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2009.09.30

美人時計

 日の「アゲアゲ系」な女性の話に対しまして、けっこうこっちは落ち着いてるんじゃないでしょうかね。比較的地味な感じです。いや、男性諸氏としては「アガる」時計なのかもしれません。心静かに燃える…いや萌える。好みの女性が出てくると密かに仕事のやる気がアガるとかね(笑)。
 もう半年くらい前から評判だったこの時計。今回初めてiGoogleに導入してみました。
 いやいや、これで男を上げようというわけではありませよ。実は知り合いの女の子がこの時計モデルとして撮影されたと言ってきたので、じゃあ見てやろうと。
 で、その担当時間(?)というのが、ちょっと微妙な時刻でして、いちおう頑張って見ていたんですが、全然違う女の子が出てきました。ボツになったのかな。それともだまされたのか。いや、実際のところ、かなり多くのヴァージョンがあるようなので、いつかふと現れるんでしょう。
 うん、これってたしかにいいアイデアですね。「1440枚の美女達!!あなたは1分間の恋をする」。
 昨日書くのを忘れましたけど、人間が心からアゲアゲになるのは、実は「恋愛」と「宗教」と「戦争」しかありません。ご存知でしたか?
 今、たしかにそれらが不足してるんですよ。もちろん「戦争」が不足することは悪いことではありませんし、やたらな「宗教」が流行らないのもまあいいことです。しかし、なんで「恋愛」が不足してるんでしょうかね。
 やっぱり、ヒトという種が増えすぎて生殖のエネルギーが減退してるんでしょうかね。たぶん、そうなんでしょう。
 昨日も書いたとおり、とにかく受け身で刹那的なんですよ、アゲアゲが。私の得意の言い方ですと、つまり、「いとをかし」=「超萌え」的な感情ばかりで、熱しやすく冷めやすい。不本意や不随意である「もののあはれ」なんて感じることはあんまりありません。我慢したり、待ったり、長い目で見たり、自ら切り拓いたりするのが苦手。
 リアルな「恋愛」ってものすごく辛いものじゃないですか。特に「片思い」とか「物思い」の時期は。それが今ほとんどないんですよ。高校生見ててても、ホントそう感じます。すぐに結果を求める。で、ダメなら次みたいな。
 それ以前に、リアル恋愛ができない女の子が非常に増えています。男より女の方がそういう傾向が強いって感じがするな。女がそんな具合だから男があきらめてる雰囲気がある。今の学校には、私の高校時代のような、ああいう甘酸っぱくほろ苦い雰囲気はほとんどありませんよ。
 女子はある意味みんな腐女子化しています。狭義の腐女子、すなわちBL的方向に逃げてしまう女の子もかなりいますし、広義の腐女子、ジャニヲタみたいなミーハーな仮想世界萌え方向に行っちゃうギャルも多い。
 一方で、リアルな男関係を好むやつらは、ある意味肉食系でして、それはそれで「恋愛」と言えるものなのか、ちょっと微妙です。ま、それは昔からある世界ですけど。
 で、男ですけど、さっき書いたように、ちょっと諦めちゃってる部分もあります。しかし、男は今も昔も実はとってもセンチメンタルな存在なので、リアル恋愛願望はちゃんとあるんですよね。でも、それをあまりおおっぴらにしちゃうと、リアル恋愛嫌いな女子に引かれてしまう。だから、しかたない、ひそかに恋愛するしかないわけです。
 それって、例えば私みたいな既婚者には、昔からあったことです。結婚すると、恋愛はルール違反ということになりますから。場合によっては万死に値する場合もあるので(笑)、これは慎重にことを運ばねばならない。そういうオジサマ方にも、この「美人時計」は有用でありましょう。
 いちおう「時計」という「まじめな」機能を持っていますから、身近に携帯したり設置したりしても、なんとなく許されるような気がします。単なる美少女写真集がデスクの上にあるのとは意味が違います(違わないか…笑)。
 好みの女性が出てくるまで、ずっと見つめていると、これはたしかに仕事にならないでしょう。でも、たぶん男たちはそんな使い方はせず、ふと見た刹那の偶然の出会いを期待しているんでしょうね。そして、1分後の別れ…(実際は何分間か同じ女性が続きますが)。
 私の「もののあはれ」論に時間論は欠かせません。時間こそが最も不随意な「モノ」であり、また、無常を生み出す根源的存在です。そしてまた、具体的な生活の中で、最も多くのモノ性を帯びた事象が「恋愛」であります。その両者をうまく組み合わせ、我々人間にとっての「刹那」の意味、その充実とはかなさを表現したこの「美人時計」は、なかなかの傑作であると思います。
 ああそうそう、これは女子にとっても無用なものではないようです。都会のリアルクローズの勉強になるとか。なるほどね。
 今後、「美少年」とか「美猫」とか、そういう「萌え」対象への展開が予想されますかね。世界版もいいでしょうし、もう少しエロスを強調したものとか、それこそ「アゲアゲ」なギャル系とか、いくらでも細分化できるでしょう。しかし、あくまで、それらにおける登場人物(猫)は、モデルとかではなくて、日常的なシロウトさんがいいでしょう。その方がよりリアルだからです。

美人時計公式

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2009.09.29

「アゲる」or「アガる」?

↓アゲアゲ
P1 々の雨でテンション下ります。いろいろ忙しいし、自分は歳とともに体力・気力が減退しているにもかかわらず、相手は常に高校生だし、けっこう無理矢理テンション上げていかないと大変です。疲れます。
 したがって、家に帰ると非常に物静かになります。家では、小学生の娘たちはもちろん、天然アゲアゲ系のカミさんも疲れを知らずいつでもハイテンションなんですが、さすがに私は帰ったら、調律ピッチをガクンと下げます。ヴァイオリンの弦を緩めてケースにしまうようなものです。そうしないとプチンと切れちゃう。
 そうしてリラックスしているうちに、私の静寂の時を破る招かれざる客が…。マンション経営の勧誘電話です。俄然テンションが上がる私。
 先方には申し訳ないのですが、私にとっての最高のストレス解消になります。今日の餌食の青年も可哀そうでした。なんかとっても面白いらしく、カミさんもわざわざ私が電話しているところに来て、笑いをこらえながら会話を聞いていました。ああ、面白かった。
 で、電話が終わるとまた虚しい時間がやってきます。もう一件かかってこないかなあ…。
 なんて、何やってるんだろ…。リラックスしたかったんじゃないのか?
 そう、それが今日の記事のテーマです。
 皆さんはどう思いますか?テンションが高い時、あるいはテンションを上げている時の自分と、低い時、あるいは下げている時の自分と、どちらが好きですか?どちらが本来の自分だと思いますか?
 最近生徒たちを見ていまして、とにかくテンションが高くないと楽しくないという奴らが多いことに気づきます。まあ、それは青春時代の特徴でしょう。若さとはそういうお祭り気分のことですから。
 しかし、なんて言いますかねえ、そのハイテンションっていうのがとっても受動的なんですよ。自分で何かを見つけて何かに燃える(萌える)っていうより、たとえばある種の音楽を聴いて気分を上げるとか、超笑えるお笑い番組を観て盛り上がるとか、そういう感じなんですよね。
 だから、そういうものを提供しないと、すぐに「つまんない。もっと面白いことしようよ」ということになる。だから、フツーの授業なんて奴らにとっては本当に「サゲサゲ」なわけです。
 で、どうも最近の子どもや若者はそういう「サゲサゲ」な状態を我慢する力に欠けていると感じるんですね。常に面白いこと、楽しいことが提供されていないと、とにかく不幸で不機嫌になる。小学生の英語教室をやっているカミさんも、しょっちゅうそういうこと言ってます。子どもたちが、すぐ「つまんねえ〜」って言うと。
 やっぱり、そういう常に楽しい環境というのも与えすぎたんですかね。学校の授業も楽しいのが一番という風潮があります。いや、楽しいのはいいんですよ。でも、その楽しさの質というのは、ゲームやバラエティー番組の楽しさとは違うはずですよね。でも、今の子どもたちは、常にそういうものを大人に、社会に期待しているような気がします。
 一方、あんまりアガってないように見えるオタクな生徒たちですが、実は彼ら彼女らも仲間内では異常にテンションが高くなっています。隠れてそういう場を作っています。そして、その様子をギャルに目撃されて、「キモい」と言われます(笑)。
 ま、それはいいとして、つまり、みんな「テンション(気分)を上げるもの」を外に求めるわけです。ですから、当然それは商売になります。金で「テンション」を買うわけですね。中にはのりピーのように、薬物を買う大人まで現れます。
20090930_92628 で、10年ほど前から、クラブで使われるようになった「アゲアゲ」という言葉に象徴されるように、以前は「アゲる」という他動詞が商品になっていましたが、どうも最近、「アガる」という自動詞が増えていたような気がするんですね。「アガるコスメ」とか「アガるアクセサリー」とか、やっぱり女性向けの商品が多い。
 これってちょっと面白い現象だと思いました。他者のおかげで「気分」や「テンション」や「女子度」や「運気」や「バスト」や「目尻」が「上がる」わけですから、事実としては「受動」なんですけどね、いちおう自動詞の「アガる」を使うと、多少能動的な雰囲気がしてきます。つまり、「アゲる」ために何かを購入するという目的的行為ではなく、それを購入して身につけたり受容したりすると、自分自身の何かが変化して、内側から上がっていくような感じがします。
 たぶん、「アゲてもらう」ことに空しさを感じ始めたのだと思います。無理矢理「アゲる」とサガった時空しいですからね。のりピーもその空しさに堪えられなかったのでしょう。
 だからって、自動詞の「アガる」を使っても、実際には何も変わりません。いや、それ以上に危険であるとも言えます。自動詞というのは、実は能動的であるというより「自律的」であることを表します。自然に、無意識的に現象することを表すんですね。
 たとえば、「運気を上げる」と言うと、それなりに「私」の意志が感じられますが、「運気が上がる」というと、運気自身が自律的に上がるという感じで、実は「私」の意志とは無関係、すなわち「私」にとっては他律的であるという、妙なことになるんです。
 開運グッズを身に着けると勝手に「運気が上がる」というやつですよ。ちょっとあやしい宗教じみたことになってくる。
 すなわち、音楽にせよ、ファッションにせよ、アクセサリーにせよ、化粧品にせよ、どんどん自らの意志が希薄になっていく。「アゲる」よりも「アガる」方が、より無意識化が進むというパラドックスが起きているわけです。空しさから逃げるために施した策が、さらなる空しさを生む。
 ま、こんなことを考えて勝手に盛り上がっているワタクシというのも、かなり空しい存在ではありますが、しかし、世の中の、特に若い女性の心理をこうして眺めてみますと、それなりに面白いことが分かってきますし、自らの反省にもつながります。
 なんて話を、天然アゲアゲ系のカミさんにしましたら、「オバサンたちは常にテンション高いよ〜!なにしろ子どもに負けないようにしなくちゃいけないからね〜!」とのこと(笑)。
 そうか。理屈抜きにそういうことか。それが健全な状態だな。子どもは金で買えないもんな。じゃあ、のりピーはいったいどうしちゃったんだろう…。
 とにかく、「ステージでアガる」と言ったら、昔なら緊張することを言いましたが、今では「ステージで気分が高揚してイケイケ状態になる」っていう意味になるんですかね。それに、昔は「男を上げる」とか「男が上がる」とか言いましたけど、今や「アゲる」も「アガる」も女性の専売特許みたいになっちゃいました。時代とともに世の中も言葉も変わりますな。

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2009.09.28

モスのコーヒー100円

Thumbtw200909289487economy 間限定!10月1日から13日まで、モスバーガーのプレミアムブレンドコーヒー&カフェラテが100円!
 マクドナルドのコーヒー無料ばらまき政策に対して、モスはモスらしい政策を打ち出してきました。
 なんて、なんだか高速道路無料化と期間限定1000円みたいな様相を呈してまいりましたね。
 私はマック派かモス派かと聞かれたら、迷わずモス派と言います。
 もともとハンバーガーはあんまり食べない方ですけど、とにかくマックを食べるとですね、極端に体調が悪くなるんです。スーパーサイズーミーってことです。なんか怪しいものが入ってるんでしょうね。
 その点、モスバーガーはそういうこともなく、おいしくいただけるので、たまに行きたくなりますね。
 そう、ウチは不思議とモスとは縁があるんですよ。
 実はカミさん、モスでバイトしてます。いわゆる店員です。あの制服着てでかけます。カミさんが勤めている店舗、ここのところ、売り上げが日本一だとか。いや、それはホントの話です。おかげでメッチャクチャ忙しいらしい。一日の売り上げが80万円を超える日もあるのだとか。
 私は私で、ご縁があって、モスの櫻田社長とフランクにお話をさせていただく機会が時々あります。普段着のカリスマ社長さんは、実に魅力的なお人柄を感じさせる方です。私の仕事にも活かせるお話をありがたく頂戴いたしております。
 ま、そんなわけで、本当にたまたまなんですが、夫婦二人ともモスに縁があるのです。しかし、それ以前にやはりモスはおいしいから好き。品格がありますよね。日本の品格です。本当にマックとモスは対照的ですよね。両者の違いってその「品格」だと思うんです。
 あくまで、「日本のハンバーガー」を標榜するモスと、アメリカ流ほとんどそのままのマック。いや、もちろん、商法的に、あるいは経営的には、マックもずいぶんと日本化させているわけですけど、商品そのものはほとんどアメリカ直輸入という感じです。ある意味節操がない。ジャンクの神様っていう感じですよね。
20090929_83039 実は、私は社長さんのお話を聞いてですね、本当にいろいろな影響を受けているんですよ。ですから、今度創る中学校にしても、どこかモス的なイメージを醸し出そうとしているとも言えます。皆さんは学校とハンバーガーと全然結びつかないかもしれませんが、「お客様より先に従業員に満足を」という発想や、「日本的な品格」、細かいところで言えば、店の雰囲気やパンフレットの作りに至るまで、本当にいろいろ勉強になります。
 まあ、教育界なんてホントに閉鎖的で世間知らずなところですから、こうやって異業種のカリスマの方から直接お話をいただけるなんて、本当に幸運なことですよね。
 多少高いお金を払っても、その「質」を求めたいというニーズは必ずありますし、逆に言えば、そういう方々にこそ来ていただきたいと思いますので、決して巨大にならずとも、ある意味細々とでも、「本物」を提供できればいい。そんな感じです。
 そうそう、民主党が来年度から高校の無償化を実現すると言っています。おかげで、私立の授業料も実質値下げになりそうです。
 これはまさにマックの無料コーヒーに対するモスの100円コーヒーという図式ですね。無料と260円では、もしかすると無料の方に行ってしまうかもしれませんが、ハードルが下って100円になれば、そちらに行くというお客さんも増えるに違いありません。そういう意味では、この民主党の政策は私学の追い風になる可能性もあるのです。
 ちなみにマックのsmileは0円で、いかにも作られたsmileという感じですが、モスの笑顔にはそれなりのコストがかかっていると感じます。先ほど書いた「まずは従業員が喜びを感じるように」という部分にはそれ相応のお金がかかっているということです。カミさんもそんなこと言ってました。
 というわけで、こういう時代だからこそ、「品格」や「本物」にこだわって頑張っていこうと思っています。頑張れモス!頑張れ自分!…(笑顔)。

モスバーガー公式

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2009.09.27

さまざまなスポーツ(?)に思う。

B_02395422 日は、私自身は音楽を中心とした生活をいたしましたが、傍観者としましてはスポーツに見るべき試合が多くありまして、それなりに感動したり、興奮したり、しみじみと感じ入ったりしました。
 まず、直接応援には行けなかったのですが、我が校の野球部が秋季大会の準々決勝で、宿敵に延長サヨナラ勝ちをおさめました。夏は期待されていながら初戦で苦汁をなめることになってしまいました。しかし、生徒たちのここ何年かの精神的な成長は著しく、今回も終盤に追いついて延長に持ち込み、そしてサヨナラ勝ちするという、粘りを見せてくれました。あと一つ勝てばとりあえず関東大会に出られます。春の関東では大活躍したので、またまた期待できますね。頑張れ、選手諸君!
 続いて大相撲。本割りでの白鵬の驚異的な集中力、優勝決定戦での朝青龍のこれまた驚異的な集中力、うむ、これはたしかに「心の戦い」でした。まあ、国技でありながら、決定戦も含めて最後の三番に日本人が一人もいないというのは、実に哀しいことではありましたが(苦笑)。そして、このガッツポーズはどうなんでしょう。
20090928016 そして、今日はですね、三沢光晴さんの追悼興行が日本武道館であったんです。本当は行きたかったのですが、ちょっと別の用事がありまして行けませんでした。
 最近、三沢さん特集の雑誌なども買いました。しかし、どうにも辛くて読めないんですよ。試合のビデオなんかも見れない。ほかのプロレスの試合はたくさん見ていますけれど、どうも三沢さんの試合は見れないんです。
 そう言えば、オートレースで落車死亡事故がありましたね。残念です。スポーツには危険がつきものであり、ある意味、そういうギリギリのところでの勝負、すなわち我々常人が立ち入れない超人的な領域での戦いこそが、スポーツの原点であるとも言えます。そこも実に難しい問題です。
 私は三沢さんの死は、F1でのアイルトン・セナ選手の死亡事故と近い関係にあると感じています。難しいですね。そして、悲しいことです。
 夜は、三沢さんなきあとのノアの試合をテレビで見ました。昨日の結婚式にも本当なら出席する予定だった青木篤志選手のKENTA選手とのタイトルマッチでした。21日に名古屋で行われた試合です。非常にいい内容だったのですが、どうもお客さんの入りや盛り上がりがイマイチだったような気がします。ちょっと心配になりました。
 そして、再びONの番組。今だからこそ語られるドラマ。スポーツとドラマの関係とはいったいなんなのでしょう。
 いずれにしても、こういうスポーツやスポーツ・ドキュメンタリーを見ますと、本当に心が燃えますね。こういう心境はいったいなんなんだろうと、最近よく考えます。
 そうなんです。この季節になりますと、毎年「スポーツとは何か」を考えるんです。なんでか。それは「スポーツ」にいそしんできた生徒たちの推薦入試などが大量にあるからです。
 まず、彼らにはこちら「スポーツとは何か」を読ませます。この本、スポーツ少年・少女には実に勉強になり、よい刺激になる本です。自分たちがやってきたことの「異質性」について知る機会になり、おそらくほとんど初めてスポーツをする自分を客観視するきっかけになるでしょうから。
 さて、そんな、実はへんちくりんなところの多い「スポーツ」という世界。どこからどこまでがスポーツかという、そういう定義だけでもとっても大変なのです。
 たとえば、今日ネタにしようとしている、「大相撲」、「プロレス」、「高校野球」。これらははたして純粋なスポーツと言えるのでしょうか。難しいでよすね。
 「大相撲」や「プロレス」はスポーツというよりも興行という面が強く、ある種の「八百長」…この言葉は大嫌いですが…が必要となります。そのあたりについては、今までずいぶんと語ってきたので、ここでは繰り返しません。
 「野球」の特殊性についても何度か書いていますね。そうそう、さっきの「スポーツとは何か」の記事にも書きました。
 特に日本には古来の「武道」などがありますからね。それらとスポーツとの関係というのも実に難しいのです。ちなみに、昨日一緒に盛り上がらさせていただいたアマチュア・レスリングの世界、これはいわゆる「武道」の世界とは全然違うと思いました。ノリが違う。精神性が違う。
 いや、いいとか悪いとかじゃありませよ。性質が違うと思ったのです。ですから、世界の柔道、いや「JUDO」にレスリングのテクニックがどんどん侵入してきているのは、これはやはり憂慮すべき事態ですよ。
 「sport」という語の語源を考えると、実はいろいろな側面があっていいということになるんです。しかし、この前の教育の話じゃありませんが、それらを全部ごっちゃにして論じてしまう難しさがあると思うんですね。
 生徒たちにはまず、そのへんについての認識を改めてもらっています。
 「闘争本能の昇華」としてのスポーツ、「体力増進・健康維持」のためのスポーツ、「教育」としてのスポーツ、「商業」としてのスポーツ、「精神修養」としてのスポーツ、「ゲーム」としてのスポーツ、「ナショナリズムの手段」としてのスポーツ、「神事」としてのスポーツ…もっともっといろいろな側面があります。私のように、ほとんど自分ではプレーせず、観戦するという立場からの「エンターテインメント」としてのスポーツもあります。
 それらをごっちゃに語らないで、それぞれの功罪や意義、問題点を個別に語っていかないといけませんね。そうじゃないと、それこそつまらぬ「八百長論争」みたいな「喧嘩上等」なことになってしまいますから。

