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2009.09.03

『なぜ教育論争は不毛なのか-学力論争を超えて』 苅谷剛彦 (中公新書ラクレ)

4121500881 年度開校の中学校の準備が佳境に入ってきました。さらに高校生も推薦入試やAO入試の季節に突入し、どうしようもない忙しさにてんてこ舞いしています。
 そこへ、今年卒業させた愛すべきギャルたちが遊びに来て、相変わらず大声で騒ぎ出します。あいつらが来ると学校の雰囲気がガラッと変わるのが面白い。去年の今頃の、あの楽しい受験を思い出しますね。大学も楽しいけれど高校時代が最強に楽しかったよね、と言ってくれるやつらは、ホントにカワイイ教え子です。
 ああそうそう、てんてこ舞いと言えば、今日はそんな中、能楽部の練習がありまして、竹生島の謡と猩々の仕舞などを勉強いたしました。いやあ、現実世界から妄想世界へ…素晴らしい気分転換になりましたなあ。こちらでは教え子が先生です。今日もいろいろ質問させていただきました。先生からすると、私のような生徒は厄介でしょうね。先生が「う〜ん…」とうなってしまう変な質問ばかりする(笑)。
 …と、たとえば今日の私の「教育現場」はこんな感じでありました。ま、忙しいけれど楽しいことも多い。先生が楽しんでいれば、たいがい生徒も楽しいものです。
 しかし、世の中では「教育の危機」が常に叫ばれ、さあ「ゆとり」か「つめこみ」かという論議が、いまだに行われています。さらに、ここで民主党に政権が移ることとなり、またまた面倒で不毛な論議がかまびすしくなること必定です。
 実は「まじめな」現場でもまた、真剣に「教育の危機」が論議されています。しかし、それもやはり、実務的な次元と、理念的な次元とに分類できまして、両者はちっとも噛みあっていないのが現状なんですよね。
 ちなみにウチの現場でもプチ「教育の危機」論議が時々起きます。でも、ほとんど定番の愚痴にすぎないので(笑)、世の中での論議とはちょいと機能が違うようです。
 というわけで、どうも教育の論議というのは、虚しいというか、白々しいというか、苅谷さんの言葉を借りれば「不毛」ってことになるんですよね。どうもそういう傾向がある。
 それはなぜか。そこに一つの答えを提供しているのが、この本です。ここに書かれている答えもたしかに正解でしょう。「ひとつひとつの教室レベルの問題と制度の問題を分けて論じなければいけない」ということですね。つまり、個人の技術のことと、国家の大計のこととが、ごっちゃに論じられちゃっているってことです。
 それは、たしかに現場にいるとそう思います。上にも書いた現実レベルでの生徒一人一人のことを考える私と、「教育とは」と考える私とは、明らかに違う私です。しかし、そんなこと、現場の教師以外には分かりませんよね。つまり、学校というブラックボックスというか、聖域というか、そういう閉鎖的な構造の中身なんか、一般の大人には分かりませんから。せいぜい、自分が子どもだった時の甘酸っぱい、あるいはほろ苦い思い出を回想してみるくらいのことしかできません。だって、自分が児童・生徒だった時なんか、学校は「教育を受ける所」ではなかったはずですから。単に友だちに会い、恋愛をし、給食を食べ、クラブ活動に励む場所だったのです。もちろんほとんどの授業は忍耐の時間でしかありません。
 ですから、教育はある種「宗教」に近いものだとも言えます。生まれた時から、無意識のうちに展開し、いつのまにか呑み込まれ、しかし、人間形成や幸福の実現(どっかで聞いたな…笑)に大きく関与しているような気がするものであります。忍耐という修行も伴うし(笑)。
 そしてまた厄介なのは、まあそういうブラックボックス的というか、宗教的というか、超能力マジック的というか、そういう事実もけっこうある世界だからでしょうかね、ちゃんとした「科学」に成り得ないんですよね、教育というのは。
 カリスマ教師っているじゃないですか。もちろん、そういう中でも誰かさんのように「法則化」を目指したり、技術研究をしたり、メソッドを確立したりしようとする立派な方々もいらっしゃいますよ。でも、それもまた、結局個々の主体や対象や事例にとっては、単なるおまじない程度にしかならないのがほとんどです。
 そんな具合ですから、結局「教育」について考え、論じ、語るには、もう何かの宗教団体に入らなきゃならないわけですよ。それが組合という場合もありますし、単純に「ゆとり派」だったり、「つめこみ派」だったり、「人情派」だったりするわけですよ。それで、互いが他宗派を認めないから、原理主義と原理主義の戦いになってしまって、どんどん本来の目的を忘れた血なまぐさく非生産的な戦争状態になってしまう。
 私もそんな難しい世界にどっぷり漬かって40年以上になります。自分が幼稚園時代から今まで、普通の社会、すなわち「ブラックボックスの外」に出たことがないわけで、まあヘタすると一生そういうところで暮らすのかもしれませんね、退職後は出家する予定なので(笑)。
 自分の理想の中学校を作る機会を得て、今、いろいろと考えること、思い出すことがありますが、でも結局は、目の前のこの愛すべき子どもたちのために自分がどのように関わっていくか、もうちょっと具体的に言うと、彼ら彼女らの人生をどれだけ自信をもってプロデュースできるか…そのために日々自分を磨いて自分を高いステージに持っていくことしかないと思います。日本の教育をどうこうするという以前に、ほとんど奇跡的に縁あって時間を共にしている「人間」に対して、どれだけ愛情と誠意を注げるか、そこに自分の天命はあるような気がするんですよね。
 不毛ってことは、「命」や「魂」がないってことでしょう。ま、私の頭は不毛ですけど(笑)。
 難しいし忙しいけれど、正直とっても楽しい現場です。かなりおこがましい言い方になりますが、こういう現場を楽しめる先生がたくさんいるといいなと思うんですが。

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