『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』 松本侑子 (光文社)
赤い糸という記事の中で少し紹介した山崎富栄さんの評伝小説。
へたな小説やコミックや映画なんかより、ずっと心に迫る作品ですので、ぜひお読みいただきたい。
昨日の記事にも実は彼女は間接的に(いや、直接的に?)登場しています。御存知のように、太宰治は彼女と玉川上水で入水自殺しました。赤い糸ならぬ紐で二人は結ばれていました。
彼女は遺書の中で、太宰と同じ墓に入れてほしいと言っていますが、結局、それはさすがに無理でした。愛人がその人の墓に入れるわけがありません。
当然のことながら、太宰と一緒の墓に入ったのは、津島美知子、すなわち正妻でした。
12月23日、そこに私はお参りしたわけです。
この評伝小説を読むと、もちろんヒロインたる富栄さんの実に波乱万丈な人生に驚嘆することもできます。なにしろ、良家のお嬢さんとして育ち、職業婦人として第一線で活躍し、縁談にも恵まれて幸せな結婚をした女性が、結果、不倫の末に天才作家を「殺した」犯人とまで言われるようになってしまうわけですから。
運命のいたずらというにはあまりに過酷でした。その不埒ないたずらをしたのは、「戦争」と「物語」でした。「戦争」も一つの共同幻想でしょうから、一つにくくって「物語」と言ってもいいのかなあ。
とにかく、富栄さんは「物語」に翻弄されてしまいました。まずは戦争が、新婚生活たった1週間過ごしただけのご主人を奪い、さらに、その生死すら分からない生殺しの状態で富栄さんを苦しめた。その間に「物語」の達人太宰治が現れ、「昭和2年…そういや、弘前の駅前で、きれいな女の子を見かけたな、汽車からおりてきたんだ。無論、君は憶えていないだろうが、江戸弁を小生意気にあやつって、いかにも東京趣味のしゃれた出で立ちの、小憎らしいほど可愛い女の子を見た覚えがあるよ」などと、いかにも彼らしい「ウソ物語」を吐いて、彼女の運命を決定的に破壊しました。
その後の、富栄さんの太宰への愛情と献身は、彼女の残した日記が美しく濃厚に語ってくれます。結核による太宰の喀血を、彼女は直接自分の口で吸って除いてあげました。そんな恋愛できますか?太宰の「はったり」に比べたら、彼女の「真実」の方がずっといい!…はずなんだけれど。ううむ、そこが文学の難しいところです。
さてさて、筆者の松本さんは、基本的に、富栄さんに対する世間の厳しい評価を覆す姿勢をとっています。私もこの美しい(!)女性を悪者にしたくないという心情を持っていましたから、その点では溜飲を下げましたね。
ただ、読む前になんとなく予感していた「やっぱり太宰はずるい」という結論は、ややはずれたと言えます。美人の富栄さんにシンパシーを抱きつつ、イケメンの(いつも書いているとおり、文章がイケメンなんです)太宰を貶めるという、まあ、男性として正常であろう感覚は、微妙に空振りを喫しました。
私の心には、富栄さんと太宰ではなく、意外な人物の姿が焼きついて残ったのです。
それは、富栄さんのお父さん晴弘さんと、斜陽の人太田静子さんと、太宰の正妻石原美知子さんでした。
最愛の娘をそのような形で「奪われた」晴弘さんの悲嘆と憔悴、しかし、そうしたスキャンダル死ののちも娘を信じ愛し続ける姿。これはもう涙なしでは読めません。最も「物語」に翻弄されたのは、実は晴弘さんだったのかもしれません。
そして、太田静子さん。同じ愛人として、しかし、自らの日記と交換に太宰の子どもを得、また、実はその日記も「斜陽」という世紀の名作を生むという、二重の幸福を味わった女性の、なんというか、したたかさとでも言うのでしょうか、余裕とでも言うのでしょうか、そういう生命力を感じましたね。
石原美知子さん、いや津島美知子さんに関しては、山梨出身ということもあり、また、今春開校する中学の場所にも縁のある方ですから、なんとなく「良妻賢母」の代表のように尊敬申し上げていたところがあったんですね。『回想の太宰治』の記事にも、そういうことを書きましたっけ。まあ、やっぱり彼女を崇めることは、太宰を貶めることにつながっているわけですが…笑。
しかし、この本には、神格化されていない、女、妻、母としての津島美知子像が見え隠れしていました。たくさんの子ども(含む太宰)を抱えている中で、愛人問題が頻発し、しまいには武蔵野心中ですからね。そりゃあ、いくら美知子さんでも狂うでしょう。
いや、それでも、それでもなお、美知子さんは立派だったと思いますよ。その結果として、当然のごとく、太宰の遺伝子を最も多くこの世に残し、そして、太宰と同じ墓に入ったわけですから。女としては、それこそが勝利の証でしょう。
というわけで、本当にいろいろな人間模様を堪能することができる作品です。女性にも男性にも、ぜひ読んでいただきたい。そして、くやしいけど、やっぱり太宰治は天才だったと思おうじゃありませんか。
Amazon 恋の蛍
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 南部と津軽と甲州と…(2024.07.31)
- 死なない力(2024.07.18)
