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2010.01.31

『Bluetooth ステレオスピーカー BIT-STB2825』 (リテールコム)

41pho67px7l_sl500_aa280__2 日の記事に書いたように、今カーステレオの調子が悪く…というか、完全に壊れていまして、音が出ない上に漏電していて危険極まりないので配線をはずしてあります。
 そのおかげで昨日のような奇跡に出会うことができたわけですが、しかし、実用上はもちろん長距離運転の時には音楽をかけたいですよね。
 私一人でどこかに行く時には、まあiPhoneをヘッドセットで聴けばいいわけですけれど、家族と一緒となると、それこそフジファブリックを聴きたいだ、マイケル・ジャクソンをかけろだ、ポケモンがどうのこうのだと、いろいろのリクエストに応えなければならないわけです。
 しかし今とっても金欠なので、新しくカーステレオを購入するほどの力はありません。2DINだし結局数万出さねばなりませんからね。
 そんなわけで、とりあえずの急場凌ぎで、これを買いました。Amazonのアフィリエイト報酬のストックがけっこうありましたので(皆さんありがとうございます)、実質の出費はゼロということで。
 いやあ、時代は変わりましたねえ。以前も書きましたが、私の少年時代なんかスピーカーは自作する物、それもウーハーは口径がでかければでかいほどいい…という時代でしたからね。それもマルチユニットというか、フルレンジより2way、2wayより3wayという感じでした。
 それがなあ、24ミリフルレンジ2W×2で満足しちゃうようになったのですから、時代も変わるし、自分も変わったということでしょうかね。だいいち、駆動もリチウム電池、配線などなくBluetooth接続。数十年間には考えられないスピーカー事情ですね。
 ま、自作スピーカーの音質なんていうのも、「気分」でして、自分が作った音が一番いいという思い込みですね。そんなもんです。ですから、こちらも気分でなんとでもなる。実際慣れれば違和感も不満もなかったりするんです。つくづく人間の耳というか脳というのは、アナログな製品だと思いますよ。
Uni_3696 それにしても、これは小さい。この小ささも含めて、デザインがなかなか秀逸です。一見なんだかわかりませんよね。一番上の写真は遠近感を出して大きそうに見せていますが、実際はご覧のとおり、iPhoneとそれほど変わらない大きさです。
 アルミ製でして、質感もなかなか良いし、左のスピーカー部分全体を電源スイッチにしてしまうあたり、なかなか斬新なデザインですね。右側のスピーカ部分のLEDの配置のしかたもそれ自体がラインデザインになっています。
 いやあ、音質もなかなかいいんですよ。アルミの筒が低音を増幅しているんでしょうかね。この小ささにしては、案外迫力ありますよ。たぶん、見た目とのギャップでいい音に感じるんだと思いますが。ギャップ萌えかな(笑)。
 Bluetoothのペアリングも簡単ですし、バッテリーの持ちも予想以上(普通の音量で聴く分には、10時間くらい使えている感覚)、なにしろ持ち運びに便利です。ちょこっとカバンに入れて持っていけますね。
 充電は付属のACアダプターもしくはパソコンなどのUSBでできます。3時間くらいで満充電でしょうか。操作音もかわいげがあって好きです。ピポとかポペとか、そういう感じ。
 なお、Bluetoothの規格の関係か、iPhoneとの接続に関しては、スピーカー本体で音量調整や一時停止などはできますが、次の曲や前の曲へのスキップができません。それはiPhoneを振ればいいわけですが。
 ちなみに、Bluetoothだけでなくミニプラグによる有線接続も可能です。いろいろと用途がありそうですね。
01_7_46_46 とりあえずですが、車にはこのように載せています。載せるもなにも、ただサンバイザーのカードホルダーにはさんであるだけですね(笑)。でも、これで充分です。自分で聴く分にはこれが一番。
 ああ、あとですね、iPhoneと接続中、iPhoneに着信があると、音楽が止まってスピーカーから着信音が鳴ります。そしてプレイボタンを押せば、スピーカーに内蔵されたマイクでハンズフリー通話ができます。運転中にはこれが便利ですね。
 私のような使い方(車内での使用)をする人はいないと思いますが、普通にパソコンの隣に置いて使ってもいいし、モバイルとしてカバンにしのばせても、案外いいと思いますよ。これはおススメです。
 色はブラック、シルバー、レッドとありますが、私はiPhoneのジャケットに合わせてレッドにしました。きれいな色です。

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2010.01.30

天の歌…

あの日あの時あの場所の富士
Img_0189_3 「にいちゃん、天国でもいっぱい歌うんだって。だから聴いててあげてね」…お通夜で志村くんの妹さんが、ウチの娘たちにかけてくれた言葉です。安らかな志村くんの寝顔を、事情がつかめないまま茫然と見ていた9歳の上の娘は、その言葉を聞いて堰を切ったように泣き出しました。
 本当にウチの家族の日々の愛唱歌はフジファブリックだったのです。もちろん、今でもそうなのですが…。
 ここから先の話はちょっと「痛い」話かもしれません。それでもどうしても書きたいので、読んでやってください。
 今朝、私は実に不思議な経験をしました。私は、いつものとおり、富士山にある自宅から職場である富士吉田の学校に向かいました。いつもの時間、いつものコースです。ちょうどあの日志村くんが天に昇った聖苑の隣を通ってスバルラインに出ようかという時です。その歌は聞こえてきました。
 カーステレオの調子が悪く、最近はほとんど無音の中での通勤が続いていました。だから良かったのかもしれません。静寂の中、突然聴いたことのない音楽が流れ始めたのです。
 それはたしかに聴いたことのない音楽でしたが、しかし冒頭のイントロ部分だけで「フジファブリックだ!」と分かりました。
 ミディアム・テンポで透明感のあるその曲は、イントロから美しく幻想的なAメロに入っていきました。私は息を呑みました。いったいどんな歌声が聞こえてくるのか…。
 それはたしかに志村正彦くんの声でした。私は一生懸命聴こう聴こうとしました。歌詞を聞き取ろうと必死に心の耳を澄ませました。
 途中、スバルラインには、路面に施された仕掛けによって童謡「ふじさん(ふじのやま)」がほとんど暴力的に流れるところがあるのですが、そんな音にはかき消されたくなく、私は対向車のないのをいいことに右側の車線を走りました。
 しかし、どうしても言葉は聞きとれません。でも、メロディーははっきり聞こえます。イントロ、Aメロ、サビ、基本的に同じコード進行ですが、そこに施された旋律の変化とアレンジの変化、そして彼ららしい所々の意外な挿入句が見事でした。いかにもフジらしい楽曲。
 私はその印象的なギターやキーボードのリフはその場で覚えてしまいました。これは学校に着いたら早速楽譜に書き留めておこうと思いました。
 車は富士吉田の市内に入り、突然私に日常が還ってきます。その曲は鳴り続けていますが、しかし、だんだん街の喧騒といいましょうか、日常の霞のような何ががそれをじゃまして、次第に朦朧としていきます。そして、いつか、その音楽はフェードアウトして消えてしまったのでした。
 私はとにかくイントロだけでも忘れないようにと、一生懸命それを口ずさみました。絶対音感がない私は、とりあえず学校のピアノで音をとって楽譜にしようと思いました。しかし、学校に着くと、いきなり仕事がいくつか入ってしまい、そんな時間もなくなってしまいました。
 残念です。今、その音楽の印象は、まさに霞の向こう側といった感じで、たしかに残っていますが、はっきりと音にできないのです。それでも、あの、フジの新曲を聴くドキドキ感、ワクワク感は忘れません。いい曲でした。
 たぶんこれは、人からすれば「気のせい」「思い込み」「(自意識過剰な)痛い話」になるのでしょうが、私はやっぱり妹さんの「天国でもいっぱい歌うんだって」という言葉を信じたい。そんな天の声をたまたま聴くことができたのだと思いたい。ちょっと恥ずかしいけれども、正直そんなふうに思います。
 いちおうそれなりに音楽的な生活をずっとしてきましたから、それが初めて聴く曲なのか、そうでないのか、また、それがどういう個性を持っているのか、いい曲なのかどうか、そういうことはある程度分かるつもりです。だからこそ、あの曲は間違いなくフジファブリックの新曲だったと、私自身は確信を持っています(ホントごめんなさい、自己中心的で…誰も聴けませんものね)。
 しかし、たとえばこういう形ででも、やっぱり志村くんは私たちと一緒にいてくれるんだと思いました。天国でちゃんと歌っていてくれてるんだ。天に才能を返して、天でその仕事を全うしてるんだ…。
 天才という人たちの仕事の一端に触れたような気もしました。きっと彼らはこうして天の歌を心の耳でとらえて、それを私たちにちゃんと聴かせてくれるのでしょう。残念ながら私にはそのような才はありませんでしたが…。
 志村くん、これからもどんどん天の歌を聴かせてください。心の耳を澄まして待っています。
 ありがとう。

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2010.01.29

なんすかこれ!?

↓クリック!!
0004 ンター古文の恋路大将もひどかったけど、こっちはもっとひどいかも。
 某私立大学の医学部を受験した生徒からこんな画像が送られてきました。生物の問題です。
 なんすかこれ!(笑)文章の半分以上が空欄じゃないっすか!?なんかリアルに奮闘した跡が見えますが、結局なんの話だったか分からなかったとのこと。そりゃそうだ。
 彼女、帰ってから知り合いのお医者さんに解いてもらったところ、現役のお医者さんもお手上げだったそうです。
 まあ、これはさすがに笑っちゃうレベルの珍問ですね。センターの古文がロト6なら、こっちは「ナンクロ」ですよ。いったい、どういう力を見ようとしているのでしょうか。
 皆さん、まず問題文を声に出して読んでみてください。数字はちゃんと数字で読むんですよ。「生物のイチ間に見られる二の違いをサンといい…」というふうに。笑わないで最後まで読めた人は合格です(笑)。
 ええと、ちなみにワタクシでしたら、こんな感じで解答しそうです。これじゃダメでしょうか?
「生物の男女間に見られる種々の違いをすれ違いといい、すれ違いには肉体間の違いによって現れる肉体間すれ違いと、思想や性格のすれ違いによって現れる精神間すれ違いとがある。肉体間すれ違いは男女間に根源的原因のある解決しないすれ違いであり、精神間すれ違いは男女間に根源的原因のない解決するすれ違いである…」
 これも正解でしょう(笑)。
20100130_84510 実はこの大学の生物の問題、毎年こんな感じなんですよ。ちょっとこちらもご覧下さい。これも私なりに考えてみましたが、「ヒトではズボンのチャックが破損すると、内部にあるパンツが露出され、恋人友人を介して町にある警察消防報道へと露出が伝えられる…」くらいしか考えられません(笑)。しかし、それで行くと、後半のつじつまが合わなくなっちゃうんですよね。これはかなり高度な国語力というか文学力を要する問題です(笑)。
 これは国語の教材として使えますね。さっそくそういうことが好きな男子生徒が「デスメタル」尽くしで文章化してました。こういうの上手な生徒いるんだよなあ。
20100130_84052_2 最後に数年前のこちらの問題も見てみてください。これなんか最強ですよ。とにかく、最初にやったように数字は数字のまま読んでみてください。
 これってはっきり言って手抜きでしょう。なんかのテキストをテキトーに(いや、パズル風に)虫食いにしただけでしょう。
 もし、そうでないと言うなら、ぜひその意図をお聞きしたい。
 ちなみに他の教科は比較的フツーの問題です。なぜに生物だけ…。
 いやあ、受験生は大変ですわ。お疲れさん。

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2010.01.28

iPad 登場

Ipad_hero_20100127 ワサされていたiPadが発表されました。はたしてこれは売れるのでしょうか。
 結論から言えば、世界的にはかなり売れるでしょう。そして世界の主流となっていくことは間違いありません。
 我々としては、ノートパソコン(MacBook)とケータイ(iPhone)の中間態を手に入れることになります。今までなんとなく「こんなのあればいいな」と思っていた脳ミソの空間に絶妙に収まり得る製品だと思います。
 ただ、先に言っておきますけども、日本人にとってはこれは少し大きすぎると思います。箱庭文化、すなわち、なんでも極小化し、操作性よりもその小ささ自体を愛でる文化を持つ日本人には、かなり大ぶりなシロモノであるとも言えます。
 電子書籍で考えても、日本のような「文庫本」が最も愛されるという特殊な状況の中においては、新刊書より大きいこのB5判くらいの大きさの「書籍」を、たとえば電車の中で広げる(?)のには、ちょっと抵抗があるのではないでしょうか。
 かと言って、家のパソコンとして使うには小さすぎるし、OSの問題もある。一方でケータイ代わりには使えない(使ってる情景を思い浮かべると面白いですね)。すなわち、ちゃんと「帯に短したすきに長し」なわけで、結果として我々は、今までのパソコンもモバイルフォンも捨てるわけにいかないわけです。
 もちろん、それこそがAppleの狙いなわけですね。今後、クラウド・コンピューティングがどんどん拡がり、いわゆるパソコンというものは絶滅していく運命にあるわけでして、そんな中、「受信機」としてのディバイス、つまり端末をどう作って行くかが、これからのメーカーの仕事になるのです。
 昨日の記事にも関連して、これからの日本の「モノづくり」が心配になります。おそらく家電もコンピュータ化、クラウド化が進むと思いますから、さあそうなると、今度は「機能」よりも「質感」「操作感」の「モノづくり」になると思うんですね。
 そのへん、Appleはうまいんですよ。アメリカとは思えない(笑)。MacもiPodもiPhoneも、とにかく操作感が楽しい。便利とか分かりやすいとかいう以前に「快感」なんですよね。あと素材やデザインの「質感」。このあたりは、本当は日本が得意としていた「職人文化」だと思うんですが。ガンバレ、ニッポン!
 まあ、いずれにせよ、このiPadはクラウド・コンピューティング端末の先駆けになるでしょう。表立ってはそういう言い方はしていませんが、未来的に見るとそういう第一歩であると感じます。
 個人的には、まあ買わないかなあ…。でも、学校教育の中で何か使えないかな、というのはありますね。もうそろそろ黒板文化というのもどうかと思いますので。うん、案外教育市場あるかもですね。
 あと、やっぱり「親指シフト」利用者としては、キーボードの問題ですね。ソフトウェア・キーボードに関しては、どなたかがいち早く開発してくれそうですけど。やはりそれが解決されないと導入には踏み切れませんね、私としては。
 あと単純に、何に使うかですね。使い道がよく分かりません(笑)。どこでどういう状況で何に使うのか。
 実は、ただ触ってみたいだけなんです。人が使ってるのを見てうらやましく思い、なんとなく買っちゃう。大人のおもちゃとして。そして、触っているうちに使い道が分かってくる。これがいつものApple流ですね。うまいなあ…。
 それから、持ち歩くことを考えると、やっぱり「落下」が恐いなあ。そんな意味も含めて、iPad周辺アクセサリー市場が活性化しそうですね。
 まあ、今後の動きに注目いたしましょう。

iPad公式

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2010.01.27

『メイド・イン・ジャパンの命運』 (NHKスペシャル)

