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2009.07.29

ブラームス 『ヴァイオリン・ソナタ集』 (コロル/グリゴリエワ…モダーンタイムズ_1800)

BRAHMS: Violin Sonatas Nos. 1-3
(Korol/Natalia Grigorieva…moderntimes_1800)
3 んとも妖しいジャケットだな(笑)。いいぞ、いい感じ。
 ブラームスのヴァイオリン・ソナタ。ヴァイオリン弾きにとっても、ピアノ弾きにとっても、非常にやりがいのある曲集です。技術的にはそれほど難しくないけれども、音楽的には難しい。どのように物語を紡いでいけばいいのか、私なんかには想像すらできません。というか、私はまだブラームス語すら分かっていませんし。でも、いつかやってみたい曲集ではあります。
 名演と言われる録音もたくさんあります。それがまたみんな全然違っていて面白い。私はそれらについて好き嫌いを言えるレベルにないので、それぞれなるほどと思ってしまいます。うん、好き嫌いって、自分だったらどう弾くか(弾けるかは別として)というイメージが出来てないと生じてこないみたいですね。
 最近で感心した録音は、このピリオド楽器による演奏と、あとで紹介する個性的な二人の日本人による演奏です。この二つが実に対照的であり、そのどちらをも受け入れて、弾く人も聴く人も納得させてしまうブラームスは、やっぱり時代を超える天才なんだなと思わせます。
 こちらピリオド楽器で演奏しているのは、moderntimes_1800という団体の二人。この団体名からしてなかなか斬新ですね。この団体は2003年にヴァイオリンのイリヤ・コロルを中心に結成されたそうで、1800年を中心にして、その周辺の曲をその時代の楽器によって現代に再現するのをモットーにしているようです。
 現代音楽の演奏にも力を入れているようですが、それもたぶん、現代の楽器による現代曲の「再現」という発想によるものでしょう。楽器の生理と表現の関係は切っても切り離せません。昨日の「黙読」の話じゃありませんが、楽器の身体性を意識するというのが、我々古楽器演奏家のスタート地点です。
 でも、ある意味では、それもちょっと問題があるんですよね。というのは、先ほどの現代曲の「再現」にも関わる部分です。
 その時代の「現代人」のほとんどは、自らの身体性を忘れようとしがちです。文明もそういう方向に進もうとします。そう、身体とは最も身近な「モノ」であり、随意なようで不随意な、文明にとっては目障りな存在なのです。
 ま、そんな理屈は抜きにしても、今(現代・モダン)の体しか持ち合わせない、持ち合わせ得ない私たちは、過去を意識して初めて、その今の身体性をも意識することになるわけです。それはある意味自然状態とは言えません。そういう考え方もできます。
 ちょっと話が飛びますが、今日早稲田の過去問で補習をしていたんですが、その文があの原研哉さんのものでした。内容は非常にわかりやすいもので、デジタル・メディアの登場によって、紙という古典的なメディアの身体性が意識されるようになった、復活した、というような話でした。なるほどですよね。利便性だけで言えばデジタル・コンテンツでいいはずなのに、我々は「質感」や「重み」や「汚れ」を欲するものです。
 ピリオド楽器の演奏もそういうものだと思うんですね。原さんはこう書いていました。紙も以前は単純に合理的で抽象的でニュートラルな存在だったと。つまり、紙が「今=現代」だった時には、紙はそのモノ性(身体性)を失っていたんですね。それが、それ以上に身体性を奪われた文明的な(コト的な)メディアが現れた途端、急にそれに対抗するようにモノ性が復活したというわけです。古楽のアプローチというのも実はそういうものであるかもしれません。
 そうすると、もちろんそれは単純な再現ということにはなりませんよね。当時の「無意識」を「意識」するわけですから。そのへんの難しさはあります。いや、実は我々は、過去を今との差異としてしか認知できないとも考えられるわけで、そうすると、古い作品の観賞は全てそういう性質のものとして当たり前だということにもなります。古い絵を観るのも、映画を観るのも、古典作品を読むのも、みんなそうです。
 しかし、音楽の演奏と観賞には少し特殊なところもありまして、それが「リアルタイム性」ということです。すなわち、常に「今」が重視される、いや本当は「今」しかないという側面があるんですね。録音という技術のおかげで、ややその性質も揺らぎつつあるとは言え、基本は変わらないと思います。つまり、過去の「今」を現在の「今」として表現しなければならないわけですね。そして、その時、最も重視すべき「今」とは何なのか、それが問題になってくるわけです。
 すなわち、当時の「今」の楽器を再現すればそれでいいのかという問題です。先ほど当時の身体性を意識するのがピリオド楽器奏者のベースだと書いてしまいましたけれど、当時の「今」は、過去との比較として存在するわけではないので、結局当時の「今」の人にとっては、その時の「今」は限りなく無意識に近いわけです。つまり身体性を意識する必要すらなかったかもしれないわけです。
 ですから、私たち現代人が、楽器の再現という方法で当時の「今」を再現すること自体が、実は大きな間違いである可能性もあるわけです…って、思いっきり自己否定してますが(笑)。いや、私は現代楽器をほとんど弾いたことがないので、一般とは逆の現象が起きるんですよ。たまにモダン楽器弾くと、突然身体性が発動しちゃう(笑)。
 こんなふうに妄想してきますと、moderntimes_1800というバンド名もなんとも意味深で面白いですね。彼らはそんな矛盾なんてとっくに乗り越えてるのかもしれませんね。それに、音楽ってものは、もともとそんな屁理屈なんかに動じず、「今」こうして魅力的にあるわけですからね。どうでもいいと言えばどうでもいいことです。
41jgvku7ytl_sl500_aa240_ いやいや、やっぱり最強のブラームス演奏、究極のブラームス再現は、やっぱりこっちなのかもしれません。古澤厳と高橋悠治。ある意味無意識的に表現されたブラームス。時代考証なんてみみっちいこと(失礼)抜きに、今の今にこだわった演奏。「今」生まれたブラームスということで言えば、最も当時の「今」に近いのかもしれません。しっかし、楽しい演奏だなあ。クソ真面目な顔してやってるんだろうけど、なんでこんなに面白いのか。今にこだわったわりにライヴな雰囲気がないし。不思議な魅力です。ジャケットもコロルたちとは対照的ですね(笑)。

