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2009.06.09

千里同風

Howa_p1 日は実にありがたいお話を聴く機会を得ました。本校に、姉妹校である兵庫県の市川高校の野球部約80名と先生方数名がいらっしゃいまして、短い時間ではありましたが、両校の親睦を深めました。
 親善訪問団には、同校の顧問で、姫路は龍門寺の河野太通老大師もいらっしゃいました。長く花園大学の学長もされた名僧です。私はかつて、老大師の御著書「不二の妙道を行く」に大きな感銘と影響を受けていましたので、今回、そのお姿を拝見するだけでも実に有難いことでありました。
 その老大師さまが、今回、特別に生徒たちのためにお話をしてくださいました。タイトルは「千里同風」。それは法話というような堅苦しいものではなく、生徒たちにもわかりやすい融通無碍な内容でした。
 その一々を全て紹介できませんが、演題でもあった「千里同風」と、途中引用された道歌について、両者を関連させて私の心に映ったことを書き記しておきます。
 「千里同風」とは、単純な四字熟語として言うならば、「遠く離れた所でも同じ風が吹いているということ。転じて天下太平であること。あるいはその逆で世が乱れていること」という意味です。
 禅語としての「君子千里同風」は、少し違う意味で使われています。今日の老師の例え話にもありましたが、「言葉は通じなくとも心は通ず」「仏法はただ一つであり、たとえ両者は離れていてもつながっている」、そんな意味で使われているようです。
 たしかに遠く離れた姉妹校であっても、臨済禅というものや、甲子園出場という夢、あるいはそれ以前に若者としての様々な心は、両校の生徒に共通しているものであり、たとえ短い時間であって、お互いに言葉を交わす時間が少なくとも、強い絆で両者は結ばれていると思います。それを「千里同風」の一言でおっしゃったのには、さすがと感じました。生徒たちはそれが分かったかなあ…。
 老師はその後、子どもの純粋な仏心、慈悲心に関するお話をされましたが、その中で引用された道歌があります。龍門寺で江戸時代に人々の尊崇を集めた名僧盤珪国師の作とも、あるいはあの一休禅師の作とも言われるこの歌です。

 生まれ子がしだいしだいに知恵づきて
   仏に遠くなるぞ悲しき

 これは全くそのとおりであり、既に幼子ではなく知恵がつき、この歌を「鑑賞」できる我々、高校生も含めて大人たちは、すっかり仏から遠くなって、悲しい存在であることを改めて痛感してしまいます。
 クモの巣にかかったトンボを助け、そのクモを退治しようとした大人を見て、「トンボもクモもかわいそう」と無垢につぶやいた少女の話。私たちは「いったいどちらが可哀想なのだろう」と自分に問いかけて、そして悩んでしまいます。実は、これ、その問い自体が間違っているのに。
 その矛盾や葛藤を、社会的な基準で疑問としてしまい、「どちらが」というデジタル的な思考に陥ってしまう私たち。そして答えが出ないことに苦しむ「アクション」をしてみて、それで満足してしまっている。
 もっと無垢に同情し、何もできないことに一種の諦観を持ち、生きている自分、生かされている自分への気づきにつなげていくことはできないのでしょうか。少し考えれば、いや観じれば、世の中で振り回されている「正義」なんていう言葉が、いかに空しいものであるか、わかるはずですね。
 本来、私たちはそうした仏心と言いましょうか、慈悲心と言いましょうか、それを自然に持って生まれてきているはずです。そこに、学問やら常識やら、とにかく「言語」として教授される様々なフィクションがどんどん侵入し、その本来の私たちの仏性を歪め霞ませてしまう。実に残念なことですし、我々教育者と言われる者たちの、実に辛く難しい部分であります。
 そう考えてきますと、「千里同風」の「風」とは、まさに世界中の人間全てが持っているはずの「仏性」のことであることが分かってきます。その「風」が吹かなくなってしまう、いや、吹いているのに気づかなくなってしまっている。まさに、我々が雨風をしのぐために、こうして文明の壁や屋根を作り上げ、その中で自分の世界に引きこもっているうちに。
 私の「モノ・コト論」で言えば、我々の本来意識すべき「風」はモノであり、それを覆い隠し、遮断してしまうフィクションはコトです。そのコトの代表が「コトのは(言葉・言語)」であり、仏教、特に禅はそのコトの排除、そのコトからの解脱、コトへの執心から解放されることを目指したと言えるのでしょう。
 不立文字、教外別伝、直指人心。
 私のようなダメな大人をはじめとして、世界中の知恵づいた大人は、そろそろそのことに気付かなくてはなりませんね。でも、それがなかなか難しいのです。今や、「コト」の権化は、「言葉」だけでなく、「カネ」にまで進化してしまっています。カネへの執着から離れるのは、それは実に難しいことです。そんな世の中を私たちは自ら作り上げてしまったのですね。
 「知恵」と「智慧」は似て非なるものです。「知恵」は言葉です。その言葉を消し去って、再び生まれ子の白紙に戻すのが「智慧」だと思います。私もこうして毎日「知恵づく」ことに快感を覚えていないで、早く「智慧づく」ことに目覚めないといけません。
 私がよく言う「コトを極めてモノに至る」、これは本当に実現するのでしょうか。世界中に仏心の風が吹き、天下太平が訪れるのを信じて、辛い辛い修行の日々を続けるしかないのでしょうか。
 結局、一生懸命シゴトして、最後はコト絶えて灰や煙になって、モノに還って行くしかないのかなあ…。