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2009.09.26

『大吟醸 北秋田』 (北鹿)

20090927_83927 日は教え子にして職場の後輩である人の結婚披露宴に呼ばれまして、大いに呑んで騒いできました。先日、戦極を一緒に観戦したお二人の結婚式です。おめでとうございます。
 すなわち、新婦は国語の先生、新郎はレスリング関係者であります。これは盛り上がらないわけにはいかない。レスリングの日本チャンピオンの方も何人かいらっしゃいましたからね。
 披露宴後半には、なぜか呼ばれてもいないウチのカミさんも乱入しまして、そのまま、二次会、三次会へ。さすが体育会系の二人のお友達の面々、非常にパワフルであります。飲みっぷり歌いっぷりも豪快。
 そんな中、私がずっと一升瓶を抱えて飲んでいたのが、このお酒です。
 新郎新婦が、「大吟醸が飲みたい」という私のわがままなリクエストに応えてわざわざ用意してくれたとのこと。ありがたや。
 で、私が抱えているこの酒瓶を見たカミさんがですね、「うわっ、北秋田じゃん!」と叫んだんですよ。いや、単純に「秋田」だからではありません。もっとマニアックな意味が込められた叫びだったのです。
 えっと、説明するのが面倒くさいと言えば面倒くさいのですが、書けというので書きますか。
 そうそう、今日の全日本プロレス横浜大会で、プロレス復帰を果たした船木誠勝選手が、鈴木みのる選手に反則勝ちしましたね。彼は本当にプロレスに帰ってきてから活き活きしています。いや、予想以上にいいプロレスしてると思いますよ。花がある選手ですからねえ。なんか空白の期間がもったいなかったような…。
 さあ、その船木選手がですね、格闘技復帰を果たした2007年の大晦日、そうあの桜庭和志戦ですね、その時の煽りVで、桜庭選手が抱えて飲んでいたのが、この「北秋田」だった(と言う)のです。そんなの全然覚えてないし、だいたいそこまで覚えてるファンというのもそんなにいないでしょう。さすがカミさんの腐女子力。
 桜庭選手と言えばもちろんアマチュア・レスリングの出身です。秋田商業から中央大学へ、そしてUWFでプロレスラーとなりました。そんなわけで、今日はいろいろとレスリングまみれの一日でして、私とカミさんはゴキゲンだったのでした。
 いやあ、本当にいろいろ面白い話も聞けましたよ。今プロレスで活躍しているいろんな選手についての話も聞けました。なにしろ、そういう選手の先輩や後輩や同輩がたくさんいるわけですからね。裏話も面白すぎました。
 逆にある人をつかまえて、「君は花があるから絶対プロレスラーになるべきだ!」とか言ってその気にさせたりして、まったくずうずうしい夫婦であります。
 あっそうだ、お酒の紹介だった。この「北秋田」ですが、おそらく日本一安い大吟醸酒の一つでしょう。ものすごくリーズナブルです。しかし、味もしっかり大吟醸ですからご安心を。派手さはありませんが、とにかく上品でさわやかな味わいです。披露宴の洋風な食事にもなぜかピッタリ合いました。もともと、フルーティーで「ライス・ワイン」という感じですねしね。たぶん、今日も私は1升近く飲んだんじゃないかな。
 というわけで、とってもとっても楽しい時間を過ごしました。あらためまして、お二人さんおめでとう!そして、これからもレッスルなおつきあいをよろしくお願いします。

【激安の大吟醸!】 北秋田 大吟醸 1800ml

清酒北鹿

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2009.09.25

『間違いだらけの教育論』 諏訪哲二 (光文社新書)

33403520 宅してテレビをつけましたら、「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中」で、教育論議をしておりました。まあ、いつものとおりの侃々諤々…いや喧々囂々…いや喧嘩上等という感じで、ああこりゃあ解決するものも解決しない、いやいや、もともと解決とか正解とかある世界じゃないのに…とため息が出ました。
 この前、『なぜ教育論争は不毛なのか-学力論争を超えて』のところにも書きましたように、こういうまじめな(?)教育論議は不毛になりがちです。もうわかりきったことです。
 そろそろ、我々(教育者のみならず国民みんな)は、そのことに気づかなければなりませんね。
 実はこの本もまた「喧嘩上等」の世界になっていまして、読後なんとも歯がゆい気持ちしか残りませんでした。
 「太田総理」には、たとえば、ゆとり教育論の総元締めである寺脇研さんと、体罰肯定論の現場教師金子毅さんが出演されていました。最初からジャンル違いの異種格闘技戦であり、もうルール制定段階で喧嘩上等になっちゃっています。
 この本の著者である諏訪哲二さんは反日教組の急先鋒(だった)「プロ教師の会」のメンバー。俎上に上がるのは、どちらかというと人権派の教育論者。様相は同じです。
 結論から言ってしまいましょう。いちおう四半世紀くらい教員をやっている私の結論。
 教育現場には、「ゆとり」も「つめこみ」も「体罰」も「人権」も「教育技術」も「愛」も「経営術」も「ほめること」も「しかること」も「夢」も「現実」も、必要な時もあれば必要ない時もある。
 ただ、これだけです。
 他の産業や文化・スポーツ団体などにおいては、お客様のニーズによって、かなりその機能や組織が細分化されています。しかし、教育においては、特に義務教育においては、それが全てごっちゃになっていて、つまり教育する側も教育される側も相手や同志を選べないんですよね。これが論議の不毛化、砂漠化の基本的な原因となっています。
 ですから、この本を読んだリアル教員の私は、諏訪さんの意見にももちろん賛成できますし、攻撃されている齋藤隆さんや陰山英男さんや義家弘介さんや、寺脇研さんの意見にもいちいち同意できるんです。
 ウチの学校は、かなりの学習困難者から東大を目指すものまで、それこそピンからキリまで(あくまで偏差値的にですが)の生徒が混在する、ある意味健全な学校です。偏差値だけとってもそんな具合ですから、様々なパーソナリティーやスキルやタレントまで考慮すれば、それこそ十人十色なお客様方ということになります。
 ですから、当然、私はそれぞれに対して、ほとんど無限に近いバリエーションをもって臨みます。もちろん、私個人の技量や根性にも限界がありますから、いろいろな場面で同僚の協力を必要としますし、ある場合には、私以外の先生に完全にお任せした方がよい場合もあります。
 現場はそういうものなんです。ですから、どちらかというと、様々な相手や状況に対する適応力や技のバリエーション、そしてアドリブ力こそ、教師に望まれる能力ではないかとも思われます。それを私は「はったり力」と言ってるんです(ホントか?)。
 そして、学校としてもまた、バリエーション豊富な先生方が必要なんですよね。画一化していない、個性的な先生、それぞれの得意分野があまり重ならず互いを補完しあえる教員集団。その方が、こちら側も楽ですし、生徒の側も幸福です。もともといろんなニーズを抱えたお客様たちですから、そんなふうにデパートメント・ストアというか、よろず屋のような場所の方がいいんです、学校は。
 諏訪さんは、やはり大きな敵がいたせいか、教育の本質を「啓蒙」だと言い切ります。ある程度の強制力(暴力性)をもって、子どもを社会的な「人」に育てなければならないと。それもよ〜く分かります。そのとおりです。最初はたしかにそこから始めなければ、学びの意欲とか、自主性とか、あこがれとかは生じないでしょう。
 しかし、現場の現実は、あまりに様々なレベルの「人」がいるわけでして、つまり、「近代的社会人」偏差値が25から75まで本当にいろいろな生徒が集まっているわけで、もう「強制」の必要ないのもいるし、まずは「強制」から入らないとどうにもならないレベルのもいるわけですよ。
 それを、あたかも、子ども(児童・生徒)はどちらか一方しかいないような前提でそれぞれが話をするから、こういう喧嘩上等なことになってしまう。
 非常に単純化すれば、こういうことなんです。原理主義vs原理主義。
 さてさて、ついでと言ってはなんですが、今の私の仕事について書いておきます。
 今、来年度開校予定の併設中学校の仕事をしています。コンセプトはいろいろありますが、基本的には、中学校でのある程度(適度)の「強制」の末、高校では「自主自立」を目指したいと思っています。誰かもおっしゃっているとおり、「自由は不自由から生まれる」と経験的に信じていますので。単純なことです。
 今、パンフレットの最終校訂段階に入っています。1ページ目にぜひ書きたいメッセージがあります。今日はその草稿の推敲をしました。こんな感じです。私がどういう学校を創ろうとしているか、おわかりになりますでしょうか。

 いかに知識があっても、いかに技術があっても、ただそれだけでは幸せな人生を送ることはできません。人に愛され、人に信頼され、そして人に助けてもらえる人間になるには、いったいどうすればいいのでしょうか?
 実はその答えは単純なものです。
 人間関係は「鏡」に似ています。笑顔で人に接すれば、必ず笑顔が返ってきます。気持ちよくあいさつすれば、必ず気持ちよいあいさつが返ってきますね。
 それと同じように、人を愛し、人を信頼し、人を助けることができれば、その人は必ず幸せになれます。
 そういう「智恵」を実践できる人を育てるのが、○○中学校の目標です。
 まずは、充実感と自信に満ちあふれた笑顔とあいさつから。
 さあ、自分を磨きましょう。

Amazon 間違いだらけの教育論

楽天ブックス 間違いだらけの教育論

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2009.09.24

『新版・現代ヤクザのウラ知識』 溝口敦 (講談社+α文庫)

06281065 日の総合格闘技の問題も、やっぱりこれに絡んでるんですよね。あるいは秋田行きの記事に書いた様々な昭和文化、地方文化も。
 もちろん、プロレスや歌謡曲の世界は、こちらの世界抜きには語れませんね。
 これまでもずいぶん「ヤクザ」関係の本を読ませていただきました。そして、それなりに自説を語ってきたと思います。
 バブルがはじけ、構造改革が進行し、そして、民主党政権になりました。もう、あの古き良き(あるいは悪しきとも言えるが)時代は戻ってこないのでしょうか。
 そのかわりに、また違った「悪」がはびこり始めています。日本を支えてきた「モノ」がなくなり、代わりに海の外から別の「モノ」が流入しています。
 いや、今流入してきただけではありません。もしかすると、縄文時代からかもしれない。徐福よりも前に流れてきたかもしれない。
 しかし、そうした渡来の強力な勢力も、縄文の神々の巧みな懐柔策により、そのエネルギーをいい具合にそがれてきたのです。その象徴が天皇家の存在でありました。
 デジタル的に二分できない、不思議なマージナルが日本を覆っていました。それが、そのまま世界のアジールになっていたのです。
 そうしたアナログ的な構造の隙間を埋める「モノ」、そして、聖と俗をぐるっとつなぐ「モノ」。近代的な常識や法では解決できない「モノ」を退治する「モノ」。我々が悪に手を染めないように、間接的に我々を守っていた必要悪としての「モノ」。ロジック(コト)を超えられるのはある種の暴力性(モノ)しかありません。
 そんな神聖な役目を担った俗人たちが、今本当に消えかかっています。悪党のいない世の中では、我々一般人が悪に手を染めます。あるいは政治家や金持ちが悪の道を突っ走ります。理由は簡単で、「カネ」が全ての価値基準になるからです。「カネ」は「悪神」のイコンです。
 そんなヤクザさん、いやヤクザ様たちが、近年、つまりバブル崩壊後どのような生活の変化を強いられたかを、具体的をふんだんに交えて解説してくれるのが、この本です。
 これを読みますと、たしかに大変になっただろうなあと、正直同情の念を禁じ得ません。アメリカからの圧力なのか分かりませんが、暴力団対策法が施行されてからというもの、とにかくヤクザさんの生活は厳しくなりました。それまで、そうですねえ、長く考えて2000年くらい続いてきた日本の伝統文化が崩壊したんですね。ある意味バブルの崩壊やベルリンの壁の崩壊よりも大きな崩壊でした。
 もともとが目に見えない存在価値でしたから、しばらくはその影響も目に見えませんでした。いや、今でも目に見えないのかもしれませんね。「モノ」や「もののけ」は、基本的に、我々の意識や思考や経験の外部にあります。我々はただその気配を感じるだけです。その気配はたしかに恐ろしいものです。それはそうですね、得体の知れないモノほど恐いものはない。
 その気配が消えたわけですから、我々は一時期安心してしまったんですよ。それで、自らの「性悪(せいあく・しょうわる)」な部分が芽生え始めてしまった。また、そのもののけの気配に恐れおののいていた外国の悪神たちも、すんなりこの国に入ってこれるようになってしまった。
 その結果が、こういう世の中です。そして、ついに民主党政権が樹立しました。そういう流れですよ。
 鳩山内閣成立の記事にも書きましたね。これは明治維新ところではない、とんでもない霊権交代劇なのかもしれません。
 決して私は右翼でも単純なヤクザファンでも昭和懐古主義者でもありません。ただ、基本的に、長年かけて作り上げられ、誰も手をつけられなかった「構造」は「改革」してはいけないと思っているだけです。そういう大切な「構造」こそ、目に見えず、また実にもろいものなのです。だからこそ、特別の任を得たモノだけが、それを守ることができた。私たちにとっては踏み込んではならない禁足地だったのです。
 では、これからどうすればいいのか。歴史は逆戻りできません。復活の見込みのない「日本」の「構造」に見切りをつけて、全く新しい発想で、「世界」の「構造」を作り直さねばならないのでしょうか。
 なんか話が壮大になってしまいました(笑)。実は今日、そちらの世界に近い方と、しみじみ語ってしまったんですよ。だからものすごくセンチメンタルになってるんです。仁義とは実にセンチメンタルなものなのでした。

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2009.09.23

戦極~第十陣~

0369 田十文字を朝6時すぎに出発し、最上川を下って庄内平野へ、そして日本海に沿って新潟へ。日本を支える米どころをたどりました。どこもかしこも黄金色で、なんかパワーをいただいた感じ。
 そして、そのパワーを秘めたまま、富士山に帰るかと思いきや、我ら家族はなぜか埼玉へ。
 そう、私とカミさんはさいたまコミュニティーアリーナ(さいたまスーパーアリーナの隣の展示場)で行われた「戦極〜第十陣」に参戦してきたのであります。
 私は、昨年のDREAM.4以来の総合格闘技観戦となります。あの時は総合初観戦後、「総合はもう観ない!」と言ってましたが、さっそく約束を破ってしまいましたね。まあ、今回はレスリング関係者というか、教え子というか同僚というか、という人からお誘いを受けたので、ありがたく行かせていただいたということで。
 で、また結論から書きますが、やはり「総合格闘技」という競技(興行)の限界を感じさせる内容でしたね。面白くなかったと言えばウソになりますが、いろんな意味で「痛い」ところも多かったと思います。
 実はですね、ウチは子どもや猫も一緒だったので、前半はカミさん、後半は私ということで入れ替わり観戦でした。
 カミさんはなぜ前半で満足なのかと申しますと、第2試合に桜庭和志の弟子、マイミクになってまで応援している佐藤豪則選手が参戦したからです。結果はKO負け。カミさんはちょっとガックリしてましたけど、いちおうメジャーデビューですからめでたいということで。一部では桜庭自身戦極へ移籍か?と言われていましたが、いつものとおり弟子の試合にはセコンドにもつかず、来場もしていませんでした。セコンドはプロレスラーで実弟の佐藤豪が付いていたようですね。
 さて、私はその間、子どもと猫を連れて、氷川神社方面へ散歩。なぜか氷川神社へは行かず、住宅地の中に突然現れた富士塚風の浅間神社にお参りしました。あんなところで富士山に登るとは。
 そして、休憩中にカミさんと入れ替わって会場入り。知り合いとも無事合流しました。RRS席ということでリングサイドなわけですが、平らでちょっと観にくいので、立って見れる最後列にて観戦。
 石井慧と吉田秀彦がリングインして、石井のデビュー戦、大晦日の有明コロシアムの正式発表がありました。石井選手は思いっきり猪木さんのパクり。吉田選手も気の抜けた返しで、なんか今一つ緊張感がありません(笑)。
20090924045 後半最初の試合は、石井と同様柔道オリンピック金メダリスト瀧本誠登場。これが一番痛い試合でした。瀧本はさすが柔道出身者で、相手を倒すことには長けていますが、そこからの極めが弱い。攻めあぐんでいるうちに膠着状態に陥ります。
 総合もどんどん進化して、特に防御の技術が上がっていますから、ああいうグランドでの膠着が増えてしまう。スタンドでの打ちあいにしても、こちらも一発狙いが減っています。つまり、一本で勝つ技術よりも、負けない技術ばかり向上してしまった感じなのです。そうすると、競技として興行として絶対に面白くなくなります。まあ、「JUDO」とか「SUMO」と一緒でしょうかね。
 プロレス派の私としては、総合のそういう傾向は悪いものではありません。プロレスがK−1や総合に食われた頃は、まさにそれらの草創期であり、まだまだ異種格闘技的な面白さがありました。単純に勝敗を決する競技は、洗練されていくとだいたいこういうふうになっていくんですよね。ある意味人間の弱い部分やずるい部分が強調されていく。
 さて、次の試合はどうだったでしょうか。アントニオ・シウバの試合です。彼はプロレス的ながたいの持ち主ですから、リングインしただけで充分絵になります。モノノケ風でいいですね。パンチ一つとっても迫力ありますから、生で観る甲斐があるというものです。
 で、試合はいつのまにかグランドに移行して、あっという間に肩固めでシウバが勝ったようです。なにしろ、グランドになると全然見えないので、何が起きてるかわかりません。せっかくの大男どうしの戦いも結果は地味になってしまいます。
 今回も笑ってしまったのが、そこのところなんですね。興行としての限界。つまり、グランドの攻防になると、お客さんがみんなリングを見ないで、スクリーン(ビジョン)ばかり見てる。それも今回は、私たちのすぐ後にスクリーンがあったので、前の人たちはみんなこっちを向く、すなわちリングを背にして後を向くわけですよ。これはやっぱり変ですよ。目の前数メートルのところで闘っているのに、それに背を向けるわけですからね。一体感どころの話ではありません。私はスクリーンの直下だったおかげでリングの方をずっと見ていましたが、たしかによく見えないし、みんなこっちを向いているのでなんか気恥ずかしいというか、とにかく変な気持ちになりました。
 いや、そんな中すごい人がいました!私のすぐ前のおじさん(おじいさん)、なななんと、グランドの攻防になると、おもむろに手鏡を取り出して、背後のスクリーンを映して見てるんですよ!いやあ、感心、感心。今日のMVPはあのおじいさんだな(笑)。ま、その手鏡に見入る姿も妙といえば妙すぎましたが…。
20090924017 さてさて、いよいよメインです。アテネ五輪柔道銀メダリストの泉浩のデビュー戦。結果は壮絶KO負けでした。しかし、その壮絶ぶりが良かったと言えば良かった。気持ちの強さが伝わってきました。しかし、これもですね、ある意味半分シロウトの泉だからこそ、そういう魅力ある散り方になったわけで、次からはこの経験をもとに負けない技術を習得してしまって、小さな試合になってしまうでしょうね。そういう宿命なんですよ、総合は。
 ちなみに、ワタクシ的にうれしかったのは、泉のセコンドが安生だったことでしょうか。まあ、安生イズムを継承しての負け方だったとも言えないこともない…かな。
 年末の石井選手の試合も案外しょっぱいものになっちゃう可能性があります。彼の柔道もそれほどスケールが大きいとは言えなかったと思います。本気で格闘技界を引っ張りたいなら、それこそアントニオ猪木ばりのスケールが必要でしょう。石井の度量が試されますね。
20090924_82320 最後に個人的にウケたこと。会場の入り口に赤いのぼりが数本立っていました。おっ、泉の応援団かな?と思ったら、思いっきり「ぶつだん」って書いてありました。入り口にあるスペースで仏壇の展示即売会をやってました(笑)。おいおい、縁起悪いぞ。

