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2009.11.30

溜息をつく…

↓この画像には深い意味はありません。
51nzznt0r2l 徒たちの入試結果が出始めて、まあいろんな溜息が出ること出ること。
 そんな人たちに対して、お決まりの文句「溜息つくと幸せが逃げるよ」を駆使して励ましてくれる優しい友人もいたりして。まあ、この季節らしい風景であります。
 今日もそんなシーンがあったので、私は思いつきでこんなこと言いました。「溜息ついてるうちは幸せってことだよ」。
 たしかに本当に不幸な状況では溜息なんかついている余裕はありません。溜息には、どこか「慰めてもらいたい」という感情がこもっているような気がします。そして、その前提には、「慰めてくれる人がいる」という幸せな状況があるように思ったんですよね。実際、今日の状況はそうでしたから。
 もちろん、独り言のように、一人でつく溜息というのもあります。しかし、それはまさに独り言であって、やっぱり「自分」という「聞いてくれる人」、そして「慰めてくれる人」がいる幸せな状況なのであります。
 ところで、皆さんはどんな時に溜息をつきますか。やはり思い通りに行かない時、自分の無力さを感じた時などでしょうか。
 ちょっと言葉のお勉強になっちゃいますけれど、「溜息をつく」の「つく」は漢字で書くとどういう字になるかわかりますか。そう、「吐く」です。これで「つく」と読みます。
 同様な「つく」を使う用法としては、「嘘をつく」、「悪態をつく」などが浮かびますね。平安あたりの古い文献を見ますと、「ばり(糞)をつく」とか、「へどをつく」など、やや汚いもの、好ましくないものを体内から排出、排泄するという意味に使われています。
 そんなところからも、「溜息」が古くからあまり良いものと思われていないことがわかりますね。
 ハルヒも「憂鬱」・『溜息』・「消失」・「陰謀」・「分裂」・「退屈」・「暴走」・「動揺」・「憤慨」ですからね(笑)。やっぱり「溜息」はマイナスイメージです。
 しかし、「一息つく」のように、悪いイメージではない用法もありますし、だいいち「溜息」自体が、常に悪い時にばかり吐かれるものではないことも忘れてはなりません。
 たとえば、一仕事終えた時。これは安堵や達成感の「溜息」でしょう。また、ものすごい感動に出会った時。筆舌に尽くし難い時、まさに言葉にならない「息」が放出されたりします。
 そう、いずれにしても、「溜息」とは、自らの力を大きく超えた何かに自分が支配された瞬間に吐かれるものなのですね。
 私のいつもの「モノ・コト論」で言えば、言葉という「コト」、自分の脳内で処理できる「コト」を超えた「モノ」に出会った時の表現なのです。それは不随意・不如意の感銘ということになります。つまり、これもいつも言っている、本来の「もののあはれ」なのです。「不随意な状況、自らを超えた力を感じた時の嘆息」です。「あはれ」は「Ah!」ですから、まあ溜息と言ってもいいでしょう。
 そう言えば、ヴェネツィアの「ため息橋」、あれは牢屋に入れられる前に囚人たちがそこからヴェネツィアの美しい風景を見て溜息をついたところから付けられた名前だと聞きました。まさに「どうしようもない運命を観じた」瞬間ですね。
 で、少し冷静に考えてみて、なんで、人はそういう時に深く息を吐くんでしょうかね。呼吸、すなわち「いき」と言うのは、まさに「生きる」ことに直結した営みです。それを「溜め」て出すわけですから、やはり生理的、心理的に深い意味があるのでしょうね。
 私も、気づくと溜息をついていることがあるのですが、そんな時は、これはまさに「空気の入れ換え」、リフレッシュだと思うようにしています。吐いて、そして新しい空気を吸うわけですから、幸せが逃げるどころか、新しい幸せを呼び込む行為なんですよ。
 まあ、人から見ると、そりゃあ悪い空気を排出していることが多いわけですから、あんまりうれしくない状況でしょうけど、「ああ、あの人は今生まれかわった」と考えればいいわけでしょう。
 そんなわけで、私は「溜息」をあんまりマイナスイメージでとらえていないんですよ。自分のも他人のもね。
 そして、その溜息たちの共有こそが「もののあはれ」の美学だと思います。日本文化の大切な部分…溜息って、実はとっても重要な貴い行為なのではないでしょうか。
 …と、ここまで書き終わって、ふぅ〜(今日もなんとかまとまったかな…いつも構想なしに書き始めるので、自分の力じゃない感じがするんですよね…笑)。

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2009.11.29

内藤大助 vs 亀田興毅

Ba0911298901nsbig_2 やあ、いい試合でしたねえ。ついこの前、久々に辰吉対薬師寺のビデオを見直して感動したばかりだったのですが、それを上回る興奮をおぼえました。
 今日は朝からスポーツ(格闘技)観戦三昧でした。午前中は娘の発表会にちょこっと顔を出し、その後河口湖へ。そう、今日は河口湖日刊スポーツマラソン。全国から1万人以上のランナーが集まる大きなイベントです。
 私の勤める学校では、前日に河口湖畔の清掃を行なったり、陸上部や野球部が設営や運営のお手伝いをしたり、ジャズバンド部が沿道で激励演奏をしたり、いろいろな面で協力しています。そんな関係からか、昨年は大会翌日有森裕子さんがわざわざ本校までお礼にいらしてださいましたっけ。
 今年は知り合いの彼氏がフルマラソンに参加するということで、その知り合いをフィニッシュ地点までお送りしました。彼には内緒でゴールで出迎えるという算段です。あまりに多くのランナーが続々ゴールするので、果たして見つけ出せるか心配だったのですが、お見事出会えたようで良かったぁ…安心しました。
 しっかし、皆さん偉いですね。私なんて前日に湖畔の清掃で4キロほど歩いただけなのに、もう足は痛いし、腰も痛いし(笑)。ひたすら純粋に「道があるから走るのだ」とおっしゃるそうですが、私のようなぐうたら人間とは、皆さんレベルが違うようです。ストイックだなあ。マラソンは自分との闘い。折れない心…まさに格闘技ですね。
 午後はサムライTVで全日本プロレスの「武藤敬司デビュー25周年興行」をゆっくり観戦。好試合の連続に大興奮。ちなみに武藤選手はウチの学校の母体となっているお寺の檀家さん。ご近所さんです。
 そして、夕方は大相撲千秋楽。結びの両横綱の一番は、先場所同様なかなかの迫力。白鵬も一歩一歩双葉山に近づきつつあるなと感心。
 そして、夜はボクシングであります。
 カミさんは一方的に内藤選手の応援に回っていました。子どもたちも内藤びいきだったかな。私は両選手とも好きなので、とにかくいい試合を!と思って比較的冷静に観ていました。結果として、両者のいいところが存分に現れた好試合となり、満足です。もちろん、判定に不服はありません。
 亀田選手というか、亀田家についてはいろいろとバッシングがありましたけれど、やっぱり彼らなりにとんでもない努力を積み重ねているわけであり、どこにそんな親子、兄弟がいるのかといつも私は言っていたのです。もちろんランダエタ戦のようなショッパイ、あるいは痛い内容の世界戦もありましたけれど、それってどちらかというと、彼自身の責任ではなくマスコミやボクシング界の問題だったのでしょう。
 あの試合からすると、本当に素晴らしく成長したと思いました。アウトボクシングの美しさというか、そう、なんだかとってもキレイに見えました。逆に内藤選手の方が雑に感じられた。ある意味亀田選手の横綱相撲だったように見えます。
 いやあ、内藤選手も悔しいと思いますよ。チャンピオンもある意味完璧に自分の試合をしたと思います。しかし、それ以上に亀田選手の内容がよかった。結果として、まるで挑戦者の試合内容のように映ってしまった。ジャッジは最終的にはそういう部分を見ますからね。
 とにかく、シロウトには想像できないような深い駆け引きや読み合い、そしてこの試合に至るまでの研究と精進が、ああいうハイレベルな緊張感と興奮を生むのだと思いました。結果として、TBS的な演出が空しく浮いていたのは面白かった。やっぱり格闘技は演出ではなくて試合内容なんですね。そんな当たり前のことを再確認させてくれました。
 本当に両選手にはありがとうと言いたい。そして内藤選手、お疲れさまと言いたい。少し休んでください。また近いうちに、宮田ジムを訪ねてみようかな。猫ちゃんにも会いたいし(笑)。
 亀田選手、もっともっと自らのボクシングを窮めて、美しいチャンピオンになってもらいたい。それだけの素質は充分持っていると思いますから。
 最後に、今日一日を通して思ったこと…はたして、自分の人生には真剣な闘いがあるのであろうか!?これでいいのか!?自分。今からでも遅くないのかなあ。そろそろ、はったり・ちゃっかりのごまかし人生はやめた方がいいのでは…。

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2009.11.28

『世界カワイイ革命』 櫻井孝昌 (PHP新書)

なぜ彼女たちは「日本人になりたい」と叫ぶのか
56977535_2 このところ、BUMP OF CHICKENやレミオロメンを通じて、日本のロックについて、いや非西洋的音楽について熱く語ってしまいました。これにはいろいろと理由がありまして、実は今日のこの本の内容とも重なってくるんですよね。
 どうも戦後教育にどっぷり浸かっていたせいか、自分もどこか西洋礼賛的な発想をしていたことに、案外最近になって気づき始めたのです。遅いよ!と言われてもしかたありませんね。
 でも、やっぱり日本人って自分たちの文化を卑下しすぎだと思いますよ。それってなんなんでしょうね。そういう性質の民族なんでしょうか。それとも、やはり教育のせいなんでしょうか。自虐史観とかよく言いますけれど、実はそれ以前に自虐文化観というのもあるような気がするんですよね。
 まあ、ワタクシ流に簡単に言ってしまえば、近代以降の日本では「モノ」より「コト」の方が優れていると思われてきたということです。
 感覚より論理、混沌より整然、多神教より一神教…。
 日本で素直に流行るモノは、全て「サブカルチャー」としてくくられ、どこか低俗で恥ずかしいものだとされてしまう。
 ここ10年くらいでしょうかね、そういう常識に、私も何かものすごい違和感を抱くようになったのは。ちょっと待てよと。じゃあなんで「本場」ヨーロッパでこんなにもてはやされてるんだ?と。
 この本で取り上げられている女の子のファッション、いわゆる「東京リアル・クローズ」もそうです。それ以前に、マンガやアニメ。もっともっと以前に「浮世絵」。 
 「浮世絵」などの江戸文化については、どこかにも書きましたね。とにかく、江戸の庶民の文化、今風に言えばそれこそサブカルチャーになるんですけど、それが、たとえばヨーロッパに渡って、あの印象派を、そしてその後の様々なアートシーンを用意したというのは、これはまあ常識です。
 考えてみれば、ダ・ヴィンチ以来の「写実」を根底から覆したわけですから、それはもう本当に世界にとっての革命的契機なわけです。そういう事実も、いちおう逆輸入により今では日本でも学問的に評価されていますが、実はもっともっと我々が誇りに思っていいことなのではないかと思いますよ。
 ご存知のように、リアル・クローズはとにかく自由です。パリコレ的なモードや作られた流行としてのファッションはそこにありません。着たい服を着たいように着こなすのがその唯一のルールと言っていいかもしれない。
 もちろん、値段やブランドなんていうコトにはこだわりません。いかにチープな素材をデフォルメしアレンジするか。そう、まさに「リ・クリエイション」がそこにあるわけです。価値の創造の喜び。
 その結果は、西洋的基準からすれば、単なるカオスです。まるで、新宿や秋葉原の混沌とした電飾広告群のようです。そこには、「景観」はありません。しかし、その多様な全体が醸すエネルギーたるや、誰もが圧倒される。
 それこそが、私の言う「コト」化されていない「モノ」の生命力なのです。「コト」は、言葉です。つまり言語。全ての人間の枠組みは「言語化」によって構成されます。法律なんかは一番わかりやすい例ですね。
 それによって、いわゆる「近代社会」が成り立っているというのは、よくわかります。しかし、その枠組みゆえの限界点というのも見えているのが実情ではないでしょうか。
 それをぶち壊していく、つまり、言語(結局は固定化した思考ということですが)を超えた、想像力、そして創造力のエネルギーに期待したいのです。私たちは、いや「私は」なのかな、そろそろ、言葉という人間の開発した道具に飽きてきているのかもしれません。
 いずれにせよ、著者の言うように、もっと我々はそうした混沌とした、多様な、そして自由な「日本文化」、あるいは「日本精神」というものを、積極的に海外にアピールし、あるいは売り込んでもいいと思います。
 最近、ある国際教養系のAO入試を受けた生徒と一緒に、「禅」と「日本文化」と「言語」について勉強しました。なかなか面白い結論が出たのですが、それを武器に闘っての結果はどうだったか。もし、合格したら、ちょっとその辺についても書こうと思っています。
 教外別伝、不立文字…「言語化」しにくいモノ、あるいは「論理」を超えたモノを、結局「言語」というコトでアピールし、売り込まなければならない矛盾…それが、昔は苦痛でしたし、ある種の諦めを生む原因になっていたのですが、どうも最近はそこが面白くなってきたようです。私もちょっとはステージが上がっているんでしょうか。

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2009.11.27

レミオロメン 『恋の予感から』

20091127_80029 白初出場おめでとう!
 正直、ちょっとびっくりしました。でも、考えてみれば、「粉雪」の大ヒットのあと、いろいろと悩みも抱えながらも一定のレベルの楽曲を作り続け、音楽界に不動の地位(位置かな)を築いてきましたからね。そうした一連のことが評価されたのでしょう。
 そうそう、この前、ウチの高校の野球部が21世紀枠で県推薦をいただきました。こちらもちょっと意外だったのですが、苦しい時を乗り越え地味ながらコツコツと積み重ねてきたことが評価されたのでしょう。ちょうどそんな感じではないでしょうか。
 地元山梨からの紅白は、ええと、「島唄」のTHE BOOM以来でしょうか。いやいや、出場42回を誇る森進一さんも甲府出身でしたね(笑)。
 とにかくおめでとう。やっぱり紅白はミュージシャンとしての一つの夢の舞台ですから。特に彼らを生んだ御坂の皆さんの喜びはひとしおでしょう。何度も書いてきたように、彼らの音楽には、御坂の自然、季節、風景、言葉、人がたくさんたくさん溢れていますからね。
 さっそく御祝のお電話をして喜びを共有いたしました。「ファンの皆さんのおかげです。皆さんによろしくお伝え下さい」とのことでした!
 さて、そんな素晴らしい知らせとともに、これまた素晴らしい新曲が届きました。紅白ではぜひこの曲をやってもらいたいですね。小林武史プロデュースからいったん離れ、セルフ&トーレ・ヨハンソンプロデュースということで、どんな新しい音楽を聴かせてくれるか楽しみにしておりました。
 「恋の予感から」、まずはYouTubeでお聴きください。PVは全く別の作品としてとらえた方がいいでしょう。純粋に音楽を聴いてもらいたいと思います。こういうストーリー性の高いPVは諸刃の剣なんですよねえ。