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コメント

>うん、好き嫌いって、自分だったらどう弾くか(弾けるかは別として)というイメージが出来てないと生じてこないみたいですね。

全く楽器が弾けない私ですが、困ったことに非常に好き嫌いが激しいです。
クラシックの愛好家(オーディオ限定)には二通りがあって、一つは「好きな曲なら演奏にはあまり頓着しない。」派と、もう一つには「自分の気に入った名演以外認めない。」派に大別できるのだとか。私は困ったことに後者です。ところが不思議なことに現代音楽となると、カバー・アルバムとか大好きなんですよね、これが。

投稿: LUKE | 2009.07.31 04:08

LUKEさん、いつもありがとうございます。
なるほど、そうですね。
よくわかりますよ。
私は音楽に関しては、たまたま演奏する機会が多いので、自分だったら的な嗜好が働くようです。
でも、全然できない分野に関しては、LUKEさんとおんなじがもしれません。
案外好き嫌いが激しいかも(笑)。
とにかく、記事にもちょっと書いたように、音楽というのは実に複合的、重層的な芸術なんで、表現する側も享受する側も、いろんなアプローチができるんですよね。
そこが面白いところなんでしょう。
まあ、それにしても、最近自分は丸くなったと思いますよ。
昔は演奏とか曲以前に、ジャンルの好き嫌いが激しかったのに、
今では何でもつまみ食いしちゃいますからね(笑)。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.07.31 09:34

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