Slashgear_cellregza2540x405 本のメイドさんの話じゃありませんよ(笑)。そっちは順調です。
 「日本は何を作るべきか」「日本で何を作るべきか」…日本のお家芸であったはずの「モノづくり」の危機のお話です。
 ここでは日本のモノづくりの象徴「テレビ」が取り上げられていましたが、事情は自動車でもその他の家電でも全く同じです。
 デジタル化、ソフト化、コンピュータ化によって、我々が培ってきた、そして得意としてきた「職人技」が通用しなくなってきているということですね。
 そんな中、日本はどのように生き残っていかなくてはならないのか。東芝では100万円もするテレビの開発に奔走(迷走?)し、JVCではソフトの開発販売でなんとか窮地をしのごうとしていました。
 いやあ、本当に大変だと思います。私の仕事(学校教育)のように、いまだにアナクロにアナログな業界は全然幸せですよ。おそらく100年後もほとんど事情は変わっていないでしょうから。「人づくり」の現場ですから。
 「モノづくり」の現場の変化については、実は今日も実感しまして、生徒や先生方と呆れるやら、おかしいやら、思わず笑ってしまったことがありました。
 職員室のコピー機の調子が悪かったんです。というか、生徒が何か縮小やら両面印刷やら、いかにもデジタルな技を駆使してコピーをしていたら、どうも写像が右だか左だかにずれていて、字が入りきらなくはみ出てしまうと。
 で、だいたい機械やパソコンの不具合については、みんな私のところに来るんですね。なぜか、国語のセンセイが一番機械に強かったりする(…それこそ学校の変なところですな)。
 で、状況を聞くと先ほど述べたような感じだといいます。なるほど、いろいろなデジタル技術を駆使した結果、こうなったんだなと、私は判断しました。生徒もそう思ったから私のところに来たのでしょう。
 さあそれで、今までの経験を活かし、いろいろやってみたんですよ。最後の手段「再起動」はしませんでしたけど、考えられるいろいろな作業(操作だな)をしてみました。しかし、どうもうまく行かない。
 で、小一時間からかったけれどもダメでして、「こりゃあきらめるしかないな」と言った途端、私はあることに気づいたんです。「もしかして!?まさか…」。
 そしたら、まあ案の定というか、馬鹿馬鹿しいというか、情けないというか、やっぱりそうでした。
 単にトレイの中のコピー用紙がちゃんとピッタリ入っておらず、ある方向にずれていたのです!
 はあ?…でしょう(笑)。
 そう、これが昔のコピー機や、普通の印刷機だったら、一番最初に疑うべき点でしょう。それが人間的な、機械的な、アナログ的な発想です。発想以前の常識ですよね。
 それが、生徒も私も他の教員も、みんな「デジタル」的世界に冒されて、こんな子どもでも分かることが分からなくなってしまっていたんです。もう笑うしかないですよね。
 つまり、機械のブラックボックス化が進んでいて、我々は日常的に「ソフト的な問題だ」、「これはどうしようもない」、「たたいても治らない」と思ってしまう習慣がついているようです。
100124_b 正直私も情けなかった。私も少年時代はエンジニアを目指すような、いわゆる「モノづくり」人間でして、そういう目に見える機械的な構造やシステムをイメージするのに比較的長けていると思っていたものですから、こんな単純な、単純すぎることが分からなかったことに愕然とするというか、もう苦笑するしかなかったわけですよ。
 と、これは笑い話でありますが、業界ではとても笑えません。東芝の技術者、それも世界をリードしてきた「職人」たちが、もう真っ暗な画面の前でただ茫然とするしかない姿、ケータイでソフト屋さんにおうかがいをたてる姿は、もうなんというか、残酷というか悲哀というか、とにかく辛いものがありましたね。
 自動車なんかも、20年前までは、エンジンだろうがなんだろうが自分で修理調整しちゃってましたが、今は車屋さんでさえ、部品を注文してアッセンブルするのが仕事みたいになっちゃってます。
 はたして、これは「モノづくり」と言えるのでしょうか。コンピュータのソフトというのは、疑似的な脳です。脳は私の言い方ですと「コト」です。そして「コトづくり」の末、そのコトが暴走すると、それはいきなり「モノ(モノノケ)」になります。手が付けられない「他者」になってしまうのです。恐ろしいことだと思うのですが…。
 同僚が言っていました。これは第二のラッダイト運動が起きそうですねと。コンピュータ打ち壊し。
 いや、そうした方がいいのかもしれませんよ。自分たちの脳よりも優秀で一途で根性のある別の「脳」を作り出してしまったことが、私たちを滅亡に追いやるかもしれないからです。

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2010.01.26

今年の4月は「来春」か「今春」か

↓写真は志村くんゆかりの忠霊塔の「春」
O0800053510163967887 ほど、ご意見番(ウチの父親)から電話があり、「昨日の記事には間違いがある!『来春開校の中学…』ではなく『今春…』と書くべきだ!」と強く叱られました。「そんな先生が中学生に国語を教えているとなると、親から苦情が来る!」とまで言われました(笑)。
 父親が言うに、「辞書に『来春=来年の春』『今春=今年の春』と書いてある!」とのこと。たしかにそうです。
 しかし、ちょっと皆さん、考えてみて下さい。1月である今、3ヶ月後に来る春を「今春」と言うのには、ちょっと抵抗がありませんか?
 ない…?なるほど、そういう人もいるかもしれません。それもわかります。なぜなら、やはり辞書的に正しいし、新聞やテレビなどのマスコミも当然辞書に従っているため、実際にそのような表現を目に耳にすることが多いからです。
 では、完全に私の間違いかと言いますと、そうとも言いきれません。
 父が辞書と言った、その辞書は当然現代の国語辞典です。たしかにほとんど全ての辞書に上記のような記述があるようです。しかし、事情は辞書ほどに明解、いや明快ではありません。
 たとえば、こんなふうに、私の感覚や使い方の肩を持つこともできます。
 まず、もっと古い辞書を引っ張ってきましょう。17世紀初頭の「日葡辞書」です。

『来春「Raixun (ライシュン)。キタル ハル〈以下ポルトガル語の訳〉今度の春。文書語』

 そう、来たる春が来春なのです。next springということです。今、季節はどう考えても冬ですから、今年の4月は(次に)来たる春に間違いないことになります。
 考えてみると、本来「今〜」とか「来〜」とかいう熟語の「今」や「来」には、「今年の」とか「来年の」とかいう意味はありません。
 「今週」「来週」、「今月」「来月」、「今年」「来年」、「今学期」「来学期」などと言う時の「今」と「来」は、「(話し手が)今いる時間的範囲(期間)の」と「今いる時間的範囲(期間)が終了したのち来たるべき次の時間的範囲(期間)の」という意味です。
 ついでに言うと、一つ前のスパンを表すのは「昨」ですね(「昨〜」が使われない場合もありますが)。
 そうした本来の「今」「来」の使い方からすると、「今春」とは「今身を置いている春」、「来春」とは「今身を置いている春の次に来る春」ということになり、たしかに「今年の春」「来年の春」と同義になります。
 ただ、この解釈ですと、「春」に身を置いている時にしか、この表現はできないことになりますね。夏や秋や冬には使えない表現ということになります。
 しかし、どうも事情はもう少し複雑なようです。たとえばプロ野球で、ある年のペナントレースが終了し、その結果を振り返るのに、「今季」と言いますし、次のシリーズに向けて「来季に期待しましょう」などと言います。
 つまり、それらの「時間的範囲(期間・節)」が連続していない場合もあるわけですね。シーズンオフがはさまれたり、別の「節」が挿入されたり。その場合には、「今」「来」のニュアンスが少し変わってきます。
 すなわち、その「節」が連続しておらず、間に違う「節」がある場合、その違う「節」に身を置いている際には、「今〜」の「今」は「直近の過去の〜」ということになり、「来〜」の「来」は「直近の未来の〜」ということになるわけです。
 季節もそういうことになりますから、今の解釈に従って、「今季」「来季」と同じ感覚で「今春」「来春」と言ったとしたら、私の「来春」の解釈で間違っていないことになります。今、冬で、その「直近の未来の春」ですからね。
 では、なぜ、「今春」「来春」の場合には、辞書に「今年の春」「来年の春」といった異様な解釈が載っているのでしょう。
 もうお分かりかと思いますが、これには旧暦から新暦に移行した際の複雑な事情が絡んでいるのです。
 お正月を新春と言いますよね。つまり、旧暦では、1月1日はほぼ「春」でした。「ほぼ」と言ったのは、立春よりも早く年が明けることもけっこうあるからです。それでも、感覚としてはだいたい「立春」の頃が「元旦」でした。
 そうすると、旧暦のもとでは、「来春=直近の未来の春」はすなわち、ほとんど全て「来年の春」となるわけですね。「今春=直近の過去の春」は「今年の春」です。
 と、そんな事情もあって、旧暦下では私の解釈も父の解釈も正しいし、同じことになってしまうんですね。
 ところが、明治以降、かなり無理をして新暦を導入した結果、まあ、暦はめちゃくちゃなことになってしまいました。「暦の上では」という表現とか、「お盆」なんか「旧盆(旧暦7月15日)」「新暦7月15日盆」「月遅れ盆(新暦8月15日)」とか…もう本当に訳がわからん状態です。
 この「来春」「今春」問題もまた、そうした弊害の一つと言えるでしょう。
 辞書というのは、実は孫引きに孫引きを重ねて成立してきています。今の辞書の原形は明治時代の辞書たちです。大槻文彦の「言海」や、山田美妙の「日本大辞書」、上田万年の「大日本国語辞典」などですね。そのあたりを参照してみないと分かりませんが、江戸や明治初期の暦の感覚のまま「今春=今年の春」「来春=来年の春」と書いてしまった可能性は高いと思います。そして、それを孫引きして、論理矛盾に気づくこともなく、また、本来の「今〜」や「来〜」の意味を無視して現在に至る…と。
 というわけで、たしかに辞書的には私の「来春」の使い方は間違っているかもしれませんが、語誌的に、また日本人の感覚的に考えて、立春前である昨日、あのような表現をしたのは、あながち間違いでないと思います。
 ま、ここは私が素直に間違いを認めましょうか。親子ゲンカになるのも面倒なので。直しておきます。「来春(この春)」と(笑)。
 ただ、「そんな先生がうんぬん」の発言は撤回してもらいたいですね(お互いかなり頑固でして…苦笑)。

PS いつか書きたい「時間」に関する論理矛盾(謎)を挙げておきます。
 正午は午前12時か、午後12時か、それとも午後0時か…。
 日曜は週の始めなのに、なぜ「週末」に含まれるのか…。
 電車ホームの告知板の「こんど」と「次」とは…。

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2010.01.25

マカ(粉末1kg)

Img_0210 このところ、とにかく忙しい!例年この時期は受験生の指導と自校の入試が重なっててんやわんやなのですが、今年はそれに加えて来春(この春)開校の中学の関係を担当しているだけに、もうハチャメチャです。
 特に恋路大将たちのおかげでセンター試験の結果が散々だったので、いつものセンター逃げ切りパターンができず、二次試験の指導も手が抜けない(てか、抜いてたのか?今まで)。
 そして、突然入ってくる仕事もいろいろありまして…。今日もうれしいことに、自治医大の一次試験に予想外に(失礼)受験者全員が合格してくれちゃったもので、面接やら論文やらの指導が乱入してきました。まあだいたいがめでたいと忙しいものです。
 そんなこんなでテンテコマイな日々ですけれど、なんとか元気に乗りきっているのは、ドーピングしているからです(笑)。それも3種類!
 ちょっと先週体調を崩しましたが、1日で復帰できたのも、はっきり言ってこれらの「食品」のおかげです。ホント助かる。
 三つのうち二つはもう紹介しました。まずは、肩凝りや風邪に抜群の効果を発揮する葛根湯であります。毎日ボリボリ食べています(笑)。
 それから、この前紹介したスタミナのもとキヨーレオピン。ニンニクですね。これも毎日摂取。
 そしてそして、もう一つ。あっこれも「根」だな。全部根っこ系だ。それが「マカ」です。
 考えてみるとすごい三種(三根)の神器ですなあ。これをまとめて摂取しているわけですから、そりゃあ元気になるでしょう。
Img19586659 マカというと、男性の精力剤、強壮剤というイメージがあると思います。まあそういう面での効果も絶大(?)なんですけど、それ以上にホルモンバランスを整えるというのが一番の効果だそうです。
 私くらいの年齢になってきますと、そろそろ男の更年期障害が出始めてもおかしくない。ですから先手を打っているわけです。
 女性にもいいみたいですね。ま、ウチのカミさんにはこれ以上肉食になられても困るので、摂取を禁止してますが(笑)。
 で、普通、マカってけっこう高いんですよ。ドリンクや錠剤なんてもってのほか。ところが、このピュアな粉末は安い!1kg(1年分)で6000円ですから。これなら毎日モリモリ摂取できます。
 マカはまずいという評判でしたが、私はそんなにまずいと思いませんね。カブですよ。ちょっと苦いカブ。良薬口に苦しですから、このくらいじゃないと気分的にもダメです。葛根湯やニンニクもそうですね。ちょっときつめの方が体というか気持ちに効果的です。
 ただ、これは評判どおり、マカはとにかく溶けにくい。私は牛乳に解いて飲んでいますが、ちょっとしたコツが必要ですね。
 まず、牛乳をカップに入れ、そこにスプーン1杯のマカを投入。レンジで普通に温めて、一度カップを取り出し、スプーンでかきまぜます。それでもまだ「ダマ」になって溶けないのがかなり残ると思います。なるべくスプーンの腹などを使ってすりつぶしておいて、もう一度レンジでチン。今度は吹きこぼれる寸前まで加熱します。よく見ていないとマカミルクが噴火しますので注意。ボワッと盛り上がって吹きこぼれる寸前に加熱を止めます。そして、再びかきまぜると9割方溶けます。
 それでも底に塊がたまっていたりしますから、それはスプーンにこびりついたマカと一緒に、苦いのをこらえながら食べます。良薬口に苦し。
 このマカミルク、けっこうハマりますよ。私はかなりおいしいと思います。
 一日一食(夕食のみ)歴そろそろ6年の私の一日は、これら三種の神器の摂取から始まります(夜寝る前も三種の神器は摂取します)。これで若さを保ちつつ、元気百倍。
 最近、ちょっと元気がないとか、疲れ気味だと、気持ちが乗らない人、ぜひこの三種の神器を試してみてください。変な「薬」や「サプリ」に頼るより、やっぱり自然の「根っこ」が一番ですよ(大笑)。安上がりですし。
 
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2010.01.24

高円寺駅南口ロータリー…

Photo 日でちょうど1ヶ月ですね。フジファブリックの志村正彦くんの最初の月命日。
 そんな日にたまたまこの場所に来るとは…。
 全く意図していなかったのです。本当にたまたま別の事情から考えてここになったのです。不思議ですね。
 今日は家族で東京に行きました。私は3月に出演するコンサート(こちら)の練習で北区へ。家族はいつもの浜松町や東京駅、そして浅草見物に行ったようです。
 丸々6時間ベートーヴェンやハイドンを弾きました。さすがにオール初見での練習はきつい…でも、全て初めて弾く、いや聴く曲(全く知らない曲だったのです)に感動。当時のオケのメンバーもこんな感じで楽譜を配られて、初演の曲に臨んだりしたんだろうな、なんて感慨にふけっていました。
 練習を終えた私は、5時近くに北区を出発して、富士山のシルエットに沈む異様に美しい「茜色の夕日」を眺めながら、「環状7号線」を飛ばして高円寺に向かいました。
 最終的に新宿にいた家族と、環状7号線の近くで練習していた私が落ち合うのは、やはりどう考えても「高円寺」になりますよね。自然な流れだと思います。
 家族は北口にいたのですが、停車場所がなかったので、私はガードをくぐって南口のロータリー横に車を停めました。そこら中に車が停めてあったのに、そこだけポカンと空いていたのです。その時はただ単にラッキーと思っただけでした。そこに買い物袋をかかえた家族がやってきました。
 車を停めた時は、気づかなかったのですが、家族が車に乗り込む時、車の窓から外をのぞき込むようにした瞬間、私はとても不思議な気持ちになりました。あれ?この風景…。
 そうです。私は上の写真をふと思い出したのです。たしかここだった…志村くんが立っていたのは!
20100125_62723 確信がなかったので、車の窓越しにiPhoneで写真を撮りまして、ウチに帰って確認しましたら、やっぱりそうでした。まさにその場所にレンズを向けていたのです。
 ただご覧のように、今南口ロータリーは工事中です。リニューアル工事が行われています。
 富士吉田の市民会館(富士五湖文化センター)も今改修中でして、こうして志村くんを偲ぶ風景が変っていってしまうのも、なんとなく悲しい気がしますね。
 この前、「中原中也 『我が生活』」という記事に書いたとおり、志村くんと中原中也は同じ19歳でこの場所に立ってたのですね。感慨深いものがあります。
 高円寺は、ねじめ正一さんの「高円寺純情商店街」や、大槻ケンヂさんの「高円寺心中」を挙げるまでもなく、さまざまな現代の文学や音楽の原点になっています。志村くんも「原点中の原点」と言っていますね。
 古くは、中原中也だけでなく、川端康成も高円寺で貧乏生活をしています。島崎藤村もですね。まあ、とにかく高円寺、阿佐ケ谷、荻窪、三鷹あたりは、そういう空気のある所です。
 志村くんは、ピザ屋のバイトの先輩から高円寺をすすめられたそうですが、「音楽やるなら高円寺に住め」という流れは、たしかに世間にあるようですね。
 考えてみると、役者を目指していたウチの姉も高円寺に住んでいたんだっけ。そういうサブカル的というか、アングラ的な雰囲気もあります。
 私は個人的には本当に最近になって高円寺と縁ができたんです。ここ1年のことです。発端は、プロレスの勉強会で定期的に高円寺に通うようになったということ。そう、スネークピット・ジャパンがあり、ビル・ロビンソン先生が住んでいたというのがきっかけです。
 その後、何人かの教え子がこの近辺に住んでいるのもわかり、年に何度かは通うようになり、高円寺で朝まで飲み明かすなんてこともあるようになりました。それも考えてみれば不思議な流れでした。
 さて、高円寺南口ロータリーで落ち合った私たち家族は、中央高速で富士山に帰ってきました。途中、車は罔象女命の上を通ります。そこから富士吉田市の夜景(含む富士急ハイランド)を眺めました。そして、スバルラインで富士山に駆け上がり、志村くんが天に昇った聖苑のすぐ横を通って、我が家に帰ってきた次第です。
 こうして期せずして、私なりの月命日のお祈りをすることができました。なんとなくですが、やっぱり「ありがとう」と言いたい気持ちです。志村くんの、いろいろな土地土地での、いろいろな思いを感じることができたような気がします。
 おやすみなさい。