- 『今永昇太のピッチングバイブル』 (ベースボール・マガジン社)(2024.07.17)
- ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(2024.06.03)
- 日本語はどこから来た?(2024.06.01)
「文学・言語」カテゴリの記事
- いかりや長介と立川談志の対話(2024.08.19)
- 九州人による爆笑九州談義(筑紫哲也、タモリ、武田鉄矢)(2024.08.18)
- 富士山と八ヶ岳のケンカ(2024.08.10)
- 上野三碑(こうずけさんぴ)(2024.08.06)
- 東北のネーミングセンス(2024.07.28)
「モノ・コト論」カテゴリの記事
- ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(2024.06.03)
- 文字を持たない選択をした縄文人(2024.02.14)
- スコット・ロスのレッスン(2024.01.12)
- AIは「愛」か(2024.01.11)
- Re:Hackshun【目せまゆき&成田山幽輔】安倍さんは、あの解散をどう考える?(チョコレートプラネット チャンネル)(2023.11.21)
コメント
太宰さん、凄い恋愛模様ですね…。
ていうか…今の人には出来ないことをやってのけ、周りから見たら卑しいと感じられても仕方ないことを淡々とやってのけ、やはり評価される太宰さんは天才です…。
私は、宇野千代さんの著者を学生時代よく読んでましたが、いつも感じてたことが、明治~大正~昭和初期を生きていらっしゃった方々は、自分の気持ちに素直に生きたんだなぁ。と。ハイカラだし、激しいなぁって。(笑)
私の場合は、宇野千代さんの生きざまで感じたことだったんですが、まさか、太宰さんもだったとは!実に、私は太宰さんを愛していた正妻、愛人にそれぞれの形の魅力を感じました。
到底、真似は出来ないけれど(笑)
自分の気持ちに素直に生きた生きざまは素晴らしい!と感じました☆
投稿: 里沙 | 2010.02.07 04:09
里沙さん、コメントありがとうございます。
最近、あの時代の女性について少し勉強しています。
みんなたくましいですね。
また、女性を生き生きさせる男性もたくさんいたようです。
今はダメですねえ…笑。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.02.07 21:35
太宰は、高校生の時に『人間失格』を読んで衝撃を受け、それをきっかけに他の作品も読みました。
自分でも気付かないフリをしているような人間の弱さが曝け出されていて、『人が隠している卑しさ・ズルさを描ける太宰は、本当は強くてとても優しい人なんだろうな』と思った記憶があります。
太宰の作品が退廃的なのは、優しさ故の諦めなんでしょうか・・・なんと表現したらいいのか良くわかりませんが。似たようなものなのかもしれませんね。多感な(?)高校生の私はそんな風に感じていました。
あの頃とオトナ(?)になった今の私では、視点も読後の感想もきっと違うでしょうね。
今なら太宰を支えた女性達の気持ちに自分を重ね合わせて考えるだろうと思います。
とても苦しい事でしょうが、自分を犠牲にしてまでも愛することができる男性と巡り合えた事は羨ましくも感じます。
とても真似できませんが。
この機会にまた太宰文学を読み直してみようかなと思いました。
『人間失格』は映画にもなりましたし。公開前に読んでおこうかな。
投稿: yuki | 2010.02.08 13:32
yukiさん、コメントありがとうございます。
太宰は大人になって読むと本質がわかりますよ。
以下の記事にも書いたように「人間失格」なんて、モテ男の自慢話ですから(笑)。
しっかし、ウソと文は天才的にうまい!憎い男です。
http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2008/12/post-77b8.html
http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2009/12/post-af92.html
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.02.08 20:38
そうですね・・・
太宰=主人公 な訳ではないですよね。
高校生の私は純粋だったので(!?)、わかっているつもりなのに太宰の物語に騙されてたのかもしれません。
『恥』を読んだ時に、なんだかとても裏切られた気持ちになりましたもん。
投稿: yuki | 2010.02.16 09:32
yukiさん、どうもです。
太宰の物語にだまされているうちが幸せですよ。
特に女性は(笑)。
私なんか、女になりきってわざとだまされるように読んだりしますからね。
太宰はいろいろな味わい方があって面白いのです。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.02.17 18:18