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2010.02.09

『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』 岡田暁生 (中公新書)

20100210_83016 日の記事でついつい批判してしまったヤマハ(的)音楽教育。あんなこと言いながら、私もむか〜し通っていましたし、今も娘を通わせています(笑)。本人がやりたいっていうから、まあ入り口としてはいいかなと。でも、変な話ですよね。
 それから、やっぱり学校での音楽教育ですね。あの偏りようたるや、とんでもないものがあります。そのへんについては、ちょうど1ヶ月くらい前、『反音楽史 さらばベートーヴェン』の記事で書きました。
 この本、「西洋音楽史」というメインタイトルだけ見れば、まさにそういう堅苦しく、そして大いに某国に偏った歴史が、作曲家の名前と作品名の羅列によって紹介されていると思われそうですね。
 ところが!全然違うんですよ。まるで一つの映画を観るような面白さがあるんです。「クラシック」の黄昏…たしかにこのサブタイトルに大きな意味がありますね。背表紙には「西洋音楽史」としか書いてありませんから、ちょっと損してますよ、きっと。ちなみに、ちゃんと「ドミソの気持ち悪さ」についても書いてあります。
 筆者は前書きで、「西洋芸術音楽」以前の、古楽という支流(偶然、バッハ=小川ですね)が集まり、「西洋芸術音楽」は大河になった、それが現在は世界音楽という大海に呑み込まれて、その輪郭が見えなくなりつつある、というようなことを書いています。それが「黄昏」ということでしょうね。
20100210_65934 とにかく面白く、また勉強になりました。見てくださいよ。私はだいたい面白い本については、こうやってページの角を折って、そして中には赤ペンでじゃんじゃん線を引くんですが、この本はこんなに「犬の耳」があります。ほとんど全ページですね、これじゃあ。
 日常的に「西洋芸術音楽」を批判し、一方でそれ以前の古楽や、それ以後のポピュラー音楽ばかり演奏してきた私。つまり、支流と大海ばかりに接してきた私は、最近になって、ようやく大河をあっぷあっぷしながら泳ぐようになってきました。そして、「西洋芸術音楽」の「意味」もなんとなく分かりかけてきた時でしたので、実にいいタイミングでこの本と出会いました。
 その「意味」とは…。
 これまた、「モノ・コト論」になってしまいます。ま、簡単に言えば、いわゆるクラシック音楽=西洋芸術音楽は、「コト」音楽だということです。私の言う「コト」は「自己の内部=脳で処理された情報」という意味で、そこから「不変」や「普遍」、「随意」というような性格も生じます。
 まさに、西洋芸術音楽は「脳内」で構成され、言語(コトの葉…ここでは楽譜という記号)で記述された音楽なわけですね。
 岡田さんは、「宗教なき時代の宗教」、「聖なるものの降臨を待ち望む」というような表現を使っていますが、近代になって我々は神を失いました。いや、神を失ったというより、我々大衆が「貨幣経済」や「工業技術」や「民主主義」によって、神の領域に入っていくことができるようになったのですね。つまり、我々は「コト化」したんです。
 本来「不変」で「普遍」な「コトわり」は、神(みコト)のみに許された性質でした。実際、我々を含む森羅万象は「モノ」であり、無常な存在でしたからね。そこで、考え出されたのが、「神」という超越的で非現実的なフィクションでした。ちなみに、それは日本人の心性に宿る「モノのけ」に対する畏怖とはちょっと違いますよ。今問題にしている「コト」は、分かりやすく言えば、キリスト教的な「神観」です。
 近代になって、その「みコト」が、先ほど書いたように我々大衆の手によって弱体化させられたんです。しかし、実際そうなってみると、我々は極度の不安に襲われ始めた。つまり、自分たちは完全なる神にはなれないわけですから、世界が全て無常になってしまい、「カネ」にも「情報」にも「工業製品」にもとりあえず頼ってみたけれど、どうも不安が解消できないと。
 そうした時に、現れた、というか、発明されたのが、神に変わる「芸術」だったわけです。不変であり普遍的である「疑似的な神」。
 その典型が、理論と形式で固められ、楽譜に記述され、再現性を高められた「西洋芸術音楽」いわゆる「クラシック音楽」だったのではないでしょうか。
 最近、私はようやくそうした「クラシック音楽」を演奏するようになってきたわけです。そして、その「意味」も分かるようになってきました。その「意味」とは、「人間の努力」です。「神」を創造しようとする、それも「具体的」な形で残そうとする、ある意味無茶なことに挑戦する「人間の努力」のすさまじさです。それはある意味空しいことではありますが、しかし、その空しいことに、自らが設けた「制約」の中で、ものすごいレベルで挑戦した偉大な作曲家たち、あるいは演奏家たちには、正直圧倒されます。
 ようやく、私はそういう、ちょっと変わった道筋を経て、「西洋芸術音楽」が分かるようになりました。そうした私の中での「進化」「革命」を助けたのが、この良書であったわけです。
 内容も面白いし、文章も大変うまい。しかし、ただ一つ、筆者の意見に納得しなかったところ(笑)。
「演奏する人間にとってバッハは、何よりまず純粋な運動感覚として理屈抜きで面白いのだろう」
 これはありませんよ。苦痛です(笑)。でも、その苦痛が快感というのはあるかも?

Amazon 西洋音楽史

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