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2010.01.23

(たぶん)長生きの凡才作曲家?…29歳の時の作品

Purcell 日の天才作曲家たちに対抗して、凡才のワタクシめの作品を披露します(笑)。つまり、恥をさらします。先ほど確かめてみましたら、ちょうど29歳の時の作品でした。
 私はまだ独身、下吉田のぼろアパートで7年間掃除をしない(!)部屋で、実にダメダメな生活をしていた頃の作品です。
 当時、別に音楽家になろうなどとは考えておらず、単にパソコンやらシーケンサーやらを手に入れたのをきっかけに、ためしに色々と作ってみたという程度です。
 ただ、当時は一人暮らしでヒマだったのか、また、邪魔をする人がいなかったからか、よく酒を呑んでエレピを即興演奏し、「音楽日記」をつけていました。それはそれはかなりシュールな作品集になっております。どこかに録りためたDATがあるはずですが、とても恐くて聴けません。たぶんこのまま封印です。
 で、今日さらしてしまうのは2曲。実は1曲目は以前も紹介したのです。まあまあウケは良かったのですが、久しぶりに公開しようと思ったのは、カミさんの一言がきっかけです。「これ、フジファブリックみたい」…まじかよ!ww
 これ、もう今から16年くらい前に作ったものですからね、実は志村くんよりかなり早くこういう変態的なことやってたってことですか(笑)。
 というわけで、最初は「サザエさんロックヴァージョン」です。こちらの記事で説明したように、これはQY20というYAMAHAの超小型シーケンサーで作ったものです。あの爪の大きさくらいのゴム鍵盤を一生懸命押して、リアルタイム録音したものです。とは言っても、もちろんリズムやコードは「パターン」を組み合わせて作ってありますから、半分は打ち込みということですね。まあ笑ってやってください。ヴォーカルはもちろんワタクシです。メロディーは原曲どおり、コードを変えて作っているらしい…。

サザエさんロック

 続きまして、昨日の記事で紹介したヘンリー・パーセルの変態性に憧れて作ったフーガです。けっこう対位法的には凝ってますね。主題が反行になったり、拡大したり、ストレッタで現れたり。半音階を多用して変態的に仕上げています。今だったら、とても出来ないな、こんな過激な和声。若気の至りですわ。
 これは記憶によると、当時初めて買ったパソコン、富士通の白TOWNSを使って打ち込みしたような気がします。なんのソフト使ったか、いまいち覚えていない。楽譜を書いて作曲したのか、そうじゃないのかもはっきりしません。画面上で音符を置いていったような記憶が…。楽譜もMIDIデータも残っていない謎の作品です。
 まあ力作と言えば力作ですが、その道の専門家の方からすれば、単なるトンデモ作品ということになるでしょう。凡才はしょせん凡才というわけです。まあ、気が向いたらどうぞ。

3声のフーガ

 なんだかんだ言って、その後こうした遊びはしなくなりましたから、やっぱり若さというのはバカさである反面、案外創造的なものなのかもしれません。
 と、久しぶりに音楽を作りたいような気もしてきました。なかなかヒマがないし、集中する環境がないんですけどね。

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2010.01.22

夭折の天才作曲家 ヘンリー・パーセル

250pxhenry_purcell_by_john_closterm 日、Mステを観ていたら、ノラ・ジョーンズが登場したのでビックリ。それまでの、異様に不毛なJ-POP群に辟易していたところに、あの時間も空間もジャンルも軽く飛び越えた楽曲が演奏され、その天才ぶりに余計に驚きました。
 彼女の父はいわずもがな、インドの天才シタール奏者、ラヴィ・シャンカールです。ジョージ・ハリスンに多大な影響を与えたことでも有名なグローバルな音楽家ですね。まだご存命なのでしょうか。
 このMステを観て、聴きながら、改めてフジファブリックの志村正彦くんは天才だったなと思ったのでした。ノラの音楽同様、「今」はどのジャンルにも収まらず、誰にも似ていず、一方で、過去の音楽のエッセンスも感じ、その意味ではたくさんの音楽に似ているとも言える、そういう音楽が今、日本のヒットチャートにはあまりに少なすぎます。
 一般人たるファンを置いていくほどに常に変化し続けるのも天才の特徴です。ジョージというかビートルズもまさにそういう存在でした。
 音楽史にはどの時代にも「天才」はいました。いや、音楽史は天才によって作られていくと言ってもいいかもしれません。のちに「○○派」とか「○○音楽」などと呼ばれ、分類画期されるためには、そのエポックをメイキングする「天才」が必要です。
 そうした天才の中で、「彼がもう少し生きていたら音楽史は変っていただろう」と思わせる、いわゆる「夭折の天才」という人が何人かいます。
 その代表格とされるモーツァルトについては、私は「神童」ではあったけれども、それほど「天才」ではなかったと、かなり辛口な評価しか与えていません(スミマセン)。
 では、私が考える音楽界の「夭折の天才」とは誰かと申しますと、そうですねえ…近いところでは、やはり志村くんも、残念ですが結果としてそういうことになってしまいましたね。
 ジョン・レノンも夭折と言っていいでしょう。ただ、あの時点でもう充分に仕事をしていたとも言えますが。
 もう少し遡って、山田かまちでしょうかね。彼があと10年でも長く生きていれば、音楽のみならず、詩の世界も、絵画の世界も変わっていたかもしれません。
 忘れてはならないのは瀧廉太郎です。彼は23歳でなくなってしまいました。彼こそ世界の音楽史の中でも最も惜しむべき夭折の天才でしょう。彼についてはいつか書きたいと思っています。
 そして、ヨーロッパに目を向けますと、もうこの人しかいないでしょう。イングランドが生んだ天才ヘンリー・パーセルです。36歳で亡くなってしまった彼については、以前『イングランド、我が祖国〜パーセルの生涯』の記事で少し紹介しましたね。
 ちょっと理解してもらえないかもしれませんが、私、志村くんの楽曲とパーセルの楽曲に似た印象を持つんです。そうですねえ、わかりやすく言えば、変幻自在であり、叙情的な面と変態的な面を持ち合わせるというか…。ちょっと言葉で説明するのは難しいのです。とにかく先ほども書いた「過去の遺産を引き継ぎつつ、誰にも似ていない音楽を作る」「型を知りつつ型にはまらない」という「天才」の条件を二人ともしっかり持っていたと思うんです。
 まあ、いろいろ言うより、聴いていただきましょう。今日は2曲。まず、「グラウンド上のファンタジー」です。単純で美しい定番の循環バスの上に、3本のヴァイオリンが「妄想」を紡ぎます。スタイルとしては有名なパッヘルベルのカノンと同じですが、その「変態度=天才度」が違い過ぎます。バロック時代とは思えない実験的な和声がこれでもかこれでもかと展開していきます。先を予想することができません。ある意味プログレしてますね。2小節目の頭の不協和音からしてありえません。
 我々シロウトがこの曲を演奏すると、「間違えた!」「下手くそ」と言われてしまいます。それほど破格な曲です。これを彼は20代で書いていたわけですね。では、どうぞ。

 どうでしたか?変態的な美しさでしょ(笑)。
 彼は本当にいろいろなジャンルでいろいろなスタイルの曲を書いているのですが、いわゆる「歌」でも名曲をたくさん残しています。その中でも有名な「Music for a While」という曲があります。
 たまたま、YouTubeに、音楽祭でお世話になったエブリン・タブさんの演奏があったので、まずはそれを聴いていただきましょう。

 神秘的な美ですね。「ひとときの音楽」の意味は深い。
 さらに今日はそのジャズ・ヴァージョンを聴いていただきましょう。志村くんも最後に音楽的洗礼を受けたものと思われるスウェーデン音楽。そのスウェーデンを代表するジャズ・ピアニスト、ボボ・ステンセンのトリオによる演奏です。骨格的には原曲のままです。しかし、この現代性というか、時代を超越する魅力、美しさは驚愕に値します。演奏的にはポール・モチアンのドラムスもいいですねえ…。では、どうぞ。じっくり味わって下さい。

 夭折の天才…たしかに悔やまれる現実がそこにあるのですが、やはり、こうして聴いてみると、天才たちはいち早く「才能を天に返す」運命にあるのかもしれないと思われてきますね。

Amazon ベスト・オブ・パーセル

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2010.01.21

フジファブリック 『熊の惑星』

54_20100121_00002 ほど、富士吉田市の「夕方5時のチャイム」が鳴りました。今日はまた特別に胸に響きますね。
 今日は東京の中野サンプラザにおいて、お別れの会「志村會」が執り行われています。私は仕事が立て込んでいてうかがうことができませんが、知り合いの数人が駆けつけて、現地の様子などを伝えてくれました。
 悲しみは絶えません。しかし、こうしてファンの人たちの気持ちを集める場が設けられたのは、志村正彦くんにとっても、また、メンバーにとっても、親族の皆さんにとっても、そしてなんと言ってもファンの人たちのために、とてもいいことだと思います。
 何ごとにも一つの区切りというか、前に進むきっかけというのは必要です。私も今日、また新しい気持ちで彼の曲を聴くことができそうです。皆さん、ありがとうございました。
 さて、今日はそんな大切な日にちなみまして、一つエピソードを紹介いたします。
 この前記事にしました名曲「若者のすべて」のカップリングに「熊の惑星」という可愛らしく愉快なナンバーがあります。まずは、お聴きください。

 作曲はベースの加藤くんです。中国風なイントロやリズムを伴ったなかなか楽しい曲ですね。もちろん志村くんの歌詞にインスパイアされての曲作りだったことでしょう。
 不思議な「詩」ですね。まさに「夢の対決」、夢で見た光景をそのまま言葉にしたような不思議な世界が広がっています。
 「熊の惑星」と言えば、私などアメリカのSF作家R・A・ラファティの「どろぼう熊の惑星」を思い出します。あの短編集、以前図書館かどこかでチラッと眺めたことがあります。けっこう残酷な雰囲気の童話だったと記憶しています。もしかして、志村くん、このあたりからヒントを得たとか。
 軽みもあって、実は残酷でシュールというラファティの味が、この歌詞と不思議に共通していると思います。
 さてさて、そんな熊(なぜか北欧の熊)に対するのは、アジア一のワザの使い手「ひげの太極拳野郎」です。
 この正義の味方の正体について、志村くんが何かインタビューなどで語っているかどうか私は知りません。ただ、この歌詞を聴いた時に、あることをピンと思い出したのです。志村くんの理想の男がこんなところに出てきていると。
 というのは、彼の中学時代の卒業文集に「太極拳男」が登場しているのです。あまり詳しくは書けませんが、彼の目指す「太極拳男」は「効率のいい男」だそうです。
 その文集の文にも、はっきり言って他の生徒たちとは全く一線を画した芸術性(?)があり、もうすでに天才詩人の片鱗がうかがわれます。ある意味ぶっとんでいるんですよね。
 そんな理想の男がひげをたくわえて再登場したと思ったのです。
 たまたまでしょうが、ラファティの熊は北欧どころか、宇宙からやってきた盗っ人エイリアンでして、それを志村くんの目指した理想の太極拳男がやっつける光景が目に浮かんだんですよね。
 旗を取り合っていますが、いったいこの「旗」とはなんなのでしょうか。彼がこの詩について何か語っているのを知っている方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。
 繊細で抒情的な詩や、変態的で過激ともとれる詩の多かった志村くんの作品ですが、このような軽みのあるユーモアもまた彼の魅力の一つでしたね。そのへんの幅の広さも中原中也的であるとも言えそうです。
 「若者のすべて」「セレナーデ」「熊の惑星」…たしかに彼の少年時代の香りがする曲たちですね。
 今日はあえてこの曲を聴きながら、あらためてご冥福をお祈りしたいと思います。
 Rest In Peace …

Amazon 若者のすべて

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2010.01.20

『YOUNG YAKUZA』 ジャン=ピエール・リモザン監督作品

1002_wide_docyu さに隠れた名作。日本では公開されませんし、DVDも発売されないでしょう。ですから、今のうち観ておいてください。
 北野武監督と蓮實重彦さんの対談作品などでも有名なフランスの映画監督ジャン=ピエール・リモザンによる2008年作品です。ウワサには聞いていましたが、これはたしかにいいですね。
 稲川会碑文谷一家熊谷組の「日常」を撮ったこの作品。ドキュメンタリーのようで、ドラマのよう、ノンフィクションのようでフィクョンのよう…実に異彩を放つ名作になりましたね。
 まさに虚実皮膜の間。まるでプロレスの世界観のようです。いや、結局、ちょっと前にも書きましたように、こういうヤクザ界やプロレス界、そして芸能界など、本来の「物語」世界はこういうものなのでしょう。
 2007年度カンヌ映画祭 ドキュメンタリー部門に出品されたこの作品。聞くところによると、この作品、熊谷正敏組長自ら撮影を提案したとか。たしかに、組長カッコよすぎます。絵になる男。目力、言葉力、そしてたたずまいが半端ではない。
 他の組員たちも、途中まるで役者さんのように見えてきます。それほど自然でありながら、しかし、ちゃんとストーリーが感じられる。
 かちんこも使って、ある程度のシナリオも組んで撮られたということですが、そのある意味美しすぎる各シーンが、まさに北野映画を思わせます。暴力の裏にある「優しさ」「愛」「切なさ」「悲哀」…やっぱり北野映画ですよね。
 一般の仁侠映画や北野作品のような暴力シーンは皆無です。静かに淡々と「日常」が綴られていく。「非日常」はお見せできませんということでしょうか。
 その結果、この作品における熊谷組長は、まさに「教育者」として映ります。いや、我々現代人が忘れてしまった大切な「モノ」を伝える伝道師のようでもあります。非常に正しいことを語り、そして「愛」に満ちている。たとえこれが多少のフィクションを含んでいるとしても、しかし、たしかに感動的であるのは事実です。
 カトリック信者である組長が教会の神父さんを訪ねるシーンや、三社祭を颯爽と闊歩する姿には、どこか宗教的な香りさえしてきます。
 ヤクザ世界の必要悪的な有用性については、今までも何度も語ってきました。私は単純なヤクザファンではありませんが、ヤクザ的世界の絶対的な必要性については認めています。
 我々庶民が悪をなさないための抑制力であり、外敵から日本を護る防波堤であり、また資本主義における理不尽な富の偏在を再分配する役割を担うことは否めないと思います。それを弱体化してしまった私たちが、どんな危険にさらされているか、誰しもが肌で感じているはずです。
 組長のみならず、いろいろな人の口から様々な名言を聞くことができます。ノンフィクションとしても面白い。フィクションとしても面白い。
 なるほど、「美の国は道徳の世界より広大である」か。

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2010.01.19

『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』 津田大介 (洋泉社新書)

