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2009.07.31

『女』に関する(ワケわからん)考察

4 のすごく忙しいのです。座禅、100人分の飯炊き、合宿、能の発表、原稿の〆切り、研修…いろいろ重なっていまして…。
 そんな中、どういうわけか、女性に関していろいろ学ぶことがありました。たまたまそういうことが重なったのだと思います。
 まず最初は仕事関係で観たDVD。ある会社が主催した講演会の録画です。それは、東京を中心とした地域の、中学校受験を控えた子供を持つ親を対象とした講演であり、聴いているのはほとんどが女性、すなわち母親です。講演している人も同じような経験を持つ女性でした。
 なんだか都会の小学生は大変だなあと。ものすごく失礼なことを言わせていただくと、中学受験は母親の自己実現のためという感じが強くしました。母親の名誉欲という気もしないでもない。いったい何が起きてるんでしょうか。父親の影の薄いこと。
 子どものためとは言葉ばかりで…結局子どもが自己実現の道具になっているのでは…なんて、こんなこと言える立場ではないのですねえ、実は。いや、私、今、中学の設立に大きく関わっているものですから。でもなあ、少なくともそういう母親が志望するような学校にはしたくないなあ…。
 ただ、この講演者、一つだけいいこと言ってました。受験は結婚みたいなものだと。一人しか選べない。だから、選ぶまではしっかり両目を開けて見きわめなさい。でも、結婚したら、すぐに両目をつぶりなさいと。なるほどね。あんまり理想を抱きすぎて入学すると、そりゃあ幻滅することの方が多いでしょう。まあ、そういう人生の智慧というのは、ぜひ持っていただきたいですね。実は私たち教師の側からも同じことが言えるものでして(笑)。
 さて、次。なんだかカミさんの周辺が慌ただしいのです。大いにもめてます。いい大人の女たちがもめてます。高校生レベルです。いや、中学生レベルかな。問題発言であることを覚悟して言っちゃうなら、どうも40代、50代の女性は若返るようですね、精神的に。お子ちゃまになっちゃうってことです。妙に自己顕示欲が強くなる。若気の至りレベルの半狂乱(失礼)。さっきのお受験もその一つの現れかもしれませんね。それにしても、ある意味元気だよなあ。肉食系女子(?)。
 男はその年頃になりますと、もうすっかり元気なく、草食系どころか、私みたいに断食系にまでなってしまいます。なるべく面倒な人間関係を築かないよう、ある意味ずるくなっていくものです。
 それに比べてなんたるオバサンパワー!これは冗談でなく尊敬に値しますよ。元気ですねえ。
 さて、続きましてですね、女子高校生を観察…なんて言うとアヤシイ感じですね。仕事ですよ。今日は学校にお泊まりで座禅です。私は典座という係。食事係です。今回はちょうど100名分のご飯を炊き、そして味噌汁やらを作りました。私もやっとおいしい食事が作れるようになりました。水加減、味噌加減バッチリですよ!一人分は未だに作れませんが、100人分だったら上手に作れます。
 で、今日は10人の女子生徒が補佐をしてくれたのですが、その仕事ぶりから、明らかに彼女ら三種類に分類できましたね。
 まず、ギャル軍団。彼女たちはまず元気で声がでかい。下品な話をヘーキでする。へそ丸出しで腹をぼりぼり掻く。ん?これはギャルとは言わないのかな。田舎のオバチャン予備軍でしょうか。彼女らは、口も八丁ですが、手も八丁です。うるさいけど、案外仕事はできます。でも、サボるのも上手。気がつくと隣の部屋で寝てたりする(笑)。まあ、かわいいもんです。
 彼女ら3年生なんですが、3年生になると急にオバチャンっぽくなるんですよね。2年生までは、例えば夏休みなんかオールで(徹夜で)遊んだりしてるんです。それが今はもう「かったるい」「ねむい」ということで、遊びよりまずは睡眠というふうになります。夏祭りにさえ行くのが面倒になっちゃう。これは毎年の3年生の傾向です。ま、進路のこともあるしね。男もそんな感じです。青春はやっぱり17で終わりなのかな。
 そして、次が腐女子グループ。こいつら全然仕事ができない(笑)。いわば妄想力ばかり発達し、生活力がない。何をすればいいかの空気が読めないんですよ。これやって、と頼んでも、それだけしかできず、自ら何かを見つけてやるということがない。で、みんなでオタ話で密かに盛り上がってる。ギャルの手前、やや小さめの声ですけど(笑)。今日はなんだかイケメン武将の話だったみたい。ゲームのキャラでしょうか。
 もう一つのグループは、これはカリスマ主婦ですね。なにしろよく気がつく。二手、三手先を読んで、どんどん勝手に仕事をしていく。こういう行事の時はとっても有用です。素敵です。いい奥さんになりますぞ。で、ほかの人がサボっていても全然気にしないどころか、自分がどんどんできることに喜びすら感じているようです。実際間接的にですが大いにほめてやると、もっと頑張ります。
 そうか、世の中の女性は全てこの三種に分類されるのか!ギャルと腐女子とカリスマ主婦。あなたはどれですか?…な〜んて、ずいぶん乱暴な考察ですねえ(笑)。でも、なんとなく本質的な部分が見えたような気がしました。今さらですけどね(笑)。
 いや、ホントのことをはっきり言っちゃうと、とにかく最近男の存在感がないんですよ。女が元気。自分のスタンスで生き生きやってますよ、女性は。それがケンカであれなんであれ、自分がはっきりしているんです。すごいエネルギーですよね。それに比べて、男はどうなっちゃったんでしょうか。自分も含めて…かな。
 私は案外古風な男でして、女に結構厳しい方なんです。それは、つまり、本質的に男の方が弱い、女の方が強いことを知っているので、社会というフィクションの上で男がいばって、そしてバランスを取るという、いわば人類史上の素晴らしい智恵を継承したいからであって、心からの男尊女卑などではありませんよ。とにかく今の子どもたちの問題を見ていると、全ては「父性」の欠如に由来しているように思えるのです。
 母性はリアルな「モノ」であり、父性はフィクショナルな「コト」であると、私は常に思っています。男たちよ!もっとハッタリ上手になれ!
 さあ、「シゴト」しなくちゃ、今日もまた…。

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2009.07.30

エクセレント・シェード (クレトム)

↓これは私の車ではありません。
Sa881 のフロントガラス問題、夏編。冬編については、こちらに書きました。夏はやっぱり駐車時の日よけが最大の問題でしょうね。あの暑さはすでに暑さの範疇を超え、熱さにまで到達しています。ハンドルを握れず、運転できないことさえありますからね。
 最初に結論を言ってしまいましょう。フロントガラス問題を通年で解決するためには、家の窓と同様、雨戸を付ければ良いのです。いや、雨戸というよりもシャッターかな。とにかく、上からでも下からでも横からでもいいので、シャッター様のものがスルスル、シャラシャラと出てくるのがベストですね。
 そうすれば、冬場は霜よけになりますし、夏場は日よけになります。技術的には全然難しくないと思うんですけどね。なんで出来ないんでしょう。安全面の問題でしょうか。法的にも無理なのかな。単にカッコ悪いからかな。
 今のところ、そういう装備の車はないので、しかたありません。夏場は皆さんがやっているように、フロントガラスの内側に日よけを張るしかないですね。
 私もいろいろと使ってきましたが、どうも納得の製品がありませんでした。ジャバラの紙のやつは、なんだかんだうまく固定できず、隙間だらけだし、効果も今一つ。アルミっぽいギラギラのやつは、だいたい吸盤でくっつけるのですが、それが熱で柔らかくなってはずれることも多く、実は根本的になってないシロモノだったり。
 で、今回ちょっと奮発して買ったこの製品は、今までで一番納得の使い心地です。さすがラグジュアリー、エクセレント(笑)。
 まず、素材の質感がよろしい。それほど厚い布地ではないのですが、適度な遮光性があるのはもちろん、結構丈夫そうです。フレームの金属にも適度な弾力性があって、そのおかげで、ほとんど隙間なくフロントガラスにフィットします。それにその「適度」な可塑性と復元性のおかげで、吸盤など付いていないにも関わらず、見事に固定されます。これで、帰ってきたらはずれてた、倒れてた、なんてことはないでしょう。いろいろと細部の構造、特にバックミラーなどがある中央部に当たる部分の構造なども良く設計されています。
 私の車の場合、ダッシュボードの中央にETCが鎮座していますので、そこをまたいでこのシェードを装着しなければならないのですが、シェード本体中央部分の構造がちょうどそこにマッチというか、フィットしていまして、非常に便利であります。
Sa793 また、売り文句の一つ、小さく丸く折りたためて収納にも便利という点においても、なかなか上手な設計がなされていると思います。最初のうちはちょっとコツがつかめず、うまく折りたためなかったのですが、慣れればひょいと小さくできます。それを収納するケースもしっかりとした素材でセンスも良く、車内に常備しても違和感のない品質を持っています。
 実際使ってみますと、熱の遮断の能力も結構高いようで、その効果は抜群です。あと、案外良かったと思ったのは、その色が地味なカーキグリーンでして、そのおかげで、外から見ますと、特にシェードをしていないかのように見えます。いかにもなギラギラ感や、いかにもなイラストがないので、落ち着いた印象を与えますね。
 私は冬場でも車中泊時の目隠しに、こうしたシェードを使いますから、これは通年で重宝しそうです。
 実際には、いちいち丸めてケースに入れるのは面倒なので、半分にたたんで助手席の足下や、後席にポイと放り込んでいます。一人で乗っている場合にはそれでいいですね。
 これから夏の行楽シーズン本番です。ウチでも何かと車でお出かけする機会が増えますから、きっといろんな所で、このシェードが活躍することでしょう。
 クレトムさんのホームページを見ると、ホントいろいろなタイプのシェードを製造していることがわかります。なんか職人のこだわりのようなものを感じますね。
 それにしてもなあ、早くフロントガラスシャッターが標準装備の時代が来ないかなあ…。ぜったいいいと思うんだけど。

ワンランク上のフロント用サンシェード99%UVカット 専用収納ケース付 クレトム ラグジュアリーシェード

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2009.07.29

ブラームス 『ヴァイオリン・ソナタ集』 (コロル/グリゴリエワ…モダーンタイムズ_1800)

BRAHMS: Violin Sonatas Nos. 1-3
(Korol/Natalia Grigorieva…moderntimes_1800)
3 んとも妖しいジャケットだな(笑)。いいぞ、いい感じ。
 ブラームスのヴァイオリン・ソナタ。ヴァイオリン弾きにとっても、ピアノ弾きにとっても、非常にやりがいのある曲集です。技術的にはそれほど難しくないけれども、音楽的には難しい。どのように物語を紡いでいけばいいのか、私なんかには想像すらできません。というか、私はまだブラームス語すら分かっていませんし。でも、いつかやってみたい曲集ではあります。
 名演と言われる録音もたくさんあります。それがまたみんな全然違っていて面白い。私はそれらについて好き嫌いを言えるレベルにないので、それぞれなるほどと思ってしまいます。うん、好き嫌いって、自分だったらどう弾くか(弾けるかは別として)というイメージが出来てないと生じてこないみたいですね。
 最近で感心した録音は、このピリオド楽器による演奏と、あとで紹介する個性的な二人の日本人による演奏です。この二つが実に対照的であり、そのどちらをも受け入れて、弾く人も聴く人も納得させてしまうブラームスは、やっぱり時代を超える天才なんだなと思わせます。
 こちらピリオド楽器で演奏しているのは、moderntimes_1800という団体の二人。この団体名からしてなかなか斬新ですね。この団体は2003年にヴァイオリンのイリヤ・コロルを中心に結成されたそうで、1800年を中心にして、その周辺の曲をその時代の楽器によって現代に再現するのをモットーにしているようです。
 現代音楽の演奏にも力を入れているようですが、それもたぶん、現代の楽器による現代曲の「再現」という発想によるものでしょう。楽器の生理と表現の関係は切っても切り離せません。昨日の「黙読」の話じゃありませんが、楽器の身体性を意識するというのが、我々古楽器演奏家のスタート地点です。
 でも、ある意味では、それもちょっと問題があるんですよね。というのは、先ほどの現代曲の「再現」にも関わる部分です。
 その時代の「現代人」のほとんどは、自らの身体性を忘れようとしがちです。文明もそういう方向に進もうとします。そう、身体とは最も身近な「モノ」であり、随意なようで不随意な、文明にとっては目障りな存在なのです。
 ま、そんな理屈は抜きにしても、今(現代・モダン)の体しか持ち合わせない、持ち合わせ得ない私たちは、過去を意識して初めて、その今の身体性をも意識することになるわけです。それはある意味自然状態とは言えません。そういう考え方もできます。
 ちょっと話が飛びますが、今日早稲田の過去問で補習をしていたんですが、その文があの原研哉さんのものでした。内容は非常にわかりやすいもので、デジタル・メディアの登場によって、紙という古典的なメディアの身体性が意識されるようになった、復活した、というような話でした。なるほどですよね。利便性だけで言えばデジタル・コンテンツでいいはずなのに、我々は「質感」や「重み」や「汚れ」を欲するものです。
 ピリオド楽器の演奏もそういうものだと思うんですね。原さんはこう書いていました。紙も以前は単純に合理的で抽象的でニュートラルな存在だったと。つまり、紙が「今=現代」だった時には、紙はそのモノ性(身体性)を失っていたんですね。それが、それ以上に身体性を奪われた文明的な(コト的な)メディアが現れた途端、急にそれに対抗するようにモノ性が復活したというわけです。古楽のアプローチというのも実はそういうものであるかもしれません。
 そうすると、もちろんそれは単純な再現ということにはなりませんよね。当時の「無意識」を「意識」するわけですから。そのへんの難しさはあります。いや、実は我々は、過去を今との差異としてしか認知できないとも考えられるわけで、そうすると、古い作品の観賞は全てそういう性質のものとして当たり前だということにもなります。古い絵を観るのも、映画を観るのも、古典作品を読むのも、みんなそうです。
 しかし、音楽の演奏と観賞には少し特殊なところもありまして、それが「リアルタイム性」ということです。すなわち、常に「今」が重視される、いや本当は「今」しかないという側面があるんですね。録音という技術のおかげで、ややその性質も揺らぎつつあるとは言え、基本は変わらないと思います。つまり、過去の「今」を現在の「今」として表現しなければならないわけですね。そして、その時、最も重視すべき「今」とは何なのか、それが問題になってくるわけです。
 すなわち、当時の「今」の楽器を再現すればそれでいいのかという問題です。先ほど当時の身体性を意識するのがピリオド楽器奏者のベースだと書いてしまいましたけれど、当時の「今」は、過去との比較として存在するわけではないので、結局当時の「今」の人にとっては、その時の「今」は限りなく無意識に近いわけです。つまり身体性を意識する必要すらなかったかもしれないわけです。
 ですから、私たち現代人が、楽器の再現という方法で当時の「今」を再現すること自体が、実は大きな間違いである可能性もあるわけです…って、思いっきり自己否定してますが(笑)。いや、私は現代楽器をほとんど弾いたことがないので、一般とは逆の現象が起きるんですよ。たまにモダン楽器弾くと、突然身体性が発動しちゃう(笑)。
 こんなふうに妄想してきますと、moderntimes_1800というバンド名もなんとも意味深で面白いですね。彼らはそんな矛盾なんてとっくに乗り越えてるのかもしれませんね。それに、音楽ってものは、もともとそんな屁理屈なんかに動じず、「今」こうして魅力的にあるわけですからね。どうでもいいと言えばどうでもいいことです。
41jgvku7ytl_sl500_aa240_ いやいや、やっぱり最強のブラームス演奏、究極のブラームス再現は、やっぱりこっちなのかもしれません。古澤厳と高橋悠治。ある意味無意識的に表現されたブラームス。時代考証なんてみみっちいこと(失礼)抜きに、今の今にこだわった演奏。「今」生まれたブラームスということで言えば、最も当時の「今」に近いのかもしれません。しっかし、楽しい演奏だなあ。クソ真面目な顔してやってるんだろうけど、なんでこんなに面白いのか。今にこだわったわりにライヴな雰囲気がないし。不思議な魅力です。ジャケットもコロルたちとは対照的ですね(笑)。

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2009.07.28

『多読術』 松岡正剛 (ちくまプリマー親書)

