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2010.03.31

『iPhoneとツイッターで会社は儲かる』 山本敏行 (マイコミ新書)

20100401_61606 れまた後輩の先生が貸してくれました。この本の内容は、昨日の話にも関わってきますね。ここでいう「儲かる」とは、単に「カネが増える」ということだけではありませんでした。
 結論から言えば、「会社の中の人間関係がよくなる→社員が生き生きする→生産性が上がる」ということです。昨日の言い方で言うなら、「個人が幸せになるだけでなく、組織のみんなが幸せになることによって、その組織、そしてその構成員である個人も、より幸せになる」ということですね。
 これは「経営」のステージとしては最高レベルとは言いませんが、最低でもありません。以前モスバーガーの社長さんとお会いした時も「まずは社員に満足を。それが笑顔を生み、お客様に還元される」というような話がありました。おそらく、そういった理念で頑張っている会社というのも、けっこうあるとは思います。
 もちろん、もっと先を見据えた「経営」というのが理想なわけですが、そこはなかなか難しいですよね。教育の現場でも同じようなことが言えます。まあ、簡単に言ってしまえば、どこまでの「他者」を想定できるか、想像力がどこまで豊かかということでしょう。
 で、昨日の大前さんはですね、いわゆるアメリカ流ですから、言うべきことははっきり言う、まずは相手の意見を否定する、みたいな発想なんですよね。それはそれで、そういうことに耐性のある「強い」人間たちにとっては、一番ストレスのたまらない人間関係の構築法だと思いますよ。
 でも、我々純粋な日本人は、そんな「強い」人間ではありません。ズバッと言われると「ガ〜ン」となってしまう「弱い」人々です。だから、昔から「赤ちょうちんで上司の悪口」みたいな装置があるわけじゃないですか。
 そこに登場した新しい装置が、この「iPhoneとTwitter」だと思うんです。新しいコミュニケーション・ツール。これが、「弱い」日本人にはちょうどいい道具となったわけですね。なかなか、口ごもってしまって、あるいは呑み込んでしまって言えないことを、リアルタイムに、そして適度に無責任に発することができるようになったと。
 1対1では言えなかったことが、いきなり世界の不特定多数相手では発することができる、というのは面白いですね。これには、その相手を「その他大勢」に放り込むことによって、たとえば上下関係から生じる理不尽などを解消し、常識人に仕立て上げてしまうという効果があると思います。また、自分をも「その他大勢」に放り込んで、そして、そのうちの何パーセントかを自分の味方につけてしまうという効果もありますね。とにかく、そうして、「愚痴」や「陰口」の生じる可能性を低くしているわけです。
 そういう意味では、このツイッターというのは、日本人のためのツールとも言えなくもないですね。面白い。
 そんなツイッターについては、以前『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』という本に関する記事で、私の意見を書きました。ただ、あの時はアカウントも持っていなかったし、実際のところどういうものかよく分からず書いていたんですね。
 その後、いちおうアカウントを二つ取りました。一つは個人のもの。ただしまだ一言もつぶやいていません。やっぱり上の記事に書いたとおり、その価値がよく分からんからです。つぶやいているヒマがあったら、ブログの記事を書いていた方がいいと。
 もう一つは中学校の中の人としてのアカウントです。これは上に書いたような本来の機能ではなく、もっと単純なコミュニケーション・ツールとして使ってみようというものです。
 つまり、授業の様子などを随時iPhoneから写真つきでツイッターに投稿し、それを保護者が適当な時に見るという使い方です。もちろん、この場合、プライバシーの問題等ありますから、基本クローズドということになります。生徒の親以外は見ることができないというわけです。
 また、「中の人」は私だけではありませんから、つぶやいているのが私だとは限りません。一つのアカウントで何人かがつぶやくということですね。もちろん、それが誰なのかは分かるようにしようと思いますが。保護者の方も感想などをつぶやくことができますから、まあある意味、リアルタイムでゆるいコミュニケーションが可能になりますね。
 どうも、学校は閉鎖的で、また先生と保護者の会話は緊張感を伴う(すなわち、さっきの上司と部下みたいな理不尽さがある)ものでした。それを少しでも解消するために、iPhoneとTwitterが活躍してくれるのではないかと、ひそかに期待しています。
 学校は会社と違いますから、この本に書かれていることがそのまま通用するはずもありません。しかし、アイデア次第では、学校にとっても面白い「装置」になりうるんじゃないでしょうか。もしかして、この「授業の実況」という試みは日本初なのかな?

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2010.03.30

『パスファインダー』 大前研一 (ビジネス・ブレークスルー出版)

大前研一通信特別保存版PartIII
<道なき道を切り拓く先駆者たれ!!>
20100331_112448 僚がどこかでもらってきたとかで、私のところに回ってきました。
 「Path Finder」とは「道を見つける人」、すなわち「開拓者」「先駆者」という意味だそうです。昔風に(?)言えば、「パイオニア」とか「フロンティア」ということでしょうか。
 最近、どういうわけか、いわゆる「経営コンサルタント」の方の言葉を聞いたり読んだりすることが多くあります。別に私は経営者ではないんですが。それでも、いろいろと勉強になることが多い。
 特に、船井幸雄さんや、ドラッガーの言葉は、教育の世界でも大いに役立つものばかりでした。
 この前も書いたとおり、「マネージメント」とは「うまくやっていく」というのが本義であり、教育とはまさに「社会でうまくやっていく」ための知識や智恵や技術を伝授することとも言えます。ま、たいがいが古くさい先人の功績を伝えるにとどまっていますけど(苦笑)。
 アップ・トゥ・デイトな世界で活躍しまくっている大前さんですから、当然そうした「教育」の現状にウンザリし、そして、モノ申したくなるのは当然です。そんな大前さんの気持ち、考えが、ある意味濃縮されているこの本。現役の現場の教員としては、なかなか耳の痛い名言が揃っていて、かなり楽しめました。
 大前さんは、そういう日本の立ち後れた、そして荒廃したと称される「教育」には見切りをつけて、ご自分で大学院や大学や、そして高校までも「経営」されるに至っています。まあ、究極的にはそうするしかないでしょうね。
 しかし、この本を読んだかぎり、つまりは大前さんの気持ちや考えを受け止めてみて、どうも現場の者としては違和感を抱かざるを得なかったのも事実です。
 それは、おそらく、「経営」や「幸福」のステージ、次元が、船井さんやドラッガーと違うからでしょう。それはすなわち「教育」のステージや次元とも関わってきます。
 単純に言えば、「自分」が幸せになるか、「他人」が幸せになるかという違いです。お分かりになりますか?大前流ですと、とりあえずは「自分」が生き生きと社会で活躍し、お金も得て、そして、「日本」が世界の経済の中で「勝ち組」になることを考えるわけです。
 もちろん、それは大いに結構であり、また、まずはそこから始めなければならないというのもわかります。自分が貧乏だったり、会社が潰れそうでは、「大志」を持って、それを実現することなど無理ですからね。
 しかし、そこで満足してしまう「経営」や「教育」もあると思うんです。ある意味、そこで満足しているのがほとんどとも言える…。
 私もちょっと前まではそんな感じだったかもしれません。極端に言えば、自分さえ「勝ち組」になり、裕福になって欲しいものが買えればいいと。極端に言えばですよ。
 しかし、そういう考え方、生き方の空しさのようなモノが、最近突如として私を襲うようになったのです。これはもしかして「悟り」なのか(笑)。
 船井さんやドラッガー、そして、そうそう稲盛和夫さんや松下幸之助さんもだな、彼らはちょっと、いやだいぶ違うような気がするんです。彼らの「幸福」はスケールが大きいと思うんですね。私もお釈迦様に教えてもらったわけですが、やっぱり、個人の「幸福」は他者の「幸福」がなくては成り立たないのですね。というか、「他者の幸福」以外に「自己の幸福」はありえない。もともと、自分という存在が完全に他律的であり、また自他は不二なわけですから、当たり前といえば当たり前です。それを我々は忘れてしまっている。そう、それを忘れさせる麻薬、ある意味悪魔が、「カネ」=「マネー」なのです。
 とってもおこがましい言い方ですが、大前さんは多少その麻薬に汚染されているところがあるような気がしました。いやいや、もちろんそれでもいいんです。さっき書いたように、現代社会はとりあえずこういうシステムなわけですから、カネ抜きには「理想」は追えません。実際、船井さんもドラッガーも稲盛さんも松下さんも、みんなカネ儲けの上に自らの「大志」を顕現させています。
 しかし、やはりですね、教育の現場でもそうですけれど、その先の先にある「理想」や「真理」や「大志」をしっかり明らかにした上で、どうこの社会でマネージメントしていくかを考えなければならないと思うんです。
 これも極端な論になりますが、たとえば私が高校の進学クラスを担当していたこの20年間を振り返るとですね、ただ「いい大学」に入れることを目的としてやっていたかもしれないわけです。それでその瞬間は、生徒も私も満足を得ると。しかし、長期的に、あるいは俯瞰的に考えると、それは単に「カネ」の世界での「勝ち組」を生産したにすぎなかったものかもしれない。もしかすると、地球環境を破壊するハカイダーや、格差社会を助長するしねしね団を養成していたかもしれないのです。
 そういう反省…もしかすると悟り…のもとに、今回の中学校は「経営」していこうと思っているのです。
 というわけで、大前さんの多くの名言には、たしかに若者の背中をドンと押す力はあると思いますが、いわゆる「仏様の指」のような繊細さと慈愛はなかったように感じました。まあ、アメリカそのものですからね、彼は。アメリカにそんなことを期待してもしかたありませんか。
 ずいぶんと辛口なことを書いてしまいましたが、「大志」と、そして「義侠心」と「利他の精神」を持った若者には、大変に有用な本だと思います。おっしゃることはほとんど全て正しい。しかし、それを全て実現して満足する、そんな若者にはなってほしくないと思う、今日この頃のワタクシでありました。

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2010.03.29

ノートスライダー (山善)

Img_0354 4月から(おそらく)中学校の職員室が私のオフィスになります。少しずつ引っ越しをしなければならないのですが、なにしろ高校の進学棟に大量の書籍やらプリントやらがあって、途方に暮れております。
 とりあえず、仕事をするためにパソコン(Mac)を移動しました。高校の方では、いつか紹介したように段ボール製ノートパソコン台を使っていましたが、さすがに真新しいオフィスには、これは似合いません。
 そこでそれに代わるものを導入いたしました。それがこのノートスライダーです。いろいろな製品を検討しました。結局は一番安いものを購入。1980円でした。
 これが高さといい、幅といい、堅牢さといい、スライドのスムーズさといい、なかなかいい物だったので紹介いたします。
Img_0355 段ボールのところにも書いたように、私は親指シフト愛用者なので、ノートパソコンも基本外付けの専用キーボードを使います。ですから、このような使い方が可能になるんですね。
 ちなみにスライダーを引っ込めますとこんな感じです。手前が広く使えます。また、引っ込んだ状態でも手を突っ込んで打鍵することもできます。実はここがポイントなんですね。段ボールはそれが便利でしたから。ほかのいろいろな製品はそれができそうにないのが多かったのです。
 段ボールのところの繰り返しになりますけれど、仕事でノートパソコンを使っている方は、ぜひこのようなスタンドを用意されることをおススメします。肩凝りや頭痛が軽減しますよ。
 考えてみれば、ノートパソコンというのは、もともと「ラップトップ」なわけですよね。外出時の緊急用なわけです。それを常時デスクトップで使用するというのは不自然です。
 でも、こうすれば、小型のデスクトップになるわけですから使用感は格段に向上します。そして、必要な時は純粋なモバイルになると。
51yuhcpn5yl_ss400_ 実はですねえ、この製品、左の写真のように使うのが本道です。私の使い方は邪道らしい。
 で、よく見るとお分かりになるかもしれませんが、私は上板を前後逆に組み立てているんですよ。つまり違った使い方をするためにプチ改造したんです。自分で言うのもなんですが、こういうこと得意なんですよねえ。写真を見た瞬間に「これはこう改造すればこうなる!」というのが分かるんです。
 おそらく、幼少の頃から、そういうプチ改造ばっかりしてたからでしょう。それこそが男の子の「遊び」の王道でしたからね、昭和は。
 今、正直、生徒や自分の子どもたちを見ているとですね、そういう能力に欠けていると感じるのですね。与えられた物をそのまま使って文句を言ったり、飽きたらポイみたいな。全然、想像力や創造力、あわせて「想造力(船井幸雄さん命名)」が足りないんですよね。
 DSを改造するツワモノはそうそういません。というか、大人が用意しているデジタル機器が、それを許さないんですよね。ソフト的にも、結局レールの上を走っていくしかない。攻略本なんかまさにそのレールを示すマニュアルに過ぎませんし。
 ちょっとした発想の転換によって、新たなモノを生み出す喜び、それがうまく行った時のささやかな感動こそが、私たちの幸せのファクターでありファクトであると思うのですが…。
 中学生には、わざとマニュアルを与えない教育を施したいと思います。智恵を出し合って新たなファクトを創っていく、そういう歓びを味わってもらいたいですね。
 なんて、ちょっと大げさな教育論になってしまいました。単に便利なスライダーを紹介するつもりだったのですが(笑)。

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2010.03.28

歌舞伎町で飲み放題で飲まない飲み会

29_8_35_07 日は4年前に卒業させた教え子たちのクラス会に参戦。夕方富士山を出発して、新宿は歌舞伎町へ。そして、今帰ってきました。日帰りです。
 飲み会の前に、あのサビ猫を教え子の家に護送しました。つまり、引き取ってもらったのです。富士山のノラが三軒茶屋のセレブに。幸せになってくれよ。
 その後、例の武蔵境の駐車場まで車を回して、そこから電車で新宿へ。
 今日は珍しくクラス全員が集まりました。全員と言ってもたった8人なんですけどね。少人数制進学クラスの3期生です。
 このクラス、ホントひきこもり系のヤツが多く、在学当時も、たった8人にも関わらず全員朝から揃ったことがほとんどないという、トンデモ学級でした。前任の担任の先生もほとほと困って、トラブル・シューター(?)の私が3年生の時だけ私が引き継ぐことになりました。
 ま、結果としては、私のテキトーさと彼らのキャラクターがうまくマッチしたらしく、「奇跡の3期生」などと呼ばれる結果を残すことができました。
 しかし、根がオタクでひきこもりな連中ですから、まあその後の大学生活も波乱万丈。ある意味またまた奇跡的なことをいろいろとやらかしてくれています(笑)。
 いちおう、ここで大学4年間を終えて晴れて卒業、そして就職という年回りなのですが、一部なぜかまだ大学生を続ける者もおります。勉強熱心だ(笑)。
 また、今年から大学生というツワモノもいます。せっかく現役で国立医学部に受かったのに、いろいろ事情がありましてそこをやめ、今年再び医学部受験をしていくつかの大学に受かり、新入生として再スタートするのです。
 ちなみにそいつは、昨日入籍して苗字が変わりました。大学入る前に結婚するという、これまた奇跡的な離れ業をやってのけてますな。婚姻届の保証人は、私と校長先生だし(笑)。謎の人生です。
 あと、この前、これまた奇跡的な快挙をやってのけた女の子もいます。あのアウォードで最優秀を獲ったヤツですね。
 その他、就職決まってたのに卒業できなかった…けれども最後の最後大逆転でギリギリ卒業に持ち込んだ、ある意味ツワモノとか、まあ、ネタには事欠かない連中なのです。
 彼ら彼女らとはよく飲むのですが、全員が集まるのはたぶん最初で最後でしょう。「次はオレの葬式の時か?」なんて言ったら、「たぶんそれでも集まらないよ」とのことでした(泣)。
29_8_35_29 で、今日は飲み放題コースだったのですが、私は珍しくソフトドリンクの飲み放題でした。明日地元のテレビ局の取材などがあって、どうしても今日中に帰宅しなければならなかったのです。
 というか、実は今日、我が夫婦の結婚記念日だったのですが、今日の朝までそれをすっかり忘れていて、カミさんと大げんかになりました(そりゃそうだよな。大事な日に歌舞伎町に遊びに行くんだから)。そんなこともあって、最低限の誠意(?)を見せるために、気合いで帰ってきました(笑)。
 今度はゆっくり飲みながら語り合うぞ…というわけで、私はしらふのまま、夜の歌舞伎町をあとにしたのでありました。

