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2009.09.27

さまざまなスポーツ(?)に思う。

B_02395422 日は、私自身は音楽を中心とした生活をいたしましたが、傍観者としましてはスポーツに見るべき試合が多くありまして、それなりに感動したり、興奮したり、しみじみと感じ入ったりしました。
 まず、直接応援には行けなかったのですが、我が校の野球部が秋季大会の準々決勝で、宿敵に延長サヨナラ勝ちをおさめました。夏は期待されていながら初戦で苦汁をなめることになってしまいました。しかし、生徒たちのここ何年かの精神的な成長は著しく、今回も終盤に追いついて延長に持ち込み、そしてサヨナラ勝ちするという、粘りを見せてくれました。あと一つ勝てばとりあえず関東大会に出られます。春の関東では大活躍したので、またまた期待できますね。頑張れ、選手諸君!
 続いて大相撲。本割りでの白鵬の驚異的な集中力、優勝決定戦での朝青龍のこれまた驚異的な集中力、うむ、これはたしかに「心の戦い」でした。まあ、国技でありながら、決定戦も含めて最後の三番に日本人が一人もいないというのは、実に哀しいことではありましたが(苦笑)。そして、このガッツポーズはどうなんでしょう。
20090928016 そして、今日はですね、三沢光晴さんの追悼興行が日本武道館であったんです。本当は行きたかったのですが、ちょっと別の用事がありまして行けませんでした。
 最近、三沢さん特集の雑誌なども買いました。しかし、どうにも辛くて読めないんですよ。試合のビデオなんかも見れない。ほかのプロレスの試合はたくさん見ていますけれど、どうも三沢さんの試合は見れないんです。
 そう言えば、オートレースで落車死亡事故がありましたね。残念です。スポーツには危険がつきものであり、ある意味、そういうギリギリのところでの勝負、すなわち我々常人が立ち入れない超人的な領域での戦いこそが、スポーツの原点であるとも言えます。そこも実に難しい問題です。
 私は三沢さんの死は、F1でのアイルトン・セナ選手の死亡事故と近い関係にあると感じています。難しいですね。そして、悲しいことです。
 夜は、三沢さんなきあとのノアの試合をテレビで見ました。昨日の結婚式にも本当なら出席する予定だった青木篤志選手のKENTA選手とのタイトルマッチでした。21日に名古屋で行われた試合です。非常にいい内容だったのですが、どうもお客さんの入りや盛り上がりがイマイチだったような気がします。ちょっと心配になりました。
 そして、再びONの番組。今だからこそ語られるドラマ。スポーツとドラマの関係とはいったいなんなのでしょう。
 いずれにしても、こういうスポーツやスポーツ・ドキュメンタリーを見ますと、本当に心が燃えますね。こういう心境はいったいなんなんだろうと、最近よく考えます。
 そうなんです。この季節になりますと、毎年「スポーツとは何か」を考えるんです。なんでか。それは「スポーツ」にいそしんできた生徒たちの推薦入試などが大量にあるからです。
 まず、彼らにはこちら「スポーツとは何か」を読ませます。この本、スポーツ少年・少女には実に勉強になり、よい刺激になる本です。自分たちがやってきたことの「異質性」について知る機会になり、おそらくほとんど初めてスポーツをする自分を客観視するきっかけになるでしょうから。
 さて、そんな、実はへんちくりんなところの多い「スポーツ」という世界。どこからどこまでがスポーツかという、そういう定義だけでもとっても大変なのです。
 たとえば、今日ネタにしようとしている、「大相撲」、「プロレス」、「高校野球」。これらははたして純粋なスポーツと言えるのでしょうか。難しいでよすね。
 「大相撲」や「プロレス」はスポーツというよりも興行という面が強く、ある種の「八百長」…この言葉は大嫌いですが…が必要となります。そのあたりについては、今までずいぶんと語ってきたので、ここでは繰り返しません。
 「野球」の特殊性についても何度か書いていますね。そうそう、さっきの「スポーツとは何か」の記事にも書きました。
 特に日本には古来の「武道」などがありますからね。それらとスポーツとの関係というのも実に難しいのです。ちなみに、昨日一緒に盛り上がらさせていただいたアマチュア・レスリングの世界、これはいわゆる「武道」の世界とは全然違うと思いました。ノリが違う。精神性が違う。
 いや、いいとか悪いとかじゃありませよ。性質が違うと思ったのです。ですから、世界の柔道、いや「JUDO」にレスリングのテクニックがどんどん侵入してきているのは、これはやはり憂慮すべき事態ですよ。
 「sport」という語の語源を考えると、実はいろいろな側面があっていいということになるんです。しかし、この前の教育の話じゃありませんが、それらを全部ごっちゃにして論じてしまう難しさがあると思うんですね。
 生徒たちにはまず、そのへんについての認識を改めてもらっています。
 「闘争本能の昇華」としてのスポーツ、「体力増進・健康維持」のためのスポーツ、「教育」としてのスポーツ、「商業」としてのスポーツ、「精神修養」としてのスポーツ、「ゲーム」としてのスポーツ、「ナショナリズムの手段」としてのスポーツ、「神事」としてのスポーツ…もっともっといろいろな側面があります。私のように、ほとんど自分ではプレーせず、観戦するという立場からの「エンターテインメント」としてのスポーツもあります。
 それらをごっちゃに語らないで、それぞれの功罪や意義、問題点を個別に語っていかないといけませんね。そうじゃないと、それこそつまらぬ「八百長論争」みたいな「喧嘩上等」なことになってしまいますから。

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