『反音楽史 さらばベートーヴェン』 石井宏 (新潮社)
ちょっと前に、ある公立中学と私立中学の音楽室に入りました。やっぱりありましたよ、あのズラッと並んだ肖像画たち。あいかわらずバッハは難しい顔をしていましたし、ベートーヴェンは髪を振り乱していました。とっても懐かしい気持ちになりました。やっぱり音楽室はこうじゃなきゃ(笑)。
さて、そんな肖像画なんて早くひっぺがせ!と吠えるこの本。実に痛快でした。基本私もそういうスタンスの人間です。世の常識や、目に見えない強大な権力と闘うのが好き。捏造された歴史(歴史は全て捏造ですが)をひっくり返して楽しむ。啓蒙活動と言えばかっこいいけど、単なる変わり者にもなりかねませんが。
この本、山本七平賞を受賞していますから、いちおう学術書ということになるんでしょうか。いや、これは見事なエンターテインメントですぞ。文章うまいし。
この本の内容に抵抗を感じる方もたくさんいらっしゃると思います。Amazonのレビューにあるように、たしかにつっこみどころも多いとは思いますが、しかし、こういうことをしっかり言う大人がいないために、日本の音楽教育、いや音楽事情全体は実に不幸なことになっている…かも。
私なんか全然いい方なんですよ。それは、石井さんのおっしゃる「音楽史」、いわばドイツによる捏造の歴史が語る大音楽家たちに、基本あんまり興味を持たないで来たからです。
どちらかというと、そういうことを抜きにして、自分の経験の中から、たとえばバッハ(バークじゃなくて大バッハ)は好きだけれど、モーツァルトやベートーヴェンはあんまり好きでない、というような青年時代を送りましたからね。つまり、私は常に演奏する側だったので、人の(ドイツ人の?)評価や評論なんていうのは、あんまり気にしなかったからです。
今でも、演奏するのはもっぱらバロック音楽と昭和の歌謡曲。聴くのはジャズやロックやJ-POPという変り種ですからね。それほど音楽教育に洗脳されてこなかったということでしょう。よかった、よかった。
で、そんなお変人を抜きにすると、たしかに世の中には、特に日本なんでしょうか、ベートーヴェンを頂点とするドイツの器楽音楽が高尚だというイメージは、やっぱりありますわな。
そこに徹底的に、ある意味異常なほどの執念で異議を申し立てているのが、この本であります。つまり、音楽の中心はイタリアの歌にあり!というわけです。
これは、この本にも書かれているとおり、ある部分では真実です。私の専門に演奏している時代、バロックから前古典くらいまで(最近はようやく古典派やロマン派まで弾くようになりました。ま、こういう分類もどうかと思いますけどね)は、特にそういう傾向は強い。ドイツはたしかに後進国でした。まだ、パリやロンドンやストックホルムの方が進んでいた。それもほとんどイタリアの真似事。
ですから、たしかに商業的な意味というか、職業音楽という意味においては、イタリアが断トツで、その他はイマイチ、特にドイツ人がダメダメだったのは事実です。その意味では、この本の内容は全く正しい(と思う)。
だから、日本にはびこるドイツ中心の音楽史観(なんで日本ではドイツなのか、については後日)をひっくり返す喜びは存分に楽しめました。なにしろ、それを実証するために用意され開陳されるいろんなエピソードや書簡などが、私にとっては初耳、初見のことばかりで、それだけでも興味深く、そしてかなり勉強になりました。
しかし、一方で、私のような変わり者ですと、もっともっと大きな視点から、この問題を見たくもなってくるわけです。
たとえば、世界中の音楽というスケールで考えたくなる。いつも言っているように、クラシック音楽となぜか呼ばれてしまうある時期のある特定地域(ヨーロッパ)の音楽は、全地球音楽史からしますと、とっても特殊でマイナーで不自然な存在です。あの音階も和声もリズムも、非常にスケールが小さいと言えば小さい。いろいろな制約を設けて万人が即時に共有できるようにした…つまり商売になるようにした…のが、クラシック音楽だとも言えます。
私は、石井さんより毒舌ですし、それが許される立場なので、あえて言っちゃいますが(って、とっくに言っちゃってますけど)、モーツァルトの音楽を聴かせたら教室が静かになった!とか、モーツァルトの音楽を聴かせると牛の乳がよく出る!って、あんたそりゃ、モーツァルトの音楽は、子どもだけでなく牛でも分かる音楽っていうことですよ。演歌や民謡やジャズじゃ、なかなかそうも行かないでしょう。
でも、全世界音楽史からすると、この前の瞽女唄みたいなのが、どちらかというと標準なんですよ。だから、狭い狭い世界で、イタリアとドイツが張り合おうと、互いにけなし合おうと、捏造合戦しようと、所詮大した争いではないんです(笑)。
一方、そんなドイツの抽象的な形式音楽も、きわめると大変なことになるというのも忘れてはいけません。事実、現代日本人である私にとっては、ヴィヴァルディより(大)バッハの作品の方が、ずっと魅力的に聞こえます。イタリアの音楽は、いわば当世のポップ・ミュージックであり、それはそれなりの価値があるとしても、あくまで消費音楽であって、深遠な芸術性があるとは限らないわけですね。それは現在の日本の、あるいはヨーロッパのヒットチャートにのぼっている曲たちが10年後、100年後に聴かれているかどうか考えればわかりますね。
ですから、あの当時、どうにも商売にならないドイツで、ああやって身内のための、あるいは自分のために、また純粋に神のために、ある程度カネ勘定抜きで音楽が作られたというのは、悪いことばかりではないのです。実際、バッハの音楽は、当時は大量消費されませんでしたが、今や世界中で恐ろしいほどに消費されています。私も13日にカンタータの61番やら何やらを演奏しますよ。素晴らしい音楽です。繰り返しの消費に耐えます。
大衆性&商業性と普遍性&芸術性というのは、どうもなかなか両立しないもののようです。どちらかというと対立しますね。The Beatlesなど、一部を除いて…。
ですから、結果として、ドイツ的音楽史観というのも、あながち間違っているとは言えないのです。特に私のような日本人には、案外そうした抽象的な音楽の方がすんなり入ってきたりする。言葉の壁も少ないし。
というわけで、この本を読むことによって、いろいろな視点を持つことができました。それこそ、山本七平さんの望むことでしょう。ま、石井さんがそれを計算していたかどうかは微妙ですけど。
いずれにせよ、多くのクラシック音楽演奏家、リスナー、学者、評論家、そして学生の皆さんに読んでいただきたい本です。そして、自分がどんな反応をし、どんな視点を得ることができるか、楽しんでみればいい。そうした実験が、これからの音楽のつき合い方をより広げて深めてくれることだけは、どうも歴史的事実のようですよ。
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