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2010.03.27

祝!長島☆自演乙☆雄一郎

20100328017 さか優勝するとは…まあ、小比類巻選手の突然の引退というのもありましたが。
 小比類巻選手とは、間接的ではありますが、昨年ご縁ができたところだったので、ちょっと残念でした。ただ、今の体の状態で無理に出場していたら、コスプレおたくにKOされるという、ある意味最悪な引退劇場になってしまったことでしょう。賢明な判断だったと思います。
 長島☆自演乙☆雄一郎。私は格闘技を文化としても見ていますから、彼のような「文化系」というか「ヲタク系」、つまり「(エセ)貴族系」が勝つと楽しめますね。
 ちょうど昨年のこのトーナメントでデビューした自演乙。私もこちらで高く評価しています。その後、やや伸び悩んだ感がありましたが、今回見事に成長ぶりを見せましたね。
 彼のキャラクターは決して「現代的」ではありません。彼の在りようは、いわば「婆娑羅」なんですよね。
 「バサラ」は南北朝期に登場した独特の力学的価値観です。ある種の下克上的、価値転覆的な方法論としての「変身」がその特徴です。それが後世の「かぶき者」や「だて男」を生み、そして現代の「オタク」文化につながっているのは言うまでもありません。
 いつも言っているように、「オタク」は(エセ)貴族による「国風文化」です。1億総貴族時代における当然の現象です。
 本来下位に属していた者が、経済的な余裕を持った時に、本来の貴族の価値観(主に美的価値観)を模倣し、茶化し、変形して、ある種の「変異」の脅威をもってして、ホンモノのステージに乗り込んでいくんですね。
 K-1で言えば、あの魔裟斗がホンモノの貴族政権を樹立していましたが、貴族として貴族のままで、その地位を永遠化しました(引退した)。それは今でも、最初で最後のK-1の栄光とも言える輝きを放っています。それを乗り越えるには、たしかに「バサラ」しかないかもしれません。
 技術的、あるいは精神的には魔裟斗選手と伍していても、どうしてもあの輝きは放つことが出来ません。それで小比類巻選手ら、多くのファイターたちが苦しみ消えていったのです。
 これは本当に歴史の流れと一緒ですね。そうした「運命」を覆して、新たな歴史を動かしていくには、長島☆自演乙☆雄一郎選手のようなキャラクターが必要だということでしょう。
 前も書いたように、彼のベースは日本拳法です。闘い方自体も変幻自在で、ある意味ゲリラ的、「悪党」的でもあります。そんなところにも、中世日本の文化的伝統が息づいているんですよね。ま、「悪党」と「婆娑羅」に底流するのは同じ価値観なわけですが。
 「悪党」と言えば、もう一人の注目選手、忍野村の暴れん坊渡辺一久選手も正念場ですねえ。彼もキャラが立っているし、持っている技術や精神はなかなかいいので、圧倒的な強さを時々でいいので見せてほしいですね。どうも最近善戦で終わる傾向が強いので。本人はボクシングにこだわりを持っているみたいですけど、やはり総合に向いてるんじゃないかなあ。
 ボクシング、そして悪党と言えば、最後この人に触れないわけにはいかないでしょう。亀田興毅選手。前回の内藤大助戦では私も高く評価しましたが(こちら)、「婆娑羅」の活躍のあとだっただけに、どうしても物足りなさ、しょっぱさを感じざるを得ませんでした。彼は「悪党」から正統的な武士になった選手だったわけですけど、やはり老獪でよりハングリーな異人さんにはかなわなかったという感じでしたね。バッティングもまたプロボクシングです。彼もまた、ここからが正念場でしょう。
 
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2010.03.26

AKB48 『RIVER』

 日は進学合宿の最終日。恒例の「借り物卓球」で盛り上がりました。昨年優勝してしまった私は、今年は実況担当のみ。それでも絶叫しすぎて疲れました(笑)。
 さて、そのメイン・イベントの前に、1年生の「総合」の発表がありました。今年はどういうわけか、テーマが「AKB48」。いろいろと学問的に迫ったレポートのあと、全員によるダンスが披露されました。ある意味本当に「総合的な学習の時間」ですな。面白い。
 そこで、かかった曲がこの「RIVER」です。私は曲の編集を担当しました。今回に限らず、私はダンス部の音源などをいつも作っています。曲の切り貼りですね。プチDJのような仕事です。
 私、そういう切り貼りは得意なんですよ。CDの音源なんかを切り貼りするのって、案外一般の人はできないじゃないですか。それ専用の機材やソフトが必要なような気がするからです。
20100327_94733 私はMacの純正ソフトでやるんですよ。それもGarageBandじゃなくて、なんと旧タイプのiMovie HDです。単純に切り貼りするんだったら、これが一番簡単で便利です。案外盲点ですよね。
 ただ、サウンドファイルとしては書き出しができないので、再生しながらWire Tap Proで録音するという方法をとっています。ある意味アナログ時代の作業そのままですな。
 実はこういう切り貼りというのは、様々な音楽的知識を要します。生徒たちは「こことここを切ってつないで」みたいなことを簡単に言いますが、もちろん拍数の問題もありますし、転調やその他の問題もあります。そのへんを知識と技術とセンスでなんとかするのがDJの仕事です(なんちゃって)。
 あと、テンポを踊りやすく変えてほしいと言われることもあります。その時は、ちょっと面倒ですが、TASCAM のGT-R1を使います。
 というわけで、今回も期せずしてこの曲を何度も聴くハメ(失礼)になったので、せっかくですからちょっと感想など書きましょう。
 いや、悪い曲じゃないですよ。どちらかというとよくできた曲だと思います。AKBについても、かなり初期の頃からいろいろとネタに使わせていただいていたりしましたから、全然抵抗なんかはありません。今となってはどれが誰か全然分かりませんが。
 初期の、まんまオタク用アイドルだった頃からしますと、ずいぶんと成長しましたし、商品価値も上がりましたね。さすが時代の流れを読む、いや作る秋元康さんです。いい仕事してます。
 私なんかモロおニャン子世代です。大学時代、朝(夕方)起きるとちょうど「夕やけニャンニャン」やってたりしましたからね。別にそういう趣味はなかったけれども、なんとなく観ていました。そうそう、いつかも書いた記憶がありますけど、渡辺満里奈さんが番組中のオーディションで合格した時のビデオがなぜかウチにあるんですよねえ。けっこうレアだと思います。
 さあ、そんなおニャン子とは明らかに違う路線を歩み始めたAKB48です。この曲なんかまさに象徴的ですよね。「RIVER」=「川(河)」は人生の障壁、障害としての比喩です。それを「努力」や「根性」で乗りきる、渡りきるというのがテーマになっています。
 音楽的にも、アイドルにありがちな長調単純ポップではなく、ラップから入って、そしてサビは短調の王道コード進行&王道メロディーでして、ある意味J-POPに底流する「演歌ロック」の路線になっています。
 一見フェミニンな、萌えな女性性を持っていながら、歌は非常に男性的です。これは本当に日本独特な文化です。女性演歌歌手の「男歌」に近いものがありますね。セックスやジェンダーを超えたフィクションに現出する、ある種の「リアル」が、私たち男性にも、あるいは女性にも強いメッセージとなって届いてきます。
 こういう路線を歩み始めた時点で、単なる可愛いアイドルとか、萌えの対象ではなくなり、「頑張っている」若者たちという「商品」へ移行しているわけです。ここのところが、時代の潜在的要請に応える秋元康さんのすごいセンスなわけですね。
 高度成長時代やバブルの時代が必要としたノホホンなアイドル像ではなく、不景気や将来への不安を払拭してくれる存在、「あきらめ」でなく「希望」を与えてくれる存在。それが、日本古来の「女性神」的な容貌の中に現れてくる。それも、非常に男性的にですね。
 これもまた、一つの宗教的文化現象としてとらえるのなら、出口なおや出口王仁三郎の「変性男子」「変性女子」にまで、つながって見えるのであります(私だけかな…笑)。
 というわけで、まあ、なんとでも言えるわな。しかし、そういう大きな広い視点で彼女らを見るとまた面白いものです。
 上に貼ったPVは、いろいろある中で一番気に入ったものです。アイドルのPVを超えてアーティスティックに仕上がっていますね。アボリジニ的なメイクやダンスが、これまた原初的な「宗教性」を感じさせます。
 ちなみにこの曲、今年の7月フジファブリックのフジフジ富士Qが行われる、富士急ハイランドサウンドコニファーにおいて昨年9月に初披露されました。富士山をバックに女神たちが歌うこの曲の言霊は、世の中にしっかり届いたようですね。

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2010.03.25

桜満開!?…実は…

26_8_21_33 起きたら、いきなり桜が満開でビックリ!…なわけありません。
 ここ富士山標高1200メートル付近では、だいたいゴールデンウィークあたりに満開ですから、あと1ヶ月あります。
 では、この光景はなんなのか。ここ、ウチの近くの桜並木なんですけど、まさに満開と見紛うばかりの美しい光景でありました。
 実は、これ、今年二回目の「雨氷」の芸術なのです。
 前回の「雨氷」については、「氷地獄」という記事にしました。あの時は、初めての体験でしたし、「うひょう」という言葉を知らなかったため、カミさんは「ムヒョ〜!」と叫んでしまいましたが、さすがに今回は学習したようで「ウヒョ〜!」と申しておりました(笑)。
 いやあ、前回初体験でしたが、めったにない現象ということで、もうあの地獄の光景は拝めないかなと思っていたら、この季節にもう一度機会がやってくるとは…。やっぱり気象の変化があるんでしょうね。
26_8_22_16_2 ただ、今回は前回と違い、より雨の量が多かったせいか(霧雨でなく普通の雨&霙だった)、木々にかかる氷の重量が大きく、何本もの大木が倒れていて、通勤するのも大変でした。写真は向かいのお宅の倒れた白樺です。娘の目の前でバキバキッと音を立てて倒れたらしい。娘にとってもすごい体験ですな。
 通勤路では、倒れたり折れたりはしていなくとも、全体に木々が「枝垂れ」状態になっていますから、そこを車でくぐり抜けるのも一苦労でした。通常の倍かかって学校に到着。
 しかし一方では、写真のような、前回に見られなかった美しい風景も見られましたから、まあ今回は「地獄」ではなく「天国」とでもしておきましょうか。いわゆる「霧氷」よりも透明度が高いので、陽の光が当たったりすると、本当にもう夢の世界そのものです(下手な写真では分かりづらいと思いますが)。
26_8_20_36_2 本当にここ富士山に住んでいますと、毎年、毎季節、毎日違う風景を見せられ、自然の多様性の豊かさ、統一と変化、循環と成長、美しさと恐ろしさなど、いろいろなことを学ばせていただけます。自分の脳内の「コト」なんて、ホント狭くてちっぽけです。とてもとても本当の「モノ」にはかないません。
 標高1000メートル以下まで下ってきますと、そこは日常の世界。氷のコーティングをして走っているのなんて、私の車しかありません。ちょっと恥ずかしい。「こいつどこに住んでんだ?」と思われてるでしょうね。
 たくさんの人の住む「都市」は、安定した日常という、我々の脳内「コト」の維持に追われている場所なのでした。

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2010.03.24

オルガヘキサ製パワードスーツ(?)

001 こ富士北麓地域は、以前は織物の街として大いに栄えました。江戸時代から昭和初期にかけて、国内で高級生地寝具と言えば「郡内=甲斐絹(かいき)」が定番でした。江戸の文学にも、しょっちゅう「郡内縞」などの文字を見つけることができます。ひとつのブランドだったわけですね。
 そう言えば、太宰治も「郡内織」のアンサンブルを愛用していましたっけ。まあ、奥さんが山梨の人、それも郡内地方でお仕事をされていた方でしたからね。
 そんなブランド商品も、戦後は海外の安い製品に押されて、すっかり元気がなくなり今に至っています。
 それでも若い人たちの中には、最新の技術を駆使して、再び「甲斐絹」をブランドにしようという動きがありますね。こういう経済状況の中、前途多難ではありますが、工夫と努力次第で世界に売り出していける潜在力はいまだあると思います。大いに期待しています。そうそう、そういう意味でも「富士ファブリック」さんに頑張ってもらいたいですね。
 さらにもう一つ、このあたりで盛んだったのが「炭焼き」です。昔の日本では、山村には欠かせない仕事の一つだったわけですが、私が住む村でも富士山の中腹に「炭焼き村」があったようで、全国でも珍しい特殊な技術が伝来していたとか。今は途絶えちゃったのかなあ…。
 「炭」の効用や可能性について、最近再び注目が集まっていますね。実際いろいろな製品に使われるようになりました。
 そんな、この地方の得意としていた二つの分野「繊維」と「炭」を究極の形で組み合わせた製品が、今日紹介する「オルガヘキサ」です(…とは言っても、この地方の人が開発に関わっているわけではない…と思います)。
 以前から、繊維に「炭」を練り込んだ製品はありましたが、この「オルガヘキサ」はちょっと、いや、だいぶ違います。なんとこの「オルガヘキサ」は、セルロースを100%炭素繊維化したもの。つまり、繊維自体が炭だということです。
 その特長や期待される効能などについては、開発したセラスメディコのサイトに詳しく出ていますからご覧下さい。具体的な製品などはオルガヘキサの専用サイトにも出ています。
 別に私はこの会社となんの関係もありません。回し者ではありませんよ。もともとこの繊維のことを知ったのは、AOKIのスーツがきっかけでした。数ヶ月前にニュースリリースされた肩こりを緩和するスーツです。
 ちょうどスーツを新調しようと思ってたところでして、いろいろ研究してたんですよ。で、AOKIのオールシーズン着られるプレミアムサーモスタットスーツもいいなあ、とか思っていたんです。
 そうそう、これは信州大学の繊維学部との産学協同開発の製品なんですよね。教え子がお世話になっている学部です。繊維学部って一見渋いですけど、今や最先端のナノ技術の現場ですからね。よく生徒に勧めてますよ。理系では、繊維系、材料系、高分子化学系とか、そのへん面白そうですから。
 で、そんなのをちょこちょこ見ていたら、この「オルガヘキサ」を使ったセラピースーツが数量限定で販売されるというニュースリリースがありました。うむ、肩凝り派としてはなかなか魅力的じゃないですか。なになに?強力永久磁石まで装着されているだと?
 単純に肩凝りに効くとかだけじゃなくて、「オルガヘキサ」のサイトにあるように、もしかすると着るだけで免疫力、自然治癒力が増強されるかもしれない!これは究極の「変身スーツ」「パワードスーツ」「モビルスーツ」になるかもしれない(笑)。ま、そんな少年のようなことを考えたのであります。
 今日プレスリリースがありまして、発売日は27日だそうです。来年度変身を遂げるために、いよいよ購入へ向けて始動いたします。はたしてこんな他力でパワーアップできるのか!?ww
 無事購入できたら、その装着感をレポートしたいと思います。てか、どこで買えばいいんだろう…。

アオキオンラインショップ

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2010.03.23

『公教育のあるべき姿を 鈴木文科副大臣に直言』 (BSフジ PRIME NEWS)

20100324_63542 日紹介したBSフジ LIVE PRIME NEWSの今日のテーマは「公教育のあるべき姿を 鈴木文科副大臣に直言」。実際の内容的には、「公教育」「義務教育」に限らず、教育全体の論議になっていました。
 ゲストは鈴木寛文科副大臣、浅田和伸品川区立大崎中学校校長。鈴木さんはもちろん、キャリア官僚から現場に下った(?)浅田さんも、まあしょせん上から目線の理想論からは逃れられず、毎日現場の中の現場にいる者にとっては、今一つ説得力がなかったように感じました。
 いや、彼らは上から理想を追求してほしいのですよ。東大出たような人たちに、いわゆる「現場」は語りようがないのです。なぜなら、彼らの通過してきた「現場」はあまりに特殊な現場であったからです。そして、そういう人たちにこそ、「理想」を語ってもらいたいし、そうでないなら、はっきり言って軽蔑しかしません。つまり、「理想」をこそ彼らの「現実」にしてもらいたいわけです。
 その点、鈴木さんには申し訳ありませんが、ただ「理想」を振り回して、そして国民の顔色をうかがって善人然としている、しかし裏では輿石東と山教組のように互いの利益のために結託しているような、そんな民主党の教育論にはうんざりです。
 頭がいいということは、お勉強ができるということではありません。おそらく人類史上最も頭がいい人であろうお釈迦様を見れば、その答えはおのずとわかりますね。自己を捨てて、世の中を憂え、そして人々を導くのが「頭のいい人」の役割です。
 その時、言葉だけ、あるいはシステムだけでは、実は何もしていないのも同然なのです。それもまた、お釈迦様が強く戒めているところですね。全ては「魂」「慈愛」に則っていなければならない。単なる「商魂」や「自愛」じゃダメですよ。
 今回の論議に対する、というか、私の「教育論議論」については、以前書いた『なぜ教育論争は不毛なのか-学力論争を超えて』の記事と『間違いだらけの教育論』の記事をご覧ください。ここでは繰り返しません。
 ただ一言、究極の持論を再掲しておきます。これだけは動かざる現場の真実ですから。

 教育現場には、「ゆとり」も「つめこみ」も「体罰」も「人権」も「教育技術」も「愛」も「経営術」も「ほめること」も「しかること」も「夢」も「現実」も、必要な時もあれば必要ない時もある。

 これをどうその場で運用していくかなんです。音楽のアドリブと一緒です。さまざまな技やクリシェを持ち、それを使っていかにライヴな生徒たちとアンサンブルしていくかなんです。
 この番組でも「最近の先生を忙しすぎる」と言っていました。忙しさなんてどの仕事も一緒です。忙しいから仕事なんです。ただ、たしかに最近の学校では、「リスクヘッジ」のための仕事が増えているのは事実です。つまり、アドリブにまかせず、先にシステムやルールを設計し運用するための、いわば「先行投資」「先物取引」にエネルギーを費やしすぎだと思います。
 それが、ある意味サービスであると勘違いする学校や先生や生徒や保護者や社会が多すぎます。教育ってそんなに設計図どおり行くものではありませんし、そうすることによって、いかにライヴなエネルギーが奪われているか。
 4月開校の我が中学では、基本全て生徒主導でものごとが動きます。先日のオリエンテーションでも、あえて生徒の座席表などは用意しませんでした。普通はそれがサービスとされるのでしょうけれど、そうして与えて与えられていれば、ただ楽なだけです。主体的に何も考えずに日々が動いていきます。それは実につまらない現場です。
 ですから、そのオリエンテーションでの現場では、ほとんどお互い初対面の者同士が、まずは自分の名前を教え合わなければならない。あいうえお順で出席番号を決め、それで席に着くようにだけ指示したからです。
 そうすると、もう仕切り屋さんが現れたり、もぞもぞしてなかなか名前が言えない子がでてきたりします。あるいは欠席者がいるのでは?と気づく子も出てきたりします。それは、生徒たちにとっても、あるいは教員にとっても、面倒なことと言えば面倒なこと、それもほとんど予測不可能な事態ですよね。
 今の一般の現場では、それを「混乱」とか「準備不足」とか「非効率的」と呼び、いやいや、そう言われるのがいやで(?)、最初からヘッジして臨むわけです。それはそれで平和裏にコトが運ぶでしょうけれど、はたしてそこで何かを学ぶことができるのでしょうか。非常に心細いですね。
 ちなみにその日は先生の手を煩わせず、子どもたちだけで5分もしないうちにそれぞれ着席しました。それだけのことですが、たぶん、彼ら彼女らは、座席表を与えられて着席したのと比べ、少しは成長したでしょうし、お互いの距離も縮まったと信じています。
 ある意味、こういうちょっとした発想の転換こそが、現場に必要だと思うんですよね。それこそが、子どもたちのためでもあり、先生方の無用な忙しさ回避につながると思います。結局、経験に基づくアドリブ力か…。
20100324_63910 「経験」という意味で、今回番組でも盛り上がっていた、現場への「お年寄り」の参加には大賛成です。経験豊富で元気なおじいちゃん、おばあちゃんが、今世の中に溢れ返っていますから。それはたしかに小宮山宏さんの言うとおり、素晴らしい「リソース」です。活用させていただきたいですね。
 ちなみにウチの中学には、この地域で最も有名な「最強じいじ」である、K先生が特別講師として常駐してくださっています。私も実に心強いし、実際毎日のように学ばせていただいています。若手から超ベテランまで、バランスのよい教師陣だと思いますよ。
 最後にちょっと厳しい苦言を。この番組でもさんざん出てきた「秋田」の優秀さ(のからくり)については、こちらに書いたとおりです。いかに小・中で優秀でも、その後センター試験の結果があのようではどうしようもありません(山梨はもっとひどいけど…苦笑)。さらに、こう言ってはは失礼ですが、あえて身内なので言います。そういう優秀な子どもたちが大人になって、自殺率全国一位では、いったい「生きる力」を身につけていると言えるのか…極論してしまえば、そういうことです。
 教育に関するデータには要注意です。いつかも書いたように、教育は多分に宗教的な存在ですから、論議する際、どうしても「データ」こそが客観的だととらえられがちです。しかし、たいがいのデータはある種の意図の下に作られているということも忘れてはいけませんね。

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2010.03.22

鼻炎の原因をプロテクト(?)