48068807 の中にはいろいろの道のプロというのがいて、常に私を驚嘆させるものです。読書の世界にもこういうモノすごいプロの方がいらっしゃるんですね。
 なんというか、読書という武芸の達人の言を聞いているような感覚でした。なんとなくその世界がわかるような気がするのですが、絶対にマネできないなとも思う…。
 実はこの本とその周辺でさっそく試してみたんです。松岡さんの推奨する読書術を。二度読む、疑問エンジン、空振り三振、系読、「無知」から「未知」へ、目次読書法、知のマップ、感読レセプター、コラボレーション、予想、マーキング、本をノートと思う、そして「編集」。
 非常に楽しかった。なるほど、読書は受け身な作業だと思っていたのが、最初の誤りだったのか。たしかに双方向的な相互コミュニケーションだという前提で臨めば、私の苦手な「読書」もずいぶんと楽しくなるなと。
 特になるほどと思ったのは、「筆者は実は自信がない」という部分です。なんか、本の筆者って、とっても偉くて自信満々な人だと思っていた。自分にはこう断言する自信はないなあ、とても本なんて書けないなあと思っていたので、かなり新鮮でした。
 そう、こうしてブログというメディアでは、私も活字をやたらに吐き出し続けていますが、古典的メディアである紙に文字を固定して他者に開陳するのは、どうも自分にはできないと思っていたんです。いや、もちろん今でもその基本は変わりませんよ。しかし、実は多くの著者が、ある意味ハッタリで書いていると思うと、なんとなくそれだけで「読書」という行為をする自分の気持ちも変わっていきます。
 つまり、今まで私は、本の前に立つ(座る)と、もうものすごく緊張してかしこまっていたわけですね。とんでもなくエライ人の前に立たされているみたいに。だから、なるべく自分の存在を消そうとすらしていた。とても自分がその本に偉そうなことを言える立場ではなく、ただ、はぁなるほど…とうなずくことしかしていなかったのかもしれません。
 くそー、だまされてた(笑)。
 ま、本にもいろいろありますからね。事実このブログでずいぶん筆者に失礼なことも書いてきましたし(笑)。ただ、一般に名著とか言われるものに対しては、読む前から構えてしまっていたのは事実です。
 ですから、松岡さんがおっしゃるように、そういう名著であっても何であっても、とにかく著者、筆者、作者は、実は自信がなく、読者の顔色をうかがいつつプレゼンテーションしているのだと思えば、ずいぶんとこちらも楽になるのは事実ですよね。そして、こっちからいろいろツッコミを入れてもいいのだと。そのツッコミという編集行為こそが読書であるというわけです。
 そういう意味で、私自身が妙に反応したのは、「黙読」についての松岡さんの言葉でした。そこでは彼はそれこそ自信なさげに、「まだ確証されたことではないのでなんとも言えませんが、ひょっとしたらありうることでしょう」とおっしゃっています。松岡さんならもっとはっきり確定的に言っちゃうのかなと思ったら、案外ヘニャヘニャだったので、ちょっと嬉しくもあったりして。
 私もこの「黙読」がもたらした人類史的な事件について興味があるんです。私のそれこそワケわからん「モノ・コト論」で言いますとですね、黙読こそ近代化(コト化)を象徴する行為だと思っているんです。
 黙読なんて、今では当たり前、音読するのは学校の授業くらいだと思ってるじゃないですか。でも、実際は、黙読というのはとっても不自然な行為なのかもしれない。そうですねえ、たとえば音楽を黙読するというのと同じだと考えてみてください。数百年後、我々人類は音楽を聴いたり、演奏したりするんじゃなくて、楽譜を黙読するようになったらどうでしょう。信じられないですよねえ。でも、音読が当たり前だった時代の人々からすると、我々の黙読は、それと同じくらい信じられない行為なのかもしれません。
 松岡さんは、マクルーハンの説を引いて、黙読は「無意識」「下意識」を生んだとしています。私は「無意識」と「意識」を、一般と少し違った定義をしているので、そのまま受け入れることができませんが、基本似たような感覚を持っています。つまり、黙読が一般化するにつれ、脳内の「コト」世界が、身体的「モノ」世界を凌駕しはじめたということです。
 「コト」世界が広がることによって、我々はどんどん「自然状態」から遠い存在になっていったのです。それが現代の多くの解決不能な問題を生んでいることは確かです。
 音楽の例も冗談ではないかもしれません。書くという行為も、今こうしてパソコンのキーボードを叩いているうちはまだいい。もっと「モノ」から離れ、身体性を失っていく可能性もあります。つまり、私たちの脳が、そのままメディアにつながるように、すなわち身体的面倒(?)を排除する方向に、我々の文明とか科学とかいうものは進んでいくようにできているんです。
 そうしたことが実現した時、我々は「便利になった」と言うのでしょう。そして、またどんどん自己疎外に陥っていくんでしょうね。そんなことを考えてしまいました。
 そんな私の妄想はこのくらいにしましょう。とにかく、この本を読んで、私の読書に対する苦手意識が少しは克服できたかもしれません。それから、もしかすると、本を書くという行為に対する「ハナから無理意識」というのも消えたかも。そういう意味で、松岡さんに大感謝です。

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2009.07.27

宇宙から見た異常気象と景気停滞

2009040800000000natiogeopintview000 国・九州北部豪雨による甚大な被害に驚きを隠せません。被災者の皆様には心からお見舞いを申し上げます。この時期にこういう形での豪雨があるとは。ここ十数年に増えた梅雨の末期の豪雨とも少し違った感じがします。
 日食前と後に地震発生の可能性を指摘しましたが、四国、奄美、そして中部地方、関西と、かなり活発化してきております。また、一部で関東地方の宏観異常が報告されており、私自身も独自のデータをいくつか得ていまして、近年にない危険な状況であるのは事実です。
 もちろんいたずらに恐怖や不安を煽るつもりはありません。ただ、いつかも書いたように、ネット時代、災害予想・予知についてはなるべく多くの、ある意味雑多な情報をかき集めて、全体的な傾向でそれぞれが判断すべきだと思うんですよね。今はあまりにバラバラにやってる状態ですし、お互いに非難しあってるようなところさえあります。
 公的な機関がそのような報告ができる掲示板など作ってくれるといいのですが…。ま、運営が難しいかな。
 そう言えば、今日は群馬で竜巻らしきものが発生したようですね。これもまた珍しいことです。実は、竜巻やダウンバーストの発生と地殻のストレスとが関連しているという説もあるのです。あくまで説ですけれども。
 ま、竜つながりで言いますと、大規模な断層の近くに「竜」の字のつく地名が多いとの指摘もありますね。竜巻や竜状(?)の雲が発生する傾向が強かったのかもしれません。
 ところで、気象というものが様々なものに影響を受けていることはご存知ですよね。もちろん、人間の文明が「温暖化」などを引き起こします、たぶん。日食による潮汐力が自然界に及ぼす影響も、決して地殻に対するものだけではありません。気象や、それから女性の精神にも(笑)。
 それから意外なのは、地球の外からの影響ですね。特に太陽の活動は大きな影響を及ぼしています。
 そうそう、実は今年は日食以上に大きな天文ニュースがあるんですよね。まず、太陽の活動についてです。今、太陽はとっても弱っています。歴史上まれに見るほど、活動が停滞気味です。黒点の観測されない状況、ほくろやあばたのないキレイなお顔の状況が続いています。
 私、小学校の5年生か6年生の頃、夏休みの自由研究で太陽面の観察をやりました。毎日望遠鏡で観測して、黒点スケッチとかしてました。今年はその研究はできそうにありませんね。なにしろ、黒点がないんで。
 黒点の増減については11年周期というのが知られています。太陽の活動は大きなスパンで脈打っていまして、その最短の周期が11年なのです。実は2007年がそのボトムにあたる年でした。その後、予定ですと2008年、2009年と、太陽は活動を活発化するはずだったのですが、実はそれが全然元気ないままなんですよね。
 その理由は今一つわかりません。ただ、歴史的な事実を見ますと、このような活動極小期は1913年にも確認されています。ちなみにその年、日本は記録的な冷害を体験しています。明治の3大冷害の一つとして数えられています。まあ、単純に太陽から到達するエネルギー量が減って気温が下がったと考えて良いでしょう。
 さらに遡りますと、1810年にも黒点がほとんど観測されないことがありました。この年もたしか気温の低い年だったかと思います。今年の黒点数は、この年並みの少なさです。
 また、かの有名な1645~1715年のマウンダー極小期では、北ヨーロッパや北米大陸北部は氷に閉ざされてしまいました。
 このまま太陽の活動が低調なままですと、地球の寒冷化が進むおそれもあります。そうなると温暖化とかいう問題じゃありませんよね。しょせん人間の活動なんて宇宙規模で見れば微々たるものですよ。なんか世間の騒ぎがおかしく感じられますね、スケールを変えてみますと。
 実際ですね、太陽の活動が不活発になり、地球の寒冷化が進みますと、当然穀物の収穫量は減ります。それがもとで世界景気も停滞もしくは下降気味になります。ですから、景気の周期と太陽の活動周期が一致する、あるいは相関すると唱える学者さんもいるんですよ。たしかにそうとも言えますね。
 今回の金融危機から生じた世界的不景気も、たしかに太陽の元気のなさとシンクロしているとも考えられます。そういう、グローバルを超えたユニバーサルな視点というのも大切かもしれません。私たちは地球の住民である以前に、宇宙の住民なのですから。
Tky200907250240 ところで、7月の大きな天文ニュースとしては、木星に大きな天体(彗星か?)が衝突したというのがありましたね。その衝撃痕は地球を呑み込むほどの大きさだそうですから、もしその物体が地球に落下していたら、もう一発で地球は滅亡でした。
 ちなみに、木星が我々地球を守っているという話を知っていますか?今回もある天体が木星の引力に引きつけられて木星に落下しました。ということは、地球にそうした天体が衝突する可能性を下げてくれているとも言えるわけです。実際シミュレーションしてみると、木星がなかった場合、地球に別の天体が落下する確率ははね上がるそうです。なるほどですね。木星に感謝しなくちゃ。
 1994年には、木星にシューメイカー・レビー第9彗星が落下しました。この時も同規模の衝撃痕が観測されました。そして、その夏、日本では記録的な猛暑になりました。今年の夏はどうでしょうね。もちろん、木星での自然災害(?)と地球の自然災害の関係性なんて全く証明されていませんが、逆に全く関連がないとも証明できません。
 というわけで、太陽のおかげで冷夏になり、木星のおかげで猛暑になり、結果として平年並の夏になるんでしょうか(笑)。まったくもって、人間の力や考えなんて、ちっぽけなもんですね。

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2009.07.26

日本…「にほん」か「にっぽん」か?

↓画像に深い意味はありません。
20080829_1429 後に衝撃的な事実が発覚しますのでお楽しみに。
 自国の国名の読み方が決まっていない…そんな国は世界中探しても日本以外にないでしょう。明治以来、いやそれ以前からかな、ずっと論議されてきた国号読み方問題ですが、今年の6月の30日にいちおうの結論が出ました。
 「にっぽん」でも「にほん」でも、どちらでもよい。
 どちらでもよい…って、結局決まってないじゃん!漢字の読みがお得意な(?)麻生総理らしい玉虫色の結論ではあります。
 皆さんはどのように読んで(呼んで)いますか?
 私の場合、ほとんど日常生活においては「にほん」ですね。アンケートでもそういう結果が出ています。国際的な場面で、他国を意識する時はなんとなく「にっぽん」という気がしますね。国際大会での応援は「ニッポン・チャチャチャ」ですよね。「ニホン・チャチャチャ」じゃリズムが悪い。
 会社名や学校名などではいろいろです。日本生命、日本航空、日本大学は「にほん」ですが、日本通運、日本ハム、日本体育大学は「にっぽん」です。日本テレビは…正式名は日本(にっぽん)テレビ放送網株式会社だけど、略称は日本(にほん)テレビ…笑。
 もう訳が解らん国ですね。自分の名前の読みが二種類あって、どちらでもいいっていう人はそうそういないはずです。逆にこだわりますよね。「○沢」の「沢」が「さわ」なのか「ざわ」なのかとかね。
 ああそうそう、ウチのカミさんの旧姓は「安倍」なんですが、これって実は3種類の読みがあるんですよ。で、ウチのは「あべ」じゃない読み方でして、よく間違われたそうです。彼女のおじは面倒くさいので戸籍上の読み方を「あべ」に変えちゃったそうです。そんなこともできるんだ。
 ちなみにNHKでは特別な場合以外は「にっぽん」に統一しているとのこと。逆に今回この件でもお世話になった「日本国語大辞典」では「にほん」に統一しているとのことです。ふぅ。
 なんでこんなことになっちゃったんでしょう。日本語学的に説明しようとしますと、かなり時を遡らなければなりません。まずは、なんで我が国が「日本」になったのか、から。
 実はこれもよく分かってないんですよ。困ったもんですね。一般には中国が我が国を指して、東の海上にある国ということで、「日が昇るところ」という意味で「日本」と称したのが始まりとされていますが、実は違う説もたくさんあるんです。今日はそこは省略しましょう。
 とにかく中国(外国)から「日本」と称されて、ああ我が国は「日本」という名なのだと、我々日本人(?)は初めて意識したのでしょう。そして次は、「日本」と表記された外国語をどう読むかという段になります。
 当時(今も)中国には様々な民俗が住んでおり、多くの方言が存在していました。ですから、「日本」の読みも様々です。奈良時代にもいろいろな発音が聞かれたと思われます。当時最もよく聞かれたのは、朝鮮半島経由で流入した中国南部の方言でしょう。のちに呉音と言われるものです。呉音によると、「日」は「にち」、「本」は「ほん」ですから、普通に並べれば「にちほん」となりますね。しかし、中国語の音便の習慣(これもいろいろあるし、よく分かっていないんですが)から、やはり「にっぽん」と聞こえたと考えられます。
 そうすると「にっぽん」が大本ということになりますから、やっぱり「にっぽん」が正式なような気がしますね。しかし、事情はもっと複雜でして、「日本」をそのまま訓読みして「ひのもと」と読んだ人もいましたし、「日本」流入以前の自称(国名ではない)「やまと」と読んだ人もいたわけです。
375486_1 さらに漢音(中国北部の方言の音)が主流になってくると「じっぽん」と読むようにもなりました。この「じっぽん」が「ジパング」や「ジャパン」や「ジャポン」や「ヤーパン」の元になっているのはお分かりですね。つまり、ヨーロッパの人たちが中国人の発音を聞いて、それぞれのお国訛りで定着させたわけです。ついでに、「中国」を日本で「支那(シナ)」と言ってましたが、その英語なまりが「China(チャイナ)」だというわけです。
 さてさて、「日本」という文字の並びで自国の名称を表現することは確定していったのですが、上述のようにその読みは不確定でした。
 さらに難しい問題が生じます。当時の表記法の問題です。たとえば「ニッポン」という発音を、今私たちは「にっぽん」と仮名書きしますが、昔は促音の「っ」や半濁音の「◦」はありませんでした。ですから、単純に言えばですね、「ニッポン」という発音を表記するとすれば「にほん」になってしまったわけですね。その「にほん」という仮名の並びをそのまま発音すれば「ニホン」になります。ちなみに奈良時代以前は「はひふへほ」は「パピプペポ」と発音されていたことが分かっています。だから万葉集なんかに出てくる「母」は「パパ」ですよ(笑)。ついでに言うと、「ひよこ」は「ピヨピヨ」鳴くから「ピヨコ」だったわけです。面白いでしょ。
 それから、我々日本人の感覚として、これは現代人でもそうなんですけど、つまる音(促音)や破裂音である半濁音は、ちょっと「強い」「きつい」感じがするんですね。今でも、「ニホン」よりも「ニッポン」の方がそういう感じがするでしょう。だから対外的に、あるいは応援的に語気を強める時には自然と「ニッポン」と言ってしまいます。
 昔もそういう語気を嫌う人々がいたと思われます。自国について身内で話す時、日常的な会話として自分たちを表す時には、なんとなく柔らかく発音したくなりますね。特に女性はそうだったのではないでしょうか。それで「にほん」をそのまま「ニホン」と読むことが増えてきたと思われます。
 ですから、中世、ポルトガル人が作った日本語の辞書なんか見ますと、「にほん」「にっぽん」「じっぽん」、三つの「日本」が出てきます。もうその頃にはかなりカオスなことになっていたんですね。それが今まで続いてきたし、麻生さんにも踏襲されているというわけです。
 あっそうだ、また余計なことを思いついたので、書かせてください。すみません、あっちこっち行って。
 「〜本」について。これは外国人が面食らうんですよね。鉛筆の数え方。1本は「いっぽん」、2本は「にほん」、3本は「さんぼん」…もうこの時点で「本」は三種類の読み方をされています。で、普通に考えて、というか頭のいい外国人の方なら、「そうか、『ん』の後では『ぼ』になるんだな」と思いますよね。しかし、いきなり次の4本でその予測ははずれてしまいます。「よんほん」ですね。「よんぼん」とは読まない。だいたい、「よん」というのは訓読み(日本語)の「よつ」が音読み(中国語)の「さん」の影響を受けて生まれたもので、もうすでに複雑な素性の持ち主なんですけどね。ついでに言えば7本を「しち+ほん」と読んだ場合も、1本からの類推「しっぽん」にはなりません。複雜怪奇としか言いようがありません。
 さて、話を戻します。「日本」です。結局、今まで通り「にほん」と「にっぽん」を「適当に」使い分けるしかないみたいですね。
 で、最初に予告した「衝撃の事実」ですが、ここまで書いてくるとなんだかあんまり大したことじゃないような気がしてきました(笑)。
 実はですね、「にほん」という読みが、漢字学習的には「誤読」である可能性があるということなんです。
 漢和辞典を調べても「日」を「に」と読むという記述は一つもないということです。ですから、漢和辞典的には、つまり正式には、「日本」を「にほん」と読むことは不可能だということになってしまいます。なんと、自国の国名が「誤読」である可能性があるんですよ。漢字検定では不正解になってしまうかもしれない(笑)。
 これについても、実はちゃんと説明されていません(たぶん)。同様なものとしては、「読経」を「どきょう」と読んだり、「合点」を「がてん」と読んだりする例が挙げられます。これらは辞書の記述を超えた「特殊な読み」として扱われます。どちらかというと「暖簾」を「のれん」と読んだりする「熟字訓」に近い感覚でしょうか。ちなみに「時計」は当て字です。もとは「土圭」です。
 ということで、つまり、我々が親しんでいる「にほん」という呼び名は、いろいろな意味で誤りを含んでいるということです。もちろん、言葉の性質からして、それをどうのこうの、間違いだから使うな!とか、そんなことは言いませんよ。でも、ちょっと面白い事実ではないでしょうか。案外みんな知らないことです。灯台下暗し。日の本暗し。そうそう、「日下(くさか)」も間違いなんですよ。もとは「日」ではなくて「曰」だったらしい。 
 というわけで、結局よく分からないままです。さすがとてつもない日本(笑)。

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2009.07.25

歌謡曲バンド「ふじやま」〜三木たかし特集@ふじよしだジャズストリート

2 知していましたように、本日ふじよしだジャズストリートにて、我らが歌謡曲バンド「ふじやま」のライヴを行ないました。
 聴いて下さった方々、本当にありがとうございました。楽しかったぁ!
 考えてみれば、とんでもないことでございます。今や日本中で超有名になった富士学苑高校のジャズバンド部(ムーン・インレット・サウンズ・オーケストラ)を前座に(?)、我々がそのあとトリをつとめたわけですから(笑)。
 そう、富士学のジャズバンド部はこちらに書きましたように、1ヶ月後にはあのMJQと共演(!)するんですから。
 …ってことは、我々はMJQ並みってこと!?KBFも出世したもんだ(笑)。
 だいたい歌謡曲なのにジャズストリートに出ちゃうあたりが、もうかなりいい加減ではあります。しかし、我々のスピリットは結構ジャズに誓いものがあるかもしれません。
 我がバンドは一応固定のメンバーがいるんですが、全国に散らばっているし、それぞれの本職の音楽活動が忙しいということもあって、なかなかフルメンバーでやる機会がありません。
 そんなわけで、今回は地元組だけの参戦でした。さらにドラマーは今回初めて一緒にやる方。彼は私の教え子でして、まだ若いのにムード歌謡が大好きという素晴らしい男です。
 そんな初体験の彼を交えてもですね、いつもの我々のスタイルは変わりません。つまり、練習は1回だけ。だいたい、楽譜も配布されませんから、ウチのバンドは。YouTubeの音源だけ決めて、あとはその時のメンバーの出席状況によって、各パートが空気を読んで勝手に編曲し、そして1回の練習でパッと合わせて、尺や構成だけ確認。あとは、調整する場所だけ宿題にしといて、本番でドーン!です。
 こういうふうに、その時々の事情やら空気やらでどんどん音楽を作って行くのこそ、ジャズのスピリットです!なんちゃって。
 さて、今回はですね、5月11日に惜しくも亡くなられた三木たかし先生の特集をやったんですけど、まあ、とにかくやってみてよく分かりましたねえ、彼は天才中の天才です。今日も演奏しながら涙が出そうになりました。
 あと歌の力、歌謡曲の魅力ですね。いろんなジャンルの音楽をやっていますが、こうしてお客様に心から喜んで楽しんでいただける、通りすがりの人ともこうしてつながることができるジャンルとしては、昭和の歌謡曲がダントツです。
 で、今回初参戦のドラマーくんが今日の映像をYouTubeにアップしてくれましたので、興味のある方、三木先生の魅力を再確認したい方は、ぜひぜひどうぞ。
 今日はPAの調子がイマイチで、さらに風が強かったりしまして、音質が良くありませんけど、それがまた昭和の雰囲気を醸していて案外いいかも?では、どうぞ。

 本日の歌謡曲バンド「ふじやま」のメンバー

 唄 山口陽子
 キーボード 吉野洋美
 ドラムス 柳沢昭彦
 ヴァイオリン 山口隆之

津軽海峡・冬景色 (石川さゆり) 最初ハウってます。ごめんなさい。

みずいろの手紙 (あべ静江)

待ちくたびれてヨコハマ (柏原芳恵)

アンパンマンのマーチ

思秋期 (岩崎宏美) 

夜桜お七 (坂本冬美)

時の流れに身をまかせ (テレサ・テン)

 このあと、アンコール(?)として、富士学苑高校ジャズバンド部と共演させていただきました。
 全くのぶっつけ本番でしたが、美空ひばりさんの「川の流れのように」をカミさんが歌っちゃってました。これってよく考えるとすごい贅沢ですよね。東京ユニオンをバックに東京ドームで歌うひばりさんって感じですよね。シロウトの歌い手が生のビッグバンドをバックに歌謡曲を唄うなんて…カミさん、そのありがたみ分かってるのか!?
 とにかく、楽しかった。歌謡曲バンドはホント癖になりますね。また、どこかでやっちゃいま〜す。

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2009.07.24

頑張れ!アナロ熊!

