言えば楽ですからね。で、こんな世の中になってしまいました。子どもたちに夢なんか与えられましょうか。
 私は現代の教育現場にいますので、言葉としての「侠」は教えられませんが、「お金より大切なものがある」ということは教えることはできます。「自分を犠牲にしてでも、弱い人、困っている人を助けるべきだ」ということも教えることができます。それはすなわち、ヤクザの本来の生き方そのものでもあるんですね。
 もちろん、「ヤクザ」と「暴力団」は同義ではありませよ。私の言っているのは歴史的な「ヤクザ」、抽象的な「侠客」のことです。そこのところも全部ひっくるめて、害虫化してしまった「暴力団」という造語にも大いに問題がありますよね。おそるべき「言葉」です。そこから、法的にもマスコミ的にも教育的にも、彼らの完全に社会の敵となってしまいました。
 いや、「暴力団」という名称は当局によって作られたフィクションではありますが、一方でそういう言葉をあてがわれてしまうように腐敗してしまったヤクザ社会の実態もあります。そこのところは、いろいろ単純化して考えられない歴史があるわけですね。ただ「言葉」というフィクションによる差別には私も抗いたいと思うわけです。この「不必要善(偽善)」ばかり横行する現代社会において、本当の意味での「必要悪」を再評価したいのです。
 ところで、この本を読んで、数々の「親分の名言」を味わっているとですね、どうにも宗教的な気持ちになったから面白い。つまり、「禅」の高僧の言葉のように感じてくるんですよ。
 先ほど、「侠」とは「金離れ」だと書きました。「カネ」は私たちの煩悩の権化のようなものです。そこに執着しないということは、まさに禅的な「自己を捨てる」ということにつながります。
 そして、それをさらに現実世界でつきつめ、究極的に高度な境地に至っているのがヤクザの心理です。つまり、「自分の命にこだわらず、他者のためにいつでも死ねる」ということですね。我々の最大の敵、究極の煩悩、最強の執着は間違いなく「自分の命」なのですから。それをいとも簡単に捨ててしまう彼らは、禅的にも最高の境地に達していると言えましょう。
 ある禅の高僧は死ぬるいまわの際において「死にたくない」と言ったと聞きました。それに対して、瀕死の重傷を負いつつ「オレよりカタギさんを先に」と言った田岡組長や、「俎にゆたりと鯉の昼寝かな」と辞世を詠んだ尾津組長、「仁侠は己を捨てることなり」と喝破した牧野会長や、「仏心のない者は人にあらず」と説いた石井会長、いったいどちらがホンモノの修行者なのか分からなくなってしまいますね。
 善悪清濁全て含めて、世の中を動かしてきたのは、そうした真理を追求した修行者たちだったのです。彼らの据えた「肚」や、通した「筋」は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか。「法律」というフィクションによって完全に抹殺されてしまったのでしょうか。残念ですし、不安です。
 最後に、この本でも紹介されていた一休の道歌を紹介します。浜本最高顧問の座右の銘でもあったと言います。
 「心こそ心まよわす心なり、心に心、心ゆるすな」

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2010.04.18

天才たちのデビュー戦

19_8_06_40 日はいいものを見せていただきました。我が中学校の女子バスケットボール部の初公式戦。
 相手は県のベスト4に入る強豪校。もちろん、向こうは3年生中心の最強布陣。こちらは10日前に入学したばかりの新1年生のみ。ほんの少し前まで小学生だった生徒たちです。
 結果は…50対56で惜敗。う〜ん、素晴らしすぎる試合でした。久々に心震える応援をさせていただきました。若さ、ひたむきさ、純粋さ…高校生とはまた違う美しさがありますね。
 中学3年生と1年生とでは、まず体の大きさが違いすぎます。まさに小学生と高校生が試合をしているような感じ。それでも当たり負けしていませんでしたし、気持ちの面でも伸び伸びとできていたように感じました。
 相手は逆にプレッシャーがあったんでしょうね、なかなか自分たちのペースに持っていけないもどかしさを感じていたようです。
19_9_58_02 本格的に全国レベルの高校生と一緒に練習を始めて10日。たった10日の中でも、ものすごい吸収力で一気に伸びたようです。だって、考えてもみてください。ほんの少し前まで、ミニバスをやっていたんですよ。ボールの大きさも、ゴールの高さも違います。そして、なにしろ相手の大きさ、強さ、早さが違います。それなのに、ここまで対応して、強豪相手に互角の勝負を展開できるなんて…。
 実際、そのミニバス界の最強メンバーが集まってきたというのもあります。別に彼女らをスカウトしたわけではありませんが、結果として、「あの憧れの高校の先輩と一緒に練習したい」と思った子供たちがみんな集まってしまいました。はっきり言って、私としては想定外の事態でした。しかし、「勉強」中心の都会の中高一貫校とは違うコンセプトで創立した学校ですから、これはこれでありがたいことでした。とにかく何かに一生懸命な生徒を集めたかったので。
 それにしても、本当に素晴らしいスタートを切ることができました。いったい彼女らはどこまで伸びるのでしょう。とても楽しみです。まずは2ヶ月後の総体予選ですね。またまた大化けしてくれることでしょう。
 天才たちのデビュー戦というのは、特別なものがあります。その後の可能性を感じるものですね。最近では、松坂のプロ野球デビュー戦が印象に残っています。古くは、あの長嶋茂雄さんの4打席4三振!ああいう可能性の見せ方もあるんですよねえ。
20100419_100711 それから、私のフィールドですと、初代タイガーマスクのデビュー戦ですね。1981年4月23日蔵前国技館です。当日まで、佐山聡さんは、自分が何をするのか知らなかったとか。当日いきなりあのマスクとコスチュームを見せられて、そしてあのダイナマイト・キッド選手との名勝負を繰り広げ、世界中を震憾させ、プロレスの歴史を一夜にして変えてしまいました。
 今回の我が生徒たちは、おおげさでなく、それくらい大きなインパクトを残しました。私の中では。
 学校長の考えた言葉「可能性を輝きに変える」の意味が、今日よく分かったような気がしました。そして、私たち教員の責任の重大さもまた強く感じたのでありました。やりがいのある仕事ですね。