 、子どもたちとテレビ東京を観ていたら、このCMが流れました。そして、ん?…という違和感が…。
 いえいえ、私の鼻もムズムズしたわけではありません。
 こちらに詳しく書いたとおり、私は重症の花粉症患者だったわけですが、一日一食にした途端にいきなりそれが完治してしまったのですから。つまり、「花粉デビュー」どころか「花粉リタイア」してしまったということです。引退を余儀なくされたと(笑)。
 おかげさまで、今年の春も快適に過させていただいています。先日も強風の静岡に行きましたが、全然大丈夫でしたし、来週は「杉の王国(スギッチの国)」秋田へ行く予定ですが、おそらく大丈夫でしょう。ホント人生の4分の1(つまり3ヶ月)が、あの辛さから解放されたわけですから、助かります。
 さて、そんなわけで、私には鼻炎カプセルは必要なくなったのですが(以前は必需品でした)、このCMはさすがに印象に残りましたよ。だって、間違ってるんだもん!
 「やば!私も花粉デビュー?」というギャル語から、いきなり「効いてます(聞いてます)」というオヤジギャグへ移行する、お天気お姉さんの安座間美優さんにはなんの罪もありません。問題は、ナレーターの言葉です。スーパーとしてもしっかり書かれています、この言葉です。

「鼻炎の原因をプロテクト」

 これ、なんか変じゃありませんか?「鼻炎の原因をブロック」とかだったらいい薬なんですが、もし、この看板(CM)に偽りがないとしたら、このコルゲンコーワ鼻炎ジェルカプセルは、とんでもない薬になってしまいます。
 だって、「プロテクト(protect)」って、「〜を…から保護する、守る」っていう意味でしょう。もちろん辞書にもそう載っています。プロテクターと言えば、その中身を守る防御装備のことですよね。
 つまり、この文面どおりですと、守られるのは「鼻炎の原因」、つまり、「花粉」であったり、「過剰な抗体反応」であったり、場合によっては「ストレス」であったり、そういうことになっちゃいますよね。
 「鼻炎の原因から(あなたを)プロテクト」だったら、もちろんいいし正しいんです。でも、「鼻炎の原因をプロテクト」しちゃったらどうなるんでしょう?美優ちゃんレポーターとしての仕事できなくなっちゃいますよ(笑)。
 で、興和のホームページに行ってみたら、こっちのCMでも、「紫外線を、花粉を、全方位からしっかりプロテクト」って言ってる。文字の方は「カット」「ブロック」って書いてあるのに…。
 さらにですね、さっきは美優ちゃんには罪はないって書きましたが、こちらのスペシャルメッセージではしっかり「鼻炎の原因をプロテクトしてくれる」って言ってます(笑)。ダメじゃん!
 皆さん、どう思いますか?これってまずくないですかね。興和さん、どうですか?社内から声は上がっていないんでしょうか。てか、制作段階で問題にならなかったんでしょうかね?ネットを見ても、誰も何も言ってないし…。私の言ってること間違ってないと思うんですけど。
 いや、花粉を保護してあげて、いいヤツに転換するという、一種の懐柔策なのか…?もしそうだとしたら、コーワすごいぞ(笑)。

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2010.03.21

フジファブリック 『タイムマシン』

 11年前の春に卒業させた教え子たちのクラス会に招待されました。卒業する時は、「このクラスは個性がバラバラだしクラス会やりそうにないね(笑)」と言って別れました。実際今日まで全然集まる機会がなく、今回が初めて。いったい誰が来るのか、どんな会になるのか心配でした(笑)。
 ところが、やっぱり集まってみれば盛り上がる盛り上がる。実に懐かしく楽しい会になりました。彼ら彼女らは今年30歳になる世代です。それぞれ結婚して子どもがいたり(ある男子なんか4人目が生まれたとか…)、いつのまにかバツイチになっていたり、仕事で活躍していたり、悩んでいたり…。
 高校当時はほとんど話をしなかった者どうしが、11年目に大いに意気投合したりして、やっぱりこういう会はいいものですね。今の話と、昔の話との間を行ったり来たり。まさにタイムマシンに乗っているような気持ちでした。
 タイムマシンと言えば、今日会った教え子たちは、フジファブリックの志村正彦くんと同学年になります(高校は違いますが)。小学校、中学校と一緒だった子、中学時代一緒に野球を頑張った子、遠い親戚にあたる子、昔ちょっとつきあったことがあった(!)という子。皆、それぞれに「まさひこ」「まーくん」の思い出を語りました。
 私や一般のファン、そして業界の人たちがイメージしている「天才」としての志村くんとは違い、下吉田のやんちゃな少年としての志村くんが、みんなの心の中に生きていました。
 小、中と何度か同じクラスになったことのある女の子たちが言っていました。「教室でいっつも机をドラムみたいに叩いてたね」。たぶん、頭の中に流れる音楽に合わせてリズムを取っていたんでしょうね。いったいどんな音楽が流れていたのでしょう。
 「いつも笑ってた印象がある」という子もいました。「戻れるかな タイムマシンのように 同じように 笑えるかい」…彼の残してくれた名作「タイムマシン」にそういうフレーズがあります。切なさに胸がしめつけられました。
 志村くんのお母様も、この曲が一番心に響くとおっしゃっていました。その心中を察するに……本当に言葉になりません。
 そう言えば、先日「3月9日」の記事のコメントの中で教えていただいたのですが、レミオロメンの藤巻くんが最近よく聴く曲のベスト10の中に、このフジファブリックの「タイムマシン」を挙げていました(雑誌「VERY」のインタビュー)。同郷、同世代のミュージシャンとして、ある意味最もそれらしい哀悼、敬意の表現だなと思いました。
 それぞれの人生。それぞれの思い。それに関われる幸福と切なさ。今日はいろいろな意味でこの「タイムマシン」が胸に響く1日となりました。
 7月17日のフジフジ富士Q、そうそうたるミュージシャンたちが集まります。志村くんの偉大さ、天才ぶりをこういう形で再確認することになるとは。ちょっと複雑な気持ちでもあります。
 今日のみんなも「行こう、行こう。地元の仲間も盛り上がろう!」と言っていました。本当にこういう少年がここにいたということを誇りに思いますし、彼の人生を絶対に忘れてはいけない、語り継いで行かなければならないと思うのでした。
 私もご縁をいただいた者として、できるかぎりのことをしていきたいと考えています。

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2010.03.20

『マタイ受難曲(バッハ作・メンデルスゾーン編曲)』 シュペリング指揮

20100321_80312 ッハのマタイ受難曲全曲を演奏するというのは、古楽奏者なら一生の夢ですよね。今日はそれが叶うチャンスだったのですが、それ以上に重要な仕事があったので、泣く泣くお誘いをお断りしました。はたして死ぬまでにもう一度チャンスがあるでしょうか…。
 そう、今日はムジカ・ポエティカによる「マタイ受難曲」全曲演奏会が行われたのです。結局聴きに行くこともできず、非常に残念でした。
 上記サイトにありますように、今回は通奏低音にジルバーマンのフォルテピアノが用いられるなど、実験的な要素も多く、また知り合いの演奏家がたくさん出演されていることもあって、非常に興味深い内容だったのです。
 今回は残念ながらご縁がなかったということですか。というか、私自身、マタイについて、あるいはキリスト教についてまだまだ勉強不足ですから、時期尚早と判断されたのでしょうかね、神様に。
 バッハのマタイ受難曲は、言うまでもなく人類史上最高の音楽の一つです。それはすなわち宇宙史上最高の音楽であることをも意味するでしょう。おそらく高度な知能を持った宇宙人なら、この音楽を深いところで理解できるはずです。ある意味これ自体が一つの宇宙なのです。
 こんな人間の智恵の結晶のような作品でありながら、バッハ存命当時はそれほど高い評価を得られませんでした。ご存知のように、世に広く知られるようになったのは、メンデルスゾーンによる蘇演ののちです。つまり、理解されるのに100年かかったということでしょうか。他の芸術分野にもそういう天才的作品というのは多々ありますね。
 さて、今日は自分が演奏できなかったから、というわけではありませんが、まあ毎年レント(受難節)には必ず誰かの受難曲を聴いていますので、家で一つ選んで聴いてみました。それがこれ。我ながら意外なところをついてきた(笑)。
 メンデルスゾーンは14歳の誕生日に祖母からマタイの筆者譜をプレゼントされました。ロマン派の天才少年はバッハの音楽の深さ、恐ろしさを瞬時に感じ取ったと思われます。そして20歳の時、ついにその蘇演の機会を得ます。
 当然、時は流れています。バッハの時代の音楽はある意味古くさい様式でしたし(おそらく私たち現代日本人が江戸の歌舞伎や浄瑠璃を見聞きするのと同じような感覚では)、だいいち楽器がありません。ですから、通奏低音のチェンバロは当然のごとくピアノ(フォルテピアノ)で代用されました。その他、オーボエ・ダモーレはクラリネットで…などなど。
 そういう意味では、今回のムジカ・ポエティカの演奏は、バッハとメンデルスゾーンを結ぶ試みとも言えますね。ピリオド楽器とモダン楽器が混ざっていますし。
 私は詳しくは知りませんが、メンデルスゾーン版は微妙に和声も「現代風」になっているとか。また、とにかく3時間以上に及ぶ大曲ですから、一部カットして短くしています。当然の措置でしょうね。当時の音楽は「礼拝」ではなく「演奏会」のためのものでしたから。
 さて、それで今日聴いたのは、1829年の蘇演としての初演のものではなく、のち1841年にバッハゆかりのライプツィヒ聖トーマス教会で行われた再演の蘇演(復元)ということになります。
 ここでは、さらに面白い音世界が広がっています。レチタティーボを支えるコンティヌオの和音は、チェンバロでもなくピアノでもなく、なんとコントラバスとチェロ(!)です。これはこれでなかなか味わい深いものがありますよ。そして、初演で割愛されたいくつかのコラールやアリアが加えられています。
 考えてみると、1841年と言えば、産業革命の同時代的「気分」も高まり、まさに「神なき時代」を迎えようとしている頃です。そういう中で、バッハのマタイ受難曲という「芸術」自身が「神」になっていった過程として、この事件をとらえるとまた興味深いものがありますね。そして今に至ると。もちろん私にとっても。
 ちなみに、バッハのもう一つの大受難曲である「ヨハネ受難曲」は、シューマンによって1851年に蘇演されています。そちらのこれまた蘇演であるマックス指揮の録音では、フォルテピアノがジャラジャラ鳴っていまして、おそらく今日の武久源造さんの演奏もかくありけるかと思わせるものがあります。いや、武久さんのことだからもっと派手にやってくれているのでは…笑。う〜ん、やっぱり聴くだけでもいいから行きたかったなあ。
 とにかく、マタイもヨハネも、ぜったいに死ぬまでに弾きたい!!そのためにはまずは勉強ですね。

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参考 【送料無料】バッハ / マタイ受難曲(1742年頃バッハ最終演奏版)

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2010.03.19

『踏出力。』 アントニオ猪木 (創英社/三省堂書店)

人間「アントニオ猪木」から何を学ぶのか
88142190 「康で豊かな踏み出す力が世の中を良くすると思う。個々の発想と力は小さいが、それが積み重なって世界が変わっていく」。まさに先日のドラッカーや船井幸雄さんと同じ考え、生き方です。
 やはり、私たちは、変化に愚痴をこぼしているだけでなく、自らが変革者になっていかなければならないのです。そして、個人の力の小ささを理由にあきらめてはいけない。小さな力でも、たくさん集まれば世界を動かします。まさに「百匹目の猿現象」ですね。私たちは、そのためにみんなで生き、組織を作り、支え合っているのであって、決して互いに蹴落とし合うために存在しているのではありません。
 そういう意味で、アントニオ猪木さんの「闘魂」の意味は深い。「闘いを通じて自分に打ち克ち魂を磨く」…それが力道山から受け継いだ「闘魂」の意味だそうです。決して、相手を負かし、自分が勝ち組になるための闘いではありません。
 プロレスというのは非常に奥の深い文化です。ある種宗教的な意味を持つものです。そういう点に関しては、今までもたくさんこのブログで語ってきました。
 私は、そこのところを、馬場さん率いる全日本プロレスから学んできました。ちょっと前までは、いわゆる「全日派」でした。もちろん、今でも全日が大好きで、今日も「ジャンボ鶴田」の名勝負集を家族で観て、興奮し涙を流していました。
 しかし、本当にご縁というのは不思議なもので、ちょうど昨年の今頃からでしょうか、それまでどちらかというと否定的にとらえていたUWFで中心的な役割を演じ、そして現在は猪木さんの側近中の側近として、IGFの運営に尽力している宮戸優光さんと知り合い、期せずして新日本プロレスの歴史を復習することになりました。
 もちろんアントニオ猪木さんについても、今までとは違った視点で見ることになりました。そして、そこに見えてきたのは、それまでのイメージとは違う一面も持った「神」の姿でした。つまり、「怒り」の神としてだけではなく、相手を包み込むある種「仏」的でもある神の姿です。それはまさにプロレスの、そして世の中の真実を語る姿でした。
 この本の中で、猪木さんは、旧ソ連の選手の参戦を促すために、彼らに対して「プロレスの四本柱」を語ったと書いています。それは次のような内容でした。

 1 受け身…けがをしてはいけない。そして相手を技を美しく見せる。
 2 攻撃…力強い攻撃は観客に勇気を与える。
 3 感性と表現力…怒りや痛みをいかにして観客に伝えるか。
 4 信頼関係…究極の闘いを実現させる。

 これは、漠然と私が考えていたプロレス観と全く一緒でした。単なるスポーツでもなく、単なる芸術でもなく、もちろん単なる勝ち負けの世界でもない。その奥深さは実は他のいろいろな分野にもあてはまります。
 たとえば私の仕事や趣味で考えてみましょう。教師という仕事、これはまさにこの四本柱が揃ってなんぼの世界です。生徒の考えや意見はドンと受けましょう。しかし、大人として正しいこと、信念を持って語れることは、力強く教えましょう。そして、感情のみならず知識を伝えるにしてもプレゼンテーション力は非常に重要です。さらに、最後は生徒や親御さん、そして同僚との信頼関係。
 音楽にあてはめても、全く同じことが言えます。演奏をなさる方で、アンサンブル経験の豊富な方なら、この四本柱をよく理解できるでしょう。まさにこの通りです。
 そして、この四本柱を常に高い次元で実現するのに必要なのが「闘魂」であり「踏み出す力」だと思うのです。考えてみれば、この四本柱、一人で出来ることは一つもありませんね。全て人間関係に集約できます。ですから、常に魂を磨いていなければならないのです。
 もう一つ印象に残った「四本柱」があります。猪木さんがカストロ議長と会った時に思い出したというリーダーの「四本柱」です。

 1 ボス猿であること…強いリーダーシップ。仲間を守る。
 2 予言者であること…先見性。
 3 演技者であること…時に人を欺かねばならない。
 4 道化になれること…馬鹿になれ!

