『公教育のあるべき姿を 鈴木文科副大臣に直言』 (BSフジ PRIME NEWS)
先日紹介したBSフジ LIVE PRIME NEWSの今日のテーマは「公教育のあるべき姿を 鈴木文科副大臣に直言」。実際の内容的には、「公教育」「義務教育」に限らず、教育全体の論議になっていました。
ゲストは鈴木寛文科副大臣、浅田和伸品川区立大崎中学校校長。鈴木さんはもちろん、キャリア官僚から現場に下った(?)浅田さんも、まあしょせん上から目線の理想論からは逃れられず、毎日現場の中の現場にいる者にとっては、今一つ説得力がなかったように感じました。
いや、彼らは上から理想を追求してほしいのですよ。東大出たような人たちに、いわゆる「現場」は語りようがないのです。なぜなら、彼らの通過してきた「現場」はあまりに特殊な現場であったからです。そして、そういう人たちにこそ、「理想」を語ってもらいたいし、そうでないなら、はっきり言って軽蔑しかしません。つまり、「理想」をこそ彼らの「現実」にしてもらいたいわけです。
その点、鈴木さんには申し訳ありませんが、ただ「理想」を振り回して、そして国民の顔色をうかがって善人然としている、しかし裏では輿石東と山教組のように互いの利益のために結託しているような、そんな民主党の教育論にはうんざりです。
頭がいいということは、お勉強ができるということではありません。おそらく人類史上最も頭がいい人であろうお釈迦様を見れば、その答えはおのずとわかりますね。自己を捨てて、世の中を憂え、そして人々を導くのが「頭のいい人」の役割です。
その時、言葉だけ、あるいはシステムだけでは、実は何もしていないのも同然なのです。それもまた、お釈迦様が強く戒めているところですね。全ては「魂」「慈愛」に則っていなければならない。単なる「商魂」や「自愛」じゃダメですよ。
今回の論議に対する、というか、私の「教育論議論」については、以前書いた『なぜ教育論争は不毛なのか-学力論争を超えて』の記事と『間違いだらけの教育論』の記事をご覧ください。ここでは繰り返しません。
ただ一言、究極の持論を再掲しておきます。これだけは動かざる現場の真実ですから。
教育現場には、「ゆとり」も「つめこみ」も「体罰」も「人権」も「教育技術」も「愛」も「経営術」も「ほめること」も「しかること」も「夢」も「現実」も、必要な時もあれば必要ない時もある。
これをどうその場で運用していくかなんです。音楽のアドリブと一緒です。さまざまな技やクリシェを持ち、それを使っていかにライヴな生徒たちとアンサンブルしていくかなんです。
この番組でも「最近の先生を忙しすぎる」と言っていました。忙しさなんてどの仕事も一緒です。忙しいから仕事なんです。ただ、たしかに最近の学校では、「リスクヘッジ」のための仕事が増えているのは事実です。つまり、アドリブにまかせず、先にシステムやルールを設計し運用するための、いわば「先行投資」「先物取引」にエネルギーを費やしすぎだと思います。
それが、ある意味サービスであると勘違いする学校や先生や生徒や保護者や社会が多すぎます。教育ってそんなに設計図どおり行くものではありませんし、そうすることによって、いかにライヴなエネルギーが奪われているか。
4月開校の我が中学では、基本全て生徒主導でものごとが動きます。先日のオリエンテーションでも、あえて生徒の座席表などは用意しませんでした。普通はそれがサービスとされるのでしょうけれど、そうして与えて与えられていれば、ただ楽なだけです。主体的に何も考えずに日々が動いていきます。それは実につまらない現場です。
ですから、そのオリエンテーションでの現場では、ほとんどお互い初対面の者同士が、まずは自分の名前を教え合わなければならない。あいうえお順で出席番号を決め、それで席に着くようにだけ指示したからです。
そうすると、もう仕切り屋さんが現れたり、もぞもぞしてなかなか名前が言えない子がでてきたりします。あるいは欠席者がいるのでは?と気づく子も出てきたりします。それは、生徒たちにとっても、あるいは教員にとっても、面倒なことと言えば面倒なこと、それもほとんど予測不可能な事態ですよね。