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2010.04.17

レミオロメン 『花鳥風月』

4988064360321 っとこのアルバムを紹介できます。春になり、桜が咲き、うぐいすが鳴き、暖かい風が雪を溶かし、そして今日とってもきれいな三日月が出ていました。ここ富士北麓にも、ようやく「花鳥風月」の季節到来です。
 3月3日に発売され、もう1ヶ月以上経っているのですが、正直ほとんど聴いてこなかったのです。レミオロメンの届けてくれた新しい曲をしばらく聴かないということは、私にとってはかなり特殊なことですが、今回は魂レベルで彼らの言葉と音楽を拒否してしまっていました。こんなことってあるんですね。
 その理由はこちらにも書いたとおりです。昨年のクリスマス、フジファブリックの志村正彦くんの突然の訃報以来、生きていることの喜び、不思議、そして明日を輝かせるための命というものを、素直に受け入れられなくなっていました。特に同郷(とは言っても対照的な土地柄ですが)、同世代のレミオロメンの姿を直視できない日々が続きました。ま、単純にどんより暗く寒い日々が続きすぎたというのもありましたがね。
 実は今日、朝起きたらなんと20センチ近い雪が積もっていたんです。おかげで中学は休校になりました。出勤するのも大変なくらいの大雪だったのですが、お昼前からは暖かい陽射しが戻り、どんどん雪は流れる水となり、土にしみ込み、蒸気になって天に戻っていきました。太陽の力、太陽の愛のようなものを強く感じました。春だなあ。雪をかぶってこうべを下げていた満開の桜たちも生き返ったぞ。おっ、そうだ、レミオロメンを聴こう!
 もう一つ、今日このアルバムを紹介する理由があります。今日、ある大切な友人の結婚式があったのです。私は仕事のために出席できなかったのですが、カミさんが大雪の中、早朝に東京へ向けて出発しました。
 その女性と私たち夫婦は、本当に不思議なご縁で出会い、お互いにいろいろな奇跡を与え合う深い仲になりました。そのきっかけを与えてくれたのが、レミオロメンの3人だったのです。全くの他人であり、出会う可能性など微塵もなかった方と、ここまで大切な関係になるなんて、まさに奇跡です。レミオロメンに感謝。
 私たち夫婦は常にその方の人間性に触れながら、彼女の幸せを願っていました。そして、今日、いろいろなことを経て、見事運命の人とゴールインされました。式に出席した家内からの電話によれば、本当に感動的だったとのこと。そんな「幸せ」と、このアルバムは見事にシンクロしているような気がします。
 本当におめでとうございます。そして、ありがとう。これからもよろしくお願いします。幸せになっちゃってください!
 このこと一つ取っても、私たちがいかに他者によって生かされ、また音楽や言葉というのも、情報としては変化がなくとも、常に私たちの気持ちによってその存在価値が変化させられていることが分かりますね。だから、私はいつも言うんです。「コトよりモノ」って。私たちの本質は常に変化する「モノ」なんです。
 さてさて、こんないろいろな感慨の中で聴く「花鳥風月」ですが、彼らもこの10年の中で激動を味わい、自分たちを見失いそうになり、苦しみ、そしてこういう境地に至りました。先ほどの流れでいいますと、一時期の彼らはまさに情報たる「コト」にこだわりすぎていたんですよ。こういう音楽を作らなきゃとか、こういうキャラクターの自分たちでいなくちゃとか。このアルバムで、ようやく自然な、つまり固定化されない「モノ」としての自分に還ってきたという感じがしますね。そして、その回帰のベースにあるのは、あの山梨の、御坂の風景ですね。「花鳥風月」…それです。東京で見失ったものが、やっぱり故郷にはあった(結果としては「東京」にありがとうなわけですが)。古くは「もの」という言葉は「自然(人間以外)」と同義でしたから。
 音楽にもそれが象徴されています。今回はセルフプロデュースということで、あの「仕事(コトを為す)」の鬼、音楽職人小林岳史さんから巣立ったのが大きいでしょうね。彼の才能はケタ違いですが、しかし、心に残る音楽を作れないというのも事実なんですよね。うまいなとは思いますが、ベースになっている「人間」を感じさせないタイプなんですよ。まずは、そんな小林さんから離れて、3人の人間性や人生がストレートに出てきたのが良かった。
 このアルバムでは、久々に彼ら3人の音が一つ一つ全部リアルに聴こえてきました。藤巻くんの唐突な「非和声音」で「えっ?」と思わせるギター、そして、「ether」以来の「四七抜き」メロディーの多用。ある意味それって西洋音楽じゃないんですよ。民謡、民族音楽のあり方ですよ。御坂の音です。
 前田くんのベース、いつもほめてますが、今回はまた特にいいですねえ。彼のベースラインの作曲能力は業界でもトップクラスでしょう。ポール・マッカートニー並みになってきましたぞ。間違いなく彼がレミオロメンの音楽を引っ張っていますね。
 そして、神宮司くんもいい味を出しています。彼のドラミングというのは、適度に脱力している「天然系(?)」でして、そこが、なんというか、レミオロメンをロックから解放する結果を生んでいると思うんですよね。だいたい叩きすぎるドラマーが多い中で貴重な存在とも言えます。前田くんとのリズム隊としての絶妙なバランス(アンバランス?)が、変に洗練されていない「田舎」な懐かしさを生んでいるような気がするのは私だけでしょうか(笑)。
 歌詞の世界については、昨日のBUMP OF CHICKEN 『HAPPY』にも書いたとおりです。我々の生活の中の、日常の中の、リアルな人間関係の中に、「愛」と「幸福」を求める、願う、そういう詩です。いや、最近は「詩」の要素は減ってきているかなあ。初期と比べると、ちょっと全部言いすぎな「散文」という感じもしないでもありませんが、それが我々にとっての「気づき」につながっているから、それはそれでいいでしょう。
 多くの人が感じているように、「おかえりなさい」というべきアルバムですね。特に山梨の人間としては、これは実にうれしい贈り物となりましたね。この前久々に御坂の桃の花を堪能しましたが、また近いうちに再訪しようかと思います。今度はちゃんとこの「花鳥風月」を聴きながら!

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2010.04.16

BUMP OF CHICKEN  『HAPPY』

 ンプの新曲を聴きました。シンプルだけれど疾走感と爽快感ある演奏はいつもどおり彼ららしい。ただ、彼らも31歳の年回りですから、それなりに大人になったかなという印象も持ちました。Happy Birthday というのは、藤原くん自身への祝福なのでしょうか。彼、4月が誕生日ですよね。
 音楽的には、今回の曲は特に新しさというものはないとも言えます。いつもながらの藤原節ではあります。サブドミナント指向の強い、つまりゴスペルチックなコード進行、そして浮遊感のあるメロディー。アーメン終止。
 ただし、Cメロ(サビ)への短三度転調(バロック・チューニングなので、実質的にA→C)は、90年代くらいから使い古された感があります(ジャニーズなどでもよく聞かれます)。私なんかだと、いじわるというか、性格悪く「ああ、またか」と思ってしまいます。これは別に非難というわけではないのですが、その転調にどういう意味があるのか、理解できないこともよくあるのです。
 まあ、この曲の場合、藤原くんらしい哲学的な、あるいは逆説的な、歌詞の重要部分に対する注意喚起という効果を考えてのことでしょうから、私が素直に聴けばいいだけですけれど(笑)。
 そう、その逆説的な歌詞ですが、言ってしまえば「何がHAPPYなのか!?」という、藤原くんらしい禅問答のような言葉が並んでいますね。彼の歌詞はいつも饒舌です。詩というよりも物語とでも言いましょうか。
 禅問答と書きましたが、実際のところ、彼の「愛」の表現はとってもキリスト教的なんですよ。はじめに言葉ありき。
 そうですね、分かりやすく、私がよく聴いている同年代のバンド、なぜかそれぞれ微妙にご縁をいただいている三つのバンドを比較してみましょうか。それぞれの「愛」の表現方法が違います。
 「愛」というのは結局、ジョン・レノンが言っているように「愛されたいと望むこと」であって、たぶん「自己愛」「愛されたい欲望」「孤独感」と同義だと思います。それを前提に考えてください。
 フジファブリックの志村正彦くんは、それをそのまま「欲望」としてストレートに表現するタイプです。解決策を作り上げるのではなく、その孤独感や欲望を直視し、それらと真正面から対峙します。そこが彼の魅力であり、強さだと思います。
 レミオロメンの藤巻亮太くんは、恋人や家族、友人といったリアルな人間関係の中に、そうした「愛」の充足を求め、いや、事実「愛」を感じて歌を紡ぐタイプです。その実感に根ざした幸福感が、個人に内在する孤独感に勝っているのです。それが、ある種の安心感を与える要因となっています。これもまた言葉と音楽の魅力の一つですね。
 そして、バンプの藤原基央くんはどうかといいますと、彼は不特定多数の誰か、あるいはみんなと一緒に、その孤独や恐怖や欲望と闘っていこうと標榜します。それはある意味「共同幻想」によって個人を克服していく、近代ヨーロッパ的な感じもします。非常にキリスト教的です。彼らのライヴに参戦…いや、参拝(?)してみて、それを強く感じました。そこが、ある人々には、一種の「偽善」に感じられるかもしれません。生徒の中にも、「気持ち悪い」と言って拒否する者がけっこういたりしますね(笑)。
 私は、志村くんの仏教の修行僧のような「愛」も、藤巻くんの神道的な母性を感じる「愛」も、また藤原くんのようなキリスト教的な父性の「愛」も全部理解できますし、好きですし、必要だと思いますから、別にどれが一番ということはありません。私にもいろいろな側面があり、局面があります。それぞれでそれぞれに感動し、励まされているのです。
 面白いのは、そうした「言葉」による「愛」の表現と、音楽自身とが実に密接に関係し合っているということですね。彼らは全て、その言葉に最もふさわしい曲を書きます。そうした事実こそが、私には「コトの葉」と「モノの音(ね)」のコラボレーションそのものに感じられ、「歌」の原点を思い出させてくれる機会となるのでした。
 言葉と音楽の波動が共鳴したとき、こういう力のある、聴く人の人生を動かすような「歌」が生まれるのですね。そういう意味で、バンプもいい仕事をしていると思いますよ。西洋近代音楽が忘れてしまった「歌」の精神を、彼らはしっかり継いでいます。
 あっそうだ。肝心なことを書くのを忘れていました。
 何がHAPPYなのか!?…
 これは、「これほど容易く日は昇る」ということでしょう。私たちがいろいろ悩んだりギクシャクしたりしても、自然はいつもスムーズにその役割を果たしていて、そして幸福なのです。それに気づけば、私たちの日常もまたHAPPYになることでしょう。