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2009.09.22

土方巽〜白井晟一…秋田で昭和の奇才の面影に触れる

Uni_3105 昨日のON、そして昨日の王仁三郎。それだけとっても昭和という時代はすごかった。最近になって、自分も多少は浴したその時代の空気の面影や残滓や名残というものを、あらためて見つけ感じています。
 これは単なるノスタルジーではありません。時を経てなお残る空気には、エントロピーの法則に反するエネルギーが存在するのです。物質は拡散しても魂は逆に凝縮していく。その魂は、おそらく昭和当時よりも、強く我々に訴えかけてくることでしょう。
 そして、今だからこそ、こんな時代だからこそ、それを感受して受け継ぐメディアになりたいんです。
 さあそんな高邁なこと書いてますが、実はそんな難しいこと考えていません。ただ、縁のあった「モノ」にはしっかり触れておきたいというだけ。
103_2 ということで、まずは羽後町田代天神堂にある義母の実家にごあいさつにうかがいました。そこはあの写真集「鎌鼬」の撮影された場所です。細江英公さんが舞踏家の土方巽を連れて、その義母の実家の前の田んぼにやってきたのは、1965年の9月中旬でした。今からちょうど44年前ということになります。
 この季節に秋田にやってきたのは、実は初めてのことです。今までは3月、5月、6月、7月、8月、11月、12月、1月に訪れたことがあります。稲刈りのシーズンは初めてなんです。秋田にとってこの季節は本当に特別なゴールデン・タイムですよね。たわわに実った黄金色の稲穂が頭を垂れて、稲刈りの時を今か今かと待っているんです。
Uni_3114 田代地区では、今でも高い稲架(はさ)を組みます。土方がするすると登って鴉になりきった、あの稲架ですね。それがちょうど今組まれていました。
 羽後町でも平野部ではもう稲刈りを始めているところもあって、そんなところからは、私にとってはほとんど初めてかぐ、そしてカミさんにとっては懐かしいという、あの稲刈りの匂いがしてきました。
 このような高い稲架は、秋田県内でも次第に珍しいものになっていっているとのことでした。
 カミさんのおじいさんやおばあさんたちにご挨拶をしたのち、私は一人でその稲架を撮影に行きました。
Uni_3115 そして、私は思わず鳥肌を立てました。そこには驚くべき「モノ」が転がっていたんです。それは、食べた後のスイカの皮でした。えっ?なんで?そんなもの、たまたまそこに捨てたんじゃないかって?
 いやいや、土方巽をよく知る人なら、きっと私と同様びっくりすることでしょう。土方と言えばスイカなんですよ。一昨年訪問した土方の故郷、羽後町の新成地区はスイカの生産地として有名です。
 それはまるで、今そこの稲架に土方が登り、天空を見つめながらスイカに食らいつき、そこにその皮を放り投げた、そんなシーンのようでした。鳥肌も立ちますよ。
 いったいこれはどんないたずらなんでしょうね。まあある意味私にしか分からないことかもしれませんが、そういう私がピンポイントでこの時期にここにいるというのは、やはり何か因縁があるのでしょう。
 さて、田代から十文字に帰ってきまして、私とカミさんは次の目的地お隣の湯沢市に向かいました。湯沢市はカミさんが高校時代を過ごした場所です。懐かしく甘酸っぱい思い出の地なのかと思いきや、なんでもほろ苦く、どちらかというと辛い思い出の地だそうです。まあ、私が高校時代を過ごした静岡なんかも、できればあんまり行きたくない場所ですよね。
 さて、その湯沢市周辺には、最近興味を持った建築家白井晟一の作品(建造物)が多数残されています。白井は疎開先であった秋田を気に入り、戦後もしばらく当地のために様々な建物を設計しました。それがさりげなく残っているんですよね。白井晟一と言えば、私も大好きな丹下健三と双璧をなす日本を代表する建築家です。ある意味聖地なんですよ。しかし、地元の人にはそんな知識や意識はほとんどありません。ここ数年の間にも、貴重な作品である雄勝中央病院などが取り壊されてしまいました。あの病院、祖父が入院していたので、私も行ったことがあります。実はその時は、その建物が白井作品だとは夢にも思わなかったので、しっかり観察しませんでした。全く灯台下暗しと言うか、知らぬが仏と言うか、いやこういう場合は言わないな…。
 白井晟一について、いや、建築についてはそれほど詳しくないので、今日はとりあえず写真だけご覧いただきましょう。実は白井作品以外にも、湯沢市にはめちゃくちゃたくさんのトンデモ建築が現存しておりまして、もう完全におなかいっぱいだったんですよ。今度は、知りあいの有名建築家(兼白井マニア)の方をお連れして、建物探訪の旅を企画したいと思います。では、どうぞ。

 ↓まずは、酒造会館です。1959年の作品。
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↓次は最近世田谷から移築された試作小住宅。1953年の作品。
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↓続いて旧雄勝町役場。1956年の作品。
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 今回は時間がありませんで、この3作品しか見ることができませんでした。というか、ほかのトンデモ建築に目を奪われて時間が過ぎてしまったというのもあるんですけどね。
 とにかく、これは専門家を連れて解説をいただきながら再訪問するしかありません。少し足をのばすとさらなる白井ワールドが現代に息づいているらしい…。楽しみです。
 ふぅ、それにしても濃いなあ。昭和。そして昭和が残る地方都市がまだまだたくさんある。我が富士吉田もすごいけれど、湯沢市もそれ以上でした。

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2009.09.21

田沢湖の神示

20090925_70624 日はカミさんの家族と一緒に田沢湖へ行きました。十和田湖には2回行ったことがありますが、考えてみると田沢湖は初めてです。
 まず途中ある町で乗馬体験をしました。私は何年ぶりでしょうね。たぶん35年ぶりくらいです(笑)。娘たちは初めてお馬さんの背中に乗りました。昔、暴れ馬に乗っていた(?)という81歳になる祖母は、その年齢からは想像できない身軽さで、当たり前のように元競走馬を操っていました。す、すごい。
 まあ、それにしても乗馬というのは体力使いますね。軽く駆け足してもらっただけで、全身の筋肉がギシギシ言ってました。たしかにこれはダイエットになるな。あの通販のロデオマシーンの効用も伊達じゃないのか。
20090925_70754 さて、田沢湖に到着した我々は、まずは定番「辰子像」の前で記念撮影。そして、車で湖畔を半周して対岸へ。途中場違いな神殿に遭遇。そう、秋田と言えば、あの、衆院選で見事全員落選という奇跡をやってのけた幸福バカボン党…じゃなく幸福実現党の党首にして、幸福の科学のバカボン…じゃなくて総裁大川隆法の奥様、大川きょう子さんの生まれ故郷です。鳥海山麓の矢島町の出身なんですよね。「矢島町の思い出」という本も書いてます。
 で、きょう子さん、自らを文殊菩薩やナイチンゲールの生まれ変わりとおっしゃってますが、ひそかに「辰子姫」の生まれ変わりだとも思っているんでしょうね、なにしろ絶世の秋田美人ですから(笑)。それで、世界の聖地である田沢湖にああいうシロモノ(秋田正心館)を建てちゃった。そうそう、今年は矢島にも秋田信仰館というのを建てちゃったんですよね。つまり、幸福の科学にとっては秋田は準聖地なのであります。まあ、それはそれでいいや。キッチュなモノの多い秋田にマッチした建造物だから(笑)。
 で、そんな現代の神話とは大違いの神話的体験をですね、そのあと私はしてしまったんです。それは詳しく書けませんけど、簡単に言えば、龍神様が現れてあることを教えてくれたんです。
 田沢湖と言えば、例の三湖伝説の舞台ですね。それについては、おととしのこの記事に書きました。その八郎が最終的に行き着いたのが、ここ田沢湖です。すなわち龍になってしまった八郎と辰子は恋に落ちて結婚し、ここ田沢湖で新生活をスタートさせたというわけです。ですから、この田沢湖には2匹の龍が住んでいるということになりますね。
 その龍たちが私の前に現れた…なんて書くと、それこそバカボンみたいな発言ですが、これは私にとっては本当のことなので…すみません。
 そこで龍神が語った内容はここには紹介できません。まるで大川隆法の霊言集みたいですから(笑)。そう、十和田湖、八郎、そして田沢湖にも縁の深い出口王仁三郎に関する貴重な情報をいただいたんですよ。ちなみに、王仁三郎が十和田湖を訪れたのは今から81年前、昭和3年の9月22日のことでした。遊覧船で湖水に遊んでいた時、大地震が起きたのは有名な話です。
 今日、田沢湖の遊覧船上から撮影した写真を何枚かお見せします。ここから何かを感じ取っていただければありがたいのですが。不思議な雲と光、そして瑠璃色の湖水…。

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2009.09.20

『シリーズ ONの時代 第1回 スーパーヒーロー50年目の告白』 (NHKスペシャル)

↓秋田の夕景。遠方に出羽富士鳥海山のシルエット。
Uni_3048_2 田に着いてまずやったこと。おいっ子とのキャッチボール。
 息子とキャッチボールするというのが、私の夢でした。しかし、今のところ(!)娘しかいないので、その夢は叶っていません。しかし、こうして4歳の甥とキャッチボールができまして、なんだかもう充分満足したような気がします。
 おいっ子のお父さん、すなわち義弟は中学の先生で野球部の監督。昨年は自校のチームを県優勝にまで導いた根っからの野球人です。その息子ですから、4歳とはいえ、かなりの技術を持っています。いや、もしかすると天才かもしれない。結局、キャッチボールにとどまらず、野球ごっこにまで発展したんですが、あのミートのセンスは異常だ。正直びっくりしました。末恐ろしい。
20090924_143155 さて、久々に野球ごっこに興じたのち、少し外出してから昼寝をしまして、さあ夜になりました。ごちそうをいただきながらたらふく秋田の日本酒を呑んでいると、NHKでこの番組が始まりました。なんともナイスなタイミングです。
 まず、実に懐かしい風景が映し出されました。そう、私はあの巨人軍多摩川グランドに本当によく通っていたのです。もちろん、そのすぐ横の広大な空き地(ほとんど草野球場)で、少年野球の練習に励んだというのもありますが、やはり、そのついでにジャイアンツの練習を実際に見て、そして選手の皆さんにサインをもらったり、一緒に土手沿いのお店に連れていってもらってジュースをおごってもらったりした、そういう思い出がいっぱいつまっている風景なんです。
 私が生まれた次の年から巨人はV9。私が小学生の時、すなわち昭和40年代後半から50年代はじめまでは、まさにONの時代でした。長嶋さんが引退したのは昭和49年、私が10歳の時です。ちなみに王さんの引退は昭和55年。
 そんなON全盛期に、ONの練習風景を生で見ることができたのは本当にラッキーでした。また、田園調布の長嶋さんのお宅に比較的近かったので、ご本人に自宅でお会いしたこともありますし、学年が一つ下だった一茂くんともいろんなところで会う機会がありました。やんちゃなお坊ちゃんでしたね。
 まあ、そんな環境ですから、私が当時の小学男児のご多分にもれず、「将来の夢はプロ野球の選手」と言っていたのは、それほど想像に難くないでしょう。今の私の草食系の姿からは誰も想像できないと思いますが(笑)。
 そのような意味で、ONとあの多摩川グランドの風景を共有しているというのは、実に有難いことですし、非常に幸運なことだと思います。久々に「草野球」を体験した夜に、そのオープニングでしたから、さすがに心にグッと来るものがありましたね。あのグランドの左右の打席にONが並び立つ…当時は夢にだに想像しなかった光景です。あれから30年以上…。
090920_b 脳梗塞で障害の残った長嶋さんが、こうしてテレビにその姿をさらすことに抵抗を感じる人がいるのも理解できます。しかし、私は長嶋さん自身が語った「今を見せる」という姿勢に純粋に共感しました。病気になっても、長嶋さんは常に前向きで、ある種の進化を止めません。私にはその姿でけでも崇高に感じられました。
 「長嶋は天才、王は努力の人」という定説というか、作られたイメージを覆す証言。それはもちろんある程度想像されていたことです。現代唯一の天才であるイチローの努力は並大抵でありません。いくら天才でも、影の努力は当然あります。
 もう極論してしまえば、とにかく「努力できるが天才」ということになってしまいますね。「努力の天才」、これはあります。生徒を見ていてもそうです。尊敬に値するほどの努力ができる生徒がいるものです。私なんか、そういう才能は全くなかったし、今でも「はったり、ちゃっかり、ぼったくり」とか言ってるくらいですから、全くの凡才、いや凡才以下です(笑)。
 旅館の和室で素振りと言えば、王貞治の専売特許だ思っていたら、実はそんなことはなかった。長嶋茂雄もまた、隠れて素振りに明け暮れていた。まあ、考えてみれば、王さんの日本刀を振り回す姿は映像として何度も紹介されていたわけで、全然「隠れて」じゃなかったわけですね。マスコミの戦略というのもあったのでしょう。
 長嶋さんの素振りの情報としては、例のフルチン打法が有名(?)ですけど、それもまた、マスコミによって作られたイメージなのかもしれませんね。あれは私も試しにやってみたことありますけど、下のバットに意識が行くと、上のバットのスイングが乱れてしまい、全然ダメでした(笑)。やっぱり天才じゃないな、オレ。
 番組では、そんな「天才」長嶋さんは、「私はいい選手ではないです。ごく普通の選手です。天才ではありません」とおっしゃっていました。なるほどそれは正しい。天才は自分のことを「天才」だとは言いません。
 たしかに、世の中に流通している意味での「天才」ではなかったかもしれません。しかし、やはり天からなんらかの才を享けた人であったことはたしかです。
090920_a また、王さんについても、ファンの声、期待にこたえるため、どんどん「努力家」になっていく様子が紹介されていきました。
 そう、彼らの個性は、そうして周囲の人たちによって作られていったのです。そして、それこそが彼らのパーソナリティーであり、彼ら自身の本当の姿になっていったのです。
 養老孟司さんもよくおっしゃってますが、人間の個性なんて他人が決めるもので、自分で探すものではありません。自分探しなんてちゃんちゃらおかしい。いかに「本来の自分はこうなのに」とか「本当の自分が出せない」とか言っても、結局は他人の目や声を意識して表現される自分こそが本当の自分なのです。
 そういう意味では、いくらONが「あれは虚像ですよ」と言っても、歴史や伝説は何も変りません。私たちの夢もまた何ら影響を受けません。彼らはすでに一個人である以上に、「神」になっているからです。
 天皇が人間宣言してもなお、神であったという歴史は変わらないのと同じです。いい悪いという問題は別として、私たち自身が彼らの個性を決定したわけで、次元は違えどそうしたことは日常的に起こっています。というか、それこそが社会における人生の本来のあり方であり、私たちが一人では生きて行けない理由であります。
 昭和の力。それは複合的な人間力です。大衆の一種宗教的な想像力と創造力。そして、それに応え得る精神力と肉体力を持った神の器たち。それを再確認させられた番組でした。来週の第2回は、その力が平成にも継承されているのか、あるいは平成は単なる昭和の余力、惰性でしかないのか、それを確認できそうです。

NHKスペシャル公式

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2009.09.19

エブリイランディ (スズキ)

