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2009.07.02

石原吉郎 『海を流れる河』

2 日3年生は芸術鑑賞で東京へ行ってます。劇団四季の「異国の丘」です。
 私は留守番。副担任の分まではチケット取ってくれません(笑)。非常に残念。なぜなら、「異国の丘」の音楽は三木たかし先生の担当なのです。
 10年ほど前に観た四季の「ユタと不思議な仲間たち」も、音楽は三木先生だったんだよなあ。もちろんその時三木先生はお元気でしたから、それほど意識しませんでした。そういうものなのですね。
 5月からMショックが続きました。三木たかし先生三沢光晴社長、そしてマイケル・ジャクソン様です。それぞれ失ってから再確認する偉大さ。亡くなってから気づく自分を形作ったM体験。
 人は喪失という体験をしなければ、世界の存在や本質に気づかないのでしょうか。そして、ふだんはそうした自己の他者依存性を忘れて生きているのでしょうか。
 それを意識して一期一会の瞬間を大切に生きよと、お釈迦様はおっしゃったんでしょうかね。
 さて、今回3年生は、その「異国の丘」を鑑賞したわけですが、内容がシベリア抑留を舞台とするものということで、彼らには少し難しかったと言いますか、暗い、あるいは渋い作品だったかもしれませんね。
 そう、シベリア抑留のことって、なかなか教える機会がないんですよね。戦争自体については、なにかと公教育でも触れてきますし、ある意味必要以上というか、思想的な偏りも含めて教えられてきています。生徒と戦争の話をしますと、相変わらずステロタイプな教育を受けてきているなと感じるものです。
 ま、それについては私はグダグダ言う立場ではありませんし、だいいち戦争を語れる世代ではありませんので省略。
 で、そのシベリア抑留について、この機会に予備知識くらいは生徒たちにインプットしておこうと思いまして、少しだけ歴史的事実をしゃべった上で、こんな問題を解かせてみました。中央大学法学部の過去問です。けっこう難しいです(冷汗)。
 でも、本文自体は、なかなかいい、重い文章ですから皆さんもぜひどうぞ。