 なるほど、猪木さんもこの条件を満たしていますね。多少のハッタリがなければ人は動かせませんね。出口王仁三郎なんかもまさにこの四本柱のカリスマでした。
 この本では、猪木さんの生い立ちと闘いが比較的淡々と語られているんですが、結局読後は「とんでもない人生」を見せられた気分になります。冷静にこういうぶっ飛んだ、世界を股にかけた人生を語られると、なんだか自分がとっても小さく感じられますね。どんなに失敗をしてもどんなに借金をしても(笑)、ぜったいにくじけないし夢を失わない。これは究極の「ポジティブ」「前向き」ですね。その「踏出力」で実際なんとかなってしまうのだから、おそるべきエネルギーの持ち主です。
 先日、猪木さんのお誕生日パーティーに出席させていただきましたが、そんな神様を取り巻く多くの人々もまた強力なオーラを発していて気圧されてしまいました。私なんかまだまだダメダメですね。もっともっと元気に生きなきゃと思いました。「なんとかなる」ではなくて「なんとかする!」という「闘魂」を身につけたいですね。

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2010.03.18

ファミエイト(FAMIEIGHT)

↓白熱灯の部屋でファミコンに興ずる?もちろんブラウン管テレビ!
19_8_41_45 芝が白熱灯生産120年の歴史を閉じるというニュースが流れました。パナソニックも2012年で完全に生産をストップするとのこと。なんとなく寂しいですね。
 いくら蛍光灯やLEDの技術が進歩しても、あの「暖み」は出せません。理由は簡単です。実際に温かさが違うからです。いくら色温度が同じでも、実際の温度が違えば、我々の五感は正直にそれを識別してしまいます。
 ウチも居間は基本白熱灯を使っています。これが全部LEDになってしまうと考えると、正直さみしい気持ちになりますね。材質としての木の温もりと、光としての白熱灯の温もりがあってはじめて、厳寒を堪えられるように思うからです。
 時代の流れとはいえ、そのような寂しさを感じてしまう、あるいは実際に悩んでしまうお宅やお店が多々あることでしょう。
 まあ、そんなこと言えば、ろうそくの揺らぎが良かったとか、ガス灯の雰囲気が良かったとか、いろいろ言えますが。また我々は日常に慣れていってしまうのでしょうね。
 しかし、面白いもので、そうしたアナクロでアナログなモノに久しぶりに触れると、非常なるノスタルジーを、いやいや新鮮ささえも感じることがあるのもまた私たちの特徴です。
 そういう意味で、昨日、今日の我が家は大盛り上がりでした。これがしばらく続くのかな。
 引越しなどに伴い、職員室の整理をしていた先生が、昔の生徒から没収した(いや、実際には生徒自身がこんなのありますと持ってきた)古いゲーム機を発見しました。
19_8_41_58 「ファミエイト」…知る人ぞ知る(らしい)ファミコン互換機です。
 もちろん中国製。8bitのゲーム機。カセットがなくとも、本体に八つのゲームがプリ・インストールされています。
 とりあえずウチで盛り上がっているが、「Mushroom」というゲーム。これは完璧にマリオのパクりです。いや、私はマリオが全然わからんので、カミさんがそう言っているというだけの話ですが。あっ、娘たちもそう言っています。彼女たちウチにゲーム機がないので、YouTubeでプレイ動画を毎日見てるんですよ。それでやった気になっているらしい(これはこれで憂慮すべき事態のような気が…)。
 私、意外に思われることが多いのですが、本当に全くゲームをやってきませんでした。特にビデオ(テレビ)ゲームですね。私の世代は、大学時代にファミコンが発売された、まさに第1世代なんですけどね。どうも私は「ゲーム脳」がないようで、ほんとすぐに飽きちゃうというか、あきらめちゃうというか、他に興味が行ってしまうというか、とにかく全然ゲームを面白いと思わないのです。
 実はこれが最大のコンプレックスです。だって、みんながあんなに楽しそうにやっていることが、全然楽しくないんですから。そのかわり、人が面白がらないようなことを面白がってやってる。自分は、どこか世間とずれているのではないかと、若い時はホントに悩んでいました。
 マンガやアニメについてもそうですね。オタクや萌えの研究をしていながら、自分が全然そういうものに関心がないというのもどうかと思いますよね(笑)。ま、客観的に見られるからいいのかな。
 まあ、それはいいとして、ウチでは四半世紀ほど遅れてファミコンブームがやってきました。
 考えてみると、見るテレビは天才バカボンやドリフやガラスの仮面だし、なんか時代が昭和してますな。家族で共通して聴く音楽もフジファブリックだし、これもある意味「昭和」ですよね。変な家族。
19_8_42_09 カミさんは私より10ほど年下なのですが、なにしろ秋田の山奥積雪3メートルのところに育ったので、時代がやっぱりずれています。ですから、けっこうファミコン世代なんですよね。大人になってからもファミコンをやっていたようです。特にマリオ。
 そんなわけで、この「Mushroom」というゲームに関してはかなりうまい。で、完全シロウトの私や娘が、とんでもないところ(たとえば一番最初)ですぐゲームオーバーになるのを見て、腹抱えて笑うんです。こっちは真剣なのに!
 しかし、こういう平面的なドット画というのも、たしかに味がありますね。それまで、絵にしてもテレビにしても、よりリアルな方向に行っていたのに、デジタル化することによって、極度に簡略化されデフォルメされた特殊な時代なわけじゃないですか。今なら、たとえばDSなんかのポケモンを見ると、明らかにテレビアニメよりも立体的で動きもスムーズです(ま、あのアニメはほとんど紙芝居なんですが…)。
 それに比べて、8bitはすごいですね。我々の想像力による補完が必要です。それって実は非常に重要な気もするんですよね。なんでも、リアルで情報が豊富ならいいというわけではありません。そういう意味では、案外これはいい教材になったりして(笑)。
 それでもやっぱり娘たちは「DSほしい!Wiiほしい!」と言ってます。私は「バカヤロー!ファミエイト全部攻略してからだ!」と一喝しておきました(笑)。

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2010.03.17

『よみがえる“経営の神様” ドラッカー』 (NHKクローズアップ現代)

Drucker1 ラッカー学会代表の上田惇生さんと糸井重里さんを招いて、ドラッカーの魅力と現代における意味を紹介する番組でした。
 昨日の船井幸雄さんが、日本の誇るカリスマ経営者だとしますと、こちらは世界の「経営の神様」です。
 結論的には、お二人ともが「利益を求めることが経営ではない」という点で一致しています。あくまで、どれだけ社会に貢献し、社会を幸福にするか、そしてそういう仕事をすることによって、個人もいかに幸福になるかを追求していると言えます。ドラッカーは言います。「企業にとって利益を目的ではない。手段である。目的はいかに社会に貢献できるかだ」。
 「変化を待っているのではなく、自らが変革者にならなくてはならない」という内容のドラッカーの言葉は、そのまま私が昨日書いた「大志」や「夢」と重なってきます。今の子どもたち、いや大人たちも、ただ「変化」に流されて、そして愚痴を言っているにすぎません。たしかにそれが一番楽な生き方かもしれませんが、とてもとても幸せだとは言えないでしょう。
 たいがい人は愚痴を言ったり、悪口を言ったりしている時、その歩みを停滞させ、変革の努力を怠っています。愚痴や悪口や悲観は、そういうサインなのです。私はそう思うようにしていますし、人を見る時にもそのように見ます。生徒がそういう時には、再び歩み出せるようにいろいろな方法で後押しします。
 「経営」とはマネジメント、まさに「うまくやっていく」ことです。全体を調整し、個々の力を伸ばし、そして、ドラッカー流に言えば「欠点を中和する」ことでしょう。「経済」も元々は「経世済民」ですから、同じような意味でしょう。やはり私たちは「カネ」に毒されていて、それらの本来の意味すら忘れてしまっているのです。
 糸井さんが面白い表現していましたね。「ドラッカーは横を見ずに前を見ている」。誰かと競争したり、世の中の愚痴や悪口に惑わされたりせず、とにかく幸福な未来へ向けて行動するということでしょうね。これは船井さんのポジティブな思考と行動とも重なるところです。
 でも、今日同僚と話したんですけど、単なる「前向き」や「ポジティブ」だけではダメなんですよね。特に最近多い「無知ポジ」。自らの力や社会の現状を知らず、ただただ「なんとかなるだろう」と思っている人です。これは正直タチが悪い。こういう大人や子どもも増えてるんですよ。これについては背中を押さないで引っ張らなきゃなりません(笑)。
 ドラッカーの名言の全てが、いわゆる人生訓ではありませんし、やや現在のドラッカー・ブームは行き過ぎのような感じもしなくもありません。しかし、現代が本来の「経済」や「経営」の意味を見失っているのはたしかですから、こうしてドラッカーをきっかけに、人々が本当の意味で「前向き」「ポジティブ」になってくれればいいですね。
 中学生にはそれを伝えていきましょう。もちろん親御さんにもです。中学生の親御さんは、私と同じ世代。まさに世の中を動かす中心的存在なのですから。

ドラッカー学会

Amazon もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら

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2010.03.16

『2012年の変化はすでに起きている』 船井幸雄 (徳間書店)

「百匹目の猿現象」が起こり、大難は小難になった
19862881 しい中学校が始まるにあたりまして、基本的な方針の確認作業をしています。
 公立中学校ではできないことをたくさん提供したいと思います。単に派手なイベントを催すとか、そういう次元でのことではありません。もっと基本的、根本的な人間教育の面においてです。
 その一つとして、大志を持った子どもたちを育てたいという大きな目標があります。私の考える大志とは、「社会に貢献する」「世界を良い方向に変化させる」という意志のことです。
 先日も、ベネッセの「あなたは40歳くらいになったとき、どんなことをしていると思いますか?」という調査結果がマスコミで報じられていましたね。なかなか面白い結果が出ていました。
Yd_student2 クリックしてご覧下さい。小中高全てにおいて、「親を大切にしている」「幸せになっている」「子どもを育てている」「自由にのんびり暮らしている」が圧倒的に多くなっていますね。
 これらは一つ一つを見れば、決して悪いことではありません。むしろ人間として正しいあり方と言ってもいいでしょう。
 しかし、違う見方をすれば、自分さえ良ければいい、自分の家族さえ幸せならいい、という考えであるとも言えなくもありません。その証拠に、「多くの人の役に立っている」の数値がずいぶんと低いですよね。これは正直びっくりしました。
 我が校はお寺の学校ですから、基本的に「利他」「他人の幸せこそ自分の幸せ」「情は人のためならず」「因果応報」などを教えていきたいと思っています。そういう意味では、この調査結果を見て、さらにその気持ちが強まったと言えますね。
 今の世の中が抱える問題、不安のほとんどは「利己」が原因です。もっとはっきり言えば、カネ(経済)と科学の行き過ぎというか、両者が「利己」の道具にされていることに全ての根源があるのです。
 今、小学校から大学まで、学校で教えられることは、いかにして「勝ち組」になるか、いや「負け組」にならないかということばかりです。もちろん全てがそうだとは言いませんが、多くの大人がそういう気持ちで生きているのは事実なので、結果として子どもたちにもそういう悪い波が伝わっているように思えます。
 ある意味その反動としての、「個人の(あるいは家族の)ささやかな幸せ」指向が強まっているとも言えますね。そこには一種の諦めが感じられます。
 それこそ「夢」がないということでしょう。別に金持ちになったり、有名スポーツ選手になったりすることが「夢」ではありません。もっと単純に、「自分のできることを精一杯やって、そしてそんなみんなが協力して、この世の中を正しい方向に変えていこう」というような「夢」、「大志」を持ってもらいたいのです。
 もちろん、子どもだけでなく大人にもです。
 そういう多くの人の気持ちが、実際に歴史や運命を変えて行くというのが「百匹目の猿現象」です。そういう方法での世の中の変革、幸福の追求の先頭に立っているのが、経営のカリスマ船井幸雄さんです。
 この本には、現在の船井さんの強い気持ちがしっかり刻み込まれています。カネや科学と伍するために、どうしても世界観が、宗教的、そしてある意味「トンデモ」的になりがちですが、私はこういう時代だからこそ、そうした「魂」や「祈り」というものを再評価すべき時だと思っています。日本や世界の歴史の中で、そうした「モノ」を排除して苦しんでいるのは、実はここ数十年の「現代」しかないのですから。
 公教育の現場では、やはりそうした「モノ」は排除されがちです。そういう話をするだけで問題にされてしまいます。ウチは私学ですしお寺の学校ですから、そういう点も必要があれば勉強させたいと思いますね。
 それ以前に、子どもたちには、船井さんの生き方に学んでもらいたいですね。「人の悪口は言わない」「誰に対しても平等に接する」「差別はしない」「人のいいところを見つける」「全てのことは必要・必然・ベストととらえる」「ポジティブに世の中を変える」…まさに、現代に必要な「智恵」でありましょう。
 私自身も、今年は「有意の人」になれるよう努力していこうと思っています。

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2010.03.15

もののあはれ=苦諦

Img20070425_p 日はシンプルですがとっても重要なことを書きます。
 ちゃんとした学術論文を書けばいいのかもしれませんが、どうも私にはあの世界は面白みがないので、ここで発表しておきます。
 今までも小出しにたれ流してきました私の「もののあはれ論」。今日はその結論的なことを書いちゃいます。なんか、早く書かないと誰かに先を越されそうだから(笑)。
 いや、実際はそんな心配はしばらくしなくてよさそうなのです。なにしろ、あの本居宣長翁のおかげで、皆さん大きな勘違いをされているし、それがまた普通に辞書にのっていたり、教科書にのっていたり、とにかく世界中(日本だけではありません)があまりに上手にだまされていますからね。洗脳は当分解けそうにないので、こちらとしては安心です。宣長さんに感謝ですな(笑)。
 でも、やっぱり皆さんのだまされている姿をただ見て笑っているのはさすがに可哀そうですし、だいいち人として失礼です。だから、今までも、こちらに多少詳しく説明したり、こちらで究極の助っ人清少納言さんにご登場いただいたりして、半分楽しみながらホントのことを書いてきました。
 今日はそれをもっとシンプルな等式で表現してみたいと思うわけです。

 もののあはれ=苦諦

 これです。ね、シンプルでしょ?そして、宣長以来語(騙)られている「調和のとれた優美繊細な情趣の世界を理念化したもの」とか「外界の事物に触れて起こるしみじみとした情感」といった言葉が全くのウソであることが分かるはずです。
 この等式は次のようにさらに分解することができます。

 もの=苦
 あはれ=諦

 ん?全く分からないですと?では、シンプルに説明します。
 私の論を今まで読んできた方はお分かりと思いますけれど、私は「もの」という日本語の本質的な意味を「自己の外部」「不随意な存在」「無常なる存在」などととらえてきました。つまり、「もの」とは自分の意思ではコントロールできないものを表すというわけです。もちろん、そこから物体、物質、商品などの「物」という言葉、そして、人間を表す「者」、霊を表す「もの」というような言葉も生まれました。あるいは「もの思い」の「もの」、「物寂しい」の「物」、「〜だもん(もの)」の「もの」、その他古語の「ものから」や「ものかは」など全部説明できます。ま、今日はそこの説明は割愛しますけど。
 で、「苦諦」の「苦」の方ですが、これは仏教を勉強されている方は当然ご存知だと思います。今風な「苦しみ」という意味ではありませんね。サンスクリット語の「ドゥクハ」の訳です。「ドゥクハ」とは、直訳すれば「悪い運命」となりますが、そのニュアンスを探っていくと「思い通りにならないこと」自体を表していることがわかります。
 そうすると、まさに「もの=ドゥクハ」ですよね。だから「もの=苦」という等式が成り立つのです。
 続きまして、「あはれ」です。こちらも現代人には注意が必要です。「あはれ」は「哀れ」ではありません。古い用法を見ると、まさに「ああ…」とか「Aha!」とか「AH!」とかいう、いわば世界的に共通した嘆息、感嘆の音符なんですよね。それは、いい意味でも悪い意味でも、何かを発見した、悟ったというような感じです。
 一方の「諦」についても、現代人は既成概念を捨てる必要があります。「諦」は「あきらめる」と読めますので、ついつい「や〜めた」とか「もう無理だ」のようにとらえがちですが、それよりも「悟る」「納得する」というのが本義です。だいいち日本語の「あきらめる」も、もともと「明きらめる」であって、これは本来「明らかにする」「明らかになる」「晴れやかににする」という意味ですよね。
 もうお分かりでしょう。これで完全に「あはれ=諦」という等式が成り立ちます。
 よって、「もののあはれ=苦諦」。
 以上、シンプルでしょう。つまり、両辺とも「世が無常なる存在であって自分の意思ではどうにもならない、ということを悟る、あらためて知る」という意味になるわけです。
 そして、それは決してジメジメした感じばかりではありません。予想外の幸運の場合にも用いられます。ただ、人間、特に日本人はジメジメに美学を感じるところがありますから、時代を経て、どんどんそちら方向に純化していってしまった感はあります。それで宣長さんも、テキトーなこと言ってしまったということで。まあ、源氏物語(紫式部)さんも可哀そうなことになっちゃいましたね。
 とにかくですね、仏教が伝来して当然「四諦」のうちの「苦諦」も基本的な概念として日本人に浸透していったわけですね。それを和語で表したのが「もののあはれ」だと言うことです。ただそれだけ。
 ということで、これから辞書にも事典にも教科書にも、ぜひとも「もののあはれ=苦諦」と記してもらいたいものです(笑)。そうそう、この「〜ものです」の「もの」にも「不随意」な感じが入ってますね。もう完璧でしょう。でも、ゼッタイ私の思い通りにはなりません。まさに「もののあはれ=苦諦」であります。トホホ。