 さあ、いかがでしょう。私は「なるほど」という部分と「おっ、そう来たか!」という部分の両方とも、かなり気に入りました。紅白ではぜひこの曲を披露していただきたいですね。
 まず、「なるほど」部分から行きましょうか。ちょうど、以前紹介したフジファブリックのアルバム「CHRONICLE」と、おととい紹介したBUMP OF CHICKENの「R.I.P.」と深い関係が聴きとれます。というか、私の好みがそちら寄りなんでしょうかね。
 両者の記事で書いたとおり、ヨーロッパにしてヨーロッパにあらずの音楽、特に北欧は音楽史的に言えば、古くはグリークやシベリウス、最近ではラウタヴァーラなどに感じられるように、イタリアを原点とする近代ヨーロッパ音楽の潮流とはやや離れて、独特の響きを醸しています。
 ポピュラー音楽で言えばABBA、ビョークのような個性的かつ商業的にも成功する音楽家が出ていますね。
 彼らに共通するのは、おとといも書いた民族(民俗)音楽のファクターでしょう。それは、近代化以前の中世ヨーロッパに漂っていた空気でもあります。具体的には、近代ヨーロッパが自縄自縛に陥ったトニックやドミナント(まさに軍隊的な鼓舞やシステム的支配を象徴する和声や和音進行)から自由であったということです。
 で、いきなりレミオに戻しますが、「恋の予感から」もそうした支配から解き放たれているんですね。すなわち、曲の始まりがサブドミナント→トニックという進行になっているんです。具体的にはニ長調におけるG7→D7という進行ですね。
 サブドミナントというのはハ長調で言うところのファラドの和音なんですが、これって、近代ヨーロッパ音楽ではまさに「サブ」であって、あまりキャラクターがはっきりしないとされているものなのです。
 しかし、いわゆる「アーメン終止(たとえばF→C)」で、我々がなんとなく懐かしさを覚えるように、民俗音楽に和声という要素が合流したときに、自然に現れるのはサブドミナント→トニック(あるいはその逆)という進行なのです。
 それに対して、ルネサンスからバロックにかけて、ヨーロッパではある意味強引にドミナント→トニック(あるいはその逆)という進行を「高貴なもの」「高尚なもの」として一般化していこうという動きがありました。
 そして、それに縛られてウン百年。あのような「高尚な」クラシック音楽が完成しました(笑)。
 ですから、この東の果ての国日本の和声的音楽(もともとは和声的音楽なんてありませんでした)が、北欧やケルトの音楽にシンパシーを抱くのは、これはある意味当然のことなんです。
 ちなみに、その両者(+もう一つの流れであるブルース)をロックという舞台で見事に融合したのが、ビートルズの「LET IT BE」なんですよ。やっぱり彼らはすごいのでした。
 話を戻します。サブドミナント→トニックという進行。フジファブリックのニューアルバムにも同様な冒頭部を持つ曲が4曲ありました。おそらく無意識にそういう共感が発動したのでしょう。レミオの楽曲にもこのパターンはないではないのですが、今回は特にそういう色が濃くなったのは偶然ではないでしょう。ヨハンソンの、というより北欧の音楽の影響というのは大きいと思います。
 あと、サビに現れるコード進行も興味深いですね。ちょうどおとといの「R.I.P.」のAメロと同様に(チューニングの関係で半音違って聞こえますが)ベースラインが「F#→G→A(#)→B」と動きます。ただ、レミオの方はAに#が付いていますね。いわゆるプチ転調です。フジファブリックの「CHRONICLE」のところでさんざん書きました通り、これは「胸キュン」進行です。甘酸っぱい恋の切なさを表すのに適した進行ですね。これもまた北欧の得意とするところであります。
 もう一つ、藤巻君の曲の特徴として、「粉雪」のところでも書いたとおり、メロディーに非和声音を自由に使うというのがあります。結果としてそれは「不協和音」を生むのですが、それもまたある意味では非近代ヨーロッパ音楽を意味するのでした。だから、やっばり、彼は日本語で日本の音楽をやりつづけているわけです。日本の山梨の御坂の音楽が、ある意味必然的に北欧の音楽と結びついているのです。
 おっと長くなってしまった。でも、「おっ、そう来たか!」について。これはやっぱりサビの旋律でしょう。粉雪の時もそうでしたけれど、ああいうオクターヴの跳躍って、流れが生まれにくく、失敗作に終わることが多いんです。そこをあのようにまとめ上げる(というか、ほとんど無意識に生まれるのでしょう)のは、やはり才能としかいいようがありません。天才。
 歌詞もいいじゃないですか。当然バンプの藤原君とは違う日本語です。藤原君が文学なら、こちらは和歌の伝統です。前も書いたとおり、ある地区は昔から「歌」の伝統があるのです。まさにそれを受け継いだ「恋の歌」。いいじゃないですか。
 カップリングというか、あとの2曲もレミオらしくていいですね。それこそ、土臭いとでも言えそうな、複雑怪奇な(?)メロディーラインですよ。型にはまらない本来のレミオらしさ、ダサかっこいい日本の歌だと思います。不思議と懐かしい感じがするんですよねえ。
 最後に「オリオン」の歌詞について、一つとっても野暮な指摘をします(笑)。後半「オリオンが矢を射り」とありますね。12月中旬のふたご座流星群はまさにそういう感じですよね。山梨は星空がきれいですから。で、ロマンチックな情景に野暮な指摘でごめんない。えっと、「射り」についてです。「射る」は上一段活用ですから(「居る」と同じ)、連用形は「射(い)」、「いり」ではありません。なんちゃって、これもきっと甲州弁なんでしょうね(笑)。いや実際江戸語では五段活用でも使われていたようですから、江戸語の残存率の高い甲州弁なら可能性あります。どうでもいいこと指摘してごめんなさい。職業病だな。

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2009.11.26

『学研 大人の科学 二眼レフ』で撮影した作品集(その2)

 研の「大人の科学」の付録二眼レフカメラでの作品(と言えるのか?)。東京乃木坂での初撮影に続きまして、家の周辺(富士山麓)で2巻目の撮影をしました。今回は前回とは違ったトラブルやミスにも見舞われまして、恥ずかしながら12枚だけです。打率5割切りました(笑)。デジカメでは考えられん状況。
 ちなみに今回はペーパープリントではなく、いきなりCDに焼いてもらいました。そっちの方が安いんだ(!)。データサイズがちょいデカくてすみません。そのままアップしちゃったものですから。

↓窓辺にたたずむ黒猫のミーちゃん。視線は私の顔に向かっています。カメラのレンズは私の腹にありますから、こういう上目遣いのカワイイ写真が撮れたわけですね。ピントも合ってるみたいですね。
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↓ウチの庭の前にある標識やらミラーやら消火栓やら。赤系の発色がデジカメとは違うような気がしますね(デジタル化されても)。
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↓赤・黄・緑のもみじ。ピントの合っているのはやはり真ん中だけ。周辺減光のトンネル効果とともに、なかなかいい味わいですな。案外人間の脳内映像ってこんな感じなんじゃないでしょうかね。
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↓近所の子どもたちを集めて記念撮影…と思ったら、フィルム巻かないで次を撮っちゃった。こういう多重露光がフツーにできる(今回は単なるミスですが…笑)のも、このカメラのいいところ。ちなみに重なっているのは、下から見上げた白樺の木。
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↓気がついて撮り直し。子どもたちはファインダーのすりガラス(プラスチック)に映る風景に興味深々。たぶん彼女ら、普通の液晶だと思っているのでは…。ちなみに撮ったあとも「見せて見せて」とせがまれましたが、「これはねすぐに見られないカメラなんだよ」と言うと、「?」って感じになってました。きっと、「何それ?ダメじゃん」と思っているのでしょう(笑)。現代っ子だのう…。
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↓近所のメルヘンチックなおうち。ここは別荘地なのでウチ以外はみんなおもちゃみたいな家です。なんともいいムードでしょ?
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↓工事現場に現れた霊…じゃなくて、またやっちゃった、多重露光。このカメラなら画像処理なしに心霊写真が撮れますよ。というか、アクシデントが。どうもシャッターが片開きになってしまったようです。写真の右が暗くケラれていますね。
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↓さあ、ここから裏山(富士山の一部ですが)に登りました。ちなみにこの写真は、地面の濡れ落ち葉を撮ったもの。暗かったので、今度はわざと二重露光したんですが、手持ちじゃあ、そりゃブレるわな(笑)。
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↓またやっちゃった。巻き忘れ。ワケ分からんアートになっちゃった。
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↓下界のおもちゃの街(別荘群)をミニチュア風に撮ってみた…つもりだったんですが、イマイチですね。案外いい撮影ポイントがないんですよ。
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↓らせん型に伸びた木に登らんとしている娘。曇り空の森の中では明らかに露光不足。しかたないか。手前の赤いモノはいったい?たぶん闘魂タオルだと思います(マジで)。
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↓こういう木です。富士山の若い森林にはこういうらせんがいろんなサイズで存在します。今度はそれをテーマに撮影散歩するつもりです(デジカメで)。
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 どうですか?まあまあ面白い写真が撮れているでしょう。とりあえずはデジカメでは味わえない様々な「不如意」がそこにありました。なんか楽しいですね。次はどこを撮ろうかな。
 それにしてもシャッター直さないと…。まずは原因究明から。せっかく組み立てたのに、また分解か。それもまた楽しい!?

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2009.11.25

BUMP OF CHICKEN  『R.I.P. / Merry Christmas』

20091126_60506 日はレミオロメンとBUMP OF CHICKENのニューシングル発売日。
 どちらを書こうかと思いましたが、先に聴くことができたバンプから紹介しましょう。
 orbital periodからもう2年ですか。その間、いろいろなことがありましたね。バンプファンはみんなそういう感慨をもってこのニューシングルを聴いていることでしょう。
 そうですね、普通のロックファンですと、あの曲にはああいう思い出が詰まっているとか、この曲を聴くとあの光景やあの感情がよみがえるとか、そういう聴き方をしますけれど、バンプの場合はリリース間隔が異常にあくので、その空白の時間の記憶が駆け巡ってしまうんですね。面白いことです。
 私はその間に、初めて彼らのライヴに行きまして、私なりに彼らの本質に触れたつもりでおりました。その後もギルドの歌詞を授業で使ったりして、また、ある意味独特の雰囲気を持ったファンたち(生徒たち)に接してきました。
 そこには他のバンドのそれとは違う、本当に特別なコミュニティーが出来上がっていて、それが精神史的に見ると、ある意味現代日本的でもあり、しかしまた一方でどこか中世ヨーロッパ的でもあるんですよねえ。そのへんについて語ると長くなるので、またいつかということにして、新曲の印象に行きましょうか。
 いちおう、両A面ということだそうです。まずはA面(っていうのかな)「R.I.P」からを曲はこちらから聴けます。ぜひどうぞ。
 音楽的なことで言えば、実にバンプ節というか、藤原節ですね。のっけから、飛翔感あふれるメロディーが全開です。
 この「R.I.P」って独特の浮遊感があるじゃないですか。私は気がついてしまいましたが、これって松田聖子の「ガラスの林檎」なんですよ(笑)。すなわち細野晴臣。
 冒頭主音の固執(ドローン)があって、本体に入るとベースになかなか主音が現れないという、あのパターンです。チャマのベースは全体を通して、本当に一瞬しか主音(彼らは半音下げのバロック・チューニングですから、この曲ではDということになりましょうか)に着地しません。これは全く「ガラスの林檎」そのものです。
 そして、細野さんはサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」をイメージしてあれを作ったという。そう、藤原くんは全く意識していなかったと思いますけれど、これって、アメリカに渡ったがために近代化(クラシック化)しないで残った中世ヨーロッパのフォークロア的技法なんですよね。
 藤原くんは、アメリカのカントリーやフォーク、そしてゴスペルに影響を受けているわけですから、当然と言えば当然ですが、たとえば昨日紹介したベートーヴェンなんかとは、全然違う道を歩んだ音楽の系譜がここ日本ではっきり聴いてとれて、私としては非常に興味深かった。
20091126_60442 さて、そんな素性を持つ音楽に対して、これまたある特殊な系譜を持った日本語が輝いて聞こえてきます。
 う〜ん、本当におじさんとしては悔しいほど(笑)藤原基央は天才詩人ですね。詩人というか、やっぱり作家なんでしょうかね。
 何度もこのブログでは書いていますけれど、日本の小説はとっくに終わっています。ある意味その正しい系譜上にあるのはJ-ROCK(+一部のJ-POP)の歌詞やマンガ、アニメの言葉だと、私は真剣に思っているんです。
 この「R.I.P」の歌詞を読んでみてください。こちらで読めます。いや、やっぱり「聴く」かな。文字になる以前の聴く言葉。それはそういう意味においても中世的です。日本で言えば、「和歌」であり、「語り」であるわけです。視覚文化、黙読文化なんていうのは、ここ数百年の話ですからね。
 すなわち「語り」、そして「聴く」文化、いや文学は、この前紹介した太宰治で一旦終了してしまっているんです。
 それが復活するのが、実はJ-ROCK世界だったのです。その中でも、私は私がよくとりあげる数人のアラサー(30歳前後)を高く評価しています。その一人がこの藤原基央くんというわけです。
 長くなりそうなので、「Merry Christmas」も聴いてみましょう。
 ちょうどこの前の女生徒のように、日常の風景を描いていながら、そこに見つけるある意味残酷な現実、たとえば「死」の存在をさりげなく開陳して見せる。しかし、それは残酷でありながら、また一方で微妙な温かさを持っている。なぜなら、我々全ての存在が唯一公平に共有するモノがそれだからです。それを愛情を持って、慈しみを以て表現し伝えるのが、私は作家の仕事だと思っています。だから、藤原くんは立派な作家さんなんですよ。
 「Merry Christmas」の歌詞(こちら)にしても、ついつい陥りがちなムードだけのクリスマスソングにはならず、個人と社会とそれを結ぶモノを見つめた内容になっています。
 こうして若い世代が、正しい言葉を、正しい文学を、正しい歌を継いでくれることに本当に安心します。ある意味私の世代はスカでしたからね(笑)。

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2009.11.24

『ベートーヴェン今昔物語 チェロのための変奏曲・ソナタ全集』 (ハーディ/オルキス)

BEETHOVEN, L. van: Variations / Cello Sonatas (Complete)
「Past and Present」David Hardy/Lambert Orkis
20091123_94702 いかわらずの忙しさ(今、推薦入試の真っ盛りです)なので、今日は仕事のBGMの紹介でご勘弁を。
 このCDはなかなか興味深いですね。4枚組。えっ?ベートーヴェンのチェロ曲ってそんなにたくさんあったっけ?ですよねえ。
 そうです。曲目リストをご覧になると分かるように、このアルバムは前半2枚と後半2枚の曲目が一緒なのです。なんでまた、そんなことが…。
 「Past and Present」…今昔物語…この言葉がヒントですね。
 なんと、前半はモダン楽器、後半はピリオド楽器で同じ奏者が同じ曲を演奏しているんですよ。珍しいですよね。そして、これが実に面白い。
 ライナーノーツは見ていないので、詳細は分からないのですが、とにかく使用されている楽器はこういうことらしい。

1 Cello…Carlo Giuseppe Testore, 1694, Milan, Italy
2 configurations - strung with steel strings and strung with gut strings

4 Pianos
Hamburg Steinway, early 21st Century
Wolf after Dulcken, ca. 1788
Wolf after Streicher, ca. 1814-1820
Regier after early Viennese Models, ca. 1830