今の一般の現場では、それを「混乱」とか「準備不足」とか「非効率的」と呼び、いやいや、そう言われるのがいやで(?)、最初からヘッジして臨むわけです。それはそれで平和裏にコトが運ぶでしょうけれど、はたしてそこで何かを学ぶことができるのでしょうか。非常に心細いですね。
ちなみにその日は先生の手を煩わせず、子どもたちだけで5分もしないうちにそれぞれ着席しました。それだけのことですが、たぶん、彼ら彼女らは、座席表を与えられて着席したのと比べ、少しは成長したでしょうし、お互いの距離も縮まったと信じています。
ある意味、こういうちょっとした発想の転換こそが、現場に必要だと思うんですよね。それこそが、子どもたちのためでもあり、先生方の無用な忙しさ回避につながると思います。結局、経験に基づくアドリブ力か…。
「経験」という意味で、今回番組でも盛り上がっていた、現場への「お年寄り」の参加には大賛成です。経験豊富で元気なおじいちゃん、おばあちゃんが、今世の中に溢れ返っていますから。それはたしかに小宮山宏さんの言うとおり、素晴らしい「リソース」です。活用させていただきたいですね。
ちなみにウチの中学には、この地域で最も有名な「最強じいじ」である、K先生が特別講師として常駐してくださっています。私も実に心強いし、実際毎日のように学ばせていただいています。若手から超ベテランまで、バランスのよい教師陣だと思いますよ。
最後にちょっと厳しい苦言を。この番組でもさんざん出てきた「秋田」の優秀さ(のからくり)については、こちらに書いたとおりです。いかに小・中で優秀でも、その後センター試験の結果があのようではどうしようもありません(山梨はもっとひどいけど…苦笑)。さらに、こう言ってはは失礼ですが、あえて身内なので言います。そういう優秀な子どもたちが大人になって、自殺率全国一位では、いったい「生きる力」を身につけていると言えるのか…極論してしまえば、そういうことです。
教育に関するデータには要注意です。いつかも書いたように、教育は多分に宗教的な存在ですから、論議する際、どうしても「データ」こそが客観的だととらえられがちです。しかし、たいがいのデータはある種の意図の下に作られているということも忘れてはいけませんね。
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コメント
<自己を捨てて、世の中を憂え、そして人々を導くのが<「頭のいい人」の役割です。
おっしゃること、よくわかりますし、本当にその通りだと思います。
自分は昭和40年生まれ、大卒後すぐ中学校国語科教員となり、平成20年まで教員をしておりました。
大村はま先生を勝手に師と仰ぎ、時には法則化やら大西忠治やら西郷竹彦やら國分康孝やら・・・いろんな方々を書物にて学び、取り入れ愚直に実践して参りました。
しかしながら今から12年前、国立大学附属の中学校に配属され、事務仕事やらOB対応やら研究授業やら問題作成やら・・・(「やら」が多すぎますね。)で重度鬱となり、自殺未遂→休職の繰り返し。
とうとう平成20年の2月に職を辞した者です。
先生が「忙しいのはどんな職でも一緒」と仰るのは大村はま先生が「仕事は忙しい者に依頼されるもの。」と仰ったのと似た感じを抱きました。
が、しかし、・・・自分のようなキャパの少ない、取り柄のない者には、そして精神を害し肉体まで害し(癌にも冒されました。ストレスが原因だと医師は言ってましたが・・・)今では躁うつ病だと言われて何もする事も叶わない廃人には少々異論もあり、なのです。
先生のような多趣味でキャパも大きく、頭のいい方ばかりが教員ではございません。
やはり教員の雑務を減らし、少なくともフィンランドのように1クラス20名以下を教師2人で見ていく、教科指導に専念する形を目指す事を諦めてははならない、と思うのですが、如何お考えでしょうか?