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2010.04.15

SKAGEN 腕時計

233lssnb っと使っていた腕時計の電池が切れたので、新しいものを買うことに。いろいろ迷った結果、5000円ちょっと出してこの青い腕時計を購入しました。デンマークの製品です。
 お金がないので、まずは「安い」というのが選択の条件でした。
 しかし、自分なりのデザインのこだわりというものもあります。特に「シンプル」であるということ。毎日身につけるものだからこそ、洗練されたシンプルさというのを求めたくなります。
 そこで、今回注目したのが、このデンマークの新興時計会社である「スカーゲン」です。
 最近は、雑誌などにも取り上げられることが多くなり、だいぶ日本でも認知されてきた会社です。
 「デザインの美しさと品質の高さは必ずしも高価である必要はない」
 これが日本でのコンセプト文です。なんだか直訳調で妙な日本語ではありますが、言いたいことは分かります。私の望んでいることに合致していますよね。
 で、実際スカーゲンの腕時計ラインナップを見てみますと、たしかにセンスがよろしい。全体に「シンプル」ですし、薄くて軽そうですし、ベルトを含めて全体のフォルムのバランスやラインの構成が絶妙です。
 スカーゲンとは、デンマークの北部にある街の名前だそうです。デンマークは言わずと知れた「デザインの国」です。特に工業デザインでは世界をリードする存在ですね。
 戦後、ヘニングセンやエンゲルハート、ウェグナーやヤコブセンといった、建築界でも名を馳せた「職人」たちが、家具や日用品のデザインにおいても、トータル・デザインとしての「デニッシュ・デザイン」を確立しました。
41wrydje5bl1_aa300_ 私はシロウトですので、あんまり詳しいことは分かりませんが、彼らに共通していたのは、デンマークの伝統的工芸品の感性、すなわち「シンプルなものを長く使う」という考えであったような気がします。
 今やアメリカやヨーロッパはもちろん、日本のデザイン界にも大きな影響を与えるようになったこのデニッシュ・デザインは、こういう時代になって再び大きな意味を持ってくるものと思われます。
 実際製品が届きまして腕につけてみました。最初に感じるのはやはり「薄さ」です。ステンレス・メッシュのベルトが肌に心地よくフィットします。この233LSSNは、スカーゲンの中でも廉価なものですから、決して特別な高級感があるわけではありません。しかし、日常生活の道具としては、身につけていて気持ちがいい、そういう「風情」があります。これはやはり私たちの感性に訴える「デザイン」の効果でありましょう。
 他の製品、シリーズをカタログで眺めるだけでも楽しい気分になりますよ。皆さんもぜひご覧下さい。決して高い買い物ではありませんから、ぜひ気に入ったものがありましたら実際に身につけてみてください。デザインの力を再認識することでしょう。

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SKAGEN公式

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2010.04.14

祝!フジファブリック ニューアルバム制作・発売決定!

News_large_sfujifabric_fujiqart 日「いつもの丘」で感じた前向きな予感が、こういう形で開花し、そして結実するとは!
 今日、フジファブリックのニューアルバムが制作中であり、7月下旬にリリースされるということが正式発表されました。また、ニューアルバム発売に先駆けて、シングルコレクションやDVDボックス、また書籍なども発売されるということです。
 これはファンにとってはもちろん、志村くんにとっても、まさに春爛漫の朗報ですね。
 彼が亡くなった時、彼のMacやボイスレコーダーの中には、たくさんの新曲の種子が詰まっていたと聞きます。その種が、メンバーやスタッフ、ファンの皆さんの愛情をたっぷり受けて、この春に芽を吹き、そして夏には花開いて実を結ぶわけです。感無量です。今からドキドキしますね。いったいどんな曲を、そしてどんな歌声を聴かせてくれるのでしょう。
 見えなくてもそこにある富士山のように、彼の姿は見えずとも、やはり彼はここにいるんですね。そして彼は、今でも前に向かって歩いているのです。私たちも置いていかれないように、ちゃんと歩いていかなければ。
 3人のメンバーも、たぶんいつもと同じように、志村くんの作ったデモを聴き、いつものようにアイデアを出し合い、作品に仕上げていっているのでしょう。そういういつものプロセスを経て、自然な「フジファブリック」が産み出されているに違いありません。
 きっと期待を上回る「名盤」になりますよ。今のうち覚悟しておきましょう!

フジファブリック公式

ナタリー

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2010.04.13

「いつもの丘」の春

↓click!
Imgp1623 んまり天気がいいので、お弁当の時間、中学校の生徒たちを連れて、忠霊塔に登りました。ぽっかぽかの太陽と満開の桜の下、そして雄大な富士山を仰ぎ、さらには眼下に我らが富士吉田を見下ろしながら食べるお弁当は格別。
 昨日の私のウチのあたりは、最高気温2度(!)だったのですが、今日は20度越え。凍える真冬から一転して汗ばむ初夏の陽気。体もビックリしてしまいますね。
 午前中は七分咲きかなあと思われた桜が、午後には一気に満開になりました。まさに念ずれば花ひらくですね。昨日の我慢が一気に爆発してすごいパワーを感じさせます。
Imgp1616 そんな力を秘めた初々しい桜の花たちに負けない、新しい中学の新しい生徒たち。みんな元気にあの階段を上って、キャッキャキャッキャと楽しそうにお弁当を食べていました。
 みんな、あの富士山を眺めながら、何を想い、何を心に誓ったのでしょうか。
 そう、忠霊塔と言えば、フジファブリックの「浮雲」が思い出されますね。あの名曲の歌詞に出てくる「いつもの丘」とは、ここ新倉浅間神社公園のことです。地元の人たちは「忠霊塔」と呼び習わしています。
 標高830メートルくらいですから、「丘」というより「山の中腹」ですね。徒歩で上るのにはそれなりの根性がいります(私は根性なしなので、今日は車で上っちゃいましたが)。志村くんは、地元に帰ってくると、いつもこの「丘」に上ったそうです。帰りの電車の時刻の1時間ほど前に家を出て、どこに行くのかと思えば、必ずこの「丘」に上り、そして我が街を一望し、富士山を仰ぎ、志を確かめ、気持ちを改めて行ったと言います。
20100414_63859 それにしても素晴らしい歌詞ですね。まさに文学の香りがします。文学だけれども、事実に根ざした、リアルから吹き出した力がある言葉たちです。そこにあのメロディーですから…やっぱり天才でした。
 この歌詞に出てくる「いつもの丘」は今日のような天気には恵まれていません。昨日の忠霊塔は、ちょうどこんな感じだったかもしれませんね。雨の忠霊塔もいいものです。富士山が見えない富士吉田の街は、なんとも寂しいものなのですが、しかし、富士山は見えなくともそこにあるのです。目標が見えなくなる日も来ますが、それでもそこにあると信じて歩いていくことが大切なのですね。そういう時にこそ「独りで行くと決めたのだろう」と確認すべきなのかもしれません。
 上の写真にも改装中の「市民会館」が写っています。彼がこの丘から見下ろし、「ここでライヴをやるんだ」と決めたその夢は2年前の5月18日に叶いました。改装後のこけら落としもフジファブリックに、という話もあったと聞きます。いやぜひそうしてもらいたいですね。彼もきっとそれを望んでいるでしょう。
 こうして考えていくと、この「浮雲」と、少し前に紹介した「エイプリル」は、深い関係にあるということが分かってきますね。4月はやはり出会いの月であるとともに、旅立ち、独り立ちの月なのです。生徒たちもある意味自立のスタート地点に立ったわけですね。
 そんな大切な場所、天才が「独りで行くと決めた」場所に、これからまさに人生の岐路を迎えるであろう教え子たちを連れてくることができて良かったと思います。
 今回は特にそういう話はしませんでしたが、いずれ時が来たら生徒たちにも、地元に志村正彦という、こういう青年がいて、こういう素晴らしい作品を残したんだということを伝えようと思っています。
 それにしても、志村くんにこの桜を、富士山を見せたかったなあ…。いや、きっと彼は中学生と一緒に、ここにいたと思います。うん、きっといた。