 つまり、17世紀のチェロに、前半はスチール弦を張って、後半はガット弦を張って弾いていると。当然弓も替えているでしょうね。ちなみにチェリストのデイヴィッド・ハーディーはワシントン・ナショナル交響楽団の首席奏者です。
 それに対して、名伴奏者として名を馳せるランバート・オルキスが弾くピアノは4種類。前半はバリバリ21世紀のスタインウェイ。21世紀初期って書いてあるところがリアル(笑)。
 その他のフォルテピアノは複製です。どの曲でどの楽器が用いられているかは、とりあえず聴いただけでは私は分かりません。分かる人が聴けば分かるのかな。しかし、当然、明らかにスタインウェイとは違います。
 ふむふむ、やっぱり楽器って道具ですね。そして、それは「言語」であるとも言える。
 このアルバムを聴いた感じって、ちょうど、それこそ「今昔物語」の現代語訳と原文を並べて読んでいる感覚と似ている。どちらもある意味同じ内容なのだけれど、どうしても脳内に立ち上がってくるイメージというか、感情も含めてかな、それが全然違います。言語が違うとここまで違うか。
 そのどちらが正しいとか、どちらがより現代人の私にとって幸せな状況かなんて、正直わかりませんし、どっちでもいい。違うから面白いし、はっきり申してお得なんですよね。少なくとも2倍楽しめるからです。
 もちろん、どちらが一般性があるかとか、どちらがこちらに「勉強」を要求するかとか、あるいはどちらが好みかというような、そういう比較というのは可能でしょうし、そこを論ずることで満足する方もいらっしゃるでしょう。
 しかし…ここでまた、昨日の話に戻ります…楽譜に記された音符自体は「素数」的な「コト」かもしれませんが、音楽は常に変化する「モノ」であり、もっと複合的で他律的で刹那的で、違う角度から言うと、その瞬間瞬間において唯一無二の現象であるわけですね。もちろん、文字情報もそうです。他者の介在があって生き物となる。
 だから、その違いっぷり、生き物の進化ぶり、変異ぶりを存分に楽しんだ方がいい。このアルバムでも、モダン、ピリオド、両方の違いがあからさまで面白いのです。それが同じ作曲家、そして演奏者による違いであるところがミソですね。つまり、「言語」・「道具」の部分が顕著になるからです。
 「言語」や「道具」によって、奏者が生まれかわり、その結果作品が生まれかわり、そしてまた作曲家が生まれかわる。生まれかわって初めて「命」がつながっていく感じ、それが我々に喜びや感動を与えます。
 録音という「コト=情報」でもこんな具合ですから、生演奏ではまたどんなコトが起きるか、想像できますね。そして、その「コト」の連続体が「モノ」であると、私は最近考えるのであります。
 そんなふうに世の中を見て聞いていきますと、なんとも面白いですよ。
 クラシックに限らず、いろいろなジャンルで、こうした試みをどんどん実現すべきです。いろいろな発見があるでしょう。一番つまらないのは、「言語論」や「道具論」や「様式論」や「歴史論」といった、フィクショナルな「コト」にとらわれすぎることです。もっと壮大な総体の中で自由に浮遊してみると楽しいでしょうね。
 ああ、楽しかった。やべ、仕事しなきゃ(笑)。

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2009.11.23

多様性(混沌)の美

↓無能の人?
20091124_105842 日、『数学者はキノコ狩りの夢を見る〜ポアンカレ予想・100年の格闘〜』の再放送がありまして、私が2年前に書いた記事へのアクセスが集中しております。私も再び(実際は生徒たちに何度も見せていますので、10回目くらいだと思いますが)観まして、またまた感心するやら戦慄するやら。まあ何度観ても面白いですね、いろんな意味で。
 そして、今日の体験と重ねて、いろいろと思うところがありましたので書かせていただきます。
 数学という学問は大変に面白いと思います。よくそこに「宇宙の節理」「完全なる宇宙の美」を見出すというような言い方がされますね。人間(の生活)を超えた真理がそこにある予感はします。
 しかし、何度も書いているように、数学は宗教と並んで、ある部分では人間の妄想の極みとも言えます。つまり、脳内で構築される「コト」の権化のような存在であり、実はそこに「モノ」の本質は含まれていないということです。そう、私の言う「コト」というのは、人間にとっての随意、不変な存在であり、それは「情報」であるとも言えます。それに対して「モノ」というのは、まさに「物質」が象徴するような、いわば「無常」なる存在であって、常に流転生滅しています。つまり、我々自身がそうであるように、不随意ではかない存在ということです。
 で、お釈迦様は、この世の「コト(真理=マコト)」は、全ての存在は「無常」な「モノ」であることだけだということを発見した天才だというわけです。究極の真理、崩しようのない真理を見つけた…というか悟った。
 それでも、我々の煩悩は、絶対不変で宇宙普遍な「何か」があることを望みます。お釈迦様が観じた「マコト」以外にも「マコト」があるのではないかと期待します。その最たる表現や手段が、「数学」であり「宗教」であると思います。
 あの番組で語られた、様々な理論や予想というのは、実際に宇宙の本質を語っているとは限りません。いや、語っているわけはありません。なぜなら、あくまで、あの数式たちや、イメージや、あるいは多次元世界というステージも、全て人間の脳内という限られた枠の中での出来事だからです。
 ちょっと前に、同じくNHKで「素数」や「リーマン予想」を扱った番組が放映されていましたね。私はあれを観て、単純に「素数」ってずいぶん不自然だよなあ、と思いました。私だったら「素数」に注目するヒマがあったら、ほかの他律的な数字の魅力に注目しますね。私からすると、素数はちっとも美しく感じられない。なんか自己完結しているところが、きれいじゃない。嘘くさい。
 だいいち、「自然数で割り算する」ことの意味がよくわかりません。というか、「自然数」がなぜ「自然」なのか解りません(笑)。バカですみません。
 もちろん、これは私の感性が変なのでしょうけれど、たとえば「π」という数字とか、「円」という図形もまた、私にはとっても不自然に感じられます。
 実際、この世の中、あるいは宇宙にも「真円」なんてものは一つも存在しません。理論上はあるとしても、それはあくまで人間の脳内のことです。だから、「π」にも実在的な意味は見出せません。存在しないからこそ、それは「イデア」であり、崇拝すべき、あるいは感動すべきなのかもしれませんが、どうも最近の私はそういう感性が鈍ってきているようでして、あまりそれらに魅力を感じないんですよ。
 ですから、今日この番組を改めて観て、やっぱりペレリマンはその「コト」に気づいてしまったのではないか、ポアンカレ予想の証明はできても、それが宇宙の真理には全くほど遠いものだったということに気づいてしまったのではないか、そう思いました。だから、フィールズ賞なんていただけないし、もう数学という「フィクション」に絶望してしまったと。
 「言語(コトノハ)」は脳内フィクション用の記号です。数字や数式の記号たちも、もちろん「言語」であります。
 そう、それで今日の別の体験の話です。実体験です。脳内体験ではありません。
Photo 今日、父親に連れられて、私たち家族は安倍川の河原に行きました。私自身何十年ぶりかの体験です。そこには上流から流れ着いた無数の石たちが転がっています。転がっている、ではないな。敷き詰められているかな。その一つとして幾何学的なものはない。そして二つとして同じ形のものはない。しかし、それらがこうして無数に集まって、全体としてなんとも美しい風景になっていました。そのことに私はとても心安らぎ、そして一方で興奮し、またどこかで何か崇高な「モノ」に接したような気がしたのです。
 今、ペレリマンは本当にキノコ狩りをしているのかもしれませんね。それはもしかすると、今日の私のような気持ちなのかもしれません。もちろん、あまりに次元が違うのでしょうが、ちょっぴり似ているとも言えないことはない…かも。
 河原の近くに「石屋」さんがありました。石を削る音がしていました。彼は、この河原から原石を拾い出し、そしてより人間様の観賞に耐え得るように幾何学的な細工を加えて商品を造っているのでしょうか。それとも、その石が川床から受けた自然の造形力に伍するある種の自然力を加えて、芸術作品を創っているのでしょうか。
 私はふと、ただ河原の石を拾って、それを並べていただけの「無能の人」を思い出しました。ペレリマンはもしかすると「無能の人」になりえたのかもしれません。

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2009.11.22

ホッキョクグマ「ロッシー」は可哀想?

Peace60 い夫婦の日。私は久々に家族みんなで静岡の実家へ。ウチの夫婦や私の父母が「いい夫婦」か、実に微妙でありますが、96歳になる祖母を施設に見舞いに行った時は、さすがに祖父母はなんだかんだ言って「いい夫婦」であったと思いました。祖父は93で亡くなりましたが、本当に大往生。祖母も施設のベッドの上にいるとはいえ、体に痛いところなど一つもなく、久々の孫との会話にもユーモアを忘れず、元気と言えば元気。結局、こうしてお互い健康に長生きして、ケンカしながらでも、とにかく長く連れ添うのが一番「いい夫婦」ですね。
 さて、今日は「いい夫婦」とは全然関係ない話。
 夜は母と嫁の合作料理をいただきながら、父が用意してくれていたおいしい日本酒をいただきました。テレビでニュースを見ながらの食事だったのですが、例によって最後は私と父の大げんかで終わりました(笑)。どうも思想的に敵対するんだよなあ…父子ってそういうものなんでしょうね。ある意味ライバル。
 …って、その話がメインではありません。ホッキョクグマの話です。
 静岡のローカル局でこんなニュースが流れました。
ロッシー誕生日に温暖化考える 静岡・日本平動物園で22日フェスタ
 ロッシーというのは、昨年日本平動物園にやってきた人気者、子どものホッキョクグマ(しろくま)です。
 ニュースでは、来園者の子どもがインタビューを受け、「温暖化でホッキョクグマの住むところがなくなってしまうので、温暖化はいけないことだと思います」とか、なんとも言わされた感のあるコメントをしておりました。いや、彼は彼で純粋にそう思って言っているのですから、それはそれでいいのです。
 しかし、そういう言葉の出てくる背景にある、教育現場での指導やら、こういうメディアでの物言いというのには、ちょっとこわいものがありますね。
 もちろん、ホッキョクグマにとっては、温暖化は多少の問題はあります。長期的に見てある程度の移動をしなければならないからです。
 でも、そんな程度の気候変動は地球の歴史の中ではごく普通のことで、そのたびに我々はいろいろな所へ移動して生き延びてきたのです。そちらの話もしなければ。
 それから、これはいつも言っていることですが、ちょっと考えれば分かる通り、気温が上がって二酸化炭素濃度が上がるということは、ほとんど全ての植物にとって望ましいことです。光合成の勉強をした時、そういうふうに教わっているはずです。晴天時など充分な光がある条件下では、現在の地球上の二酸化炭素濃度は低すぎるくらいです。温度についても同じようなことが言えます。
 植物が元気なら動物も元気になります。食べ物が増えますからね。草食動物が増えれば肉食動物も助かります。
 ですから、温暖化すると困るというのは、人間にとって「困る」ということなのです。人間は国家という檻の中にいますので、簡単に移動もできませんし。
 もちろん、これもまた一面的なものの見方であって、極端な論であるわけですが、しかし、そういう視点も持たねばならないと思います。そういういろいろな視点を提供して、クリティカルでロジカルな思考を促すのが、教育や報道の本来の仕事だと思うのですが。
B47 そんな人間の愚かさをまだ2歳にならないシロクマのロッシーは憂えているのでしょうか。この前、遊具のブイを放り投げて、お客さんの頭に直撃させてしまったそうです。怪我をされた方には同情申し上げますが、これによって大好きな遊び道具であるブイを撤去されてしまったロッシーは、ある意味もっと可哀想なような気がしませんか。
 さらに、今日の「温暖化」の話ですけれど、考えてみると、ホッキョクグマの棲み処が暑くなるとかいう問題ではなく、ずっと昔から「温暖」で、さらに「温暖化」している日本の中の「南国」静岡に、こうして親から引き離されて連れてこられたロッシーって、それこそ「温暖化」以前にとっても可哀想だと思いませんか?ww
 …と、こういうことを言いましたら、また親父とケンカになりました。彼は、徹底した温暖化反対論者なのであります。彼は、人間の、欲望に任せた経済活動に異議を唱えているんです。それもわかります。日本の金融の中枢に長く勤めた父親の、せめてもの償いなのでしょう。
 というわけで、親子でもこれだけ意見がぶつかるんですから、世界中からいろんなケンカが絶えないのは、これはしかたありませんな。みんなわがままですこと。

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2009.11.21

Adobe AIR アプリで読む「青空文庫」

 日も「青空文庫」のテキストを借用いたしましたね。縦書き文庫にて記事内に埋め込みました。
 約8000の文学作品を無料で読むことができる青空文庫は、すでに日本の文化、日本の財産になりつつありますね。こうしたシンプルなテキスト共有のあり方というのが、結局インターネットの基本であり、また最も功たる部分だと思います。
 そして、こうした日本の古典的文章を、どうせなら画面上でも縦書きで読みたいと思うのは、これはもうどうしようもない日本人の人情であります。情緒的な部分でしょうね。先天的な生理なのか、後天的な生理なのかわかりませんが。
 私も最近、寝る前にiPhoneで青空文庫を読むようになりました。ページをめくる感じなんかも含めて、案外しっくり来るものです。紙の本が持っている古典的な風合いと、デジタル・メディア的な現代感が意外にマッチしているのです。もちろん、質感(紙の重量感)やあの触感(操作感)はありませんけれど、寝る前の数分間に、普通だったら絶対に出会わないような古典的名文(特に短い地味なもの)に触れることができるのは、その後の熟睡のためにもなかなかいいものです。
 パソコン上のビューワーもいろいろなものがありましたが、ここへ来て、非常に完成度の高いものが出てきましたので、今日はそれらを紹介します。
 Adobeの新しいランタイム「AIR(Adobe Integrated Runtime)」を使用したデスクトップ・アプリケーション(ガジェット・ウィジェット)二つ。「AIR草紙」と「Aozora Bookshelf」です。
 まずは「AIR草紙」ですが、スクリーンショットをご覧下さい。
↓click!
20091122_74901
 このアプリのいいところは、なんと言ってもページの裏面が透けて見えることですね。これは盲点でした。私も10年前くらいから、どうすれば紙の本をディスプレイ上にリアルに再現できるか、いろいろと考えてきたのですが、なるほどここには気がつきませんでした。たしかに、紙の本って、微妙に裏の文字が透けていて、それが独特のムードを醸していますよね。なんというか、チラ見せ的な感じもありますし、なんとなく続きを予感させる感じというか、実は本に絶対必要な要素だったのかもしれません。
 我々が本を読んでいる時には、本当にいろいろな神経を使っているものです。その総体が「読書」という文化であるわけで、それをヴァーチャルに再現するというのは、実はとんでもなく難しいことなんですよね。いや、ほとんど無理でしょうし、それを実現してしまったら、ヴァーチャルでやる意味がなくなってしまうでしょう。
 続きまして、「Aozora Bookshelf」です。
↓click!
20091122_75153
 こちらのすごいところは、ページめくりのリアルさでしょう。今までのページめくりとは違って、ご覧のようにとにかく本物に近づけてありますね。マウスでつまむ位置によって、そしてマウスでめくる方向、角度によって本物の本のような画像を見ることができます。それが案外軽快でもあり、いったいどういうプログラミングをしているのか、不思議なのと同時に感心してしまいます。
 また、その本の本体に移る以前に、ヴァーチャルな本棚(書棚)を再現してあり、これがなかなか便利で使い心地もいい。やっぱり、なんだかんだ、私たちはデジタル的な「検索」だけではなく、ああいうふうに風景の中での出会い、一種のセレンディピティーに心地よさを感じるのですね。
↓click!
20091122_113746
 両者の良さをミックスすると、現段階では最高のヴューワーになりそうですね。
 これから手に持って使う電子タブレットとういか、電子ブックのようなものが開発されそうですが、その時は、ページをめくるだけでなく、あのざっと繰りというか、パラパラめくりができるようになってほしいですね。あれこそが、紙の本の最も優れた点であると思いますから。