V10440a 日夜、秋田へ向けて出発いたしました。
 夏にカミさんの実家のある横手市へ行く予定でしたが、あの静岡の地震の影響もあって急きょ中止になってしまったんですよね。そのリベンジというか、仕切り直しでシルバーウィークを使っての秋田行きとなりました。
 富士山を出て、まずは河口湖インターから中央道、圏央道、関越道を通って東松山まで。以前は、圏央道の川島インターまで行きましたけど、考えてみると東松山まで行った方が安いわけですよね。河口湖から1000円です。川島だといちおう大都市圏なので1400円かかってしまいます。
 で、東松山から一般道で東北道の加須インターまで走りまして、再び高速1000円で秋田の十文字インターまで。都合2000円ということになります。
 民主党が高速タダみたいなアホなこと言ってますけど、まあ、自民党の週末1000円くらいで、我々はもう充分ですよね。タダだとなんだか料金を調べて安い時間帯や道を選ぶ楽しみがなくなってしまいます。男はそういうの大好きですからね。
 さて、東北道は昼間の大渋滞がウソのように、夜はスカスカ(と言ってもいつもよりはずいぶんと車が多い)。ただ、困ったのはパーキング・エリアやサービス・エリアがどこも満杯だったことです。みんな同じようなことを考えているのか、PAやSAで仮眠を取りながら夜中走っちゃえっていうことでしょうね。岩手までほとんどどこもいっぱいでした。
 そんなわけで、トイレにも行けず、結局休みなしで走り続け、秋田自動車道の錦秋湖SAまで行ってようやく仮眠を1時間ほど取ることができました。接心明けにはちょっときつかったかなあ。でも、どういうわけかいつもより目がさえて、途中眠気に襲われることはほとんどありませんでした。メガシャキがきいたのか。
 錦秋湖に着いたのが明け方の5時くらいでした。少し周囲が明るくなった頃。ずっと寝ていたカミさんが目を覚まし、「あっという間に秋田だね」とか寝ぼけたこと言ってます。そりゃあ、7時間たっぷり寝てりゃ、あっという間でしょが(笑)。
 さて、今日はそんな長旅のパートナー、私の愛車の紹介をしましょう。考えてみると紹介し忘れてました。しばらくプントやパンダというイタ車(痛車)に乗ってたんですが、あまりにぶっ壊れるので、2年前にこれに替えました。
 皆さん、エブリイランディなんて知らないでしょう。今は絶版の車ですし、もともとほとんど売れてませんから。
 でも、私にとってはこの車、一つの理想形なんですよ。
 小さくてたくさん乗れる。車中泊にも最適。これですよ。
 世の中ではミニバンとかミニミニバンとか流行ってますけど、このエブリイランディはホント世界最小の7人乗りミニミニミニバンだと思いますよ。なにしろ、ほとんど軽自動車のボディですから。
 まあ、そんな貧弱な旧型の軽のボディだからこそ、危険だということもあって絶版になったんでしょうね。でも、昔はこの種の車、何種類かあったんです。スバルのドミンゴを端緒として、ダイハツのアトレー7、三菱のタウンボックス・ワイドとかね。軽のワゴンに1リッタークラスのエンジンを積んで、座席を3列にしたやつ。
Everylandy1_s ちなみに、このエブリイランディは2+2+3の7人乗りです。これが実はちょっと珍しい。今のミニバンも2+3+2のパターンが多い中、けっこう貴重です。すなわち、2列目が独立したキャプテンシートになっているわけですね。結果として、ウォークスルーになって非常に便利です。
 なんといっても、7人乗りにしてこの小ささ、取り回しの良さは素晴らしいですね。最小回転半径も4.5メートルで本当に小回り君と呼ぶに相応しい。シエンタでさえ5.2メートルですからね。気持ち悪いほど小回りしてくれます(笑)。
 私は外観もひそかに気に入っています。本当は小さいくせにけっこう大きく見せるフロントデザインです。ま、それがギャグと言えばギャグなんですけどね。一時期流行った光り物で構成してあるエセ・ラグジュアリーって感じ。
 左スライドドアを開けるとにゅっと出てくるオート・ステップもいいですね。みんなビックリします。あれは便利ですね。ちょっとしたぜいたく。子どもも喜ぶ。
 左右ともスライドドアであり、またその窓も全開になりますから、非常に解放感があります。剛性的にはなんだか不安ですけど。
 もちろん、普通の人からするといろいろ不満もあるでしょう。1300㏄のSOHCエンジンは実にうるさいし、一人乗車だと妙に非力に感じます。軽のボディーに軽の2倍の排気量のエンジンを積んでいて、なんで軽より加速が鈍いんだ!と。しかし、不思議ですねえ、たとえば7人乗ったりすると、意外に余裕がある。まあ、結局、馬力よりもトルクで勝負するセッティングなんでしょうね。
 うるさいのは、キャブオーバー・レイアウトだということもあります。つまり、助手席のお尻の下にエンジンがあるんですよ。だから、うるさいだけでなく熱い(笑)。冬場は自然のシート・ヒーターでいいんですけど、夏は妙にケツが熱い(笑)。運転席でもそうですから、助手席に座った人は、きっとお尻にあせもができます。
 それから、まあとにかくよく揺れる。ピョンピョンはねる。コーナリングではなんだか倒れそう。私はもともとジムニー乗りでしたから、そういうのに慣れているどころか、そういうのが好きなんですけどね。普通の人は壊れたんじゃないかとビックリするでしょう。さすが実質軽自動車です。
 ちなみに私のは4WDです。寒冷地なので当然の仕様です。普通のフルタイム四駆なんですが、ふた冬過ごしてみて、雪道での走破性はけっこう高い方だと思いますよ。最低地上高もまあそこそこですし。
 燃費は普段乗りで12キロくらい。今回のような長距離高速運転ですと15キロくらいまで行きます。まあまあでしょうか。
 2年前、この車の中古車を探していたんですね。で、埼玉で6000キロしか走ってない程度のいいこの車輌を見つけまして、パンダを売り払って購入したのです。今では、本当にいいパートナーです。今まで乗った様々な車の中でも、かなりのお気に入り上位にランクされますね。
 またこういうコンセプトのミニミニミニバン開発されないかなあ…。やっぱり安全性の問題なのでしょうか。
 あ、そうそう、一つ今回の東北道で思ったこと。SAで給油しようとしたら、ものすごい給油渋滞になってました。で、しばらく並んで、給油口の場所(右か左か)で2列に分かれるじゃないですか。このランディ、給油口が右側にあるんですね。ですから左の列に行ったら、そっちは全然混んでない。右の列を見ると、相変わらずの大渋滞。すなわち、車体の左側に給油口がある車の方が圧倒的に多いみたいなんですよね。これってどういうわけなんでしょうか。実際のところ、どちらの車の方がどのくらい多いんでしょう。妙にそれが気になりました。

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2009.09.18

「早く終われ」はやめましょう。

20090919_85328 日は接心。学校に宿泊して座禅やら作務やらにいそしみます。
 写真は座禅しながら目撃した富士山の発光現象です(って全然「無」になってませんね)。これは夕方ではありません。夜です。たまにこういうことがあります。いちおうまた地震などに気をつけましょう。あんまり恐怖を煽るのは好きじゃないんですが、知ってて言わないのもどうかと思うので。
 さて、接心という行事(お坊さんの修行の真似事)をしていますと、とにかく全てに「早く終われ!」って思っちゃうんですね。座禅はもちろん、ゴミも枯れ葉も何もないところひたすら掃く作務(さむ)も、そして、正座していただく薬石(夕食)や粥座(朝食)や、あと写経や読経なんかも。
 つまり、全然「なりきる心」になってないってことです。この前の横尾忠則老師のありがたい説法にもありました「なりきる」ということ。結果や目的にとらわれず、その時々の行為、作業に没頭すること。それがなかなか難しい。と言うか、それができれば立派なお坊さんになれますよね。
 今回の接心、私にとってはもしかすると高校生とは最後のものになるかもしれません。ですから、それなりに「なりきろう」と思って臨んだんですが、結果は惨々たるものでありました。だいいち、富士山眺めながら座禅してるようじゃダメですよねえ。
 ただ、一つ確認したことがありました。前々から思っていて、時々生徒にも話していたことですが、なんだか今日はそれを痛感したので、ここに記しておきます。
 先ほど書いた「早く終われ!」についてです。これってしょっちゅう思ってしまうことですよね。別に修行みたいな辛いことじゃなくても。たとえば自分が生徒時代なら、「このつまんねえ授業、早く終わらねえかなあ…」なんて思いながら時計とにらめっこするなんてのは、それこそ日常茶飯事でした。今でもそうかも。授業してても、やたら時間が長く感じられることがある。もちろん逆にのってる授業(ほとんどが雑談ですが)の場合、あっという間に時間が過ぎてしまう。
 まあ、そういう時間論は今までも書いてきましたし、これからも「モノ・コト論」に絡めてたくさん書くでしょうから、今日は割愛。
 それでですね、とにかく、我々はイヤなこと苦手なことつまらぬことをやってる時、あるいはやらされてる時は、時間が早く過ぎてほしいと願うわけです。当たり前ですね。
 でも、考えてみると、それってとっても恐いことじゃないですか?早く時間が経過しろって思うことはですね、つまり「早く死にたい!」っていうのと同じなんですよ。
 そんなこと当たり前です。私たちは必ず死にます。その時は必ず来ます。今も1秒ごとに、いやこの刹那にどんどんそのゴールに近づいています。ですから、早く終われ!と思うことは、時計を早回ししたいと思うことであり、それすなわち早くゴールに着きたい、つまり「早く死にたい」と願っていることになってしまいます。
 もちろん、これは実に短絡的な結びつけではあります。しかし、この真実を案外私たちは忘れています。あまりに短絡的だからでしょうか。
 私たちは普段は本気で死にたいとはあんまり思いません。そう思って実際自ら命を絶ってしまう人も年間3万人も日本にはいますが、それはそれで大変にエネルギーのいることで、決して日常的な思考と行為ではありません。
 しかし、一方で、今言った「早く終わんねえかな」という思考はとっても日常的じゃないですか?もしかすると誰しもが一日に一度は思ってしまうかもしれない。今日の私なんか何度も思っちゃいましたよ。
 今日はそのたびに、「あっやばい」と思ったんです。昨日の「毛」の話じゃありませんが、やっぱりそれなりに歳をとって、おそらく人生の折り返し地点を通過したからでしょうかね。楽しい行事や番組がもう終わりそうだと思うと、急に切なくなるのと一緒でしょうか。うむ、これぞ「もののあはれ」なのか。
 と、そんなわけで、我々に「早く終われ!」と思われてしまう、つまり嫌われてしまう「時」というのが日常にたくさんありますよね。それって、たいがい自分へのこだわり、執着によって生まれてきてしまうものです。自分の「コト」、つまえ「自分の思い通りにしたい」という欲求というか本能によって、自然に生まれてしまう負の感情です。これぞ「煩悩」というヤツでしょう。やっぱり座禅をはじめとする仏教の修行の一つ一つは、それらに気づき、それらと闘うための「智恵」なんですね。
 そんなことを今日、「早く終われ!」と思いながら、ちょっと悟ってしまいました(苦笑)。
 これからは、なるべく「早く終われ」とは思わないようにします。思ってしまった時は、「早く死にたい!」に翻訳して、わざと自分で否定するようにしますわ。
 あっそうそう、も一つ、面白いことに気づきましたよ。「いつまでも続いてほしい」と思う、究極の至福の時間は、あっという間に過ぎてしまうということです。ほとんど気づかないうちに。もっと大切に、じっくり味わいたいのに、無情にもそれは無意識のうちに、一刹那のうちに終わってしまいます。今日もそうでした。それは何でしょうか。
 それは…「睡眠」です(笑)。

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2009.09.17

『くし付きマユはさみ2way』 (貝印)

000kq0809_w1 史的な政権交代よりも歴史的かもしれない。
 うむ、これは画期的だ。
 おそらく、縄文時代以来であろうと思われる人類の悩みがやっと解決しました(?)。
 今朝、いつものようにNHKを観ていたら、私の好きな「まちかど情報室」で、「上手にカットできます」というのをやってました。
 で、その二番目の商品の紹介で眉毛のカット用はさみの紹介がありました。すると、そばにいたカミさんが、「あっそれ、昨日買った!」と言って、まさにその商品を私に差し出したのであります。なんというタイミングの良さ。
 私も40過ぎた頃から、自らの体の退化に気づくようになりました。老眼になるとか、記憶力が低下するとか、そういう予測していたもののほかに、まず最初に加齢による退化が見られたのは「毛」関係ですね。頭髪は剃髪しましたからそれほど問題ではないのですが、その他の毛ですね。いわば、きれいな草原が荒れだしたというか。
Images たとえば鼻毛ですね。41歳のバカボンのパパの鼻毛が見事に風にそよぐように、私の鼻毛も放置しておくと、いつのまにか鼻の穴から顔をのぞかせるようになりました。まさに長い鼻毛は「おやじ」の象徴ですね。
 これは気づいた時に切ればいいので、それほど問題ではありません。だいいち鼻毛は長くなると、鼻の中がムズムズするので、バカボンのパパのようになる前に自然に切りたくなります。ちなみに近い内に「鼻毛カッター」を導入するつもりです。はさみで切るのもいいのですが、ちょっと手間がかかるので。
 いや、「鼻毛カッター」導入にはちょっと躊躇する面もあります。鼻毛というやつは、ありゃあ案外難敵であるとも言えますよね。どんな屈強な大男でも、鼻毛を引っ張られる(あるいは抜かれる)と、涙がちょちょぎれます。いわば人間の隠れた弱点であります。「鼻毛カッター」というシロモノ、一見するとどうもその鼻毛を引っ張られるように思えますよね。もし何かの拍子に鼻毛を引っ掛けて、あのトルクで回転されたら…想像するだけで涙が出ます(笑)。
 おっと、鼻毛の話だけで終わってしまうところだった。その他の毛です。眉毛についてはあとに取って置くとして、案外ショックだったのは「バイ毛」ですね。すんません、きもい話で。
 女の人のパイ毛についてはよく知りませんが、男のバイ毛というのは、若い時は意外にきれいに生えそろっているものです。私もそうでした。ピンクの乳輪の周辺を繊細な毛が美しい左巻きを描いていたものです。それが、気がつくとですね、いつのまにかすっかり荒れてしまっていたのです。長さはバラバラ、太さもバラバラ、方向もバラバラ、全く美しくありません。
 これはショックでしたね。別に誰に見せるものでもありませんが、自分の美意識がそれを許さないのです(冗談ですよ)。ついこの前、とうとう堪え切れずに、ハサミで切りそろえてみました。しかし、もともとがバラバラなキャラを持ったヘアーたちですから、長さを揃えたところでどうにもなりません。どうにもならないどころか、かえって不自然になってしまいました。失敗です。
 おっと、パイ毛の話で終わってしまうところだった。で、今日の本題眉毛です。
1155718334180531 長い眉毛というのは、世界共通で「長老」「仙人」の象徴みたいなものですね。すなわち極端に長い眉は「智恵」のシンボルであるわけです。しかし、そこに至るまでの中途半端な「長い眉」は、どうにもいけません。智恵どころか「煩悩」、あるいは「スケベ心」のシンボルのようです。
 で、それが気になり始めたころから、私はハサミで眉を切りそろえるようになったんですね。3年くらい前からでしょうか。放置しておくと、案外早く一部の毛が長くなってくる。
 いやはや、生徒には「眉毛の手入れなんてしてるヒマがあったら勉強でもしろ!」と言ってたくせに、自分がまさかこんなに真剣に鏡に向かうようになるとは(苦笑)。
 しかし、眉毛をカットするというのは実に難しいですね。鏡を見てやるという難しさもありますが、眉毛自体がもともとそれほど長いものではないので、その微妙なカットがけっこう難しいんですよね。ちょっと切りすぎたりすると、とんでもなくカッコ悪くなっちゃう。
 いやあ、生徒が命をかけて真剣に眉毛に青春をかける意味がわかりましたよ。たしかにこういう失敗の許されない緊張感というか、繊細な手先での作業というか、そういう精神的にも技術的にも「真剣勝負」するというのは、これは悪いことではありませんね。私は若い時は全然そういうのに興味がなく、眉毛なんか完全に放置してましたので、今になってこんな「マジ」を経験するはめとなっています。
 その難しさとは、まさにその繊細さにあるわけですが、具体的に言うと、つまりコーミングしながらその一部長くなった毛の長くなった部分だけ切断するという作業ですね。これを鏡像の中でやらねばならない。それも左右両方であり、右ができたからと言って左ができるとは限りません。それで、今までも復元不可能な失敗を何度かしてしまったのです。
042717 そんな複雜極まる整眉作業の強い味方が、この画期的なハサミです。これはすごい。コーミングしながらカッティングできるんですから。まさにかゆいところに手が届くという感じです。孫の手の発明はいつか知りませんが、それよりもエポックメイキングな発明だったのではないでしょうか。縄文人が知ったら泣いて喜びますよ。彼ら眉毛濃いから(笑)。
 というわけで、これからはこれをカミさんに借りて眉毛を整えます。
 しかし、一つ悩みが。どのタイミングで長髪ならぬ長眉にするか。つまり智恵ある長老になるか。これは難しいぞよ。