 日、モノがモノを生んでいく「物語」の話を書きました。今日もそんなお話かな。
 まずは逆にコトがモノを殺していった事情から入りましょうか。
 今日は奇しくも「アナログ放送死亡予定日2周年前(?)」でした。この問題について私が異常な執念を燃やして総務省およびテレビ局と闘っているのを、皆さんはどのようにお思いでしょうか。
 普段は仏さまより温厚だと言われる(?)ワタクシが、この地デジ問題と漢字検定問題と悪徳宗教問題にだけは異常な怒りを表明しているのには…実はあんまり意味がありません。ただ単に気に入らないからです(笑)。一部では仏のストレス解消とまで言われています。当たってるかも。
 で、自分でもよくわからんこの「やる気」なんですけど、それぞれ強大な利権構造に対する、小市民の抵抗という部分だけは、なんとなく共通点があるような気がしますね。実際、私は彼らをかなり敵に回しており、いつ消されてもおかしくない状況…だったらイヤだな。
 ま、とにかく、「物語」ではなく「もの騙り」によって「カネ」もうけする輩が大嫌いなんですよ。「もの騙り」は、つまり「コト」によって「モノ」を「カネ」に変換していく行為でして、「カネ」というのは、つまり「モノ」の命を数値化(デジタル化)して奪う存在なんです。
 すんごく簡単に分かりやすく言っちゃうと、私の考えからしますとですね、アナログは「モノ」で、デジタルは「コト」なんですよ。で、「コト」の権化、悪神が「カネ」です。
 その「コト」のキャラクターの一つが「地デジカ」。こいつはホントいやなヤツです。もうマジで絶滅させたいくらい嫌いです。
 例のクーデター未遂事件、すなわち草彅剛くんによる縄文(アナログ)の祈りに対する漢検…じゃなく官憲による弾圧事件(GJ!草彅剛(くさなぎつよし)くん!!草彅(なぎ)剛くんと二・二六事件参照)により生まれた、この憎むべきキャラ「地デジカ」。誰が企画製作したか知りませんが、ネーミングのセンスからデザインまで、こうも可愛くないキャラだと、逆に狙ったんじゃないか、実は秀逸な戦略なのではないか、やるな民放連、などと、いらぬ心配までしちゃいますよね。
 で、登場後の顛末がまたすごかった。皆さんもご存知だと思いますが、このあまりに「出来すぎた」キャラに、当然「物語」好きな2ちゃんねらーたちがザワザワし始めたわけです。当然です。
 あれはスクール水着を着てるんじゃないのか?…これはですね、2ちゃんねらーとしては決して馬鹿にしてるんじゃないんですよ。スクール水着だったら許す、スクール水着だったら物語性がある、ぜひそうあってほしい、そうだったら愛せる!という、最大限の歩み寄りだったわけですよ。
 しかし、それに対して、「コト(カネ)」にしか脳がないお馬鹿な連中が真剣に怒り出した。洒落がわからないにもほどがある。
 民放連は公式に「あれはスクール水着ではありません!」と発表しちゃったのです。もちろん、この野暮な反応に2ちゃんねらーは激しく再反応。そりゃそうだよな。「出来すぎた」反応だもんな。もちろんネット上には、地デジカのパロディーが溢れることになります。
 それに対してまた民放連はやってしまった。「あらゆる二次使用は許さん!著作権を主張する!」と発表。これまた「出来すぎ」です。さらにその地デジカの公式プロフィールに、Wikipediaの記事が無断で二次使用されていたりして(苦笑)、もうこうなったら2ちゃんねらーたちの思うつぼですよねえ。すぐに「地デジカの敵、アナログを守るキャラ、著作権フリー、二次使用でも三次使用でもいくらでもどうぞ」という「アナロ熊」が誕生しました。めでたし、めでたし。
2138532 とういわけで、当然私は「アナロ熊」のファンです。先ほど「アナロ熊」のTシャツも注文しました。ちゃんとアナログらしくゴーストが出ているヴァージョンを選びました。あと、地デジカを食べちゃってる例のヤツね。
 本当に2年後にアナロ熊は絶滅し、地デジカが繁栄するんでしょうか。私は最後まで抵抗するつもりです。とは言っても、実はもう何年も前から地上デジタルチューナーを買って使ってるんですけどね(笑)。完全に自己撞着に陥っています。今年中に、あらゆる手を使って東京タワーからのデジタル波を、ここ富士山で完璧に長距離(越境)受信してやろうと思ってます。ま、ある意味最強の地デジカマニアとも言えてしまいそうなこの状況。いったい何なんだろうと、自分でもよくわからんことになってますが、とにかくカネと時間と労力を返せ!アナログのままだったら、こんな苦労しなくて済むのにということだけは確かです。
 ホントは地デジカやアナロ熊なんて登場せず、昔の平和なテレビ環境のままで良かったと思うんですけどね。ま、そういう意味で、いちおう在来種のアナロ熊を応援しますわ。そして、2年後2011年の7月24日に地上デジタル完全移行が実現しないということだけは、ここに予言しておきます。しばらくアナログ波も送信し続けることになるでしょう。頑張れ!アナロ熊!

アナロ熊

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2009.07.23

『青春鉄道』 青春 (メディアファクトリー)

84012579 女子生徒が貸してくれました。これはなかなか面白い。
 鉄道擬人化マンガ。トーマスのような車両の擬人化ではありません。各鉄道のキャラクター(特性・個性)のキャラ化です。
 うん、これぞ日本文化の醍醐味でしょう。日本の伝統文化における擬人化は、これはもう神話時代にまで遡りますから、今日はそのあたりの解説は割愛します。いずれじっくり語りましょう(てか、じっくり語ったら、立派な学術論文になっちゃいますよ、膨大な量のね)。
 世界標準ですと、こうした擬人化は子供っぽいと評されがちです。しかし、考えようによっては、非常にメタなレベルでの思考作業です。私の「モノ・コト論」的に申しますと、外界のモノを脳内で処理してコト化するのが単純な「リアリズム」のあり方です。西洋科学はその最たるものですね。それに対し、外界のモノを処理してコト化したところから、さらに別のモノを作り出す、それをまた誰かが別のモノに展開していく、いわばそういう「モノガタリ」こそが、日本的なリアリズムなんですよね。
 ま、それは簡単に言っちゃえば、単に妄想好きっていうことなんですけどね(笑)。妄想世界が現実世界より楽しいんですよ。今まで、私はオタクは「コト」に執着すると言ってきたんですけど、実はもう少し上の次元での出来事のようですね。
 で、こういう「物語」指向というのは、ある意味とってもエコなんですよね。エコノミーですし、結果としてエコロジーなんです。一般的な経済の世界、つまり西洋経済学的な世界観では、いかに新しい物を生産し消費するかが勝負です。それはワタクシ流に言いますと、外界のモノを自己のコトにする行為にほかならず、モノの再生産ではなくてモノを殺していく行為です。
 その点、物語世界は、いわば無限の命の再生産です。死なないから何度でも楽しめます。自己更新性があるから、どんどん成長、増殖していきます。結果カネがかからない。
 また、こういう物語は現実世界でも役立ちます。たとえば、このマンガのように電車を擬人化すると、電車が遅延しようが、混雑しようが、それを自分の中で消化(昇華)できるようになるわけですよ。苦痛が楽しみに変わってしまうわけですから、これはもう素晴らしい知恵と言えるでしょう。
 私は首都圏に住んでいませんから、ここに登場する鉄道キャラたちの、そのキャラクターはあまりよく分かりません。でも、大昔いちおう鉄道マニアだったので、それぞれの鉄道にキャラがあることはよく分かります。ですから、なんとなく妄想しながらニヤニヤ楽しみましたよ。今度東京に行って電車に乗った時、どういう気持ちになるか、今から楽しみです。
 YouTubeにあるこのマンガのPVを貼っておきますので、ぜひご覧下さい。どういう物語世界か、よく分かると思います。
 

 東京の路線でも、このマンガに登場しないものがまだまだあります。私が昔よく乗ってたあの電車はどういう人間として描かれるかな…。また、他の地方の鉄道なんかもどう擬人化がされるだろうかと興味がわきます。そういう意味では、東京に住み、電車で通勤通学している人しか楽しめないマンガとも言えますが。
 私のお世話になっている富士急行線なんかどういう男なんだろう。かなりキャラ濃いっすよ。そういう物語も無限に派生していくわけです。面白いですね。どうでもいいこと言えばどうでもいいことですし、大の大人が何を妄想してニヤニヤしてるんだ、ということにもなりかねません。でも、それが平和で楽しいんですよね。日本はホントいい国です。
 このマンガでは、新幹線の方が在来線よりいばってますけど、そこんとこにはちょっと違和感を持ちました。ま、現実の収益からすればそうでしょうけど、物語世界ではどうなんでしょうね。
 あと、なんで全部男性なのだろうか、ということ。なんか女っぽいのもいますけど、あれはオカマキャラなんでしょ?違うかな。女性がいてもいいと思ったんですけど、これ(東武東上線と西武池袋線は幼馴染でした)を見たら納得しちゃった。おそるべし腐女子の妄想力(笑)。さすがについていけない…。

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2009.07.22

日食(日蝕)あれこれ

2009072200000009maiallsociview000 さんのところではいかがでしたか?私の職場のある富士吉田市は厚い雲に覆われ、な〜んも見えませんでした。ただ、食の最大の頃には、その厚い雲のせいもあってか、かなり周囲が暗く感じられました。昨日の記事では、ほとんど変化がないだろうと書きましたが、予想がはずれましたね。晴れていたら、人間の瞳孔の自動調整範囲内だったのでしょうが、曇っていたためその限界を超えたようです。なるほど。
 他の地域では、けっこう雲の隙間から、あるいは雲を透かして見えたようで、隣村にいたウチの子供たちも水たまりに映った三日月状の太陽をしっかり見たとのことです。なるほど!その手があったか。
 ところでところで、偶然にしてはよくできすぎているという話。今回、生徒たち、あるいはウチの子たちにも話しましたけど、返す返すも不思議なことですね。だってあり得ないじゃないですか。
 何がって、あれですよ。地球から見た太陽と月のみかけの大きさが、ほとんど同じだということです。
 月の直径は3474km、太陽の直径は約140万km。月と地球の距離は約38万km、太陽と地球の距離は約1億5千万km。その比がおよそ400:1ということで、ホントたまたま地球からは全く同じ大きさに見えるわけです。
 宇宙に地球のような天体、すなわち恒星の周りを回っており、衛星を従えた星はいくらでもあるでしょう。しかし、こんな完璧な日食が起きる惑星は、たぶんほとんどないと思いますよ。奇跡としか言いようがありません。神のいたずらでしょう。偶然にしてはよくできすぎています。
 あとついでに国語のお話。「日食」という表記、どんなもんでしょうね。本来は「日蝕」です。「蝕(むしばむ)」という漢字が常用漢字にないものですから、「食」に置き換えています。こういう代替字問題、けっこうありますよね。気にしなければいいわけですが、やっぱりニュアンスの微妙な違いを考えると、ちょっと不自然ですよね。「食べる」と「蝕む」は違います。ま、「むしばむ」も元々は「虫食む」なわけですけど。
 ちみなに古来の日本語では、「日蝕」のことはもちろん「日蝕」と書いていまして、「にっしょく・にっそく」と読みました。ま、古い「そ」は「ショ」と発音してましたから、両方とも「ニッショク」なんですけどね。
 で、「日食」と書きますと、これは「にちじき」とか「にっき」と発音して、「日々の食事」のことを表していました。全然意味が違いますよね。
1_2 さてさて、私も指摘していた日食(潮汐力)トリガーの地震ですが、さすがに今日の今日にはないだろうと思っていたところ、最後の最後、23時51分に四国沖震源のM4.6の地震がありましたね。昨日紹介した地震ハザードステーションをご覧になってもお分かりになると思いますが、あそこは南海地震の震源域です。これもまたいちおう注意が必要でしょう。
 上の画像を見るとよく分かりますよね。南海、東南海、東海の震源域というのはつながっているのが。これらが連動しますと、M9の超巨大地震になると言われています。その震源域、すなわちプレートの沈み込みの辺縁の東端に富士山がそびえております。歴史上、それらの地震と富士山の噴火も連動することが分かっていますから、今回の四国沖の地震も他人事ではありません。
 昨日も書きましたように、新月や満月(つまり大潮)の1週間後くらいまでは要注意ですので、皆さん、日食フィーバーが終わったから言って、気を抜かないでくださいね。そして、何事もなかったら、ラッキーだと思い、天地に祈りを捧げましょう。
 おっと、書き忘れてた。日食と女性の精神状態の観察(笑)。いやあ、いろいろありましたよ。まず、今年卒業させたギャル軍団、なんだかみんなホームシックというか、高校時代に戻りたい!衝動にかられてました。あと、近所のおば様方、なんだか不安定な方が多く、ウチのカミさん、その対応に追われてました。夜中もずっと電話相談室状態でした(笑)。やっぱり、なんかあるのかな。

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2009.07.21

地震ハザードステーション

1 よいよ明日日食ですね。天気が悪そうで、こうなるともう皆既帯で暗くなるのを体験する以外、日食が起きていることを実感するのは難しくなります。知らない人、気にしない人にとっては全く普通の一日になるでしょう。
 先日書いた「皆既日食と地震」という記事へのアクセスがすごいことになっています。皆既日食の日に地震が起こるとお思いの方もいらっしゃるようですが、当日に大規模な地震が起きる確率は非常に低い(ほとんどゼロ)のでご安心を。
 あの記事で書いた、私の少年時代の研究(?)によれば、満月あるいは新月の5日から7日後くらいが、一番地震発生率が高かった。しかしそれも皆既日食の数日後という意味ではありません。新月と満月は月に1回ずつあるわけですから。地震の発生のメカニズムはあまりに複雑、複合的です。そして、地球という天体にとっては、数ヶ月、数年というスパンは、ほんの一瞬に過ぎません。
 また、逆に考えれば、皆既日食や皆既月食と関連付けられない大地震や小地震の方が、圧倒的に多いわけですから、あんまり疑心暗鬼にならない方がいいでしょう。
 ただ、今回の皆既日食が、自然界に与える影響は絶対にあります。ないわけはない、というのだけは事実ですから、いろいろなことに注意を払うことは重要なことです。そして、こういうことを機会に、我々の日常の有難さに気づいたり、自然の脅威に畏敬の念を持ったりすることも、また大切です。昔の人なら、こういう日には「祈り」を捧げたでしょう。そういうことです。
 さて、そんなタイミングで、とってもいい資料が発表されましたので、今日はそれを紹介しておきます。これは非常によくできていますよ。
 独立行政法人防災科学技術研究所が提供する「新型地震ハザードステーション(J-SHIS)」です。
 今までもハザードステーションはありましたが、今回は数段パワーアップし、非常に有用になりました。ハザードステーションとは「全国地震動予測地図」のウェブ発表版です。
 たとえば、自宅付近の、今後30年以内に震度6以上の揺れに見舞われる確率を調べたり、地盤の様子や活断層の場所を確認したりできます。それが250メートルのメッシュという、かなりの高精細で閲覧できます。
 Googleマップとの連携によって、一般的な地図データを重ねて表示したり、データをダウンロードしたりできるのも便利です。いろんなボタンがありますから、皆さんピコピコ押してみて遊んでみましょう。いや、遊ぶなんて不謹慎か。いろいろ勉強しましょう。
 我々は住まいに縛られて生活しています。なかなか好き勝手に移動できません。ですから、基本的には、その土地の様々な特性を知って、それに合わせて生き行く必要があります。
 私なんて、ある意味大馬鹿者ですよね。私の祖先はここに住んでいませんでした。自ら進んで「富士山」に居を構えたのです。このハザードステーションを見るだけでも、いかにここが危険な地域か分かりますよね。東海地震の震源に近いのはもちろん、微妙に曽根丘陵断層帯の南限にもかかっています。巨大な糸魚川-静岡構造線断層帯にも隣接していますし、比較的活発な富士川河口断層帯や神縄・国府津-松田断層帯小田原断層も近くにあります。
 もちろん富士山という日本一の活火山の上ですし、伊豆半島が本州に激突したところですからね。というか、大雑把に言えば、4枚のプレートの衝突しているところです。ある意味世界で最も危険な地域とも言えるでしょう。
 私のところでは、地震だけでなく噴火のことも想定しておかねばなりません。いや、その双方が連動する可能性が高いのです。噴火のハザードマップもしっかり確認しておく必要があるわけですね。
 そこに好き好んで家を建てて住んでるんですから。大馬鹿者と言われればその通りですよ(笑)。しかし、まあ「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というのも一理ありまして、そういう危険を侵しているからこそ、これだけ素晴らしい自然に囲まれ、あるいは文化的、心理的恩恵を受けているわけですよね。そのかわり、こうしていろいろな勉強をして、自然への畏敬の念を忘れず、また、日々の準備を怠らないでいるわけです。
 大きな危険があるところには、兆しも必ずあるんです。そして、それを感知してきた、人々の知恵も蓄積されています。それを大いに活用して、自然と共に生きていこうと決意したわけですね。
 ということで、皆さんもこれを機に自らの住んでいる大地のことを知ってください。日食によって、あまりに当たり前になってしまっている、我らが地球と、太陽と月の存在を意識してみましょう。人間の存在や、日常の悩みなんか、とってもちっぽけだということに気づくでしょう。