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2009.11.20

太宰治短編小説集「トカトントン」 (NHK BS2)

Works_tokatonton 田秀樹の朗読と渋江修平のアニメーション。そして言葉、太宰治。これは最強でしょう。
 実際実に面白かった。この前紹介した「女生徒」、そして続く「雪の夜の話」、「キリギリス」、どれも良かった。でも、それらの主役は太宰の言葉でした。もちろん、それでいい…というか、普通そうなるでしょう。太宰に対抗するのは、実務上も難しいし、精神上もかなり難しい。だから、ああして現代メディアによる太宰言語の焼き直しで、もう充分に価値があると思いました。
 しかし、今回の野田&渋江の挑戦、いやいやもしかして彼らは挑戦したのではないかもしれない、軽く太宰で遊んだのかもしれない、そんな感じさえする彼らの作品は、見事太宰と相並んだ感がありました。彼を凌駕するのは、まあ現実的には無理だとしても、一瞬でも彼を脇役に追い込んだのは、これはお見事。高く評価したいと思います。
 「トカトントン」って、いろんな意味で難しい作品です。太宰作品の中でも、特に人気のある作品ですし、私もどちらかというと好きな作品です。彼らしさがとっても出ていると同時に、何か読後に感じる虚無を超えた「空」感。「空」間。これは最高です。
 「トカトントン」という音はいったい何なのか。これを哲学することも、あるいは教室の授業で扱うこともできるでしょう。しかし、最近の私はもうそんなことは諦めています。というか、なるべくこの作品は読まないようにしています。
 なぜなら、あまりに「禅」な気分になってしまうからです。太宰お得意の、掉尾の聖書引用…実際のところは、彼の頭の最初の最初にその一節があるのですが…は、なんとなくお説教くさい。それって、いつもいつも彼の彼自身へのお説教に違いないのですが、このたびのマタイ伝は、どこか嘘臭く、とってつけたような印象を与えていますね。おそらく、書き始めた途端に、物語が、小説が、勝手に動き出して、虚無の無限ループを起こしてしまったのでしょう。だから、「虚無(ニヒル)をさえ打ちこわしてしまう」ような「虚数世界」が立ち上がってしまうんですよね。
 「虚数」ってまさに「虚」というか「嘘」っていう感じがするじゃないですか。人間の考えすぎなんじゃないのかって。「トカトントン」という音にももそういうところがある。
 で、結局、そこを乗り越えてしまって、いや諦念してしまって、あるいはぶち壊してしまって、そうして到達する境地が、私は「禅那」だと思うんですよね。
 だから、この小説…それは太宰の独言、あるいは太宰に語らせた誰か(神か仏か)の独言とも言えますが…って、結果としてキリスト教の敗北のような感じも与えるし、それ以前に我々の生活というか、思想というか、言語というか、いずれにせよ私たち自身の敗北のような感じも与える。
 そこが私にはまだ不快なので、つまりまだまだ悟っていないので(悟ったら仏陀になっちゃいますけど)、ちょっと避けてる部分があるんですね。
 それをこういう形でドカンと、もしかしてそんな悩みもなく抵抗もなく、実に面白く表現してしまった野田&渋江は、やっぱりおそるべしですよ。いじわるな考えを起こせば、いやいや彼らも困ってああいう手法をとったのかも、とも言えるかもしれませんが、しかし、実際問題としてああやって作品化してしまったのは、単純にすごいと思いますよ。
 だって、この人気作品をああいうふうに料理すると、怒る人がたくさんいるわけじゃないですか。哲学したり、教材研究したりしてる人にとっては、ある意味(自分に対する)冒瀆だと感じられるでしょうからね。
 まあ、そういう次元で、たとえば聖書なんかをパロディーにして、あるいは食いぶちにして生きていたのが、太宰治であったわけですが。
 天才たち、おそるべし。

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2009.11.19

Keynote Remote

20091120_94645 日、来春開校の中学校の第2回説明会を行いました。いらして下さった皆さま、本当にありがとうございました。
 基本、1回目と同じ内容でプレゼンテーションをさせていただきましたけれども、ちょっぴり進化したところがありました。そう、前回は椅子にすわってMacをマウスで操作していましたが、やっぱり聴衆の皆さんの顔を見ながら説明したいじゃないですか。ですから、今回は、iPhoneを使ってKeynoteを制御いたしました。結果としてMacから離れて、スクリーンの側に立って、皆さんの顔を見ながら説明することができました。
 プレゼンはMacのKeynote'09で作っております。ものすごく楽しいソフトです。某社のPowerPointとは全然違います。こちらの創造力や想像力をかきたててくれます。なんというか、今までの私の経験をいろんな面で活かせるというか、ある意味一篇の映画を作るような作業ですからね。とっても楽しい。
 前書いたように、縦書きのテキストもpdfを利用して埋め込めることがわかったので、授業でももっと積極的に利用していきたいですね。私はもともと板書をほとんどしない国語教師なんですが、これでますますその傾向が進むかも…それって、いけないことなのかな?
 ただ、なんというか、教師の板書をノートに写すという、いわゆる古典的な、ある種正統的な国語の授業というのは、どうも納得いかないのですよねえ。もちろん、みんながみんなじゃありませんけど、用意してきた板書をコツコツカリカリ書いて、それをノートに写させて、それで満足してちゃいけないと思うんですよ。私はそうじゃない授業を、大村はま先生にたっぷりしていただいたので、普通の授業がつまらなくなってしまったんでしょうね、きっと。
 少なくともノートは、人の話を聞いて、自ら大事だと思うところをメモするのが基本だと思っています。中学ではそういう訓練をしていきたいですね。
 おっと、また話がそれた。ええと、今日はKeynote Remoteの話だった。そうです。なんとiPhoneで操作できるんですよねえ。それも、いわゆるアドホック・モード(アクセスポイントを介さないで、無線LANクライアント同士が直接通信をする)で可能なのです。つまり、MacとiPhoneさえあれば、両者を無線でつなぐことができるわけです。それで、多少広い会場でも、たとえば聴衆の中に入っていって、一番後からでもMacを操作できるわけです。これは便利ですねえ。
 iPhoneを買った時は、そんな使い方は全く想定していなかったし、第1回の説明会の時は、そういうことができるなんて実は知りませんでした。というか、実はそれを知ったのは4日前のことです。タイミング良かった。そして、出会いがあったら、なにごとにも時機を逃さず挑戦してみることですね。
Img_0120 iPhoneの操作画面はこんな感じです。横表示モードにしますと、ご覧のように次のスライドというかアクションが表示されますので、これを指で送る(スワイプする)とプロジェクターで映写されている画面もほとんどタイムラグなく追随します。
 私は今回、iPhoneを右手に持ってマイクを左手に持ちました。横表示モードにしておいて、iPhoneは縦に持ち、親指で下から上へスワイプしたわけです。ですから、基本は単なるリモコンとして使い、時々画面で次のスライドを確認するという感じで使ったわけです。
 スイッチやタップの方が操作しやすいのかなと思いましたが、やってみますと、スワイプの方が誤操作がなくて良さそうです。横位置に持って片手で横にスワイプするのは非常に難しいのですが…。
 というわけで、来年度はこの形で授業もやってみたいと思います。うむ、やっぱりAppleの製品はすごい。こちらのモチベーションをこれだけ上げてくれるんですから。ありがたいことですね。生徒もたまにはいいでしょう。こういう時代ですから、高校でも大学並みの授業(講義)をやってもいいんじゃないでしょうかね。あるいは、生徒にも早いうちからプレゼンテーションをさせるとかね。こういう能力というか経験というのは、実社会で絶対に必要だと思いますので。大村先生もきっとこれには賛同してくれるでしょう。

Keynote公式(Appleのサイト)

Keynote Remote(iTunesが開きます)

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2009.11.18

SD/CD マイクロコンポ DCP-300BK(Dioconnet)

2779810 601円。たまっていた楽天のポイントを使ったので、実際払ったのはこれだけ。
 というか、販価が税込み3999円って、安すぎる。
 なんだかんだ、最近の我が家にはラジカセ(古い言い方ですかね)がないんですよね。まあ、カセットは使わないにしても、ウチでやってる英語教室やらヴァイオリン教室(というほどのものではありませぬが)の時、ちょこっとCDを再生したい時があるわけです。
 それでいわゆるCDラジカセ(カセはついてなくてもよい)で一番安いのを探していましたら、こんな掘り出し物に行き当たりました。
 外部入力端子もあるし、なんといってもUSBメモリーとSDカードが使えるというのがいい。これは騙されたと思って買ってみようということで、注文してみました。
 それで、今日我が家に到着したのですが、予想以上に「使える」製品でした。これはお買い得です。
 いやいや、もちろん音質がどうだなんてことは言いませんよ。なにしろ3999円ですから。しかし、たとえば寝室の枕元で聴くには、はっきり申して充分な音量と音質であります。逆にこのミニチュア感からして、ちゃんと音が出るだけでもなぜか感動…とまでは行かないけれども、感心してしまうのでした。
 日本人って、こういう極小、箱庭的世界観が大好きですからね。私もけっこう好きです。大仰なものより小さきもの。
B002ob4rw0_02 それにしても小さい。小さいのに、案外質感がある。デザインのなせるワザなのか。いや、どうもそういうわけでもなさそうです。私が気に入った質感というのは、実は操作感なのです。
 正面パネルにある、黒丸のツマミ、左が怨霊…じゃくて音量、右がラジオのチューニングです。この回転抵抗が意外に重くて、ちょっとした高級感があります。
 リモコンも付属してくるんですが、曲の操作しかできないので、音量調整は必ずこのツマミに触る必要があります。でも、その回す感覚がですね、案外懐かしいので自分でも驚きました。たしかに、最近、ツマミをひねって音量調整する機会がとっても少なくなってますね。
 ただ一ついけないなと思ったのは、開梱した時、ヴォリュームが最大、すなわちツマミが右に思いっきり回っていたことです。私は気づきましたが、気づかず電源を入れたら大音量に驚いたことでしょう。普通逆にひねっとくよなあ。
 右のチューニングのツマミというのも実に懐かしい。今どき、みんなシンセ・チューニング(って言うのかな)ですから、いかにも昔風なバリコン(!)チューニングは、私も数年ぶりでした。けっこうカッコいい青い液晶には、周波数がデジタル表示されるんですが、実際は実にアナログなチューニングです。どうも1ヘルツずつではなく、完全なる昔風な連続的な変調をしているようです。素晴らしい。
 そう、特にAMの時ですね、微妙にチューニングをずらして、それで音質を変えたりできるじゃないですか。昔はそういうこと当たり前にやってましたけど、今じゃ、なんだかあまりにジャスト・チューニングで物足りなかったんですよね。
 それから、操作感ということで言えば、CDを装填する際にですね、フタというか本体の天井をパカって開けるんですが、その質感にもまた、いい意味で裏切られた感じがします。案外重くて高級感(?)があるんですよ。やられた。
 説明書も、安物中国製によくある、わけわからん日本語などはなく、シンプルによくまとまっている。普通にカスタマー・センターとかもあるし、けっこうこれは本気でお買い得な製品かもしれません。
 今回は、箱にキズありの訳あり品ということだったのですが、いったいどれがそのキズなのか分かりませんでしたし、もちろん本体は新品キズなしでした。
 なんとなくおもちゃで遊びたいという方には、おススメなマイクロ・コンポであります。iPodやiPhoneの再生用にもいいんじゃないでしょうか。気に入りました。

★☆【箱キズありの訳あり特価】Dioconnet SD/CD マイクロコンポ DCP-300BK(ブラック)

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2009.11.17

邪馬台国はどこにあったのか?

↓この盛り上がりに陳寿さんも困惑気味?
200911149464031l きなりストレートなタイトルで自分でもびっくり。で、そんなの分かりきっているじゃん!と。答はただ一つ。「あなたの心の中にある」(笑)。
 ふざけたこと言いやがって!と憤慨された方、ちょっと待ってください。実はこれって正解なんですよ。根拠は後でお話します。
 最近ニュースで、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡が、邪馬台国の女王卑弥呼の宮殿の可能性があると報じられましたね。大学のエライ先生たちもなんか興奮気味に語っていました。もちろん、近畿地方の大学の先生ですけどね。
 ちょっと前には同じ桜井市の箸墓古墳が「卑弥呼の墓」だ!と興奮していた人たちです。どうだ!と言わんばかりのはしゃぎっぷりですね。そりゃそうだ。
 第一、ああやってCGまで駆使して、建物の内部まで復元(?)して、それで「ここで卑弥呼が祭祀を行なった」とかまじめに言っていいんでしょうか。アニメ作品の脚本家じゃないんだから(笑)。もうはっきり言って学問ではありません。ファンタジーです。
 もちろん、それはそれで「夢」があるし、物語万歳派の私としては楽しい状況ではあるんですが、いくらなんでもなあ…。
 一方、九州にある大学の先生方は、みんな冷めきってました。当然です。そりゃそうです。
 というか、どっちもどっちですね。第一、なんで畿内説と九州説しか問題にされないんでしょうか。私なんか琉球説や、エジプト説(尊敬する木村鷹太郎センセイ説です)あたりが好きなんですけどね。
 そうそう、我が富士山北麓にもその比定地はあるんですよ。なにしろ、富士王朝がありましたからね。私はいちおう地元の肩を持って、富士北麓説を支持します!…っていうのが、関西や九州の学者さんの心境でしょう。ご当地物の一つというわけです。だから「心」。
 ま、それはちょっと言いすぎというか、失礼でしょうが、多少は真相(深層)を突いているとも思いますよ。
 だいたいですね、「魏志倭人伝」って何ですか?御存知ですか?そんなものありませんよ。「三国志」です。「ヤマタイコク」って何ですか?そんな読みの国はありません。またあの「無責任男」本居宣長翁の戯言の呪縛ですよ。
 私、何度も書いているように、本居宣長センセイが好きになれないんです。ある面ではお世話になっているし、尊敬申し上げている面もあるんですが、こと「もののあはれ」論とこの「ヤマタイコク」論に関しては絶対許しません(笑)。
20091118_93303 そう、私たちって、本当にいろいろな呪縛(それはだいたい学校で習うことなんですけどね)にとらわれています。心を「無」や「空」や「純」にして、ものごとに臨むのが非常に難しいのです。
 で、そんな時、私はどうするかと言いますと、御本人に聞くことにしてるんです。だってそれが一番じゃないですか。
 たとえば、枕草子の「春はあけぼの」については清少納言さんに聞きましたし(こちら参照)、「走れメロス」についてはもちろん太宰治さんに聞きました(こちら参照)。
 もちろん、これって言い方としては冗談半分なんですけど、実は半分は本気なんですよ。だって、それしか真相を知る方法はないんですから。
 私は霊媒師ではありませんが、しかし一方で、私の遺伝子(ゲノム)がどこかで、彼女や彼とつながっているのも事実ですから、そういうルートで聞くというのもありだと思うんです。
 そんなことできるのか?
 そうです。それが具体的には、つまり、先ほど書いた「無」「空」「純」になって、原点(原典)に立ち返ってみるということです。その比喩としての「御本人に聞く」なんですよ。
 で、この「邪馬台国問題」を御本人にうかがってみようと、そういうわけです。そうしたら、こんな答が返ってきたんで、ちょっとそれを書こうかどうか、今とっても悩んでいます。ある意味ショックなんだよなあ、ちょっと予感はしていたんだけど…。え〜い、書いちゃえ!
 陳寿さん曰く。
 「ああ、あれね。あれはねえ、いちおう資料に従って書いたのよ。当時我が国では、東海上の国に関する伝説が流布していてね、ちゃんと書き物としても残っていたのよ。それを見て書いたわけ。だから、あれに間違いがあるとしたら、それは私の責任じゃありませんよ。だいいち、あの当時、その東海上の島国、今言うところの日本だな、あんなところへ行った人は、とりあえず私の周辺にはいなかったのよ。だから、言い伝えで書くしかないじゃんね。だいたい、私は魏の素晴らしさを記録しようとしたわけで、そんな東夷のことなんか、どうでも良かったわけ。なんとなくそれらしく、つまりちゃんとした国家らしく書いて、そいつが魏に朝貢したってことさえ表現できれば良かったわけよ。それは北夷も西夷もいっしょ。だから、あれは全部似たような感じでしょ。特に東夷、つまり倭なんてのは、ほとんど誰も知らないから、ああやって、北方や西方の異民族と同様に、いかにもエキゾチックな雰囲気を彼し出せれば良かったわけだから、今なんだか日本でエライ学者さんから在野の趣味人まで巻き込んで、私が書いたものの解釈を巡って侃々諤々やってるのは、なんとも面白いというか、いや申し訳ないとういかねえ…。だいいち、私はとっても大きな間違いを犯してしまっていたのよ。そう、その資料とした書き物が『臺』を『壹』と書き間違えていたのを、そのまま写しちゃったの。あれはねえ、当時の日本人たちが自らの国を『ヤマト』と呼んでいて、それを『邪馬臺』と漢字表記していたのの、書き間違いだったのよね。我々も漢字はしょっちゅう間違えるのよ。『臺』と『壹』なんか序の口よ。女王卑弥呼っていうのも、私も死んでから知ったんだけど、ヤマトに伝わっていた『ヒノミコ』伝承から勝手に作ったキャラクターだったみたいね。あれでしょ、今言うところの『アマテラス』と、それから弟の、なんだっけ、そうそう『スサノヲ』だったっけ、そのあたりの話が遠く大陸に伝わって、あんな具体的な話になっちゃったんでしょ。そういう例なんて、世界中いくらでもあるよ。なにしろ、当時はインターネットもなんもないからね。しかたないあるよ。最近、蓬莱山、今言う富士山ね、富士山の麓に残ってる、我が先輩徐福さんが書き残したという宮下文書ってのをちょこっと見たけどね、ずいぶんといい加減なこと書いてあったよ。でもね、立場を逆にすれば、私もそれとおんなじようなことしてたのね。しかたないね。それを真に受けちゃだめよ。それからねえ…」
 と、まだまだ続いたわけですが、とりあえずここでやめときます。
 夢を奪うようなことを書いて申し訳ありません。いや、これもまた、壮大な夢物語なのかもしれませんね。ただ、これはあくまでも、いわゆる「学問」ではありませんので、野暮なツッコミは入れないでください(と、私もまた陳寿さんと同様逃げる逃げる…笑)。

