物学(ものまね)
久しぶりに世阿弥の(実際は観阿弥の…ですが)「花伝書(風姿花伝)」を読んでいます。本来は、世阿弥の使う「もの」という言葉についての分析が目的だったのですが、ついつい内容に心動かされてしまう。学(まね)ぶべきこと多し。
そこで、今日は他のこととも重ねて思ったことをいくつか書き留めておきます。
以前、学習と教育の違いについて書きました。こちらの記事です。学習とは「真似び慣らう(真似をし慣れる)」ことであると。これは語源的にもほぼ間違いありません。世阿弥も「物学条々」と書いていますから、今から600年ほど前までは、「学ぶ」ということは「真似る」ことであるという意識が、今よりかなり強かったものと思われます。中国語の「学」には、そのような意味はありません。単純に「教えを受ける」という意味です。
特に世阿弥が重視する「物学」。これはつまり「物を真似る」ということですね。そして、「物」という言葉は、私の「モノ・コト論」的解釈によれば、自己の外部を指します。すなわち他者全体を指しますから、「物学」とは「他者を真似る」ということになりますね。「ものまね」という言葉は、現代では完全に慣用句化して「モノマネ」とカタカナ表記までされるようになっていますから、そのような語源意識もほとんどなくなってしまっています。
先日、NHKの「日本の伝統芸能」という番組で、野村四郎さんの「船弁慶」の一部が紹介されていました。わかりやすい解説と見事な舞にいたく感動したのですが、その中でのいわゆる「物学」のすごさに驚きもしました。
一般に「ものまね」と言えば、いかにそっくりにするかというのがポイントとなりますね。そのためには、いかに外見や声や動作を本物に近づけるのが一番の方法です。しかし、能においては、「真似ぶ」ということは、単なるコピーを演ずることではありません。いや、そうした複製から最も遠い所で真似ようとしているとも言えます。
この「船弁慶」では、女性である静御前を男性である四郎さんが演じ、また、成人である義経を子方が演じていました。西洋的なリアリズムを求めるなら、こんなことにはなりませんよね。もちろん、話し方や動きも極度に記号化されているのが能の特徴ですから、現代的な「ものまね」のイメージからすれば、あるいは全く似てないとも言われかねません。
しかし、もちろんその昇華された記号性の中に、日本的なリアリズムがあるわけですね。そこのところで、こちら観る側の意識の参画が重要になってくるのでして、つまり私たちもその次元にまで同行しないと、何もわからない事態になってしまうのです。能は観客とともに作られるというのは、まさにそういうことです。うん、プロレスも全く一緒ですな。最近、想像力&創造力に欠けた客が多いこと多いこと。
ですから、能における「物学」とは、花伝書にもあるとおり、他者の「たたずまい」を真似るものであり、ある意味目に見えない空気に学ぶということになります。そして、いつも私が言うように、記号化(コト化)することによって、最終的に「モノ」に還る、コトという器からモノが溢れ出て、その器と溢れる何かとの相乗が、その芸の個性というか、芸術性というものになるのです。
今日のNHK「日曜美術館」では、片岡球子が紹介されていました。私は不勉強で、片岡さんと言えば「富士山」だと思っていました。もちろんその「富士山」たちも、すさまじい高次元のリアリズムを見せてくれますね。コピーからはあまりにかけ離れた表現です。しかし、あまりに富士山らしい富士山。
私などその富士山に住み、富士山と対峙せざるを得ない日々を送っているわけですが、そのようにあまりに日常になってきますと、富士山の外見上のあり方など、あまり意味をなさなくなります。ごく身近な家族に対するのと同じですよね。その存在の認識は、もっと深く無意識的になっていきます。すなわちワタクシ的に言えば、コトではなくモノとしてとらえるということですね。その、本来表現しがたい「モノ」を表現したのが、片岡球子さんの富士山です。ですから、それは造形的な部分ではなく、もっと高次なところで私の富士山像と重なっているわけです。
しかし、今回はその富士山以上に、60歳を過ぎてからの「面構」シリーズや、100歳まで描き続けた「裸婦」シリーズに驚きと感動を覚えました。「面構(つらがまえ)」では、古い日本の彫像や絵画を真似て学んでいました。「裸婦」は、実は片岡さんの苦手とする分野だったそうです。それを最晩年にあそこまで高めた。あえて苦手なモノに臨むその姿勢には心打たれました。
私の考える「モノ」には「未知・不随意・想定外」といったような意味も含まれています。そう考えると、片岡さんはまさに「モノ」に挑戦して、「モノ」を真似て、そこから学んで、そうしてあのとんでもない次元の作品を作り上げたのだと言えます。そこには、対象を絵として残すという「コト」の器と、そこから溢れ出す対象及び片岡さんの何か…個性なのか、たたずまいなのか、オーラなのか…があって、私たちの心を動かします。作品が死んでいないわけですね。器に、箱に入れて殺そうとしても(永遠化しようとしても)、それでも死なない生命力、ダイナミズム。それこそが「モノ」であり、モノをコトに極めて再びモノに還った、高い次元での表現ということになるのだと思います。
片岡球子さんについて語る銅版画家の山本容子さんの言葉が象徴的でしたね。
「苦手の連続がものを生み出す」
つまり、満足しないということでしょうね。終わりなき挑戦。そしてそれは楽しいことであり「遊び」であると。まさに「物(未知・不随意・想定外)から学ぶ」ということでしょうね。
やはり、人は思い通りにならない時にこそ成長しているのですね。辛い時、不快な時こそチャンスなんです。「嘆きの中に天命がある」というのも同じことでしょう。
「まね」=「まねく」か?…発展記事…「ものまね」とは…
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