バカチョンの語源
まず最初に断っておきましょう。その語源的な歴史がどうであれ、実際にこの語を差別的なニュアンスでとらえたり、この語を耳にして不快に思う人がいる限り、やはりこの言葉の使用に関しては細心の注意が必要であると思います。そのスタンスをベースに、ここから本質的な話をしていきましょう。
まず、この話を書こうと思ったきっかけから。
最近、仕事の関係であるビデオ・カメラを買ったのですが、その説明書にですねえ、なななんと、「ばかチョン式操作」ってあったんですよ!左の写真見てくださいよ。こりゃすごい。ちなみにこのカメラ、中国製でして、説明書全体が全てVOWなんですけど、特にここは大ウケしちゃいましたよ。英語のページを見ると「easy operation」ってあるんですけど、それを翻訳したらこうなっちゃったんでしょうか。機械翻訳でこんな訳が出るとは思えないので、ある意味日本語に詳しい方がお訳しになったのでしょう。でも、ゼッタイ日本人じゃないな。もちろんハングル話者でもないでしょう(笑)。
で、もうこれはですね、これを機会に私のちょっとした研究の成果を発表しようかなと思ったわけです。なかなか採り上げにくかったんですよ。でも、こうしてきっかけとなるネタを提供してもらったので、書いちゃいましょうかと。
「ばか」という語は、皆さんもご存知のように元は仏教用語です。「馬鹿」とか「莫迦」とかいう字を当てられますが、もとはサンスクリット語です。愚か者を指す「moha(慕何)」、または智慧のないことを表す「mahallaka(摩訶羅)」から転じたものと考えられています。ですから、かなり古い語ですね。おそらく中世から使われていたのでしょう。
ま、この「ばか」自体、差別語と言えば差別語ですが(特に西日本では?)、「バカチョン」について語るとき、こちらはあまり問題視されませんね。そのへんが、この「バカチョン問題」の性質を表しているとも言えますかな。
と言いつつ、私も「ばか」については、このへんにしておきまして(笑)、さっそく「バカチョン問題」の核心である「ちょん」の方の語源について述べ始めたいと思います。
まず、和語としての「ちょん」です。これも案外古い歴史を持っていると思われます。
日本語の音素としての「ち」は、大きさが小さいというイメージや、時間が短いというイメージを持っています。もちろん「ちいさし」の「ち」や、「ちと(ちっと・ちょっと)」の「ち」、「ちご」や「ちびる」、「ちび」などもその系統と考えられます。
「ちょん」もそういうニュアンスを持った擬態語として、案外古くから使われていたようです。ただ、当時の発音や表記も問題もありまして、なかなか文献には残りにくかったのかもしれません。ちなみに「そっと」という古い語もある意味「ちょっと」でした。「そ」は「チョ」と発音していましたからね。11世紀の文献にも見える「そと」は今の「ちょっと」の意味にもとれます。
ですから、「そ」自体が「チョ」と発音されて、小さいもの、軽いもの、時間的に短いものを指していた可能性も充分あります。そして、それが促音便化して「ちょっ(と)」、あるいは撥音便化して「ちょん(と)」になったことも想定されますね。
いずれにしても近世には、「ちょん」が小さい、短いものを指すようになっていたことはたしかです。たとえば、「ゝ」を「ちょん」と言いますね。それに似ているから「ちょんまげ」とかね。「ちょんぎる」もそういうニュアンスから来た言葉です。「ちょん」と「切る」です。「ちょんと」という副詞や、「ちょんの間」「ちょんの幕」というような慣用句もできました。
それがさらに進化します。「ちょん」が軽い、つまらない、価値がないという意味でも使われるようになりました。あるいはそういう人、小物ということです。江戸時代にはそういう使われ方をしていたようです。まあ、差別用語ですね。
明治になりますが、仮名垣魯文の西洋道中膝栗毛に「ばかだの、ちょんだの、野呂間だのと」という文があります。また、明治には「ばかでもちょんでも」という言い方も頻繁にされたようですね。ただ、「ばかちょん」と略したものは確認できません。
で、この頃までは、「ちょん」はあくまで「愚か者」という意味で、「ばか」と同等の一般名詞であったわけですね。多少差別的ではありますが。
事情が変わるのは、20世紀に入って、日本と朝鮮半島との関係に変化が生じた頃からです。「ちょん」という語が、「朝鮮」もしくは「朝鮮人」を指すようになって行ったのです。もちろん、そこには元来あった「ちょん」という語に対するイメージが関与しています。蔑視表現に偶然が重なってしまいました。それで、「チョン」が朝鮮や朝鮮人への差別呼称となっていったわけですね。
ですから、「バカチョン」の「チョン」の語源として、どちらが正しいかなんていうのはナンセンスなんです。重層的、複合的なんで。
そして、さらにさらに偶然が重なります。面白いですよ。
いわゆる「バカチョン・カメラ」が生まれたのは、1977年です。小西六の発売した「ジャスピンコニカ」は、それはそれは画期的な製品でした。それまで、カメラと言えば一眼レフが主流で、それは男性の道具(おもちゃ)でした。しかし、現在のコンパクトカメラのはしりであるこの「ジャスピンコニカ」によって、女性や子どもでも男性と同様な写真を撮れるようになったのです。
その簡便なイメージが、「バカでもチョンでも」というイメージと重なりました。しかし、それは偶然と言うより、一般的な必然です。
偶然というのはこちらです。このようなイージー・オペレーションな(笑)カメラのことを、アメリカでは「vacation camera」と呼びました。この「vacation」をローマ字読みしてみましょう。どうですか?「バカチョン」になりますよね。あるいは、英語の「vacation」の発音でもいいんです。そう聞こうと思えば聞こえるでしょ。
さすがにこれは偶然でしょう。きっと誰かが、「vacation camera」が「バカチョン・カメラ」と読める、あるいは聞こえると言い始めたのでしょうね。そして、「バカでもチョンでも使えるカメラ」ということで、ナイスネーミングに相成ったということでしょう。
ちなみに1970年代、あるいは80年代初期には、「バカチョン」と言った時の「チョン」が、朝鮮や朝鮮人を指すという意識はかなり薄れていたものと思われます。
しかし、それを聞いて不快に思う人もいたし、あるいは使ってみて違和感を抱いた人もいたわけでしょう。どこかで、また「ちょん」にまつわる黒歴史が復活してしまったわけです。
というわけで、なんとも皮肉な偶然が重なって生まれ、そして死んでいく言葉であることが解りましたか?言葉狩りが逆差別につながるという難しさもあって、この語について語る人も減っていくことでしょう。それは、ある意味歴史に目をつぶることにもなりかねません。言葉と歴史は実は同じものです。私の言い方だと「コト」ということですね。しかし、その「コト」には偶然という「モノ」も付き物なのでした。
それにしても、この説明書、どういうプロセスを経て、こんな歴史を掘り起こしちゃったんでしょうね(笑)。どんな偶然が重なったのか…おかげで、私は復習できましたが。
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