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2010.03.14

浜松市楽器博物館

20100315_100323_2 日は浜松駅隣接のホテルで結婚式がありましたので、ついでと言ってはなんですが、久しぶりに楽器博物館に行ってきました。
 なんだかんだで20年ぶりくらい?ずいぶんとご無沙汰していました。もう前回の記憶はほとんどなくなっていましたので、いろいろと新鮮に感じましたね。
 まず最初にこれを言っておきます。やっぱり楽器は演奏してなんぼですね。展示されているだけでは、美女を目の前に何もできないのと一緒で(笑)、こっちとしては、生殺し状態ですよ。
 いや、もちろん、博物館ですからしかたないですし、博物館なりにいろいろなレクチャー・コンサートを催したりして、そのへんのサービスにも余念がないのもわかりますけど、ううむ、やっぱり楽器の演奏を趣味にしている者からしますと、どうしてもその衝動を抑え難いのであります。何度触れてしまおうと思ったことか。
 特に鍵盤楽器コーナーではなあ…。鍵盤楽器奏者ではない人間ながら、チェンバロやクラヴィコード、フォルテピアノなどを触らせていただく機会がずいぶんありますので、それぞれの鍵盤のタッチや発音の感触をついつい確かめたくなってしまいます。
 結局、触れたのは現代スピネットと電子チェンバロC–30だけ(笑)。いや、実はC–30触るの初めてだったので、ちょっと感動してしまいました。ほしいぞ…。以前C–20を持っていたんですが、鍵盤のタッチがあれとは格段の違いですね。リアルではないが、十分に心地よい。音もいいし。
15_9_13_55_2 電子楽器と言えば、1階に未整理のまま並べてあった、古典的シンセサイザーたちに萌えました。うわぁ、元祖ドンカマだ!初めて実物を見ました。その他歴史的名機がゾロゾロと。ぜひしっかり整理してもらいたところです。日本の電子楽器は世界に誇るべきものですからね。
 ええと、次なる興味の対象、邦楽器。正直、邦楽器、特に「琴」関係は、もう少ししっかりした展示をしてもらいたいところです。箏もただ並べるだけでなく、生田、山田その他の違いをもう少しちゃんと説明した方がいいですよ。爪だけでなく、楽器自体も違うんですから。
 あと、どう見ても二弦琴である八雲琴などが「一弦琴」としてまとめられているのはどうかと(笑)。
 三味線もしかり。自国を代表する楽器たちですから、もっともっと詳細に説明すべきでしょう。材質の違いとか。
 続きまして、いちおう私の専門分野、西洋擦弦楽器。触りたくなったのは、やっぱりヴィオラ・ダモーレでしょうねえ。昔はずいぶんと弾いていました。ああいうヘンチクリンな楽器弾くの得意なんですよ。またそれに伴う変な楽譜ですね。ちなみにヴィオラ・ダモーレ用楽譜の実例です↓。私自慢じゃないですけど、これ見て初見で弾けますよ。マニアックでしょ。慣れれば簡単です。
20100315_93217
Nyckelharpa2 そうそう、そういう意味で挑戦しようと思っていて忘れていた楽器と再会しました。おお、お前の存在忘れてたよ!それは、スウェーデンの楽器、「ニッケルハルパ」です。これは究極の共鳴弦付き擦弦鍵盤楽器(?)でしょう。弾いてみたいなあ。
 話がいろいろ飛びますが、私が演奏する楽器で、展示されていなかったものがあります。テルミンです(私のは正確に言えばマトリョミンですが)。これはぜひとも展示していただきたい。体験もしやすいですし(つまり触らなくてもいいので)。
 考えてみますと、私、この博物館の鍵盤楽器を演奏して多くのCDを出しておられる小倉貴久子さんのフォルテピアノと、マトリョミンで共演しているんですよね。世界史上初のコラボレーションですよ(笑)。ちなみに曲は「刑事コロンボのテーマ」でした。ハハハ。
 またまた話が飛びます。ウチにもあるけれども、演奏方法が全くわからず放置されている楽器がありました。チター(ツィター)です。ある方から譲り受けたんだった。調弦からして分からず放置したままになっています。そろそろ練習してみようかな。
 と、楽器マニア、音楽マニアにはたまらない博物館でありました。今回はあまり時間がなかったので、また近いうちにゆっくり訪ねてみたいと思います。

浜松市楽器博物館公式

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2010.03.13

東京大学入試問題(国語)より「プライバシー」

↓合格おめでとう!
685 年の「白」に続きまして…そう、まさにその続きのような問題。まあ、あいからわず東大はポスト・モダンなんだなと痛感。私の中ではとっくに終わってるんですが(笑)。第一問、阪本俊生さんの「ポスト・プライバシー」からの出題でした。
 というわけで、今年もまた生徒と今年の東大の問題を解きながら、各予備校の模範解答を採点(!)しました。楽しかった。ちなみに最高得点はS台予備校さんでした。おめでとうございます。合格です。
 第二問古文、第三問漢文は、いつもどおり平易な文章であり、問いもシンプル。満点狙わなければいけない問題です。第四問も文章自体は高校入試レベルです。小野十三郎さんの「想像力」、あまりに当たり前な内容に生徒たちも少しがっかり(笑)。もう少し発見のある文章だといいのですが…。
 今日は第一問について、私の思ったことを書きましょう。短い文章ですからこちらでお読みください。
 簡単に言えば、近代社会の成立とともに我々の内面が「プライバシー」として認識されたが、その後現代になり、情報化によって私たちの外に「プライバシー」が存在するようになったということですね。
 去年の「白」のところでも書きましたとおり、ワタクシ流の解釈によると、近代化とは「コト」化です。その象徴が「ことば」すなわち「テキスト」です。いつも言うように、「コト」すなわち、我々の脳内の「概念」は、メディア(テキストなど)を通して「情報」となります。情報は一度生まれると絶対に変化しません。推敲や更新はされますが、それはまた別の「情報」が生まれているにすぎません。
 そこが、自然たる「モノ」との大きな違いです。「モノ」は生々流転し、また死滅していきます。つまり「無常」なる存在なのですね。「もののあはれ」というのはそこに立脚した言葉です(皆さんそれに気付いていませんが)。
 ですから、「コト」を残すことには勇気がいります。なにしろ永遠に残ってしまうのですから。特に現代においては、主にデジタル技術によって、「モノ」の無常性を乗り越えることが可能になりましたから大変です。劣化しませんし、完全なる複製があまりに簡単にできるからです。
 それこそが、「白」における緊張感でありましたし、今回の「プライバシー」に関わる本質的部分なわけですね。お分かりになると思います。
 近代化、すなわち「パブリック」が成立したのちに「プライベート」が対比的に生まれたというのも、いかにもアカデミックな単純思考ではありますが、まあとにかく当初の「プライバシー」は、たしかに個人の内面の問題でしたよね。つまり、自己の内面は、他者にとって常に「モノ(外部・不随意・不可知)」であったわけです(だから人を「モノ(者)」と呼ぶのだと、私は考えています)。
 それが、主にテキスト(言葉)というメディアによって「コト」化されてしまって、どんどん蓄積され、さらに世界中に公開される可能性を付与されるわけですからね。それは緊張もしますし、プライバシーの侵害も憂慮されますよ。
 ですから、この文章、まあ当たり前のことを難しく言っているだけとも言えます。それこそが「学問」のからくりであり、「東大」のからくりでもあるわけですが(特に文系…笑)。
 昨日の話にも関わってきます。最近の若者の「空気を読む」人間関係ですね。それはそうですよ。今どきの若者がどうのこうのではなく、今どきの大人が用意してしまった「ネット社会」の中で、彼らは当然のごとく進化したわけですよ。なにしろ、彼らの人間関係はテキストに依存しまくっていますからね。
 テキストという「コト」はとにかく残るんです。自分の意志に関係なく増殖するんです。だから、緊張するわけですよ。それが「空気を読む」ということです。そして、表面的で偽善的なテキストを並べるのは、それは「プライバシー」に留意しているからです。自分の本当の内面を「コト」として残さないように気をつけているのです。
 私もこうして毎日とんでもない量のテキストを生み出し、そして世界に発信していますが、やはりそれなりの「緊張感」や「プライバシーへの配慮」があります。ある意味それとの闘いに疲弊しているとも言えます。いや、それとの戯れを楽しんでいるとも言える。
 このブログ、なんだかメチャクチャ雑多な内容なわりに、1日1000以上のアクセスがあり、しかしその割にコメントがあまりつかず、もちろん炎上なんかもしないじゃないですか。これって、ある意味私の特殊なリテラシーによるものでもあるわけです(ホントか?)。
 いわば「匙加減」とでもいうような、とっても人間的でアナログ的で、「モノ」的な要素で、機械的、デジタル的、「コト」的なネットの欠点を補完しているわけです(ホントか?)。
 つまり、輪郭がはっきりしないように、あえてネタも雑多にし、意見も変幻自在で一貫性がないように努めている…。ですから、実際の私に会うと、みんなそのギャップに驚く…わけはなくて、実はこのブログのまんまの人間なんですよ(笑)。そういう意味では、私はネット社会向きの人間、つまり、「モノノケ」であるということしょうか。ハハハ。

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2010.03.12

BSフジLIVE PRIME NEWS

20100313_75046_2 よいよ戦後最悪の暴力的施策「地デジ化」完全実施、すなわちアナログ放送停波まで1年あまりとなり、我がアナロ熊も絶滅の危機に瀕しております。温暖化でホッキョクグマが…とかいうくだらないことはいいから、こっちをなんとかしてほしいものです。
 そんなわけもあってか、最近ほとんど地上波を見ません。いちいち「アナログ放送は2011年…」とか言われたくないからです。地デジの受信も可能ですが、例によってここ富士山では普通の設備では障害が出まくります。途中で固まるテレビなんか絶対見たくありません。
 ニュースは最近このBSフジ「PRIME NEWS」ですませますね。昨年10月から夜8時〜10時の放送になったので、ちょうど帰宅夕食時間とも重なっていまして、ゆっくり観られるようになりました。
 ワタクシ的にはこの番組けっこう好みのタイプですね。まず2時間という大きな枠がいい。じっくり一つのテーマを掘り下げ、討論していく番組が少ないですからね。特に民放では。無駄な演出もなく「硬派」な感じなのもいいですね。
 キャスターが私と同世代である反町理さんと八木亜希子さんというのもいいのかもしれません。なんとなく共感できる部分があるのでしょう。
 ゲストも多彩ですし、BSにしては(失礼)かなりゴージャスなイメージですよね。特に閣僚や議員さんは地上波では言えないようなことにも言及くるような気がします。
13_8_14_52 今日のテーマも面白かった。『近頃の若者はなぜダメなのか? 新村社会とは』。ゲストは「近頃の若者はなぜダメなのか?」の原田曜平博報堂研究開発室主任研究員、「友だち地獄」の土井隆義筑波大学教授、そして現役大学生の男女二人。
 最近の若者の、「空気を読み合う」人間関係、つながりすぎている人間関係、互いを傷つけまいとする人間関係についての討論。40代反町さんは、まったく理解できないという風でしたね。いつも彼のツッコミは鋭いし、ボケは面白い。これもまたこの番組の魅力でしょう。
 私は仕事柄、常に「今どきの若者」と付き合っていますので、彼のように全く理解できないということはありませんよ。私の印象で言えば、このネット、ケータイ社会という「新ムラ社会」において、彼らはとんでもなく鍛え上げられていますよ。ものすごくコミュニケーション能力があると思います。
 10代、20代の若者は、非常に他律的で安定志向、欲もありません。半径5キロ圏内で生活する。これはまさに仏教的生活とも言えます。私はそれでいいんじゃないかと思うんですよね。上の画像の「新村社会の掟」なんか、まあ人間界修行の掟みたいなもんじゃないですか。これが出来ないより出来た方がいいに決まっている。
 大学生二人も言っていたとおり、これだけが彼らの人間関係ではないのです。ある程度の距離のある、他者性のいまだ強い関係においては、こういうリテラシーというかストラテジーというものは、絶対に必要なものです。そして、互いの距離が短くなれば、また違った「何でも言い合える」人間関係が成立します。これはどの時代でも同じことでしょう。
 それに比べますと、30代はいけませんね。ちょっと乱暴な言い方になりますが、彼らは自律的、自立的であろうとするあまり、結局孤独になってしまう世代なんですよ。ちょうど、「国際化」とかいうフィクションが横行し、「ノーと言えないのはダメだ」「日本人は曖昧だ!」的雰囲気の中で育った世代です。自分の意見をはっきり言いなさいと教育され、それをあまりに正直に受けとってしまって、実際実践し、そして今とっても疲れているように見えます。ま、一概に言えませんけど。
 結局ここニッポンは「ムラ」なんですよ。どこにいようとどんなツールを使おうと、ムラに生きる術を覚えなくてはいけないのです。世界で生きる以前に日本で、ムラで生きなくてはならないのですから。
 さてさて、この番組のいいところはですね。たとえば今日のこの楽しい討論をですね、みんなで共有できるというところなんですよ。たとえば、今日のハイライト(必要十分な内容です)は、もうこちらで観ることができます。
 10日経ちますと映像では観られませんが、ちゃんとテキストに起こしてくれます。それがどんどん蓄積していきますから、あとで見忘れたものを観たり読んだりしてもいいし、自分に必要なテーマを必要な時に探して利用してもいい。
 これって、小論文や面接のネタに使えるんですよ。それらをする生徒や学生にも、そして我々のようなそれを指導する者にとっても。ニュースが垂れ流しにならず、ちゃんと歴史になっていくところがいい。そしてさらに、どんどん一般視聴者の意見も加えられていく。そういう、時代の「知」と「恥(?)」の歴史がテキストになっていくのは面白いですね。
 もう一つ、日曜日に「PRIME NEWS Weekend」として総集篇が放送されるのもいいですね。とりあえず高校教師としては、これさえ観ていれば困ることはないようです。

PRIME NEWS公式

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2010.03.11

神秘的なバリケード

22177000655 は何かに「ふと」気づくことが多い人間でして、まあ、つまりはそういう思いつきで行動していく、あるいはそういうモノに頼って生きているというようなところがあるんですね。
 今日も全く妙なタイミングで突然変なことを思いつきました。それが、この曲についてなんです。
 この「神秘的なバリケード」、フランス・バロックを代表する、すなわち当時においてはまさに時代の寵児であったフランソワ・クープランの名曲です。彼の膨大な作品の中でも、比較的よく知られているのではないでしょうか。
 それにしても、このタイトルが不思議ですよね。日本語訳にも、「神秘のバリケード」とか「神秘なバリケード」とか「神秘的な防壁」とかいろいろありまして、もうそれだけでも「神秘的」なことになっています。私だったら「ミステリアスなバリケード」と訳しますな(笑)。
 このあまりにミステリアスでチャーミング、すなわち小悪魔的な魅力を持った曲、なんでこんな妙なタイトルがついているんでしょうね。いや、まんまミステリアスでチャーミングだから命名の妙なのかな。クープランのネーミングのセンス(おそらくフランス人のセンス)は、なかなか日本人には理解しがたい部分があります。いや、たぶんドイツ人やイギリス人の方が理解できなさそうだな(笑)。
 なんといっても「バリケード」ですよ、問題は。なんで「バリケード」なんだろう。この音楽の印象からして、いわゆる戦闘用のバリケードではありませんよね。もっと抽象的なものでしょう。
 そうしますと、皆さんもお考えになるであろう人間関係にある障壁、もっとリアルに言うと、男女の間に存する越えられそうで越えられない一線という感じもします。
 で、そんなことを昔からぼんやりとは考えていたんですが、今日突然私の頭の中でこの曲が流れ始めまして、それも、ある特定の音だけが強く響き渡って、それで自分なりにこの曲名の謎が解けてしまったんですよ。
 もしかすると、今から私が書くことは、とっくに誰かが言ってるのかもしれませんが、私はそれを聞いたり読んだりした覚えはありません(たぶん)。
 まずは聴いていただきましょう。初めて聴く方もいらっしゃると思います。たぶん一気に魅せられてしまいますよ。

 いかがでしたか?この演奏は20年ほど前にエイズで亡くなったフランスの天才クラヴサン奏者スコット・ロスの演奏です。私はこの演奏がずっと好きでした。
 私、スコット・ロスとは直接面識はありませんでしたが、彼の愛弟子であった曽根麻矢子さんから話を聞いたり、あるいは彼愛用のクラヴサンを作っていた制作家のデイヴィッド・レイさんが、なぜか単身我が家に遊びに来て、二人でロスの遺した録音を聴いたりしてましたので、まあ一般人にしては何かとご縁があった方とも言えます。
 続きまして、ピアノによる現代的な感覚の演奏です。このスピード感は新しいですね。まさに時代を超えて進化した感じです。クープラン自身の指示「Vivement」からするとこれもありかもしれません。ショパンやリストに通ずるものさえ感じます。

 さて、いよいよ私の「バリケード」解釈(思いつき)です。それには次の動画を見ていただく必要があります。この演奏には当時の楽譜が添えられていますので。
 右手がアルト記号ですから、普通の現代人は面食らってしまいます。私はヴィオラ弾きですし、固定化(近代化)されていない当時の楽譜をいろいろ見ているので、それほど違和感を抱きませんが。ええと、真ん中の線上の音が、それこそど真ん中の「ド(1点ハ)」です。
 で、注目してほしいのは、その一つ下の「シ♭」の音ですね。この曲は「変ロ長調」ですから、主音ということになりますね。

 この曲、繰り返しを含めますと全部で81小節あります。その中で主音の「変ロ」の音が鳴っていない小節は、実は9小節しかないのです。そのうち低音部に出てくるものを除いて、純粋に「(無印)変ロ」が鳴っていないものを数えてもたった11小節しかありません。
 つまり、81小節のうち、70小節で真ん中のドの一音下の「変ロ」が鳴っているのです。これはまさに「一線」ですね。
 しかし、これが全部ではなくて、一部欠けているところがあって、そう、最近トキがイタチかなんかに襲撃されましたけど、あのようにちょっと穴が空いている感じなんです(ちょっと違うか)。それがまた、なんとも「神秘的」な魅力を催すわけですよ。入っていけそうで入っていけない。攻められそうで攻められない。
 音楽史を見渡せば、いわゆるドローン・バス(固執低音)が、さまざまな「音楽」の起源であることは明確です。近代になってからも、それをあえて使用する作曲家が多くいました。また、現代でも「ワン・ノート・サンバ」のように、ずっと「一線」が続く曲が作られています。
 実は、クープランもこの曲の中に「バリケード」を仕組んでいるのではないか。それも、多少「守りの甘い」バリケード。
 そこがまあ、男性からしますと、女性の行動や意識に重なるような気がするんですよねえ(笑)。その証拠と言ってはなんですが、最後の変奏のこれまた最後の8小節は、今まで内声に仕組まれていたバリケードが、最上声に浮かび上がり、ほぼ完全なる防御態勢に入ります(1ヶ所ちょっとだけ緩んでますけど)。ううむ、なんかこういう記憶あるぞ…笑。
 と、こんなことを突然思いつく(それも聴きながらじゃなくて)私って、実は天才なんじゃないかと思ってしまいましたよ(笑)。だって、こうして楽譜で確かめてみたら、ホントにそうだったので。
 もしかすると、誰かがもうとっくにこういうことを言っているのかもしれません。晩年のスコット・ロスがこの曲をレッスンしているビデオがあると聞きました。とりあえずそれを見てみたいものです。彼の解釈はどんなふうなんでしょう。私と同じだったりして!?