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2009.09.16

祝or呪? 鳩山内閣発足

↓何、この図は(笑)
Pn2009091601000773ci0002 うむ、これほど茶化しにくい内閣はないなあ。今までこのブログでは、小泉さん、安倍さん、福田さん、麻生さんと、さんざん愛情込めて茶化してきたんですけど、さすがに鳩山さんのことはポッポなんて言えないなあ。娘たちはテレビに顔が映るたび「ポッポ、ポッポ」って言ってますが。
 いや、ポッポはまあいいんです。この前も書いたように、彼自身はそれほど罪深い人間ではありません。案外人間臭いいい人です。いい人すぎて、はたして官邸でのドロドロの人間ドラマに耐え得るか。人情を解する人ほど命を縮めるのが官邸であります。
 それにしても、今回の閣僚はヤバいですねえ。ま、恐れていた輿石東先輩(大学の先輩に当たるんですよ、困ったことに…笑)の文科相就任がなかっただけ良かったか。
 その代わりと言ってはなんですが、いや、その代わりだな、川端達夫さんが文部科学大臣になったというのも、なかなか憂慮すべき事態です。彼とですね、これまた輿石さんの代わりと言っていいと思いますけど、山梨から抜擢された環境相の小沢鋭仁さんね、このお二人は「パチンコ王」ですよ。笑っちゃいますよ。
 そこに法務大臣の千葉景子さんが加われば、そりゃあ方向性が見えてくるというものです。50万とも言われる、今まで参政権のなかった新しい支持者層を獲得せんとするのでしょう。
 まあ、それらを含めて、今後、アジアの外交関係は一見好転するように見えるでしょう。その代わりに対米関係はぎくしゃくするでしょうけどね。とりあえず、目先の面倒な問題はずいぶんと軽減するように見えるでしょう。しかし、そのツケは10年後、いや5年後に必ず現れますよ。予言しておきます。
 実はこの流れは小泉さんの時に始まっているんですよね。そういう意味ではアメリカは大きな失敗をしました。アメリカのつけ入る隙を作ってあげたつもりが、違う人たちが入ってきてしまった。それで、それまでずっと日本が保持してきたバランスが崩れてしまったんです。
 もうこうなったら、訳分からん話に持っていきますよ。あっち系の話にします。
 バランスというのはですね、ある種の霊的なバランスなんです。笑わないで下さいね。あるいは引かないで(笑)。
 巨大化しすぎて腐敗してしまったとは言え、自民党がずっと引き継いできたモノは、縄文的な調和世界でした。我良し、強い者勝ちの弥生的世界ではなく、懐柔的で談合的であり、本質的にはちゃんと富の再分配機能も持った長期安定的な性質のモノだったのです。もちろん、そこには、ヤクザさんや右翼さんや、あるいは天皇さんなど影がちらちらと見え隠れしていました。そういう人たちこそが、ある種の必要悪として機能していたのです。
 それに対して、民主党には弥生系のDNAが色濃く流れています。一般の方々、あるいは民主党員の方々、特に新人議員の方々には、よく分からないかもしれません。しかし、今回の組閣を見れば分かるとおり、今まで虎視眈々と実権獲得を目指していた、ある方面からの力学が働いているのは明確です。
20090916at3s1602z160920091f 今回の政権交代を、明治維新以来の革命的事件と見る向きもありますが、私はもっともっと大きな意味というか危険があるとも感じています。日本史上、最大の政権(霊権)交代って何かご存知ですか?
 今から時を遡ること、なななんと2000年以上。縄文人が平和に呑気に1万年も(!)狩猟採集生活と個性的な土器作りを続けていた時、朝鮮半島から海を渡ってきた一団がいました。彼らは、農耕やら鉄器やら政治システムやら、とにかく当時の呑気人にとっては革命的に近代的なものをたくさん持ち込みました。
 そんな彼らがついでに持ってきたものに「病気」がありますね。感染症です。実際、最近の研究では、縄文人の勢力衰退には、結核もしくはインフルエンザのパンデミックが関わっているというのが有力な説です。
 折しも、新型インフルエンザの騒ぎが起こっている現在の日本。なんだか不穏な空気が流れていますね。もしかして政権交代どころの騒ぎじゃないのかも。民族交代、霊権交代再びとか。これは偶然とは言えないでしょう(いや、偶然だと思いたい)。
 ああそうそう、新型インフルエンザですが、重篤になるかどうかは、やはり民族的なものが影響していると思いますよ。単純に強毒化するとかそういうことじゃなくて、たとえばメキシコであれだけ猛威を振るったのは、民族的な問題でしょう。先日、日本でも、沖縄で若い健康な女性がお亡くなりになりました。残念なことですが、そういうことなのでしょう。
 さあ、それでこれからの日本はどうなるか。
 ポッポさんのお手並み拝見と行きましょうか。
 ところで、そうした弥生政権の長である鳩山さん、岡田さんとともに某神道系教団の関係者なんですね。あの教団も今となっては大した霊力を持っていませんので恐るに足りませんが。せっかく縄文の地に本部を作ったのに、あらぬ方に向いちゃったからなあ。
 なんというか、右も左も縄文も弥生もなく、古今東西硬軟聖俗ひっくるめてコトを為せる大物フィクサーが現れませんかね。小沢さんもいまいちスケールが小さいしなあ。
 こうなったらアントニオ猪木さんに総理になってもらいますか(笑)。

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2009.09.15

「無理」はやめましょう。

20090916_80754 論文指導の季節です。それも含めて今日はとにかく文章を書くことが多かった。自慢じゃないですが、今日だけで15000字ほど書きました。卒論並みですな。
 そんな中、看護学科志望の生徒の指導をしておりましたら、星野富弘さんの文章が出てきまして、障害を乗り越えて、いや障害を負ったからこそ生まれた可能性の話を読むこととなりました。
 ちょっと話がそれますが、最近いろいろなシーンで気になること。ウチの娘もそうなんですけど、とにかく今の若い人たち、すぐに「無理」と言う。もちろん、私たちが考えているよりも軽い気持ちで「ムリ」と言っているんですけれど、なんかとっても気になります。
 子どもや生徒だけでなく、仕事上もそういうことが多い。最初から「無理」と言ってしまうと、それこそ可能性がそこで絶たれてしまうような気がするんですけどね。
 私は頼まれたら断らないを主義にしていますので、そういう発想や発言が信じられません。「無理」をごまかしてでもなんとかするのが、自分を発展させる唯一の方法だと思うのですが。
 ワタクシ流の言い方をすれば、想定外、不本意、不随意、外部からの来訪者たる「モノ」をどんどん受け入れろということですね。
 ま、そんなことばかりやってるので、あれもこれもでメチャクチャ忙しくなるわけですが、この歳になって「できるようになること」がたくさんあるのは、結構楽しいものです。生物学上退化していくことも当然ある中、進化していくこともあるので、加齢というものも前向きにとらえられます。アンチ・エイジングなんてクソくらえですよ(笑)。
 さて、話を戻します。星野さんはある看護婦さんのおかげで、字や詩や絵画という全く新しい可能性を見つけることができたわけですね。自分一人であったら、妙な先入観やプライドが邪魔をして、そのような可能性を発見できずに終わったかもしれません。やはり他者の存在は大切です。
 一般的にハンディと思われることを、前向きな発想と弛まぬ努力で乗り越え、とんでもない境地に達した方はたくさんいらっしゃいますね。
 先月、生徒のおかげでお会いすることができたMJQのピアニストデイヴィッド・マシューズなんかもその一人です。右手の不自由な彼のピアノは唯一無二の世界を作り出していました。ちょっと語弊があるかもしれませんけれど、こんなふうにも思います。もし彼が健常であったなら、今の地位を築けたかどうか…。
 同様にジャズの世界でもう一人。この人を忘れてはなりません。天才ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルト。彼は火事のために左手の薬指、小指の機能を失います。基本親指では指板を押さえませんから、都合人さし指と中指の2本だけで演奏することになるわけですね。
 珍しい映像がありますので、ぜひご覧下さい。これぞ神業ですね。

 4本指でもできないことが、なぜ2本でできるのか!これこそ我々の先入観、常識を超える「事実」です。
 私たちは普段、そういう先入観や常識、プライドや思い込み、そして怠惰のために、自らの可能性を自ら不可能性に変えてしまっています。実につまらないことですね。
 私もそろそろ人生の成熟期を迎えつつあります。できなくなることも加速度的に増えてくるでしょう。それに負けないように、「できる」ことを日々増やしていきたいと思っています。
 まずは「ムリ!」はやめましょう。「無理」は積極的にしますが(笑)。

Amazon 新版 愛、深き淵より。

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2009.09.14

『不滅の歌謡曲 (NHK知る楽 探求この世界)』 なかにし礼 (日本放送出版協会)

20090915_64449 8回シリーズの、今日は7回目の放送でした。「ヒット・システムの明暗」、最も楽しみにしていた回です。私にとってのリアルタイム歌謡曲にようやくなりました。
 つまり、歌謡曲の歴史のほんの先っちょしか、私は知らないということですね。先日、私はビートルズ第2世代だというようなことを書きましたが、歌謡曲についてはいったい第何世代なんでしょうか。
 まあ、そんなこと言ったら、私の演奏するバッハは、じゃあ第何世代なんだってことですけど(笑)。
 私は古楽界の人間ですので、そのバッハの時代の音楽を勉強してきました。それと同じように、ここ数年は歌謡曲の世界にもどっぷりつかっているで、こうして歴史を勉強しなくてはならない、というか、したくてしかたないわけです。
 このブログでも、読むJ-POP 1945-2004増補 にほんのうた 戦後歌謡曲史歌謡曲の構造などの書籍を紹介してきました。
 それらは評論家や学者さんなどの手によるもので、どちらかというと音楽的な見地から書かれたものでした。
 それらに比べますと、なかにし礼さんの「不滅の歌謡曲」は、「作詩家(作詞家ではない)」の立場から書かれたなかなかバランスのいいものです。「言葉」の面と「音楽」の面と、そして「ビジネス」や「社会」の面から歌謡曲を解き明かしていきます。いや、逆に「歌謡曲」からそれらを解き明かしているとも言えるかも。
 ある意味では、やや雑駁な印象を与えかねない内容と構成ですが、そんなところに、なかにしさんの溢れ出る歌謡曲への愛情や、歌謡曲を通じて我々に伝えたいことを感じることができるとも言えるでしょう。
 テレビの教養講座のテキストですから、そんな感じでもいいと思います。
 第1回から第6回までもなかなか面白かった。なかにし礼さんのこだわりというか、伝統と革新のバランス感覚というか、まあ結局は和と洋のせめぎ合いということになるのかもしれませんけれど、そういう衝突と和合から生まれる「ムスビ」の力をしかと感じましたね。
 意外と言えば意外だったのは、「五七五」と「起承転結」をわざと崩したということでしょうか。それはある意味日本語や日本の伝統的表現を壊したとも言えるわけです。破壊は創造の母、破壊の勇気が時代を動かしていくわけですね。
 三拍子に関する考察は、まあ普通としまして、軍国主義と歌謡曲の関係の部分は、比較的語られなかったことだったので勉強になりました。
 そして前回と今回。歌謡曲が戦後の音楽産業の変化にさらされて変質していきます。今日の第6回でもそうでしたが、その辺の変化に対するなかにしさんの反応というか姿勢というのが、実に微妙で面白かった。時代を変革した自分を超えて、さらに誰かによって時代が変わっていく。そして、自分は前時代の遺物になりかける…。そんな時の複雑な心境が、回顧という形の中でも、痛いほど伝わってきましたね。
 たとえば、シンガーソングライターの登場。ある意味「シロウト」集団が音楽界を席巻していきます。そこで一瞬たじろぎながらも、結局はその土俵で大ヒット作「時には娼婦のように」を世に出します。頑ななようで実は柔軟という、なかにしさんの特性がよく現れている事件ですね。いろいろな矛盾を自分の中で消化していける、なかにしさんのそういう心の強さを感じずにはいられません。
 そして、先日のSLSで私も再確認した桑田佳祐(サザンオールスターズ)の偉業に対するコメントが面白かったですね。やはり、桑田さんは革命を起こしたと。日本語をぶちこわしたと。そう、彼の日本語はすでに純粋な日本語ではなくなっています。英語と同レベルの「雰囲気語」なのです。それはある意味では、なかにしさんの最も嫌うべき存在なはずです。全ては「詩」から、全ては「言葉」の力からと言うなかにしさんの歌謡曲観からすれば、許さるべからざるもののはずです。
 しかし、結局認めていましたね。受け入れると。私も最初はなんなんだ?と正直思いましたが、やはり桑田佳祐さんがなしえた革命はすごいと認めざるを得ません。
 つまり、こういうことなんです。実は非常に単純。たとえば、私が小学生の時、英語も分からずビートルズに感動した、あれです。言葉の意味は分からずとも、ああして最大級の感動や共感を得ることができる。言葉の雰囲気や、純粋なメロディーや和声やリズムの素晴らしさというものがある。
 実際の私たちの生活の中では、言葉にできない感動や感情というものが本当にたくさんあります。桑田さんは、それを日本語風な言葉で表現してしまった。純粋な音楽を輝かせる一つの演出としての「雰囲気語」とういものを発明してしまった。これはすごい。実際、私も四半世紀ぶりに桑田節を生で体験し、どうにも表現できない、甘酸っぱい切なさや、どこか頼りないけれども忘れられない幸福感というものをしっかり味わってしまいました。
 というわけで、今日は結局、天才なかにし礼の言葉から、天才桑田佳祐の偉大さを実感してしまったのでありました。日本の歌謡曲は、彼によってやっと「日本語」から、「言霊」から解放されたのです。そんな彼が「 愛の言霊(ことだま) ~Spiritual Message~」なんか歌ってたんだから、やっぱりすごいですね。
20090915_85948
Amazon 不滅の歌謡曲

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2009.09.13

『みるく菩薩』 @ 富士ミルクランド

↓click!
Uni_3020_6 日はいい天気でした。カミさんがテニスの試合に行ってしまったので、1日子どもたちとまったり過ごしました。昼過ぎ、ちょっとどこかへ行こうということで、近所の姉妹も誘い、女の子4人を連れて朝霧高原の「富士ミルクランド」へ。
 ミルクランドは比較的よく遊びに行くところです。5年前にこんなふうに書いてますね。あれから経営母体が変わったり、まあいろいろあったようですけれど、今日もかなりの数の家族づれで賑わっていました。
 ちなみに5年前に「ミルクランドの臨時駐車場の一つになっています」と書いた例のオウムの本部跡は、今では「盲導犬の里 富士ハーネス」になっています。
 さて、今回初めて見ることとなったすごいモノがありました。それが「みるく菩薩」です。「みろく菩薩」じゃありませんよ、「みるく」です(笑)。
 もちろんシャレでしょう。こういう神仏をも恐れぬ、いや、神仏をもネタにしてしまう、いや自らの趣味で新しい神仏を作り出してしまう日本人というのはすごいですね。考えてみれば、日本の八百万の神なんてのは、みんなだいたい個人的な事情で作られたものばかりです。いいですねえ、ニッポン。
 なかなか立派な石像だったのですが、そこに添えられた言葉がまた面白かったので、ここに記しておきます。

 巨乳願望、恋愛成就、健康増進
 家内安全、商売繁盛、地域活性
 一触即益!Touch me!
 『みるく菩薩』
 みるく菩薩は、富士宮市地域力再生総合研究機構の「乳(ニュー)ディール政策」により、新たな観光スポットの創出を目指して建立されたもので、富士山の恵み、地域愛の化身です。あなたも触って愛を感じて下さい。

 どうですか。なかなかセンスでしょ(笑)。私もしっかりタッチしましたから、きっと巨乳になれるでしょう。しっかし、「巨乳願望」が最初に来るっていうのが最高だな。富士宮みるく学会って何の研究してるんだろ。
 ところで、私も富士宮みるく学会に負けず劣らずの謎の存在ですから、このみるく菩薩を拝みながら、いろいろと妄想してしまいましたよ。
 まず、「みるく」の元になったと思われる「みろく」。こちらにありますように、出口王仁三郎が目指す理想郷が「みろくの世」です。そして、その象徴は天教山たる富士山であるとも言えます。そこに「みるく菩薩」が出現したとなれば、きっと「みろくの世」到来も近いのではないか…笑。まずは「みるくの世」の実現を図りましょう。
 それから、牛に乗った神仏と言えば、「天神様」ですね。富士北麓の明見には桑原一族が住んでいます。桑原氏は道真公の末裔でしょう。「くわばら、くわばら」っていうやつですね。
 それ以外の、牛に乗った神仏と言うと大威徳明王が有名でしょう。六面六臂六脚のちょっと怖い神様です。大威徳明王は阿弥陀如来、文殊菩薩が人々を導くためにあえて怪物のような外見になって現れたとか。
 牛頭天王もたまに牛にまたがってますね。スサノオと習合していることも多い牛頭天王。そういう意味でも王仁三郎や富士山と微妙に縁があるとも言えます。
 それから、なんと言ってもシヴァ神ですね。破壊神。ヒンドゥーの神ですから、それは牛にも乗ります。そう言えば、オウム真理教では、シヴァ大神を最高神としていましたっけ。あれはヒンドゥーのシヴァとは違うらしいのですが、ミルクランドのすぐ近く、上九一色の第7サティアンで、サリン製造のプラントを隠していたのは、巨大なシヴァ神像でした。なんとも因果な話ですな。
 ま、そんなことも何も考えず、こうして能天気で平和な仏像を作ってしまう妙なパワー、それこそが日本独特の再生力なのでありましょう。私はけっこうそういうノリ好きです。
 ぜひ、皆さんもタッチしに行ってみてくださいな。

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2009.09.12

『よみがえるビートルズ THE BEATLES Reborn』 (NHK)

20090913_100618 日はビートルズ・デーでした。まずは、深夜に放映されたNHKの「よみがえるビートルズ」の録画をじっくり鑑賞。そして、夜はたまたま近くで合宿をしていた「東京クラシカルシンガーズ」の宴会にお呼びいただいて、私の即興ピアノに乗せてビートルズの名曲をみんなで合唱いたしました。楽譜がなかったので、なんだかメチャクチャな伴奏になってしまいました。ゴメンナサイ。ま、楽譜があっても私の演奏はあんなものですけど。
 この番組はBBCとアップルの共同制作「THE BEATLES IN THE STUDIO」にNHKがちょっと手を加えたもののようでした。主に彼らのレコーディング風景とインタビューからなる内容でした。素材的には特に目新しいものをなかったとは言え、こうして改めて彼らの業績を凝縮して観て聴きますと、またまた新鮮な発見があるものです。
 私自身、彼らの活動中に生まれ、彼らに音楽の世界に引き込まれ、今こうして様々なジャンルの音楽を演奏するようになりました。そうした自己の音楽経験を積めば積むほど、彼らの偉大さを知ることになるんですよね。
 特に最近は、ヨーロッパ近代音楽の集大成としてのビートルズと、民族音楽の継承者としてのビートルズという両面からの発見が多いですね。
 ここ数年、仕事上1920年、30年の音楽を勉強することが多かったんです。最近ではガーシュインやラヴェルですね。彼らの音楽を知るとまたビートルズが違って聴こえてきますよ。
 ビートルズの強みの一つはあのコーラス・ワークだと思いますが、そこにラヴェルらが具現化した和声構造が見え隠れします。初期からそういう傾向がありますから、単純にジョージ・マーティンの入れ知恵だけではないと思います。
 おそらく彼らはイギリスという風土の中で、自然に民族音楽的なものと近現代ヨーロッパ音楽的なもの両方を体にしみ込ませていたとは思います。それを若さという「実験性」と「自由さ」によって見事に昇華していったのが、彼らの業績なんですね。
 彼らがコンサートを離れ、スタジオにこもっていくのは、まさにビートルズが多くの歴史的なヨーロッパの作曲家と同列に「作曲家」であったことの証拠となります。それは、グレン・グールドがスタジオにこもるのとは本質的に意味が違うのです。
 この番組での4人(+1)は、ロック・バンドではなく、明らかに一人の(一つの)作曲家でしたね。総体としての一作曲家。それもまた、音楽史において革命的なことでした。革命的かつ奇跡的。なぜなら、そういう革命が起きたのち、それを同レベルで継ぐ者どもは出現していないからです。あの時期にあの4人があそこに集まったことが、すなわち奇跡だったのです。
 ところで、宴会ではほかにも美空ひばりやら松田聖子やら、それからビリー・ジョエルとかカーペンターズとか、イギリス歌曲とかバッハとか、いろいろな音楽が入り乱れていたんですよ。でもやはり、その中で際立っていたのは、ビートルズでしたね。それぞれ優れた天才的作曲家の音楽であったわけですが、ビートルズの、伝統に則った革命性というのは、これは孤高です。大衆性や商業性という、芸術にとっての敵さえも取り込んで巻き込んで成長してしまったのですからすごいですよね。
 そんなとんでもないことを、彼らは20代でやらかして、そしてやり終えてしまったんです。大変なことです。自分の20代なんて、な〜んもありませんでしたからね。すごすぎますよ、彼らは。
 おそらく彼らと同レベルでの音楽的革命は、この後1000年はないでしょう。いや、もうないかもしれない。音楽の進化の可能性はもうほとんどないと考えられているからです。我々、音楽を聴き、感じる側に革命が起きないかぎり、たしかにそれは難しいでしょう。しかし、こちら側の革命の可能性もほとんどありません。なぜなら、それはたとえばたった4人の中で起きても意味がないからです。芸術は発信者よりも受信者の方が圧倒的に多くて初めて成立するものですから。世界中の人々の音楽的感性が同時に革命的に進化する可能性はほとんどゼロでしょう。
 今月の9日にリマスターCDか発売になりましたね。これを機会に私ももう一度ビートルズを全部聴き直してみようかと思っています。
 ずっと前に一度書きましたが、無人島に、いやあの世にたった一つ「音楽」を持っていくことが許されるとしたら、私はビートルズを選びますね。彼らの音楽には、人類の音楽史のエッセンスがたっぷり入っているからです。少なくとも、私が親しみ愛してきた西洋音楽の全てが凝縮されていることはたしかですから。