86248482 バマ大統領がTwitterに初投稿というニュースが。
 私はいまだツイッターには参加していません。見るだけです。やってみればその面白さや可能性がわかるかもしれませんが、とりあえず旧メディアであるこの「古典的ブログ」という形式が自分には向いているような気がします。
 基本的につぶやきを公開することにまだ抵抗があるんですね。ある意味まとめあがっていない思考の断片を披瀝する価値がいまいち分からないのです。
 この本を読めば、それがどんなにクリエイティヴな世界であるか、だいたい想像できます。しかし、これは私の性格の問題だと思うのですが、しっかり構成、校正されていない「言葉」が、勝手に解釈されて、勝手に成長していくのが、ちょっと怖いような気もするのです。
 似たようなものに、mixiのボイスというのがありますが、あれこそどうも苦手な世界です。日本人のつぶやきはどうしても「愚痴」になりがちで、それを読まされる方としては、正直不快になるだけです。
 もちろん、そんな負のつぶやきばかりではありませんが、ああやって「文字」にして「言葉」にしてしまうことによって、ちょっとした不快の萌芽が実体化してしまうと思うんです。それって、ストレス解消になるんでしょうか。それとも誰かにかまってもらいたいだけなんでしょうか。いずれにしても、自分にとってもあんまりいいことではないような気がするのですが。
 ちなみに今の時点の私のマイミクのボイスを見てみると、約9割がマイナスな感情の吐露になっております(苦笑)。これはSNSという「社会」、クローズドで基本実生活に根ざしたコミュニティーの、ある種の「気持ち悪さ」ですね。実に不毛な感じがします。さすがにツイッターはこんな感じじゃないだろうな。
 まあそれでも、こうしたブログの記事や、mixiの日記みたいに、構成や校正をしなければならない場には、いろいろな「他者性=公共性」が介在するので、その人自身のリアルな露骨さというか、ある意味肉体性なんでしょうかね、そういうモノはたしかに希薄になります。
 インターネットというのは、不特定多数の脳ミソの共有です。今まではそういう感じだったわけですが、いよいよツイッターのように「リアルタイム」性を獲得して、結果として「理性」以前の「感情」や「感覚(今何を見ているとか、食べているとか、どこにいるとかも含む)」を共有できるようになってきたわけです。これは究極の世界一体化ですよ。
 そうすると、さっき懸念した、素材としての洗練されていない「言葉」が、勝手に誰かによって編集されていくことも、究極の他力だと思えば許せるような気がしてきますか。しかし、その結果がどうなるのかなんて、誰も考えていませんし、分かりませんよね。ただ、なんとなくですが、私はその先にあるのが、いいことばかりではないような気がします。予感として。
 まあ、言語化する時点で「感情」や「感覚」の編集がなされているわけですし、考えようによっては、あの字数制限は編集を要求するものだとも言えますがね。ただ、その編集度の低さは否めないと思います。
 そんなツイッターやボイスの持つ、リアルタイム性と無責任性(ゆるさ)と、それから文字数の制限がもたらすある種の韻文性からして、これを「和歌」や「短歌」や「俳句」の世界と比べる向きもあります。この本でも最後の勝間和代さんとの対談の中で、そんな話が出てきます。
 ちょっとそれは違うような気もしますけれど、しかしたしかに、これらの「つぶやき」が、音声言語と文字言語の中間態であるというのは事実でしょうし、タイムライン上で流れるように消えていくが、しかし検索も可能という、今までにない言語メディアであるというのも興味深いところです。
 書き言葉、特にネット上の言葉の面倒なところは、基本「永遠に残る」ということです。そこからBBSなどでは面倒なケンカが起きたりするわけですよね。文字によって、我々の思想や感情は時を超えて残ることになり、それが良い結果と悪い結果両方を産むことになっているわけです。音声言語であれば時の流れにまかせて洗い流すこともできたのが、書き言葉ではそれが難しくなる。
 それを、上手に流していくところに、ツイッターの魅力があるのでしょうね。
 というわけで、私は学校現場でこのツイッターをうまく利用できないか考えているのです。しかし、なかなかいいアイデアが浮かばない。ちょっと考えられるのは、まあ、基本閉鎖的な学校生活をゆるく実況中継することで、より公共性を持たせたり、あるいは単純に、保護者の方へリアルタイムでありながらかつプライバシーがある程度保護された情報を伝えるという使い方が考えられますね。
 4月開校の中学で活用できないか、今後もいろいろと考えていきたいと思います。まずは自分がちゃんと参加してみないといけませんね。

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2010.01.18

『いま20代女性はなぜ40代男性に惹かれるのか』 大屋洋子 (講談社+α新書)

20100119_64403 路大将のおかげで、仕事も忙しくなりました。
 あんまり憎らしいので、報復にこの本を読みました(笑)。お前には負けないぞ!と。現代の40代オヤジだってモテるんだ!ww
 というわけで、とっても忙しいので、あんまり詳しく書けませんが、ええと、結論から言いますと、20代の男がヘタレすぎるってことですね(笑)。分かります。卒業生なんか見てても、非常に男としてはがゆくてしかたない。草食系とも言えるけれど、それ以上に、いやそれ以下に精力的でない。いけませんね。
 やっぱり、なんだかんだ言って、昭和の男…いやいや、平安の男、つまり恋路大将みたいじゃなきゃダメってことでしょうか。
 以前、草食系?肉食系?という記事にも書きましたように、平安や江戸、戦後などの国民総貴族化時代には、男子は女性化するのですが、それでも、平成の男とはちょっと違うんですよね。
 その記事では、本来肉食であるはずの世の女性までもが草食化していることを憂えましたけれど、考えてみると、それもまた男性の責任であるとも言えるのですよ。
 つまり、今どきの男どもは、女の肉食性を引き出すことができないのです。それで、若い女は常に不満だし不安だし、半分あきらめムードになり、いよいよ草食化してしまう。そういうことです。
 で、この本では、肉食系…というよりは、ワタクシ的には「女性の肉食性を引き出す、あるいは活かせる草食系男子」の最後の世代40代に、ギリギリ光明を見出しているわけです。20代の女性たちも、自分たちの肉食性を自然に導き出してくれる男を求めているのだ、と私は解釈しました。
 大屋さんの論もなるほど納得できる部分が多い。さすが電通のやり手ですね。プレゼン力が半端ではない。この本自体が、立派なプレゼンテーションになっています。
 導入から構成、文体やグラフ・表、絶妙な実例(ちょっと不倫に偏りすぎてますけど)。非常に勉強になりました。
 広告はつまり「洗脳」でありますから、このようなプレゼン力というのは基礎の基礎です。読んでいる我々をその気にさせる力がこの本にはありますね。説得力というより、やっぱり洗脳力。
 もちろん、私はそんなプレゼンに躍らされたりはしません。先ほどのように、大屋さんの説を更なるステージ(まな板)に乗せちゃいます。
 ま、そんなわけで、俎上に乗せる食材としては、非常においしい、出来の良い本でしょう。世のいい加減きわまりない占い本やら、週刊誌の記事なんかに比べれば、ずっと立派な社会学のエッセイだと思いますよ。
 基本、女性に読んでもらいたい本ですが、20代男性にとっても耳の痛いテキストになるでしょうし、40代男性にとっては、ちょっとだけ夢を見ることのできる(実際はほとんど夢で終わるでしょう)ドキドキワクワクの「艶本」となりうるでしょう。
 それにしても、こうして話題になる40代や20代はいいとして、30代というのはなんか微妙ですなあ…。私自身の人生を顧みても、たしかにそんな感じではありましたが…。
 ま、世の中のためには40代が元気な方がいいでしょう。いい気付け薬になりますね。何度も書いてきたように、世の中に妄想(物語)が欠如していますからね。

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2010.01.17

K教授と恋路大将にやられた!?(2010 センター試験 国語)

↓これは源氏
10050895784 ったく今も昔も罪な男というのはいるものです。
 センターやってみましたよ。ここ数年、毎年のようにセンター試験国語のレビューを書いてきましたが、今年はあまり積極的に書く気がしません。
 なぜなら、私の嫌いな「恋路ゆかしき大将」が出たからです。嫌いだというのは、別に作品として難解だとか、ストーリーが嫌いだとかではありません。単に主人公たる「恋路大将」が憎いからです(笑)。そのへんについては、最後に語るとして…。
 それ以上に憎いのは、問題作成委員のK教授です。なんすか、この問題は。
 実はこの作品のこの部分、以前読んだことがあったんですね。記憶に残っていました。あれ?珍しく知っている文章が出た!と思ったら、河合塾の模擬試験で出ていたようで、いわゆる黒本の2007年版にありました。
 私の担当するクラスでは、以前書いたように、センター試験を100年分以上やります(もちろん模試の問題も含めてですよ)ので、生徒も記憶にあったようです。しかし、やったという記憶があるからできるというわけではないのが古文の恐ろしいところです。
 とにかく今回の古文は平均点低いと思いますよ。
 問題としては河合塾の模試の方がずっとまともでした。いや、できなかったからセンターを逆恨みして言ってるんじゃありませんよ。いちおうできました、全部。ただし、休憩込みで半日かかりました、古文だけで。
 ここではっきり言っておきます。これを20分で読解して、理解した上で問題に答えられる受験生はいません。断言します。いや、何十万人の中にはいるかもしれませんが、それはそれで心配になってしまうくらい異常な才能を持っている人物でしょう。現代に適応しているかどうか、確認した方がいいでしょう。
 高校の国語の先生にもいません。できたふりして解説とかしてても、実際何の資料も(もちろん解答も)なく20分で完璧にできた方はいらっしゃらないでしょう。予備校さんも、しれっとしたコメントなど出していますが、間違いなく注釈書を引っ張り出してきて、ようやく自信を持って解答例を出しているはずです。
 そのへんのことを、もっとみんなはっきり言った方がいい。変なプライドとか、世間体なんて忘れて、ちゃんと言わなきゃ。私は恥も外聞もはじめからありませんから、言います。
 いったい、この問題を20分で解かせて、どんな知識や能力を測ろうとしているのでしょうか。それも国語200点中の50点分ですからね。
 今回の現代文や漢文の問題は、一定の知識と集中力があって、いわゆる情報処理(それを国語と言って良いかは微妙ですが)をきちんとすれば解答にたどりつける問題がほとんどだったので、まあ良しとしましょう。
 しかし、もう1回言います。この古文はひどい。一時期の「古文は勉強するな。テキトーにマークしろ!」が復活しちゃいますよ。
 実際、いちおう勉強したクラスと、スポーツなどに忙しく「テキトーにマークしろ」と指導したクラスと、平均点はほとんどかわりませんでした。なんなんだ、いったい。勉強するなっていうことですか?いや、反対にスポーツなんてもってのほか、もっともっと勉強しろってことですか?それともロト6の的中率を上げろってことですか?
 私もかなり古文に関してはマニアックな方です。特に和歌に関しては、高校時代なんか、好きな人に和歌贈ってたくらいですから(笑)。それでも半日かかってまだよく分からない問題があるんですよ。その和歌をなんと6首も解釈させる問題がある。いったい、現代において、中世(実質上は中古)の和歌を解する意味はどこにあるのでしょう。文化の継承とか温故知新とかいうレベルを完全に逸脱しています。
 いや、そんな教師が進学クラスを教えていていいのか!?とおっしゃる方がいらしても、全然かまいません。私は「はい、そうです」としか言えませんし。
 冒頭の言葉を繰り返します。まったく今も昔も罪な男というのはいるものです。
 今の罪な男とは、この問題を作ったK教授です(仮名)。あんた!笠間書院の全集なしで、いきなりこの本文を読んで、自分が作ったこの問題を初めて見て、20分で解けますか?あなた中世文学の専門家でしょう?それでも無理だと、私は断言しますよ。
 こういうことをはっきり言わなきゃダメです。
 K教授、今度お会いしましょう。そして、私が作ったセンター(風)古文をぜひ20分で解いてもらいたい。そうすれば、あなた(方)がどんなことを、罪とがのない純粋に一生懸命頑張っている受験生に課している、いや科しているかお分かりになるでしょう。
 さてさて、すこしクールダウンして、昔の罪な男は誰かと言いますと、まさに「恋路大将」さんです。ただあなたの罪は罪なき罪です。あなたは光源氏の劣化コピーってとこですかね。
 あなたはイケメンすぎた。二の宮の姫君を結局ゲットした上に、絶世の美女である梅津女君にまで愛される…。ううむ、こっちもやっぱり許せん!w
 ああ、すっきりした。
 ちなみに、向かい側では、ある意味ワタクシ以上に化学の先生がお怒りになっております。いったいどんな力を見ようとしている問題なのかわからない!と。そして、これは一言で言えば「いじめ」であると。
 あ〜あ、これじゃ、教育の世界から「いじめ」はなくならないはずですわ。

 追記 ある意味もっとすごい国語(?)の問題はこちら

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2010.01.16

「自分」とは…

↓わおっ!いきなりフロイトかよ。
20100117_131644 日は忙しかったなあ…。新しい中学校の一般入試と高校3年生のセンター試験とが重なりました。
 今年はセンター試験の問題がネット上で公開されるのが遅くなりましたので、国語の問題を解くのを明日にさせていただきます。この眠さでこの文は読めない…フロイトという文字が目に入るだけで無意識的に夢判断の態勢に入ってしまう(笑)。また、解いてみてからテキトーにレビュー書きます(面白かったら)。
 まあセンターの国語の問題を作る作成委員の先生方は大変でしょうね。文を選ぶだけでも大変です。お疲れさまです。ご自分で書けばいいのに。評論も小説も古文も漢文も(笑)。
 で、実際のところ私は自分で書きます。この前、推薦入試の時にも宣言しましたように、私はその「選文」の面倒を避けるためもあり、また、せっかくですので、受験生にもお土産を持って帰ってもらうという意味も含めて、問題の本文は自分で書きます。そして、ここにも公開いたします。
 今回の文は「自分」という題で書いてみました。やっぱり小学生にはちょっと難しいかな?では、どうぞ。実際には空欄やら傍線やらルビやら、そして問題(作文含む)がありますが、それらはカットして掲載します。では、どうぞ。

    自分

 あなたは自分とは何者だと思っているでしょうか。
 「あなたは何者ですか?」と聞かれれば、「○○○○」と名前で答えることもできるでしょう。
 また、○○小学校六年○組○番と答えるかもしれません。あるいは、日本人だと答える人もいるでしょうし、男だとか女だとか、そういう答え方をする人もいるかもしれません。
 しかし、よく考えてみると、こういう答は、自分で考え出したものではないことに気づきます。名前もたいがい親がつけてくれたものですし、小学校も自分で決めたわけではないでしょう。クラスや出席番号ももちろんです。日本人であることも、男であることも女であることも自分で決めたことではないはずです。
 そうすると、私たちが「自分」だと思っているものは、全く自分ではないということになってきます。他人の意思や世の中の勝手なルールによって、名づけられ分類されているに過ぎないとも考えられます。
 そして、そういうことが、年齢を重ねるごとにどんどん増えていく。毎日毎日、いろいろな「名づけ」や「分類」を、どんどん背負っていく。私たちは、こういうことを、「大人になる」とか「社会人になる」とか「一人前になる」とか言うようです。
 では、私たちは、昨日より今日、今日より明日と、どんどん「自分」ではなくなっていくのかというと、そんなことはありません。逆に、「自分」を「自分」だと思って疑わなくなってくるのではないでしょうか。
 あなたも、赤ん坊の時には、「自分」を「自分」だとは思わなかったことでしょう。自分の名前もよく分からなかったかもしれません。でも、今はどうでしょう。「自分」を「自分以外の誰か」だとは思いませんね。
 小学校に入ってからのことを考えてみましょうか。六年生になった今、一年生や二年生の時のことを思い出してみると、やっぱり今の方が、「自分」を意識して生活しているのではないでしょうか。
 私もそうでした。ちょっとはずかしい話ですが、私は幼いころ、自分を宇宙人だと思っていました。今こうして○○家の息子として日本で生活しているけれど、それは仮の姿で、本当は地球を救うために違う星からやって来たのだと、本気で信じていました。たぶん、テレビのヒーロー物の影響でしょうね。
 しかし、小学校も高学年になると、そんなばかなことを考えるのはやめて、人から見た「自分」、人が名づけて分類した「自分」こそが、本当の「自分」であるということにしてしまいました。そういう意識はなかったとしても、結果としてそういうふうに変わっていきました。
 私もその時、「大人になる」ことを選んだのでしょう。もちろん、それで良かったと思いますし、周りの人たちもおそらくそういう道を選ぶのでしょうから、後悔したり反省したりする必要はありません。しかし、そうやって「自分」が作られていったと思うと、案外面白いものです。
 「自分」が他人によってどんどん作られていく。そうして、自分でも、そんな「自分」にどこか安心を得たり、自信を持ったりする。考えてみれば不思議なことですね。
 でも、私たちは本当にそれで満足しているのかというと、実はちょっと違ったりします。
 皆さんも、親や先生の言いなりになるのがいやな時がありませんか? 私にはたくさんありました。いやなのだけれども、じゃあ全部自分で「自分」を作れるのかというか、そんなことはない。そんな矛盾に苦しんで、暴れたくなった時もありました。まあ、暴れたところで、「自分」は全然生まれそうになかったのですが。
 人に決めてもらう「自分」の居心地の良さと悪さ。たしかに両方ありました。どのようにそのつじつまを合わせていくのか。これが、中学時代の難しさであるとも言えますね。
 そして、それは難しいからこそ面白い、やりがいのあることだったりします。ゲームなどもそうでしょう。簡単すぎるとつまらない。でも、最初は無理だと思っていたことをクリアしていく喜びと達成感は、何ものにも代え難いものですね。
 これから、皆さんは、そうやって「自分」という難しいものとつきあっていかなければなりません。そして、おおかた「自分」は他者によって作られているわけですから、「自分」とつきあうということは、「他者」や「社会」とつきあうということでもあります。また、逆の立場になって、他人の「自分」を作っていくこともますます増えるでしょう。それはそれで責任重大かもしれません。「あいつは○○なやつだ」などと、簡単に言えないのかもしれません。
 ただ、これらの困難は、私たちが生きているかぎりどうにも避けられそうにありません。皆さんはいよいよ、そうした困難なステージに主役として立つわけです。どうせなら、逃げることなく楽しみながらクリアしていきたいですね。みんなで協力しあって。
 そして、最後に大切なことを確認しておきましょう。ついつい忘れがちなことです。
 現代日本に生活する私たちは、「自分を自分だと思う自由」を手にしている。
 どうでしょう。あまりに当たり前すぎて、私たちはそのことを忘れてしまっているではないでしょうか。
 その大切なことを思い出すのに、わざわざ世界史や日本史を振り返るまでもありません。今の世界をしっかり見回してみるだけで、これが保障されていないところがけっこうあることに気づくことができるでしょう。
 私たちが「自分」とつきあっていく原点は、実はこんなことに気づくところにあるのかもしれません。