現代楽譜を特別公開します。こちらです。ぜひ弾いてみてください。4声のテクスチュアは、実際弾いてみると非常に難しいことがわかります。

Amazon 中野振一郎さんのCD

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2010.03.10

土方巽「病める舞姫」を秋田弁で朗読する…米山九日生少年に捧ぐ

11_6_10_15 「るい!」…これを言ってしまうと、ある意味全てが終わりになってしまいます。特に土方巽の「研究」をされている方々にとっては。
 しかし、やはり今回も、ウチのカミさんは開口一番「ずるい、おめ、シティボーイでねえが」と言いました。私はその意味が、最近になって、半分くらい解るようになってきました。だからこそ、あえて「研究者」の側に立ちたいとも思いますし、逆にカミさんのような「研究以前」「学問以前」の土方像にも興味を持っています…なんていう、私が一番「ずるい」のかもしれません(笑)。その話はのちほど。
 さあ、昨日、私が残念ながら参加を断念したこのイベント。大雪の中、強行軍で参戦したカミさんは、土方を「ずるい」と言ったバチでも当たったのか、帰りに大雪の富士山でプチ遭難し、結局帰宅できませんでした。
 そんなわけで、今日じっくり報告を受けましたので、私なりにそれらを解釈して書いてみたいと思います。
 さあ、まずはこのイベントの説明をしなくてはなりませんね。この朗読会は、以前私も 「土方巽 絶後の身体」出版記念パーティーでお会いしたことのある、慶応大学アートセンター・土方巽アーカイヴの森下隆先生が企画した、ある意味「無謀な」試みであります。「病める舞姫」を秋田弁で語る…「無謀な」というのはもちろん批判的な意味ではありません。非常に勇気のいる、しかしだからこそ意味のある、また一方で危険性もあるという意味です。
 秋田出身の土方巽が、彼の原体験を標準語で口述したものを、基本秋田弁ネイティヴでない人が秋田弁で語るという、まあ、あまりに多重で錯綜したフィクションの世界なのです。ここに勇気のいらないわけがありませんよね。
 そして、それを秋田弁ネイティヴ、それも自称「四世代秋田弁ネイティヴ」、土方の本家および鎌鼬撮影地のすぐ近くで生まれ育った、ウチのカミさんが聴くわけですから、ますます危険であります(笑)。
 ちなみに、朗読側には一人だけ秋田弁ネイティヴが方がおられました。それもプロ中のプロ、あの山谷初男さんです。寺山修司とも親交のあった山谷さん。お会いしたかったなあ…カミさんは、秋田弁でずいぶんとしゃべったようですが(ちとうらやましい)。
 というわけで、結果はどうであったか…ある意味予想通りであったようです。非ネイティヴの語るエセ(あえてそう言いましょう)秋田弁土方も、ネイティヴの語る秋田弁土方も、それぞれの面白さがあったけれども、やはり、山谷さんの語りが一番しっくり来たと。まあ、当たり前すぎる感想ではありました。
 ただ、カミさんの言で面白かったのは、今まで活字としての「病める舞姫」では共感できなかった「モノ」が、山谷さんの朗読…というか口述で、しっかり立ち上がってきたというところでしょうか。「わがるわがる」となったというのです。それもいかにもありそうな感想ではありますが、しかしそこにこそ「言葉」の本質が隠されているとも言えなくもありません。
 「母語」と「非母語」の関係というのは、まさに「母」と「他人」の関係に近いものがあります。いや、もっと言ってしまえば、土方やウチのカミさんにとっての共通語(標準語)というのは、「ニセ母」的な怪しささえ持っているのです。
 考えてみると、太宰治も寺山修司も土方巽も、かなり特殊の「母性」に対する表現を持っていました。ある意味そこに根ざしていたとも言えます。そこにちらつくのは、「ニセ母」の匂いです。それをもって「都会」に挑戦していった、カネを得ていたとも言えます。
 本当の「母」から、夢想的に生まれる新たな「母」。そして、そういう「モノのけ」の一般化、あるいは商売化のメディアが、共通語=標準語=日本語という「コトのは」であったように感じられます。
 もうそれだけで、かなり事情は複雜ですが、さらに面倒なことがあります。それはある意味研究者の気づきにくい部分でしょう。
 カミさんに言わせれば、秋田市で裕福な家庭に育った土方さえも、完全なる秋田ネイティヴではなくなってしまう部分があるのです。彼の動きや言葉が「土に根ざした農耕民族の記憶」などと言われるのは、ある意味心外だそうです。だって、彼、そういう生活していなかったのですから。だから、私たち夫婦の感想としては、彼はたとえば、米山家本家の努さんの生活動作を盗んだにすぎないのです。もう、その時点でフィクションなんですね。
 それを、東京を中心とする都会で商売にしたわけですから、さらにフィクション(騙り)が重奏されていきます。そして、今回のような試み。それは、土方言語の再生、復元という意味を完全に離れて、さらなる複雑怪奇な「物の怪」を現出させてしまいました。ま、私がいつも言う「コト」を極めて「モノ」に至るというやつですよ。
 知り合いのニューヨーカーが言っていました。どう見てもとっくに単なるアメリカ人になってるヤツが、「オレはイタリア系だから…」とか「ウチはユダヤ系なんで…」とか言い出してウザイと。ニューヨークだからそういうことになるんですね。普段意識していない(エセ)アイデンティティーを振り回し始める。それと同じような匂い…いや臭いが、太宰や寺山や土方や、あるいは葛西善蔵なんかにあるわけです。それを商売にしてしまっている、ある意味いやらしさが。
 つまり、それが「ずるい!」という部分であり、以前ウチのカミさんと、土方の後輩にして土方以上の天才(?)棚谷文雄さんがつい言ってしまった「土方の舞踏は、ありゃあ、農作業の動作だ、マタギの作法だ、ケンカのやり方だ、舞台の演出も、ありゃあ秋田の日常風景だ、芸術でもなんでもないし、いったい何がすごいんだ…」という、もうどうしようもない本質にぶち当たるわけですよ。
 まあ、それを分かっていながら、しかし完全には共感できない、非ネイティヴの私なんかは、「いや、それを超えて、つまり本人の意思を超えて、様々な解釈によって無限に生まれかわるのこそが『芸術』である!」とでも言うしかないわけです(多分、多くの研究者の皆さんもそうでしょう)。プロレスを八百長だと言いきってしまって、結果乾いてしまう我々がそこにいるのです。
 考えてみれば、私がさかんにやっていますところの、現代日本人が前近代のヨーロッパ音楽を当時の習慣に従って演奏する「古楽」なんていう分野も、まさにそういう矛盾との闘い、そしてそれを経た上での発見と創造なわけです。だからこそ楽しいし、意味があることだと思うんですよね。
 長くなりますが、思いついたことをもう少し。
 東北の、すなわち縄文系の「言葉」のリズムというのは、実は韻文的ではありません。五七五とか、そこに伴う「言霊」なんていうのは、西南の文化です。東北は明らかに散文。それも、イタコのような「騙り」のリズムです。
 私、これを一度だけ体感したことがあるんです。そうそう長老の「シゴト」「モノガタリ」という記事にしましたっけ。完全ネイティヴたちによる「騙り」の「場」です。ここで展開した秋田語(決して日本語ではない)は、実に美しいリズム(拍子ではなく、流れです)を持っていました。そこに、私も乗っからせてもらって、その「場」に参加したのです。これはものすごい体験でした。
 それなんですよね。私が太宰や寺山や土方の言葉から感じるモノは。それがたとえ「日本語」で記録されていても、その「場」の空気のようなモノはしっかり残っていると思うんですよ。その空気を、知っているか、知らないかは、彼らを理解する上で、あまりに明確な分岐点になっているような気がするんです。私は本当に幸運にも、そういう場に参加させてもらい、本当に表層的ではありますが、その空気を感じることができたのです。本当にありがたいことです。
 私のベースは完全に「東京=現代日本」です。だからこそ分かる、というか意識化される何かがあるでしょうし、カミさんのように、全く逆のプロセスを経て、「現代日本」を表層的に感得している人間もいます。だからこそ、私たち夫婦にしかできない、土方巽(や太宰や寺山)へのアプローチというのもあると思うんですよね。僭越ながら(笑)。
 ああ、なんかいろいろなモノが湧いてくるんですが、それこそ「コト」化できなくて実に苦しい。気持ち悪くなってきました(笑)。
 私の究極の「モノガタリ」論は、こうしていつまでたっても完成しないのでありました(つづく)。

慶應義塾大学アートセンター

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2010.03.09

『“3月9日” 卒業ソングに託す思い』 (NHKクローズアップ現代)

 日は3月9日。毎年のように書いているような気がしますが、この日は私にとっても特別な日です。
 大切な友人の誕生日でもありますし、また、あの土方巽の誕生日でもあります。なにしろ彼、本名は米山九日生(くにお)ですから。まんまですよね。
 そう、それで今日は本来なら、東京は阿佐ケ谷で行われた土方巽関連のイベントに参加する予定だったのですが、予定外の仕事がいろいろと入ってしまい、またとんでもない大雪になってしまい、私はやむなく欠席することとなりました。
 それで、一人東京へ行ったカミさんはですね、この大雪のおかげでウチから5キロほどの場所で車が立ち往生し途方に暮れていたところ、結局たまたますれ違った知り合いの、富士吉田のお宅に泊まることになったと、先ほど電話が来ました。まあ、たしかにこの雪ではいくら四駆でも富士山に登ってくるのはきついですね。それにしても、この夜中によく人が通ったものだ。それも知り合いが。私もさすがに救助に行かねばと準備をしていたのですが、まあ私の車では「ミイラ取りがミイラになる」のは確実だと思っていたので助かりました。危ない危ない。二人で富士山で凍死するところだった。
 さてさて、今日はもちろん、このレミオロメンの名曲「3月9日」、まさにその日でありますね。少し前にレニーニの記事に書きましたとおり、山梨県人が生んだ世界に誇る3大バラードの一つです。
 私も毎年、いろいろなところでいろいろな機会で演奏することのあるこの曲。成人式、卒業生を送る会、卒業式、そして他校での出張講義の中でも弾いたことがありましたっけ。
 ちなみに今年は、卒業生を送る会(予餞会)で、レミオロメンの「sakura」を、ヴァイオリンとチェロとピアノで演奏する予定だったのですが、どうしても私が中学の仕事を抜けられず、残念ながら断念せざるをえなくなりました。4月の入学シーズンにリベンジしたいと思っています。
 「3月9日」は、4年前のこちらの記事に書いたとおり、まさに「縁と恩」という仏様の教え(すなわち世の真理)を的確に表現した作品だと思います。
 高校生の旅立ちを支える大人たちというか、大人たちに支えられた高校生の旅立ちを追った今日の「クローズアップ現代」。たしかに、不景気の中奮闘し苦悩する高校生を、毎日目の当たりにしている私としては、よ〜く解る内容でした。ウチの学校は、それこそ皆さまのお陰様をもちまして、希望者全員の就職が決まりました。ありがたいことです。
 この富士北麓地方はもともと経済状況が芳しくない地域です。それがこの不景気ですからね、正直それぞれの事業所もきついと思います。それでも地域の若者のために様々な形で協力をしてくださるわけですから、本当に頭が上がりません。お世話になる生徒諸君は、本当にその恩に報いてもらいたいと思います。
 ゲストのあさのあつこさんがおっしゃっていたとおり、そういう厳しい状況だからこそ「縁と恩」を感じることができ、その結果、「あなたにとって私もそうでありたい」と思えるのでしょう。いつも書いていますが、「報恩」とは、その恩をいただいた人自身に何かを返すことではありません。ですから、ここでの「あなた」も特定の人、目の前の人だけをさすのではないのです。「誰かにとって」でいいのです。
 それにしてもこの山梨発の名曲「3月9日」が、今や卒業シーズンを彩る代表曲になっているというのは、実にうれしいことです。オリコンの「卒業ソングランキング」で3年連続1位を獲得したとか。2位がユーミンの「卒業写真」、3位が海援隊の「贈る言葉」ですからね。そういうレベルでのスタンダード・ナンバーになったということでしょう。すごいですねえ。
 それにしても、今年はなかなかレミオロメンをじっくり聴く気分になりません。ニューアルバムも素晴らしい出来であることは分かるのですが…。あまりに「生きている」ことの素晴らしさ、不思議さを歌う曲が多いからでしょう。もちろん、それ自体は素晴らしいことです。しかし、こちら側がそれを受け入れる気持ちになっていないのも事実なのでした。
 そして、なにしろ、寒すぎて寒すぎて。今日もこの辺の最高気温は氷点下3度でした(笑)。最高気温ですよ!暖かくなってくれ〜!早く桃の花のもとで彼らをじっくり聴きたいものです。

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2010.03.08

北川大介 『北の終着駅』

 い。また雪が積もりました。そして、妙な底冷え。
 こんな日にぴったりの曲を紹介しましょう。「北の終着駅」。これを聴けばますます心が寒くなります(笑)。
 なんで、よりによって北川大介さんのこの曲かと言いますと…。
 皆さん、「いきなりカラオケ」という遊びを御存知ですか?いや、遊びではなくトレーニングかな。
 いわゆる通信カラオケでですね、テキトーな数字を入れて、再生された曲を最後まで歌いきらなければいけないという、なかなかシビアなゲームです。
 普通のカラオケに飽きてしまった人、それから、たとえばウチみたいに、音楽を志す(?)人には、かなり面白くためになる遊び(トレーニング)となります。
 実はこれにはかなり高度な能力を必要とするんですよね。まずは、様々な音楽的な知識というか経験。すなわち、全く知らない曲に当たってしまった時、経験によって、次なるコード進行やメロディー展開を予想しなければなりません。
 そして、その予想の上に、アドリブによってメロディーを作り、またそこに歌詞をうまく配置して歌っていかねばならないわけです。
 たぶん皆さんも、こういう遊びをやったことがおありだと思いますが、実際やってみますと、「運」というのもかなり大きな要素になってくることが分かります。
 つまり、当たった曲のジャンルによって、歌いやすさ、作りやすさが違うということです。皆さんの予想通り、たとえば演歌とかブルースとかはコード・パターンが固定化していますから、まあ歌いやすいですよね。
 一方、案外難しいのが、いわゆる歌謡曲です。昭和の歌謡曲は常に実験的でしたから、繰り返し聴く曲としてはキャッチーでも、いきなりだとかなり難しい。
 そういう点では、昭和的であり、プログレ的であり、変態的であるフジファブリックの曲なんか、かなり難しいでしょうね。というか、ファンとして曲を知っていても、彼らの曲はカラオケで歌うとけっこう難しかったりします。
 また、案外簡単なのが、90年代のポップスや現代のhip-hop系の楽曲です。小室の曲なんかも。とにかく、コードにしてもメロディーにしてもパターン化が酷く、私からすると全部同じ曲なので、そういうのが当たるとラッキーです。
 もちろん知っている曲が当たれば大ラッキーなわけですが、ちょっと知ってる曲、あるいは人はよく知ってるが自分はあんまりよく知らないという曲に当たると、心が「無」の状態にならないので、案外難しくなります。ゼロからの作曲モードにならないんですよね。
 ま、とにかくある程度そういう能力のある人たちと、こういう「いきなりカラオケ」をやりますと、盛り上がること必定です。そのかわり、とんでもなく疲れます…。頭フル回転です。インプット→想像→創造→アウトプットをその瞬間瞬間でやってくわけですから。もちろん、1番で学習して、2番以降に活かすとか、そういう頭の使い方もしますよね。
 で、今年の1月に、教え子とこれをやったんです。で、いろんな曲を作りまくったわけですが、この「北の終着駅」が一番ウケました。演歌なので、比較的歌いやすかったというのもありますが、なんと言っても荒木とよひささんの歌詞が良かった。もうコテコテに演歌すぎますよ。切なすぎます(笑)。
 そして、この映像ですね。歌詞に合わせたこの映像の味わいが泣けます(笑えます)。「倖せうすい」「微笑みうすい」…う〜む、素晴らしい日本語であります。
 なんか、それ以来、この「北の終着駅」という言葉がローカルで流行ってしまいました。切ないこと、落ち込むことがあると、この言葉が飛び交います(何やってんだか)。
 というわけで、ぜひこの遊びをお友だちとやってみてください。ウチは子どもたちの音楽的な才能を鍛えるために定期的にやらせてますが(笑)。