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2009.11.16

太宰治短編小説集「女生徒」 (NHK BS2)

20091117_75819 覚にも、泣いた。ボロボロ泣いた。
 最近実に涙もろいのですが、それは大変素晴らしいことでもあります。この種の涙は、きっと「世の中にまだ知らない美しいものがあった」という発見の涙なのです。だから、もっと泣きたいとも思います。
 10月に放映されて、しかし、すっかり見忘れていた評判の映像を、今日再放送で観ることができました。たしかにこれは素晴らしい。
 太宰も素晴らしいし、森山宏昭さんも素晴らしいし、NHKも素晴らしい。そして、なんと言っても、「女生徒」山下リオが抜群に泣けた…。
 太宰の「女生徒」を現代の映像作品としてよみがえらせた佳作でした。どんな長編の映画にも負けない、美しく、脆く、澄みきった、そして実に嘘っぽい作品に仕上がっていました。
 そうです。こうした虚構の美、「コト」の美、言葉の美こそ、太宰治の魅力そのものです。それを、お見事、現代に生きる言葉を抽出して、さらに現代の「コト」である映像を加えて、立派な作品に仕上げていました。
 こういう換骨奪胎を許す「現代(今)性」…それが「普遍性」を超えた太宰の生命力だと思いましたね。
20091117_85832 「少女のままで死にたくなる」…よくこの「女生徒」は現代の女子高生のブログみたいだなんて言われますけれど、とんでもない。こんな女子高生のブログがあったら、ぜひ紹介してほしいものです。ここまで、公共性を持った詩を書く女子高生がいたら、私は彼女の前に跪きますよ(笑)。
 それは、あの当時でもそうでした。これからもそうでしょう。だから、普遍性を超えているというのです。悔しいけれど、この「女生徒」は天才です。そして、彼女は、どうしようもなく「男」なのでした。
 それにしても、太宰のことを忘れて観てもまた、充分に感動的な作品でしたね。ウソがこれほど美しく泣けるとは、もうそれだけで私は満足です。
 舞台となった土浦と古河の風景。それは田園であったり、里山であったり、これもまた見事に人工的な美しさを湛えていました。人間が「美」を感じ「涙」するスポットは、実は、まったき自然ではなくて、「人のワザ」の中にあるのですね。
 その真実を悟って、こうして見せてくれる太宰は、悔しいけれど、残念だけれど、やっぱり神々しい男でした。

↓縦書き文庫で原作をどうぞ。

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2009.11.15

『しるこサンド』 (松永製菓)

20091116_80911_2 むむ、まだまだ世の中知らないことがあるものですな。こんなにおいしいお菓子を知らないで40年以上生きてきたとは。
 いや、もしかすると一度は食べたことがあるのかもしれません。今日口にしてみて、なんかとっても懐かしい感じがしましたから。
 今日、カミさんが地元のスーパーで見つけて買ってきました。なんだか妙に嬉々として「しるこサンド」について語っているので、よく聞いてみますと、秋田の山奥で育った彼女の唯一のスナック菓子がこれだったということ。
 たしかにああいう山村では、おやつと言えば自家製の漬け物とか餅とか、そういうものが多くなります。大人のおやつを子どもも食すという感じですよね。
 だいいちあの辺りには商店らしい商店もほとんどありませんから。スーパーに行くには車やバスを使って小一時間かけて行かなければなりません。時々、行商(物売り)が来たそうです。いろいろな日用品や食べ物を売りに来たとのこと。
 カミさんは私より十ほど年下なのですが、高度経済成長期の東京の団地で育った私と比べますと、正直半世紀ほど前の生活様式を経験なさっているようです。それでよく話が盛り上がります。
 ちょっと話がそれますが、そんな生活自慢(?)の中で、一番私の心を重くした話はあれですね。
 冬場3メートル近く雪が積もった中で、小さな子どもが熱に冒されて、さあ里のお医者の所へ連れて行かねばということで、馬そりにその子を乗せて、村の男衆数人でいくつかの峠を越えた。でも、最後の峠の頂上付近で、その子は冷たくなっていた…。
 私が東京でぬくぬくと現代文明の恩恵を受けている時に、かたやこんな状況だったのですからね。なんとも切ない話です。いや、私は私で光化学スモッグと必死に闘っていましたよ。あれはあれでひどいものでした。夏休みなんか、野球していると、みんなバッタバッタ倒れちゃうんですから。
 しかし、こういうことを考えますと、カミさんが「何が格差社会だ!」というのも理解できますね。
 えっと、話を戻します。「しるこサンド」です。カミさんの実家がどういう経路でこのお菓子を入手していたかは定かではありませんが、とにかくこれが秋田の山村ではとっても高級なスナック菓子だったそうです。
 あっそうそう、ちなみにそこでは、カップラーメンというのはとても高級な非日常的で文明的な食べ物だったそうで、だから、誕生日とか、何かの御祝の時にだけ食べることができたそうです。なるほど。
 おっとまた話が逸れた。ええと、この「しるこサンド」ですが、調べてみますと、以前は中部地方限定のお菓子だったということですから、あの時代、どのように秋田の山村まで伝来していたのか、ますます不思議に思えますね。
 最近では全国的な人気商品だということで、スーパーやコンビニだけでなく、100円ショップでも売られているということです。
 ところで、考えてみると、ビスケットの間に「おしるこ」が挟まっているという、その状況がすごいですよね。発想からして斬新と言えば斬新。
 たしかに、「コーヒーサンド」とかありますし、液体(しるこが液体かどうかも微妙ですが、いちおう汁なので)をビスケットに挟んで焼いてしまうというのは、それまでもなかったとは言えないと思いますが、「餡サンド」とか「あんこサンド」でも良かったろうに、「しるこ」と言ってしまったところが偉い。
 いや、「しるこ」とは「汁粉」であって、これは「粉」をサンドしているのではないか、とおっしゃる方もいらっしゃるやと思われますが、語源を遡ってみますと、というか、歴史的な用法を見てみますと、どうも「しるこ」の「こ」は「粉」ではないようです。どちらかというと、それこそ秋田弁などにあります、愛情(親しさ)をこめる接尾辞の「こ」に近いのではないでしょうか。
 ですから、やっぱりこれはあくまでも「おしるこ(ぜんざい)」を挟んで焼いたということでしょう。実際、お椀のイラストがあったりしますからね。
 で、お味ですが、ビスケットの塩味と「しるこ」の甘さが絶妙なアンサンブルを醸していますね。「しるこ」もそれほど「餡」らしさ、あるいは「豆」らしさを主張せず、謙虚な甘さであり、それがある意味意外と言えば意外。ネーミングのインパクトからしますと、やや淡泊と言えるほどです。
 また、絶妙な油っ気と、またあの食感、つまり硬さですね、それがなんともクセになります。さすが40年以上のベストセラーですね。
 Wikiで見てびっくりしたのですが、刑務所では「ビスケット」を注文すると、この商品が配給されるのだとか。なんかちょっとした贅沢というか、単なるビスケットより、ちょっとした温情を感じるのは私だけではないでしょう。
 また、公式サイトにもあるように、夏場は塩の分量を増やすのだそうで、なるほどそうした工夫もまた人気の要因の一つなのかなと思います。
 これはたしかにクセになる逸品ですね。
 というわけで、当面の研究テーマは、昭和50年代に、この「しるこサンド」が名古屋からどのように秋田まで伝播したか…これですね。行商っていうのが一番味があっていいんですが…笑。

松永製菓公式
しるこサンドのひみつ
しるこサンドのつくり方

テレビ番組でも話題になりました!松永製菓 おいしさ百景しるこサンド 12入

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2009.11.14

ジレット フュージョン 5+1(Gillette Fusion 5+1)

20091115_91254_2 悩を満喫したのちには剃髪です。先ほど剃りました。
 私は1週間に1回、土曜日か日曜日の入浴時に頭を剃ります。ツルツルのスキンヘッドになります。
 これからの季節は寒いんですよねえ。寝る時は帽子をかぶって寝ます。1ミリでも毛が伸びてくると全然違うんですよね。あたたかくなる。毛ってすごく大切ですね。いろんな意味で頭を守る役割を果たしているんですよね。剃ってみて分かった毛のありがたみ。失って分かる大切なもの…。
 そう、今日はそういう話も含めて盛り上がったのでした。若者たちに出会いと別れはつきものですからね。
 今日は久しぶりの完全休養日。夜は卒業生と飲み会。素晴らしいリフレッシュになりました。夕方4時からボウリングをして、6時から飲み始め、丸々6時間。最初は4人で飲み始めたのに、最後はなぜか9人になりました。なぜかカミさんやら知らない人もいるし(笑)。
 酒が入れば、まあみんな煩悩爆発しますからね。それが楽しいし、日常のストレスを発散するのには、こういう宴というのもとっても大切だと思いますよ。
Img_0107_3 で、宴の後に剃髪です。日常に還る儀式…いや、どっちが日常でどっちが非日常か分かりませんな。普通の人にとっては、剃髪なんかとんでもなく非日常でしょうからね。
 さて、その剃髪の道具ですけれど、去年シッククアトロを使っていると記事に書きました。しかし、あのあと、クアトロの仕様変更があったようでして、刃の間隔が狭くなったんでしょうか、目詰まりするようになったんです。ひげ剃りと違って剃髪は毛の量が多いですからね、とにかく詰まっちゃうとどうにもならない。
 そこで、教え子のリアルお坊さんたち(何人かいるんですよ)に聞いたところ、最近ではこれが一番いいと。こちらは5枚刃です。さっそく買って使ってみると、たしかにいい。
 なんと言っても肌に優しくてかみそり負けしません。5枚刃ですから、深剃りできるのは当たり前。以前は5日に一回くらい剃らないとちょっとだらしない感じだったのですが、今は週一回ですんでいます。
 刃の持ちもいいので、案外安上がりです。私はちょっとケチって3ヶ月くらい使っちゃいます。3ヶ月で250円くらいですから助かります。
 +1というのは、裏側についているピンポイントトリマーのことです。これも重宝しています。最初は使い方というか角度がよく分からなかったのですが、慣れると耳の上のあたりの裾部分を剃ったり、口のすぐ横のヒゲを剃るのに便利ですね。
 そして、やっぱり一番の長所は目詰まりしにくいということでしょう。というか、どうしても目詰まりはしますが、それを取り除くのが楽なんですね。刃の間隔が比較的広いのです。
 ちなみに今までゾリゾリ剃りまくって出血したのは一度きりです。つい最近なんですが、角度を誤ったんでしょうかね、頭頂部の表皮を5枚下ろししてしまいました(痛)。自分では見えない場所だったのでただヒリヒリ痛かっただけなんですけど、他人から見るととんでもなくグロテスクな状況になっていたようです。1週間ですぐに治りましたけどね。今後は気をつけます。
 というわけで、このブログの読者で剃髪する方はほとんどいらっしゃらないと思いますので、普通のひげ剃りの記事だと思って読んでいただければと思います。当然、ひげ剃りとしてももちろん超優良品です。
 ま、それでもやっぱり女性には関係ないお話でしたね。

Amazon ジレットフュージョンホルダー ジレットフュージョン替刃

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2009.11.13

『大人の科学 二眼レフ』で初撮影

 ちらに書きましたように、このカメラで、乃木坂の風景をいろいろ撮影してきました。
 なにしろ初めてでして、まずフィルムの装填がうまくいきませんでした。もっと落ち着いてやればよかったのですが、時間がなかったので(汗)。結局ちゃんと撮れていたのは12枚ということで、今日はそれをスキャナでスキャンしてアップしてみますね。
 とにかく撮ってみたという感じですので、なんだか訳分からん写真ばっかりです。もう少しアーティスティックに撮れば良かったですね(笑)。単なる失敗写真という感じですけど、それもまたある意味懐かしい感覚です。では、どうぞ。ちなみにASA…いやISO400です。

↓乃木神社での結婚式の記念撮影を撮影。頭上で撮ったので、ピントを合わせられないから…というか、まずはピントのことを考えずにカシャ!案の定ピンボケ(笑)。
Photo

↓乃木神社の蚤の市、謎の山人(?)。どう見てもアイヌ系。味出しまくり。幻想的ですね。
1

↓乃木坂の歩道橋の階段。得意の独眼流立体視(片目で写真を見て疑似的な立体感を得る)で見ますと、それなりの遠近感。周辺のボケ具合が脳内のイメージと一致しているんでしょう。
2

↓ビル。未確認飛行物体はスキャナの汚れ(ちゃんと掃除してからスキャンしろよ!)。下から撮った画像ですが、微妙にミニチュア感ありますね。すごくウソっぽくていいです。
3

↓歩道橋の上から。やっぱりちょっとミニチュア感がありますね。おもちゃの街という感じ。
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↓シロウトがやりがちな(笑)カーブミラー越しの風景。なんとなくメルヘン。
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↓教会のマリア像。
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↓鳩がいますが、わかりますか?
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↓文字を撮ってみました。なかなかの解像度ですよね。影がパーフォレーションみたい。
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↓初めての横構え。これが難しい。ファインダーの画像、左右が逆だし、全然思うようになりません(それが楽しい)。教会の屋根と背後のビル。スキャナの汚れが…すみません。
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↓花を接写風に。そこそこの描写力。
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↓木の幹越しにビル。まあイメージ通りの出来でした。
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↓教会の屋根の十字架。iPhoneのカメラだと空の明るさにつぶれてしまいましたが、こちらはちゃんと写っています。
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 というわけで、なかなか変な写真が撮れまして満足です。2500円のキットで、これだけ楽しい写真が撮れれば文句なしでしょう。なにしろ、撮影という行為自身が新鮮で楽しかった。もちろん現像や焼き付けを待つ時間もね。デジカメ時代に、これは貴重なレトロ体験でしょう。
 フィルム装填のコツやピント合わせのコツも分かりましたので、次はもう少し意味のある写真を撮ってみたいと思います。
 そして、もう1台買って作って、ステレオ写真に挑戦か!?ファインダーの段階で平行法立体視したい!?