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2010.04.12

Vibes 『Vibes』・『VibesⅡ』

3116wd8w8cl_sl500_aa300_ 日、一昨日の記事で、「花より団子」を体現していたウチのカミさん。まあ、あんな感じの人間なのであります。私は「団子より花」派ではありますが、しかし、なんというか、私たち二人は変に似ているところもありまして、はたから見ると実におめでたい夫婦と映るようです。
 たしかに、二人とも悩みらしい悩みはないし、常に必要以上に前向きという気もします。そんな二人がタッグを組んでからというもの、ずいぶんと不思議な、そして面白いことがたくさん起きています。
 特に「憧れの人に会う」ということに関しては、なんだか二人で競い合っているかのような感じです。2ヶ月に1回くらいの割合で、不思議なご縁に恵まれるんですよね。その一部はこのブログでも、ちょっと自慢気に(笑)書いたり、ツーショット写真を載せたりしているので、「ああ、またか」と思われている読者の方も多いかもしれません。
37504047_1778776564s_3 で、団子が「これも書け!」というので、しかたなく(笑)書きます。つい最近のことです。その写真はこちら。
 誰か分かりますか?ちょっとマニアックでしょうか。この方は、シンガーソングライターの陣内大蔵(じんのうちたいぞう)さんです。主に90年代に活躍された方ですよね。私はその頃、全く現代日本の音楽を聴いていなかったので、CM曲やドラマ主題歌くらいしか知りませんが、なんでも団子は家元離れて下宿していた高校時代に大好きだったのだとか。
 そんな20年近く前の憧れの人に、つい最近会うことができたのであります。それも、あまりに簡単に。そう、ウチの場合、なんかそういう憧れの人が勝手にこっちに来ちゃうようなところがありまして、まあ、たしかに「突撃力」もあると言えばあるのですが、まずそういう「突撃」可能な距離まで、勝手に「憧れ」が近づいてきてくれるというのも事実です。
 今回も、ホント全くの偶然と言えば偶然でありました。団子がゴスペルなどを歌うために通っている教会がありまして、そこの牧師さんにたまたまあるお寺の住職さんを紹介されたんですよ。そうしたら、そのお坊さん、なんと昔陣内大蔵さんのマネージャーをやっていたことがあると。坊さんがクリスチャンである陣内さんのマネージャーというのも面白いのですが、カミさんとしては「ウギャーッ!」というべき事実だったわけです。「今度ウチの寺で歌ってもらうから、その時は来てください」と言われ、さらに「ウギャーッ!ホッホー!」ということになったわけです。
 職場から歩いて行けるお寺さんなので、ホントは私も行く予定だったのですが、中学が開校寸前ということもあり、団子単独で行くことになって、そして「夢が叶った」と。
 高校時代の憧れの人に会うというのは、ま、ワタクシ「花」からしますと、そうですねえ、富田靖子さんに会うようなものでしょうかねえ。そう考えると、たしかに興奮するのもわかるぞ(笑)。ワタクシ、静かに熱く富田靖子さんの写真集とかLPとか集めてましたからねえ。
 ま、こんな感じで、団子は甘酸っぱくも愛おしい自らの青春時代なんどを思い出しつつ、陣内大蔵熱が再燃しているわけであります。それでさっそくいろいろな音源を地下室から引っ張り出してきたりして、あのガンガンの90年代サウンドを家中に充満させております。
 私は正直、あの時代の「スカスカ」に「バブリー」な音作りがあんまり好きではありません。でも、たしかに歌はお上手だと思いますよ。期せずしてその歌声を生で間近に聴いたカミさんは、「ますますうまくなってた!」と興奮気味でありますが。
31y1hczyn2l_sl500_aa300_ そんな部屋中に充満している彼の音楽の中で、私が許せる(失礼)と思ったのが、彼がヴォーカルを担当していた伝説の(?)バンド、「Vibes」の2枚のアルバムです。
 これって、ある意味、ジョニ・ミッチェルの『シャドウズ・アンド・ライト』ですよね。だって楽器隊のメンバー見て下さいよ。

斎藤ノブ (percussion)
難波弘之 (keyboard)
小林信吾 (keyboard)
野呂一生 (guitar)
松原秀樹 (bass)
江口信夫 (drums)
陣内大蔵 (vocal)

 さすがに、こ、これはすごいでしょ。日本を代表するミュージシャン。誰もがひれ伏しますよね。日本のポップス、ロック、フュージョンを作り、支えてきた重鎮中の重鎮が揃いも揃っている。そんな中で真ん中に立っている陣内大蔵さんて…やっぱりすごいんだな。
 私なんか、ついつい楽器の方に耳が行ってしまい、「うわぁ!なにこのベース」とか、「さすが野呂さん!」とか、「このキーボードはどっちだ?」とか、「強力すぎるぜ、このリズム隊」とか、そんな感想を漏らしてしまうわけです。そうすると、カミさんは「歌は?」と不満そう。いや、歌も悪くないんですが、やっぱり私は楽器人間なので、ついつい。カミさんは歌人間ですからね。ということは、「花」が楽器で、「団子」が歌ってことかな(笑)。
 なんだか、カミさんは、今度は歌で共演するとか言っています。でも、これが実際に実現してしまうのが、ウチの夫婦の恐ろしいことでありまして、今までの流れで行きますと、近いうちにそういうことも起きてしまいそうな予感がします。まったくもって幸せな、おめでたい人生でありますな。

Amazon Vibes VibesⅡ

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2010.04.11

2010年春、花の旅(2日目)

 日に続きまして、春の山梨「花の旅」です。
 朝食後、常磐ホテルの庭園を散策。今日も写真メインでいきます。

↓ミツバツツジも満開。コノハナサクヤヒメの分霊降臨。
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↓井伏鱒二ゆかりの欅の木。「根」を感じます。
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↓竹の子も顔を出す。ここにも「根」を感じますね。
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↓途中「王仁塚の桜」を横目に眺めながら、北杜市(旧武川村)の実相寺へ。
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↓枝垂れ桜もお見事。
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↓水仙の黄色と桜色の対比が美しい。
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↓これが有名な「神代桜」。たしかにすごいオーラ。
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↓やっぱり「念ずれば(耐え忍べば)花ひらく」だよなあ…。
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↓でもやっぱりママは「花より団子」(笑…拡大不可)。
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 以上、本当に素晴らしい「花の旅」でした。パワーをいただきました。
 明日からまた頑張るぞ〜!