Amazon ザ・ビートルズ・ボックス

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2009.09.11

「9.11」からいろいろと

20090912_100156_2 生さん、哀愁のお引っ越し。公邸を引き払ったそうです。これからは自宅でゆっくりできますね。
 さあ、今日は9.11ですね。2001年のあの日を思い出します。
 なんと私はあのテロを知らずに寝床についてしまっていたんです。10時に寝ちゃう人なんで。で、翌朝もニュースを見ずに出勤。尋常ならぬ学校の雰囲気に初めてあの大事件を知りました。そんなこともあるんです。私くらいでしょうね、学校の先生でこんな呑気だったのは。
 さて、世間では9.11と言いますと、この2001年の同時多発テロが真っ先に思い出されるのでしょうが、私はどちらかというと、2005年の総選挙の方が印象深い。
 そう、小泉さんによる郵政民営化選挙ですよ。あれも9月11日でした。自民党が圧勝しましたよね。しかし、歴史的圧勝と言っても、自民党296議席ですからね、今回の民主の圧勝ほどではありませんでした。
 今になって、4年前のあの選挙や小泉改革について、いろいろ言う人がたくさんいます。あの時勇んで自民党に投票した人の中で、今回民主党に入れた人の割合ってどのくらいなんでしょう。けっこう多いような気がしますね。
 4年で人はそれほど変わってしまうんでしょうかね。また4年後がたのしみです。
 民主党と言えば、民主党にとっても9.11というのは記憶すべき日です。1996年の9月11日、旧民主党結成のきっかけとなる「民主党設立委員会」が立ち上がりました。その時は、今は自民党員として兄と袂を分かった鳩山邦夫さんも参加していましたっけ。これまた、人心の変化を象徴しているのかもしれませんね。
 今から13年前のことですが、その時はどうだったんでしょうね、こんなふうに政権を取ることになるとは思わなかったのかもしれません。結局、最後の大逆転で、兄は弟に勝ったとも言えましょう。邦夫さんのお気持ちは今どんなものなのでしょうか。
 鳩山兄弟と言えば、鳩山兄弟にとっても9.11というのは記憶すべき日です。1976年の9月11日、鳩山兄弟のおじいさん、ブリヂストンの創業者である石橋正二郎さんが亡くなりました。足袋屋さんから、ゴム製品製造業に転じ、ブリヂストンを世界的企業に育てました。今やミシュランを抜き去り、世界一のタイヤメーカーですからね。日本人でお世話になっていない人はいないでしょう。
20090912_131549 もひとつついでに、鳩山家と石橋家と言えば、作曲家團伊玖磨さんのことを忘れてはなりませぬ。鳩山兄弟からすると、團伊玖磨さんは義理の叔父さんに当たるのかな。系図を見ると、ぐるっと回ってまたくっついてる。
 それにしても、鳩山兄弟はなかなかの色男ですよね。お二人とも芸能人を射止めていらっしゃる。鳩山由紀夫さんの奥様は元宝ジェンヌの幸さんですし、邦夫さんの奥様は元ライダーガールズのエミリ(ー)さんです。こんなところでも兄弟は張りあっていたんじゃないでしょうか。まあ、いいライバル関係だということでしょう。
 兄にしてやられた弟は、さてこれからどういう動きを見せるでしょうか。兄つぶしの急先鋒となることを希望します。骨肉の争いののち、はたしてどちらが勝つのか。楽しみですね。なんて、案外またくっついちゃったりして。
 なにしろお二人はブリヂストンの株を、それぞれ邦夫が375万株、由起夫が350万株お持ちだそうですから。時価100億円くらいでしょうか。

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2009.09.10

『横尾忠則 人生は大冒険』 プレミアム8 (NHK BS-hi)

Hijikata_4_3 あ、勉強になりました。こういう老師のお話が一番勉強になる。
 昭和の偉人の一人、いや、もちろん平成でもそのパワーは衰えるどころか更にアップしているように見える横尾忠則さん。このインタビュー番組でも、横尾言語が炸裂しておりました。飄々と静かに緩やかに、しかしエネルギッシュ。
 このポスターは私の一番好きな作品の一つ。そう、まさかこれがですね、ウチのカミさんのお母様の実家の前の田んぼの稲架(はさ)だとは夢にも思いませんでしたよ。そのへんの事情については、こちらに書いた通りです。
 ちょっと先に書いておきましょう。なんで、昭和のアーティストって、みんな文がうまいんでしょう。うまいというか、みんな「○○言語」を持っている。土方巽、田中一光、寺山修治、武満徹、美輪明宏といった、三島由紀夫周辺の人々は「言葉」で対等に結びついていた感じがしますね。最近で感心したのは、建築家の白井晟一さんです。あと、ある意味アーティストである、長嶋茂雄とかアントニオ猪木とか。平成の世にはあんまりいないなあ。今日ちょうどこの番組の前に観ていたイチローくらいかなあ、禅問答してるなあっていうのは。
 さて、この横尾さんのインタビュー、本当に「禅」の世界そのものでしたね。
 「他人まかせ」と「模写」の青春時代。これは意外と言えば意外でした。実はこの時点で横尾さん、自己を滅却してますね。他力というか空というか。自己への執着が強いはずの若い時期に、こうして他者の意思が自分の意思と言えるような生き方をしていたことに、軽い衝撃を受けました。芸術家ってもっと自我が強いものだと思っていたので。
 しかし、そうした他人まかせな人生というのは、案外エネルギーを使うものです。つまり、自分の思い通りにならない「モノ」をどんどん受け入れていかなければならないからです。誰しもが、自分の思い通りに「コト」が進むのを望んでいますから。それを「え〜?」と思わないで受け入れていくというのはものすごい精神力が必要だと思いますよ。流されるのは決して楽な生き方ではないのです。少年、青年横尾忠則は生まれながらにして、そういう力を持っていたのでしょう。
 「模写」ばかりしていたというのも面白いですね。自己表現なんて全く考えなかったと。しかし、そうした「真似ぶ」ことと「慣らう」ことによって、彼は基礎力を養っていきました。それがのちのあの個性につながっていくのですから、ある意味「コトを窮めてモノに至る」というやつですね。
06_08a_japan 結婚後の横尾さんは「停滞」を恐れ、常に流動していきます。硬直化した「コト」にとどまらず、常に変化しつづける無常なる「モノ」であり続けるわけです。そこには当然苦悩もつきまとうわけですが、そのたびにまた彼は進化していくのでした。
 禅寺での修行の様子が流れていました。限りなく落ちるいちょうの葉を掃く作務で気づいた「目的や結果にこだわらず今やっていることに集中する」というのは、まさに禅の真髄であり妙味であります。私などそういうことを理屈では分かっているのですが、どうしても実際の作務の時には「無駄」だと思ってしまう。やはり、「目的や結果」に徹底的にこだわったことがないからでしょう。何事も極めないとダメですね。私のような中途半端な人間はせいぜい野狐禅止まりというわけです。
 画家宣言してからの彼は、ある意味グラフィック・デザイナーとしての彼よりも魅力的です。あれほどの華々しい過去をかなぐり捨てて「自己表現」にこだわるようになったわけですから、そうですねえ、やっぱり我々凡人とは逆の変化のしかたをしているのかもしれませんね。我々は、子どもの頃自由な自己表現を楽しみますが、年をとるとどんどん社会に呑み込まれて狭く小さくなっていきますから。
 しかし、その「自己表現」の欲求も苦悩とともに、また「他者」に還っていく。その循環が面白い。プライベートを目指したはずが、再びパブリックに戻っていくのです。
Pcppp 最近始めたという「PCPPP」面白いですね。「パブリック・コスチューム・プレイ・パフォーマンス・ペインティング」でしたっけ?ああやって観客(?)を前に即興的に絵筆を振るい、さらに自分も「Y字路」に立つ登場人物に変身してしまう。自分も作品の一部になるとともに、なんと言っても、究極の自己滅却してますよね。これは自分との孤独な戦いというイメージの強かった「美術」の現場を大きく変える画期的な試みだと思います。いやあ、すごい。さすが。
 私もあんなふうに年月を重ねた男になりたいですね。もちろんそんな才能はないと思っていますが、しかし、あきらめていない自分もここにいたりして。とりあえず、これからは毎日、いや毎瞬間、どんどん子どもの頃の自由さに立ち返って行こうと思っています。大冒険とは言わないまでも、小冒険くらいはしたいな。はたして、それだけのエネルギーが自分にあるのか?
 
横尾忠則公式

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2009.09.09

『フェティシズムと快楽』 丸山圭三郎 (紀伊國屋書店)

20090910_61413_2 イトルにだまされて、そっちの本だと思って読んじゃった人いるんじゃないかなあ(笑)。開けてビックリ、超硬質な「言語哲学」の本です(泣)。
 ソシュール研究の第一人者としても著名だったフランス語学者の丸山圭三郎さん、高校の国語の教科書にも出てるくらいの人ですから、もちろん我々をだまそうとして(本を売ろうとして?)こんなタイトルにしたんじゃありませんよ。大まじめです。
 こういうネット上の誘導タイトルとは違いますよ(笑)。
 AVの仲間? 激安たった1000円ポッキリの驚き 「おとこのオモチャ」調査委員会
 ちなみにこの記事は最近のデジタル一眼の話でして、まあ看板に偽りはないわけです。それと同様、この「フェティシズムと快楽」にも全く偽りはありません。誰も文句言えませんね。それも大まじめで、たしかにこれ以外のタイトルはないというくらい、内容と一致していますから。
 さて、では、なぜ私がこの本をわざわざ古本まで探して買ったかと言いますと、これはまさに私の「モノ・コト論」の援軍になってくれそうだったからです。
 ある大学の過去問にこの本からの抜粋が出ていましてね、それでこういう一節があったんです。
「コトバによって〈モノ〉が〈コト〉化する」
 まるで私の口っぷりと一緒ですね。どちらがパクったのでしょうか。ま、どう考えても私でしょうね。いや、全然そういう意識はなかったのですが、もしかするとどこかで読んでいたのかもしれません。
 けっこう私の「哲学」(?)と似たような文脈でこの文が使われていましたから、さっそく探して買ってみたんです。つまり、自分の「哲学」と丸山さんの「哲学」が一緒だったら、私が今一生懸命やってることの意味がなくなってしまうからです。再発見になってしまって、新発見ではなくなってしまう。
 で、結論から言いますと、やっぱり微妙にというか、かなり違っていたので安心しました(笑)。いや、一緒なのかもしれないけれど、視点が違うのかなあ。まあ、そんなこと言ったら、廣松渉さんや和辻哲郎さんや、ソシュールさんや、いやもっと遡って龍樹さんや、いやいやもっと遡ってお釈迦さんも同じことを言ってることになってしまう。
 もちろん私はそんな偉人たちと居並ぶようなレベルではありません。でも、言語哲学ではなくて、「日本語哲学」的に「モノ・コト論」をやっているのは、もしかすると私だけかもしれませんね。
 なら、早くその「哲学」とやらをしっかりまとめて本でも出せ!と言われそうですが、まだまだ勉強不足なので、あと20年くらい待って下さい(笑)。
 さて、丸山さんはこの本で、「身(み)分け構造」と「言(こと)分け構造」という言葉を用いています。「身分け」の方は、たとえば人間以外の動物にも共通する、本能的な世界観です。人間はそれとは違う世界観を持ち込みました。それが言語による「言分け」です。ソシュール的と言いますか、構造主義的と言いますか、今となってはノスタルジーの対象にもなってしまいましたが、「言語という道具をもってこの世を分節する。それによって初めて事物が実体化する」というような発想ですね。
 そして、丸山さんは、本能的な「身分け構造」から逸脱した「言分け構造」という「過剰」こそが、人間の「文化」だと語ります。たしかにそんな気もしますね。
 さらに「身分け」と「言分け」から、どのように「フェティシズム」や「快楽」の話になっていくかは、ぜひこの本を読んでいただきたい。なかなか面白い「哲学」が展開します。
 ところで、丸山さん自身は、最終的にどういうことを求めているかと言いますと、「言分け」によって硬直化した世界に、「身分け」的(本能的)な流動性のある生命を取り戻そうと言っているように思えるんですね。その点、私の「コトよりモノ!」という言い方と似ているとも言えます。実は難しくてよく分からないんですけど(つまり、言分けされない、硬直化していない状態…笑)。
 後半のソシュール論は面白いですね。丸山さんはソシュールの専門家として有名ですけど、一般に言われているソシュール論とはずいぶん違う立場なんですよね。「ソシュールは構造主義の元祖ではなく、その逆」という記述などは象徴的です。また、最終章の「アナグラムと無意識」は、ソシュールの狂気をめぐるミステリーという感じで、なんとも刺激的でした。
 あと、巻末の「キーワードの解説」は素晴らしい。全ての哲学者さんに見習ってもらいたいですね。やたら難しい言葉で「どうだ?難しいだろ」的な文章を書く哲学者が多い中、丸山さんの性格の良さは際立っています(笑)。
 話が飛びますが、今年は「フェティッシュスタイル」がはやりだそうですね。パリコレでもチラ見せ風なものが多かったとか。
 一般的な「フェチ」はですね、ワタクシ的に申しますと、「コト化」の最たるものでして、まさに「萌え=をかし(招かし)=所有欲」の世界ですね。そこで我々がこだわる「物」とは、我々が認知して自分のものにしたい(コト化したい)と考えた本体(たとえば女性本人)が、実際には思い通りに所有できない「モノ(不随意・不如意・外部)」であることを知って、その代わりに付随する物体を「コト化」する思考です。ですから、これは二重のフィクションなんですよね。非常に複雜、人間的、文化的な現象です。ですから、別に異常な思考、行動ではないとも言えます。
 やっぱり人間(たとえば意中の女性本体)は、「ナマモノ」であり「イキモノ」であるということですね。いくら言葉や論理や技術や科学が、すなわち我々の脳ミソが頑張っても、これだけは変えられないし超えられません。そんなことにちょっと安心したりして。

Amazon フェティシズムと快楽

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2009.09.08

モノクロページプリンタ 『LP-S1100』 (エプソン)

20090909_63521 員室の共用パソコンの調子が悪くなりまして、さすがに型も古くなっておりましたから、買い替えていただくことになりました。生徒用の物もずいぶん前から使用不能になっていたので、そちらもついでにお願いしました。
 で、機種についてはこちらで考えてくれということでしたので、まあ、組織のためにもとにかく安いものを探そうと思っていたんですが、いろいろ渉猟しているうち、全く別の考えが浮かびました。というか、それが当然という結果なんですけどね。
 こちら別棟の職員室に常駐している先生方は私を含めて4人です。みんなそれぞれのパソコンを自分の机で使っています。ま、今どきなら普通な光景ですよね。ですから、共用のパソコンなんて全く必要ないと言えば必要ないわけです。逆にデータの散在を招く可能性があるくらいですよね。
 ですから、今回は10年選手の共用プリンタを買い替えることといたしました。当時数十万円で買ったモノクロレーザープリンタです。
 実は私はそのプリンタのおかげで大変苦労していたんですよ。私は職員室で唯一のMac使いですよね。その古いプリンタはですね、もう最初からMacに対応していないんですよ。ですから、私はテストを作ったりした時は、わざわざPDFファイルに書き出してから共用パソコンにデータ移動し、そしてWindowsを介して印刷していたわけです。
 そして考えてみると、Mac使いの私だけでなく、他のWindows使いの先生方もまた、印刷する時はみんなデータを運んでやっていたんですよね。なにしろ、そのベテランプリンタは無線LAN接続に対応していなかったので。
 つまり、職員室の共用パソコンは、そういう間接的なプリントのためだけに使われていたというわけです。あとは、生徒がネットで何かを調べたり、マインスイーパーをやったり(数学の授業の一環です)するくらいでした。
 学校というのはですね、なんとも時代に取り残された妙なところなんですけど、実際こんな感じで、オフィスとしては10年以上遅れたことをやっていたわけですよ。実に原始的。
 そこで、今回は無線LAN接続に対応(もちろんMacにも対応)した機種で一番安いやつを注文しました。なんと、税込み価格29980円です。10年前の10分の1じゃないですか!
 エプソンのLP−S1100の夏限定モデルです。夏限定ってなんなんだ?ま、夏限定の安売りっていうことでしょう。
4548056145918 今日それが届きまして、一緒に購入した無線プリントアダプタ(右の写真。とっても小さい)を使って、ようやく近代的なネットワーク(笑)を構築することができました。生徒用のパソコンも来たので、今日は半日それらの設置や設定に追われたというわけです。
 他の先生方のWindowsパソコンの設定もしてさしあげまして、無事無線で印刷できるようになりました。10年間原始的な方法でやっていた先生方は、その便利さに感動してくれました。
 私はMac使いですので、基本Windowsにはあまり詳しくないのですが、それでもなぜか学校ではパソコン係みたいになってまして、こういう雑用や修理などを担当することが多い。基本私はそういうのが好きなので、楽しい仕事なんですけどね。
 ちなみに、このプリンタ、正式にはMacのOS10.6(Snow Leopard)には対応していません。最初、それで「やばい!」と思ったんですよ。実際付属のドライバCDやホームページからダウンロードしたドライバはインストールできませんでした。こりゃ困ったな、と思ってましたら、Mac本体のソフトウェア・アップデートで自動的に取得したドライバでしっかり動きました。助かった…。
 ただ不便になった点もあります。以前のプリンタは用紙の増設カセットが2段ついていました。都合3種類の用紙をデフォルトで使えました。用紙の差し替えの必要がなかったわけですね。しかし、今回のは1段しかありません。どうも増設カセットには対応していないようです。用紙をいちいち替えなきゃならないのが面倒と言えば面倒です。
 それにしても、びっくりなのは、他の機種の増設カセットなんですけど、一つ6万円もするんですよ!本体が3万円以下で、あのカセットが6万円ってなんすか!?いやいや、それ以前にトナーがなんで4万円もするんですか!?もう1台買ったほうが安いじゃん!ww
 プリンタやコピー業界の儲け方については、皆さんよく御存知のことでしょう。ヤクザな商売ですね。この辺の構造改革とはいうのは全然進みませんねえ。困ったものです。