作品集その2

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2009.11.12

「天皇陛下御即位から二十年」記念DVD

20091113_85652 主党小沢幹事長の「キリスト教やイスラム教は排他的」発言が物議を醸しております。一神教は当然そういう性質を持つものであり、いちおう宗教に興味を持ち、日常的に禅に接し、また「排他的」の対照位置にあるとも言える出口王仁三郎を研究している者としては、この発言はある意味では間違っていないと思います。
 ただ、こういう問題は、それらの教義自体、実際の信仰上の心情、そして政治的な活動など、ちょっと考えただけでもいろいろな側面があるわけで、そういう多面的な問題を、ああいう場で簡単に一言で断言してしまうのは、それはたしかにまずかった。空気読めないにもほどがあります。さすが目の前の利権にすり寄る小沢教の教組であります(笑)。
 こちらのDVDも同じような問題をはらんでいるんですよね。皆さんのお宅のお子さんが通う学校では、今日このDVDは披露されたのでしょうか。どうなんでしょう。
 まあ、民主党政権になり、日教組の天下になった今の世で、公立学校においてこのDVDが上映されたところはほとんどなかったと予想されます。それ以前に記念式典などをやったところはあるのでしょうか。特に輿石東のお膝元であるここ山梨では、そんな気配すらないようですが(笑)。
 ニュースによれば、奈良市の教育委員会が実施上映状況を調査したということでして、これまた物議の対象になりそうです。これなんか特殊な例なのではないでしょうか。
 ということは、この数千万円かけて作られ、全国の学校に配布されたDVDはほとんど日の目を見ず、そしてどこかに葬られてしまったということでしょうかね。
 ウチの学校は、1校時に記念式典と称して全校生徒を体育館に集め、このDVDを放映しました。そして、午前中で授業は打ち切り、生徒も職員も思わぬ半ドンにちょっとラッキーという感じでした。
 もちろん、ウチの学校が特別にそちら寄りということではありません。DVDを観賞した生徒たちも、興味深々の者もいれば、寝ていた者もいるし(たぶん)、いろいろとツッコミを入れているのもいたし、半分冗談ぽくですが異議を唱える者もいました。つまり、学校としては「排他的」「一神教的」でなく、非常にフラットな雰囲気であったということです。先生たちも同様。
 私はというと、正直感動してしまいました。私は自分のことをソフトな右派のように言うことが多いのですが、最近は単純にそうとも言えない状況、心情になっておりまして、どんな気持ちになるか自分でも楽しみだったのです。そうしたら、いろいろと心の中でツッコミを入れつつも、ちょっとジーンとしてしまった。
20091113_85728_2 いや、思想的なこととか、近未来ならぬ近過去の歴史とかではなくてですね、やっぱり同じ王室がとだえることなく2600年以上続いている(それ自体物語ではあっても)ということはとんでもないことだなあと純粋に思ったのです。世界にそんな国はありません。王家の交代こそが世界史であり、そこに付随する戦争こそが世界史であると言ってもいいのですから。
 ですから、本当に単純に「日本国の象徴及び日本国民統合の象徴」だよなあと。いろいろな意味で平和な歴史の象徴であって、それはそれで実にありがたいことだと思ったのです。
 こういうことを学校のセンセイが言うと、すぐに噛みつかれるのは承知の上です。でも、そういう方々とは、正直思考の空間や時間がちょっと違うんですよね。私は「排他的」でも「一神教的」でもありませんから、そういう方々の言い分も痛いほどよく解ります。私も立地点がそこなら、そう言います。しかし、それこそいろいろな立地点があるわけで、今日の私は先ほど述べたようなところに立って目の前に広がる風景を眺めたわけです。ただそれだけのことです。
 それにしても、このDVD、最初からヘンデルの水上の音楽が流れたりして、いきなり英国王室なのには笑いました。さすが懐が広く深い(笑)。ちなみに次はヴィヴァルディでした。
 それから、このDVDが制作された時期や事情からしてですね、当然登場人物に哀愁が漂っていました。特に麻生前総理のあの「礼」のしかたはどうでしょう(笑)。福田さんもなんか泣きそうだったし。
 このDVDの内容にも、また、天皇陛下即位20年の記念式典での天皇の発言にも、「平和」「家族」という大きなテーマがあったと思います。そうしたイメージの天皇制が構築されるあたって、キリスト教の影響が非常に大きかったということも忘れてはなりませんね。世の中は、そう簡単に二分できません。「排他的」なんていう言葉も本来ありえません。
 なぜなら、お釈迦様が言う通り、「自己」=「他者」であるからです。

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2009.11.11

『朝紫(紫黒米芋大福)』 みやきん

Img10031570541 ットというのは本当にすごいですね。私もこのブログのおかげでいったい何人の方と出会うことができたことか。それも私からすると出会うはずのないような世界の方ばかり。それは物理的に遠い世界というだけでなく、ステージ的にも遠い世界という意味もあります。とにかくそれが私の人生を豊かにしてくれているのはたしかです。本当にありがたいことであります。
 さて、このおいしいおいしい大福餅も、そういったご縁で頂戴したものです。
 私のマニアックな記事に反応されるのは、やはり同じ趣味をお持ちの方(と言っても、その趣味の範囲があまりに広いようですが…笑)が多い。あるいは、同じ仕事を持っている方、つまり同業者、国語の先生が多かったりします。
 この前、青森は十和田にお住まいの先生からコメントいただきまして、こちらの教材(?)をシェアいたしました。そのお礼ということで、ご丁寧にお送りいただいたのが、この美しすぎる議員ならぬ、おいしすぎる大福でありました。ごちそうさまです。
 いやあ、これは本当に美味しかった。味のみならず、その食感もまた素晴らしい。まずは表面からいきますと、紫黒米のお餅が実にセクシーにやわらかく、もう手に持った瞬間、指でつまんだ瞬間からして至福の時間が訪れます。全体が大きさの割に微妙に重いものですから、そのやわらかさがちょっとした危うさを感じさせます。そこがセクシーですね(笑)。
 そんな柔肌に歯を当てますと、まずは軽みのあるあんこに出会います。この餡がまたいいですねえ。甘すぎない絶妙なさじ加減。あんこって難しいじゃないですか。和菓子は餡で決まります。私はこの餡、気に入りました。原料は当然のごとく十勝の小豆。
 そして、さらに進みますと、そこに現れるのは薩摩芋。これがですね、まるで栗のような食感なんです。まあ、簡単に言えば予想と違って硬い。それがいいですね。こちらはあくまで男性的。その美しい黄色い輝きが、餡の深い闇を照らします。そう、朝紫一つで世界の陰陽を味わえるのですよ。これは宇宙か、それとも胎内か。
 なんて、ちょっとおおげさな表現になってしまいましたが、ホント味的にも見た目的にも、そして食感的にも非常に深みのあるお菓子です。いろいろな意味での存在感があって、そのおかげで、食後の満足感も200%。お世辞抜きにおススメです。本当にありがとうございました。ごちそうさまです!
 数日前には、私の恩師大村はま先生の研究をされていたという沖縄の先生とご縁がありました。これまた、お互いびっくりの運命的な出会いでした。
 ネットとはまさに「縁」ですね。私はこの時代に生まれて良かったと思っています。インターネット、ブログなどは、私に適したメディアでした。やはり、それはテキストがベースになっているからでしょうか。言葉は世界をつなぐ。その言葉のおかげで、私の人生はどんどん変わっていっているのでした。

紫黒米芋大福(朝紫)/6個入

みやきん

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2009.11.10

追悼 森繁久彌さん

 

 根の上のバイオリン弾き逝く。ちょうど、家で葬送カンタータ集を聴いている時に、速報が入りました。
 役者としてはもちろん、音楽家としても尊敬すべき方でした。そして、なんといっても、それ以上に、日本人として、男として、父親として、おじいちゃんとして、いつも私たちにある種の理想像を見せてくれた方でした。ご冥福をお祈りします。
 森繁さんの代表作である「しれとこ旅情」。この曲を聴くだけでも、彼の音楽的才能を強く感じないわけにはいきません。
 アウフタクトで始まる三拍子のワルツ。ソドミソドと思いっきり伸び伸びと主和音を提示する冒頭。完全に西洋音楽モードです。しかし、そこに実に味わい深い日本語が乗る。お見事です。知床という日本であって日本でない土地を舞台に、異国情緒と望郷の念という一見相矛盾する心情を歌い上げたこの曲が、当時の日本人に「知床ブーム」を起こしたのも納得できます。そういう繊細かつ大らかな感性と才能こそが森繁さんの魅力でした。
 私にはそんな感性も才能もありませんので、今日は、本当にたまたま訃報に触れた瞬間に聴いていた葬送(鎮魂)のための音楽を、屋根の上のバイオリン弾きに贈ります。
 バッハのカンタータ第106番「神の時こそいと良き時」より、あまりに静謐で美しいソナティナ(序奏)と、テレマンのカンタータ「汝ダニエルよ、行け」より、ある意味テレマンらしからぬ深みを帯びたソプラノアリアです。両曲とも、リコーダーとヴィオラ・ダ・ガンバが効果的に使われています。非の打ち所がないですね、両方とも。やはり、人の命、魂に捧げる曲は特別なのでしょう。では、森繁さんのご冥福をお祈りしながらお聴きください。

 バッハ ソナティナ

 テレマン アリア

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2009.11.09

Star Walk for iPhone

20091110_82358 iPhoneを使い始めて1ヶ月ほど経ちました。たしかに便利ですし、使い勝手もよろしい。これは売れますね。もともとMacユーザーである私としては、こういうApple的世界がより広く認知されるということが何よりうれしいことです。単なる物としての価値ではない、人の心を動かし、人をつなぎ、世界の創造力と想像力をかきたてる、本来の「デザイン」がそこにあると思うからです。
 さて、この1ヶ月間、まあいろいろとアプリを使ってみました。基本的に無料のものや、安物しか使っていませんが、まあ使えるのもあれば使えないのもある。おもちゃとしては許せるなというものがほとんどと言えばほとんど。
 そんな中、驚くほど感動したのがこの Star Walk です。いちおう天文ファンである私としては、これはある意味夢のソフトですし、しかしまた、ある意味無用の長物でもあります。
 基本的にパソコン用の天文シミュレーションソフトのライト版という感じですが、なんといってもすごいのは、iPhoneに内蔵されているGPS、電子コンパス、加速度センサーを駆使して、リアルタイム星座早見になるという点です。つまり、星空にiPhoneをかざすと、その方向の星空が画面に表示され、設定によって、星座や星座絵、星の名前などを表示してくれるという機能です。いわば、星空版セカイカメラとでも言いましょうか。
 その精度の高さと追従性の高さは特筆ものというか感動ものです。これは夢だったよなあ。ついにそれが叶ったという感じです。
 無用の長物といったのは、まあ、私くらいの天文ファンなら、いちおう夜空の星を見れば、あれが何座とか、あの星の名前はということはわかる、すなわち昔取った杵柄で、星座早見や全天恒星図が頭の中に入っているということなんですが、それでもまあ、さすがに歳とったし、毎晩6等星まで見える環境にいると、なぜかあんまり星を見なくなってしまうという、妙な逆説的状況(富士山も見ない日があるくらいですから)になっている私としては、そうした記憶を補助するという意味においては有用なのかもしれません。
 またこれは、最近星にちょっと興味を持ち始めた娘たちの勉強の動機付けにはいいかもしれません。今の子どもたちはいいですね。いやいや、恵まれすぎかも。
 この前のデジカメと銀塩カメラの話、デジタルとアナログの話とも重なるかもしれませんね。昔だったら、私のように自分の脳という実は見事にモバイルなディバイスにですね、メモリーさせておくことが最良の手段だったわけですよ。しかし、今こうして、自分を補助する、自分を拡張する、しかし他者と共有するタイプの外部ディバイスを使うようになりますと、脳というディバイスへの負荷が減ってきますね。必要な時にさっと外部ディバイスを取り出せばいいやと。
 それってはたして私たちにとって幸せな状況なのでしょうか。特に子どもたちにとって。このアプリについても、感動しつつ、ちょっと心配というか、複雑な気持ちになるんですよね。難しいところです。
 先ほど、私の記憶を補助するという言い方をしましたけれども、もしかすると、私の記憶をさらに劣化させる、実は悪魔なのかもしれません。そんなこと言ったら、もうケータイとか、パソコンとか、全部が全部「コト化」を助長する悪魔ということになってしまって、我々人間はこうして我が手で我が首をしめているということになりかねませんね。こうして書いている言葉自体が最も古くてタチの悪い悪魔なんですが(笑)。
 ちょっと話を戻しましょう。いつかも書いたと思いますけど、今、私たちの手が届かないモノ、本当にどうしようもないモノ、不随意で手を加えられないモノって、宇宙しかないと言えばそういうことになるんです。
 もちろん、どこまでを宇宙とするかというのは難しい問題です。太陽系内であったら、もうけっこう手を加えてますからね。しかし、たとえば200万光年先にあるアンドロメダ銀河なんか、今こうして望遠鏡で観ることはできますけれど、なにしろ今観ているのは200万年前の光であるし、行こうにも(たぶん)行けません。最新の天文学は、ある意味最古の考古学になっていきます。そういう科学、芸術の分野って、もう宇宙にしか残されていません。つまり、宇宙の前(下・中)では、我々現代人も、星座をつなぎ、神話をつむいでいた古代人と何ら変わらないのです。
 そこが、天文学、星の世界の魅力なんですね。私たちが唯一自分の傲慢さから逃れられるのは、こうして宇宙の前(下・中)に、無重力で、そして無力に漂う刹那だけなのでした。私はこれこそが宗教の根源だと思っています。