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2010.01.15

祝!『1-click Award』最優秀賞…おそるべし西裏パワー

505841773o ょっとまだ情報が不足しているのですが、本人の報告によりますと、私の教え子が、リクルート主催のウェブコンテンツ&広告アイデアコンクールである(と思う)1-click Awardのプランニング部門で最優秀賞を獲ったとのことです。
 公式サイトを見る限り、私でもわかるほどそうそうたるクリエイターの皆さんが審査員なのですが、その方々による審査会全会一致で彼女が最優秀に選ばれたとのこと。
 いやはや、天才だとは思っていたけれど、ここまでとは…。
 ちなみに彼女の作品、「いつのまにか日記」という作品なのですが、いったいぜんたい、何が「いつのまにか」なのか、どういうふうに「いつのまにか」なのか、どんな「日記」なのか、あるいは全然「日記」でないのか、全くわかりません(笑)。
 このプランニング部門では、企画書を作って提出し、第1次審査を通ると審査員さんたちの前で実際にプレゼンをやるという流れだったようです。
 11月の終わりに、彼女から「1次通りました!」との連絡があり、実はもうその時点でとんでもない高いレベルのとんでもない数の応募の中のベスト5に選ばれていたわけで、私もかなり興奮したんです。で、12月のはじめにそのプレゼンがあるということを聞き、ちょうど私も新しい中学のプレゼンをガツンとやっていた時期でしたので、「魂を動かすプレゼンをせよ!」「心の感動は一時的だが、魂の感動は相手の行動に変化を起こす」という言葉を送りました。
 なんて、これ思いっきり受け売りでして、出口王仁三郎のひ孫にして、いつも私の心の支えになってくださっている出口光さんのお言葉であります。
 結果として、私の「企画書」と「プレゼン」である新しい中学も無事多くの生徒さんを迎えてスタートできそうですし、彼女も見事最優秀賞を獲得したということで、本当に本当にありがたく思っています。直接お礼申し上げていませんので、ここで伏して御礼申し上げます。
 まあ、それにしても、彼女にはずいぶんとしてやられますわ。いつかもちょっと書いた記憶がありますが、彼女は、最初ある公立高校に通っていたんですね。しかし、そこの「個性を全く無視する教育(当時)」に押しつぶされ、ドロップアウトしてしまいました。
 その後、縁あって私のクラスでやり直すことになったわけですね。そして「個性を必要以上に伸ばす教育(当時〜現在)」に接し、その後はとんとん拍子、日芸の放送にちゃっかり合格し、やることなすこと全部うまく行き、人に恵まれ、多少周囲を振り回しつつ利用しつつ、某広告会社にすんなり内定を決め、そしてまた今回の偉業です。
 なんて、こんなふうに書くとまるで私の手柄みたいですね。本人に怒られてしまいます。実際、彼女、最近「私ははったりではない」宣言をしてますからね。最初は私のキャッチフレーズである「はったり・ちゃっかり・ぼったくり」を見事に継承している(いや、私は最後の一つに関しては全然ダメ。彼女はそこにも才能がある!)と思ったんですけど、最近は「私は先生とは違います!」と言う…いや、そのようにハッキリは言いませんが、そういう空気が出ているんですよね。
 まあ、正直認めましょう。お前の才能なめてた!本物であると認める!くやしいけど(何が?w)。実際、才能もあり、そして実は地道に積極的に努力しているのを知っていますから、なんでもテキトーな私とは全然違います。
 今回も、プロの方々をも差し置いて最優秀賞を獲ってしまったとのこと。おそるべしだな。
 で、結局、その受賞作品がどのようなものかさぱーり分かりませんが、とりあえず「おめでとう!」と言っておきます。そのうち公式サイトで正式な発表があり、本人のインタビュー映像などが観られるようになるでしょう。得意のトーク(?)で笑わせてくれる(あるいは泣かせてくれる)ことを期待します。
 最後に一つ。本人にもちょうどフジのライヴの帰りに言ったことがあるんですが、彼女フジファブリックの志村正彦くんに似た空気と才能を持ってるんですよ。
 実は、彼女の生まれ育った地域というのが、富士吉田のいわゆる「西裏」というところでして、ここは独特の「地霊」が宿るところなんです。
 たとえば、太宰治の富嶽百景のあの名文(こちらの記事で紹介しました)が生まれたその場所であり、そして、昨年末夭折したフジファブリックの志村正彦くんが生まれ育った地域でもあります。ここは本当に不思議なところです。今は「昭和レトロ」の遺跡群として有名なところですが、それ以前に、人間と自然と神仏の欲望(?)が渦巻く独特な空気を持つ地域なんです。こちらのサイトでその一端に触れてみてください。
 彼女も志村くんも、そういう空気(霊気)をたっぷり吸い込んで、そしてその地霊を踏みしめて育ったんでしょうね。だからでしょう、なんかとんでもない「天才」の香りがする。
 なんて、ちょっとほめすぎかな。いや、今後の活躍にも期待しますよ。そして、いつか、もし独立でもしたら、小間使いとしてでも使ってくれ!オレも教員退職後はクリエイティヴな仕事したいんで(笑)。
 ま、そんなこと以前に、まさにその土地に開校する新しい中学校で、天才たちを創造していきたいと思います!がんばるぞ〜!

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2010.01.14

『よくわかる!日本の新宗教』 島田裕巳(監修) (笠倉出版社)

07231446jpg ういう系統の本はたくさん持っていますが、これはちょっと毛色が違っていて面白かった。カミさんも面白い面白いと言っておりました。つまり、ちょっと週刊誌的な感じがあるんです。マニア向けではなくて大衆向け。
 いやもう、「笠倉出版社」というだけで、私は飛びついちゃったんですよね。えっ笠倉が新宗教の本?っていう感じだったんで。
 御存知のように、「笠倉」と言えば、レディースコミック、BLコミック、パチンコに競馬、改造車にPC裏技っていうイメージじゃないですか。私の趣味からはほど遠いけれども、なぜか研究対象としては身近な感じがする分野ばかり(笑)。ある意味日本の裏伝統文化を支えてきた(いる)出版社ですよね。
 正直すごく分かりやすかったんです。今まで、どちらかというと教典などの各教団出版物、学術書や事典、せいぜい『日本の10大新宗教』『平成宗教20年史』のような新書を読むばかりでしたので、まあ知識は豊富な方だったと思いますが、なかなか頭の中で整理されていない感じがあったんです。でも、笠倉さんのおかげでだいぶ整理できましたよ。
 冒頭の「日本の新宗教相関図」という樹型図をはじめとして、2ページに1ページはいわゆる「図解」ですからね。やっぱりこういう大衆への優しさというのは大切ですよ。よくまとまっていました。
 そして、やっぱり根本の視点が他所と違っている。帯には「カネ」「信者数」「勧誘術」etcとあります。ね?面白そうでしょ?
 特に各団体の「集金モデル」は、単純と言えば単純ですが、なるほどと思わせるものがありました。なんとなく宗教団体というと強引な勧誘と多額のお布施みたいなイメージがありますが、たしかにこうやって示されると、全然そういうシステムではないことがわかりますね。
 だいたい、一人当たりの上納金は大したことないんですよ。1ヶ月100円とか、せいぜい3000円とか。しかし、チリも積もれば山となるということで、その数が100万人なら、1000円も1年で12億円とかになるわけですね。あとは出版ビジネスですね。確実に100万部売れるんですから。
 出版やその他のメディアビジネスということでは、この本でも取り上げられている、そして昨日の記事でも登場した出口王仁三郎がそのはしりですよね。昨日も書いたとおり、彼はカミとカネを有機的に結びつけた最初の宗教人だと思います。
 これも昨日書きましたが、その影響は両世界において、とんでもなく大きいものがあります。我々はふだん気づきませんが、宗教、経済、政治、芸術といった分野での、地下水脈としての彼の影響力は多大なものがあります。
 冒頭の「相関図」を見てもわかるとおり、彼の教団「大本」はまさに「大本」で、現在名だたる神道系教団のほとんどが根っこをたどると「大本」に行き着きます。
 ある意味「万教同根」を唱えた王仁三郎の言うとおりであり、また逆に言えば、「万教帰一」のはずが、今はどんどん枝分かれしてしまっているという皮肉なことになっているとも言えます。
 そして、当然のことながら、枝分かれし、袂を分かち、暖簾を分けるうちにどんどんパワーダウンしていくという図が読み取れます。20世紀は分裂の時代でしたね。やはり21世紀は再び融和、融合、合流の時代ではないでしょうか。そして、数がどんどん減っていき、「1」になり、最後は「0」になるというのが、王仁三郎の理想でした。
 今ここにたまたま「祭政一道」と書かれた色紙があります。王仁三郎の書です。この意味もまた、単純に「政教分離」の逆ということではありません。もっと根本的なことを言っているような気がしますね。
 さてさて、この本ですが、先ほど書いたように充分に「笠倉的」であったわけですが、もう一つ思わず苦笑してしまったのは、「誤植」というか「誤変換」の多さです。見開きに一つは見つかります(…は、ちょっとおおげさかな)。いくら初版とはいえ、さすがに多すぎでしょう。小見出しにまでそれがあって、大いに楽しませていただきました。島田裕巳さん、ちゃんと「監修」してくださいよ(笑)。それにしても、最近の島田さんは、異常なほどに精力的に著作を出していますね。どうしたんでしょう。
 最後にこの本で取り上げられた教団の名前を列挙しておきます。全部で20です。出てくる順です。

創価学会・幸福の科学・アーレフ(オウム真理教)・立正佼成会・天理教・パーフェクトリバティ教団(PL教)・真如苑・霊友会・GLA・阿含宗・大本・生長の家・世界救世教・神慈秀明会・崇教真光・善隣会・金光教・霊波之光・世界基督教統一神霊協会・ものみの塔聖書冊子協会

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2010.01.13

稲盛和夫と出口王仁三郎

Biz1001132308048n1 盛和夫さんが日本航空の新しい最高経営責任者(CEO)になりましたね。はたして「日本の翼」は復活するのか。
 「経営の神」と言われる稲盛さんですが、彼の経営観には多分に本物の宗教色があります。
 私は、稲盛さんの考え方ややり方が好きですね。なぜなら、ワタクシ的には彼は「出口王仁三郎」の霊的世界を現界において体現していると思うからです。
 御本人はあまり意識されていないかもしれませんが、彼にはそうした霊脈が感じられます。私は最初、彼の「臨済宗妙心寺派円福寺にて得度」という経歴に注目しました。私も今、臨済宗系の学校で禅の勉強をさせてもらっているからです。しかし、のちある方からいろいろと示唆に富む情報をいただきまして、調べてみましたらたしかに王仁三郎の息吹を受け継いでいるように感じられるようになりました。
 稲盛さんは、昭和19年の末、12歳の時に結核の初期症状である肺湿潤に冒され、死の恐怖と闘っていました。その時、隣の奥さんが「読んでごらん」と言って渡してくれたのが、かの『生命の実相』でした。稲盛少年はこの本を読んで、自分の中で革命が起こるのを感じました。稲盛さんの現在の経営観、世界観は、ある意味この瞬間に出来上がったとも言えます。
 『生命の実相』は言うまでもなく、「生長の家」創立者谷口雅春の著書です。そして、谷口雅春(正春)は王仁三郎の霊界物語の筆記者の一人ですね。谷口にも、また現在の「生長の家」にも、王仁三郎の影響は実に色濃く表れています。
 昭和19年と言えば、王仁三郎が京都で、のちに「ようわん」と呼ばれる焼き物(楽焼)を祈りを込めて(ある意味狂ったように)焼いていた時期にあたりますね。
 そして昭和30年、不思議なことに、鹿児島で生まれ育った稲盛さんは、吸い寄せられるように京都に向かいます。碍子製造会社に就職するのです。そして、ニューセラミック(焼き物)の研究に携わり、のちに「京都セラミツク(京セラ)」を創業し、世界的な企業に成長させました。
 つまり、稲盛さんには、思想的(宗教的)にも、実業的にも、王仁三郎の魂が流れ込んでいるのです。
 「大本」の関係者の話によると、どうもこれは単なるこじつけではないようです。彼の著書などを読んでみると、宗派を超えた独特の宗教観、世界観を感じます。まさに出口王仁三郎(大本)の「万教同根」、谷口(生長の家)の「万教帰一」ですね。
 さて、そんな稲盛さんですが、今回CEOという仕事を通じて、きっと世界をつなぐ「日本の翼」の傷を癒してくれることでしょう。単なるお金の問題ではないのです。社員の幸福、利用者の幸福、日本の幸福、世界の幸福を見据えてのお仕事をしてくれることでしょう。
 昨日のプロレス界の話もそうなんですよね。「カミ」と「カネ」の関係。これはなかなか難しいのです。「神」が「金」をコントロールできているうちはいいのです。
 稲盛さんはもちろん、松下幸之助さんや船井幸雄さんなんかもそうですね。みんな宗教的な勉強をちゃんとしている。「カネ」という悪神の働きもよく分かっているのでしょう。
Ai そう考えると、王仁三郎の「金神」観というのも面白く感じられますね。もともと最強の祟り神である「艮の金神」を善神に転換する発想は、そのまま、貨幣経済、市場経済における「金」という「神」の両面性とその可能性を示唆しています。
 私の「モノ・コト論」で言いますと、現在は「モノ」より「コト」、つまり、目に見えない不随意な「モノ」よりも、目に見える随意な「コト」に偏りすぎているんですよね。いつも書いているように、見えない価値を見える数値に換える「カネ」は、「コト」の権化みたいなものです。それが威張りすぎているのが現代というわけですね。人間の脳内のフィクションが調子に乗っているというか。
 そんなわけで、私はこれからの教育には、ある程度宗教的なものが必要だと考えています。もちろん、私は特定の宗派に属しているわけでもなく、まさに「万教同根」を信じて、「万教帰一」を目指し、いや、王仁三郎の理想、「宗教のない世界」の実現を夢見ている者ですから、変に偏った宗教教育をしようだなんて考えていませんよ。ただ、やっぱり若いうちに、そういう「目に見えない」「教科書に載っていない」世界があるということをしっかり「体感」させてあげたいとは思います。
 これからは「コト」より「モノ」の時代です。もちろん、ここで言う「モノ」は「物質」とか「商品」とかいう意味ではありませんよ。世間では、これからは「物質文明」ではなく「精神文明」の時代だという意味で、「モノ」より「コト」と言われていますが、私はあえてワタクシ的観点から「コト」より「モノ」と宣言させてもらいます。平たく言うと、「カネ」より「カミ」、「自己」より「他者」ということでしょうかね。
 結局は双方のバランスの問題、主従の問題なのでしょう。王仁三郎の言う「霊主体従」ですね。
 とにかく、その辺りをよく理解しておられる稲盛和夫さんの手腕に期待いたしましょう。

稲盛和夫公式

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2010.01.12

『プロレスは生き残れるか』 泉直樹 (草思社)