新型地震ハザードステーション(J-SHIS)

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2009.07.20

ブライドルレザー 二つ折り財布

Img56134021 布というのは非常に大切なアイテムですね。しかし、今まで1000円以上かけたことがありませんでした。
 妙な貧乏性で、中身より容れ物の方が高いなんてありえない、と思っていたからです。2万円の通販ヴァイオリンを7万円のケースに入れて運ぶのがナンセンスなのと一緒です。
 ところが、やっぱり安かろう悪かろうでして、どうも今まで持った財布は長持ちしなかった。なんだかんだ毎日ポケットから出し入れして開閉してを繰り替えていますから、すぐにどこかの縫製部分がほつれたり、革の一部がちぎれたり、まああまり格好よくなくなってくるわけです。
 それも、だいたい店員さんの前で開陳するものですからね、それこそちょっとみっともない。いや、もともとオシャレにも全く気を遣わない人間ではありますが、お金に関することだからでしょうか、さすがに貧乏くさい。
 そんな感じで、今までもずいぶん財布は買い替えてきました。1000円のものをね。考えてみれば、まさに安物買いの銭失いで、けっこうなお金を安物財布につぎこんできたような気もしますね。
 それで今回、ほんの少しだけ奮発して、約10倍のお値段の財布を買いました。たまたまテレビショッピングでやっていたのを見て興味を持ち、ネットで検索して、結局GLENCHECKというお店で購入いたしました。
 名入れしてもらって10500円は安いですよね。しかし、実際手にしてみますと、お値段以上の質感でした。今までの1000円ものとは大違いの感触。馬具に使用するなめし革ということで、とてもソフトで高級感のある手触りと、そして色です。
 革製品のいいところは、使っていくうちに味わいが出てくるところですからね、これから毎日使う中でどんな変化をし、そして自分になじんでいくか非常に楽しみなところです。
 この財布の機能的に優れているところは、やはりカードがたくさん入るところでしょうか。全部で15枚収納可能だとのこと。もちろん私はそんなにたくさんのカードを持ち歩きませんが、クレジットカードやポイントカードなどを全部合わせれば、それなりの枚数になります。今までの財布でももちろんそれらを全部さし込むことはできたわけですけれど、問題は出し入れの時なんですね。たくさん入れれば入れるほど出し入れがスムーズでなくなり、ちょっとしたストレスの原因になっていたのです。
 それがこの財布では実にスムーズ。やはり革の質が高いのでしょう。今まで何を苦労していたのかというくらいすんなり出し入れができます。
 それから、小銭入れの構造ですね。いわゆるボックス型っていうんですか。私はこれじゃないとダメなたちなんですよ。ポケット型だと突然小銭を取り出すのが下手になります。レジで小銭をうまく取り出せないと結構焦りませんか?私だけでしょうかね。あの間が嫌いなんですが(笑)。なんとなく店員さんに見られてるし、後に並んでいるお客さんの視線も背中に感じるし、挟み撃ちって感じじゃないですか。
 で、さんざん待たせたあげく、結局10円玉が1個足りなかったりしてね。あの空気は最悪です(笑)。ボックス型だと、一目で全体像が確認できますから、そういう心配は減りますよね。
 商品ページにもありますとおり、ちょっと厚めな感じがしましたが、これも使っていくうちに半分くらいまで薄くなっていくとのことです。私は夏も冬も財布はお尻のポケットにつっこむので、すぐにつぶれてくれるでしょう。
 こんな感じで、これから何年つきあうかわかりませんが、お互いにどう渋く変化していくか勝負ですな。私も基本革製品ですから(笑)。アンチエージングとかが流行ってますけど、エージングに関してはアンチになるんじゃなくて、その方向性や質にこだわるのが大切だと思う今日この頃です。

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2009.07.19

デイヴィッド・グリーンバーグ(フィドラー、バロック・ヴァイオリニスト)

David Greenberg(Fiddle・Baroque Violin)
Greenbergfid ーン!!
 最近のバロック・ヴァイオリン界について苦言を呈する長文を書いた途端、ブラウザ(safari)が落ちた!
 調子よく書いていると保存するの忘れるんですよね。あ〜あ。
 そして面白いもので、調子よく書いていたものほど、もう一度書く気がしないものですよね。
 まあ、エセ・ヴァイオリン弾きの私が、プロの方々のことを軽々しく非難するなということでしょう。
 もう忘れましょう。
 すっかり戦意喪失してしまったので、今日もまた、結果として手抜きな記事になります。ごめんなさい…と言いつつ…。
 ちょっとだけその苦言の内容に関係したものを紹介します。いや、ちょっとじゃなくて核心だな。
 結局苦言の梗概を書くことになりそうですね。簡単に言うと、バロック音楽というのが、ダンス・ミュージックを中心とした民族音楽と近代西洋音楽の中間的、過渡期的存在であって、最近はそれを近代の方向からとらえることがほとんどだということ。モダン奏者が片手間に弾いたりすることも多く、いやほとんどが、モダン・ヴァイオリンからバロック・ヴァイオリンに向かうんですよね。
 本来の時間軸の流れ、音楽の進化のベクトルで言うと、民族音楽的なところから発するアプローチもあっていいのではないか。
 ちなみに私はモダンはほとんど弾かずにいきなりバロック楽器に行っちゃった変り種です。
 あと、ヴァイオリンが実は野蛮な楽器であることを忘れすぎ、フレットがない意味に立ち返るべき、あごで押さえるとは何ごとだ、頭を固定されて音楽をやるなんてのは、腕を固定して車を運転するようなものだ!などという暴論にまで発展していたような記憶があります(笑)。
 プロレスの話も書いてたな。なんだっけな。えっと、あっそうそう、なんでもメジャーになると「真剣勝負」がなくなる、緊張感がなくなる、「なめられてたまるか!」が減る、そんな話だったかな。つまり、古楽界にも、草創期のあの興奮がないと。個性や刺激のない、仲良しこよしのなあなあばっかり、みたいなこと書きましたっけ。闘いがない!と。なかなか過激ですね。
 ま、今思えば、あの文章が消えてしまって良かったかもしれません。失礼ですよ、まったく。
 ということで、最終的におススメしたかったのは、時代のベクトルの通りにバロックにアプローチしているカナダのヴァイオリニスト、デイヴィッド・グリーンバーグです。
 彼は、ケルト音楽なんかの演奏で有名なフィドラーですが、バロックもけっこう録音しています。それがなかなかいいですよね。大バッハのコンチェルトやエマヌエル・バッハのトリオなどは、まあオーソドックスな演奏ですが、同じバロック期のスコットランドの音楽のCDなんかとってもいい。かっこいいっす。
 今日はちょっとずつ試聴できるものをここに貼っておきますね。ナクソス・ミュージック・ライブラリーとiTunesです。
 では、どうぞ。

Tout Passe (NML)

The Red Red Rose (NML)

MER JOLIE (NML)

Fruits of Passion (NML)

SEASONS' CELEBRATION (NML)

BACH, C.P.E.: Trio Sonatas (NML)

Tunes Until Dawn (iTunes)

The Red Red Rose (iTunes)

Spring Any Day Now (iTunes)

Mariners and Milkmaids (iTunes)

Tout Passe (iTunes)

Amazon Spring Any Day Now, Music of 18th Century Scotland and Elsewhere

YouTubeで観る

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2009.07.18

松田聖子 『津軽海峡・冬景色&ビートルズメドレー』

 んだかとっても忙しいので、手抜き記事です。でも、手抜きの時の方が読者には有用なことが多いみたいですね(笑)。気合いが入ると語りすぎて痛いことになります、だいたい。
 で、今日紹介するのは、久しぶりに聖子ちゃんの映像です。
 来週の土曜日に急に地元で歌謡曲バンドのライヴ(三木たかし追悼特集)をやることになりまして、いろいろと勉強しておりましたところ、偶然この聖子ちゃんに出会いました。
 三木たかしさんの代表作「津軽海峡・冬景色」を、なんと聖子ちゃんが唄っています。まず聴いてみてください。

 どうですかぁ。やっぱりうまいですよね。聖子ちゃん、というか聖子様。さすが神です。
 聖子ちゃんが演歌というのも珍しいですね。いや、それ以前に短調の曲を歌うのは非常に珍しいことです。
 彼女の声質は非常に特殊でして、唯一無二の魅力を持っています。ある意味雑音というか、サワリの多い声なんですよね。それが、案外演歌の世界にマッチしています。音程の正確さもいつもどおり。本家石川さゆりさんは、時々甘いことがありますよね。
 中森明菜さんも演歌集(艶華)を出しています。ぜひ聖子ちゃんにも演歌集を出していただきたい。
 さて、ついでに観て聴いて、ついつい萌えてしまったのが次の映像。ビートルズのメドレーをライヴで歌っています。冒頭にあるリハーサル映像がたまりませんね。まさに「萌え」です。胸がキュンとします(笑)。

 83年と言いますと、私がリアルタイムで聖子ファンだった頃です。大学生だな。そう、なんか思い出しました。聖子ちゃんって、いろいろ変身してきたじゃないですか。髪型とかメイクとか。私が一番好きなのはこの頃のヴァージョンですね。
 特にリハーサルでの普段着スッピンにして真剣そのものの表情には、正直ドキッとします。かっこいい。美しい。懐かしい感覚だぞ。そして、本番でのまた違った輝く表情。プロだなあ、と思います。こういうギャップというか、二つの表情を見ると萌えますよね。恋に落ちちゃいます(笑)。
 真剣な表情と笑顔、その両方を持った人間は魅力的です。男でも女でも。
 いわゆるギャップ萌えとか、ツンデレ、デレツンの魅力っていうのは、そういうものでしょうね。どちらか一方だけではダメなんですよねえ。
 私もそういう魅力的な人間になりたいところです。ヘラヘラしてて真剣な時がないからなあ…。
 さ、真剣に練習しなきゃ。まず編曲からだ。では。

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2009.07.17

PhotoFast CR-8000 Air (USBハブ付きカードリーダー)

Uni_2804 い記事が続いたので、今日は軽めに。
 ノートパソコンにはUSBポートがせいぜい二つしか付いてないですよね。で、実際にはマウスで一つ、プリンタなんかで一つ使ってしまうと、もういっぱい。
 バックアップ用の外付けハードディスクを使おうとすると、しょっちゅう抜き差しするわけにもいかず、もうにっちもさっちも行かなくなります。あと一つでもUSBポートがあればなあ、と思う人たくさんいらっしゃるでしょう。
 さらに、たとえばデジカメで撮った画像を取り込もうとすると、どっちかを外して、カードリーダーを接続しなくちゃならない。それが結構面倒なんですよね。
 いつも思うんですけど、せいぜいSDカードリーダーくらいはノートパソコンに内蔵していてほしいですね(探せばあるんでしょうか)。
 家のMacBookでは、USBハブ・カードリーダー搭載ハードディスク設置台という秘密兵器をつないでその悩みを一挙に解決しています。これ便利ですよ。ちょっとかさばりますけど。
 で、職場でもいろいろ不便になってきましたので、安いUSBハブでも買おうかと考えていました。でも、待てよ。なんとなくですが、USBハブとカードリーダーって、形も機能も似たようなもんじゃないですか。二つ一緒になってるのってないのかな?と思いまして、検索してみましたら、ありました!
 というか、もっとあるかと思ったら、案外少ないですね。そういう発想があんまりないのか、それとも両方売りたいからか、よくわかりませんけど、とにかく少ないのにビックリ。盲点なのかなあ。あれば絶対便利じゃないですか。同じ大きさだったらなおさら。
 で、その大きさということに注目して選んでいましたら、この製品が目に止まりました。お値段もお手ごろということで早速注文してみました。
Uni_2806 実際手に取ってみますと、適度な大きさ(小ささ)と軽さですね。まあ普通のマルチカードリーダーと変りません。カードリーダーの裏側にUSBハブが付いているという感じですね。そうそう、これが理想型です。
 上の写真はCFとUSBプラグをさしたところです。
 カードは35種類に対応。ま、そんなたくさんの種類使うことはありませんけど。個人的にはmicroSDが直接させるところがいいですね。ケータイなんかでmicroSDの使用頻度が高くなってますからね。USBポートは三つです。充分ですね。
 接続用のUSBプラグは裏側にスッキリ収納されますので持ち運びにも便利です。延長用のコードも付いてきました。
 製品名にAirとありますように、これはMacBookAirでの使用をイメージしたようですね。AirってUSBポートが一つしかないんですよね。CD/DVDドライブもないし、一体誰が買うんだろ。ネットブックとしてはでかいし高いし。

PhotoFast CR-8000 Air(WinにもMacでも最適35in1カードリーダー・3ポートUSBハブ内蔵)

PhotoFast

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2009.07.16

皆既日食と地震(いちおう注意喚起)

↓click!
Sany0195_2 さん、この写真何だと思いますか?クリックしてみてください。
 これはですね、2002年の12月4日の18時ごろ、私がオーストラリアのパースで撮影した写真です。オーストラリアの公衆便所ですね。でも、なんか変じゃありませんか?何かが不自然じゃないですか?
 そう、木漏れ日の形がなんだか気持ち悪いですよね。よく見ると、大量の三日月がうじゃうじゃいます。
 実は、この日、オーストラリア南部で皆既日食があったんです。私はたまたま、ホントにたまたま、修学旅行の引率で当地を訪れていました。めちゃくちゃラッキーです。
 もちろん修学旅行の計画の中に日食観測なんてのはなかったのですが、こんな体験はめったにありませんから、上司や添乗員さんにお願いして途中バスを停めてもらい、みんなで眺めました。
 オーストラリアでは、眼に悪いので日食は見てはいけない!というお達しがあったそうで、みんなほとんど無視です。バスの運転手さんなんか、日本人は信じられない、先生が率先して生徒に見せようとするなんてアンビリーバブルだ!と、あきれ返ってました(笑)。
 で、もう来週ですね、日本の皆既日食。46年ぶりです。けっこう盛り上がってますね。日食観測用のガラスというかフィルターというか、そういうのが特需状態です。
 私は上の写真のような木漏れ日式観測をおススメしますよ。安全ですし、簡単です。実際の木漏れ日を楽しんでもいいですし、なんでもいいから紙を用意して、鉛筆かなんかでポチッと穴を空けるだけでもOKです。針穴写真機の要領ですよ。ピンホールカメラ。
 今回日本本土でも、上の写真くらい欠けるわけですね。九州あたりだと、ちょうどこんな感じです。90%くらい欠ける。東京は75%くらいです。
 ちなみに90%欠けても、ほとんど周囲は暗くなった感じがしません。つくづく太陽というのはすごい明るさなのだなと思います。
1 右の写真は、デジカメのレンズの前に、未現像のフィルムを数枚重ねて撮影したものです。もう食の最大を過ぎて、だんだん大きくなっていく段階です。4割くらい欠けてるのがよくわかりますね。
 さて、日本ではすっかり日食フィーバーといった感じですが、私としましては、ちょっと心配なこともあります。
 それは今回の皆既日食が大地震を誘発しないかということです。
 以前、皆既月食の記事にも書きましたけれど、私、小学生の頃から潮汐力と地震の関係について研究(?)しているんです(変な子ども…笑)。中学3年の時、夏休みの自由研究かなんかで、日本の有史以来の記録に残る地震全てについて発生日の月齢を調べて、統計的にある結論を導きました。なんだかそれで賞かなんかもらった記憶があります。
 私の研究から数十年遅れてアメリカで同様の研究がなされ、論文が発表されました。これで、ようやく科学的に私の考えが支持されるようになりました…って、ちょっと大げさですが(笑)。
 それを受けて我が国の防災科学技術研究所がこういう発表をしました。
 こういうのを読むと、ちょっとそんな気がしてきますよね。実際、潮汐力(月や太陽や他の惑星などが地球に及ぼす引力から生じる二次的な力)はとんでもない大きさです。海面が数メートルの幅で上下することからも、そのエネルギーの大きさは想像できます。ちなみに、我々は気づきませんが、海面だけでなく、地面もまた数十センチの単位で盛り上がったりへこんだりしてるんですよ。
 で、その力が、特にプレート周辺で起きる地震のトリガー(引きがね)になるということは、これは素人の我々でも想像に難くありませんよね。
 オートラリアはほとんど地震のない大陸ですから、気にしなくてよかったんですけど、今回はさすがに日本ですからね。世界中の地震の10%以上がこの狭い国土の中で起きています(ちなみに火山は世界の7%くらいが日本にあります)。
 地球と月と太陽が一直線に並ぶ皆既日食の時に、その潮汐力が最大になるというのもまた、皆さんなんとなく想像できるでしょう。また、金環食ではなく皆既の方が月は地球に近いわけですから、多少月の引力は強くなります。だから、ちょっと心配なのです。
 ちなみに、46年前、北方領土で皆既日食が観測されましたが、3ヶ月後にM8の大地震がそのあたりで発生しました。昨年の四川大地震の3ヶ月後、同地で皆既日食があったことも記憶に新しいところですね。ほかにも、いくつかの大地震と皆既日食が3ヶ月くらいの間に起きている例を見つけることができます。
20080512175302_convert_200901081540 日食、特に皆既日食は、古代から世界中で不吉な兆しとしてとらえられてきました。日本でももちろんそうですね。アマテラスの岩戸隠れはその象徴だとも言えます。実際に、大地震の発生と因果関係があるとしたら、そのような古代人の感覚も、単なる迷信として片付けられなくなりますね。
 というわけで、いちおう、ここにこのように記して、ちょっとだけ注意を喚起しておきます。あんまりお祭り騒ぎしないことです。
 あと、最後にオマケ。潮汐力と女性の生理的なものとの関係も指摘されています。皆既日食の時、日本の女性の行動や感情に何かしらの変化があるか、そこんとこも実は私は注目しています(笑)。
 も一つついでに、ちょいと心配な情報。今日の朝、富士山の東側を震源とする震度3の地震がありました。いつもの道志断層の解放かなと思ったのですが、ちょっと違うようですね。
 で、その震源に近い山中湖でですね、11日に異常な水位下降がありました。数時間で30センチ水位が下がったんです。これはちょっと考えられない事態です。今までにないことでしょう。大規模な放水路もない湖でこういうことが起きるのは不思議です。いちおう注意しておきましょう。関東大地震の時に、山中湖が火山性と思われるガスで白濁したり、魚が死んだりしたという言い伝えが地元にはあります。