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2010.04.10

2010年春、花の旅(1日目)

 「ずれば花ひらく」…昨日は、そんな話を書きました。今日、明日はそんな「念力」が開花している現場を訪ねます。富士北麓はようやく花の季節がすぐそこまでやってきたという感じですが、甲府盆地の方はまさに今花盛りです。
 実は、父親の傘寿の祝いを甲府のホテルでやることになりまして、今日、静岡から私の両親がやってきたんです。富士山は寒い寒いと言っておりました。では、さっそく春爛漫の国中地方に行きましょうということで、新しく抜けた「若彦トンネル」を通って芦川から八代へ。そして、レミオロメンの里御坂を通って(昨年は恒例の埋草神社参拝で奇跡が!)、一宮、勝沼、塩山と、まさに「じっと我慢していたものが爆発している」現場を堪能いたしました。
 今日は文章よりも、とにかく画像で見ていただきましょうね。

↓勝沼は、その名も「休息」というところの桃畑でしばし休息。
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↓可憐な桃の花をアップで。
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↓タンポポほか小さな花たちも精一杯咲いてます。
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↓塩山向嶽寺の桜。
先日の開校式・入学式では管長様にお世話になりました。感謝。
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↓向嶽寺とは対照的な恵林寺。同じ臨済宗でもこうも違うか(笑)。
商売、商売。そして「花より団子」(拡大不可)。
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↓花びらが池水を覆う。
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↓放光寺駐車場の桜の木の下でブランコに興ず。
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↓放光寺駐車場が正直一番きれい?
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↓甲府は湯村温泉「常磐ホテル」到着。庭園が素晴らしい。
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↓富士山をバックに夕食の「お品書き」をチェックするカミさん(拡大不可)。
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 以後、宴会に突入。とってもおいしいご飯をいただき、温泉に入って、お酒をたらふく飲んで、おやすみなさいでした。

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2010.04.09

「念ずれば花ひらく」…冬から春へ

Img_0369_2 の写真は、昨日の朝のものです。開校式・入学式の朝、実は我が家の周辺は銀世界だったのです。ご覧のように、せっかく顔をのぞかせていた土筆たちも、すっかりこごえていました。
 カミさんの実家のある東北地方などもそうですが、こうした厳しい冬を乗り越えた自然が、ためこんだエネルギーを爆発させる春は、これはまた格別のものがあります。
 私の生まれた静岡などは、年中春か夏みたいなところですから、この春の爆発力は感じられませんね。つまり、ある意味「我慢」が足りないんですよ。いや、もちろん、だからこそあそこは「天国」なんですけどね。
 私は山梨の郡内地方に住むようになって、この、春の爆発力を初めて知りました。じっと我慢の冬が終わって、ぱっと花開く春が来る。これは私たちの人生にも重なるところがあるんですよね。もしかして、静岡から大人物が生まれないのはそれが原因かもしれません(失礼)。
Img_0371 右の写真は、昨日富士山から下るスバルラインで撮影したものです。満開の桜ではありません。雪をかぶった木々です。しかし面白いもので、ここから数十メートル下ると、もう雪はありません。結果として、私の車だけが雪を積んで走っていて、ちょっと恥ずかしいことになります。あいつどこから来たんだ?的な視線を感じます。学校に着くとみんなに笑われます。
 学校のある富士吉田市では、桜が三分咲きくらいになりました。昨年の記事を見ていましたら、10日に志村く〜ん!「市民会館」の桜、満開ですよ〜!と書いてましたから、今年は昨年よりはちょっと遅めなんでしょうかね。
 いずれにしても、開校式・入学式に合わせてたくさんの花が開き始めてくれましたことに感謝します。今年は特に一生懸命咲こうとしている桜の輝きが強く心にしみましたね。そんな気持ちを込めまして、今日、クラブ紹介において、後輩の先生のチェロと私のヴァイオリンで、レミオロメンの「Sakura」を演奏いたしました。
 昨日の記事にも「念ずれば花ひらく」と書きました。この言葉は、仏教詩人坂村真民の言葉として有名になりました。
 彼の随筆集「念ずれば花ひらく」を読みますと、この「念ずる」という言葉は、単に「祈る」とか「願う」とか、そういう意味ではないような気がしますね。
 皆さんも、高校の古文の時に習ったかと思いますが、古語の「念ず」は「たえしのぶ。じっとこらえる。我慢する」という意味ですね。「〜を念ず」、たとえば「阿弥陀仏を念ず」とか「法華経を念ず」という場合は、「祈願する。呪文を唱える」というような意味になりますけれど、現代のような「成就を願う」というような意味ではほとんど使われません。
 自然の姿を見ていると、まさにそういう意味で「じっとたえしのんでいれば、必ず花が開く」ということを学べますね。我慢している時にこそ、「爆発力」が身についているわけです。
 近代人は、「いかに我慢しないですむか」というテーマを掲げて、科学や工業や経済やその他もろもろの「コト」を作り出してきました。そういう中にどっぷりつかっていると、時折訪れる想定外の「モノ」に対して、じっと耐えたり、それをこらえながらやりすごすことができなくなってしまいます。
 猫なんか、ちょっと体調が悪いと、とにかくじっとしていますからね。現代の人間のように大騒ぎしたりしません。昔の人は、動物や植物に学んでいたのか、いや、単にそういう智恵を忘れていなかったのか、いわゆる「物忌み」ができたんですけどね。
 とにかく、私たちは、何かを生み出すために、あるいは花を開かせるために、もう一度「念ずる」ことを思い出さねばならないのでしょう。自分の快適だけを求めても、結局それが永続的に得られない苦しみを感じるだけに終わってしまうことがしばしばです。もっと、不快や想定外、ある種の痛みなどと、仲良くするというか、それらを単純に敵視して除外、疎外しようとするのではなく、「念ずる」ことによってそれを超克していく方法を学ばなければなりませんね。
 新しい中学校では、それを日常の中で教えていきたいですね。
 …なんて、まずは自分がそういう生活をしなくては。「念力」を身につけないと(笑)。