79421741 局、私の人生は、正しい「歌」と「言葉」と「肉体芸術」の伝承のためにあるのだなあと思います。
 それらを無理矢理まとめると「祭」ということになりましょうか。まずは神仏の存在という「モノ」があって、それを現し世に「コト」としてうつす(写す・映す・移す・遷す)作業です。
 現代は、まず我々を超えた「モノ」の存在を忘れてしまっています。全てが自分たち人間の世界観、ものさしで展開しています。特に本来の「神」に代わる悪神「カネ」はたちが悪い。我々は悪神の示す「勝ち負け」だけで自らの幸不幸を語るようになってしまいました。
 そうした「カネ」を価値基準とした世界からは、まず「祭」などという実に非論理的、非生産的なものが切り捨てられます。
 何度も書いているように、負の祭祀を司ったヤクザさんが消え、その鏡像たる皇室の権威も蹂躙され、もうこの国日本はすっかり乾いてしまっています。残念です。
 そうした世の動きとともに、衰退してしまった「モノ」と「コト」。その一つがプロレスです。もののけたちの肉体による供宴。神仏に捧げる非日常的マレヒトの来訪。
 この本では、そのような文化史的な考察は皆無ですが、しかし、この十数年で起きたプロレスを取り囲む変化が、比較的冷静に語られています。
 プロレスマニア的には、やや深みが足りないという感じもしますし、私の読んだ単行本やムックからの引用が多く、まあ復習には良かったかもしれませんけれど、少し物足りなかったかなあ。
 しかし、よくあるプロレス本の胡散臭さや過度なマニアックさがなく、一方でずぶのプロレス素人が書いたような痛さもなかったということは、ある意味今までにない距離感の良書なのかもしれません。
 他の分野でもあるんですよねえ。たとえば宝塚みたいに。極度に分かる人と全然分からない人に分かれる世界が。プロレスもその最たるものでしょう。ですから、一般書籍としての距離感が難しい。
 特に、先ほど書いたような世の中の現状ですから、我々プロレスファンは、まるで時代遅れのお変人のように扱われてしまう。総合格闘技というエセ(!)スポーツの方が、単純ですしカネになりましたからね。つまり、私たちの物語を紡ぐ力、創造力やら想像力やらがどんどん欠乏していっているわけです。
 おっと、またそっちの視点になってしまった。ええと、この本では、そのような視点ではなく、どちらかというと経営的な視点やトレーニングのあり方などが中心となっています。つまり、業界側の話。
041031_kak_zen_08_mutou_b そういう意味で面白かったのが、全日本プロレスの武藤敬司社長と内田雅之取締役、そして道場で若手の教育役を担っているカズ・ハヤシ選手の現場の声でしょうかね。リアルで興味深かった。
 なかなかインタビューなどの協力が得られなかった中、結局多くを語ってくれたのは全日本プロレスだったようです。そんな姿勢にも、全日の「自由」な発想が感じ取れましたね。いまだに閉鎖的なところも多いですし。
 昨日も全日の1月3日後楽園ホール大会をテレビで観戦しましたけれど、たしかに見事なパッケージ・プロレスでしたよ。武藤社長のプロレス観や経営センスに、私は違和感はありません。正しいかどうかは分かりませんけれど、一つのプロレス道であることは認めます。実際に今、非常に安定感がありますからね。
 私は一方で、現在の全日とは違った方向性を持ついくつかのプロレス団体の関係者の方ともご縁があります。私からしますと、どれも間違っていないように感じるんですね。もともとプロレスはその定義すら難しいほどに混沌として幅広く、奥の深い世界です。いろいろなシステムや目標があっていいですし、それらの微妙な行き違いや、奇跡的な交接というのが、プロレス的物語世界の面白さですから。
 この本の中でも話題になっていた「非合理的なスクワット」なんかも、両方の考え方があっていいと思うんです。その多様性こそがプロレス的世界だと思いますから。武藤選手のように「そんなことしたから膝が壊れた」として若手にそれを強要しないのも一つの考え方ですし、宮戸優光さんのように新年早々若手とスクワット1000回やるというのもいい。
 私はスクワットなんて50回しかやったことありませんから(笑)、全然無責任な考えなんですけど、なんとなく信じたいんですよね、その「非合理的、非科学的トレーニング(単なるしごきとも言われる)」から生まれる「何か」があることを。もしかすると、武藤選手も今の輝き(頭じゃなくてオーラ)があるのは、その無駄なスクワットのおかげかもしれません。膝が動かないからこそ生まれた、あの武藤ムーヴは、もう完全に芸術の域に入っていますから。
 まあ、そんな無責任で根拠のない「信じたいもの」こそが、神仏を招く「物語」なのだと思いますよ。
 そういう意味では、業界の危機に際して、単に大同団結したりするのも危険と言えば危険です。他の業種とのコラボレーションも慎重でなければなりません。プロレスには常に、我々凡人がタッチできない「聖域」があってほしいものです。「わからない」ことの面白さを失わないでほしい。
 なんか頭の中がまとまらないうちに書きなぐっているので、文もまとまりませんね。すみません。私の意見を一言で書いちゃいましょう。
 「プロレスは生き残れるか。衰亡か、復活か」…その答えは、実は、プロレスラーやプロレス業界側にあるのではなく、それを観る、そして囃す我々や我々の社会の側にある。
 だからこそ前途多難なのです。でも、私はあきらめません。
 結局、この本はある意味「武藤本」でした。三沢光晴さんの死をきっかけとして書かれたというこの本が、「武藤本」になってしまったというのは、なんとなく皮肉なような気もしましたが…いや、三沢さんも武藤さんも、観客やファンの立場に立つ冷静さを持っているように感じますから、ある意味両者とも「王道」の継承者なのかもしれませんね。
 昨年末、富士吉田が生んだ天才、フジファブリックの志村くんが急逝してしまいました。残る富士吉田出身の天才武藤敬司には、まだまだ頑張ってもらいたいところです。近いうちにぜひお会いしてお話してみたいと思います。

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2010.01.11

『キヨーレオピン』 (湧永製薬)

Gds014_2_2 !まずは、我が中学校の第1期生として合格された皆さん、おめでとうございました。これから一緒に歴史を創っていきましょう。楽しみですね!
 そして、もう一つ初出場初優勝!山梨学院大学附属高校。素晴らしい試合でしたね。攻撃も守備もアグレッシヴで、実に高校生らしいチームでした。山梨学院は同じ県内の私学の雄、我が校とはライバルというよりも、盟友という感じですので、私自身も大変うれしく思いました。
 それにしても、あの高校生たちのスタミナはなんでしょう。若いにしてもすごすぎますね。体力的にはやっぱり高校生くらいがピークなのでしょうか。
 私なんか、もう高校卒業してから三十年間ほど生きてしまいましたから、当然当時のようなスタミナはなくなっています。体力と気力はほとんど比例しますから、精神的なスタミナもずいぶんと衰えたのでしょう。もちろん、それをカバーして余りある(ありすぎる)技術を身につけているので、感覚的には、往時よりも今の方が楽ですが…。いらぬ悩みも多かったからなあ。自分を諦めていなかったし(笑)。
 私、おそらく30代の頃が一番疲れていたと思います。なんとなく肉体的にも精神的にも今一つ乗りきれない感じがありました。
 その後、このブログで何度も書いているとおり、「一日一食」を始めまして、そうですね、もうすぐ丸6年くらいになるでしょうか、そのおかげでずいぶんと体調が良くなり、精神的にも、また運命的にも(?)かなり好調になりました。ドラスティックな変化でしたなあ。
 おかげで、比較的若々しく毎日を送らせていただいていますが、しかし、さすがにこの私という製品にも経年の劣化が現れてきていまして、まあ、世の御仁と同様に、近い物が見にくくなったとか、物忘れがひどくなったとか、その他もろもろですね。で、それをカバーするためというわけではありませんが、多少いわゆる「健康管理」というヤツを気にするようになりました。アンチエイジングという意味ではなく、いちおう若かりし時よりも社会的に重要なポジションについているわけですから、周囲に迷惑をかけないためです。ぶっ倒れたり、入院しているヒマはありませんから。
 そして実際始めたものがいくつかあります。基本、自然の力を借りるという感じです。いわゆるサプリメントではなく、古典的な食品や、そこから派生した薬品です。
 その一つがこの「キヨーレオピン」。熟成にんにくの濃縮エキスです。
 これ、ウチの母親がずっと飲んでたんですよね。とうとう、私もお世話になる時が来たかという感じです。母親もこれのおかげで、なんだかんだ健康に過ごしてきましたからね。そういうデータというか、実績というものがあります。
 キヨーレオピン、私と同じくらいの歴史を持っている滋養強壮剤です。昔からパッケージもほとんど変わっていません。そういうところがいいですね。
 自分でカプセルに液を注入するというのが、なんとも前近代的な祭祀を思わせます。タブレットもあるようですが、やはりこういう儀式的な部分というのは重要ですよ。医学の歴史の半分以上は、実はそういうところに依存していましたから。病は気からですが、治癒も気からです(笑)。
 あとですね、ワタクシ的に導入に踏み切ったきっかけはですね、みうらじゅんさんなんですよ。私は彼のセンスが大好きで、彼が好むものは私も好むという傾向があります。で、彼の独断で選定する、彼のマイブーム大賞「みうらじゅん賞」っていうのがあるんです。たいがい、その受賞者は「人間」なんですが、なんと2007年第10回の受賞者の一人(?)がこの「キヨーレオピン」だったのです。
 なんとなく分かりますね。この魔法の薬的な存在感と昭和のたたずまい。彼好みでしょう。授賞の理由は「どれだけ今年僕を励ましてくれたか」だそうです。
 それで、私も彼にあやかって始めてみました。さあ効果はいかに。
 もともと、疲れにはニンニクが効くなとは思っていたのです。ちょっとコンビニに寄ったりした時も、決して「タウリン1000mg(単に1gじゃん!)」とかを買わず、「ニンニクの力」とか買ってました。家にニンニクがある時は、丸ごと焼いて食べたりして。
 でも、さすが、みうらじゅん賞受賞者ですね。こちらはパワーが違う。体がポッポッと温かくなるのはもちろん、なんとなく元気がみなぎる感じがします。それがたとえ気分であっても、実際そう感じるのですから、やはり効果はあるのでしょう。
 ちなみに、ここ数日、我が家のある富士山では、早朝氷点下10度近くまで気温が下がっていますが、なんと私は寝ながら暑すぎてふとんを蹴とばしていました。寝汗をかいていました。去年までは寒すぎて目を覚ましていましたが、今年は暑くて目を覚まします(笑)。この温かさは間違いなくニンニクエキスによるものですね。
 体温が高ければ高い方が免疫力が増します。ガン細胞も熱には弱い。低体温の方、気をつけた方がいいですよ。
 とりあえず、体が熱いと気持ちも熱くなります。気持ちが熱くなれば、体も自然と動きます。まあ、単純なことですよ。単に萌える…じゃなくて燃える男になるということです(笑)。
 通販で買えば、一日分、約60円くらいの計算になりますから、変なサプリやドリンクを飲むより、ずっと経済的でしょう。
 ちょっと疲れ気味という方、だまされたと思って、だまされてみてください(笑)。ぜひぜひ。
 もう一つの天然ドーピングについては後日紹介します。

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2010.01.10

ポール・ジャクソン スペシャル・ライヴ

20100111_71514 たまたぜいたくな音楽体験をさせていただきました。1973年、ハービー・ハンコックが世にファンク宣言をした問題作「Headhunters」以来、彼を長きにわたって支え導いたベーシスト、ポール・ジャクソン氏の演奏を間近で観て聴くことができました。
 これもまた生徒たちのおかげです。今日は本来、レストラン「シルバンズ」でのライヴがあったのですが、その前に急きょ我が校のジャズバンド部のためにこのようなスペシャルな場を設けて下さいました。
 まずは、ポール・ジャクソンのカルテットが演奏し、続いてお返しといってはなんですが、我が校のジャズバンド部「ムーン・インレット・サウンズ・オーケストラ」が彼らの前で演奏しました。で、私はいちおう学校関係者ということで、ちゃっかりその様子を拝見したということであります。
 ポール・ジャクソンと言えば、先ほど書いたように、まさにハービーにファンクの魂を注入した人。まあ、イエスを導いた父なる神みたいな人です。いや、ハービーだから日蓮を導いた仏陀か…いやいや大作ちゃんか(笑)。
 いやあ、まず最初に書いておきたいのは、ポール・ジャクソンの手の大きさです。ちょうど入場の際、私の目の前を通過しましたので、すかさず握手をしてもらったのですが、その手の大きさ、厚さにびっくり。プロレスラーとの握手にはかなり慣れている方ですが、まさにプロレスラー並みの手の大きさ(体も大きいのですが)でした。こりゃあ、ベースの演奏も楽だろうなと。反面、ヴァイオリンは弾けそうもないな、とも思いましたが(笑)。
 その手のみならず、体全体から生まれる黒人独特のグルーヴ感、そしてブルースのソウル、これまた日本人にはどうにも真似できない世界ですね。もうテクニックとか理屈そういう問題ではありません。もちろん、ジャズは幅広い世界なので、我々もいくらでも食い込めるのですが、しかし、やっぱり根底の部分はブラックにはかないませんねえ。
 そう考えると、ハービーの「ヘッドハンターズ」が当時のジャズ界からずいぶんと非難されたというのは、ちょっと不思議な感じがします。まあ、モダン・ジャズが白人音楽(特にクラシック)に対抗すべく、変に高尚になってしまっていた時代だったのでしょうね。
 ポール・ジャクソンは、ハービーのみならず、オスカー・ピーターソンやジャコ・パストリアス、ソニー・ロリンズ、ジョージ・ベンソン、スティーヴィー・ワンダーら大御所と共演してきた人です。そんな方の演奏というかグルーヴをこんなに身近に感じられるなんていうのは、本当に幸せなことです。
 共演していた日本人お三人も素晴らしかった。
 テナー・サックスの植松孝夫さんは、ある意味日本人らしい音とリズムのたたずまい。ポールのそれとの不思議な融合が実に面白かったなあ。生徒たちにとってもああいうサックスを聴くのはいい勉強になるでしょう。ベテランのプロレスの試合みたいな感じです。引き算の大切さというか…。
 ギターの渡邉英一さんもかっこよかった。やっぱりギターっていいですね。ピアノももちろん同様の役割を果たし得るわけですが、やはり、あの独特のカッティングのアタックはいいですね。ソロも美しかったし。のちに渡邊さんが我がジャズバンド部にもギターをとおっしゃっていましたが、本当にほしいですね、ギター。表現の幅がぐんと広くなりますよ。
 阿部知幸さんの安定したリズムとアイデアあふれるドラミングも良かった。上手なドラムスは本当によく歌いますね。旋律楽器のように聴こえるから不思議です。
 全体の演奏としては、本番である夜の部のためのリハーサル的な感覚もあったかと思いますが、それでも超一流のアンサンブルの楽しさと緊張感、存分に堪能させていただきました。いやあ、セッションはいいですねえ。
20100111_71842_2 それにしても、高校生諸君、本当に素晴らしい体験していますね。彼らの前で堂々と演奏して、そして、ほめられちゃうんですからね。昨年のMJQとも共演もそうですが、私からすれば本当に信じられないような体験をしています。彼ら、よく分かってないところがすごいんですけどね(笑)。
 「続けて下さい」と皆さんに言われていました。私もそう思います。ジャズとプロレスと演歌は歳をとってからが勝負ですから(笑)。せっかく、こういう機会に出会っているのですから、ぜひ高校生には一生ジャズと、音楽と、楽器とつきあってほしいですね。
 それにしても、うらやましい青春時代であります。

ポール・ジャクソン公式

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2010.01.09

「自然」は「不自然」?