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2009.07.15

こ、これは…

ぶ、仏壇(神棚?)が…
2009071218 始まったなの震源地「羽後町」。カミさんの生まれ故郷です。
 昨年6月には、とうとう私たちもその聖地で一つのイベントを仕掛けましたっけ。イマン・カフェでのコンサートです。ちょうどかがり美少女イラストコンテストの日でしたから、たくさんのオタクの皆さんとも交流でき、私も負けじとスティックポスターをゲットしてきましたっけ。
 で、今年はどうだったかと言いますと、残念ながら全く関わりを持つことができませんでした。かがり火天国自体が7月11日に行われたんですよね。その日は私は歌舞伎町で別のイベントに出席していましたので、ま、物理的にも参加不可能だったということです。
 羽後町とその周辺は、その後もいろいろと「萌え」による町おこしを推進しておりまして、もう、なんというか、ちょっと着いていけないというか、なんともこそばゆいというか、痛がゆいというか…(笑)。
 ただ全国的にもずいぶんと注目されるようになって、本が出版されたり、テレビで紹介されたり、ネットで評判になったりしています。これは考えようによっては画期的なことですよね。
 カミさんいわく、日本の秘境、田舎の中の田舎、なんもない所。そんな所がこうして現代メディアでもてはやされるというのは、たしかに信じられないことです。そういうムーヴメントを作り出した皆さんの、アイデアと勇気と努力には心から感服いたします。
 しかし…ううん、これはどうなんでしょうか(笑)。
 実は今回、かがり火天国第3回かがり美少女イラストコンテストの開催に合わせてまして、もう一つのイベントが行われたようなのです。それは「秋田おたくオフ会」。
 イベントの内容は、羽後町の文化財である古いお屋敷でコスプレしよう!ついでに萌え米食べちゃいましょう!という、実にファンタジックかつカオスなものだったようです。
 まずは、こちらの公式ブログでその概要をご覧いただきたい。かがり美少女イラストコンテスト公式ブログでも告知されていますね。
 これはですね、正直、その場に行ってみたかった。いや、私はコスプレしませんよ(笑)。いったいどういう空気の中で、どういうプレイの応酬があったのか、そのシュールな状況をこの目で確認したかったのです。
 気になっていろいろ検索していましたら、参加者のブログがありまして、そこに掲載されている写真を見てビックリ!な、なんじゃ、こりゃあ。皆さんもご覧になってください。

 ハナコさんのブログ(上の写真勝手にいただきました)

 正直やられましたね。やるな、秋田のオタクたちよ。
 おそらく、参加者の皆さん、主催者の皆さんも知らないと思うんですけど(知ってたらごめんなさい)、あの旧長谷山邸って、もちろん歴史学的、民俗学的、建築学的価値も高いんですが、実はそれ以上にですね、ある芸術的観点、いやある種の「萌え」的な観点からしても、すでに非常に価値が高いんですよ。世界レベルです(!)。
Uni_2788 だって、だって、あの土方巽&細江英公の「鎌鼬」の撮影場所の一つなんですから!!
 つまりですね、もうすでに40年以上前にですね、あそこである種のコスプレをしてパフォーマンスをした男がいたってことです。それが、あの土方巽だったんですよ。そこで、君たちはああやってディスプレイして、コスプレして、萌え米食っちゃったんですよ。その歴史的な重み…というか軽みかも…解りますか?
 ちなみに私だったら、wktkじゃなくてガクブルしちゃって、そんなことできません(笑)。
 でも、でもですね、少し考え直してみますと、またちょっと違う気持ちにもなります。
 土方の存在というのも、ある種サブカルの象徴みたいなものですし、今やあれは芸術と称されますが、当時はかなり先鋭的前衛的なパフォーマンスにすぎませんでした。細江さんの写真のテクニックも、ある意味かなりフィクショナルなものです。ま、両方ともオタク文化の原点とも言えなくもない。
 いや、もっと遡れば、秋田、羽後の国、いや陸奥、いやいや縄文の大地は、そうしたオタク的な血が流れている場所であるとも言える。
 だいいち、なまはげだって、ありゃあコスプレですし、一種の神話性の象徴とも言えます。実にファンタジーとヒューマニティーあふれた物語世界です。
 美少女萌え的には、もちろん小野小町の存在を忘れてはなりませんね。最近でも、美女がいそうな県で、東京に次ぐ第2位になってましたっけ。
Uni_2789 その他、思いつくままに書き出しますと、菅江真澄や平田篤胤、佐藤信淵らもかなりオタク的だし、狩野亨吉に至ってはいつのまにかエロ画収集家になっちゃうし、ま、さきほどの土方巽なんかも、かなりエロチックですよね。羽後町自慢の国の重要無形文化財西馬音内盆踊りも、見事全ての萌え要素を含んでおります。
 つまり、そういう風土なんですよ。だからこうなるべくしてなったのかなあ…。
 ま、私自身、「萌え=をかし論」を展開して、Wikipediaにまで載ってしまうような(苦笑)思考してますからね、人のこと言えないんですけどね。高尚な(?)ものとオタク文化を結びつけて語ってますから。
 田代の人々にとっては、土方が訪れた時も、のちに土方の弟子たちが聖地巡礼した時も、そして今回も、ただただ「あんら〜、おがしなのが来た」という感じなのでしょう。やっぱり同レベルでの出来事なのか。マレヒトの来訪。「おがし」はもちろん「をかし(招きたい)」、すなわち「萌え」ですからね。
 あらためて、おそるべし秋田、おそるべし羽後町。
 というわけで、今回の騒動(?)に全然関与できなかったのは、ちと残念でした。
 お盆にはまた羽後町を訪ねます。今回はですね、さらに新たな目的ができました。またまた地元の皆さんのお忘れになっていることかもしれませんよ。ある人物の作品をたくさん見てこようと思っています。その名は、「白井晟一」です。楽しみだぞ。
 
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2009.07.14

ヒューマン ドキュメンタリー 『物理学者・戸塚洋二 がんを見つめる』 (NHK)

20090325111306 字能力検定協会との3時間にわたる電話バトルでへとへとになって帰宅後、NHKの番組を二つ鑑賞。
 まずはクローズアップ現代「村上春樹 “物語”の力」。「システム」とは違うもう一つの世界を現出させる「物語」。「システム」に埋没し、自分を見失ってしまうことのないように、気づきのきっかけを作ってくれる「物語」。
 村上春樹は、実はほとんど読んだことがありません。というか、小説自体ほとんど読みません。おそらく違う方法で「システム」に対抗しているし、そのおかげか不安があまりないんでしょうね、私は。小説という「物語」の手段は必要としていないと。カミさんにもそう言われました。
 それこそ、私の「物語論」「モノ・コト論」的に申せば、「システム」とは「コト」そのものです。脳内で分節された世界観こそ「システム」であり、日本語の「コト」が本来表すものです。その分節の道具が「コトノハ(言葉)」であり、論理であり、科学であり、宗教です。
 「モノ」はそうした脳内妄想の外にある未分節な、単なる存在です。それを我々に語ってくれる(固成してくれる)のが「モノガタリ」です。村上春樹の小説はそういう意味で「物語」であるということですね。
 そうそう、漢検協会(教会)にとって、今日の私の話はそうとう「物語」してたと思いますよ。硬直化したシステムの根幹を揺るがす話ですからね。しまいには、東国原知事みたいに、「私は理事長にしなさい!」とまで言ってしまいました(笑)。
 そんな私に「1Q84」は必要ないかもしれません。どんなもんでしょう。
 さて、食事をしてさあ寝ようかと思った矢先に、「ヒューマンドキュメンタリー」が始まりました。予告を見て、これはちょっときつそうだから、観ないで寝ようと思っていたのですが、いざ番組が始まりますと、すっかりテレビに釘付けになってしまいました。
 ニュートリノの研究で次のノーベル賞候補と言われていた、素粒子物理学者の戸塚洋二さんが、ガンに侵され余命数ヶ月を宣告されます。戸塚さんは、科学者らしく、その病状を克明に観察し、(表面上は)取り乱すことなく自らを記録し続けます。
 最後にはガンが脳に転移し、気を失い、幻覚が起き、体も思うように動かなくなっていく。それをまた観察して、冷静にブログに記していきます。
 その様子は、科学者を超えて、宗教者、哲学者のようにも見えます。
 途中、佐々木閑さんとの対話も挿入されていました。佐々木さんは、まさに科学と宗教を結ぼうとしている方です。
 私は佐々木さんとの対話が録音されたテープを聴いて、かなり切なくなりましたね。
 「別の世界があるのか。死ぬ時それを確認できる。しかし、それを伝える方法がない。それでは科学にならない。無がこわい…」
9c8936eb823acd512e96438833967952 戸塚さんの冷徹な行動を崇高なものだとするのは簡単でしょう。しかし、そうして美化してしまうだけでは、単なるお涙ちょうだい物語になってしまいます。
 もちろんNHKさんも、そこには充分に注意を払っていたようにうかがえましたが、視聴者の皆さんはどのように受け取ったのでしょうか。
 ここには複雑に「モノ・コト」が絡み合っているから難しいのです。
 先ほど書いたように、科学も宗教も私からすると「コト」です。人間の脳内で構築された「システム」です。しかし、ガンや死は、究極的には「モノ」に属するものです。外からやってきて、我々の「システム」を根底から切り崩す存在です。それこそ科学者が恐怖する「無」を運んでくるんですから。
 ですから、戸塚さんは、「モノ」に対して、最後まで「コト」で闘ったとも言えるわけです。それを空しい行為、いや切ない行為だと感じたのは私だけではないでしょう。
 佐々木さんがご専門の「禅」は宗教と言えるか微妙ですけれども、「禅」は「コトノハ」を捨てて、「モノ」に成りきることによって、苦悩から解脱することを目指します。そういう意味では、一見戸塚さんの行為は、禅とは正反対のあり方のようにも感じます。
 しかし、そこが難しいところで、実際佐々木さんと戸塚さんの「何か」が交流していたように、禅と科学は一致しなくとも互いに顔を突き合わせているんですね。それもにこやかに。
 私が最近よく言う、「コトを窮めてモノに至る」というやつでしょうか。実は私もこれに関しては単なるイメージしか持ちえず、うまいこと言葉にできないもどかしさを感じているんですが、しかし、どうも禅の修行の方法や、科学の最終地点や、出口王仁三郎の霊界物語などを眺めていると、やっぱりコトを窮めなければモノに至らないような予感がするのです。
 仏陀が苦行には意味がないと言ったからといって、最初から苦行をしないとしたら、その人はとても仏陀のレベルにまで到達できませんよね。同様に科学を窮めて、あるいは言葉を窮めて、初めて到達できるある地点が存在するような気がします。
 たぶん、私たちは、自分の「死」という究極の「モノ(外部・不随意)」に直面した時、そうしたコトの営み、すなわち「仕事」を遂行できなくなり、中途半端にその人生を終えてしまうのではないでしょうか。凡夫はそうして解脱できず迷いの世界をさまよい続ける。いくら生前立派なコトを為したとしても、ゴールでこけてしまうのが、我々人間なのです。
 そうすると、一見崇高で、しかしまた空しく切ない最後の生き方をした戸塚洋二さんは、死の瞬間、どのような世界を見たのか、知りたくなりますね。しかし、戸塚さんが言うとおり、それを確認する方法はありません。

戸塚さんのブログ

Amazon がんと闘った科学者の記録

Amazon 1Q84

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2009.07.13

K-1 WORLD MAX 2009 World Championship Tournament FINAL8

20090714015 夜はK-1MAXやってましたね。トーナメントが主体のはずなのに、関係ない試合の方が注目を浴びるってどういうことなんでしょうね。
 まあとにかく、全体に荒い試合が多かったような気がします。てか、最近K-1も総合もあんまり美しくないですね。
 ずいぶんと盛り上がった魔裟斗と川尻は問題外です。何も知らないで見ていたら、完全に格の違う選手同士の試合にしか見えませんよね。そりゃあ冷静に考えれば、すごいハンディキャップマッチですよ。プロとアマの試合。演出にだまされちゃだめです。だったら次はMMAルールでやるべきでしょ?
 総合のパンチは変則的とか言いますけど、それって単に力でなぎ倒すような、振り回し系を言い換えただけの話で、あんな打ち方してたらカウンターもらうだけですよ。上体がコントロールできないのは当たり前です。
 同じ上体がぶれるにしても、自演乙のは柔軟性があるんでまだいいんですけどね。ボクシングからすれば、あれはまさに変則的。武道的には正則的なのかな。
 ですから、本当にゴングがなって数秒で、こりゃダメだなって思いました。
 川尻選手、打たれ強いとは思いましたよ。気持ちも折れないのは立派でしたが、ちょっと甘く見過ぎていたのではないでしょうか。魔裟斗選手にとっては、やりやすかったと思いますよ。余裕すら感じました。
 他の試合で、心に残った選手は山本優弥選手くらいですかね。彼は良かったなあ。気持ちと技術のバランスが素晴らしかった。打たれても下がらない気持ちが、ハードヒットをもらわない技術に直結していました。トーナメント、今後も期待していいんじゃないでしょうか。魔裟斗も引退すると言いますし、新しいヒーローも待望されますから。
 そうそう、今夜は「山本」が3人出てましたね。あとの二人の山本はどうだったか…。これらもまた完全なるハンディキャップマッチなんですけどね、冷静に考えれば。
 まずKIDです。彼のこと好きだったんですけどね、どうも最近は衰えばかりが目立ちます。年齢的なものもありますし、あと、結局何をやりたいのか、最後に何を極めたいのかがわかりません。なんか、そういう意味での軸がしっかりしていない気がするんです。それで、自分の首を絞めている。
 いろいろな場面で強くありたいというのも解ります。しかし、年齢やケガのことを考えると、もう少し地に足を着けてやっていかないと、本当にこのまま終わっちゃいますよ。本来の彼の魅力であるべき野性的な勘、すなわち「神」から引き継いだ天性の才能が、様々な情報に覆い隠されてしまっています。
 同じ KRAZY BEE の山本篤は、我が地元の雄というか忍野の不良ちゃん渡辺一久との試合でした。これもやはりK-1ルールでは厳しいでしょう。さすがにパンチの打ち合いでは、レスリングはボクシングには勝てないですよ。テクニックうんぬん以前に、基礎の部分で体にしみついているモノが全然違いますから。
 昨日の宮戸さんもよくおっしゃってます。何も知らない、何もやってきていない、ゼロからの人間に教えるのが一番いいと。変に違う競技が体にしみついているともう大変だと。なかなかクセが抜けない、というか、ずっと抜けないらしい。
 これは音楽でも言えますね。ジャンルをまたぐ難しさについては、この前アンドレ・プレヴィンのところで書きました。母語の干渉が起きちゃうんですよ。
 だから、K-1や総合みたいなものが流行ってきて、格闘技全体が汚くなっちゃったんです。美しくないというのはそういうことです。
 宮戸さんとも話したんです。最近は基本や中心がしっかりしていないのに、その周辺ばかり膨らんでいってしまっていると。それはスポーツや芸術だけにとどまらない話なんですよね。我々の生活や心自体がそういう状態だと思います。総合が象徴的ですが、やっばり、すぐにカネになりそうなものについつい人が行ってしまうということですよ。困ったものです。