 フランクルの『夜と霧』のなかに、ある日、美しい日没を見た囚人が、「世界ってどうしてこうきれいなんだ」とつぶやく場面がある。この容易ならぬ場面で、一人の囚人の口をついて出たこの「どうして」という疑問詞に心を打たれたことがある。もちろんこれは問いというよりは、意味のない嘆声といったほうが正しい。だがその無意味さの故に、この言葉は重大な問いとなりうる。幼児はその無垢な関心の故に、しばしばこのような根源的な問いを発する。
 私が心を打たれたのは、およそ不条理なものへの、思いもかけぬ糾弾が、この言葉を背後からささえていると感じたからである。
 この「どうして」に答えられるものはいない。というよりは、どのような答えも納得させることのできない問いである。
 私の経験では、このような嗟歎には、多くのばあい人間的な感動がともなわない。実際、強制収容所の囚人にとって、彼らの現実にもかかわらず世界(自然)が美しいということは、それ自体がパラドックスであり、やりきれない現実であって、あと一歩で嗟歎は敵意に変わりかねない。それは、いってみれば無責任きわまる美しさであって、自然のその無責任にまさに対応するかたちで、人間の側の無感動がある。そこでは、感動を欠落したままで美が存在しており、人間が自然と対峙するのは、いわば無感動の現場においてである。
 極度に無感動をしいられた環境で、唐突に、そしてひときわ美しく自然がかがやく時がある。その美しさは、その環境にとってはむしろいぶかしい。「どうして」という問いは、そのいぶかしさへのまっすぐな反応である。たぶんそれは、無関心なるが故の美しさという、ある種の絶望状態への反証のようなものであろう。およそ人間に対する関心が失われても、なお自己にだけは一切を集中しうるあいだはこのような問いは起こらない。自己への関心がついに欠落する時、そのとき唐突に、自然はその人にかがやく。あたかも無人の生の残照のように。
 感動をともなわぬ美しさとは奇妙なものだ。それは日常しばしば出会う、感動する程ではないという美しさとはあきらかにちがう。感動する主体がはっきり欠落したままで、このうえもなくそれは美しい。そしてそのような美しさの特徴は、対象の細部にいたるまではっきりと絶望的に美しい、ということである。いわばその美しさには焦点というものがない。
 感動とは、情動の最も人間的な昂揚であるから、感動をともなわない美しさとは、いわば非人間的な美しさといわざるをえないが、しかしこの、非人間的であることの最大の理由は、見られるもの、たとえば自然の側にあるのではなく、見る人間の側にある。見るものの主体、感動の主体が欠落しているのである。
 人は戦場で、しばしばこのような美しさに、面をあげた瞬間に向かいあう。ミンドロ島の戦野を彷徨した大岡昇平氏に、いきなり向きあった緑の美しさはその例であろう。この美しさは、おそらく荒涼と記憶され、荒涼たるままで回想の座へ復帰する。違和そのものとしての復帰である。
 昂揚をもって戦場の生を終わらなかったものが、もしかろうじて殺戮の場をうべなえるとしたら、それはこの、主体が故意にはずされた美しさによってである。私たちが永遠に参加できないことによって、たしかに美しいという瞬間はあるのだ。いわばそれは、美しいものの側から見捨てられた、美しい瞬間である。
 敗戦後の一時期を私もまた、この無感動の現場ですごした。二十五年囚として私が収容されたのは、東シベリアの密林地帯、バム(バイカル・アムール)鉄道沿線の強制収容所である。強制収容所という場所は、外側からは一つの定義しかないが、内側からは無数の定義が可能であり、おそらく囚人の数だけ定義があるといっていい。私なりに定義づければ、そこは人間が永遠に欠落させられる、というよりは、人間が欠落そのものとなって存在を強制される場所である。しかし、こういう奇妙な存在の仕方が あることに思い至ったのは、それから二十年たってからである。
 この時期の私たちには、すでに生き方の問題はなかった。生き方に代わって、生きざまだけが際限もなくあった。私たちの行動を支配していたのは倫理ではなく、不安であった。倫理というものが仮にもしあったとしても、それはもはや人間のなかにではなく、自然のなかにあったとしかいえないだろう。
 自然といっても、そのほとんどは樹木であったが、私たちの目に映った樹木の、その明確な存在の仕方は、まさに倫理そのものといってよかった。これほど明確なものを、それまでの人生に、いくつ私は見ただろうか。そして私たちが、仮にもしその時の行動にやましさをおぼえたとしても、それは人間に対してではなく、自然のその明確さに対してであったといわなくてはならない。
 そしてこの無感動の現場で、幾度となく私が出会ったのは、このような自然の、とりつく島もないような美しさであった。
 感動と、極度の無感動との一つの相似点は、そのいずれにも言葉がないことである(もっとも、このいいかたはあまり正確ではない)。ただ、感動においては、すでに存在している言葉を状況が一挙に追いぬいてしまい、言葉が容易に追いつけないでいるのに対し、無感動にあっては、状況をなぞるべき言葉が文字どおりない。いわばそれは、そのままに失語状態である。精神状況の集約的なあらわれとして失語状態があることは、無感動の現場という人間不信の体系の大きな特色である。
 倫理が人間を追い切れぬ場所で、私はこの不気味な美しさに出会った。声もなく立ちふさがる樹木の高さは、私にはそのまま糾問の高さに見えた。人間のすべての営為が、だらけ切った、自己弁護の姿のままでのめりこむことを、はっきりと拒む自然の姿と私には映った。自然は圧倒的な「威容」として、私の目の前にあった。それはついに、おびやかす美しさであったのか。その不気味さにあらためておびえたのも、その二十年後である。
 おそらくは私に、体験の、主体からの自立が始まっているのではないか。そして、私が、体験を体験として、追放する時が来ているのではないか。私はそう思う。


 いかがでしたか。二種類の失語。無感動の現場。無感動の美。極限状態での人間疎外。自然の残酷な完璧さ。いろいろ考えさせられますね。
 私はちょっといじわるにですね、生徒たちには、「劇団四季で感動したら、その感動はフィクションだぞ。現実はこうなんだから」と話しました。やなセンセイだな(笑)。
 私は、個人的に、「もののあはれ」ってこれかなと思いました。「もののあはれ」の「もの」を、私はかねがね「不随意・不如意・自己の外部」として説明してきましたが、あるいはその延長としてこのような極限状態での無感動の美のことを指しているのかもしれないなと予感したのです。
 そう考えると、我々現代人や、江戸時代の本居宣長が、「もののあはれ」をなかなか理解できないのも分かるというものです。命と美が同次元で対峙する瞬間はそうそうあるものではありませんから。
 そうか。自然はいつも極限状態で生きているのか。だから美しいのかもしれない。

Amazon 海を流れる河

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コメント

山口くん、こんにちわ。

『望郷と海』

石原吉郎のことをおりにふれ考えます、かれの抑留後の詩作品やじんせいなど。。

『シベリア画文集』香月泰男さんとか、

極限状態のなかでの表現、
について興味があるのかな、と思うの。

やなセンセイ?

かな?

そういう視点はたいせつだと思う、だまされることもだまされてると知りつつ

楽しまなくては・・

投稿: ひろえみ | 2009.07.04 08:11

ひろえみさん、おはよう。
この前はどうも。

うん、そうそう、たまされつつ楽しむというのこそ文化だよね。
最近の若者はね(大人もだな)、変なリアルばっかり求めるんだよね。
で,そのリアル自体もなんだかインスタントに与えられたものばっかりで、結局リアルもフィクションも楽しめないんだよなあ。
もっと勉強して、もっと妄想しないとね。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.07.04 09:42

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