P10406063 ッポン(ラバーカップ)を知らないカミさんが生まれ育った地域の風景です(「知らない」というより「必要ない」か…)。
 まさに日本の原風景。美しい棚田と里山、そして茅葺き屋根…ですが、今日は(も)カミさんに対して、少しいじわるな内容になるかな?
 今日、今年4月開校する中学校の初めての入試が行われました。準備をしてきた者として、実に感無量な一日でした。私たちの教育方針を理解していただき、予想より多くの子どもたちが入学を希望してくれたことに、まずは正直安心しましたし、さあこれからだという身の引きしまるような気持ちもありました。
 今までずいぶんと長く教員生活を送ってまいりましたが、このような充実感と緊張感(+疲労感?)を感じたのは初めてです。いずれにせよ、本当にありがたいことですし、私は特別な幸せ者だと思います。一つの学校の創立に関われるのですから。受験してくれた皆さん、そして親御さん、また学校スタッフの皆さん、本当にありがとうございました。
 以前、こちらにも書きましたように、本校の国語の入試問題は、オリジナルの文章を使います。つまり、せっかく受験してくれる子どもさんのために、メッセージ性のある文章を私自身が書きます。それをもとにシンプルな語句の問題と、情報処理的な問題、そして作文を課します。
 今日はその文章を紹介します。はたして私のメッセージは小学生に伝わったでしょうか。

    自然

 「自然」と書いてなんと読むでしょう。
 そう、「しぜん」ですね。
 そんなこと当たり前です。でも、実はこれがちょっと考え方を変えると、当たり前でなくなります。
 「自」はなんと読みますか? 
 「じ」ですよね。
 さっきは当たり前に「自然」を「しぜん」と読みました。「然」は「ぜん」に違いありませんから、この場合「自」を「し」と読んでいることになります。ところが、「自」だけでは、異口同音に「じ」だと答えます。
 「自然」以外に、「自」を「し」と読む例は、実を言うとないのです。だから、「自然」を「しぜん」と読むのは、ある意味「不自然」だということになります。
 このように、私たちの常識(それはたいがい学校で習うことなのですが)を疑ってみたり、その「不自然」な点に気づいたりすることが、「勉強」や「学問」の面白さを知る原点となるのです。
 ちなみに、仏教の用語としては、「自然」は「じねん」と読みます。「天然」のように、「然」を「ねん」と読むことは日常的にありますから、こちらの方が「しぜん」より「自然」かもしれませんね。
 皆さんもよく知っている「だるまさん」こと達磨大師の言葉にこういうものがあります。
 「結果自然成(けっかじねんになる)」
 一般には、「努力していれば、それ相応の結果が出るものだ」という意味だと言われています。なるほど、私たちはそう信じているからこそ、勉強にしてもスポーツにしても習い事にしても、日々がんばれるのですね。
 しかし、もともとの意味を考えてみますと、「結果」というのは、「果実を結ぶ」、すなわち「実がなる」ということですから、「結果は人間の意思を超えて、自然に出るものである」とも解釈できそうです。だるまさんは、座禅を通して「自分を捨てる」考えをきわめた人ですので、そういう意味でこの言葉を使ったのかもしれません。
 私はこの「結果自然成」という言葉が好きです。どちらの意味でとらえるとしても、全ての「結果」には意味があって、自分や世の中にとって最良なものであるのだと考えられるからです。そうだとすれば、いろいろな「結果」を素直に受け入れることができますね。
 さて、もう一つ、「自然」についての常識を覆してみましょう。
 みなさんは東京に行ったことがありますか? おそらく全員が「はい」と答えるでしょう。
 では、東京と山梨、どちらが「自然」に恵まれているでしょうか。
 そんなことは言うまでもない、山梨に決まってるでしょ。みんなそう考えますね。しかし、本当にそうなのでしょうか。実はこの答も、少し視点を変えるとちょっとあやしくなってくるのです。
 話を分かりやすくするために、私の経験を話させてください。
 私は毎年春と夏に、親戚のいる東北地方のある県に行きます。
 皆さんもテレビか何かで見たことがあるかもしれませんが、東北地方では、一面に美しい水田がひろがり、そして、その向こうにこれまた美しい里山の続く風景が、いたるところに見られます。
 私は最初この風景を見た時、なんとすばらしい自然なのだろうと思いました。
 その感想はある意味では正しかったと思いますが、しかし、あのきれいに区画された田んぼや、整然と杉の木が植林されている山々が、はたして「手付かず」の「自然」なのか、ある時そう考えはじめたら、ちょっと分からなくなってしまいました。少なくとも「多様」な「自然」とは言えないような気がしてきたのです。
 一面の稲穂ということは、そこには「イネ」という植物しかないことになりますね。水田では、雑草や虫はいろいろな農薬によって殺されてしまっています。同じことは杉だけが立ち並ぶ山にも言えます。
 あまりに画一的で単調な「不自然」さが、そこにはあるのです。
 逆に、東京には案外多様な自然が残っているのを知っていますか?
 東京には昔からたくさんの人が住んでいました。そのため、墓地やお寺、神社などがたくさんあります。そういうところは、手入れはされますが、なかなか簡単に木を切ったり、薬品をまいたりはできず、多様な雑木林が残ったり、樹齢何百年の古木が残ったりしているものです。東京の都心部にも、実はかなりの程度「手付かず」の「自然」が残っているのです。
 このように、私たちは視点を変えることによって、違う風景を見ることができるようになります。こういう話を聞くと、次に東京に行った時、電車の窓から見える風景が変わって見えるようになると思います。また、山梨の自然も今までと違った風に見えてくるかもしれません。
 先ほども書いたように、こうした視点の転換こそ、勉強や研究の面白さなのです。
 私たちには、「新発見」をすることは難しいかもしれませんが、「再発見」することはいくらでもできるのです。

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2010.01.08

ラバーカップ(スッポン)

21uosil1xl_sl500_aa280_ チのカミさんが、スッポン初体験とな。
 おいおい、こんな生活必需品を今まで使ったことないってどういうこと?…と思ったら、そっか、ボットン便所で育ったから、たしかにこいつは必要ないな(笑)。
 昨日に続いて下のネタですみません。
 ウチの2階のトイレ、猫のトイレに占領されて人間様は使えない状態が続いていました。そして、お猫様の汚物やら猫砂などを流していたら、いつのまにか詰まっちゃったんですよね。
 それでカミサンが、庭に(!?)隠し置いておいたスッポンを持ってきまして、スッポンとやったわけです。それが初めての体験であったというわけです。
 私は使ったことありますよ。ウチのトイレも何回か詰まってます。1階のトイレです。人間様の汚物で詰まったのです。ちなみに私は一日一食ですから、そんな大仰な汚物は排出しません。娘たちもまだ幼いので、そんな、トイレを詰まらすようなポテンシャルはありません。というわけで、犯人は…ナイショです(笑)。
 で、いきなりカミサンが2階のトイレのスッポンをやろうとしているので、もちろん指導しました。まず、大きなゴミ袋をかぶせること。これはいわゆる「はねっかえり」や「とびちり」を被らないためです。これ基本ですよね。
 そして、スッポンを当てる位置や角度、そしてスッポンの速度やタイミングです。こればかりは体験しないと分からない。あの感覚ですね。最大の圧力を発揮するための「ため」みたいな感覚。力にまかせるのではなく、技というかコツというかね。
 で、何回かやってみて、ようやくゴゴーッと、たまった水が吸い込まれていきました。あの瞬間の爽快感はなにものにも代え難いですよね。
 胸のつかえが取れるといいましょうか、溜飲を下げるといいましょうか、最高の感覚であります。
 このスッポン、正式名称は「ラバーカップ」と言います。ゴムのカップということで、そのまんまでありますが、和製英語ですので外人さんには通じません。
 外人さんといえども人間様ですから、我々と同じようにトイレを詰まらすこともあるでしょう。というか、日本人より詰まらせそうな気がする(笑)。ですから、当然同様な用具はあると思います。で、調べてみたら、英語では「plunger」というそうです。
 そうそう、あのスッポンって、和式様式問わず使えるっていうところがすごいですよね。あらゆる詰まりを解消できるわけです。
 人生に行き詰まったら、やっばりコレですかね。これを頭に突っ立てて歩けば、何かが変るでしょう(笑)。
 いや、冗談抜きで、子どもや老人が食べ物か何かを喉に詰まらせたら、これで口と鼻を押さえて、スッポンスッポンすれば、間違いなく解消されますよ。いやいや、肺が破裂しちゃうか…。
 いずれにせよ、我々の生活を陰で支えていながら、本名をほとんど知られていないこの健気で律義な働き者のことを、時々思い出して、そしてその功を労ってやりたいですね。

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2010.01.07

『Onaraはずかしくないよ』(テレビ東京 ピラメキーノ)

61qowcfelfl_sl500_aa240_ 日の「詩」の世界からいきなりこっちの「詩」の世界に。いや、こっちは「詞」でしょうか。あるいはある種の「シュレヒコール」でしょうか。
 たしかに画期的であります。今までのタブーを破る革命ソングです。大いに思想的、ある意味反社会的な歌ですね。これは力がある。
 ウチは変わった家庭でして、子どものテレビは、NHKとテレビ東京とBSデジタル各局(特にNHK3局)と、CSのプロレス専門局しか見せません。というより、娘たちがそれ以外を観たがりません。親の影響でしょう。
 私もそれでいいと思っています。他の局、つまりテレ東以外の地上波民放はうるさいだけで観る気がしません。
 テレ東のいいところは、低予算のおかげで、逆に内容が充実している、すなわちスタッフやタレントさんの実力がストレートに表現されているところです。派手な演出やネームバリューだけのタレントに頼らないわけですからね。
 娘たちが好んで観ている「ピラメキーノ」も、なかなか面白い企画やアイデアに満ちており、私も好きな番組です。馬鹿馬鹿しさもあそこまで行けば、一つの芸になりますからね。徹底ぶりが良い。
 この番組の中心的タレント(才能)は、はんにゃとフルーツポンチです。特にはんにゃの金田哲くんは、この番組で最も彼らしさを発揮していると思います。
 そんな彼が女装をして(これが妙にカワイイ)歌って踊るのが、この「Onaraはずかしくないよ」です。
 これがなかなかなのですよ。世の中には暗黙のルールというのがあって、それが常識化している、あるいは不文律化していることが多いわけです。我々は、そうした見えない力に呪縛されていることが多々あるわけですね。この「女の子のオナラ」というのも、実に微妙なタブーになっている。
 これは一種のジェンダーとも言えるわけで、男女共同参画社会とか夫婦別姓とかバカなこと言う前に、こういう生理的な問題を解決すべきだと、私はまじめに思うのであります(笑)。
 いや、実は私、この問題について、けっこう深く考えたことがあるんですよ。たとえば、ウチの夫婦というか家族なんかは、オナラ合戦で盛り上がったりするわけですが、反面、ごく最近、ある知り合いの女性が、おそらく私がそこにいることを知らなかったのでしょうね、けっこう豪快にオナラしちゃいまして、それで、私、自分の予想以上に引いちゃったというか、萎えちゃったというか、そういうこともあったりして、いったいこの気持ちの違いはなんなのだろう、ここのところの差というか、一線というか、そういうものが、いったいどこにどのように存するのか、ここ数十年考えてきたわけです。歴史的にどうなのか、世界的にどうなのかも含めて(笑)。
 で、その結論というのがなかなか出なかったところへ、こうして「ブー」…じゃなくて「プー」…この音韻的な感覚というのも面白い研究対象です…と発砲して風穴を空けてくれたのが、この歌だったわけです。
 ま、前にも、古くはサミー坊やの「ONARAソング」とか、近くはのだめの「おなら体操」とかありましたけど、「ONARAソング」はたしかオナラをしてしまった恥ずかしさを歌った歌だったし、「おなら体操」は、ジェンダーの生じる前の幼児を対象にしたものなので、実はなんの解決にもなっていなかったんです。
 今回は小学生以上が対象ですから、革命的なわけです。作詞は構成作家のオークラさんですね。素晴らしいお仕事をしました。
 ちょっと聴いてみてください。

 「女の子だってみんな1日10や20のオナラするのよ だからダメダメルールでしばっちゃ」という一節が実にいいですね。男も女も基本消化器官の構造は一緒でしょうから、同量の発酵ガスが発生し、対外に排出されているはずです(1日約1リットルだそうです…これを全部ためこんだらたしかにSOSですね)。
 しかし、現実には、その生理現象に対する社会的評価は、とてもとても男女平等とは言えない状況であるわけですね。それをこうして、女性の立場から(しかし、はんにゃの金田という男性が)明るくシュレヒコールしてくれたのです。
 はたして、我々「男女」という社会的言語に縛られた現代日本人は、その数千年(?)の呪縛から解き放たれるのでしょうか。たぶん、難しいとは思いますが…。でも、こういう暗黙のルールを茶化して、一種の緊張をほぐすという行為は、たぶんどの時代にも大切なことだと思います。
 考えてみると、「おなら」というのも「お鳴ら」という意味の女房詞ですから、江戸時代の女性もある意味ギャグ化していたわけですね。ちなみに、「へ」を「ひる」という言葉ですが、奈良時代くらいまでハ行の音は「p」音でしたから、今風に表記すれば、「ぺ」を「ぴる」ということで、実際の音を模したものなのです。まさに「パペピプー」ですね(笑)。

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2010.01.06

フジファブリック『若者のすべて』〜浜崎あゆみ『You were...』

41qgvwuvlgl_sl500_aa240_ ジファブリックの志村正彦くんが天に召された昨年のクリスマスイヴから、もう10日以上経ちました。
 哀しみは消えることはありませんが、しかし、毎日彼の残してくれた財産をしっかりと享け取りなおしていますと、その哀しみよりも、彼に、彼の世界に出会えたことに対する幸福の方がずっと大きくなってきます。
 この間、多くの方にコメントやメッセージをいただきました。その一つ一つがまた、私の気持ちをも代弁してくれています。ひたすら感謝です。
 今日も中原中也 『我が生活』の記事に貴重なコメントをいただきました。里沙さんが、私の言いたかったことを全部言ってくれました。ありがとうございました。やっぱり生まれかわりなのかもしれませんね。
 さて、志村くんの優れた作品の中でも、特に私が好きな詩、曲がこの「若者のすべて」です。まさに中原中也に匹敵する抒情と叙景、そしてライム、妄想力。あまりにシンプルな日本語と音楽に、「若者のすべて」が表現されています。これを聴いて泣かないオジサンはいないでしょう。これは「男」の世界です。男にしか分からないかもしれない…。
 この詩は、ぜひ授業で扱いたいと思います。新しい中学の初めての入試が目前に迫ってきました。残念ながら私の夢自体は夢で終わってしまいましたが、しかし、「夢の続き」はいくらでも見つけられます。
 「ないかな ないよな」と思って、そこで諦めてしまったら夢は夢のままです。「そっと歩き出して」みると、そこには想定外の「もの」が待っているに違いありません。あまりの想定外に「まいったな」としても、そこには「変わる」チャンスがあるのです。
 だから、私も私の夢をあきらめません。頑張ります。ありがとう志村くん。
 皆さんもぜひお聴きください。こちらでPVが観られます。
 歌詞の中で、私がごくワタクシ的に感動し、志村くんの天才ぶりを確認したのは、「運命なんてものでぼんやりさせて」という一節です。今日はあまり詳しく書けませんが、私の「モノ・コト論」の中での「もの」に対する感覚を見事に彼は共有してくれていると思うのです。
 「茜色の夕日(フジファブリック)」に見る「もの」と「こと」という記事にも書いたとおり、私は、古語も含め日本語の「もの」は「自己の外部、不随意、不如意、未知、無常、漠然」を表す語だと考えています。
 この「若者のすべて」でも、志村くんはそういうニュアンスで「もの」という言葉をさりげなく使ってくれています。特に、「運命」を「もの」ととらえたのは素晴らしい。普通、「運命」というと最初から決まっている固定された「こと」を表すと考えられています。「運命ってことだな」という具合に。
 この前も赤い糸という記事を書きましたね。あれもあくまで受け入れるレトリックとしての「赤い糸」だと思いますよ。
 普通は私たちは「運命」という「こと」を受け入れるのです。それを、志村くんは、逆にぼんやりさせる手段として使っている。そこが天才たる感性です。「運命なんてものでぼんやりさせて」…この一節だけでも、空前絶後の「詩」だと、私は思います。
 面白いことに、「モノ論」における私のライバル(?)、日本語学界の大御所、故大野晋さんが「モノとは動かし難い不変な運命のことである」と定義しています。ある意味それは正しいのですが、ある意味では「運命」の本質をとらえていないとも言えます。彼は客観的すぎたのです。あくまで言葉は主観から発するものです。志村くん(と私?)は、あくまで、それを受け入れる対象としてではなく、「あきらめる」対象としてとらえたわけです。「詩」の感動とは、「主観」の共感にほかなりません。学者の学問(客観の共有)とは次元が違うのです。
 おっと、ちょっと語りすぎましたね。
 長くなりますが、今日は一つ、この「若者のすべて」と不思議なリンクをしている曲を紹介します。たまたまこういうタイミングで発表されたからこんなふうに受け取れるのかもしれませんが、あまりに偶然なシンクロがあるもので…。
 もう一方の天才詩人(だった?)浜崎あゆみの新曲です。志村くんの死がなければ、単なるクリスマス失恋ソングだったのかもしれませんが、今のフジファブリックファン、志村正彦ファンの気持ちはまさにこんな感じでしょう。「夜空」「夢の続き」「忘れられたら楽だね だけどひとつも忘れたくない」…まるで物語の続きのような詩です。志村くんの男の世界とはある意味対照的な女の抒情詩がここにあります。

20100106_174117

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2010.01.05

『新春! 歌まつり2010』 (NHK歌謡コンサート)

20100106_62356 そるべし!二葉百合子。
 昨日のブッチャー&テリーというレジェンド(おっと長州力もいたっけ)もすごかったけれども、こちらはさらにすごい。芸能生活75年って…。いったいおいくつなんだ?と思ったら、3歳でデビューしているので78歳とのこと。
 そして、その二葉百合子さんの歌がうまいのなんのって。衰えるどころかますます味が出ている。
 今日の「歌謡コンサート」は700回記念ということで「新春! 歌まつり2010」と銘打っての拡大版でして、以下のようなそうそうたる演歌歌手の皆さんが出演され、名曲を熱唱していました(ううむ、一人KYな人がいるぞ…彼は78まで歌えるのだろうか)。