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2009.07.12

『レスラー』 ダーレン・アロノフスキー監督・ミッキー・ローク主演作品

The Wrestler ベネチア国際映画祭金獅子賞受賞
2 さか、本物のレスラーさんと一緒に映画「レスラー」を観ることになるとは…人生何が起こるかわかりません。
 今日は朝5時まで歌舞伎町で宴会。始発で高円寺の教え子の家まで行って仮眠…いや、仮眠のつもりが結構がっつり寝てしまいまして、当初の計画に狂いが。
 本来は12時からのプロレスリング・ノア後楽園ホール大会に行くつもりだったんですよ。でも、もう起きた時間には当日券も完売ということで、泣く泣くあきらめました。
 しかし、そのおかげと言ってはなんですが、ある意味プロレス観戦以上のプロレス体験をさせていただきました。
 高円寺と言えば、最近本当にいろいろと勉強させていただいているスネークピット・ジャパンのある所。それが本当に不思議なもので、なんとそのスネークピットの宮戸優光さんからケータイに電話が!今たまたま高円寺ですよ、ということから、会いましょう!ということになりました。
 まずはお昼を食べながら、三沢さんのことから始まり、今のプロレス界の様々な問題点について語りました。選手もファンも評論家も、みんな大きな勘違いをして八方塞がりの状態になってしまっているということ。誰かが本物を継承していかなければならないということ。社会のあらゆる場面で「本気」が失われていること。いわゆる高橋本のこと。我々の想像力の欠如のこと…本当にいろいろ勉強になりました。
 で、私、後楽園ホールに行けなくなった代わりに、昨日から新宿で封切りになったミッキー・ローク主演の話題の映画「レスラー」を観に行こうと思ってるんです、と宮戸さんにお話ししましたら、じゃあ一緒行きましょう!と言っていただきまして、二人で新宿のタイムズスクエアへ。すごい展開だ。
 少し時間がありましたので、コーヒーなど飲みながら、再び熱い熱いプロレスの話に。やっぱりリングに上がってみなきゃ分からない。レスラーがリング上でどれほどの緊張感を持っているのか、そして、歓声を浴び、アドレナリンが分泌され一種の恍惚状態になっているか。自分であって自分でない者がそこにいる感覚。
 そういうお話を聞いてからのこの映画でしたから、それはもう本当に格別な映画鑑賞となりました。
 結論から申しましょう。この映画は素晴らしい。
 宮戸さんもおっしゃっていましたが、これがプロレスの全てではありませんけれども、しかし、肉体を張った(命を懸けた)闘いの本質、そしてレスラーという人間の華々しくも哀しい性(サガ)が見事に表現されていました。
 ミッキー・ロークの肉体や演技、そしてたたずまいの素晴らしさは言うに及びません。
 彼はこの映画を撮るまで、プロレスを馬鹿にしていたと言います。ボクシングでも実績を残した彼にとっては、プロレスは、ちょうど現代の我々が勘違いしているように、単なる茶番劇にすぎなかったようです。
 しかし、実際にトレーニングを初めてみて、そして実際のプロレスラーたちと組み合ううちに、完全にその印象はひっくり返ってしまったと言います。まさに、「リングに上がってみなければ分からない」。
 その後は、完全にリスペクトしか抱かなかったと言います。それを体感したからこそ、あの神々しい、光と影の交錯する演技ができたのでしょう。
 この映画を観た名レスラーのリック・フレアーは泣きながらミッキー・ロークに感謝の言葉を述べたと言います。私も寸前に名レスラーの生の言葉を聞いていましたから、素直にミッキー・ロークにありがとうと言いたくなりました。
Img3acd98e7zik5zj プロレスは本当に人生そのものですし、男そのものです。そこには闘争本能がギラギラと輝き、そして、虚栄心も燃えたぎり、めいっぱいの想像力が爆発寸前まで膨らんでいます。そこにはもう、一般的な社会性など存在しません。ある種の神聖な状態、壮大な神話世界が広がっているだけです。
 監督の手腕も光りましたね。決して、その神話を大げさでなく、どちらかというと地味に静かに表現しています。細かく揺れ、大きくパンするハンディ・カメラによる撮影が、一瞬ドキュメンタリーかと思わせます。いや、これは一つのドキュメンタリー映画ですね。非常にリアルです。
 お隣のにお座りの本物のレスラーも、なかなか良かったとおっしゃってました。なんだか分からない、理屈では説明できないモノがちゃんと画面に現れていたというのです。私もそう感じました。こういう「リアル」の前には、たとえば「八百長論議」なんていうものが、我々の脳内の単純な定義願望にすぎないことが露呈します。
 そうです。我々は想像力を失っていたんです。リングの上の男が、どういう精神状態で戦っているか。その消えかかった我々の想像力を思い出させる素晴らしいきっかけを、この映画はもたらしてくれます。
 もちろん、賛否両論の部分もあるでしょう。プロレス界からも非難の声が上がっているとも聞きます。しかし、先ほど書いたように、ここには本質的な「何か」、まさに我々が想像力をもってしてしか対峙できないモノが存在していました。
 エンディングでは本当に胸が塞がるような気持ちになりました。なぜなら、主人公のランディと三沢さんが大きく重なるからです。あまりに辛いが、しかしあまりに高貴な魂がそこにありました。もう、誰のためでもないのかもしれない。家族愛とか男女の愛とか、そんなレベルではありません。劇中引用されていた「パッション」に通ずる、崇高すぎるエネルギーが映画館全体に横溢していました。
 最後に、助演女優で魅惑的なストリッパー役を演じたマリサ・トメイの素晴らしい肉体と表情にもやられました。ミッキー・ローク56歳、マリサ・トメイ44歳。すさまじいプロ根性です。
 そして、銀幕の中でも、現実のリングでも全く同じ存在感を示したネクロ・ブッチャー!彼はやっぱりすごい。現代のモノノケ。ネクロをよくご存知の宮戸さんも思わず声を挙げてました(笑)。
 もう一つ、ブルース・スプリングスティーンやガンズの曲にも泣けました。我々はロックの想像力も取り戻さねば。

レスラー公式

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2009.07.11

VIVA!富士学!(今ここに生きる)

1 ょっと遅くなりましたが、土曜日、日曜日のことを報告いたします。めちゃくちゃ濃い二日間でした。
 えぇと、まずは河口湖の図書館で絵本の読み聞かせイベントに参加。私は谷川俊太郎&和田誠の名作「これはのみのぴこ」をアドリブを織り交ぜながら読みました。うむ、さすが谷川俊太郎。いろいろな料理の方法がありますな。
 絵本の読み聞かせって、音楽の演奏に似てるんですよね。楽譜があって、それをリアライズして、お客さんに聞かせる。お客さんとのリアルタイムな対話というのも重要ですし。私はここでもやはりあんまり練習していかない方法をとります。その方が活き活きするからです。練習しすぎ…というか、あまりに計画どおり練習どおりにやるということは、単なる過去の再現にしかならず、「今ここ」のエネルギーを奪うことになりがちだからです。なんて、ものは言いようですな(笑)。ま、「コト」より「モノ」という、いつものヤツです。「コト」は死んでいますが、「モノ」は生きている。
 さて、その読み聞かせが終わったところで、急いで河口湖ステラシアターへ。ここでも「コト」より「モノ」を体験、実感。
Uni_2779 そう、今年もまた、ウチの学校(富士学苑高校)のジャズバンド部が主催する「富士山の森ジャズフェスタ」が行われたのです。
 今年もまた、ウチのジャズバンド部「ムーン・インレット・サウンズ・オーケストラ」はすごい演奏をやってのけましたよ。審査員のお二人が絶句してしまうんですから。
 全体の印象は、まさに「コト」より「モノ」。一昨年昨年とかいてきた通りです。
 つまり、理論や技術や知識や練習の成果というのは、ある意味人間の為した「コト」であって(すなわち仕事であって)、それだけに終始してしまうと、やはり「今ここ」の「モノ」たる生命感が失われてしまうということです。
 大学生はどうしてもそこに陥りがちなんです。いや、これは大人みんなに言えることですよ。特に音楽を仕事にしている人たちはそうです。慣れるということには良い面と悪い面がありますよね。慣れて楽になっていくと、たいがい悪い方向に行くんです。あるいは自分の中で納得してしまうとダメなこともあるということです。
 これは実は日曜日のプロレスの話にもつながっていくんですが、とにかく、「カタ」にはまってしまうと我々はそこに感動できなくなってしまう。安心して聴いていられる、観ていられるけれども、何かがモノ足りない。
 その点、高校生というのは、もう無条件に有利です。若気の至りも悪いことばかりではないんですね。彼らはたしかに一生懸命練習しています。ソロもアドリブではなく、しっかり楽譜どおりの練習をしてくるわけです。しかし、それがなぜかカタにはまらない。単なる仕事になっていない。
 それは、ある意味皮肉なことです。未熟さや無知さや純朴さのおかげで、そこに「今ここ」が入り込む余地があるわけですからね。成熟し練熟した大人の「芸」にはない他力性がそにあるのです。まあ、それこそが若さの魅力なんでしょうし、青春といったものの本質なんだと思います。
 そういう永遠の未熟さや初々しさを失わない大人こそが、ホンモノの芸術家になっていくんじゃないでしょうかね。
 そうそう、その意味で嬉しかったのは、今年春卒業したOGたちの演奏です。彼女たちある意味一世を風靡して、ジャズバンド部の一つのピークを作った張本人たちです。今は音大に進んで、それこそ「カタ」や「コト」をたくさん学んでいると思うんですよね。でも、全然その魅力を失っていなかった。ますますうまくなっていたけど、ますます生き生きしてたんじゃないですか。
 自分のところの卒業生だからでしょうか、なんか他の大学の大学生とは全然違って見えました。なんか子供っぽいっていうか(笑)。そこが彼女たちのいいところです。まさに理屈や学問なんて軽く超えて、体の奥から音楽が湧き出てくる感じでしたよ。ぜひこのまま成長して、ホンモノのプロになってもらいたいですね。
 いやあ、毎度手前みそになってしまいますが、MISOはすごいですよ。今度MJQと共演するわけですけど、きっとすごいことになりますよ。皆さん、ぜひその現場に立ち会って下さい。チケットありますから、ご一報を。
 さてさて、ジャズバンド部の演奏を聴き終わり、審査委員の先生の絶句に満足して、私は会場をあとにしました。いざ東京へ。
 新宿では、たくさんの教え子たちが待っています。山梨組の4人を乗せて車は中央道を東へ。途中、キムタクの白のハマーにあおられながら(マジです)、そして思わぬ渋滞に遭遇しながら、歌舞伎町に着いたのは予定を50分ほど遅れた8時ちょっと前。主賓(?)が遅刻してごめんなさい。
Uni_2782 そう、今日はですね、新宿で「山口先生と鈴木さんを囲む会」というのがありまして、私はそれにまねかれたのであります。いや、実は私自身が企画したんです(笑)。自分で自分を囲む会を企画するって…どんだけずうずうしいんだ(笑)。
 鈴木さんというのは教育ジャーナリストの鈴木隆祐さんです。私が書いたこちらの記事がご縁で彼と知り合い、彼にもぜひウチの学校を知って頂きたいと思いまして、このような会を催したのです。
 富士学苑高校は田舎の小さな学校ですが、とても個性的で、アットホームで、人間味あふれる学校です。それを私の口から鈴木さんに説明するのではなく、実際の卒業生たちにぶっちゃけトークしてもらおうと思いまして、mixiのコミュを中心に宣伝しましたら、まあなんと30名近い卒業生がわざわざ集まってくれました。10代から30代まで、様々な世代の教え子たちが一同に会して、盛り上がる盛り上がる。結局宴は朝5時まで続いたのでありました。結局始発で朝帰り。
 なんか教師冥利に尽きますよね。実に感慨深いものがありました。つくづくいい学校だと思いましたし、いい仕事させてもらってるなと思いました。卒業してそこで終わりではない。仕事が「コト」の集積で終わるんじゃなくて、「今ここ」の「モノ」につながっていく。教育が生きている。
 みんなありがとう!VIVA!富士学!みんなファミリーだなあ…感激。
 日曜日につづく。

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2009.07.10

『東京、音楽、ロックンロール』 志村正彦 (ロッキングオン)

86052080 誕生日おめでとう!29歳ですね、志村くん。
 今日は大阪でライヴかな。みんなに祝ってもらえたのでしょうね。
 そうそう、昨日紹介した「罔象女」の碑のすぐ近くに、志村くんのご実家があるんですよ。志村くん、「罔象女」の存在知ってるかなあ。
 29かぁ…私は何してたかなあ。ああ、あのクラスの担任してたころだな。そうそう、明日そいつらに会うんだよな。新宿でイベントを開催するんですよ。あいつらはもう29をとうに越えて三十路か…。その当時の自分よりも教え子が年上であるという、この不思議な感覚。教え子たちにとっては、もっと不思議らしい。あの時のセンセイは、今の自分より年下だっていう…。
 ま、自分のことはいいや。また後で。
 この本は、フジファブリックの志村くんが、公式ホームページで連載していたネット上の日記を書籍化したものです。5年間に及ぶ彼らの足跡を振り返るという意味でも、また、志村くんのキャラクターを知る意味でも、なかなか面白い内容になっています。妙にリアルなんだよな、まるで自分がミュージシャンになったような気さえする。彼のさりげない日常が、我らにとっては非日常なので。
 そんな中、なんだかとっても共感する部分がありました。今の自分というより、やっぱり二十台後半の自分だな。あの頃の自分と重なる部分が多かった。
 私もまだ結婚していなかったし、仕事上まだまだな部分と、多少慣れてきた部分とがあって、それから、もうすぐ30なんだから大人にならなくちゃっていう部分と、いまだ学生気分が抜けないようなところがあったりしてね。青春、すなわち「TEENAGER」を引きずっているっていうのかなあ、案外不安定で妄想も盛んなお年頃でしたね、今思えば。
 地元民としては、やっぱり志村くんの富士吉田LOVEぶりが嬉しいですね。やっぱり何かのタイミングで吉田うどんを食べに来ちゃうところが、なんともカワイイし、ウレシイ所です。私は人生の途中から吉田のお世話になっている外様ですから、ちょっとジェラシーも感じちゃうんですよ。ああいう濃い土壌で生まれ育ちたかったってね。東京のコンクリートの団地で育っちゃったから。
 そういう流れの一つの終着点(執着点)として、あの市民会館ライヴがあったと思うと、また感慨もひとしおですね。
 で、そんな彼の日記自体も面白かったのですが、そこに挿入される「今」のインタビューがまた冷静に自分を観察していて興味深かった。ワタクシ的に思わず苦笑&感動してしまったのは、次の部分です。引用させていただきます。ここに文学と音楽のほぼ全てがあると思いますので。

Pic05_01 2004年は忙しかったんで、あんり実家帰ってなかったと思うんです。山梨大好きだったんで、アマチュアの頃はよく帰ってたんですけど、メジャーデビューしてから、実家に甘えてたら終わりだなって思って帰んないようにしてたんで、久しぶりに正月に帰ったんじゃないですか。メジャーデビューして地元に帰ったら、モテたりもすんのかなと思ったんですけど、相変わらずモテず、昔からの志村正彦に戻り、全然駄目でした。友達からも、家族からも、特にちやほやされなかったですね。ほんとに誰からもちやほやされることもなく、今に至るんですけど(笑)。
 僕ほんとに、そこらへんの学生さんより地味な生活をしていて、多分彼女とかもいなかったんじゃないですか。インディーズの頃いたんですよ。いまさら話すことじゃないんですけど、その子と花火大会とか行った記憶はあるんですけど、今ではその子ももう結婚しちゃって、ときの流れを感じます。この前、「子供はできてないんだけど、ぼちぼちやってます」みたいなメールが来て、僕が「ああそうですか。じゃあまあ、今度機会があったらご飯でも行きましょうか」って、後ろめたくメール送ったら返事が返ってこなくて。「なんだよー」みたいな。そのへんが女の子の謎なところで。「思い出話に花を咲かせてみましょうよ。今の人と仲良くしてねー」みたいな感じで送ったのに。女の子って怖い生き物だなって思いました。

 ううむ、これって女の子の怖さというより、男の子のお馬鹿さっていう感じじゃないですか(苦笑)。いや、その両方が相まって文学と音楽が生まれるのでしょう。この前椎名林檎のところで書いたことと一緒だと思いますよ。
 そして、そういうのをこうして正直に、ある意味恥ずかしげもなく万人に公開しちゃうところが、一般人と芸術家との違いだと思いますね。
 うん、実は私も20代の頃、日記を書いていたんです。それは人に見せるものではなかったので、たとえばこのブログのような内容ではありません。今自分で読むのも恥ずかしいというか恐ろしいくらいドロドロの日記ですよ。地下室のどっかに埋もれてると思います。ありゃ、焼いた方がいいな。
 でも、こうして志村くんの日記を読んだり、彼の音楽を聴いたりしますとね、そういう自己のドロドロした部分とか、恥ずかしい部分とか、恐ろしい部分を、ある意味堂々と開陳しちゃう勇気というか、いや、それをしなくちゃいられない衝動みたいなものが、彼の中にあるのが分かるんです。そこが我々と違うなと。彼がこの本の中で言ってる「音楽欲」っていうヤツでしょうかね。
 私は30過ぎて、結婚して、そういう「音楽欲」が減退するかと思いきや、案外ムクムクと肥大化してきたような気もします。もちろん才能がないので、それはくすぶったままですけど。志村くんが、これからまたどういう風に成長していくか、とっても楽しみです。これだけは言えます。20代より40代の方がずっと人生面白いですよ!マジで。自分の未来に期待していいですよ。

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2009.07.09

罔象女命

 イトルをさっと読めた人はすごいですよ。「もうぞうおんないのち」って、どんな女が好きなんだ…とお思いになった方も多いのでは(笑)。
 今日、巡視で学校の近所を歩いていましたら、思わぬ所にこの女がたたずんでいたので、びっくりしてしまったのです。なんで、こんな所に…。
 近くまで行って声をかけようと思いましたが、フェンスに遮られて叶いません。気にはなりましたが、しかたなく写真だけ撮って帰ってきました。
0322 というわけで、答えは「みづはのめのみこと」です。正解者はかなりマニアックな方ですよ。
 神様の名前です。日本書紀にこういう表記で登場します。古事記では弥都波能売と万葉仮名式です。
 イザナミが火の神カグツチを生んだ時、大事なところをやけどしてしまんうですね。その時ちびったオシッコから生まれた神がこの「ミヅハノメ」です。すごい状況ですな。
 結局それが原因でイザナミは死んでしまいます。で、怒ったダンナのイザナギはカグツチを殺してしまう。まあ、現代にこんな事件が起きたら、かっこうのワイドショーネタですね。いや、それどころじゃないか。
 オシッコから生まれた神様ですから水神です。井戸や潅漑用水の神様です。全国の至るところに祀られてますよ。水はまさに命の源ですからね。雨乞いや雨止めの際にも、この神様は活躍しました。
 それにしても、なんで、こんな所にたたずんでいるのでしょう。高速道路の下ですよ。高架の下って立ち入り禁止の空き地になってるじゃないですか。そのど真ん中にけっこう立派な碑がドンとあるんですよ。
 高速道路を造る前、ここに社があったのでしょうか。あとで調べてみます。
1 ちなみにこの辺りは、大昔湖だったと言われています。小舟山(御舟山)という小山を囲むように、小舟湖(御舟湖)という三日月湖があったという記録があります。それが今から1200年くらい前、貞観6年(864年)の富士山の噴火の際、流れてきた溶岩流で埋没してしまったんですね。その溶岩流が剣丸尾です。
 ですから、小舟湖があった頃は、その辺り、すなわち新倉(あらくら)と言われる地域は水が豊富だったわけですね。それで、その頃水神さんが祀られたのかもしれない。
 いや、そうではなくて、湖埋没後かもしれませんね。というのは、地下流水というのは、溶岩流によってけっこうその流路を変えられてしまうものでして、実際、その後新倉地域というのは、水不足に苦しみました。そう、往時の記憶も重ねて、水乞いのために水神である罔象女神を祀ったのかもしれません。
 ウチの学校の母体になっている月江寺の池はその小舟湖の名残とも言えます。その池も、最近すっかり湧水量が減ってしまいましてね、往時の面影が失われつつあります。
 江戸時代には、水害に苦しむ河口湖と水不足に悩む新倉、両方の憂いを一挙に解決しようと、有名な「新倉掘り抜き」が掘られます。なんでもこれは日本最長の手掘りトンネルだそうで、何十年もかけて大変な工事をしたんですけど、いざ貫通してみたら設計ミスで水が流れなかったという、なんとも悲劇的(喜劇的?)な結末を持った大プロジェクトです。しっかし、罔象女さんもずいぶんと厳しい仕打ちをしましたね。
 それにしても、この高速道路を屋根にした社(?)というのも、かなり珍しいんじゃないでしょうか。たしかに雨はしのげると思いますけど、水神さんとしては、これで納得できるんでしょうかね。けっこう立派な石造物ですので、誰がいつ建てたものか知りたいんですけど、なにしろ禁足地なもので、近づけないのが残念です。ま、いつか近いうちに侵入して観察してきますわ。

