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2009.05.24

『未来への提言 ドナルド・キーン』 (NHK) 〜「もののあはれ」論

~もう一つの母国 日本へのメッセージ~
362057 ソコンが起動しなくなり、10年もつはずの腕時計が2年で止まり、ついに今晩、車のエンジンがかからなくなりました。「ああ…」。不安や怒りではなく、ある種の感慨に浸っております。これぞ「もののあはれ」。
 テレビをつけると、ちょうど見逃した番組の再放送をやっていました。日本文学研究者のドナルド・キーンさんの「もののあはれ」論でした。「うつろいゆくもの、はかないものへの共感」。「四季、季節のうつろいに美を発見する」。
 「四季も他人も友とすべきだ」…これがキーンさんのメッセージでした。
 これは芭蕉の「風雅におけるもの造化にしたがひて四時を友とす」をもとに考えた言葉だとか。
 こんなふうに、我々日本人でも、あるいは私のような国語のセンセイでも、よく理解していないことを、キーンさんはいくらでも知っているという感じです。
 写真は、昨年文化勲章を受賞された時のものです。外国人としては初めての受賞でした。
 キーンさんが日本文学の中心に据えるのは、やはり「もののあはれ」です。キーンさんは「もののあはれ」をたしか“a sensitivity to things”と訳しました。「あはれ」を「sensitivity」と訳したのは名案ですね。一方、「もの」を「things」と訳したのはどうでしょうか。「thing」にも、日本語の「もの」同様、多様な意味があり、案外双方相似たところがあるので、悪くないと思います。
 ただ、じゃあ「もの」って「things」って何?と聞かれると、キーンさんもなかなか答えられないと思います。結局、「移り行くもの」「はかないもの」という結論になってしまう。
 私はいつも言っているように、自分の外部が全て「もの」であるという考えですから、結論的には一緒になるかもしれません。しかし、そこに「もの=自己にとっての外部=他者=不随意な存在」というプロセスを設けているので、より鮮明に「もののあはれ」をとらえていると自負しています。
 それで、そういう私の勝手な考えからしますと、キーンさんの最後に書いた「四季も他人も友とすべきだ」というは、まさに「ものをあわれみましょう」ということになりますね。キーンさんは「四季」とは「自然」のこと、「他人」とは「外国人」のことと言っておられましたけれど、そこのところをワタクシ流に(乱暴に)まとめてしまうと、「もの=自己にとっての外部=他者=不随意な存在」と友だちになっちゃおう!ということになるわけです。
 これは実にいいことですね。近代西洋文化は不随意な「もの」を制御し、疑似的にではあれ、「こと」という随意な存在に変換することに執心、終始してきました。その結末が現代社会の憂鬱です。たしかに、我々日本人こそ、本来の「もののあはれ」的な生き方、良い意味での諦めというものを思い出すべきなのかもしれません。
 とは言うものの…私は、壊れゆく「もの」に美を発見できるのでしょうか…笑…泣。
 とりあえず、パソコンや時計や車がないと仕事になりません。まさに、「もの」を馴致して奴隷化し「こと」をなして(シゴトして)いたわけですよね。そして「もの」の反乱に撹乱せられている。ううむ、ちょっと反省。反省するから許してちょうだい、という気分ですね。反省の意をはっきり表すには、それこそ出家するしかないわけなんですが。それもできないしなあ。
 しかたがない、お金を払って(罰金を払って)許してもらうしかないんですかね。ああ、そうか。経済って「もの=自然=他者」への無礼に対する罰金システムのことなのか。今、気づいた。さっさと「あはれ=嗚呼」と言って降参(出家)しちゃえばいいのに、それができない。だから金で示談に持ち込むというわけか。
 それはいいとして、キーンさんと三島由紀夫との関係について一言。
 この番組でも少し触れられていましたが、キーンさんは三島由紀夫から遺書を受け取っています。自決の翌日手紙が届くんですよね。そこには「小生たうたう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました」とありました。
 いかにも三島らしい言葉遊びと取れますが、いや、なんだか子どもみたいな、というか、暴走族の言語センスみたいだな、とも思えますよね。
 実はこれって、キーンさんが考えたんです。番組ではそのようには紹介されませんでした。三島がキーンさんのことを手紙で、「怒鳴土起韻様」「怒鳴土鬼韻様」「奇院先生」とか書いてくるんで、キーンさんが仕返しに考えてやったんですよね。それがあまりにうまい具合に行ったのか、つまり日本古来の言霊が発動しちゃったのか、いずれにせよ、この戒名(?)が三島の自決を後押ししてしまったというのは、実に皮肉なことであります。
 まあ、キーンさんによって、三島のモノガタリはある意味見事な結末を迎えたわけですから、キーンさんの日本文学への影響は多大なものがあるということですね。三島の死によって、日本文学も死んだわけですし。
 ところで、そんなキーンさんですが、もう70年くらい日本語を勉強されているにもかかわらず、いまだに外国人風な日本語をお話しになりますね。そんなところに、ちょっと安心し、最後の優越感を抱いている、心のねじまがった日本人がここにいます(笑)。

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