「北酒場」/細川たかし
「北国の春」/千 昌夫
「命くれない」/瀬川瑛子
「襟裳岬」/森 進一
「たてがみ」/長山洋子
「みれん酒」/石原詢子
「祝い酒」/坂本冬美
「関東一本〆」/二葉百合子
「おさななじみ」/坂本冬美・長山洋子
「心のこり」/細川たかし
「星影のワルツ」/千 昌夫
「銀座の恋の物語」/山川 豊・石原詢子
「炎」/冠 二郎
「アメリカ橋」/山川 豊
「まつり」/北島三郎
「さよならはダンスの後に」/倍賞千恵子
「冬景色」/安田祥子・由紀さおり
「雪」/安田祥子・由紀さおり
「冬の星座」/安田祥子・由紀さおり
「千の風になって」/秋川雅史
「天城越え」/石川さゆり
「舟唄」/八代亜紀
「冬のリヴィエラ」/森 進一
「帰ろかな」/北島三郎

 それぞれ当然うまいし、個性もあって良かったわけですけれど、やはり、ダントツの存在感というか、まさに会場を巻き込んだ「芸」を見せつけていた(聞かせていた)のは二葉百合子さんでした。演歌の歴史を語るのには、やはり昭和初期までの浪曲ははずせませんね。
 つくづく演歌とプロレスの世界って似ているなと思いました。この前キラー・カーンさんもそんな話してましたよ。彼は両方の世界をきわめましたからね。
 浪曲や長唄を知らないで節回しだけで歌おうとする若手歌手が多いのは、本当のプロレスリングを知らないで飛んだり跳ねたりする若手レスラーと同じです。
 素人がカラオケをやるように、素人がどんどんリングに上がっているというのも似ています。
 それ以前に、年齢とともに「味」が出るというのも似ていますし、人生が反映する、人生を聞かせる、見せるというのも似ています。
 レジェンドに頼っていて、新人が育ってこないというのも似ていますかね。いったい10年後はどうなってしまうのでしょうか、両方とも。
 昨日も今日も、中堅どころでイマイチ技が単調なの人がいましたね。部分部分はうまいんだけれど、全体としての大きなうねりや、リズム感が足りない。そんなところも共通していました。
 実は今まで何度も書いてきましたが、「本来の」ヤクザがいなくなったのも、両世界の衰退に関係しています。特に地方のヤクザ。最近、地方で歌謡ショーやプロレスが行われなくなったでしょう。こうしたフィクションとリアルの交錯する舞台が、日常に混入しなくなってしまったのは、我々にとって大きな損失ですね。
 それにしても、二葉百合子さん、すごかった。どれだけ努力しているのだろう。他の歌手たちが「日本一!」と言っていましたが、それってお世辞でもなんでもない。実際、彼女たちの先生ですしね。今の演歌界を引っ張る大御所たちを育てたんですから、そりゃあ日本一でしょう。ということは、当然「世界一」ということでしょう。

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2010.01.04

『レッスルキングダムIV in 東京ドーム』 (新日本プロレス)

↓赤虎敗れる。
20100105056 このところ想定外のことが続き、やや疲れていたのでしょうか。夕方から寒気がして、いや〜な予感がし始めました。まさかここに来て新型インフルエンザじゃないだろうな…。
 実際体温を計ったら微熱がありました。しかし、その数時間後には平熱に戻り、すっかり元気になってしまった。なぜか…。
 それはプロレスをたっぷりテレビ観戦して、大いに興奮し、大声を出して応援し、レスラーの方々からたくさんの元気をいただいたからでしょう。いやあ、素晴らしい大会でした。
 ええと、まず最初に書いておきます。昨年末の格闘技イベント「Dynamite!! ~勇気のチカラ2009~」、いちおうひと通り観ましたが、本当にいろいろな意味で気分を害しました。いよいよ総合格闘技も終わりだなと思いました。来年末はないかもしれませんね。
 ちょっとだけ愚痴らせて下さい。
 まず、石井慧と吉田秀彦。これはしょっぱすぎた。これもいちおう興行的にはメインの一つだったわけですよね?ちょっと考えれば分かることですけれど、デビュー戦がメインになるようなスポーツなんてあるわけないじゃないですか。それもそいつがベテランに勝つと思われているなんて…。いや、アマチュア時代を経てのゴールデン・ルーキーだったらまだ分かりますよ。違う競技をやっていたんですから。いや、柔道対決だったらメインでいいです。金メダリスト同士の。ですよね?
 そして、静岡の恥、格闘家の恥、青木真也。もう何をか言わんやですよ。試合内容というか、あの結末を見せられて不快である上に、なんすか、あの態度!プロとして観客に見せるべきものが全く分かっていない。もう格闘界追放でいいです(苦笑)。あんなのを祭り上げているようじゃ、総合格闘界も終わりですね。
 ああ、ちょっとすっきりした。正月の間、ずっといやな気分だったんで。スミマセン。
20100105086 さあ、それに比べてこちらの対抗戦は良かったなあ。プロレス的世界こそ年末年始に必要なものですよ。いやあ、ホント病気も治っちゃう。もうすっかり元気ですよ。
 一つ一つの試合について語っていると長くなるので、肝心なポイントだけ語ります。
 まず、前半の最後、68歳のアブドーラ・ザ・ブッチャーと65歳のテリー・ファンクの試合。これはもう涙ものですね。それが新日本のリングで実現しているんですから。なんというか、感慨無量としか言いようがありませんね。まさに新年に大黒様と毘沙門天という異国の神が降臨したという感じですね。
 もちろん、これはスポーツなんていう狭い範疇におさまるものではありません。宗教儀式です。試合内容とか両者の動きとか、そんなことはどうでもよくて、あの存在感、オーラ、観る人の思い、それでいいのです。ウチの夫婦はもう入場の音楽だけで号泣してましたから。このあたりで、私の体調も復活しましたね、まじで。
 試合後の二人の神のコメントが対照的で面白いですね。
テリー「生まれた時からレスラーで死ぬまでレスラー。なんて素晴らしい世界なんだろう」
ブッチャー「若い人に言いたいのは弁護士か医者になったほうがいい。プロレスラーなんかなるもんじゃないよ」
 素晴らしいですね。自らの立場、キャラクターを生かしきっている。そして、加えて最後にブッチャーが「人間は誰でもそうだが、父親が1人、母親が1人。とにかく両親を大事にしろ」と言っているのは、なんとも感動的ではないですか(笑)。
20100105037 後半の新日本とノアの対抗戦も良かったですね。対抗戦ならではの緊張感とともに、若手の伸び伸びとしたせめぎ合いが実に刺激的でした。プロレス界もようやく復調の兆しが見えてきたという感じです。
 最後のメイン、中邑真輔対高山善廣、当然ごひいきな高山選手を応援していたのですが、結果は中邑選手の防衛でした。説得力は圧倒的に高山選手でしたが…まあ、しかたありませんね。
 やはりプロレスは「気持ち」が大切です。レスラーたちの「気持ち」が何万人もの人に元気と勇気を与えるのがプロレスです。そこが、単純な勝敗を競うスポーツとは、一線を画しているのです。やはり一種の「祭」ですね。
 というわけで、今年もプロレスをたくさん観て、プロレスの勉強をして、プロレスラーの方とお話をして、自分も「心のプロレスラー」として進化していきたいと思います。

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2010.01.03

赤い糸

Bkoiob 「い糸」というと、最近では、ケータイ小説やそこから派生したドラマ、映画、ゲームを思い起こす人も多いことでしょう。
 あの話はずいぶんと入り組んでいて、ちょっとやりすぎ、さすがの運命もそこまで面倒なことはしないでしょうに。
 一般には、「運命の赤い糸で結ばれている」というと、夫婦になるべき男女の仲を示す言葉として使用されますね。
 ウチの夫婦なんかも、ある意味そんな感じの不思議な縁で結ばれたのですが、私はそうした男女の関係のみならず、様々な運命的な出会いに「赤い糸」を感じます。
 ネットがそのような「赤い糸」の役割を果たすことも多々あります。ネットは網ですからね。糸がたくさん張り巡らされているのでしょう。そういう意味では、現代人は、多くの赤い糸を見つけたり、たぐりよせたりできるようになりました。それらはいったい体のどの部分に結びつけられているのでしょうか。
 そう、日本では一般的に、互いの(左)手の小指に見えない赤い糸が結ばれていると言われますが、この話の原典である中国の故事(「続幽怪録」の中にある「定婚店」の話など)では、赤い縄を足首に結びつけるということになっています。なんとなく大陸的ですね。
 その「赤縄の縁」については、江戸時代にあの上田秋成が自著の中で紹介したり、昭和の初期に怪談研究家として知られる田中貢太郎が怪譚小説の話の中で紹介したりしています。
 つまり、この話、昭和の初めまでは怪異譚として伝来していた、つまり決してロマンチックなものではなく、どちらかというと怖い話として伝わっていたと思われるのです。
 それを見事に「ロマンチック」に仕立て上げて現在に至らしめたのは、やはりあの男です。
 ロマンチックの達人、太宰治。
 太宰の小説の中で、この話は二回出てきます。そして、そこでは「赤い縄」が「赤い糸」になっているんですね。「糸」になることで、急に日本的になり、そしてロマンチックになってしまう。すごいですね。
 まず、「思ひ出」の中に次のような印象的な一節があります。

 秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の棧橋へ出て、海峽を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い絲について話合つた。それはいつか學校の國語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い絲がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである、ふたりがどんなに離れてゐてもその絲は切れない、どんなに近づいても、たとひ往來で逢つても、その絲はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ歸つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの聲に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は棧橋のらんかんを二三度兩手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり惡げに言つた。大きい庭下駄をはいて、團扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は眞暗い海に眼をやつたまま、赤い帶しめての、とだけ言つて口を噤んだ。海峽を渡つて來る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。
 これだけは弟にもかくしてゐた。私がそのとしの夏休みに故郷へ歸つたら、浴衣に赤い帶をしめたあたらしい小柄な小間使が、亂暴な動作で私の洋服を脱がせて呉れたのだ。みよと言つた。

 続いて、「津軽」にも同じような話が出てきます。

 秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合つた。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである。ふたりがどんなに離れてゐてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で逢つても、その糸はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言つた。大きい庭下駄をはいて、団扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は真暗い海に眼をやつたまま、赤い帯しめての、とだけ言つて口を噤んだ。海峡を渡つて来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。
 この弟は、それから二、三年後に死んだが、当時、私たちは、この桟橋に行く事を好んだ。

 お読みの通り、完全に同じです。続く文は違いますが、この「赤い糸(絲)」に関する挿話に関しては完全に同じ文です。パクリですね(笑)。
 おそらく「思ひ出」でも、そこそここの話は読者の印象に残ったのでしょう。太宰自身も「こりゃいいぞ」と思ったのでしょうね。自らの作り出した「赤い糸」のロマンチシズムに酔ってしまったようです。それで、もう一回使おうと思ったと。
 比較的事実に近いと言われ、静かに感動的な「津軽」も、実はほとんどがフィクションあるいは事実のパロディーであるとのこと。さすが太宰ですね。この「赤い糸」を弟に語る話、どこまでが本当なのか。ま、小説にとっては、そんなことはどうでもいいのですが。
 ちなみに、ここでは「左手の小指」ではなくて、「右足の小指」になっていますね。皆さんは、「左手の小指」と「右足の小指」、どちらがよりロマンチックに感じられますか?このへんの変遷についても調べてみると面白いかもしれませんね。縄から糸へ、足首から右足の小指、そして左手の小指へ、どんどん「繊細」になっているような気がします。これじゃあ、せっかくの「運命」も切れてしまいそうですね(笑)。いや、その危うさ、はかなさがいいのか。切れそうで切れなかったからこそ、運命的な出会いなのか…日本人ですなあ。
 そうそう、この太宰、自分が作り出したこのロマンチックなお話に魅入られてしまったのか、昭和23年、愛人の山崎富栄さんをですね、「オレたちは赤い糸で結ばれていたんだよ。一緒に死のう」みたいなこと言って誘い、玉川上水で心中します。
 その時、赤い糸で二人の足の小指を結びつけていた…かと思いきや、「赤い紐」で二人の腰のあたりを結んでいたようですね。心中にとっては、より実際的なロマンチシズムです。そして、二人の遺体は、太宰の誕生日に発見されたのでした。出来過ぎです(実際は死後1週間ほど経っていたので、全然ロマンチックな風景ではなかったようですが)。やるな、太宰。

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2010.01.02

カラーレーザープリンタ IPSiO SP C220 (リコー)

321138 旦から変な年賀状をお見せして申し訳ありませんでした。
 そして、実際あれを送り付けられてしまった関係者の皆さま、新年早々ゴメンナサイ。
 今までもさんざんくだらない年賀状を作ってきましたが、それらは全てALPSのMD-5000(&5500)で印刷したものでした。
 しかし、アルプスさんが Intel Mac 用のドライバを開発してくださらず、ウチの iMacG5 が昨年の夏前に死亡したので、とうとうウチでは使えなくなってしまいました。
 基本カラーでプリントするのは年賀状だけですので、そのために高価なプリンタを買うのはかなり抵抗があります。かといって、私はアンチ・インクジェット派ですので、1万円以下で買えるプリンタを買う気にもなりません。だいいち、年賀状をインクジェット用じゃなくて普通紙を買ってますしね。
 さあ、どうしようか、ということになりまして、とにかく安いカラーレーザープリンタを探したんです。それで見つけたのがこれ。税込み18,628円(送料無料)でした。
 この金額なら抵抗なく買えますし、この機種はカラーレーザーとしては破格に小型ですから家庭に置いておいてもそれほどじゃまになりません(とは言ってもやっぱり想像してたよりかなりデカイ。まあ、年末以外は押し入れの中ですが)。
 付属してくるトナーで、計算上は5年分の年賀状はプリントできそうです(ちなみにだいたい1年350枚くらい)。
 注文した翌日にウチに届きまして、さっそく開梱、接続してみました。USBが全部使用中だったので、イーサネット(100BASE-TX/10BASE-T)で接続。あっさり認識してくれまして、さっそく昨年の年賀状を試し刷りしてみました。
 うわっ!早い…。アルプスは1枚プリントするのに数分かかってましたからね、こちらは数秒ですから、革命的に早くなります。今まで、とにかく印刷するのに丸二日とかかかってましたから。それも、途中でインクリボン(!)を交換しなくちゃならないから、夜中も時々起きなくちゃならない。思えばずいぶんと面倒なことをしていました。
 画質もアルプスと同レベルかそれ以上。かなり使えます。アルプスより劣る点と言えば、メタリック(金など)を使えないことだけですかね。年賀状に「金」は必需品でしたから。
 さあ、そんなこんなでがぜんやる気が出まして、今年の年賀状を Photoshop Elements でさっさと作りました。まあまあ、納得の「東スポ」ができまして、350枚さっそく印刷。結局1時間かからなかったんじゃないかなあ。劇的な早さです。
 ちなみに住所などは、ブラザーのレーザー複合機で並行して印刷しました。
 ううむ、これはなかなか良い買い物をしましたぞ。年1回しか使わないのはもったいないかもしれない。
 ちなみに、純正のトナーを全部買うと、なんと本体価格の倍くらい、3万円以上かかってしまいます。それだったら、もう2台買った方がいい。
 これについては、今まで何度か書いてきましたが、プリンタやコピー業界のこうした体質、なんとかしたいですね。職場でもなるべくリサイクルトナーを使うようにしていますが、それでもものすごいコストがかかります。あれだけ大量にプリント、コピーしてたら当然そうなりますよね。
 今、実は私の頭の中であるプロジェクトが進んでいます。コピーのシステムを根本から変えてしまう発明です。トナーは使いません。さらに消去もできます。ですから使用済みの用紙も使えます。
 まあ、こまかい技術的なことは、私はよくわかりませんが、アイデアだけでもどこかのメーカーに買い取ってもらいたいですねえ(笑)。
 いや、でも実際のところ、世界中のコピーに関するモノとカネの無駄遣いはひどいと思いますよ。なんとかしたいものです。教え子に夢を託すか。

【送料無料】【IPSiO】 SP C220[515269](IPSiO SP C220[515269])

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2010.01.01

謹賀新年 2010(年賀状公開)

 けましておめでとうございます。
 昨年は、忌野清志郎さん、三木たかし先生、三沢光晴さん、マイケル・ジャクソン氏、そして志村正彦くん、加えてスティーヴ・ウィリアムス選手と、私たち家族にとって、本当に大切な大切な人たちを失ってしまいました。
 今年は、そうした方々の功績と遺志を踏まえ、正しい音楽文化、プロレス文化を継承すべく家族一同頑張ります!皆さま、よろしくお願いいたします(不二草紙もよろしくです)。
 個人的には、準備してきた中学がいよいよスタートしますので、そちらをまずしっかり運営していきたいですね。自分の人生の集大成になるよう努力いたします。
 ↓今年の年賀状です。相変わらずお馬鹿ですけど、どうぞ初笑いにお使い下さい!まずは笑いが一番ですよね(私たち家族はどこにいるでしょう?ww)。
2010_1

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