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2009.07.08

アンドレ・プレヴィン 『アンドレ・プレヴィン・プレイズ・マイ・フェア・レディ(1946-1956)』

PREVIN, Andre: Andre Previn Plays My Fair Lady (1946-1956)
Rtr4122 の前の小澤征爾さんも世紀をまたぐ大指揮者だと思いますが、このアンドリュー・プレヴューさんも同レベルですごい指揮者、いや音楽家ですね。
 今年の9月から、とうとうNHK交響楽団の首席客演指揮者になるとのこと。ぜひカツを入れてやってほしいですね。
 さて、そんな巨匠アンドレ・プレヴィンですけど、ご存知の通り、もとは天才ジャズ・ピアニストとして鳴らしていました。
 そんな当時の素晴らしい録音を集めたアルバムがこれです。最近NMLで聴けるようになったので、なにげなくクリックしてみましたら、これが非常に良い!
 私、クラシック音楽には疎いので、プレヴィンの指揮ってあんまり意識して聴いたことがありません。なんとなくですが、比較的正統派というイメージだけはあるんですが。
 ですから、この若きプレヴィンのジャズ演奏を聴いて、ちょっとビックリしました。いわゆる正統クラシック的(そういうものがあるのかどうか知りませんけど…)な世界からはほど遠いからです。
 私のような巨匠…素で間違えた(笑)…狭小なエセ音楽家からしますと、クラシックとジャズって、やっぱり両立しにくい世界だと思うんです。究極的に言えば、Black or White っていうことですからね。
 それを同時にやろうとすると、たとえばガーシュインのような融合的アプローチをするか、あるいはジョン・ルイスのような木に竹を接ぐ的アプローチをするか、はたまたキース・ジャレット&チック・コリアのようなジャズ奏者がクラシックをまじめにやりました的アプローチになるかしかない、と思っていたんです。
 それが、こういうレベルで両方自然に極めちゃう人がいるんだなと。正直ビックリです。
 グルダなんかもジャズをよくやってましたけど、あれなんか、クラシック奏者がジャズをやってみました的になっていて、まあ微笑ましくはありましたけど、やっぱりちょっと痛いことになってましたからね。
513sjf6twil_sl500_aa240__2 そういうジャンルの壁と言いますかね、それを何気なく越えてしまう人っているんですね。
 だって、ちょっと考えてみて下さい。発声が違うんですよ、クラシックとジャズでは。歌手で両方自然にできる人って絶対いません。クラシック崩れのジャズ歌手はいますけど。そう、どちらかで崩れないとなかなかもう一方には行けません。
 ピアノやヴァイオリンなどの楽器にも、発声というのがあります。基礎の基礎にそういう発音法みたいなものがあるんです。それって、本当にベースの部分、物理的というより生理的な部分ですので、なかなかコントロールしにくいんです。
 ピアノで簡単に言えば、タッチというものであり、そこには鍵盤へのアプローチの力学やタイミングなど、非常に複雑で深い世界があります。
 ヴァイオリンで言えば、右手のボウイングですね。バロックとクラシックでも、ほとんど両立が不可能なくらい違うわけですから、メニューインがグラッペリをまねできないのも当然というものです。もどきにしかならない。
 2カ国語を完全にネイティヴ風にしゃべるのが難しいのと同じです。どうしてもどちらかが母語になって、外国語の方には「訛り」が生じてしまう。
 それが、このプレヴィンはなんですか。だって、このアルバムは17歳から27歳の録音でしょう。もうその時点で完璧なジャズ・ピアニストなわけですよ。シェリー・マンが選ぶくらいですからね。その他エラ・フィッツジェラルドなんかとも録音してますよね。
 で、のちクラシックの勉強もして、ピアニストとして、そして指揮者として大成していくわけですか。おそるべしですね。
 天才ですね。なにしろ、超イケメンですし、ハリウッド・スターやら、ヴァイオリニストのアンネ・ゾフィー・ムターなんかと、何度も結婚してますし、作曲の方でもアカデミー賞獲ったり、普通のエネルギーではありませんよ。悔しいけれどホンモノの色男ですね、こりゃ。
 今年80ですけど、まだまだ精力的に活動しているようです。N響の皆さん、覚悟した方がいいですよ(笑)。

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2009.07.07

『日本の難点』 宮台真司 (幻冬舎新書)

Bks0906270809006p1 むむ、自分の難点が分かってしまった。
 ちょっと忙しいので、あんまり中身に踏み込まないで、自分のこと中心に書きます。
 自分の難点その1。やっぱり文学が苦手だ、という点。
 今さらながらですが、イメージや比喩がピンと来ないものは面白く読めません。ん?これは小説でも文学でもないって?たしかに、これはエッセイ(これまた玉虫色な語ですな)です。でもこの本、いわゆるポスト・モダンな、イメージ先行言語が横溢していて、私には、玉虫厨子どころか、ZAKKA屋にあふれるオシャレなデザイン群にしか見えませんでした。私にとって現代の小説なんてのは、単なるかっこつけデザインでしかありませんので(暴論失礼…そういうのも多いという意味です)。
 自分の難点その2。記憶力が非常に弱い、という点。
 実はこの本、先週けっこう集中して読んでいたんですよ。で、いろいろ書こうと思っていたら、なんとなく先延ばしになってしまった。それで、いざと思ったら、全然内容が浮かばない。これって本当に私を象徴してます。
 こうしてブログなんかも毎日書いてますけど、昨日書いたことも忘れてるんですよ。自分の吐き出したもすら忘れてるんですから、人のものをちゃんと覚えてないのは当たり前ですよね。ひどすぎます。
 皆さんはどうなんでしょう。読んだ本の内容とか、昔勉強したこととか、ちゃんと覚えてるんでしょうか。
 昨日の夕飯なんだっけ?という感じなのかなあ。この点に関しては、自分ではですね、このように解釈しています。昨日の夕飯なんだっけ?ましてや一昨日の夕飯は…。でも、ちゃんと自分の栄養になって、血肉になって、細胞になってる。そう思いたいですよね。
 今こうして考えたり、歩いたりしている、それがいつ食べた何なのかなんて、誰も分かりません。読書もそういうもの…だといいなあ。
 自分の難点その3。やっぱりスケールが小さい、という点。
 そう、この本で言えば、前半のコミュニケーション論・メディア論、若者論・教育論までは、まあまあ楽しく読めたんですけど、後半、幸福論、アメリカ論、日本論になると、急にページが進まなくなった。
 想像力が貧弱なんですよね。他者、それも目に見えない他者に対して思いやりを抱くことができないようです。
 それらの意味において、私は、宮台さんの言う「浅ましい奴」「セコイ奴」なんですよね。とても、ミメーシス(感染的模倣)を催させる「スゴイ奴」ではないということです。当たり前ですけど。
 つまり、私はエゴイストであり、本気さが足りないっていうことでしょうね。
 この本のキーワード「コミットメント(深い関わり)」…これもまた充分に玉虫色ですが…について、私はどこか冷めているところがあるんですよね、きっと。そういう意味で私は立派な現代人なのでしょう。
 教育という仕事においても、「コミットメント」の不足をハッタリで補うという、実に「浅ましいセコイ奴」なのです、実は。
 とまあ、日本の難点を考える以前に、自分の難点が露呈してしまったわけでして、なんとも暗澹たる気持ちにさせられる読書ではありました。
 難点2はおそらく生来のものですので、解決不能でしょう。難点1も生理的なものでしょうね。そうすると難点3だけかなあ、努力でなんとかなるのは。
 いや、想像力とは現実から離れた何かに思いを馳せることですから、好き嫌いと記憶力が大いに関与していそうですね。むむむ、やっぱり解決不能なのか。

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2009.07.06

『理系クン』&『理系クン結婚できるかな?』 高世えり子 (文藝春秋)

16370510 かいの席の理系チャンにお借りしました。理系チャン、いよいよ理系クンとゴールインかという現状でして、そんな中このコミック・エッセイは、ものすごくツボにはまったようです。あまりに状況が似ているとのこと。
 ま、このコミックでは、女性は文系チャンですからね、正確にはかなり違う状況とも言えるわけですが、ある意味、相手が理系であろうと文系であろうと、理系クンのアイデンティティーは揺らがないということでもあります。
 前に、理系の人々を紹介したところに書きましたように、いわゆる理系クンとオタクとは重なる部分が多いと言えます。私の「モノ・コト論」的に申しますと、理系クンもオタクくんも、両者とも「コト」にこだわり、全てを数値的、あるいは集合的に処理し、世界を理路整然と分析、整理、インデックス化していく傾向を持っています。
 それがこうしてコミックになるということは、その「コト化」の行為自体が、とってもコミカルだということですね。そう、世界史上、人類史上、「コト化」は全て「ギャグ化」の連続だったとも言えるのです。
 つまり、我々が、学問だの、科学だの、社会だのと叫び続けてきたことは、実は自然(モノ)の法則…というか実態…に反することであり、宇宙規模で見れば、すなわち「モノ・スケール」で測れば、まったくのギャグであるということです。残念でした(笑)。
 この前の椎名林檎ではありませんが、結局、そうしたモノ・スケールを持っていて、一言、一挙、一瞥のもとに、その構築された「理(コト)」をぶっ壊してしまう本質的パワーをですね、女性は皆持っているわけですよ。ニーチェが言う通りです。
16371320 で、そうした神のレベルから見ますと、理系クンやオタクという宇宙に名だたる種は、とっても可愛らしく見えたりするわけです。一生懸命ちょこまかちょこまか自然に対抗しようとしている彼らが、なんだかとっても愛しいのです。つまり、母性をくすぐられるんでしょうね。
 そうした、女性から見た「萌え」ポイントがですね、理系クンにはあるんですよ。そういう可愛らしさとともに、モノノケたる女性の最も苦手な「コト化」の産物、たとえばパソコンとか、メカとかに対する強さを持ってますからね。それはたしかに女性から見ると魅力的に見える(こともある)でしょう。
 最近はやりの「草食系男子」と重なる部分も多い。基本肉食系は自然(モノ)的ですから。アウトドアだし、ある種暴力的だし、ある意味では知的じゃないし(失礼)。
 で、まるで他人事のように言っているワタクシですが、さて、私は何系でしょうか。学問的には理系崩れの文系ですし、まあ外見は完全に草食系ですけど、実態は文理雑食系でしょうかねえ。よくわかりません。
 とにかく男が読んでも「ある、ある」という感じだったり、案外自分もそうだったり、充分楽しめますよ。女性の反応は「カワイイ!」か「無理!」でしょうね。さすがモノノケ。一刀両断。
 それにしても時代は変わったなあ。かっこいい男はいずこへ。男はカワイイものになっちゃったのかなあ。


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2009.07.05

国分寺チェンバーオーケストラ・コンサート2009

リハの休憩中に↓
0326 日は、彩の国さいたま芸術劇場・音楽ホールにて、国分寺チェンバーオーケストラの演奏会にエキストラとして出演してきました。
 KCOの皆様におかれましては、前回ベートーヴェン演奏中に弓を折るという、とんでもないご迷惑をおかけしたワタクシを再び使ってくださり、本当に感謝にたえません。
 昨年の、音楽史上に残る(?)悪夢については太宰のいたずらとして処理いたしましたが、のち、その太宰とはいちおう和解をしたはずですので、再びそのようなことはないと固く信じておりました。
 さて、今回は無事に終了することができたのか!?
 本日演奏したのは3曲。

 モーツァルト/交響曲第25番ト短調
 ハイドン/協奏交響曲変ロ長調
 シューベルト/交響曲第4番ハ短調『悲劇的』

 結果から申しますと、まあ個人的には多少「悲劇的」な部分もありましたけれど、全体としてはなかなかいい演奏ができたのではないでしょうか。
 団員の皆さんの、本番での集中力、そして楽しもうとする姿勢には、仲間に入れてもらいながら、正直感動いたしました。そういう一体感がお客様にも伝わったのではないでしょうか。
 そういう意味では、団員の皆様とともに、やはり指揮者の坂本徹さんの力による部分も大きかったと思いますよ。
 この前の小澤征爾さんのインタビューじゃありませんが、やっぱり最後は音程とかリズムとか機械的なアンサンブルとかではなく、「心」です。坂本さんも最後はとにかく「音楽的であれ!」ということをおっしゃってましたっけ。そう、あらためて思いましたね。お客様に伝わるのは、そうした演奏者の「心」の一体感なのであると。
 小澤さんの言葉で言うなら、指揮は「invite」であるということです。我々演奏者たちは、指揮者によってある一点に誘われ、収斂していくんです。そこに音楽のエネルギーが生まれるのでしょう。
 普段、指揮者のいない比較的少人数のアンサンブルをする機会が多い私としては、最近のこういう体験は、また格別の新しい音楽体験です。この歳になって、そちら側の世界の面白さもわかるようになりました。密かに私も近代化してるのかな、ようやく(笑)。
 また、今回の演奏会を通じて、作曲家自身が望むこと、すなわち彼らの曲を作るという行為の究極の目標というものも、そういう世界の実現なのではないかと思いました。
 我々は、数百年前の外国の人間が残した「楽譜」という情報にいざなわれ、演奏者が集い、指揮者のもとに一つの到達点に向けて、それぞれのベクトルが合成されていく。その結果も、またプロセスも、とってもエキサイティングなものですね。
 小澤さんが言ってましたっけね、団員の7割が納得すれば、まあまあそこそこの演奏になると。100%ということはないと。たしかにそうでしょう。もちろん、解釈やセンスの違いはたくさんあって当たり前です。気持ちのノリというのも日によってまちまちでしょう。それを互いが協調し、ある意味妥協したり、助け合ったりしてですね、一つの形に仕上げていく。それが最終的に出来上がる音楽のエネルギーにつながっていくんじゃないでしょうかね。
 つまり、最初からみんなが納得し、ある意味みんなが同じ意見だったり、あるいは指揮者の言いなりになっていたら、それはもしかすると、コンピューター音楽のように味気ないものになってしまうのかもしれません。
 大勢が集まって一つの音を出した時、それは多様な音色や音程の集合体ですよね。加えて、それぞれ別個のヴィブラートで音程をずらしたりすることによって、あえてうなりを生じさせたりします。また、ホールの残響によっていろいろな音が混じり合っているわけで、そういう意味では、常に不協和音が鳴っているという理屈になります。しかし、そうして、力のある「音」が生まれるのは絶対的な事実ですよね。心を動かす響きというものが生まれる。なんでもかんでも純正調で完璧な音程を重ねればいいというものではありません。
 人間というのは面白いものですね。そうした、ある種の不協和によって快感を得るわけです。それは、先ほど述べた解釈や気分の総合の際にも言えることなのでした。本当に不思議ですね。
 小澤征爾さんも、ようやく最近、アンサンブルが崩壊しそうになるところまで、感情表現できるようになったと言っていました。それが感動を呼ぶと。つまり、あまりに行儀が良すぎても人間味がないということですよ。私の仕事の上でもそうですね。完璧な優等生ほどつまらんものはない(笑)。
 もちろん程度問題ではありますが、こういうある種の雑音やある種の衝突、ある種の混沌を超えて、それを束ねるエネルギーが生じた時、我々は感動するということが多々あるような気がします。そういう意味では、我々アマチュアが有利な面もあるんですよね。
 私が常々言っている、「コト」という器から溢れ出る「モノ」のエネルギーという考えが、その現象にあてはまるとも言えますし、逆に暴れる「モノ」を束ねる「コト」の存在に我々が感動するとも言えるような気もします。
 いずれにしても、「コト(意識・随意・情報)」と「モノ(無意識・不随意・自然)」とのせめぎ合いが、芸術や文化の源泉であるのは間違いないようです。
 後半のシューベルトを演奏中、そんなことを思いついてしまったので、ついつい「悲劇的」になっちゃったんですよね。ごめんなさい。でも、なにか大切なことを学んだような気がします。シューベルトさんやハイドンさん、モーツァルトさんはじめ、皆さんのおかげです。ありがとうございました。慣れない異種格闘技戦で疲れましたが、とっても楽しかった。これもまた他者との出会いの歓びだったのでしょう。

国分寺チェンバーオーケストラ公式

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2009.07.04

三沢光晴さんお別れ会~DEPARTURE~(献花式)

2009070400000014spnavifightview000 2万6000人の思い。
 本当は駆けつけなければならなかったのですが、仕事と明日のコンサートのリハーサルとに挟まれた短い時間では無理と判断、カミさんと教え子たちに全てを託して行ってもらいました。
 のちほどカミさんから詳しく報告してもらいます。
 というわけで、のちほどカミさんのmixiの日記をそのまま引用させていただきます。
 当日カミさんは、私の教え子にして元芸人、そして昨年のネット・プロレス大賞で最優秀興行賞を獲ったキャンプ場プロレスの主催者である双子くんと合流。そこに、ドラディションの吉江豊選手のお兄さんにして彼らの芸人仲間でもある、ワハハ本舗のよしえつねおさんもいらして、4人で思い出話やプロレスの今後について、大いに語り合ったとのこと。途中、キャラバンの仲間にも遭遇したり、並んでいた3時間がとても短く感じたようです。
 皆さんの、三沢さんやプロレスにかける思いが集結した、哀しくも素晴らしい一日になったということでした。やっぱり私も行くべきだったかなあ。
 懸念された天候も、暑くもなく寒くもなく、ちょうどよい曇り空だったようで、これもきっと三沢さんのファンへの心遣いなのでしょうね。ディファ有明周辺の豊かな緑の全てが、三沢さんのエメラルド・グリーンのように輝いていたそうです。
0321 ちなみに私は、三沢Tシャツを着て、そしてノアのエナメル・バッグを肩にかけ、翌日の演奏会の最終練習に向かいました。折れない心でどんな相手とも真っ向勝負した三沢さんの姿勢にならい、異種格闘技戦となるシューベルトに臨んだのでありました。実は、昨日までどうもシューベルトに対して気持ちが乗らなかったのですが、それが嘘のように楽しく演奏できました。これも三沢さんのおかげです。ありがとう!三沢さん。
 では、あとはカミさんに譲ります。


東京の有明、三沢さんの献花式に行ってまいりました。

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子どもたちは、よくよく考えて、知人にあずかってもらいました。

2時、最後尾に並んだ時は、会場の最寄り駅から一駅以上いったところ。
ゆりかもめが着く度にその列はどんどん伸び、さらに長い列になった
ようでした。三沢さんがいかに慕われていたか、嬉しくもなりました。

暑さや雨が心配された中、曇り空に心地よい海の風、ずっと緑に覆われた
道端にはとんぼが飛んでいたり、まだまだ臨海地区は自然がいっぱいで、
とくにお子さん達と親御さん方は、少しでも、救われたと思います。

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三時間後、建物の中へ・・・。始めてのディファが三沢さんへの別れを
言う場所になりました。リングのそばにお花を置いて、家族4人分
心を込めてお祈りし、目を赤くした小橋さん方に見送っていただきながら、
この場を後にしました。

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暗くならないで! 前向きに行こう!!
そう言われた気がしましたね。
DEPARTUREという名前はまさに、三沢さんらしいなあ!!