先生のブログの特定の部分だけ見て勝手な物言いをして失礼いたしました。
長くなって申し訳ありません。
投稿: Y.S | 2010.03.24 19:12
前略 薀恥庵御亭主 様
教育には鞭ですが×
教育には無知ですが・・・
「理想と現実」には・・・
「ギャップ」があるようですね。
愚僧など大学は中退組ですので
「教育」には興味がありません。笑
ただ・・・
「理想」には無理がつきものです。
家族で「アバター」をみましたが・・・
「理想の極致」を感じました。笑
究極の「現実離れ状態」です。笑
昔観た・・・「真夜中のカウボーイ」
には・・・恐ろしい程の「現実感」
を感じました。
「現実」に根ざした「理想」ほど
尊いものはありません。
合唱おじさん 合掌
投稿: 合唱おじさん | 2010.03.24 21:05
Y.Sさん、貴重なコメントありがとうございました。
まずは、たいへんでしたね、と申し上げさせてください。
はっきり言って、それは災難です。
Y.Sさん自身の責任ではありませんね。
私だって同じ環境に置かれたらきっと同じようになっていたことでしょう。
私の勝手な発言は、やはり私の「現場」に即したものでしかありません。
私の職場は仏教系の私学、それも田舎の小さな学校ですから、はっきり言ってたいへんに働きやすい場です。
よくウチの学校の先生は公立の3倍忙しいと言われますが、それは生徒自身に関わる時間が3倍ということであって、決して苦痛なことではありません。
ここ10年は、10人以下のクラスを担任し、授業をする機会がほとんどでしたし、今度の中学も25人に対して最低3人の教員が教室にいるという、いわばフィンランド風な環境です。
しかし、一つ言えるのは、私もオーストラリアなどの学校を視察して感じたのですが、教科教育、生徒指導、その他雑務や公的な仕事を分担しすぎることにはちょっと反対です。
生徒やその家族という、生きた人間とのつきあいを考えると、それらのバランスをとって行くことが重要な気がするからです。
つまり、教育は非常に多面的であり、総合的なものだと実感しているのです。
そういう点で、あえてナイショの話をしますが、我が恩師の大村はま先生は、私の知るかぎり、校務は一切しておられませんでした。
職員室に席はなく、ご自分の特別な部屋(図書室とその準備室)をお持ちで、常にそこにおられました。
大村先生の忙しさは、極論してしまうと「教科教育」の忙しさでしかなかったのです。
私はもちろん大村先生を尊敬していますが、しかしまた、大村先生にできない仕事も、私はたくさんできるつもりでいます。
大村先生はすっかり神格化されてしまっていますが、私は他方で、テスト監督で居眠りされているリアルな大村先生も目撃しているのです(笑)。
いずれにしても、ある意味大変貴重な経験をされているY.Sさんと、ぜひじっくりお話したいですね。
Y.Sさんのご苦労が、何かの形で報われるように、私自身動いていきたいと強く思いました。
合唱おじさん様、いつもありがとうございます。
「現実」に根ざした「理想」こそ、お釈迦様のお考えになっていたことですね。
我々凡夫は、「現実」に根ざさない「理想」を妄想して、それと比べて「現実」を悲観ばかりしています。
それじゃあ、いつまで経っても、六道をぐるぐる巡るだけですよね。
なんていう私も、もちろん堂々巡りですが(笑)。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.03.25 10:48
お返事ありがとうございます。
感謝申し上げます。
大村先生の教え子様ならではの、貴重なお話、有り難うございました。
勿論、大村先生が国語教育に特化していなければ、あの膨大な実践は不可能であったでしょう。
いや、特化していても、あれだけの情熱を或る分野に注ぎ込むのは、ある種宗教的な熱情でも無い限り不可能だと思われます。
実際、大村先生はクリスチャンであられましたし、「無償なる主の愛」を教科教育の分野の中で人生かけて示されたのだというのが私見です。
決してその類の言葉は仰らなかった方ですが、偉大なる明治人であり、クリスチャンであり、東京女子大卒で新渡戸稲造の薫陶を受けられた一流の教養人であったればこそ、と思うのです。
自分は教師を辞め、人間失格にはなりましたが、大村先生の著作集『大村はま国語教室』を読むたびに、今でも涙が止まらなくなります。
「ああ・・・本物がここにはいる・・・」と思わされます。
図書室や準備室で授業にだけ没頭できていいな、なんて思った事は一度もないのです。
だって、そういう状況を自分に切り拓いたのも大村先生ご自身のご努力の賜ですから。
一方、先生の仰る教育が一分野に特化するのも反対、というのもわかります。
全人教育、と言う言葉があることからもそれは頷けるのです。
生徒を統合した存在として、トータルに見ていく。
それは非常に大切なことです。
僕的には『二十四の瞳』の大石先生や宮沢賢治の教師像が理想と思っていたから、生活も学業もやはり先生が見ていくというのはある種理想です。
望ましい教育の在り方、これはもう、何でもあり、でいいのだと思います。
というか、志の方向は多様であって良いのでは?と。
受ける側も自分のニーズに合わせることができるようなシステムが有ればなおさら良いでしょう。
ただし、志有る教師の卵が、「これは何の意味があるんだ?」というような仕事【ばかり】に忙殺されて、人間として最低限の生活をする時間も魂もすり減らされて死んでいくことが無いように祈るのみです。
またメールいたします。
駄文、失礼いたしました。
投稿: Y.S | 2010.03.27 17:50
Y.Sさん、おはようございます。
ありがとうございます。
おっしゃること全て納得です。
まさに教育の多面性というか、教育を「こうあるべきだ」と語ることの難しさ、不可能性を痛感します。
もしかすると、そうした「一面的な教育観」同士で論戦していることこそ、不毛なことなのかもしれませんね。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.03.28 09:38