エプソン・ダイレクト

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2009.09.07

『子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争』 金沢克彦 (宝島社)

79666987 日、猪木さんが北朝鮮入りしたようですね。また、不思議な行動をしています。相変わらず何をし出すか、何を言い出すかわかりません。
 今日はアントニオ猪木と私の因縁(?)について少し書きましょう。
 またプロレスネタとなりますが、昨日とはだいぶ方向性が違います。これもあれもプロレスと呼ばれるわけでして、世間ではまったく混乱してしまうか、あるいは混同してしまうでしょうね。
 それだけプロレスは深く広い。いわば、「音楽」とか「スポーツ」とか「文学」とか、そういうレベルでの名前なのでしょうね。
 ですから「プロレス」にもいろいろ好き嫌いなどが生じます。当然です。でも私は、音楽でもボーダーレスであるように、プロレスにおいてもかなり広範囲をカバーしているつもりです。
 それでも、どうしても深く共感できない「男」がいるんですね。どこまで行っても謎な男。
 それが「アントニオ猪木」なのです。
 高校生くらいまでは本当に好きでした。私を決定的にプロレスの世界に引き込んだのは、アントニオ猪木と初代タイガーマスクでしたから。しかし、どの時点からでしょうか、違和感を抱き始めたのは…。そして、私はいつのまにやら全日派(反新日派)に。
 その後のUWFや総合格闘技ブームの頃は、もうほとんどアントニオ猪木には興味がありませんでした。唯一感動したのは、先日亡くなった旧ソ連のショータ・チョチョシビリ選手に猪木さんが負けた試合だったりします。あの時は真剣に「ざまあみろ!」と思ったものです。
 しかし、不思議なもので、時を経て、何かがぐるっと回って、今年からなぜか猪木さんに近づくことになりました。妙な縁です。先月の「GENOME9」では、初めて至近距離でそのお姿を拝見しました。やはり、不思議なオーラを発していました。とんでもなく引きつけられてしまいました。
 私自身理解できないような、アントニオ猪木に対する「違和感」と「憧憬」。考えてみると、ここまでの撞着は他にはなかなかありませんね。現代日本の中で、唯一本当に分からない存在であると言っても過言ではありません。まあ、昭和にはそういう人がたくさんいたんですが、彼はその最後の生き残りかもしれませんね。
 アントニオ猪木…いったい何者なのか?
 そんな疑問(疑惑?)に一つの大きなヒントを与えてくれそうだったのが、この本です。実はこの本、発売と同時に読んでかなり衝撃を受けたのですが、それこそ考えあぐねることや、消化できなかったことが多すぎて、おススメがだいぶ遅くなってしまいました。ちょうど三沢さんの死もありましたし。
 いや、本当にこの本、いわゆるプロレス本の中では、めちゃくちゃレベルが高いと思いましたよ。社会派本格ノンフィクションの読後感です。内容はもちろん、描写や文体も非常に優れている。文章に重みがあります。
 金沢さん自身の特別な立場での特別な体験が、時を経てしっかり消化され、重厚な文章に結実した感じがありますね。表面的な事件をたどるだけでなく、選手の内面にまでしっかり踏み込んでいる。
 それはもちろん、テレビと雑誌でしかその世界に触れることのできなかった私たちの感覚とは、大きくかけ離れた世界です。その時それを知らなくて良かったということも多い。あまりに生々しいことだからです。
 しかし、ここに描かれたアントニオ猪木の「子殺し」の事実は、時という醸成の魔術によって、こうして「物語」となりました。もちろん、優れた語り部を得たことも大きい。優れた語り部がいなければ、歴史は単なる記録にしかなりえません。
 「子殺し」…私は見事なネーミングだと思います。私の「違和感」の根源は、まさに「子殺し」に対するそれだったからです。私はその言葉を思いつかなかった。脳内で長いこと「コト化」されなかったから、本能的に不快だったのです。
 そしてまた、違和感とともに存した「憧憬」、この大矛盾も「子殺し」という言葉によって理解できたような気がします。
 「子殺し」…私は最初、この言葉を、いわゆる生物界での現象としてとらえていました。つまり、生物学における優性選択のための子殺しと、個体の異常としての子殺しですね。猪木という野性生物が、無意識的、本能的にそういうことをしているのか、あるいは猪木という個体が持つ精神疾患的な先天的異常なのか、ということです。
 しかし、私はこの本を3回読んで、全く違う視点に至り、そして納得しました。それは、宗教的な次元での「子殺し」です。
 そう、キリスト教における「子殺し」です。すなわち、父なる神が我が子イエスを殺したという「物語」です。もちろん、あれは単なる生物学的なレベルでの話ではありません。「子殺し」という究極の手段が持った意味は、あまりにも深く重い。そして、結果として「復活」という新たな物語を生み出し、世界の転換が図られました。
 うん、猪木が行なった数々の「子殺し」の儀式(プロレスを潰さんとするかのように見える行為)には、実はそういう次元での暗号が秘められていたのではないか、ということなんです。
 イエスは自らの使命を察知して「子殺し」を甘受し、そして民衆は自らが罪を犯すことによって自らの罪に気づき改心しました。
 はたして、アントニオ猪木という神の、その子たる多くのプロレスラーはその使命に気づくことができたのでしょうか。そして、我々ファンは自らの罪に気づいたのでしょうか。お互いに、十字架の意味を理解したのでしょうか。
 すなわち、プロレスの「復活」はあるか、ということです。
 ぜひそうあってほしいものです。
 そうしてみると、三沢さんの死にも、また違った理解の仕方があることがわかるかもしれません。

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楽天ブックス 子殺し

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2009.09.06

キャンプ場プロレス 2009 (DDTプロレスリング)

↓試合後の大社長と我が教え子
Uni_3000_2 日のリアル小学生による運動会に続き、でっかい小学生(?)による凄まじい神事を体験!
 先日、両国国技館興行を大成功させたDDTプロレスリングのキャンプ場プロレス第2弾。ピーターパンたちによる史上最大にして史上最高におバカなキャンプ場プロレスに、家族で参戦してきました。
 いやはや、昨年もすごかったけど、今年はそれを大きく上回るクオリティーではありました…。
 昨年も書きましたとおり、この神事の中心人物は私の教え子です。あの謎の双子の担任をし、あのように育ててしまったのはワタクシです。皆さん、本当にすみません(笑)。
 いやあ、個人的にはとっても嬉しいですよ。プロレスとお馬鹿という、私の教育の中心にある2本の柱を見事に学び取り、こうして実際に世間(世界)を巻き込んで活動してくれているんですから(泣)。
 とりあえず、こういう内容でした。まずは、タイトルとカードから。

『ネイチャーランドオム29周年記念大会 キャンプ場プロレス~両国の後はネバーランドへ行こう…本当はネイチャーランドだけど~』

高木三四郎&HARASHIMA vs ケニー・オメガ&飯伏幸太 vs 中澤マイケル&伊橋剛太
(エニウァア・フォール 3WAYタッグマッチ)

 実際の試合…いや奉納の内容については、もう私は語れません。すごすぎた。ちょっと引いちゃう(ついていけない)くらい。
 というわけで、昨年に続き、非常に詳細にレポートしてくれているぐりふぉんさんのブログや、今年初めて参戦したというKAYさんのブログを引用させていただきます。ぜひご覧下さい。KAYさんのブログの方には非常に上手に編集された動画もありますので、ぜひぜひ。皆さんも大いに驚き、そして呆れてください。これを生で観た私たちの興奮がお解りになるでしょうか。
Uni_2981 考えてみれば、まず日本のチベットと言われる(?)山梨県の道志村に、この6人がいること自体ありえない超常現象です。2週間前、両国で9000人近くの人々を熱狂させた神がこの山村に降臨し、そして200名の村人(実際はバスツアーなどで都会からいらしている方がほとんど)の前で、自然と戦いながら舞う。これはおおげさでなく世界的な民俗学や人類学の見地からしても、非常に稀有な祭です。
 途中、神のボス(大社長)が自ら叫んでました。「これはプロレスじゃない!と誰か言ってくれ!」。私もそう思います。私の関わっている他方のプロレスリング伝承者たちからすれば、これはとんでもない茶番であり、プロレスを汚すものであるかもしれません。しかし、私はそれだけではない「何か」をいつもDDTには感じるのであります。ものすごく共感する自分がそこにいるのです。
 そこがプロレスの奥深さであり、裾野の広さであると思います。本来神事であった相撲がかつて持っていた非日常的祭祀空間と時間がそこにあります。
Uni_2984_2 木石と肉体の呼応、媒体としての「火(ファイアー)」や「水」の乱舞。冗談抜きで、私は、古代にはこういう儀式が行なわれていたのではないかと感じました。こういう、非近代的な「モノ」…そう、モノノケたちのエネルギーの凝縮と発散が、現代の日本には欠けているのではないか。
 そして、さらに興味深いのは、そうしたマレヒトが、祭の後にはこちら側にやってくることです。これは、たとえばなまはげなどでも見られることなのですが、今回もまた、試合(?)のあとの宴では、それぞれの選手が私たちのテーブルを回ってくれて、そして我々と同じレベルで会話をしてくれるのです。
 今日はそちらの感想を書きましょうか。常人に還った(元)神様たちとの会話も実に楽しいものでした。今日はたまたまDDTの熱烈なファン(おっかけ?)の女性グループのテーブルにお招きいただきましたので、それはそれは熱い熱い雰囲気の中でのコンタクトと相成りました。ちょっとレスラーの皆さん、圧倒されてたかな(笑)。お疲れのところ申し訳ありませんでした。
 まず最初にいらしてくれたのはHARASHIMA選手。彼の笑顔は本当にさわやかでステキですね。今回初めての参戦となりましたが、自称本家ネイチャーボーイは、蛇を凶器に使えなかったことを本気で悔しがっていましたね。たしかに蛇は神の使いですからねえ。残念でした。
Uni_3004_2 続いてケニー・オメガ選手と中澤マイケル選手。なんだか面白かったというか妙なシーンがあって、私は爆笑しちゃいましたよ。英語が堪能な(アメリカの大学でスポーツ科学のマスター取得)マイケルがケニーの通訳役をしてくれたのは、まあ当然といたしまして、なぜか、ウチのカミさんとマイケルが英語で話し始めて、なんだかいつのまにかマイケルの英語をウチのカミさんが通訳し始めたんですよ。おいおい!お前ら日本人同士だろって。普通に二人とも日本語話せば、オレたちにもフツーに通じるだろ!って(笑)。なんともへんちくりんなグローバリズムを見たような気がしました。ここはどこ?って感じ。
 次は飯伏幸太選手と伊橋剛太選手。微妙に名前は似ているが、キャラは全く正反対なお二人。いいペアですね。飯伏選手は、今回もまた不完全燃焼だったようで、やりたいことの30%しかできなかった!と笑顔で言ってました。たしかに疲れた様子も見せず、いつもより多少饒舌だったような気がします。まだまだ無限の可能性を感じさせましたね。伊橋選手「汁レスラー」のTシャツを堂々と着用していらっしゃいましたけど、彼の才能と存在の重要さを私は痛いほどわかっているつもりです。神話にもああいうキャラいるもんなあ。
 途中、ウチのテーブルには松井レフェリーもいらしてくださいました。私も密かに大好きなんですよ、彼のこと。やはり彼が試合を作る部分が大きいですし、いや、それ以前に会社全体を作っている部分も大きい。そんなチラ裏話も聞くことができました。いやあ、一番疲れたのはもしかして松井さんだったかも。
Uni_3006 最後は高木三四郎大社長です。まあ、とにかくお疲れさまと。ビアガーデンあたりから、ものすごいスケジュールでしたからね。社長業だけでも大変なのに、レスラーの先頭に立って「おバカ」なことができる高木社長は、本当に立派ですし、魅力的な人間だと思いました。やっぱりカリスマ性がありますね。結構繊細なんじゃないかな。大自然での奉納神事プロレスということで、私の地元というか、日本のご神体である富士山山頂でのプロレスをやりませんか?とお誘い申し上げました。「いいですねえ!」とおっしゃってましたが、まじで実現しちゃいましょうか?社長は特に息が切れると思いますけど(笑)。
 あと、ちょっと飯伏選手とはナイショの仕事の話もしました。これはどうなるかわからないので、まあお楽しみということで。
 ま、こんな感じで、最初から最後まで、大いに楽しみ、驚嘆し、戦慄し、自らも自然と闘った素晴らしいイベントでありました。来年オム30周年ということで、社長曰く「30年の歴史に終止符を打つ!」ような大会にしたいとのこと(笑)。いったいどうなってしまうのでしょう。
 とにかく、レスラーの皆さん、そして、我が教え子の二人、関係者の皆さん、お疲れさまでした。そしてありがとうございました。来年もぜひ参戦、参拝したいと思います。
Uni_2979 最後に、双子くんにもいちおうお疲れさまを言いましたが、実際一番大変だったのは、彼らの弟くんと、そしてお母さんだったのでは…心からねぎらいの言葉を送ります。お疲れさまでした。
 ちなみにウチの娘たちはモノノケが怖いのか、母親に弓矢を作ってもらって武装し、ずっと最前線から離れて隠れていました(笑)。ま、それも勉強でしょう。現代においてなかなかこういう勉強はできませんよ。ヴァーチャルなゲームの世界じゃ絶対に望めない立派な教育だと思います。なんちゃって…いやマジで。

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2009.09.05

小学校の運動会 2009

20090906_80728 日は娘たちの通う鳴沢小学校の運動会。以前こちらにこの村の運動会の本質について書きましたね。これは単なる運動会ではなくて、純粋な「祭」です。写真はご神体富士山と稚児の舞(+万国旗!)。
 私は今日は仕事だったので、途中親子競技だけ参加して、ぎりぎり父親としての、そして村人としての義務を果たしたかな。
 繰り返しになってしまいますが、こういう「運動会」という行事は日本独特のものです。外国の方々からすると、とんでもなくミリタリー・ファッションに見えるというこの祭ですが、今回もまた私は感動してしまいましたね。
 2年前に書いた祭事としてのあり方はもちろん、やはりこうした「お仕着せ」の様式感というのが催す格別な感慨というものも否定できません。これこそ実に日本的と言えます。
 今回も遠くからわざわざ孫たちの姿を見に来た私の父は、戦争の体験やら何やらから、このようなミリタリー・ファッションに抵抗を感じ、児童の自主性と個性を尊重した競技はできないものかと言っていました。それも分かるのですが、逆に私などはこうした大人の管理下に子どもが統制されている様子に、純粋に感激してしまうんですね。
 いや、それは教育とか、政治思想の次元の話じゃありませんよ。つまり、村人たちが連綿とつないできた伝統行事が、多少は時代に合わせつつも、今年もちゃんと受け継がれたという安心感というか、そうですねえ、やっぱり村全体の一体感というんでしょうかね、そういう総体が私に与える感動というものがあるんですよね。
 もしこれが、突然今までの伝統をかなぐり捨てて、全く違うスポーツの祭典になったり、単なるお遊戯会になったとしたら、必死に場所取りをして(それが運動会の第1競技とも言われる!?)、豪華弁当を作って酒を飲んで祭を盛り上げるお囃子連中は、どこか満足せず不安すら感じることでしょう。
 民主党の支持母体である日教組の力が強まって、たとえば徒競走やリレーに順位をつけなくなったり、危険だからといって組み立て体操を廃止したりしたら、それこそ日本の伝統の継承は不可能になってしまいうでしょうね。ま、そんなことになるほど田舎の村の伝統はヤワじゃありませんから、全然心配してませんけどね。
 さて、先ほども出た「組み立て体操」ですが、今年の演目のテーマは「村の水文化」でした。これはなかなかいい内容でしたね。これもまさに伝統、物語、神話の伝承でした。
 この富士山麓の溶岩地帯の小さな村の、厳しい水事情については、こちらに書きました。その苦難の歴史と、龍神への祈りと感謝をテーマにした5、6年生の組み立て体操は、その歴史を知っている村のお年寄りたちにとっては、特に感慨深いものであったでしょう。
 学校というある種保守的で懐古趣味的な場所は、もしかすると、こうした文化継承の最後の砦なのかもしれません。昨日も書いたように、そこは「聖域」なのです。特に田舎の小さな学校はそうでしょう。カミさんの生まれ育った秋田の山村では、分校の統廃合などが進み、そうした文化継承のサンクチュアリーがどんどん消えていっています。それは何よりの哀しみだと言います。
 そう学校という施設が、単なる教育の現場というだけでなく、ある意味でムラの鎮守の森のような機能を果たしているんでしょうね。そして子どもたちは神様。
 そうすると、私のような先生というのは、神を祀る宮司や禰宜みたいなものでしょうか。変な意味でなく、そういう意識をもって、家の宝、村の宝、国の宝にしっかりご奉仕してければならないのかもしれません。
 ちなみに今日、ウチの宝たちは、全てに全力投球でよく頑張ってました。気合い入りまくってましたね。特に下の方の宝はですね、リレーで見事に靴が脱げまして、会場を盛り上げてました。やるな(笑)。父親に似たのか、母親に似たのか?ここにも文化は継承されている(笑)。