ニュースによると、2万6000人が訪れたとか。帰る時もまだ、列は
伸びていました。

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2009.07.03

キツツキ(てらつつき)

250pxdendrocopos_major_3_marek_szcz の季節、年中早起きのワタクシは、いつに増してまた早起きになります。もちろん日が最も長い、すなわち日の出の時刻が早いというのも一つの理由です。3時半には薄明が始まり、ああ朝だなという感じになりますから。
 しかし、それ以上の早起きの理由があります。4時ちょい過ぎに目覚ましが鳴るからです。いやいや、目覚まし時計ではありません。天然の、自然の目覚ましであります。
 トントン、トトトト、トン、トン、トトトトトトトトトトトトト…。
 そうなんです。キツツキがウチの外壁を叩くんです。これがまた大音量でして、これで起きないのはウチのカミさんくらいのものです。
 ウチは総杉の外壁ですので、まあたしかに「木」ではありますが、人のウチに穴をあけてウチを作ろうとするのはどうかと…。
 で、その荒っぽいノックの音がしますと、以前はウチの自宅警備員である黒猫たちが、すわ出動とばかりに窓辺でウ〜ウ〜うなってくれたんですが、さすがに家の外の高所ということで、どうにもウ〜ウ〜以上のことはできませんよね。最近では、カミさんといっしょに、耳をぴくりともさせず寝ています。
 このキツツキ、正確に言うと「アカゲラ」だと思います。富士山麓では、キツツキ目・キツツキ下目・キツツキ科・キツツキ亜科としては、アカゲラやアオゲラ、コゲラなどをよく見かけます。どれもとってもカワイイんですけどね、やることはけっこう荒っぽい。
 で、だいたい百回くらいつついてみて、これはどうも普通の木ではないなと思うのか(もっと早く気づけよ!)、傷だけつけて去っていくんですよね。ただ、数年前、かなり根性のあるキツツキが来まして、屋根の裏側にとうとう穴を空けてしまいました。その後なんだか屋根裏で運動会のような音がしてましたから、まじで営巣したのかもしれません。最初はネズミとかヤマネとかかなと思いましたけど、どうもあれは鳥だったらしい。穴を板で塞いだら、運動会も止みましたので。
 ところで、このキツツキ、漢字で書くと「啄木鳥」であるのはよく知られていますね。石川啄木はこれです。ちなみに正岡子規はホトトギスですね。
 この「啄木鳥」ですが、調べてみますと、昔はどうも「キツツキ」ではなくて「テラツツキ」と読んでいたようです。すなわち「寺つつき」。
 10世紀の辞書には「てらつつき」しかありません。それが15世紀以降になると「けらつつき」が現れ、近世になってようやく「きつつき」が定着しはじめます。
 「てら」が「けら」になる音韻変化については、ちょっと説明が難しくなるので割愛しますが、その「けら」がアカゲラなどの「けら」として残っているんですね。
 で、「テラツツキ」については、面白い説話が伝えられています。
200pxsekienteratsutsuki 13世紀の名語記という書物に、「鳥のてらつつき如何。答、寺つつき也。ゆへは、聖徳太子の逆臣守屋を誅罸し給て、守屋が館を没官して、四天王寺を建立し、仏法をひろめ給へりしを、守屋が亡魂そねみて、鳥となりて来て、かの寺をたたき損せむとせし時より、寺つつきとなづけたりと申す」とあり、また同時期の源平盛衰記にも、「昔、聖徳太子の御時、守屋は仏法をそむき、太子はこれを興し給、互に軍を起しゝかども、守屋終にうたれにけり。太子仏法最初の天王子を建立し給たりけるに、守屋が怨霊、かの伽藍を滅さん為に数千万羽の啄木鳥と成て、堂舎を創ほろぼさんとしけるに、太子は鷹と變じて、かれを降伏し給けり。されば、今も怨霊はおそろしき事也」とあります。
 つまり、反仏教派にして政争に破れた物部守屋が、その恨みをはらすためキツツキになって、寺をつついて壊そうとしたということです。
 けっこう地味な報復行動のように見えますが、たしかにやられる側としてはたまりませんね。あの音を聞くだけで恐怖です。安眠できないし。
 鎌倉以降、仏教が大衆化して、仏教に対する恨みというものが消えていく中で、「テラツツキ」という名称も消えていったのでしょうか。ちなみに「ケラ」は「おけら」の「ケラ」、すなわち「虫」を指すという説もあります。そして江戸時代にはキツツキとなっていくわけですが、この「寺」→「虫」→「木」という変化には、意外に深い意味があるかもしれませんね。また、江戸時代には、さきの守屋の怨霊譚から「てらつつき」は妖怪として物語化されていきます。これらの変遷は、日本人の精神史を象徴しているとも言えますね。
 私はまるで坊主のようななりをしていますから、守屋が勘違いしてつつきに来てるのかな。心はどちらかというとモノノベ派なんですが(笑)。てか、ウチは完全に習合してますからね。どうかお手柔らかに。
 それにしても、「屋を守る」名を持つ人が、家を壊してるなんて、なんとも因果なことではありますね(笑)。

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2009.07.02

石原吉郎 『海を流れる河』

2 日3年生は芸術鑑賞で東京へ行ってます。劇団四季の「異国の丘」です。
 私は留守番。副担任の分まではチケット取ってくれません(笑)。非常に残念。なぜなら、「異国の丘」の音楽は三木たかし先生の担当なのです。
 10年ほど前に観た四季の「ユタと不思議な仲間たち」も、音楽は三木先生だったんだよなあ。もちろんその時三木先生はお元気でしたから、それほど意識しませんでした。そういうものなのですね。
 5月からMショックが続きました。三木たかし先生三沢光晴社長、そしてマイケル・ジャクソン様です。それぞれ失ってから再確認する偉大さ。亡くなってから気づく自分を形作ったM体験。
 人は喪失という体験をしなければ、世界の存在や本質に気づかないのでしょうか。そして、ふだんはそうした自己の他者依存性を忘れて生きているのでしょうか。
 それを意識して一期一会の瞬間を大切に生きよと、お釈迦様はおっしゃったんでしょうかね。
 さて、今回3年生は、その「異国の丘」を鑑賞したわけですが、内容がシベリア抑留を舞台とするものということで、彼らには少し難しかったと言いますか、暗い、あるいは渋い作品だったかもしれませんね。
 そう、シベリア抑留のことって、なかなか教える機会がないんですよね。戦争自体については、なにかと公教育でも触れてきますし、ある意味必要以上というか、思想的な偏りも含めて教えられてきています。生徒と戦争の話をしますと、相変わらずステロタイプな教育を受けてきているなと感じるものです。
 ま、それについては私はグダグダ言う立場ではありませんし、だいいち戦争を語れる世代ではありませんので省略。
 で、そのシベリア抑留について、この機会に予備知識くらいは生徒たちにインプットしておこうと思いまして、少しだけ歴史的事実をしゃべった上で、こんな問題を解かせてみました。中央大学法学部の過去問です。けっこう難しいです(冷汗)。
 でも、本文自体は、なかなかいい、重い文章ですから皆さんもぜひどうぞ。


 フランクルの『夜と霧』のなかに、ある日、美しい日没を見た囚人が、「世界ってどうしてこうきれいなんだ」とつぶやく場面がある。この容易ならぬ場面で、一人の囚人の口をついて出たこの「どうして」という疑問詞に心を打たれたことがある。もちろんこれは問いというよりは、意味のない嘆声といったほうが正しい。だがその無意味さの故に、この言葉は重大な問いとなりうる。幼児はその無垢な関心の故に、しばしばこのような根源的な問いを発する。
 私が心を打たれたのは、およそ不条理なものへの、思いもかけぬ糾弾が、この言葉を背後からささえていると感じたからである。
 この「どうして」に答えられるものはいない。というよりは、どのような答えも納得させることのできない問いである。
 私の経験では、このような嗟歎には、多くのばあい人間的な感動がともなわない。実際、強制収容所の囚人にとって、彼らの現実にもかかわらず世界(自然)が美しいということは、それ自体がパラドックスであり、やりきれない現実であって、あと一歩で嗟歎は敵意に変わりかねない。それは、いってみれば無責任きわまる美しさであって、自然のその無責任にまさに対応するかたちで、人間の側の無感動がある。そこでは、感動を欠落したままで美が存在しており、人間が自然と対峙するのは、いわば無感動の現場においてである。
 極度に無感動をしいられた環境で、唐突に、そしてひときわ美しく自然がかがやく時がある。その美しさは、その環境にとってはむしろいぶかしい。「どうして」という問いは、そのいぶかしさへのまっすぐな反応である。たぶんそれは、無関心なるが故の美しさという、ある種の絶望状態への反証のようなものであろう。およそ人間に対する関心が失われても、なお自己にだけは一切を集中しうるあいだはこのような問いは起こらない。自己への関心がついに欠落する時、そのとき唐突に、自然はその人にかがやく。あたかも無人の生の残照のように。
 感動をともなわぬ美しさとは奇妙なものだ。それは日常しばしば出会う、感動する程ではないという美しさとはあきらかにちがう。感動する主体がはっきり欠落したままで、このうえもなくそれは美しい。そしてそのような美しさの特徴は、対象の細部にいたるまではっきりと絶望的に美しい、ということである。いわばその美しさには焦点というものがない。
 感動とは、情動の最も人間的な昂揚であるから、感動をともなわない美しさとは、いわば非人間的な美しさといわざるをえないが、しかしこの、非人間的であることの最大の理由は、見られるもの、たとえば自然の側にあるのではなく、見る人間の側にある。見るものの主体、感動の主体が欠落しているのである。
 人は戦場で、しばしばこのような美しさに、面をあげた瞬間に向かいあう。ミンドロ島の戦野を彷徨した大岡昇平氏に、いきなり向きあった緑の美しさはその例であろう。この美しさは、おそらく荒涼と記憶され、荒涼たるままで回想の座へ復帰する。違和そのものとしての復帰である。
 昂揚をもって戦場の生を終わらなかったものが、もしかろうじて殺戮の場をうべなえるとしたら、それはこの、主体が故意にはずされた美しさによってである。私たちが永遠に参加できないことによって、たしかに美しいという瞬間はあるのだ。いわばそれは、美しいものの側から見捨てられた、美しい瞬間である。
 敗戦後の一時期を私もまた、この無感動の現場ですごした。二十五年囚として私が収容されたのは、東シベリアの密林地帯、バム(バイカル・アムール)鉄道沿線の強制収容所である。強制収容所という場所は、外側からは一つの定義しかないが、内側からは無数の定義が可能であり、おそらく囚人の数だけ定義があるといっていい。私なりに定義づければ、そこは人間が永遠に欠落させられる、というよりは、人間が欠落そのものとなって存在を強制される場所である。しかし、こういう奇妙な存在の仕方が あることに思い至ったのは、それから二十年たってからである。
 この時期の私たちには、すでに生き方の問題はなかった。生き方に代わって、生きざまだけが際限もなくあった。私たちの行動を支配していたのは倫理ではなく、不安であった。倫理というものが仮にもしあったとしても、それはもはや人間のなかにではなく、自然のなかにあったとしかいえないだろう。
 自然といっても、そのほとんどは樹木であったが、私たちの目に映った樹木の、その明確な存在の仕方は、まさに倫理そのものといってよかった。これほど明確なものを、それまでの人生に、いくつ私は見ただろうか。そして私たちが、仮にもしその時の行動にやましさをおぼえたとしても、それは人間に対してではなく、自然のその明確さに対してであったといわなくてはならない。
 そしてこの無感動の現場で、幾度となく私が出会ったのは、このような自然の、とりつく島もないような美しさであった。
 感動と、極度の無感動との一つの相似点は、そのいずれにも言葉がないことである(もっとも、このいいかたはあまり正確ではない)。ただ、感動においては、すでに存在している言葉を状況が一挙に追いぬいてしまい、言葉が容易に追いつけないでいるのに対し、無感動にあっては、状況をなぞるべき言葉が文字どおりない。いわばそれは、そのままに失語状態である。精神状況の集約的なあらわれとして失語状態があることは、無感動の現場という人間不信の体系の大きな特色である。
 倫理が人間を追い切れぬ場所で、私はこの不気味な美しさに出会った。声もなく立ちふさがる樹木の高さは、私にはそのまま糾問の高さに見えた。人間のすべての営為が、だらけ切った、自己弁護の姿のままでのめりこむことを、はっきりと拒む自然の姿と私には映った。自然は圧倒的な「威容」として、私の目の前にあった。それはついに、おびやかす美しさであったのか。その不気味さにあらためておびえたのも、その二十年後である。
 おそらくは私に、体験の、主体からの自立が始まっているのではないか。そして、私が、体験を体験として、追放する時が来ているのではないか。私はそう思う。


 いかがでしたか。二種類の失語。無感動の現場。無感動の美。極限状態での人間疎外。自然の残酷な完璧さ。いろいろ考えさせられますね。
 私はちょっといじわるにですね、生徒たちには、「劇団四季で感動したら、その感動はフィクションだぞ。現実はこうなんだから」と話しました。やなセンセイだな(笑)。
 私は、個人的に、「もののあはれ」ってこれかなと思いました。「もののあはれ」の「もの」を、私はかねがね「不随意・不如意・自己の外部」として説明してきましたが、あるいはその延長としてこのような極限状態での無感動の美のことを指しているのかもしれないなと予感したのです。
 そう考えると、我々現代人や、江戸時代の本居宣長が、「もののあはれ」をなかなか理解できないのも分かるというものです。命と美が同次元で対峙する瞬間はそうそうあるものではありませんから。
 そうか。自然はいつも極限状態で生きているのか。だから美しいのかもしれない。

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2009.07.01

『SONGS〜椎名林檎』 (NHK)

2 じさまたちがフル活動!男を生かす、活かす、逝かす女は最高という結末。
 先週の分の録画と今日の放送と、続けざまに観ました。この前、「三文ゴシップ」の記事で書いたとおりのことが、NHKでドラマ化されました…っていう感じでしたね。斎藤ネコさんも市川秀男さんも松尾スズキさんも、みんないい表情で逝ってました(笑)。素晴らしい。
 椎名林檎という魅力的な女。この女の魅力は、まさに堂々と女であることにあるのであって、それ以外にはありません。
 その堂々と女であるということは、ある種のウソ臭さを伴います。しかし、松尾スズキとの対談にもあったように、そのフィクションが、あるリアル(本質)に基づいているから美しいのです。そう、ちょうど松尾スズキが慈しむ雌猫のように。
 ううむ、今回はNHKのスタッフというおじさんたちまで見事に活かしきった椎名林檎でありました。もともとNHK好みの彼女であり、ハイクオリティーなSONGSという番組ではありますが、ここまでしっくり活かされると、それは観て聴いている私たちおじさんまでが、やっぱりその気になってしまいますね。おかげで私、目がさえちゃいましたよ。
3 彼女の語ることって、結局ニーチェの言う「女が最強!男の理屈なんか屁でもない!」なんですよね。それを体現してしまって、男は彼女の前ににこやかにひざまずくし、女は溜飲を下げるわけです。
 今読んでいる松岡正剛の本でも、彼女はほとんど神扱いされてます。セイゴオさんもまた逝かされちゃってるわけです。あんなに男らしく文化を語れる世界人をも軽く呑み込んでしまう女神っていったい。いや、男らしければ男らしいほど、あのフィクショナルな母神の子宮の中へ、再び放り込まれてしまうのでしょう。いやはや。
 おそらく私はそれほど男らしくないので、彼らほど強烈に彼女に引き込まれません。それがちょっと悔しいのですが。
 それでも、よく分かります。インタビューや対談のように、いわゆる日常語で語る彼女が、ものすごく普通で、ものすごくちゃんとした社会性があって、ものすごく常識もあるってこと。それがステージに立ち、マイクの前に立つと、見事にシャーマンになる。そのギャップ、ツンデレ感、いやデレツン感、それがすなわち「女性性」であり、また、「女神性」であることが。
 ベースに絶対的な安心あっての、男心の冒険が始まるわけです。いわば母性の上でのすさびという安定的男性状態なわけですね。男は母の胸の中で思いっきり男になれる。特に現実的な母性が遠い記憶となりつつある「おじさま」たちにとっては、それはほとんど本能的な希求の稀なる実現であります。
 なんて、こんなふうに、男に語らせたくなる女なんですよね。ウチの黒猫みたいなもんです。参ったな。
 いちおう、二夜にわたる神話的ライヴの曲目を記しておきましょう。

第一夜
 ありあまる富
 丸の内サディスティック
 罪と罰
 二人ぼっち時間

第二夜
 密偵物語
 流行
 歌舞伎町の女王
 旬

SONGS公式

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