二つの道
↓今日はこの周辺をちょこまか動き回りました。
数日前、いよいよ準備をしてきた中学校の開校認可が下りました。ニュースでも紹介されました。こちらです。
ここまでも大変でしたが、これから募集、入試、開校準備、そして実際のスタートということで、もっと忙しくなっていくでしょう。さすがに学校一つ作るのは大変です(当たり前か)。
しかし、忙しいということはいいことです。単純に充実しているということですし、また、自分の能力を伸ばすチャンスですし、人さまの力を借りるチャンスですから。
また、多くの人たちと出会えるというのも楽しみの一つですね。今日も、地域の小中学校の校長先生や教育委員会にご挨拶にうかがいました。明日もあさってもです。
まさに自分の裾野が広がっていく感じがします。
そんなわけで、大変に忙しいので、今日は昔自分が書いた文章を紹介させていただきます。裾野の話です。
実はこの文章を使って「模擬入試問題」を作りました。自分の文章で問題を作るわけです。それにはいくつか理由があります。
まず、最近、入試問題に対する著作権が激しく主張されるようになって(まあ間違ってはいないと思いますが、異論も多いのも事実です)、他人様の名文を使うのが非常に難しくなっているというのがあります。
それから、小学6年生用の文章を探すのが非常に難しいということ。大学入試ならそのへんにある大人用の文をそのまま使えますが、高校入試用となるともう難しくなります。ましてや中学入試用となると…。
それなら自分で書いてしまえと。これなら著作権は自分にあって、そしてそれを放棄するのも簡単ですし、中学入試用に難易度を調整することも可能、さらに出したい問題(たとえば漢字や慣用句)を自由に挿入できるというメリットもあります。
それに自分の文なら、答が確実に分かります。よくあるんですよ。引用された本文の筆者でも解けない問題。国語ってそういう教科なんです。
考えてみると、なんで皆さんこういうことをしてこなかったのでしょうかね。他人様の文で問題作るのってとっても難しいんですけどね。
もちろん、問題点があるのも分かりますよ。客観性がなくなりますよね。本来他人様の文を読解する力を問うべきなのに、自分の文の場合は読解なんかありえませんから(笑)。
ま、それでも今回は「模擬問題」なので、これでいいでしょう。本番はどうするか考え中です。
というわけで、昔、卒業していく生徒に向けて書いた文章を紹介します。これは原典版です。これに手を加えて問題を作りました。では、どうぞ…なんて、仕事も手抜きですが、ブログの手抜きですな(笑)。
二つの道
富士山というのは実に偉大で壮麗である。
こんなことは当たり前で、これを否定して太宰治も苦しんだりした。では、なぜ偉大で壮麗なのかというと、これが案外難しい。人は、日本で一番高いとか、あの形が実に芸術的だとか言う。そう、太宰でさえも大親分のようにどっしりしていて偉いなんて、結局当たり前の結論に至って、富士山に降参している。
私はもともと富士山にライバル意識なんて持っていない。富士山のおかげで今ここに住んで、こうして生きているのだから、最初から降参である。
しかし、私も太宰のように思わず悩む時がある。神様がなんで偉いのかなんて考えても仕方ないが、つい私も、富士山はなんでこんなにすごいのかと、そのふところに抱かれながらぼんやり考えてしまう。
今日もぼんやり、こんなことを考えた。
富士山。ものすごく高くて立派な山がここにある。
どこまでが富士山かさえよく分からない。すそ野がだだっ広い。そう、この山は高い上にすそ野がだだっ広い。いや、すそ野がだだっ広いから高いのだ。すそ野がだだっ広いからこそ高くなったのだ。きっとそうに違いない。
また、こうとも言えるかもしれない。富士山は、すそ野がだだっ広いから高いのではなく、高いからこそすそ野がだだっ広いのだ。そんな気もする。
北斎が描いた富士は大して偉く見えない。なんか背伸びをしているようで、ちょっと嘘っぽい感じがするのだ。
神様を崇める、神様を尊敬するというのは、「あんな風になりたいなあ」と思うということである。とうてい追いつけないが、人生の最終目標としていつもそこにあるということである。
