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2009.11.23

多様性(混沌)の美

↓無能の人?
20091124_105842 日、『数学者はキノコ狩りの夢を見る〜ポアンカレ予想・100年の格闘〜』の再放送がありまして、私が2年前に書いた記事へのアクセスが集中しております。私も再び(実際は生徒たちに何度も見せていますので、10回目くらいだと思いますが)観まして、またまた感心するやら戦慄するやら。まあ何度観ても面白いですね、いろんな意味で。
 そして、今日の体験と重ねて、いろいろと思うところがありましたので書かせていただきます。
 数学という学問は大変に面白いと思います。よくそこに「宇宙の節理」「完全なる宇宙の美」を見出すというような言い方がされますね。人間(の生活)を超えた真理がそこにある予感はします。
 しかし、何度も書いているように、数学は宗教と並んで、ある部分では人間の妄想の極みとも言えます。つまり、脳内で構築される「コト」の権化のような存在であり、実はそこに「モノ」の本質は含まれていないということです。そう、私の言う「コト」というのは、人間にとっての随意、不変な存在であり、それは「情報」であるとも言えます。それに対して「モノ」というのは、まさに「物質」が象徴するような、いわば「無常」なる存在であって、常に流転生滅しています。つまり、我々自身がそうであるように、不随意ではかない存在ということです。
 で、お釈迦様は、この世の「コト(真理=マコト)」は、全ての存在は「無常」な「モノ」であることだけだということを発見した天才だというわけです。究極の真理、崩しようのない真理を見つけた…というか悟った。
 それでも、我々の煩悩は、絶対不変で宇宙普遍な「何か」があることを望みます。お釈迦様が観じた「マコト」以外にも「マコト」があるのではないかと期待します。その最たる表現や手段が、「数学」であり「宗教」であると思います。
 あの番組で語られた、様々な理論や予想というのは、実際に宇宙の本質を語っているとは限りません。いや、語っているわけはありません。なぜなら、あくまで、あの数式たちや、イメージや、あるいは多次元世界というステージも、全て人間の脳内という限られた枠の中での出来事だからです。
 ちょっと前に、同じくNHKで「素数」や「リーマン予想」を扱った番組が放映されていましたね。私はあれを観て、単純に「素数」ってずいぶん不自然だよなあ、と思いました。私だったら「素数」に注目するヒマがあったら、ほかの他律的な数字の魅力に注目しますね。私からすると、素数はちっとも美しく感じられない。なんか自己完結しているところが、きれいじゃない。嘘くさい。
 だいいち、「自然数で割り算する」ことの意味がよくわかりません。というか、「自然数」がなぜ「自然」なのか解りません(笑)。バカですみません。
 もちろん、これは私の感性が変なのでしょうけれど、たとえば「π」という数字とか、「円」という図形もまた、私にはとっても不自然に感じられます。
 実際、この世の中、あるいは宇宙にも「真円」なんてものは一つも存在しません。理論上はあるとしても、それはあくまで人間の脳内のことです。だから、「π」にも実在的な意味は見出せません。存在しないからこそ、それは「イデア」であり、崇拝すべき、あるいは感動すべきなのかもしれませんが、どうも最近の私はそういう感性が鈍ってきているようでして、あまりそれらに魅力を感じないんですよ。
 ですから、今日この番組を改めて観て、やっぱりペレリマンはその「コト」に気づいてしまったのではないか、ポアンカレ予想の証明はできても、それが宇宙の真理には全くほど遠いものだったということに気づいてしまったのではないか、そう思いました。だから、フィールズ賞なんていただけないし、もう数学という「フィクション」に絶望してしまったと。
 「言語(コトノハ)」は脳内フィクション用の記号です。数字や数式の記号たちも、もちろん「言語」であります。
 そう、それで今日の別の体験の話です。実体験です。脳内体験ではありません。
Photo 今日、父親に連れられて、私たち家族は安倍川の河原に行きました。私自身何十年ぶりかの体験です。そこには上流から流れ着いた無数の石たちが転がっています。転がっている、ではないな。敷き詰められているかな。その一つとして幾何学的なものはない。そして二つとして同じ形のものはない。しかし、それらがこうして無数に集まって、全体としてなんとも美しい風景になっていました。そのことに私はとても心安らぎ、そして一方で興奮し、またどこかで何か崇高な「モノ」に接したような気がしたのです。
 今、ペレリマンは本当にキノコ狩りをしているのかもしれませんね。それはもしかすると、今日の私のような気持ちなのかもしれません。もちろん、あまりに次元が違うのでしょうが、ちょっぴり似ているとも言えないことはない…かも。
 河原の近くに「石屋」さんがありました。石を削る音がしていました。彼は、この河原から原石を拾い出し、そしてより人間様の観賞に耐え得るように幾何学的な細工を加えて商品を造っているのでしょうか。それとも、その石が川床から受けた自然の造形力に伍するある種の自然力を加えて、芸術作品を創っているのでしょうか。
 私はふと、ただ河原の石を拾って、それを並べていただけの「無能の人」を思い出しました。ペレリマンはもしかすると「無能の人」になりえたのかもしれません。