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コメント

庵主さん、こんばんは。
赤子に知恵がつき、そしてまた赤子に還っていく。誰しもがこの過程を通らなければならない。そのために僕自身は生きていると思っています。しかし、これはなかなか難しいことではありますが、、、
また、トンボとクモの話のように本当は善も悪もない。
自分で勝手に敵や正義を作っているだけということにすぎないと僕も思います。遠いところ、つまり天から観れば1つである。突き詰めてしまえば善と悪、2つとも必要であり、2つで1つなのではないでしょうか。
ただ、やはり悪、というか嘘っぱちというかなんというか、世界の虚構が多すぎるとも思います。
金やシステム、情報などなど、、、本当に溢れかえっていますよね。それにみなが踊らされてしまっている。こんな世の中はいつか破綻してしまうだろうし、してまったほうがよいのかも、、、それこそ天の裁きがないとどうにもならないとは思いますけれど。
1つ、自分で確かめて確信を得ているのは食生活が非常に大切であるということです。
これはそう実感できるとしかいいようがありません。腹八分と肉食をしないこととよく噛むこと。たったこれだけですがけっこう難しいです。しかし、これらが肉体的にも精神的にも非常によい効果をもたらすと思います。これは自分自身でいろいろ実験した結果です。なんだかトンデモともデータとして極端すぎる(なにせ僕だけの結果ですから)とも取られてしまいそうですが、智慧に至る大切な鍵なのではないかと思い、ここに書かせていただきました。

投稿: ニキータ | 2009.06.10 23:42

ニキータさん、貴いコメントをありがとうございました。
全面的に賛意を表したいと思います。
二つで一つ、これは仏教で言う、「不二」や「無」、「空」につながっていく基本的な考え方です。
まさに、食というものを考えてもわかるとおり、我々は自分ひとりでは決して存在しません。
自分と他者が一つになる行為、その最初が食であり、それを知れば、我々はムダな殺生やムダ喰いはしないですよね。
ニキータさんの食生活は、実に貴いものだと思います。
全ての人たちがそういう境地になれば、地球上のほとんどの問題は片づきますね。
私もそれを日々実感して生活しています。
同志がいて心強く感じますよ。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.06.11 11:45

初めまして。
モノ・コト論を知って目から鱗が落ちてから、よくお邪魔しています。
「コトを窮めてモノに還る」についてですが、やはり、モノのままモノに還ることは不可能だとお考えですか?
モノは社会性を失ったり、死ぬことでしか得られなんでしょうか。モノのまま生きることはできないのかな、、、と、短絡的ですが疑問に思ったので。
理解が浅く、的はずれな質問でしたらすみません。あと、初コメントなのに質問で申し訳ないです。
ずっと気になっていたので、思い切って書き込みさせて頂きました。


あと、記事とは全く関係ないのですが、フジファブリック志村さんが、「音楽とことば」という本の中のインタビューで、バンプのことを『素晴らしいのひと言に尽きる』とおっしゃていました。私自身、バンプが大好きなこともあって、熱い彼の話は、非常に面白かったです。もし未読でしたら、お勧め致します。他のミュージシャンの方達のインタビューも載っていて面白かったので。長々と失礼致しました。  

投稿: おもち | 2009.06.30 21:22

おもちさん、はじめまして!
コメントありがとうございます。

なるほど。全然的外れじゃないですよ。
モノのまま生きることは可能なのか…。
私の考えでは、やはりそれは無理だと思いますね。
生きるということ、生命の本質が即「コト化」という営みだと思いますので。
私たちの脳が働くと、もうそれでコトなんですよ。
ですから、「モノのまま生きる」っていうことはありえないと思います。
それを疑似的に実現しようとしたのが、禅でしょうか。
それから、コトを窮めていって、意識の上でコトを乗り越えるというのもあるようですね。
天才はそういう境地に至るみたいです。
私のような凡人には無理ですけど(笑)。

音楽とことば、さっそく読んでみますね。
フジもバンプも私にとっては立派な文学ですよ。
私よりずっと若いけれど、尊敬してます。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.06.30 21:48

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