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2009.09.04

平成20年度「国語に関する世論調査」の結果について

Graph_10_03 ュースでご覧になりましたか?たとえば「破天荒」の意味を間違って認識している人が7割とか。
 まったく困ったものですねえ。いったい国語のセンセイは何をやっているんだ!?
 そうなんです。まったく困ったもので、実は私も今回の慣用句たち、ほとんど間違って使ってました(笑)。
 皆さんはどうでしたか?
 はっきり申しまして、このように意味が転化していくのは言葉の運命でありまして、実際そうして本来の意味から違った意味になって定着し、そしてそれが辞書に載るまでになって正しいとされている例は枚挙に暇がありません。しっかり調べれば分かりますが、現在国語辞典に載っている言葉のかなりの数が(おそらく1割は下らない)、その語が生まれた時代の原義から、かなり変化しているものと思われます。
 それは外国語である漢語に限りません。和語もかなり変化しています。古文の勉強で有名な例としては、「ありがたし(有難し)」が「めったにない」だったとかね。
 ですから、今回の例(「時を分かたず」「破天荒」「手をこまねく」「御の字」「敷居が高い」)は、ちょっと意地悪な出題という感じが否めないんですよね。つまりひっかけ問題をわざと出題したという感じ。ですから、全然憂慮すべき事態ではないような気がします。
 なんて、自己弁護に走っていますね(笑)。
 「破天荒」については、私は「天荒を破る」だということは知っていましたが、しかし、日常生活ではまさに「豪快で大胆な様子」として使っていました。本来は「前代未聞」「未曾有」ということですよね。言われてみればそうですが、さっきの「ありがたし」も「めったにないことだから感謝する」という文脈があるのと同じく、「豪快で大胆だからだれも成し得なかったことができた」という文脈があるわけですよ。もちろん、「繊細で慎重だから…」という文脈もあるし、故事的にはそっちかもしれませんが。
 そうそう、「敷居が高い」はですね、私は両方の意味で使っていましたね。「なんか敷居が高くなっちゃったなあ」なんていう言い方を、私は「自分の失敗によって訪れにくくなった」という意味と、「相手のレベルが高くなりすぎて訪れにくくなった」の両方の意味で使っているということです。
 誤用とされる方については、私、おとといも堂々と使ってました(笑)。この記事です。「プロの敷居が下がることには、いいこともたくさん付随してくると思います」という文です。これは「敷居が下る」という発展形ではありますが、「プロという本来高い敷居」というのが想定されている文ですから、まあ誤用と言えば誤用ですね。
 まあ意味が通じればいいじゃん!と開き直ることもできるでしょう。でも、やはり一応国語のセンセイですから、これはちょっと反省しましょうか。すみません…あっそうそう、この「すみません」も元々の意味からはずれて慣用的に謝罪のことばになってますね(笑)。
 とにかく言葉というのはとってもダイナミックに動く生命体です。辞書的な意味にとらわれないで、自由に新しいイメージを喚起し続けるのが、言葉の本質であり、だからこそ我々の心を動かし、我々の心をつなぐわけですよね。
 ちょっと卑近な例になりますが、一時はやった「KY」なんか、その後どんどん発展し、本来の(?)「空気読めない」「危険予知」「河野洋平」から「心読めない」とか「漢字読めない」とか「顔やばい」とか「コメント読め」とかに発展してますからね。それを誤用とは言えないでしょう。
 「破天荒」も外国字の外来語であり、ある意味「KY」と同様に、その個々の文字からのイメージ喚起で、「豪快で大胆」と変化しても、それはあんまり責められないような気がするんですが。
 だいいち、この故事を知っている人どのくらいいるでしょうか。もちろん中国人でも。そこに目くじら立てたり、「日本語の危機」だなんて言うのはどうかと思いますよ。せいぜいトリビアのレベルでの「へえ、なるほど、そうだっのか」なんじゃないでしょうか。
 ですから、今回の調査についても、教室ではそういう立ち位置で話そうと思っています。とにかく破天荒な教師としては、こういう新鮮なネタをですね、手をこまねいていないで時を分かたず料理して提供しなくちゃね。そして、こうしたネタを通じてですね、国語という教科の敷居が下れば御の字です(笑)。

文化庁の報告

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2009.09.03

『なぜ教育論争は不毛なのか-学力論争を超えて』 苅谷剛彦 (中公新書ラクレ)

4121500881 年度開校の中学校の準備が佳境に入ってきました。さらに高校生も推薦入試やAO入試の季節に突入し、どうしようもない忙しさにてんてこ舞いしています。
 そこへ、今年卒業させた愛すべきギャルたちが遊びに来て、相変わらず大声で騒ぎ出します。あいつらが来ると学校の雰囲気がガラッと変わるのが面白い。去年の今頃の、あの楽しい受験を思い出しますね。大学も楽しいけれど高校時代が最強に楽しかったよね、と言ってくれるやつらは、ホントにカワイイ教え子です。
 ああそうそう、てんてこ舞いと言えば、今日はそんな中、能楽部の練習がありまして、竹生島の謡と猩々の仕舞などを勉強いたしました。いやあ、現実世界から妄想世界へ…素晴らしい気分転換になりましたなあ。こちらでは教え子が先生です。今日もいろいろ質問させていただきました。先生からすると、私のような生徒は厄介でしょうね。先生が「う〜ん…」とうなってしまう変な質問ばかりする(笑)。
 …と、たとえば今日の私の「教育現場」はこんな感じでありました。ま、忙しいけれど楽しいことも多い。先生が楽しんでいれば、たいがい生徒も楽しいものです。
 しかし、世の中では「教育の危機」が常に叫ばれ、さあ「ゆとり」か「つめこみ」かという論議が、いまだに行われています。さらに、ここで民主党に政権が移ることとなり、またまた面倒で不毛な論議がかまびすしくなること必定です。
 実は「まじめな」現場でもまた、真剣に「教育の危機」が論議されています。しかし、それもやはり、実務的な次元と、理念的な次元とに分類できまして、両者はちっとも噛みあっていないのが現状なんですよね。
 ちなみにウチの現場でもプチ「教育の危機」論議が時々起きます。でも、ほとんど定番の愚痴にすぎないので(笑)、世の中での論議とはちょいと機能が違うようです。
 というわけで、どうも教育の論議というのは、虚しいというか、白々しいというか、苅谷さんの言葉を借りれば「不毛」ってことになるんですよね。どうもそういう傾向がある。
 それはなぜか。そこに一つの答えを提供しているのが、この本です。ここに書かれている答えもたしかに正解でしょう。「ひとつひとつの教室レベルの問題と制度の問題を分けて論じなければいけない」ということですね。つまり、個人の技術のことと、国家の大計のこととが、ごっちゃに論じられちゃっているってことです。
 それは、たしかに現場にいるとそう思います。上にも書いた現実レベルでの生徒一人一人のことを考える私と、「教育とは」と考える私とは、明らかに違う私です。しかし、そんなこと、現場の教師以外には分かりませんよね。つまり、学校というブラックボックスというか、聖域というか、そういう閉鎖的な構造の中身なんか、一般の大人には分かりませんから。せいぜい、自分が子どもだった時の甘酸っぱい、あるいはほろ苦い思い出を回想してみるくらいのことしかできません。だって、自分が児童・生徒だった時なんか、学校は「教育を受ける所」ではなかったはずですから。単に友だちに会い、恋愛をし、給食を食べ、クラブ活動に励む場所だったのです。もちろんほとんどの授業は忍耐の時間でしかありません。
 ですから、教育はある種「宗教」に近いものだとも言えます。生まれた時から、無意識のうちに展開し、いつのまにか呑み込まれ、しかし、人間形成や幸福の実現(どっかで聞いたな…笑)に大きく関与しているような気がするものであります。忍耐という修行も伴うし(笑)。
 そしてまた厄介なのは、まあそういうブラックボックス的というか、宗教的というか、超能力マジック的というか、そういう事実もけっこうある世界だからでしょうかね、ちゃんとした「科学」に成り得ないんですよね、教育というのは。
 カリスマ教師っているじゃないですか。もちろん、そういう中でも誰かさんのように「法則化」を目指したり、技術研究をしたり、メソッドを確立したりしようとする立派な方々もいらっしゃいますよ。でも、それもまた、結局個々の主体や対象や事例にとっては、単なるおまじない程度にしかならないのがほとんどです。
 そんな具合ですから、結局「教育」について考え、論じ、語るには、もう何かの宗教団体に入らなきゃならないわけですよ。それが組合という場合もありますし、単純に「ゆとり派」だったり、「つめこみ派」だったり、「人情派」だったりするわけですよ。それで、互いが他宗派を認めないから、原理主義と原理主義の戦いになってしまって、どんどん本来の目的を忘れた血なまぐさく非生産的な戦争状態になってしまう。
 私もそんな難しい世界にどっぷり漬かって40年以上になります。自分が幼稚園時代から今まで、普通の社会、すなわち「ブラックボックスの外」に出たことがないわけで、まあヘタすると一生そういうところで暮らすのかもしれませんね、退職後は出家する予定なので(笑)。
 自分の理想の中学校を作る機会を得て、今、いろいろと考えること、思い出すことがありますが、でも結局は、目の前のこの愛すべき子どもたちのために自分がどのように関わっていくか、もうちょっと具体的に言うと、彼ら彼女らの人生をどれだけ自信をもってプロデュースできるか…そのために日々自分を磨いて自分を高いステージに持っていくことしかないと思います。日本の教育をどうこうするという以前に、ほとんど奇跡的に縁あって時間を共にしている「人間」に対して、どれだけ愛情と誠意を注げるか、そこに自分の天命はあるような気がするんですよね。
 不毛ってことは、「命」や「魂」がないってことでしょう。ま、私の頭は不毛ですけど(笑)。
 難しいし忙しいけれど、正直とっても楽しい現場です。かなりおこがましい言い方になりますが、こういう現場を楽しめる先生がたくさんいるといいなと思うんですが。

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2009.09.02

エコライド…あまりにシンプルな究極の乗り物

 士山に住んでいますので、毎日麓の職場まで標高差300メートル以上を下ります。そして夜には上ってくる。
 こんなことを繰り返していますと、なんとも歯がゆいというか、申し訳ないというか、そんな妙な気持ちにかられます。エネルギーを無駄遣いしているなあと。
 つまり下りはですね、車のクラッチを切って、自然滑走させると、なんと時速90キロも出るんです(理論値です。実際は法定速度遵守です…笑)。で、上りはずっと思いっきりアクセルを踏んでいる。途中平坦なところはほとんどありません。
 そうすると、やっぱり考えるのは、下りで余ったエネルギーを上りのために蓄えたいということです。考えられるのは「充電」でしょうね。
Specimage 今日の朝、NHK「おはよう日本」で三洋の高級エネループ・バイク「CY-SPK227」が紹介されていました。なんと63万円だそうです。軽自動車が買えますね。でも、けっこう人気だとのこと。
 たとえば、これを(あるいは同種の廉価版を)買ったとしましょう。私の夢は実現するのでしょうか。
 エネループ・バイクは、下りの時にモーターを発電機として充電をします。いわゆる回生ブレーキの原理ですね。それで、上りは3分の1の労力で走れるというわけです。もちろん、下りでの回生電力だけでは、上りきれませんから、家庭での充電も必要ですし、自分の足でこがなくてはなりません。
 いちおう、カタログデータですと、最長100km動力アシストが続くとなっていますから、片道13キロくらいである私の通勤距離なら、なんとかカバーできそうです。
 自動車で通う場合、往復で約2リットルのガソリンを使っていますから、まあ今ですと往復で250円くらいでしょうかね。1ヶ月で約6000円として、電気代を勘案しても、2年くらいで廉価版の方は元がとれます。適度な運動にもなりますし、これはいいですよね。
 …と思いきや、実際はそううまくいかないのです。100kmなんてのは、まさにカタログ値であって、実際高低差300メートル以上の上り坂を連続して走ることは想定していませんから、たぶん試してみると、10キロ地点くらいで力尽きると思います。そうしたら、あとは地獄ですね。富士山の形状上、後半の勾配がきつくなるのは、想像に難くないでしょう。実際そうです。電動アシストがなくなった電動アシスト自転車の逆アシスト(?)ぶりは、狂気(凶器)の沙汰であります。
 たとえ最初はなんとか上りきっても、毎日そういう負荷がモーター(兼発電機)とバッテリーにかかり続けると、両者にかなりのダメージがあって、すぐに航続距離が短くなっていくでしょう。おそらく一つ3万円以上するエネループ(充電池)を数ヶ月で買い替えなければならないという、とんでもく非エコロジー&非エコノミーなことになるに違いありません。
 あと、あの回生発電システムは、時速24km以上になるとオフになるそうです(なんで?)。あの下り坂を24キロ以下で走るのは至難の業ですね。ブレーキ・パッドも毎月交換しなければならないかも。
 それから、冬はマイナス10℃以下になって、人間もバッテリーも元気がなくなるだろうし、路面も思いっきり凍結しますから、とても乗れませんね。やっぱりダメか。
 でも、試してみたいような気がするんですよねえ。実際どうなるか。三洋さん、試験的にレンタルしてくれませんかね、63万円のヤツ(笑)。
 と、そこでですね、今私が注目しているのが、「エコライド」という乗り物です。これはですね、東京大学と遊具メーカーのSENYO(泉陽興業)さんなどが共同して開発中のもので、原理は緩やかなジェットコースターですね。位置エネルギーを利用して、下りは自由落下というか、自由滑走させまして、上りは電力ウィンチを使って引き上げるんです。本当にシンプルな発想の乗り物。
 これだと、人一人を1km運ぶのに必要なエネルギーは、自動車の11分の1、バスの3分の1、鉄道の2分の1程度ですむと言います。建設費用も格安だとのこと。
 実験線が走っている動画がありましたので、見てみてください。

 これをですね、ウチと職場の間に敷設しましょう。行きは時速90キロ出ますから速いですよ。あるいは回生ブレーキで発電してエネループに充電しまして、帰りの動力の足しにしましょうか。いちおう途中で止まるのもありでしょうから、コンビニ駅でも作りましょうか。酒屋駅とか、本屋駅もいいなあ。
 なんて冗談はさておきまして、これは使い方によっては本当に究極にエコな乗り物になるでしょうね。ただ問題は適度な勾配と適度な距離と適度な利用者という、いろいろな条件が合うところがどの程度あるかということですね。それこそ富士山麓なんか、うまく使えばいろいろできそうな気がするんですが。パーク&ライドを併用してもいいし。
 というか、富士急行線自体を全線エコライド化するってのはどうでしょう。ずっと坂だし、今でも回生ブレーキで架線へ電力戻しているし。あと、富士急ハイランドでジェットコースターの実績あるし。
 なんて、冗談のように言ってしまいましたが、実は富士急行線で鉄道史上に残る悲惨な事故があったんですよね。1971年のことです。私が毎日通るある踏み切りで電車とトラックが衝突し、電車のブレーキが破損、その結果、富士急行線自体がまさにジェットコースター状態になってしまったのです。地元の方なら分かると思いますが、あの暮地の坂付近の急勾配と急カーブで、とうとう脱線転覆してしまいました。多くの方がお亡くなりになりました。その後、全国の鉄道のブレーキシステムの見直しが図られたそうです。
 エコライドはレールを3方向から挟み込む形なので、脱線する可能性はほとんどありませんが、やはりブレーキシステムには二重、三重の注意が必要でしょうね。

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2009.09.01

『こぐまレンサ 完全版』 ロクニシコージ  (講談社BOX)

06283698_2 々にコミックネタ。ちょっと気分転換にと思ったら、なんだか余計に気が重くなっちゃった。
 基本マンガ世界に疎い私ですが、いやあ、本当にこの世界も変わりましたね。この作品もとても子どもには読ませられません。暗いというか、重いというか、グロいというか。
 それ以前に絵が下手すぎます。いつごろからでしょうかね、絵が下手でも内容が面白ければいいというようになったのは。
 つまり、求められるものが変ってしまったのでしょう。どの世界でもそうです。本来基本であるところをなおざりにして、本来二次的であるはずの部分で勝負する。
 いや、この作品も絵が下手なのに目をつぶれば(それが非常に難しいのですが)、そのストーリーや演出は、そのへんの小説なんかよりずっと面白いですよ。見事な伏線によって、それぞれの短編が一つの物語に収斂していく。ホントよく出来ています。言葉の選び方も素晴らしいセンスを感じさせます。
 でも、なんでこれをマンガで表現しなければならないのでしょうか。小説でいいのではないでしょうか。いやいや、これこそが「MANGA」や「ANIME」の世界に誇るべきところであり、麻生さんの世界戦略であったとも言えるでしょう。それはよくわかります。
 ただ、そうして、いろいろな世界で今までの価値観やジャンル分けが崩壊していって、たとえば絵のシロウトでも、プロとして週刊誌や月刊誌に連載でき、単行本を発行できる。これは新しい分野の開拓のためには大いに役立つ可能性がありますが、逆に本来伝えるべき文化を喪失させてしまう可能性もあると思います。
 先ほど、本物のプロレスリング伝承に命をかけている方と電話でお話ししたんですが、まさにプロレスの世界もそうです。シロウトが神聖なリングに上がる、本来演劇やサーカスと呼ばれるものさえ「プロレス」と呼ばれてしまう、そんなことに心を痛めておられました。
 この前のSLSで若手のバンドに感じたこともそうです。みんな歌詞の世界で勝負しようとしている。本来文学でやるべきことを、音楽に乗せてやろうとしている。音楽の才能はシロウトに毛が生えただけなのに。なかにし礼さんが言っていますが、文学の詩と歌の詩とは全く違うものであるべきです。それがごっちゃになってしまっている。
 もちろん、そうしてプロの敷居が下がることには、いいこともたくさん付随してくると思います。それこそ新しい何かが生まれる可能性もあるし、実際本流に飽きた消費者たちが、新しい刺激を求めてそれらを楽しむことも多い。
 政治の世界もそうです。今回の選挙で民主党の初当選者は143人にのぼります。初任者です。シロウトです。そんな集団で政治ができるわけないじゃないですか。民主党の約半数ですよ。全体でも4分の1を超えている。
 私のいる教育界でですね、4分の1が初任者、いや教育実習生みたいな教師集団で、まともな学校運営なんかできるわけありませんよ。
 と、なんか違う話になってしまいましたが、いや、さすがに世の中全体が本質を見失っているような気がしてならないんですよね。もちろん自分もですよ。
 結局、マンガにしても、音楽にしても、プロレスにしても、政治にしても、教育にしても、面倒でかったるい地道で地味な努力が足りない、いやいや、もっと言ってしまうと、本来生まれ持った「タレント」がなくても、そうした神世界(あの神世界じゃありませんよ…笑)に足を踏み入れることができるようになっちゃったということでしょうかね。
 それはそういう市場があり、需要があるからでもあります。電話の先のプロレスラーさんもおっしゃってました。客も本物を知らなすぎると。そのとおりですね。我々もホンモノを見きわめる力を失っているのです。
 「こぐまレンサ」に話を戻しましょう。ロクニシコージさん、ある意味素晴らしい才能を持っていらっしゃると思うし、この作品も革命的な力を持っているかもしれません。でも、もうちょっとでもいいから、絵の勉強するなり、絵は誰かにまかせるなりしたら、もっと力のある、歴史に残る作品になったのではないかと思うんです。
 でも、高校生に言わせると、このくらいの画力なんていうのは、全然日常的であって、別に気にならないというんですね。うまい人のはうまいと思うけれど、下手な人のも気にならないと。それはそれでそういう時代になった、自分がその時代についていけないということで、それでファイナルアンサーにしてしまってもいいんですが。なんとなく寂しい気もしますね。
 面白い作品だっただけに、もったいない気がしたんです。ま、この気持ちも、オジサンの「昔は良かった」的感慨にすぎないのでしょうか。

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