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2010.03.07

満員御礼!「古典派の変容」

↓合唱のリハの様子
08_7_57_15_2 来場くださった皆様、ありがとうございました。
 あいにくのお天気にもかかわらず、2階席までほぼ満席。本当にたくさんの方々に聴いていただけました。
 浜離宮朝日ホールで行なわれました、東京クラシカルシンガーズ&オーケストラ・ピリオド・トウキョウの第9回演奏会『古典派の変容』にヴィオラで出演しました。
 ハイドンの「天地創造ミサ」を中心としたプログラム。全ての曲が、私にとっては初体験(聴いたことがない作品も半分)ということで、いろいろと勉強になりました。
 いつも書いているように、私の音楽体験はかなり偏っている(いわゆる両極端で真ん中が抜けている)ので、こうして古典派以降のいわゆる「近代芸術音楽」を勉強できるのはありがたいことです。実際当時の様式で演奏しながらの初体験なわけですから。
 ええと、実は昨日の「同窓会」の宴の余韻がしっかり残っておりまして、午前中のリハではかなり集中を欠いていました。これはいかんなという感じだったのですが、さすがに本番は気合いが入りまして、まあそこそこの演奏ができたと自負しております。
 まあ、さすがにあれだけお客様が入り、そして、メンバーの皆さんの本番ならではの集中力から創出される「音魂」を浴びてしまいますと、そりゃあ二日酔いも眠気もぶっ飛びます。音楽にはそういう力があるんですよね。これこそ演奏の喜びです。やっぱり音楽は聴いているだけではもったいない。
 三島由紀夫は「音楽」を悪魔扱いしていました。他の芸術と比べて、あまりに一方的に自分に入ってくるからだと、そんなことを言っていたように記憶しています。それはすなわち、彼が「歌」も含めて、音楽を創出…とは行かなくとも「送出」することができなかったからでしょうね。だって、私たち文章の受け手からすると、彼の文学はまさに「悪魔」ですからねえ。ま、三島由紀夫がハイドンとか演奏したら、いったいどうなっちゃうのか、ちょっと恐いような気もしますが。
 それにしても、ハイドンも悪魔ですねえ。というのは、今日もヴァイオリンの人たちと話したんですけど、とにかくあまりにヴァイオリンのパートが難しすぎる。私はこう言い放ちました。「これじゃあ、8楽章まであるヴァイオリン・コンチェルトのソロをみんなでユニゾンで弾くようなものだ」と。
 いやはや、まじでヴィオラで良かった。ヴィオラのパートになりますと、突然音の数が百分の一以下になります。音数が少ないし、チェロのパートとかぶることも多いとは言え、やはり和声や音楽の流れの要を押さえた「選ばれし音」を弾いている快感があります。
 それに比べて、あのヴァイオリンのパートの無意味な(失礼)難しさはなんでしょう。異常ですね。いくら上手なヴァイオリニストを抱えていたからと言って、さすがにあれはやりすぎでしょう。いけません。何か意図(意味)があったとしても、それは聴衆には伝わりませんよ。単なるヴァイオリンいじめにしか思えません(笑)。
 しかし、ヴァイオリンの皆さんは本当によく頑張っていらして、練習ごとにその響きが美しくなってきていましたが、さすが本番はお見事でした。私にはとても真似できません。
 ヴァイオリンのみならず、他の弦楽器、管楽器、そして合唱の皆さんも、本当に真摯に音楽に向かい合っている感じがしまして、なんか演奏しながら私は申し訳ない気持ちになってしまいました。
 ま、それも実は一瞬でして、あとはヴィオラの役得ということで、実に気持ちよく演奏させていただきました。
 これだけの大人数で一つの音楽を作っていくのは楽しいですし、難しい面もありますが、より「自己」が滅却されて、「他律的」になっていくのが快感であったりします。「自己」の集合は「他者」になる、すなわち、いつも言っている「コト」を極めて「モノ」に至るというやつでしょうか。
 声楽の皆さん、さすがプロ中のプロ。本番中も感動しきりでした。そのような方々と一緒にできるのも、また考えてみればありがたいことです。
 そして、いつもいつも音楽の、それこそ音の楽しみ方を教えてくださる指揮者の坂本徹さんには感謝です。また、ぜひ誘ってください、いろいろと(笑)。
 ちなみにこの楽団の次回演奏会は10月10日です。同じ浜離宮。「テレジア・ミサ」…これまた知らない曲だ…。

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2010.03.06

石川台中学校同窓会

08_7_57_03_2 んと30年ぶりの再会。このタイミングでこの会が開催されたことに運命を感じます。
 いやあ、中学校って大切ですね。この4月から中学を開校するにあたり、本当に素晴らしい勉強の機会をいただきました。感謝です。
 東京都大田区立石川台中学校昭和55年卒業…私は、1年生の末に父の転勤に伴い静岡に転校となってしまったので、この中学には1年間しかいませんでした。しかし、この1年間というもの、明らかに今までの45年間に及ぶ人生の中でのピークでした。
 中学1年がピークというのもおかしな話ですが、これはおそらく私の両親なども認めるところでありましょう。
 本当に楽しい、いい思い出しかありません。勉強にスポーツに音楽に恋愛にと、非常に充実した時間を送らせていただきました。
 そんな時間を共有した仲間たちにこうして再会できるなんて、本当に思いもよらないことでした。そう、私は転出生なので、そういったクラス会などのお誘いはないと思っていたからです。
 それがこうして幸運にも呼んでいただき、そして、皆さんと再び交わることができるなんて、本当にありがたいことでした。
 今回の一つの結論。「男は中学時代のまま大人になる」。本当にみんなあの当時の面影のままでした。そして、今の仕事の内容や仕事ぶりを聞くと、「なるほど!やっぱり!」というのがほとんど。ある意味予想通り、イメージ通りの人生を歩んでいる。
 そう、それほど中学時代に培った(それも私が知っているのは彼らの1年生の時だけですからね)私たちの「キャラクター」「アイデンティティー」というのは重要なのでしょう。もちろん、小学校時代も含めた様々な要素があるでしょうし、その後の高校、大学での経験というのも大切でしょうが、やはり、中学時代に築いた基盤というのが重要なんだなと実感しました。
 もう1ヶ月後にはその中学1年生を教える立場になるわけです。本当に今日は最も大切なことを学ばせていただく機会となりましたよ。本当に良かった。運命的ですね。
 さて、私自身のことも確認しました。ある意味忘れていたことでもあります。当時の(つまり人生ピークの)私を、みんなはどういう目で見ていたのか。そして、今のこの「教師」という仕事については、どう感じるのか…。
 これがまた、実に面白かったんですよね。ま、人生ピークだなんて自分で言うくらいですから、勉強はけっこうできた方だと思います。あの中学は地域柄非常に学力が高い学校だったのですが、その中でもかなり目立っていた存在だったと思います(過去の栄光)。ですから、私がその後転落の人生(?)を歩み、地方の弱小公立大学に行ったのは、正直意外だったようです。
 そして、「先生」という仕事については、「転職だね」「やっぱり」と言う人が多かった。なんとなくそういうイメージがあったんでしょうか。
 今日は当時の担任の先生方もいらっしゃってました。皆さん、もうすでにアラエイティーでいらっしゃるわけですが、本当にお元気で矍鑠とされており、そして皆さん口を揃えて「先生はいいよ。今こうして若々しくいられるのも先生だったからかな」とおっしゃっておりました。同業者としてうれしいお言葉ですよね。
 ちなみに今日集まった人たちは、ほとんど全ての人があの大村はま先生の授業を受けています。しかし、意外に印象に残っていないんだよなあ…。ま、私も、恐れ多くも同業者になってみて、それで初めて大村先生の偉大さ、神っぷりを体感しているわけで、たしかに授業の細部というか、いわゆる単元の内容はほとんど覚えていません。いろいろな会話や風景は焼き付いているんですが。まあ、たぶん、大村先生のような授業は、知識を身につけるだけのものではありませんから、みんなの、それこそ「基盤」の部分にインストールされているのでしょうね。まさに「仏様の指」です。
 それから「私」についての思い出と言いますと、みんなが「星」のことを挙げました。なるほど、たしかに天文マニアだったので、よく友だちに天体望遠鏡で星を見せていました。最近は星を見上げることもすっかり減ってしまいましたが、たしかに、星が見える所を求めて転居を繰り返し、そしてしまいには富士山に住むようになってしまったのですから、やはりあの頃に縛られているのかもしれないなあ…。
 そして音楽。これはELO(エレクトリック・ライト・オーケストラ)です。これもかなり人に押しつけていたようです(笑)。で、今日会った数人に、いまだにそこから抜け出せないというようなことを言われました。むむむ、30年に及ぶ「呪縛」か(笑)。いやあ、結構変なところで影響力があったんですね。
 いや、これもまた考えてみるとですね、私もかなり縛られていますよ。ちょうど明日東京でコンサートをやるわけですが、私がヴァイオリンを始めたのはもちろんELOの影響です。実際のところ、私は中学2年の時、すなわち静岡に転校してからヴァイオリンを始めましたので、ちょうどそれについては、彼らの記憶にはないわけです。しかし、説明すれば納得するわけですよね。ある意味「ああ、やっぱり」「なるほどね」ということになるわけです。
 それから、けっこう自分では意外だったのが、「一見まじめだけど、スケベだった」というご意見です(笑)。なんか、いろんな人に言われたぞ。妙にそっちの知識に詳しかったとか…。おいおい、そんな記憶はないけど(笑)。でも、どうもあれだけの人に言われるということは、実際「博士」だったらしい。これもある意味今でも続いている…いやいや、今では普通だと思いますが(汗)。
 と、こんな具合で、他者に対しても自己に対しても、いろいろなことを勉強させていただきました。それ以前にとにかく楽しくて飲みすぎました。
 あっ、ちなみに女性たちですが、これは正直いろいろでして、う〜む、あまり分析(?)している余裕もありませんでした。ただ、まあ30年前の「切ない思い出」がいろいろとよみがえった…かな(笑)。それもまた中学時代の大切な何かでしょう。
 いずれにせよ、今回の再会から、また新しい縁も生まれることでしょうね。お互い社会である程度重要なポジションになってきていますから、コラボすると面白いものが生まれるかもしれません。
 それにしても、オレってどこで「転落」し始めたのかなあ…そっちにも興味が湧いてきました。転落の地が「静岡」であることはたしかなのですが、いったいどういう要因で、どういう過程を経て、たった5年やそこらで(特に勉強において)転落していったのか、それを自分を対象に研究してみたくなりました。マジで。これこそ私の今の仕事にとって重要なことのような気がします。
 ま、とにかく本当に素晴らしい機会をありがとうございました。幹事の皆様ありがとうございました。またすぐにでも再会したいものです。

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2010.03.05

『日本人の知らない日本語2』 蛇蔵&海野凪子 (メディアファクトリー)

84013194 句なし!面白い。
 またまた向かいの理科の先生が貸してくれました。「1」が面白すぎたので、「2」は出るだろうけれど、はたしてネタ的にも前作を超えられるだろうかと勝手に心配していましたが、杞憂でした。
 はっきり言って、私にはこちらの方が面白かったし、日本語の知識的にもちょうどいいレベルでした。いちおう日本語学を専門にしている私がそう感じたのですから、一般の方にはちょっとイメージしにくいところもあったかもしれません。
 この本の面白さの本質的なところ(つまり今日も書こうと思ったこと)については、前作についてのこちらの記事に全部書いてありました。
 というわけで、今日書くことがない!すなわち、私はネタを出しきってしまって、前作を超えることができなかったわけです…orz。
 今回ネタとされている「ら抜き言葉」についても、私はこちらの記事で書いてしまっています。説明のしかたはちょっと違いますけどね。
 今回書くとすれば、私も外国人に日本語を教えたいなということでしょうか。日本人に日本語を教えてウン十年になりますが、どうもそのおかげで自分の「日本語観」というか、「日本語の風景」が硬直化してしまっているような気がするんですよね。
 今回のネタの中にもいくつも出てきましたが、「なるほど、そうやって教えてるのか!」ということがたくさんあります。外国人に教える「外国語としての日本語」の方が、ずっと日本人にも分かりやすいのです。たとえば敬語。この本にあるとおり、外国人の方が正しい敬語を使ってますよね。これって、やっぱり教育側の問題なんですよ。実用的に教えるか、学問的に教えるか。実用の方には「例外」という言葉を使えますが、学問には「例外」は許されません。
 私、最近、古典文法を教える際に、こうした「外国語としての日本語を実用面から教える」という手法を取り入れているんですよ。そうすると、生徒も楽しく勉強できますし、私も教えていて楽しい。根性と時間があれば参考書でも書きたいところです。
 で、案外、そういう捉え方をするとですね、言葉の本質も見えてくるんですよ。言葉とは「実用」から生まれた産物ですから。学問なんてのは、後付けに過ぎません。それで例外を認めないようにするから、たとえばこちらに書いた「下一段活用(蹴る)」なんていう珍項目を作らねばならなくなるわけです。
 それを丸暗記しろ!なんて言われている高校生は可哀想ですよね。私はそんな教え方しませんよ。いつも言っているとおり、ウチの学校では「活用表」を覚えたら怒られますから(笑)。
 4月からは高校を離れて、中学の教壇に立つことになります。中学では現代文法をやるのですが、あんなもん大学入試にも出ません(つまり人生で必要ない)ので、私は「外国語としての日本語」を教えようかな。うん、これいいアイデアだ。そして、まずこのマンガを教材とする。おお、これで決まり(笑)。

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楽天ブックス 日本人の知らない日本語(2)

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2010.03.04

冨士山下宮小室浅間神社(下浅間)

05_6_40_42 ふぉ〜寒い!今日は最高気温が2度って…朝から雪が舞っています。
 そして、明日の予想最高気温は20度。最高気温の日較差が18度ってありえませんよね〜。
 本当ならレミオロメンのニューアルバム「花鳥風月」のレビューなどを書かねばならないところですが、この寒さではとてもそんな気になれません。彼らの持つ明るい陽射しのイメージとはほど遠い体感風景。
 そして、この下吉田界隈の空気に触れていると、やはりフジファブリックの志村正彦くんのことが常に思い出されて、同じ山梨でもある意味対照的なレミオには、まだまだ浸れる心境にはなれません。明日は暖くなるらしいから、そろそろ本格的に聴きこもうかな。ま、いずれ近いうちに書きます。
 さて、そんな寒さの中、1時間の散歩…ではなく、巡視というお仕事。志村くんが見て育った風景、月江寺、下吉田地区を歩いて巡回いたしました。
 その中心基地(?)になるのが、この下浅間(しもせんげん)。彼の通った小学校のすぐ隣にあるこの神社、別の意味でもいろいろと私の興味をひくところがある名社です。その別の意味について語り出す前に…。
 志村くん、お正月に実家に帰ってくると必ずこの神社に初詣でしていたんですよね。昨年は年始帰ってこなかったので、残念ながら参拝できなかったようですが、おととしは元旦に訪れていました。教え子が見かけて写真撮ってもらったとか言ってたっけ。本当なら今年も…。
05_6_41_10 考えてみますと、志村くんはコノハナサクヤヒメと縁が深かったのかもしれませんね。浅間神社の祭神は木花咲耶姫です。初期の名曲「浮雲」に出てくる「いつもの丘」は、地元では忠霊塔と言われて親しまれていますが、あそこも「新倉浅間神社」です。御両親のお話によりますと、帰省した際には、彼はあの丘(実際はものすごい急坂で、丘と言うより山の中腹なんですが…)にも必ず足を運んでいたそうです。
 彼の意識の中には、近所の慣れ親しんだ神社、あるいは富士吉田の街や富士山を一望する丘でしかなかったかもしれません。しかし、もしかするとコノハナサクヤヒメが彼を呼んだのかもしれない…境内でしばし佇んでいた私にはそんなふうにも思われました。
 コノハナサクヤヒメは実に美しい女神であったと言います。しかし、一方でその名の通り、はかなさの象徴でもありました(姉のイワナガヒメは逆に永遠不易を象徴します)。そして、夫神瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)への純粋な愛を証明するために自らの命を賭した出産をしました。
 そんな美しさやはかなさ、そしてまっすぐな純粋さが、志村くんと重なりました。彼けっこうフェミニンですし。
 話がいろいろ飛んで申し訳ありませんが、今私が研究している出口王仁三郎もコノハナサクヤヒメとは実に深い関係があります。彼の霊界物語の冒頭にもあるように、彼が神人になったきっかけとなった高熊山の霊山修業は、木花咲耶姫の天使、松岡芙蓉仙人に導かれてのものでした。もちろん、彼の教義の中心には「天教山(=富士山)」が置かれていますし、富士吉田は明見から富士山噴火まつわる霊石を運ばせ、大本の究極の聖地である綾部の本宮山の頂上に安置したりしています。
 王仁三郎もまたコノハナサクヤヒメに導かれて世界を動かしたわけです。コノハナサクヤヒメは「火の神(火山の神)」であると同時に「水の神(鎮火の神)」でもあります。王仁三郎的に言うと「火(厳)」と「水(瑞)」の融合体であるのかもしれません。
 これはまあ私事とも言えますが、今、我が家にはこの二人にちなんだ物と、そして浅間神社の神符とが並んで安置してあります。考えてみれば、私もまた導かれてここ富士山に住むようになったわけですから、いろいろと不思議ですね。そうそう、こちらの記事に書いた私の受験失敗談ですけど、そこにある「メジャーな大きな神社」というのは静岡の浅間神社のことです。私、彼女(コノハナ)に、かなり強引に富士山に連れて行かれたっていうことですね、今思えば(笑)。結婚式も上浅間の神殿でやりましたし。なにか神縁をいただいているようです。
20100305_91644 ま、つらつらとそんなことを考えながら、下浅間の境内を徘徊していたのでした。
 最初の方に書いた「別の意味でも」という部分について語ると、非常に長くなってしまいますので、またそれはいつか書きます。ま、明見にも存在する「小室浅間神社」との関係、我が月江寺との領地争い&権力争い、境内にある桂の木にまつわる大塔宮護良親王伝説の真偽、流鏑馬と筒粥占いの謎、いろいろです。
 簡単に言ってしまえば、富士講および富士道(参詣道)の変遷と宗教ビジネス、明治に入っての排仏毀釈と社格獲得問題など、いろいろとドロドロした意味です。境内にある由緒書には記されていない歴史の方がたんまりありますからね。
 観光地としては、上浅間すなわち上吉田の冨士浅間神社の方が有名ですが、もし富士吉田においでの際には、ぜひこちら下浅間の方にもお立ち寄りいただきたいですね。上とはまた違った良さがありますから。お馬さん可愛いし。
 そうそう、今年は60年に一度の「御更衣大祭斎行」という木花咲耶姫さんのお召し替え神事があるそうです。9月19日深夜2時(!)。これは楽しみです。