ああ、本物の富士山のように生きたい…。
結局太宰と同じ感慨にぼんやりふけるのであった。
すそ野がだだっ広い、ということと、ものすごく高いということは、実は同じ意味であると、今知った。そして、富士山のように生きたければ二つの道があることも知った。
一つはすそ野を広げることである。そこには結果として高い頂を築くことができるであろう。いま一つはまず頂を築こうとすることである。それを実現するにはだだっ広いすそ野が必要だと気づくであろう。
つまり、若いうちに色々なものに目を向け、貪欲に基盤を作る方法と、若いうちに一つのことに集中し、それを貫く方法、この相反する二つの道があるわけだ。
そのどちらが正しいかなど考える必要はない。そのどちらも正しいに決まっているからである。
前者については、ルネサンスの天才や江戸の才人たちを例に引くまでもない。映画監督北野武を見れば分かる。
同じく私の敬愛する映画監督小津安二郎は、後者の証人である。「おれは豆腐屋だから豆腐しか作れない」と言って、彼は同じような調子の映画を撮りつづけた。しかし、OZUが今世界で、KUROSAWAと並んで映画界の神様として崇められていることは周知のことである。
勉強が全体にわたってそこそこできるというのも悪くない。きっと君は今すそ野を広げている最中なのだ。これからもっともっと色々なことに興味を抱き、色々なことに挑戦するといい。
また、勉強が出来なくて学校では怒られっぱなしというのもいいではないか。学校の勉強なんてだだっ広い人生のほんの一部にすぎないのである。何か違うことで、人をびっくりさせたり、人のためになればいいじゃないか。
いずれにせよ、長い人生のなかでゆっくり、高くてすそ野の広い山を築けばいい。富士山だって今の姿になるまで、十万年もかかっている。
じゃあ、自分は…? どうも前者の道を選んだようだ。その途中でちょっとズルいことをした。富士山に住んでしまったのである。少しでも神に近づきたいと思ってのことらしいが、ずいぶんと子どもじみた発想をしたものである。
どこにいようと、結局は自分の生き方次第なのだ。ズルいことをして、よけいにそれを思い知らされた。いや、毎日それを実感させてもらえるのだから、やっぱり間違いではなかったのか。
今日も目の前に富士山がある。そして、富士山への道は遙か遠い。
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コメント
前略 薀恥庵御亭主 様
拝読させていただきました。
とても有り難い「名文」だと
感じ入りました。
新しく誕生なされる・・・
「富士学苑中学校」様
愚僧も入学したい気分です。笑
愚僧が「洟垂れ小僧」の時分・・・
「うぅぅぅん。ねぇぇぇ。あのくさ・・・
あの 宇宙くさね・・・
だれが作っとっちゃろうかねぇぇぇ。
そしてくさ。壁はどうしとっちゃろか?」
「父ちゃん・・・だれが
作っとうと・・・ねぇぇぇ・・・
なんで こげな ふといとば・・・
作りきったっちゃろうか?
だれが・・・こしらえとうと・・・」
親父にいつも尋ねておりました。笑
それから40年の歳月。
愚僧の穴論×欠論× 「結論」。
「自分の肉体」も「食べた御飯」も
「自分の脳」 もすべて「宇宙」ですね。
「自分」を見つめるということは・・・
ある種の「天体観測」です。笑
自分自身の小さな細胞も・・・
無限の天空も・・・すべて「同じ」。
まぁぁぁ・・・ささいな事は・・・
気にしないようになりました。笑
妻と眺めた「オリオン座流星群」・・・
とても綺麗でした。
いつか「富士山の麓」で星空を眺めたい
ものです。
合唱おじさん 拝
投稿: 合唱おじさん | 2009.10.22 10:26
合唱おじさん様、こんにちは。
コメントにも感動いたしました。
自分を見つめるのは「天体観測」ですか…なるほど。
なんか妙にしっくり来ました。
ぜひ、一度富士山で天体観測をいたしましょう。
お待ちしております。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.10.23 17:11