Star Walk

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2009.11.08

乃木坂散歩

↓これらの写真はiPhoneで撮影
(けっこうトイっぽいんですよね)
Img_0072 日は乃木坂にある「聖パウロ女子修道会大聖堂」において、カメラータ・ムジカーレのコンサートに出演してまいりました。
 いつもたくさんのお客様に聴いていただくことができまして、本当に感謝感謝です。来年はとうとう当団体50回目の記念定期演奏会となります。すごい団体ですね。
 演奏の方は、それこそ皆さんベテランでいらっしゃるから、緊張することもなく自然体で無難にこなしておられました。私もようやく最近全く緊張しないで演奏することができるようになりました。やっぱり歳をとるっていうのはいいものですな。経験が全て。
 ところで、本番前、リハーサルが終わりまして、お昼を食べない私にはたくさん時間がありましたから、ちょっと周辺をお散歩しました。そう、昨日の記事で紹介した「二眼レフ」を持ってのお散歩です。
 近くのコンビニでフィルムを買って、さっそく装填。これが案外難しい。パーフォレーションにカウンター用のツメがうまく引っかからない。結局最初の数枚はムダにしてしまいました。まあ、最初はこんなものでしょう。こういう不如意感がまたいいのであります。
20091109_61223 まずは、聖堂の外に出ましたところ、堂内からのバッハなどとともに、お隣の方からなんだかピョエ〜という音が聞こえてきます。雅楽です。なかなかシュールな音響空間です。聖堂と高層ビルと森という不思議なマッチングとともに、まるで異次元空間のよう。そんな異次元を表現せんと、さっそく何枚か撮ってみました。ファインダーの写像が左右逆なので、最初はなかなか思うように動かせない。それがまた良い感じ。まさに非日常。
 そして、雅楽の響きに導かれるように乃木坂を少し上ると、その音の源、乃木神社があります。そうですね、乃木さん夫妻の殉死なさった邸宅跡のお隣が乃木神社になっているのですね。
 王仁三郎に言わせれば「ほんたうの存在を忘れ、自分に都合のよい神社を偶像化してこれを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。殊に日本の官国幣社が神様でなく、唯の人間を祀ってゐることが間違ひの根本だった」ということになるのでしょう。けれども、なんとなく分かるような気もします。乃木さん自身というより、乃木さんの心、大和魂が神様になったのでしょう。
 今日は偶然、蚤の市をやっていまして、それがまた渋すぎた。明らかに山の民といった風情のおじさんが実にアヤシイ古いキューピー人形とかを並べています。思わず撮影してきました。ちゃんと撮れてるかなあ。シャッター、ちゃんと下りてるのかなあ。ある種の諦めの境地にならねばなりません。こんな気持ちも久しぶりですね。これだけでも、なんというか、一瞬一瞬への思い入れが現代的日常と違う。
 ちょうど七五三の季節ということもあって、けっこう境内は賑わっていました。また、結婚式があったらしく、本殿前で集合写真を撮っていました。それをまた二眼レフでカシャッ!撮れてるのかなあ…。
Ph01 あの若者たち、ここがどういう神社であるのか分かっているのかなあ。分かってないだろうなあ。イェ〜とか言って盛り上がってましたよ(笑)。そこがまた神道の良さでもありますが。生徒たちも、たとえば明治神宮がどういう神社なのか全然分かってませんからね。そういう私も若い頃は同様でしたが。誰も教えてくれないし。特に日教組の先生方はね(笑)。
 その後、坂を下って、公園やら歩道橋やらで撮影してみました。明日写真屋さんで現像してもらいます。どういう乃木坂が写っているでしょうか。そうそう、今日のコンサートでもお話がありましたが、ここは「乃木坂」になる前は「幽霊坂」と呼ばれていました。心霊写真が撮れてたりして(笑)。
 ちなみに同じ港区にある三田の幽霊坂は「森有礼」の屋敷があったので「有礼坂」と言っていたのが転じたとか…。

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2009.11.07

『大人の科学マガジン vol.25 35mm二眼レフカメラ』 (学研)

Img_0065 仕事終えまして、久しぶりに自分の時間がちょっとだけ取れましたので、やりたいことをやらせていただきました。ちょっと前に届いていたのに開封せず我慢していたのがこれ。大人の科学です。
 学研さん、うまいですねえ、商売が。こちらで書きましたように、大人気(おとなげ)ない大人に大人気(だいにんき)の学研「大人の科学」。考えてみれば、誠文堂新光社「子供の科学」のパクりなわけですよねえ。今や本家より売れているわけで、そのあたり、廂を貸して母屋をとられた本家としては、どのような心境なのでしょう。
 今回の付録はたまりませんね。ホントにうまいとこ突いてくる。タイミングも良かった。良すぎ。もちろん私にとってですが。
 ここのところ、あまりに写実的にすぎ、あまりに非人間的なデジカメ的世界にうんざりしていたわけですよ。私は私なりに人と違う個性的なデジカメを使ってきたつもりですけれど、それはあくまでデザインやスタイル、機能における個性であって、やはり撮影された写真は、なんとも無機質な大量生産品のようなものでしかありません。
 それで、最近発売されたYASHICAのトイデジでも買って遊ぼうかなあ、なんて考えていた折だったのです。
 以前、紹介したRolleiflex MiniDigiは、残念ながらお金がなくて泣く泣くスルーしてしまいました。でも、あの記事を読んだ知り合いがすぐに飛びついて買ってくれまして、実際持たせてもらったり、作品をいただいたりすることができまして、なかばうらやましいと思いながらも自分の中である程度満足していたのです。
 それから、最近、やっぱりデジタルじゃなくて銀塩だよなあ…あの感覚をもう一度、とか思っていたんです。1枚にこめる思い入れが違うんじゃないか、って真剣に思っていたところだったんです。プロの撮る商用写真でさえ、なんか味がないように感じるんですから。
 で、そんなこんなを考えているこのタイミングに、こいつが発売されたものだから、もう嬉しくて嬉しくて。銀塩で二眼レフ、もちろんトイカメラ仕様だし、なにしろRolleiflex MiniDigiの10分の1のお値段。
Img_0066 さっそく今晩組み立てましたよ。この組み立てっていうのも萌えですよね。娘たちも私の作業をじっと見つめていました。だんだん出来上がってくるカメラを見ながら「すごい、すごい、パパすごいね」ってほめてくれました。ちょっと嬉しかったりして。全然難しくないんですけど。
 いや、実はけっこう苦労したところもあります。なにしろ「大人の科学」を買う昔子供だった大人は、今そろそろ「老眼」という真の大人の領域に入りつつあると思います。ウチはなんとなく薄暗いし、とにかく小さなバネを固定したりするのが困難なわけですよ。年を感じました。でも、この(半)自作の感覚というのは、昭和の子供時代そのままですね。本当にいい気分転換になりました。
 そして、出来上がったのがこれというわけです。なかなかいい質感です。もちろんオール・プラスチックですから、それなりですが、それがまたトイらしさを醸していてうれしい。プラモデルの軽さ(重さ)というのも、あの頃の記憶そのものであります。
 実は35ミリフィルムを買っていないので、まだ撮影はしていません。フィルム買うのも実は久しぶりかもしれないなあ。売ってるのかなあ(笑)。白黒も試してみたいのですが、通販で買った方が早いのかもしれませんね。街の写真屋さんで売っているのかしら。
 大人の科学本体のムックの方に、撮影例がたくさん載っています。どれも私の望むような素晴らしい作品です。なんといいますかね、結局私が最近求めているのは、「モノ」なんですよ。不随意な存在。思い通りにならない写真。私は子供のころ、天体写真をかなり本格的にやってました(もちろん現像焼き付けまで)ので、そういう体験を人一倍しているわけですよ。その時の感覚ですね。辛いし、もどかしい、でも、うまく行った時の喜び、そして予想外の作品が出来上がった時の感動ですね。また、時間とのつきあいですね。いろいろ待たねばならない。そして、さっきも書いた1枚への思い入れ。気合い。魂。
 やっぱり子供にはそういうモノって大切ですね。最近のデジタル・チルドレンにはそういう体験が不足しすぎです。新しい中学ではぜひ、そういうアナログ体験をさせたいなあ…。
 作品例では、特に本城直季さんのミニチュア写真(実景をジオラマのように撮る写真)、面白っかたなあ。現実のおもちゃ化。ぜひともやってみたいですな。
 実際に撮影したら、デジタル化して(笑)紹介しますね。

ps うまく行ったら、もう1台買って、ステレオ写真ってのもいいかも!?

作品集 その1 その2

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2009.11.06

『アホは神の望み』 村上和雄 (サンマーク出版)

76319842 春開校する中学校の第1回説明会が無事終了しました。
 なんか、集まって下さった皆さんの前で話し始めたら、思わずこみあげてくるものがありまして、目頭を熱くしてしまいました。自分でもびっくりしてしまいました。
 多少(かなり)破格な説明会(プレゼンテーション)だったと思いますが、私のこの中学校にかける気持ちは皆さんに伝わったでしょうか。
 ちょうど、今日の朝、出口光さんから「心の感動は一時的だが、魂の感動は相手の行動に変化を起こす」という内容のメールをいただきました。はたして、私の言葉は皆さんの魂にまで届いたのでしょうか。
 いずれにせよ、こうして多くの皆さんにいらしていただいただけでも、本当に私は誰にともなく感謝したい気持ちでいっぱいです。
 そして、反省会ののち、帰宅しまして、私は思わずこの本を再び開き、そして結局全部読み直してしまいました。そうです、この本は、私にとってまさにバイブルなのです。
 そうでした、これも不思議なご縁で、この尊敬すべき村上先生とも、今年お会いすることができたんです。なぜか私は一つのテーブルに同席させていただき、直接ご挨拶することができました。さらに本当に素晴らしい講演をお聴きすることができたのです。それも出口光さんのおかげでした。
 その出口光さんとの出会いも、そして今日の説明会でもご紹介した論理エンジンの出口汪さんとの出会いも、本当に不思議なものです。なぜ、このタイミングでこうして貴重なご縁をいただけたのか、それこそ私は自らの天命を意識しないわけにはいかないのでした。明らかに偉大な何か=サムシング・グレートが働いているとしか思えません。
 私はこの本を、本当に皆さんに読んでいただきたい。いつもなら、私の勝手な言葉をいろいろ連ねるのですが、この上なく崇高な、しかしなぜか身近なこの本については、なぜか一言も語れません。バイブルだからです。私はこの本に、人間の、世の中の、そして天の理が完全に示されていると思っています。とにかくぜひお読み下さい。間違いなく私たちの魂に感動を呼び起こし、私たちの生き方を変えてくれるに違いありません。
 これはもう科学であるとか、宗教(天理教)であるとか、そんな私たちの、利口で賢いが、勝手で、しかしまた不自由な枠組みなどを大きくはみ出した、まさに「アホ」な次元での高尚な真理です。
 今日は、ただ単に、この本に現れる美しい言葉たちを羅列して終わろうと思います。それがまた、今日いらしてくれた方々への感謝の気持ちでありますし、自分へのねぎらいでもありますし、世界全てに対しての畏敬の念の表現でもあります。本当に「おかげさま」です。本当に「ありがたい」ことです。「もったいない」ことです。
 利口であるより愚直であれ。愚か者こそ幸せ者。くず。バカ正直。器の大きなバカ。でくのぼう。愚直。「愚か」という徳。無用のもの。まぐれ。鈍いけれど深い。偉い人ほどいぱらない。笑い。大愚。お人よし。セレンディピティー。無知の力。Stay hungry,stay foolish。楽観。楽天。軽さ。ひらがなの力。根拠のない自信。病気にも「ありがとう」。バカみたいな忍耐力。くさらない。おごらない。屈しない。遊び。息抜き。陽気。生きすぎない。信仰。プラシーボ効果。祈りの力。曲線的なジグザグ人生。深み。厚み。奥行き。豊かさ。利他。自分を後回し。地味な仕事をこつこつ。寄り道。理屈を超える思い。ホームランより振り逃げ。天の貯金。宇宙銀行。がんばらない、でも、あきらめない。サムシング・グレート。親神。ありがとう。
 

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2009.11.05

ラヴェル 『ラ・ヴァルス』 (グレン・グールド編曲)

part1

part2

 の前書いたように、今珍しくラヴェルを聴いています。おそろしく新鮮に聞こえます。一生かかっても聴き切れない音楽に囲まれて生活していることに幸福をおぼえます。人生は短く芸術は長し…ちょっと違うか。
 さて、今日は「ラ・ヴァルス」。すなわちラヴェル流ワルツであります。
 実はですねえ、「ラ・ヴァルス」と聞きますと、私はあちらを思いだしてしまうのですよ。実相寺昭雄先生の芸術的AVの方です。けっこう衝撃的でしたね、あれは。あれと「アリエッタ」、誰かに貸したら返ってこなくなっちゃった。両作品とも音楽が素晴らしいので、また観たい、あるいは聴きたいのになあ。DVDボックス買っちゃおうかなあ…と思ったら、なんと!プレミアついて5万円かよ!うわあ、買っときゃよかった。てか、返してよ〜。
 さて、それはいいとしてこちらの「ラ・ヴァルス」ですが、ちょっと珍しいわけですね。なにがって、本家というか本人ラヴェルがピアノ用に編曲したヴァージョンがあるのに、どういうわけかグールド自身が編曲しちゃってるんですよね。
 で、さっそくオリジナル(?)ヴァージョンとグールド・ヴァージョンを聴き比べましたが…正直、さっぱり違いが分かりません(笑)。どちらかというと、編曲なんて瑣末な問題より、やっぱりグールドの「音」があまりに個性的で、そっちに気がいってしまう。おそるべし、このタッチ。なんか音の粒子というか、分子というか、いや原子が違うような気がしますね。不思議です。人間じゃないんでしょうか。
 あっ、今気づいたけど、グールドと実相寺ってなんか似てますね。普通の人と同じメディアを操っているのに、なんでこう人と違う「何か」を生むのでしょう。謎です。
 この曲、1855年頃のオーストリアの宮廷を妄想しながら作ったとか。妄想と書いたのは、この曲が踊るための単なる舞曲ではなく、舞曲を巡る物語世界が表現されているように思えるからです。
 ある種、古き良き時代を懐かしみつつ、しかし、現実にはそれが壮大に崩れていく「現代」を予感させる点において、この表現は非常にオペラ的であるとも言えそうです。いや、オペラ的というよりも、映画的なのかもしれません。非常に現代的なわけです。
 管弦楽版で聴くよりも、こうしてグールドという天才の手によってある種の「マイナス作業」を施された音楽を聴く方が面白いとも言えます。何か、物語のプロットを露骨に見せられているようにも感じられ、ちょっとした恐怖すら抱きたくなりますね。
 こうして見て、聴いて、考えていきますと、「現代」というのは、よりリアルな物語を作る方向に進んでいったのだということに気づきます。音楽もどんどん多様化し、協和音というフィクションから離れて、どんどん混沌というリアルに近づいていく。ただ、ラヴェルは最後の懐古主義者だった。だから、絶妙な「時代感」…それは「今」という点という意味ではなく、なにか帯状に連なった、そう小林秀雄の飴のように延びた時間みたいなものを感じさせる音楽なのです。
 その本性というか正体をこうしてグールドというもう一人の天才が暴いて見せているのは実に面白い現象であります。

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2009.11.04

『音・ことば・人間』 武満徹・川田順造 (岩波書店)

