『回想の太宰治』 津島美知子 (講談社文芸文庫)
桜桃忌。いや、太宰生誕100年の日。生きていたら100歳か。
今年は特別にめでたい気持ちでこの記念すべき日を迎える予定でした。しかし、まさかこんな悲しみの中でこの日を迎えるとは。
人の命、生と死という、普段意識にのぼらない自分の本質について、憧れる彼らにこうして教われるということは、これはこれで感謝すべきことなのかもしれません。
今回の三沢さんの件でも、ご家族の心痛は忖度するにあまりあるものがあります。大成する男の裏には必ず良妻ありです。大成する男をタッグパートナーとしたからこそのご苦労も当然あるでしょう。おそらく喜びよりも悲しみの方が多いのではないでしょうか。
太宰もよく語っていますが、家族、家庭というものが、その男の大成にとって、一見邪魔な存在になってしまうんですね。家庭には恋も革命もない。つまり文学がない。物語がない。
いや、事後的に言えば、家庭という基盤があっての男の生産活動であったわけですし、恋や革命を意識するのもまた、そうした「ぬくぬくと温かい」家庭があってのものとも言えます。いわば、生あっての死、死あっての生、ということでしょうか。
そういう意味で、天才に完璧な家庭を用意し、完璧に天才の文学を発動せしめ、完璧に天才の遺伝子を残した石原美知子という女性も、世界の「妻」史上に残る天才であったと言えるでしょう。
石原美知子さんと太宰治の結婚にあたって、今私の職場がある富士吉田市の下吉田地区も大きな役割を果たしています。地元の人も、あるいは太宰の研究者の方もよく知らない事実があるんですよ(その史料や証拠は消えちゃいましたが)。
来年度から私の学校では中学校を開校する予定で、私はそれに関わらせていただいているんですが、その校舎が建つ場所は、まさに「富嶽百景」の名シーンの舞台です。不思議なご縁を感じます。
さあ、その石原美知子、いや津島美知子さんが書いた「回想の太宰治」。ずいぶん前にも読んでいましたけれど、あらためて最新の文庫を読んでみました。いやあ、良かったなあ。太宰の小説よりも、正直私には面白かった。フィクションの裏側に回ってしまったノンフィクションが大好きなんですよ、私。
そうか、私の趣味って、そういうところにあるんですよね。フィクションとノンフィクション、表裏合わせて一つの総体として見るというか、どちらかに偏るんじゃなくて、両者の間を自由に行き来するのが好きなんですね。なんか、どっちが虚でどっちが実か分からなくなる感覚が面白い。
いずれにしても、言葉で語られた「コト」は虚であるとも言えるわけで、そういう意味では、両者を同じ土俵で比較しても構わないとも言えます。あえてそうしてみますと、同じ「コト」でも、それぞれの行間にずいぶんと違った「モノ」が立ち上がっているのがわかります。まあ、直截的に言ってしまうと、太宰のそれにはちょっとした悪意が、美知子さんのそれには全面的に善意が読み取れるのであります。
太宰自身、美知子さんの文章について、たとえば十二月八日で、「主人の批評に依れば、私の手紙やら日記やらの文章は、ただ真面目なばかりで、そうして感覚はひどく鈍いそうだ。センチメントというものが、まるで無いので、文章がちっとも美しくないそうだ」と、直接的に(いや間接的かな)に、ずいぶんとひどい評を書いていますね。
そうした美知子さんの真面目で純粋で衒わない文章が、常に不真面目で不純で衒ってばかりの太宰の文章と、あまりに見事なコントラストをなしているわけで、もしかすると、太宰は一見馬鹿にしたような評をもって、実はちょっとした尊敬と憧憬とを表していたのかもしれませんね。太宰のことだから、そういう表現しかできないのでしょう。「富嶽百景」における富士山への態度とおんなじ。
それにしても、このあまりにさりげない美知子さんの文章、あまりにさりげなくない内容はなんなんでしょうね。最も身近にいた人間としても、ここまでしっかり観察して記録するのは、これは常人には不可能なことです。あまりに、肉々しい太宰がそこにはいます。格好つけ、しゃれ、おどけ、いばりちらし、しかし、こっぴどく怒られて小さくなる太宰。そして、それでも言葉を駆使して逃げ道を作り続ける太宰。でも、ちょっぴり優しい太宰。そんな人間太宰がちんまりと息づいています。
まさに太宰治という浮世離れした男を主人公とするささやかな一代記という風情です。私がジャッジするなら、はっきり申して、生活面でも、人生面でも、文学面でも、美知子さんの勝ちを宣せざるを得ないでしょう。太宰も頑張ったんですけどね、結局最強の良妻賢母王者にはかなわなかったと。
やっぱり太宰の後期の文学は石原美知子との出会いがあってこそのものですね。そして、学問的資料と文学性とをこれほど高い次元で、さりげなく止揚してしまった津島美知子。そういう女性が、この山梨から出たということを、我々県民はもっと誇りに思っていいでしょう。
最後に、この本で個人的に感動したところ。美知子さんが太宰の郷里青森の言葉に深い興味を示しているところ。そして、地元民なのに知らなかった郡内地方の内織の話。そして、金木の太宰治記念館に郡内織が展示されているということ。行ったのに気づかなかった…。
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