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コメント

前略  薀恥庵御亭主  様

「数学」というのは・・・
基本的に「最初」で潰されますね。笑
うぅぅぅぅぅん。
玄関先で追い払われる感じですね。

たとえば筋書き無しの「公式暗記」ですとか。

ですから本来「数学」に大変向いている
【人】が「数学嫌い」になっています。

「高等数学」の場合・・・
「直感」とか「ひらめき」の世界ですから
「文章力」のある人は それだけで有能な
「数学者」であるわけです。

まぁぁぁ・・・基本「楽しければ」それで
いいわけですね。

宇宙には・・・・
200000000000000000000000個
の「星」が存在しているわけで・・・
この場所は・・・
大宇宙→局部超銀河団→乙女座銀河団→
局部銀河群→銀河系→太陽系→第三惑星→
地球→ユーラシア大陸→アジア大陸→
アジア州→東アジア→日本→九州→博多
→玄関口となるわけですね。笑

うぅぅぅぅん。 「乙女」に「局部」。
なんとなく・・・意味深長。笑
まぁぁぁぁ・・・
こんな風に考えると「楽しい」ですね。

愚僧の尊敬する画家「熊谷守一」様は
一日中 蟻を眺めて楽しまれました。
まさに「楽を極める」 日暮ですね。笑

愚僧も「極楽道」 略して「極道」を
邁進せねばなりません。  

合唱おじさん           拝


投稿: 合唱おじさん | 2009.11.24 14:18

合唱おじさん様、乙女の局部…それこそ数学では解けませんね(笑)。
私もいろいろな極道を歩んでいきたいのですが、どうも中途半端でいけません。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.11.25 17:29

  前略 薀恥庵御亭主 様

すべて・・・の始まりは・・・
「母胎」からですね。笑

歯槽×死相× 思想者「合唱」拝

投稿: 合唱おじさん | 2009.11.25 19:08

合唱おじさん様、そのとおりです。
母なる大地。大地たる母。
女性を尊敬しなくちゃいけませんね(笑)。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.11.27 18:20

前略    薀恥庵御亭主 様

女性は偉大ですね。「神」様です。

愚僧の敬愛いたしております・・・

故「長谷川町子」様

故「ナンシー関」様

故「杉浦日向子」様

の御冥福を御祈り致します。

合唱おじさん      合掌

投稿: 合唱おじさん | 2009.11.28 12:47

【御詫び】

故「長谷川町子先生」は・・・
クリスチャンであられました。

御冥福などと・・・申しました。
謹んで御詫び申し上げます。

心より哀悼の意を表します。


投稿: 合唱おじさん | 2009.11.30 10:11

合唱おじさん様、いつもありがとうございます。
そうでしたか、長谷川町子先生はクリスチャンでいらしたんですか。
存じ上げませんでした。
そのような目で作品は見直してみようかと思います。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.11.30 18:54

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