御更衣祭の記事

下浅間公式

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2010.03.03

サビ猫

Uni_3792 日はひなまつり。上巳の節供。今までもこの日にちなんでいろいろな記事を書いてきました。
 でも、そろそろネタが切れてきたので、今年は軽く。でも、今年しか書けない内容です。たぶん。
 ひなまつりと言えば女の子の節句。ウチは厳密に言えば男は私一人しかいません。まず、カミさん。典型的な女です。あと娘が二人。これも観察する限り(体も心も)女のようです。そして、猫たち。新入りのメスの黒猫が一匹と、あとは古株のおかま黒猫が二匹。もとはオスですが、去勢しているのでほとんどメスのようになっています。
 このような状況だけ考えても、男の私はかなり孤立というか四面楚歌というか孤軍奮闘していることがわかりますね。
 そこに最近ですね、さらにもう一人、いやもう一匹女の子が増えたんですよ。メスのサビ猫。サビちゃん。
 実は今、サビちゃんはウチに居候しているのです。たぶんもうすぐどこかにもらわれていきます。ちょっと寂しいなあ。
 なにしろ、ものすごくいい猫なんです。まず「サビ猫」というだけで、猫マニアは垂涎します。雑巾猫と言われて捨てられることも多いけれども、だからこそか、猫好きにはたまらない魅力のある種です。べっこう柄だからべっこう猫とも言いますね。
 そんなサビがウチに来るようになったのは、数カ月前のことです。玄関先でニャーニャー鳴いてました。それを見て、ウチの黒猫同盟、いや自宅警備隊が「ウ〜」とか「シャー」とか言っていたんです。
 でも、サビは全然動じることなく、また妙に人懐こい。郵便屋さんが来ても、セールスマンが来ても、とにかくスリスリしてしまうくらい。
 そのうちに、ウチの娘たちもとっても気に入り、また仲よくなりまして、いつのまにか家の中で遊ぶようになってしまったのです(って、家に入れちゃったのは親の方ですが)。
 家の中では、案外自宅警備員たちはおとなしく(まあ、自宅警備員の特徴でしょう。自分に直接害の及ばないネット上では妙に攻撃的だったりして)、いちおう小さめに「ウ〜」とか言ってみたりはしていますが、基本的にはケンカにはなりません。どちらかというと興味を持っているようです。
Uni_3746 で、サビの方はもうすっかりウチでくつろいでしまい、いつのまにか自宅警備員たちのトイレを借用、いや占拠して用を足すようになってしまったり、それこそもうすっかりまったりモードに入ってしまっています。
 実は首輪をしていたんです。それで、しつけもしっかりできていて、人の膝にはすぐに乗ってきますが、椅子やテーブルには絶対に上がりません。食べ物についても、こちらがあげるまではしっかり座って待ってますし。決して物を破壊したりしませんし、爪研ぎも決められた物でしかしません。もちろん避妊手術もしてありました。どこかのお宅でかなり可愛がられていたのでしょう。
 とにかく、これはどこかの家から迷子になったか、あるいは捨てられたかしたのだと思い、いちおうポスターを作って飼い主を探したんですけれど、誰も連絡をくれません。
Uni_3747 まあ、ホントにとってもいい猫ちゃんなので、このまま飼ってもいいんですけどね、いちおう黒猫三匹のストレスやら、猫の食費やらを考えると、そういうわけにもいかない、誰かにもらってもらおうと考えています。というか、どうも教え子にもらってもらえそうな気配です。
 実は新入りの下半身不随黒猫ミーちゃんは、私に全然懐かないんです。それに比べてこのサビは私に一番懐いてるんですよ。だからなあ、なんとなく別れは辛いのですが、ま、これ以上一緒にいるとホントに情が移っちゃうんでこのへんでお別れしましょう(涙)。
 よく言われているとおり、サビ猫や黒猫は性格がおとなしく、そして聡明です。ですから飼うにはとっても楽ですね。まさに人は、いや猫は外見では分からないということでしょうか。いやいや、人間もだいたい見た目と内面の美しさは反比例する…?
 
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2010.03.02

秋山真之と出口王仁三郎

Saneyuki 「所へ行って見ても、半歳か一年経つ中に、自分の方が偉く思われて来て仕方がない」…秋山真之の言葉です。ちょっと困った人ですね、本当にこう思っていたのだとしたら(笑)。
 以前、「猫の事務所」の記事で書きましたとおり、戦前の政治・経済・文化など、あらゆる歴史的事象を正しく理解するためには、当時の「心霊ブーム」を研究しなくてはなりません。実はそこのところが、我々現代日本人の苦手なところになっているんですね。すなわち、そのあたりを学校で教えていないわけです。
 もちろん、それを積極的に教える必要はありませんが、しかし、教育現場からそれを完全に排除することには大反対です。ま、ウチは仏教系の学校ですから、全然排除していませんけどね。
 とにかく、戦前、いや戦中までの日本は、我々が考える以上に「オカルト」的で「スピリチュアル」的なんですよね。政治も、経済も、文学も、音楽も、軍部も、マスコミも。戦後はそれを無反省に反省してしまい、単なる「アヤシイ」世界として嫌悪するか一笑に付すかしてきました。それでこの始末です。
 で、そうしたあちら側を研究するのに、どうしてもその中心に置かねばならない人物が出口王仁三郎なのです。
 そこで今日は、ある意外な人物と出口王仁三郎の関係がわかる文章を紹介します。書いたのは浅野和三郎。元大本の信者、王仁三郎の右腕だった人物ですね。第一次大本事件ののち大本を去り、現代のスピリチュアルブームにもつながる「心霊科学研究会」を設立した日本心霊主義の父と呼ばれる人です。
 彼が大本に入信し、綾部に引っ越してすぐに、あの秋山真之が彼を訪ねています。最近NHKのドラマ「坂の上の雲」で大人気のあの人です。
 そう、司馬遼太郎の「秋山真之」像も、先ほど言った視点に欠けているんですよね。司馬作品は全体にそういうところが弱いとも言われます。ま、司馬文学は立派な戦後文学ですからしかたありませんが。
 で、その欠けた部分を表現して余りあるのが、この浅野和三郎のこの文章です。和三郎が大本を離れる年に書いた「冬籠」という文章の一部です。
 ここでは、実にストレートな秋山評が展開されています。この対面のあと、真之は多くの海軍軍人を巻き込んで王仁三郎に傾倒していくのですが、大正六年にある勝手な「予言」をしてしまい、大本に多大な迷惑をかけてしまいます。結果とし大本を離れざるをえなくなってしまいます。そのあたりの事情も含めて、浅野は苦言を呈しているのでしょう。
 しかし、面白いのはこの文章が書かれた大正十年、浅野も秋山と同じようなことをしでかし、結果として大本を離脱したことですね。そう、第一次大本事件の発端となる「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えたのは、彼を中心とする急進派たちでした。彼らの「予言」で世の中は騒然となり、結果として大本は官憲に弾圧されます。
 来る者は拒まず、去る者は追わずの王仁三郎のところには、本当に多くの人々が出入りしました。去った者が自らを非難しても、悠然として動ぜず、それどころかそういう人たちのことをいつまでも気にかけていたという王仁三郎のスケールの大きさには感服します。
 今、こういう世の中になって、ある意味浅野和三郎や秋山真之が自分以上に注目されているのを見て、王仁三郎はいったい何を思っているのでしょうか。
 では、どうぞ。お読みください。

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 十二月の十四日の午後であった、自分が二階へ引籠って、頻に「神霊界」の原稿を書いて居る所へ、大から使者が来て名刺を持参した。
『このお方が見えて居ますから直に来てください』
 名刺を見ると、意外にもそれは秋山眞之海軍少将であった。
『秋山少将か、こりゃ面白い、早速行くと言ってください』
 実際自分の心の中は勇み立った、秋山将軍といえば天下の名士であり、神算鬼謀、天下無比と謳われて居る人だ。自分は永い間海軍部内に居ることは居たが、まだかけ違って一度も其謦咳に接したことがない。然るにこの人が、自分が綾部に引越したたッた三日目に参綾するというのは、不思議といえば不思議だ。斯ンな名士から早く判って呉れれば誠に結構、頑迷不霊な海軍部内も案外容易に覚醒するかも知れぬと、うれしくって耐らなかった。そして神ならぬ身の、意外な突発事件が秋山少将を中心として起り、ますます誤解と紛糾とを重ぬるに至ろうとは、露ばかりも想像し得なかった。
 兎も角も急いで大本に行って見ると、出口先生と秋山さんとは、統務閣に於て正に会談中であった。自分も早速其座に加わって初対面の挨拶もそこそこに、直に神霊上の問題に突入した。
 秋山さんの顔は従来写真で知って居るだけで、実物を拝見する事は今日が初めてであった。高い湾曲した鼻、やや曲った口元、鋭い、しかし快活な眼光、全体に引緊った風 丯動作、誰が見ても只者でない丈はすぐ判る。海軍士官気質という、一種独特の型には箝って居るが、しかし何処ともなく、其型を超越した秋山一流の特色も現れて居て、妙に人を引きつける所があった。確に僥倖で空名を馳せ居る人ではないと首肯された。
 談話を交ゆること一時間ならずして秋山さんの長所は次第次第に判って来たが、しかし其短所弱点も亦髣髴として認められた。頭脳の働きの雋敏鋭利を極め、為に停滞拘泥することを嫌い、自分が善と直覚するものに向って、周囲の一切の顧慮を打棄てて勇往邁進する勇気にかけては、確に天下一品の概を有して居た。軍人でも政治家でも、官吏でも、或る地位に達すると、兎角イヤに固まって了って、心の門戸を鎖し、清新溌刺の気象に乏しくなる。殊に知名の名士という奴が却って可けない。僥倖で博し得た其虚名を傷けまいとして、後生大事に納まり返る。其麼人物には面会せぬに限る。会えば一度でがっかりして了う。所が、秋山さんには微塵も其臭味が無かった。日露戦役の殊勲者などという事を毫末も鼻の端にブラ下げず、思うて居る事は何でも言い、判らぬ事は誰に向っても聴き、キビキビした、イキイキした、何とも言えぬ美わしい、気持のよい、真直な男らしいところがあった。
 しかし一方に長所があれば、同時に又短所の伴うのは致し方がないもので、秋山さんは余りに其頭脳の鋭敏なのに任せて八人芸を演じたがる所があった。一つの仕事をして居る中に、モウ其頭の一部には他の仕事を幾つも幾つも考えて居るといった風で、精力の集中、思慮の周到、意志の堅実などというところが乏しかったようだ。
『参謀としては天下無比だが、統率の器としては什麼であろうか』
 というのが海軍部内の定評のようであったが、成程この評にも一片の真理は籠って居ると思われた、人にはそれぞれ特長があり、方面がある。秋山さんは日露戦役に海軍の名参謀として立派な職責を果し、又天下の耳目を一身に集めた人である。それ丈で秋山さんの秋山さんたる所以は十分に発揮されて遺憾なしである。終生ただの一度も花咲く春に逢わず、空しく埋木となって了うのも決して尠くない。慾をいえば限りがないが、秋山さんの一生などは先ず以て最も意義ある、又最も華やかなる一生と言うてよかったようだ。
 が、自分は茲に秋山さんの人物評を試みるのが目的ではない。秋山さんの晩年と大本との関係を有りのままに描きたいと思うばかりだ。大体に於て言うと、秋山さんの信仰に対する態度には、例の秋山式特色が現れて居た。早呑み込みをするが、ややもすれば移り気が多過ぎて、其結果不徹底に流れた。或る時期には明照教に凝って見たが、一年足らずで之を見棄て、次で川面凡児氏に傾倒し、同志を集めて其講演を聴いたり何ンかしたが、之も一二年で熱がさめた。池袋の天然社にも出入したが、それも余り永くは続かなかった。兎も角も物質かぶれのした現代に一歩を先んじて、神霊方面の問題に研究の歩武を進めようとしたのは、確に卓見たるを失わなかったが、姉崎博士の所謂迷信遍歴者という部類に編入されても致し方がないところがあった。彼方を漁り、此方を漁りて帰著する所を知らない。吾々から無遠慮に之を批評すれば信仰上の前科者であった。最後の秋山さんは大本に来たが、モウ一と息という所でこれにも躓いて了った。
『何所へ行って見ても、半歳か一年経つ中に、自分の方が偉く思われて来て仕方がない』
 その日秋山さんは自分に向って斯ンなことを述べたが、秋山さんの長所も短所もよくこの一語の裡にあらわれて居たように思う。

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2010.03.01

W.F. バッハ 『オルガン作品集』 (J. ブラウン)

20100301_153707 楽における「変態性」とは何か。最近興味のあることです。
 もちろん、「変態」の定義さえも難しいのですが、なんというか、簡単に言ってしまえば、聴いているとこちらも「変な気持ち」になるということでしょうかね。そして、その「変な気持ち」が心地よい。
 この「変態」という言葉はもちろん、昨年末急逝したフジファブリックの志村正彦くんに対する賛辞としてよく使われました。彼についての「心の鬼…モノノケハカランダ」という記事にも書いたとおり、人の心には自分でも説明のつかない「物の怪」が潜んでいます。我々はそれを幽閉して日常を生きています。それこそが「社会性」であり、そのために我々は常に「偽善的」であることを「善」としています。
 しかし、時にそうした「モノ」が地下水脈から湧き出ることがあるんですね。これは、いつも書いているように、個人に限ったことではありません。社会全体や歴史にも頻繁に、かつ必然的に起きていることです。だいたい、私たちが非日常的な恐怖を感じる事件や事故がそういうモノだと思っていいでしょう。
 さて、そうした「モノ」を徹底的に排除して、いわば「コト」だけで世界を構成し、結果としてそこに絶対的な「神」を現出させたのが、近代西洋文明です。その象徴として、これも最近何度も書いている「クラシック音楽(西洋芸術音楽)」があるわけですね。
 そこにはたしかに「偽善的」な美しさがあります。先ほど書いたように「偽善」は社会的「善」であり、ある意味我々人間の「理想像」でありますから、この美しさはもちろん悪いものではありません。逆に素晴らしいと思います。秩序の世界ですから。
 そうした「コト」的コスモスに、「モノ」的カオスが混入するのが、「変態的な音楽」ではないでしょうか。志村くんの音楽と、そして言葉には、そういう「心の鬼」が頻繁に顔を出します。そして、それが私たちの「心の鬼」と見事共鳴して、「偽善的」ではない「真悪的?」な美しさを醸すのです。それももちろん音楽や我々にとって悪いことではありません。なぜなら「真」だからです。
 さてさて、そうした「変態的」な「真音楽?」として、最近注目しているのが、大バッハの長男、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの作品群です。
 彼は、なにしろあの「コト」を極めたバッハの息子ですからね。やはり天才の血というか知を承け継いでいます。そして、お父さんに溺愛され、お父さんに英才教育を受けます。大バッハの主要作品のいくつかが、長男のために書かれた練習曲であるというのは有名な事実ですね。
 しかし、まあ溺愛され、英才教育を受け、そして期待され、そしてそして、あまりに偉大な父を持った息子の宿命なのか、フリーデマンは天才ではなく「変態」になってしまいました。
 才能はあるのに人間性に問題があり、音楽の時流にも乗れず、常に人間関係に疲れ、全く花開かない人生を送ってしまったのです。しまいには、父の作品を自作として発表してしまうようなことまでしています(なんか、その気持ちや行動よく分かりますが)。
 その作品には、偉大なる父の呪縛からも逃れられず、弟たちのように要領良く当時のトレンドにも乗れず、非常に苦しんだ痕跡を聴くことができます。しかし、最近、その「苦しみ」から生まれた「変態性」がなんとなく魅力的に感じられるのですよね。不思議なものです。
 で、今日、ちょうどNMLの新譜としてこのアルバムが紹介されていたので聴いてみましたら、これが実に良かった。初めてまとめて彼のオルガン作品を聴きましたが、どれも微妙にひねくれていて美しい(笑)。正直私好みです。
 父バッハの晩年の作品なんかも、ある意味異常にオタク的ですが、やはりそこには究極の調和や秩序を感じるのですね。神を感じるけれども、人間らしくはない。
 その点、この長男の作品群は、どれもどうかしている。それが案外人間的であり、音楽的なのです。いつも書いているように、西洋近代音楽は世界の音楽史の中ではあまりに特殊すぎます。特に純粋な鍵盤音楽は。その中で、ある意味本来の「人間的」な「音楽」を取り戻そうとしたら、こういう方法を取るしかないんじゃないでしょうか。
 このアルバムの演奏ではありませんが、YouTubeに「フーガヘ長調」がありましたので、ぜひ聴いてみてください。
 テーマは普通ですが、どんどん「心の鬼」が現れて、あちらの世界に行ってしまっています。半音階がどんどん混入していって、いやに現代的な(?)和声、いやある種の非調性音楽になってしまっています。最後は無理矢理現世に戻した感じで、やや唐突に終わってしまいますね。
 そして、特に興味深いのは、3回出てくるあの「ブリッジ」ですね。父バッハをお聴きの方は、もうすぐに気がつかれると思います。そう、あの平均率第1巻の終曲、あのロ短調フーガのブリッジをそのまま借用していますね。あれはたぶん父バッハ最高の発見(すなわち宇宙音楽史最高の発見)の一つであろうと思います。だからこそ誰も借用していないと思ったんですが、なんと最も身近な長男が露骨に借用していたとは。
 いや、これがまた単なる借用じゃないんですよね。3回目ですよ。これには思いっきり「心の鬼」が父の威光を引き裂くかのように割って入っています。もう、こうなると「理論」を完全に超えてしまっています。私はそこが一番変な気持ちになって、一番気持ち良かった!…なんて私もかなり変態なんですかね(笑)。
 まあ、とにかく、今まで彼のことを知らなかった方、興味のなかった方もぜひ聴いてみてください。たった4分ちょっとです。

 これを聴くと、私の変態フーガなんか、全然甘いですね(笑)。修行、いや苦行が足りん!!

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