往復書簡(同時代ライブラリー)
20081120_450154 ヴィ・ストロースが亡くなったとのこと。100歳。やはり長生きするだけあって善人であったにちがいありません。
 レヴィ・ストロース…私自身、フランスの現代思想に冷ややかな嫌悪感(それはすなわち嫉妬でもある)を持っているためか、この前ちょっと名前が出たヴィトゲンシュタインと同様、正直よくわからない存在の一人です。やっぱり名前からして仲良くなれない気がする(Levi-Strauss…アメリカではジーンズ屋と間違われたとか)。
 ヨーロッパの言語で書かれたものを原語で読むなんて芸当はハナからあきらめている私は、言語ゲーム(彼らの使っている意味とは違いますよ)をしているようにしか思えない構造主義者たちの文章の日本語訳…それたいていジャパニーズ・ポスト・モダンなファッションを身にまとっているわけですが…を読むはめになります。いまだに大学入試(センター試験を含む)でそういう時代錯誤な文章が出題され続けているからです。
 私がヒマだったら、ソーカルがやったように、日本語でそれらしい論文でも書いてみたいものです。ま、そんなヒマはありませんし、それをやるんだったら、最近発見された「巣守」みたいに、源氏物語の真似でもした方がずっと自分にとっては有益ですね。
 さて、そんなこんなであまり好かない日本版構造主義なんですけれど、そういう時代の息吹を思いっきり浴びて、しかし、より日本的なるもの、日本語的なるもので、それら西洋の化け物を退治してしまった名著がこれです。
 川田順造さんは、直接レヴィ・ストロースに師事した文化人類学者さんですね。武満徹さんについては、もうこのブログでも何度も語ってきましたから、説明は加えません。
 この本は、往復書簡集です。それが良かったのでしょうね。日本語が死なないで躍動している。結果として、そこには立派な日本音楽が立ち上がり、その時代の空気を含みつつ、それまでの日本の重ねてきた時間や、現代の(すなわち未来の)時間までを、しっかり含んでいます。結果としてものすごく非西洋的な匂いになっていて、私は好きなんです。
 二人の濃厚なセッション、インタープレイが、現在絶版であるというのは、実にもったいない。こういう文章を若者にぜひ読んでいただきたいですね。
 内容的には、音楽論、言語論、そして「モノ・コト論」と、それこそ私のために書かれたのではないかと思うほど(笑)興味深い。正直、私には理解不能な会話もありますが、それでもそこにある種の気品というものが漂っていて、決して本家に対するような不快感はありません。まさに源氏物語を読んでいるような幸福な不可解感があるんです。
 正直言いますと、セッションという意味では、明らかに川田順造さんの方が不利です。大家相手に本当によく頑張っていると思いますがね。まあ、相手って武満徹さんですから。
 私、昔からこういう往復書簡のようなものに大変憧れを持っていました。やはり一人で何かを書くよりも、ずっと音楽的な(あるいはプロレス的な、あるいは性的な)感じがするからでしょう。互いが刺激し合って、どんどん新しい自分が生まれていく。高みに上っていく。そういう他力的な文章、自家中毒(オタク的、構造主義的)にならない健全な文章っていいですね。
 インターネットのおかげで、そういうこともやりやすくなったと思うんですが、いかがなものでしょう。

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2009.11.03

バロック vs プロレス

1_2 の中では、両者はほとんど同じものでして、全然矛盾していません。だから正確には「vs」じゃないか。今日はまさにそういう日でした。
 今日は、まずは横浜の開港記念会館にてカメラータ・ムジカーレのコンサートに出演いたしました。今回で49回目の定期演奏会。超長寿団体であります。私は今回はバッハ親子、そしてヴィヴァルディを演奏。ここのところ忙しくなかなか練習の時間が取れなかったのですが、まあ、そこは経験でなんとか乗り切りました…かな?
 ま、私もなんだかんだヴァイオリン歴30年ですからね。ずいぶんと長く続けてきたものです。そして、長く続ければそれなりになるものです。仕事もそうですし、結局人生もそう。つまり、日々我々は熟達していくわけで、やっぱり年月を重ねること、歳をとることは素晴らしいことであり、なにも憂えることはありませんよね。アンチ・エイジングの意味が分かりませんな。
 さて、49と言えばですね、今年アントニオ猪木さんがデビュー49年です。今日、その猪木さんの率いるIGFのプロレス興行「GENOME10」が水道橋のJCBホールで行われました。
 実はですね、カミさんと娘たちはですね、一生懸命ガチ&アドリブでリングに…いやいや舞台に上がっている私の所へは来ず、なななんと、そっちに行っていたんですよ。ま、私も自分の試合…いやいや演奏会がなければ、当然行ったわけですが。
 で、私は自分の興行…いやいや演奏会が終わってすぐに水道橋へ向かったんです。時間的には最後の3試合くらいは立ち見で観られるかなと思ったので。
 そうしたら、まあ水道橋周辺は妙に混んでいる。そりゃそうです。今日は日本シリーズが東京ドームで行われていたんですよね。ちょうど試合開始時間くらいに到着してしまったので、全然駐車場がない。
 結局JCBホールを目の前に眺めながら路駐して、家族の帰りを待つはめに。なんとも寂しい。すぐそこで熱い闘いが行われているに…。
 小一時間むなしく待って、我が家の女性軍3人と落ち合いました。3人とも大興奮です。いいなあ、いいなあ。
 いやあ、試合も興行も全体として非常に良かったようですが、ウチの3人はそれ以上に素晴らしい体験をしたようです。
 ウチは最近、妙にいろいろなプロレスラーの方々とご一緒させていただくことが多いんですよねえ。今年になってから突然です。それこそ、私もカミさんも、懲りず飽かずに30年40年プロレスファンを続けてきたんですよね。それがこういう形で急に実を結び始めている。そして、そんな両親に育てられている娘たちも、自然にそのゲノムを伝承している…(いいのかな?w)。
 まず試合前に、たまたまIGFリング・ゼネラル・マネージャーの宮戸優光さんとバッタリ会ったそうで、「ああ、どうもどうも」とご挨拶。それだけでも周囲のお客さんからすれば、なんなんだ?このおなごどもは?という感じでしょう。不思議なご縁ですよね。ありがたいことです。
 私も宮戸さんとは、ここのところ個人的にいろいろお話させてもらっていて、いろんな刺激をいただいたり、勉強をさせていただいたりしています。そう、最近の私の中学設立に関する一連の仕事もですね、団体立ち上げ、団体経営の経験豊富な宮戸さんから、たくさんのヒントやらやる気やらをいただいてここまで来たという感じなんですよ。来年4月旗揚げ戦って感じですから。まじで。
 それから試合後、まず2メートル25センチの巨神兵モンターニャ・シウバ選手にも会ったそうでして、娘たちはあの大きな手で握手してもらったそうです。リング上では生けるモノノケ、生けるナマハゲのような恐ろしさですけど、とってもとっても優しかったそうです。キラー・カーンさんがこの前言ってましたけど、「大きい人は優しい」というのは本当ですね。馬場さんとかもそうですし、だいたい動物も大きい方が穏やかです(笑)。いいなあ、娘たち。ちょっとうらやましい…。
 そして、そのあとですね、娘たちはさらに貴重な体験をしたようです。ジョシュ・バーネット選手を見つけた上の娘が、親譲りの突撃力を発揮したらしく、一人でダーッとジョシュのところへ駆けていったそうです。そして後から肩を叩いたと。やるな、娘。普通のファンは遠巻きに眺めるしかできないスーパースターですよね。
Photo_2 そして、試合前にジョシュのために買ってきたという、ウルトラマンの指人形5体(含ブースカ)の入った袋を手渡したらしい。その時は「アリガトウ」と言って行ってしまったのですが、そこはすかさずジョシュといちおう面識のあるカミさんがフォローを。得意の(?)英語で、「これは娘たちがあなたのために選んだウルトラマンの人形です」というようなことを言ったら、「オ〜!?」と言って、その場で袋を開けてくれたそうです。そして、ウルトラセブンを取り出して、「イイヨ〜!!」と言ってくれたとか。娘たちにとってこんなに嬉しいことはないでしょう。アリガトウ、ジョシュ。
 その後、家族みんなでアントニオ猪木酒場での打ち上げに参加する予定でした。しかし、私も一試合(?)終えたあとでしたし、子どもたちもかなり疲れていたので、泣く泣く帰途につくことにしました。こんな時は遠くに住んでいることが悔やまれたりします。
 私は帰宅後テレビで今日の試合を全て観ました。いやあ、素晴らしい興行でしたね。正直今までで一番良かった。プロレスの原点を垣間見たような気がしました。
 大男同士の肉体的なぶつかり合い。特に若い選手に顕著だった気持ちのぶつかり合い。一撃必殺の技の迫力。決して派手ではないけれども見どころ満載のインサイドワーク。お客さんとの一体感。レジェンドたちはお客さんが期待する「定番技」を全て見せ、猪木さんはじめユーモアも忘れない。こういう多彩な空間こそプロレスの醍醐味です。もちろん、試合後の選手とファンの交流も。
 ううむ、いろいろ印象に残る試合がありましたが、今回はワタクシ的にはタカ・クノウ選手が良かったかなあ。高校生同士のデビュー戦対決にも心から感動しましたし(内容はまだまだなのは当然ですが)、応援する鈴木秀樹選手の初勝利も純粋に喜びたいと思います。負けたけれども高山善廣選手の強さを再確認しましたし、澤田敦士選手も見直しましたよ。気持ちが前に出る選手はいいですね。すなわち声が出るということです。
 でも、やっぱりジョシュの強さが一番光ってたかなあ。やっぱりすごい男です。そんな男にウルトラマンの指人形あげちゃうウチの娘って…笑。
 ちなみに上の写真は、パンフレットと3枚の闘魂タオルとウチに残った指人形3体です。バルタン星人、ガッツ星人、シーボーズ(?)です。
 おっと考えてみると、ウルトラマングッズは高山選手にあげた方が良かったんじゃないかな。いや、もう持ってるか(笑)。

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2009.11.02

USB2.0コンボドライブ(3ポートハブ+8in1カードリーダー)

Img43290684 ういっちょ手抜き記事。でも、案外こういう方が読者にとっては有用だったりします。
 最近買ったもの。USBハブとカードリーダーが一つになってます…って、どっかで聞いたこと、いや読んだことあるような。そうです、7月にPhotoFast CR-8000 Airを買って紹介したんですよね。なのに、なんでまた同じようなものを…とお思いでしょう。
 あれはあれで重宝してたのですが、一つ欠点がありました。それは外部電源、すなわちACアダプターに対応していなかったのです。ですから、バスパワーのみ。それが時々不便に感じられました。
 最近のマウスとか、光学式じゃないですか。あれって案外電気が必要なんですよね。今使っているマウスですと、Airにつなぐと電圧不足で機能しないんですよ。で、結局マウスは本体に直接接続しなくちゃならない。
 あと、ポータブルの外付けハードディスクもつないだりしますから、なんだかんだしょっちゅう電力不足の事態に陥っていたわけです。
 う〜む、その辺なんとかならんかなあ…と思っていたら、最近になってACアダプターから電源を供給できる(ように見える)製品を見つけたので、試しに買ってみたというわけです。
 電源に関する記述は全くないし、それ以前にどこのなんという製品かすら分からない。ただ、写真を見てですね、とりあえずUSBハブが三つあって、メモリーカードも8種類使えて、それで、どうもACアダプター用と思われるプラグ穴があり、さらに上面のなんとも言えないセンスのデザイン画の中に小さく「power」という文字があることだけを頼りに、注文してしまいました。
 結果は…正解でした(笑)。まあ、送料込みで1010円かなんぼでしたから、不正解でもいいと思っていましたが。
 ウチに大量にころがっているACアダプター(なんでACアダプターってどんどん増殖するんでしょうねえ)のうち一番小さいのが、うまいこと使えたようでちゃんと機能しています。これでいろいろな面倒は解消しましたから、めでたしめでたしと。
 しっかし、なんともアヤシイ製品ですね。でも、相変わらずこうしたUSBハブとカードリーダーの合体した製品ってあんまりないので、これは案外貴重なものかもしれません。安いし。
 これは皆さんも一つお持ちなっているとよいかと思いますよ。
 ついでですから、増殖するACアダプターに関する話を一つ。私の予想では10年後くらいには、家庭内からACアダプターが消えると思っています。発電所から家庭(や事業所)へ電気を運ぶのは交流(AC)の方が何かと便利です。それが現在ではコンセントのところまでそのまま交流で着ているわけですね。それをACアダプター(AC/DCアダプター)で直流に変換していろいろな家電などを動かしています。それを、各家庭などで一ヶ所でまとめて変換して、コンセントのところではすでに直流で供給するようにするのです。当然そういう発想はあってもいいと思います。
 そうすると、あの(この)大量に増殖して、案外かさばり絡み合うアダプターが必要なくなるわけですからね。まあ、変圧をどうするかとか、プラグの形状をどうするかとか、過渡期をどう乗り切るかとか、いろいろ問題はありますが。
 ちなみに家庭用太陽光発電は直流ですから、そういった意味でも、これからはDCの時代になるのかもしれません。

USB2.0コンボドライブ 3ポートハブ+8in1カードリーダー

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2009.11.01

段ボール製ノートパソコン台

20091102_111159 すます忙しいので、手抜き記事です。左の写真は、今の私の仕事机です。MacBookがおしゃれな台の上にありますでしょ。同僚にすすめられて、こうしてノートパソコンを目の高さまで持ってきたら、たしかに肩凝りが減りました。姿勢もよくなり、疲れません。
 もともと、私って親指シフターじゃないですか。ですから、こうして、今までどおり富士通製の親指シフトキーボードを使いますからね、基本MacBookのキーボードは叩かないんですよ。だからこういうことができます。
 ちなみにおしゃれな茶色の台ですが、これは段ボール箱です(笑)。河合塾の模試が入っていた箱を拾ってきてポンと置いただけです。
 いや、置いただけではないぞよ。ご覧のとおり、手前をハサミでジョキジョキ切って、キーボードを収納できるようにしてあるんです。かっこいいでしょ。実際、手元のスペースがさっと空きますから便利です。
 生徒は半分バカにしてますけど、この手作り感というかなんというか、段ボールの温かさというか、質感というか、これって本気で人にも地球にも優しいグローバル・デザイン、いやユニバーサル・デザインですよ。
 最初は数千円するガラス製の台を買おうかと思ってたんですけどね、こっちの方が断然いい。疲れません、このデザインと質感は。タダだし。
 いや、まじで温かいんですよ。MacBookが持つ熱が、この空間にたまります。これからの季節、指先が冷たくなったら、ここに手を突っ込めばよろしい。
 というか、この大きさとか段ボール的質感とか温かさがですね、なんとも妙な妄想をかきたてるんですよねえ…笑。
 さて、どんな妄想でしょう…。
 そう、この空間にですねえ、猫を入れたいのです。というか、たぶん猫だったら自然に入りますよ。この絶妙な空間、絶妙な温かさ、段ボールのやさしさ…私が猫だったら絶対ここを住み処にします。
 で、実際入れたことはないんですけどね、ここに猫ちゃんが入ってたら、ますます指先を温めるのが楽しみになりますよねえ…。なでなでしながらコーヒーなどいただ…うむ、極楽であるぞ(笑)。
 ま、そんなことしてたら仕事になりませんから、妄想だけにとどめておきます。
 全国のノートパソコンでお仕事をされている方々!ぜひこのような台を手作りされますよう。仕事の能率アップ間違いなしです、ハイ。今日はこれまで。さっさと仕事します。

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