Amazon 念ずれば花ひらく

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2010.04.08

「おかげさまで」中学校開校

09_16_32_40 日、お釈迦様のお誕生日に、無事に中学校開校式、入学式が行われました。ありがとうございました。
 本当に感無量です。自分自身としても、この長かったような短かったような準備期間のことを思い出しまして、感涙を禁じえませんでした。本当に、この私たちの気持ちを受け取ってくださった1期生の皆さん、そして保護者の方々、陰に陽に支えてくださいました多くの関係者の皆様に、心から御礼を申し上げたいと思います。
 こうして夢が現実になったわけです。学園にとっても、高校にとっても、もちろん私にとっても、大きな大きな夢だった中学校の開校、中高一貫教育の実現です。
 もともと前向きで「なんとかなるさ」の超ポジティヴ・シンキング・マンであるワタクシではありますが、さすがにこの大事業については、多少の(?)不安もありました。しかし、「為せば成る」ということでしょうか。あるいは「念ずれば花開く」ということでしょうか。何もないところからのスタートでしたが、「熱い気持ち」、「大志」、「魂」だけは持ち続けていたつもりです。ある意味それしかありませんでしたから。それを信じてくれた方々に、ひたすら感謝であります。
 いやあ、とにかく中学生は可愛い!純粋な魂を感じますね。高校生の教育もそれなりに楽しく、また意義あるものでしたが、より大きな影響を与えるという意味では、本当に中学生は可愛くもあり、緊張する存在でもあります。私が、中学時代に受けた、たとえば大村はま先生からの影響を思うと、より楽しみでもあり、また身の引き締まる思いもしますね。
 それにしても、中学生、長い長い開校式及び入学式をよくじっと我慢しました。立派でした。ウチの式典は日本一と言ってもいいくらいきちんとした厳粛なものなのですが、そこにいきなり放り込まれた「昨日までの小学生」は、いったいどうなるかと思ったのですが、本当にお見事でした(高校生も立派でしたが)。
09_16_33_03 今回は特別な式典ということで、総勢300名を超えるお客様が参列していました(保護者含む)。そのような緊張感の中で、新入生宣誓を行なった代表の生徒も、実に落ち着いたもので驚きました。開式と閉式の辞を述べたワタクシの方が、(珍しく)緊張して、礼の段取りを間違えたりしちゃって(笑)。
 しかし、本当に手前みそになってしまいますけれど、ウチの式典や集会の厳粛さ、静粛さはすごいですよ。考えてみれば新入生はまだウチの学校の教育を受けていないわけですが、どうして初日からこんなにちゃんとしちゃうんでしょうね。いつも不思議に思います。ついこの前まではけっこう手が焼ける生徒だったりした者も、あの空気の中に入ると変わるんですよね。やっぱり環境は大切です。
 いや、これは環境と言うよりも、まさに「伝統」というものでしょう。別に我々教員が特別な教育を施したり、強権的ににらみを利かせたりしてるわけじゃないんですけどね。積み重ねというのはすごい。目に見えない力になるんですね。今日またそれを実感しました。きっと、お客様も同様な感想をお持ちになったことでしょう。
 この伝統を、中学でもしっかり引き継いで行かねばなりません。これまた、楽しみでもあり、責任重大でもあります。頑張りますぞ。
 式典終了後、場所を移して開校記念の宴が催されました。いろいろな方々から祝福と激励のお言葉&お酒をいただきまして、すっかり疲れも吹っ飛びました。ありがとうございます。
 我が校の名誉校長であられる正眼寺の山川宗玄老大師さまとも、ゆっくりお話をさせていただきました。実は間接的に、いや直接的に、老大師さまにはお世話になったのです。
 どのような中学校にしようかと悩みに悩んで、いろいろとあちこち見学したり、本を読んだりした時期がありまして、そんな時は、まさに路頭に迷うというか、枝葉末節ばかりに惑わされるというか、そういう状態だったんですね。そんな時、私を救ってくださったのが、正眼寺で聞き、目にした請務其本という言葉だったのです。昨年はちょうど、その言葉をお残しになった無相大師さまの650年の遠忌だったというのも何かのご縁でしょう。
09_17_46_05 「請務其本」…枝葉末節にとらわれず、その「根本」しっかりやりなさい…そのことにはっと気づいた私は、その後、自分の進むべき道がはっきりと分かり、自信をもって歩むことができ、この日を迎えることになったのです。
 学校の教育目標は「基本をしっかり、じっくり、たっぷり」としました。人間としての基本、それは勉強やスポーツの目に見える結果や数値にとらわれるのではない、本当に「人を幸せにする」ための「智恵」のことです。「自分が幸せになる方法は一つしかない。それは人を幸せにすることである」という私の信念のもと、そのような目標を中心に置かせていただきました。
 ある意味、ずいぶんと古くさい教育のような気もするかもしれませんね。しかし、私たちは、禅宗のお寺の学校であることの利点を生かし、すなわち先人の「智恵」の遺産を存分に利用させていただいて、時代を超えた理想の教育をしていこうと思っています。
 そんな大切なことを思い出させてくださいました山川老師に、私なりの感謝の気持ちをお伝えしたつもりでしたが、なぜか、「ウチの寺に来ないか」と、そちらの方にスカウトされてしまいました(笑)。
 私、風貌もスキンヘッドで坊さんのようですからね、最初は僧籍にある者と思われたそうです。なんでも、合掌礼拝がプロっぽかったとのこと(笑)。正直、これはかなりうれしいお褒めの言葉でした。お隣の老師さまにも、「若いうちがいいよ!」などと誘われましたが、とてもとても出家する勇気などなく、「いやいや、私は日常生活の中で、仕事を通して修行いたします」と丁重にお断り申し上げました。ま、実際、このブログも私にとってはまさに修行の一部、「公案」にほかなりませんし。
 ま、いずれにせよ、今日は私にとっても、とても大きな節目の日でありました。皆に支えられて、皆に育てられて、今こうしてある自分は、本当に幸せ者であります。このご恩に報いることができるよう、全ての人たちに対して奉仕の心を持ち、日々精進してまいります。
 本当にありがとうございました。そして、皆さん、さらに頑張っていきましょう!

富士学苑中学校公式

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2010.04.07

ServersMan@VPS

Serversman 〜む、どうにも忙しいので今日は簡単に。
 最近使い始めたネットのサービスを紹介します。とは言っても、全然使いこなせてないんですけどね。
 この「ServersMan@VPS」は、基本的には仮想専用レンタルサーバーですが、私はまずはオンライン・ストレージとして使うために契約しました。10GBです。
 私は古いDTIユーザーなので、なんとこのVPSを月105円で使えるんですよ。異常な安さです。一般の方でも490円ですから、こりゃあ革命的な価格破壊ですよね。だいたいその3倍くらいするのが普通でした。なんでこんなに安いのかについては、フリービットとDTIの社長石田宏樹さんがこちらで説明していますからご覧下さい。
 いわゆるクラウド・ディスク(オンライン・ストレージ)としては、機能的にはこちらで紹介した「dropbox」が最強だと思います。私も毎日お世話になっています(無意識のうちに)。iPhoneのアプリとしても重宝しています。もうこれがないパソコン生活は考えられませんね。
 しかし、そのdropboxも、無料では2GBしか使えません。月千円くらい払って50GBにしてもいいのですが、それだとちょっと大容量すぎるなと思っていたんです。そこにこの10GB105円の案内が来たので飛びついたわけです。
 もうこれからのクラウド・コンピューティングへの流れは止められないでしょう。iPadがその流れをさらに早くするのも間違いありません。私が1年半前「クラウド・コンピューティングという物語」で書いた懸念や違和感など、もうどこ吹く風。私自身もいつのまにかその上昇気流に乗らされて、「一番大事なファイルは雲の上へ」というのが習慣になってしまいました。「あなたは神を信じますか?」「はい、もちろん。自分よりは信用できると思いますので」という感じですね。いいのか自分(笑)。
 さて、「ServersMan」自身は、もともと(私にとっては)iPhoneが独自のサーバーになるという、ある意味画期的だけれども、どう使っていいのかよくわからないサービスでした。iPhoneをサーバーにして、独自のホームページを発行できると言われても…っていう感じでしたね。
 でも、これはこれで便利な点もありましたよ。たとえば、iPhoneって、iTunesを介さないとmp3ファイルが聴けなかったりするじゃないですか。それが簡単に可能になったり、もっと単純にUSBメモリーの代わりに使えることを知ってからは、多少お世話になるようになりました。
 ま、これも「小雲」という感じなんでしょうか。どんどん、目に見えない水蒸気のような網目がそこら中に充満してくるような気がします。「つながっていないのにつながっている」という、不思議な実感を我々人間は初めて獲得しようとしているようですね。
 ま、最終的には、人の心と心は、無線で同期したりはできない…と思います…ので、根本的な人類の課題は何も解決しないんですけどね(笑)。

Amazon みてわかるクラウドマガジン

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2010.04.06

桑田佳祐 『声に出して歌いたい日本文学』

 「場が変るというのはこういうことか」というくらい、今までと違う仕事の連続。役職上ナンバー3ですが、上のお二人は高校の方にいらっしゃいますので実質上…ということになります。 
 こうなりますと、今までほとんど「子どもたち」相手だったのが、「大人たち」相手になります。先生方、保護者、業者、県、お上…なるほど、これはある程度想定していたけれども、正直「想定以上」です。ここまで違うと今さらながら「フレッシュマン」の気分を味わえちゃいますね。
 ま、こういう想定外こそ(のみ)進化のチャンスだ!と言って憚らなかったワタクシですから、実はウキウキワクワクやってます。
 しかし、忙しいのは事実なので、こういう時のブログの記事は「音楽の紹介」になりがちです。それを待っている方も多いみたいですけど。
 しかし!これは手抜きではなく、まじで衝撃だったので紹介します。まさに「想定外」「想定以上」。天才だわ、みんな。
 ニコ動入っている人は、こちらで全編連続&歌詞(日本文学テクスト)付きでどうぞ。下はYouTubeです。なにしろ、20分近い力作なので、前編と後編に分かれています。
 こちらにも書きましたが、桑田佳祐さんは「日本語をぶち壊した」人です。その人が「日本文学」を声に出して歌っているわけですよ。これはもうそれだけですごい状況なのであります。
 これって反則じゃないですか。反則というか、我々凡人には「やってみたいな」とは思えても、絶対できないですよ。そんな勇気ありません。私もちょっとだけやってみたことはありますが、とても他人に聞かせられません。なにしろ、それは「名作」の「名文」ですから、その向こうにものすごい思い入れを持ったたくさんの「読者」がいるのです。音楽のカバーでさえ躊躇されるのに…。
 そのプレッシャーを桑田さんはどう乗り越えたか。いや、プレッシャーなんか感じてないところが天才なんでしょう。結果として、本当にとんでもないことになっています。全ての曲が想定外でした。かっこよすぎますよ。今度は「日本文学」をぶち壊しやがった。これぞロックなのかもしれません。
 圧巻は…全部すごいんですけどね…やっぱり短歌を歌ったところでしょうか。これなんか、まさに日本の「うた」の伝統、歴史を、いとも簡単に破壊し、そして再創造してしまったいい例でしょう。やはり、彼にとって日本語は、言葉は、音楽にひざまずくモノに過ぎないのです。これは文化革命ですよ。日本の文化史上初めて「モノの音(ね)」が「コトの葉」に勝ったのです。
 五七調をメロディーに乗せる時の暗黙の「律」を完全に破っています。そして、そこに新しい命が…。なんじゃ、こりゃ!?晶子も啄木も絶対ぶっ飛んでますよ。想定外でしょう。
 これには、「言葉」の天才たちも脱帽ですな。だって、彼らには、こんな「音楽」の才能はなかったのですから。いやはや、ホントやられた。

