もののあはれ=苦諦
今日はシンプルですがとっても重要なことを書きます。
ちゃんとした学術論文を書けばいいのかもしれませんが、どうも私にはあの世界は面白みがないので、ここで発表しておきます。
今までも小出しにたれ流してきました私の「もののあはれ論」。今日はその結論的なことを書いちゃいます。なんか、早く書かないと誰かに先を越されそうだから(笑)。
いや、実際はそんな心配はしばらくしなくてよさそうなのです。なにしろ、あの本居宣長翁のおかげで、皆さん大きな勘違いをされているし、それがまた普通に辞書にのっていたり、教科書にのっていたり、とにかく世界中(日本だけではありません)があまりに上手にだまされていますからね。洗脳は当分解けそうにないので、こちらとしては安心です。宣長さんに感謝ですな(笑)。
でも、やっぱり皆さんのだまされている姿をただ見て笑っているのはさすがに可哀そうですし、だいいち人として失礼です。だから、今までも、こちらに多少詳しく説明したり、こちらで究極の助っ人清少納言さんにご登場いただいたりして、半分楽しみながらホントのことを書いてきました。
今日はそれをもっとシンプルな等式で表現してみたいと思うわけです。
もののあはれ=苦諦
これです。ね、シンプルでしょ?そして、宣長以来語(騙)られている「調和のとれた優美繊細な情趣の世界を理念化したもの」とか「外界の事物に触れて起こるしみじみとした情感」といった言葉が全くのウソであることが分かるはずです。
この等式は次のようにさらに分解することができます。
もの=苦
あはれ=諦
ん?全く分からないですと?では、シンプルに説明します。
私の論を今まで読んできた方はお分かりと思いますけれど、私は「もの」という日本語の本質的な意味を「自己の外部」「不随意な存在」「無常なる存在」などととらえてきました。つまり、「もの」とは自分の意思ではコントロールできないものを表すというわけです。もちろん、そこから物体、物質、商品などの「物」という言葉、そして、人間を表す「者」、霊を表す「もの」というような言葉も生まれました。あるいは「もの思い」の「もの」、「物寂しい」の「物」、「〜だもん(もの)」の「もの」、その他古語の「ものから」や「ものかは」など全部説明できます。ま、今日はそこの説明は割愛しますけど。
で、「苦諦」の「苦」の方ですが、これは仏教を勉強されている方は当然ご存知だと思います。今風な「苦しみ」という意味ではありませんね。サンスクリット語の「ドゥクハ」の訳です。「ドゥクハ」とは、直訳すれば「悪い運命」となりますが、そのニュアンスを探っていくと「思い通りにならないこと」自体を表していることがわかります。
そうすると、まさに「もの=ドゥクハ」ですよね。だから「もの=苦」という等式が成り立つのです。
続きまして、「あはれ」です。こちらも現代人には注意が必要です。「あはれ」は「哀れ」ではありません。古い用法を見ると、まさに「ああ…」とか「Aha!」とか「AH!」とかいう、いわば世界的に共通した嘆息、感嘆の音符なんですよね。それは、いい意味でも悪い意味でも、何かを発見した、悟ったというような感じです。
一方の「諦」についても、現代人は既成概念を捨てる必要があります。「諦」は「あきらめる」と読めますので、ついつい「や〜めた」とか「もう無理だ」のようにとらえがちですが、それよりも「悟る」「納得する」というのが本義です。だいいち日本語の「あきらめる」も、もともと「明きらめる」であって、これは本来「明らかにする」「明らかになる」「晴れやかににする」という意味ですよね。
もうお分かりでしょう。これで完全に「あはれ=諦」という等式が成り立ちます。
よって、「もののあはれ=苦諦」。
以上、シンプルでしょう。つまり、両辺とも「世が無常なる存在であって自分の意思ではどうにもならない、ということを悟る、あらためて知る」という意味になるわけです。
そして、それは決してジメジメした感じばかりではありません。予想外の幸運の場合にも用いられます。ただ、人間、特に日本人はジメジメに美学を感じるところがありますから、時代を経て、どんどんそちら方向に純化していってしまった感はあります。それで宣長さんも、テキトーなこと言ってしまったということで。まあ、源氏物語(紫式部)さんも可哀そうなことになっちゃいましたね。
とにかくですね、仏教が伝来して当然「四諦」のうちの「苦諦」も基本的な概念として日本人に浸透していったわけですね。それを和語で表したのが「もののあはれ」だと言うことです。ただそれだけ。
ということで、これから辞書にも事典にも教科書にも、ぜひとも「もののあはれ=苦諦」と記してもらいたいものです(笑)。そうそう、この「〜ものです」の「もの」にも「不随意」な感じが入ってますね。もう完璧でしょう。でも、ゼッタイ私の思い通りにはなりません。まさに「もののあはれ=苦諦」であります。トホホ。
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コメント
玉稿に「特に日本人はジメジメに美学を感じるところがあります・・・」という一文があります。ここに「美学」の語を用いるのはいただけません。
美学は哲学や倫理学と同じく、一つの学問の名称であります。「美学」を感じるのではなく「美」を感じる、と言うべきかと存じます。
他にも「弱い者はいじめない、下心のある饗応は受けない、それが彼の美学だ」などと、識者も書いたりします。この「美学」の不適切な使い方に(大学で美学を習った者として)いつも抵抗を覚えます。
投稿: 森村稔 | 2019.01.05 07:08