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2010.03.01

W.F. バッハ 『オルガン作品集』 (J. ブラウン)

20100301_153707 楽における「変態性」とは何か。最近興味のあることです。
 もちろん、「変態」の定義さえも難しいのですが、なんというか、簡単に言ってしまえば、聴いているとこちらも「変な気持ち」になるということでしょうかね。そして、その「変な気持ち」が心地よい。
 この「変態」という言葉はもちろん、昨年末急逝したフジファブリックの志村正彦くんに対する賛辞としてよく使われました。彼についての「心の鬼…モノノケハカランダ」という記事にも書いたとおり、人の心には自分でも説明のつかない「物の怪」が潜んでいます。我々はそれを幽閉して日常を生きています。それこそが「社会性」であり、そのために我々は常に「偽善的」であることを「善」としています。
 しかし、時にそうした「モノ」が地下水脈から湧き出ることがあるんですね。これは、いつも書いているように、個人に限ったことではありません。社会全体や歴史にも頻繁に、かつ必然的に起きていることです。だいたい、私たちが非日常的な恐怖を感じる事件や事故がそういうモノだと思っていいでしょう。
 さて、そうした「モノ」を徹底的に排除して、いわば「コト」だけで世界を構成し、結果としてそこに絶対的な「神」を現出させたのが、近代西洋文明です。その象徴として、これも最近何度も書いている「クラシック音楽(西洋芸術音楽)」があるわけですね。
 そこにはたしかに「偽善的」な美しさがあります。先ほど書いたように「偽善」は社会的「善」であり、ある意味我々人間の「理想像」でありますから、この美しさはもちろん悪いものではありません。逆に素晴らしいと思います。秩序の世界ですから。
 そうした「コト」的コスモスに、「モノ」的カオスが混入するのが、「変態的な音楽」ではないでしょうか。志村くんの音楽と、そして言葉には、そういう「心の鬼」が頻繁に顔を出します。そして、それが私たちの「心の鬼」と見事共鳴して、「偽善的」ではない「真悪的?」な美しさを醸すのです。それももちろん音楽や我々にとって悪いことではありません。なぜなら「真」だからです。
 さてさて、そうした「変態的」な「真音楽?」として、最近注目しているのが、大バッハの長男、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの作品群です。
 彼は、なにしろあの「コト」を極めたバッハの息子ですからね。やはり天才の血というか知を承け継いでいます。そして、お父さんに溺愛され、お父さんに英才教育を受けます。大バッハの主要作品のいくつかが、長男のために書かれた練習曲であるというのは有名な事実ですね。
 しかし、まあ溺愛され、英才教育を受け、そして期待され、そしてそして、あまりに偉大な父を持った息子の宿命なのか、フリーデマンは天才ではなく「変態」になってしまいました。
 才能はあるのに人間性に問題があり、音楽の時流にも乗れず、常に人間関係に疲れ、全く花開かない人生を送ってしまったのです。しまいには、父の作品を自作として発表してしまうようなことまでしています(なんか、その気持ちや行動よく分かりますが)。
 その作品には、偉大なる父の呪縛からも逃れられず、弟たちのように要領良く当時のトレンドにも乗れず、非常に苦しんだ痕跡を聴くことができます。しかし、最近、その「苦しみ」から生まれた「変態性」がなんとなく魅力的に感じられるのですよね。不思議なものです。
 で、今日、ちょうどNMLの新譜としてこのアルバムが紹介されていたので聴いてみましたら、これが実に良かった。初めてまとめて彼のオルガン作品を聴きましたが、どれも微妙にひねくれていて美しい(笑)。正直私好みです。
 父バッハの晩年の作品なんかも、ある意味異常にオタク的ですが、やはりそこには究極の調和や秩序を感じるのですね。神を感じるけれども、人間らしくはない。
 その点、この長男の作品群は、どれもどうかしている。それが案外人間的であり、音楽的なのです。いつも書いているように、西洋近代音楽は世界の音楽史の中ではあまりに特殊すぎます。特に純粋な鍵盤音楽は。その中で、ある意味本来の「人間的」な「音楽」を取り戻そうとしたら、こういう方法を取るしかないんじゃないでしょうか。
 このアルバムの演奏ではありませんが、YouTubeに「フーガヘ長調」がありましたので、ぜひ聴いてみてください。
 テーマは普通ですが、どんどん「心の鬼」が現れて、あちらの世界に行ってしまっています。半音階がどんどん混入していって、いやに現代的な(?)和声、いやある種の非調性音楽になってしまっています。最後は無理矢理現世に戻した感じで、やや唐突に終わってしまいますね。
 そして、特に興味深いのは、3回出てくるあの「ブリッジ」ですね。父バッハをお聴きの方は、もうすぐに気がつかれると思います。そう、あの平均率第1巻の終曲、あのロ短調フーガのブリッジをそのまま借用していますね。あれはたぶん父バッハ最高の発見(すなわち宇宙音楽史最高の発見)の一つであろうと思います。だからこそ誰も借用していないと思ったんですが、なんと最も身近な長男が露骨に借用していたとは。
 いや、これがまた単なる借用じゃないんですよね。3回目ですよ。これには思いっきり「心の鬼」が父の威光を引き裂くかのように割って入っています。もう、こうなると「理論」を完全に超えてしまっています。私はそこが一番変な気持ちになって、一番気持ち良かった!…なんて私もかなり変態なんですかね(笑)。
 まあ、とにかく、今まで彼のことを知らなかった方、興味のなかった方もぜひ聴いてみてください。たった4分ちょっとです。

 これを聴くと、私の変態フーガなんか、全然甘いですね(笑)。修行、いや苦行が足りん!!

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