Amazon 君にサヨナラを(通常盤)

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2010.04.05

卯月

Unohana2jpg 日は「エイプリル」を紹介しました。「April」はもちろん4月のことですが、この英語、語源がはっきりしておりません。諸説あるようです。一説には「aperīre=開く」からとも言われています。つまり、「花が開く」季節という意味ですね。
 日本では旧暦の四月のことを「卯月(うつき・うづき)」と言いました。実はこの語源もはっきりしていません。旧暦ですから、実際の季節感としてはもう少し後になります。初夏ですね。
 そんな初夏の代表的な花、「卯の花(ウツギの花)」が咲く頃というのが一般的な説のようです。ある意味「エイプリル」と同じ語源。
 しかし、考えてみると、「ウツギ」はもともと「空木」であって、「卯木」ではありません。茎が中空なので「うつ」な木と命名されたと思いますから、もともと「卯」とは関係なさそうです。つまり、因果関係が逆で、「卯月」に咲くから「卯の花」となったのでは。
 古く日本では、「卯」はやはり十二支の「卯」、すなわち「うさぎ」というイメージが強かったようです。そうすると、「卯月」も「うさぎ」に関係するのでしょうか。花の方も白くてウサギみたいだったからということも考えられますね。
Img14328128 あと、食べ物の「おから」のことも「卯の花」と言いますね。ウチの娘たちの好物です(マニアックすぎる)。
 これも語源を考えるといろいろと不思議なことが分かります。単純に豆腐の搾りかすが白くて「卯の花」に似ているともとれますが、先ほど書いたように、花の「卯の花」はもともとは「空木」ですから、「空(から)」と「おから」も相関関係にあることがわかりますね。搾りかすのこと自体、「(豆腐の)から」と言いますからね。「空」という語感を嫌って「卯の花」と言い換えたのかも知れません。また、「空っぽ」の反対語としての「得(う)」だという説もあります。
 月の話に戻しますと、もう一つの語源説として「植月」だというのがあります。田植えの月だということでしょうか。これはちょっと無理がありそうですね。「植う」は下二段動詞。その語幹「う」だけで用いられることはありません。この説はおそらくもっともらしい後付けでしょう。
 実はもっと面倒なことがありまして、「卯月」は「二月」の異名だったこともあるんですよ。こうなるともう何がなんだか分かりません。ちなみにAprilも「二番目の月」という意味があったとか。みなさんご存知のように、昔は10ヶ月制だったことがあって、英語の月名も2ヶ月分語源とずれていますよね。分かりやすいところでは、Septemberはseven(7)、Octoberはオクトパスとかオクタゴンのoctで8とか。なんだか面倒くさいことになってますが、いずれにせよ、「卯月」も「April」も両方とも「二月」だったというのが、なんとなく面白い偶然ではあります。
 今、ふと思いついたのですが、もしかして、もっと単純に「卯月=四番目の月」だったりして。「卯」だから「(十二支で)四番目」というイメージが強かったじゃないですか。時間とか方角とかでも使っていましたから。実はこの新説が真説だったりして。

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2010.04.04

フジファブリック 『エイプリル』

 4月は出会いと別れの時です。特に教員という仕事をしていると毎年それを実感します。この前までここにいた生徒たちが、それぞれ違う方に向かって行って、そこで新しい、私の知らない人たちと出会っている。
 このモヤモヤ、ムズムズした気持ちはなんだろう。それは「嫉妬心」かもしれません。自分のものだと思っていた生徒たちが自立していく。私のことなんか忘れてしまう。そんな、ある意味、娘を嫁に出す父親のような気持ちになっているのかもしれません。
 考えてみれば、自分だってまた新しい生徒たちと出会っているに、ずいぶんと身勝手な感情ですよね。
 この曲における「エイプリル」とは、おそらく、そんな、高校を卒業したのちの4月のことではないかと思われます。彼は高校卒業後、周囲の人たちとは違って進学もせず、決まりかけていた就職先も蹴って、音楽のために上京しました。3年で芽が出なければ地元に帰ってくるという条件でした。
 単身上京して、ある意味何もないところから始めなければならなかった、その彼の4月の不安はいかほどのものだったでしょう。友人、仲間たちは、皆、大学というシステムの中に取り込まれて、天国のような桜色の世界にいるわけですから。
 孤独な戦いの始まりが、きっとその1999年の4月だったのでしょう。
 今、世の中は入学式シーズン。そして、東京や甲府の桜は見事に満開です。でも、富士吉田はまだ冬景色。道端の雪はさすがにほとんど消えましたが、富士山はもちろん、周囲の山々にも白いものが残ります。
 そんな、独特の「遅れ」感が、この富士吉田にはあります。この感覚、私もここに住んだり、勤めたりするようになって、初めて知りました。北の地方の遅れとは違った「取り残され」感は独特のものなんです。「違う景色」なんです。
 今日は復活祭。この寒々とした曇り空の下、志村くんも復活してくれないかな、なんて考えていましたが、残念ながら彼のお墓は静かなままでした。イエスはずるいですね。かっこいいことしやがって。
 本当に「神様」は「親切」であって、かつ「意地悪」です。フジファブリックと出会えたことに、私は感謝します。ある意味必要以上に神様は「親切」だったかもしれません。そして、結果として、神様はとんでもなく「意地悪」にもなりました。
 そう、「意地悪」とは、実は「親切」がなければ存在しえないのです。単なる「意地悪」というのはないのです。「親切」の裏返しとしての「意地悪」。「親切」の裏切りとしての「意地悪」。もちろん、その「親切」は、こちらからあちらへの「親切」でもあります。どうでもいいヤツに何を言われようとされようと構いませんが、こちらが「親切」にしようと思っている人が自分の思い通りにならないと、それは「意地悪」ということになってしまいますよね。
 なにげに、この歌詞は深い。「出会い」があって「別れ」があるように、「親切」があって「意地悪」があるのでした。そして、「何かを始めるには 何かを捨てなきゃな」。
 彼は、何を始めるために、一番大切なものを捨てたのでしょう。それは、きっと私たちが知りえない、高い高いステージでの「天命」を全うするためなのでしょうね。
 孤独であることは純粋であることです。「誰か」に助けを求めている「不純」な自分がいても、結局は自分の力で、自分だけで、自分の人生を歩いていった彼。振り返らずに行く彼の、その後姿に隠れた「涙」の一つ一つが、彼の残してくれた珠玉の言葉と音楽なのに違いありません。

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2010.04.03

マタイ受難曲 by 初音ミク

 覚にも号泣…。
 今日は「聖土曜日」、つまり四旬節(受難節)の最終日。明日は復活祭(イースター)となります。
 私のブログも一度昇天しましたが、(翌日)復活ということで(笑)。お騒がせいたしましたが、まあ、イエスもこうして三日後に復活してしまったし、大仁田厚も何度も引退して復活していますし、心のイエス&プロレスラーを目指す私らしい復活劇ということで(ん?ということは、今年はイエスの第一命日がエイプリルフールだったってことか?)。
 先日書いたように、毎年受難節にはいろいろな受難曲を聴きます。今年はバッハ以外にも全く知らない作曲家のものを何曲かNMLで聴きました。それぞれの「受難」や「復活」に関する感覚の違いが、その音楽性に現れていて面白いですね。私のような非西洋人、非キリスト人からすると、いったいどれが正しい(?)「パッション」なのか、正直分かりません。
 ある意味で、バッハのマタイ&ヨハネがすごすぎて、ああいうイメージが染みついてしまっているとも言えますね。あれはあれで、当時の標準的感覚かというと、どうも違うようです。テレマンやバッハの息子たちの受難曲を聴くと、あまりの軽やかさ、明るさに混乱してしまいますからね。
 さてさて、今日は、ここ数日の反省も含めまして、重々しく(?)バッハのマタイ受難曲の一部を聴き直しました。それがこの演奏です。
 いやあ…まじで涙ボロボロになりました。できましたら、転載元である、以下のニコニコ動画の方を見て、聴いてもらいたいですね。こうして、皆さんと感動を共にして(言葉=コメントを共有して)聴くと、また感激もひとしおです。そして、なんと言っても、下コメントの「解説」!まさに神解説ですね!

 しっかしすごいプロジェクトですね。今日2010年の聖土曜日現在、この大曲の第57曲バスのアリアまで完成しています。むむ、このヴィオラ・ダ・ガンバもすごいぞ…。てか、バスミクが…笑。
 この前の受難のコラールもたまりませんねえ。
 あのアルトのアリアもこんな感じ。MMD!
 このうp主というか、作成者の方、すごいですね。通奏低音のリアリゼーションもなかなか見事ですし、音楽の作り方をよく知っていらっしゃる。いくらミクとは言え、音符をただ数値的に打ち込んでも、音楽にならないわけですからね。そうとうの音楽通と拝察いたします。
 あの序曲、オケの部分の作り込みもなかなかです。そして、映像もいいですねえ。少女ミク(子羊)が登場してコラールを歌うところで、なぜか嗚咽してしまいました、私(変態か?)。
 ちなみに合唱が各パート一人ということは、あのリフキンの学説に則っているということですね(笑)。
 いや、冗談抜きで、これは音楽史上に残る偉業ですよ。この人類史上最高の音楽、芸術をこんな形で聴くことになるとは…。それをやってしまう「日本人」とは…。これをやられて全く揺るがないどころか、更に輝きを増すバッハとは…。そして、おそるべし「初音ミク」!そしてそして、日本の「オタク」たち!!
 バッハはいったいこのプロジェクトをどんなふうに感じるのでしょうか。ある意味究極的に抽象的な音楽に没入していった彼のことですから、案外好みかもしれませんね(笑)。基本オタクですし、小川さん。
 それにしても、このニコ動の解説、勉強になるな。リアルタイムでこうしてテキストと対訳と解説を読めるというのは、実に新しい、一つの理想的な音楽観賞法ですね。感動です。すごい時代になったものです。そして、なぜだか日本人に生まれて良かったなあと感じた、今日聖土曜日でありました。

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2010.04.02

新しい席から見る富士(ブログ再開?)

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 日は4月1日、エイプリルフールでした。それにちなんだ私の記事に、皆さん、見事に空気を読んで、感動的なコメントをありがとうございました(というか、ごめんなさい)。
 とりあえず今日、席はそのままでしたので、あっちはウソではなかったようです。しかし、そのくらいでひるんだり、めげたりするほど私はヤワではありませんし、だいいち私からこのブログを取ってしまったら、正直何も残りませんよ。立場が変ろうと、私の信念は変りません!今までどおり「本当のコト」と「大切なモノ」と「魅力的なヒト」について書き続けます。
 だから、「お疲れさま」なんて言わないでくださいよ〜(笑)。
 上の写真は、タイトルどおり、新しい私の席から見える富士山です。数日前に撮影したものです。どうです?本当に素晴らしいでしょう。観音様の背中越しにこの富士山ですからねえ…。
 いつかも書きましたとおり、この富士山は、フジファブリックの志村正彦くんがいつも見ていた富士山そのものです。このあたりが、名曲『陽炎』の「あの街並」ですし、ここのすぐ裏に、少年正彦が英雄気取りした「路地裏」があり、飛び出した「家」がありましたし、そう「駄菓子屋」もありましたし、「隣のノッポ」の家もありました。
 そして、この富士は、太宰治の「富嶽百景」のあの名文に登場する「月夜富士」そのものです。たしかに、月夜にはポッカリ浮かびます。富士吉田においでの際には、ぜひこの「月夜富士」も見ていただきたい。もしかすると最も美しい富士山かもしれません。きっと志村くんもこの「月夜富士」を何度となく見たことでしょう。
 また、これも何度が書きましたが、この場所は太宰の「律子と貞子」の舞台そのものです。その旅館の跡地ですから。
 本当に不思議な不思議な縁のある場所です。
 下の写真は3階の教室からの風景です。いつか、茜色の富士を撮った部屋です。

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 ものすごい贅沢ですよねえ。私なんか、生徒だったらつい見とれてよそ見ばかりしてしまいますよ。こういう人知を超えたモノがそばにあるというのは、人間にとって実に幸せなことです。こういう所で育つと、ああいうヒトが育つんですよね。ああいう音楽が生まれるんです。そして、ああいう文学も生まれるのです。そしてそして、こういうブログも(?)。
 ちなみに世の中は「春」本番という感じで、桜も満開なんていうニュースが聞こえてきますが、こちら富士北麓はいまだつぼみすらありません。冬景色のままです。本格的な春までには、まだ半月から1ヶ月ありますから、これから春を満喫したい方は、こちらにぜひおいでください。
 私もこの素晴らしい環境で、さらに理想を求めて頑張って行きます。そして、今まで以上に突撃力を発揮し、自分の夢も実現していきたいと考えています。もちろんこのブログもより一層頑張りますよ。
 最後にもう一度、昨日は失礼致しました。あれ?エイプリルフールってウソついていいんですよねえ?
 いよいよ、私のウソも太宰並みになってきたのか!?ww

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2010.04.01

ブログ終了のお知らせ

Uni_3881 よいよ新学期。今日正式に今年度の立場が決まりまして、左のような名札をいただきました。
 ただし、今日はエイプリルフールですから、油断なりません(笑)。明日になったら、いつもの席に戻るかもしれません。
 まあ、いちおう今日のところはこの辞令を信じ、いろいろと準備をいたしました。なにしろ今まで一介の教諭に過ぎなかった男です(主任もやったことない!)。いきなり人の上に立つのは精神的にきつい…。
 かと思いきや、そうでもなくて(笑)、いつものポジティブ精神で静かに燃えておりました。ま、それも今日一日かもしれませんが。エイプリルフールですので。
 とういうことで、自分の学校における立場も変るかもしません。つまり、社会的な立場が変るということです。今までのような言動は(たぶん)許されません。
 たとえば、このブログなんかもそうです。なにしろ書きたいことを書きたいようにやってまいりましたから。それもあくまで「ヒラ教員」「田舎教師」という立場のおかげでありました。今後はそういうわけにはいきません。
 しかし、だからといって、表面を繕ったようなウソの言葉を並べるのは、私の人間としてのポリシーに反します。
 よって、およそ6年にわたり毎日コツコツ、シコシコと続けてきたこの「不二草紙 本日のおススメ」も、今日をもちまして一旦終了させていただきます。
 毎日1000人を超える方々にお読みいただき、累計130万以上の閲覧を頂戴したにもかかわらず、このような一身上の都合から断筆せねばならないのはどうにもやるせないのですが、私も個人である以前に関係者の皆様に支えられている公人であります。まさに断腸の思いでありますが、一つの覚悟のもとに、この日々の営みに終止符を打ちたいと思います。
 これまで、長い間、本当にありがとうございました。退職するなど、私がまた私人に戻る日が参りましたら、再開するやもしれません。
 これまでの記事は、わたくしの生きた日々の証として、ネット上に残ります。ブログ自体は閉鎖いたしませんので、この6年間に書きなぐった数百万文字(?)の中から、何か皆様の生活や思索の足しになるものがありましたら、ぜひ使ってやって下さい。
 それでは、また会う日まで。皆様、お元気で。ありがとうございました。アディオス!

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